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韓国の世界化と大学教育--韓国外国語大学校の事例を通して 利用統計を見る

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(1)

雑誌名

東洋大学社会学部紀要

41

2

ページ

147-180

発行年

2004-02

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003151/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

(2)

韓国の世界化と大学教育

−韓国外国語大学校の事例を通して−

Globalization and University Education in South Korea

: Through the Case of Hankuk University of Foreign Studies.

松本 誠一

Seiichi Matsumoto

構 成

1.韓国における外国語教育の歴史 (1)外国語教育 (3)「教育移民」と「早期留学」 2.韓国外国語大学校の事例 (1)略史 a)学科・大学の増設 b)大学院の増設 c)研究所・学術雑誌の増設 (2)現在の大学組織 (3)学生活動 (4)学生数と卒業生 (5)教員の海外留学歴と博士学位 3.むすびにかえて

1.韓国における外国語教育の歴史

前稿1では韓国の人類学の「世界化」状況を概観し、フィールドワークの行われる調査地が世界各 地に顕著に展開を始めたのは1990年代以降であるのを確認した。韓国の文化人類学が国内研究に主 力を注いでいた1980年代までに、韓国で世界各地の地域研究はどのように行われていたか。この問 題に関して、本稿では韓国外国語大学校での地域研究がいつごろからどの様に展開したかを把握し

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ようと思う。 韓国外国語大学校が、韓国においてこうした面で先端を開いてきた先駆であることは誰も疑わな いところであるが、筆者なりにその足跡を探ってみる。

(1)外国語教育

先ず初めに、ここで対象とする韓国外国語大学校の位置づけを知るために、韓国における外国語 教育の歴史を概観する。歴史的な概観は『韓国民族文化大百科事典』において「外国語教育」の項 目で与えられているので、それを参照する2 高麗時代には史台、通文館、司訳院などの機関で通訳・翻訳・外国語教育が担われた。扱われた 言語は、史台では言及が無く、通文館では漢語・蒙古語・女真語が、この通文館を高麗末に継承し た司訳院では漢語・蒙古語・女真語・日本語が扱われたとされている。いずれも隣接諸言語である。 朝鮮時代には中央には司訳院がそのまま置かれ、地方官署でも訳官を養成した。扱われた言語とし ては、上と同じ隣接諸言語であり、地方官署ではそれぞれの官署に近い国の言語となる。 開化期・近代になると、1883年に同文学(英語学校)、元山学校(私立普通学校。外国語科目とし て日本語などが教えられた)、1886年に育英公院(官立。招聘米国人教師による英語教育)、および 1880年代には米国キリスト教宣教師が開設した培材学堂・梨花学堂・ 新学校・貞信女学校などで は一般科目も英語で教えた。日本の植民統治時代より前にこうした近代化の動きが内部から始まっ ていたということが、韓国の開化・近代史研究で(特に日本人向けに)強調される点である。 1990年代には近代的な学制の整備にともない、小学校(1895)・師範学校(1895)・外国語学校 (1895)・商工学校(1899)・中学校(1900)が設置され、小学校では外国語として日本語を教え、 漢城師範学校では英語を教えた。中学校では英語と日本語を教えた。 「外国語学校官制」(1895年)の制定により、政府は従来設置されていた日本語学校と英語学校を 官立日本語学校と官立英語学校に改編し、官立法語(仏語)学校と官立仁川日本語学校を新設した。 続いて官立俄語3学校(1896)・官立漢語学校(1897)・官立独語学校(1898)を設立して、英語・ 日本語・フランス語・独語・中国語・ロシア語などの外国語教育を実施した。1890年代後半期には、 私立学校もたくさん開設され、そこでは英語や日本語など外国語が主に教えられた。 1905年に韓国統監府、1910年に朝鮮総督府が設置された後4、日本の影響下で学校制度は変遷を重 ねた。詳しい引用を避けるが、日本語が各レベルの学校で必修科目となり、日本語以外の外国語と してはたとえば高等学校・高等女学校では英語・独語・フランス語・中国語などから選択して学ん だ。 以上、『韓国民族文化大百科事典』の「外国語教育」の概説 によって描かれる要点は、①まず隣接 の諸言語を教育する学校ができた、②ついで東アジアに進出した欧米列強の言語が教育されるよう に変わってきた、ということである。そして、後で触れるように、③世界化、グローバル化(韓国

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語では「チグチョンファ(地球村化)」により世界の諸言語が教育されるようになる。本稿はこの② から③への過程の一端を明らかにしようとする。 このような国内での外国語教育の歴史とは別に、新羅僧が中国やインドへ言った際、倭寇への尋 問・交渉、秀吉の朝鮮出兵の際 、国外に出て行った使節・商人・漂流民・流移民や、1830年代から 1860年代にかけて潜入して布教し殉教したフランス人神父たちの周辺など、開化期以前にも、上述 の「外国語学校」に学ばなかった人々の、さまざまな言語「境界」があったはずで、必要に応じて 異言語を身体で覚えた歴史もあったと思われるが、これらの問題に関してはここでは立ち入らない。

(2)留学生

近代の留学生に関しては、甲申政変(1884年)の前、1881年に中国と日本に送られたのが最初と されている5。1881年に国内反対勢力の目を逃れつつ渡日し、「紳士遊覧団」が日本を4ヶ月にわた って広範に視察したが、その年、慶応義塾に入った兪吉濬(ユー・キルチュン 1856∼1914)が日 本への最初の留学生と位置づけられている。彼は1883年に渡米し、E.S.モース(1838∼1925)の個 人指導も受け、翌年には欧州諸国を歴訪して帰国、『西遊見聞』(1895)を出版した6 次いで、甲申政変(1884)後、日本を経て、1885 年、米国に亡命した徐載弼(ソ・ジェーピル 1866∼1951)は11年間の滞米生活の間に高等学校と医大を卒業した。彼は米国でアメリカ女性7 結婚、医師として働いていたが、要請に応じて1895年に帰国し、中枢院顧問に就任しつつ、『独立新 聞』(ハングル版と英文版)の発行、「独立協会」創設をした。その後、政治的に追放される形で、 再び渡米し、アメリカにあって世界を相手に独立運動に傾注する。解放後は米軍政に協力し、1947 年米軍政庁最高政務官となって帰国したが、1948 年韓国政府の樹立が宣言されると、米国に戻り、 米国で亡くなった8。彼は米国市民権を得た最初の韓人とされている。 韓国初代大統領となった李承晩(イー・スンマン 1875∼1965)は米国大学卒で、オーストリア 出身の女性と結婚した。李承晩は、徐載弼より11歳だけ年下である。1904年に渡米し、ワシントン 大学で学士、ハーバード大学で修士、プリンストン大学で1910年に博士学位を受けている。 1886年には、やはり日本に亡命していた辺燧(ピョン・スー 1861∼1891)が渡米し、言語学校 を経て、1887年農科大学に入学して、1891年卒業。徐載弼より先に、最初の米国大学卒業生となる が、同年中に列車に轢かれ死亡する9 これまで見たところから、1880年代が留学の創始期となることが分かる。これ以降、徐々に日本 の影響力が強まり、1910年に日韓併合に至る。1910年から1945年までの間、「海外留学は沈滞する」 旨の記述も見られるが、これは事実ではなく、 欧州へ向かう留学者も次々と現れている。上述の創 始期の留学者たちは開化運動・独立運動に名を残す、政治的に危ない状況の中を突っ切ってきた 人々であるが、日本の支配下に入って、そうした運動も抑えられ、少なくとも表面的には政治運動 から遠い立場にいた留学生が多くなって「沈滞した」と記述されたものであろうか。

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以下は、留学に関する事項を年表化したものである。 表1 韓国からの留学年表10 622以降 渡唐留学生 640 高句麗・百済・新羅、唐の国学に留学生を送る 821 金雲卿、唐の賓貢科(外国人科挙)の新羅最初の合格者となる 1400年代前半(世宗時)、明に最後の留学生、金涛を送る 1881 金允植が引率する38人の使節団、天津機器局で火薬・弾薬製造法、自然科学、外国語を学ぶ。 壬午軍乱(1882年6月)が起こり、半年で撤収 1881 紳士遊覧団、4月から7月まで、日本視察 1881 兪吉濬、最初の日本留学生となる(慶応義塾)。1883年1月帰国 1882 辺燧、金玉均に随行して渡日、京都で養蚕・化学を学ぶ。7月帰国 1883 徐載弼、戸山陸軍学校に留学 1883年7月 兪吉濬、渡米し、E.S.モースの指導を受け、1984年高校入学。12月に中退し、1年間 ヨーロッパ歴訪して1985年12月帰国 1884 (甲申政変。金玉均ら開化派のクーデター、3日で失敗) 1884 朴泳孝、日本に亡命し、翌年渡米するが、生活に適応できず、日本に戻り、明治学院に入学。 1893年、東京に私立学校を開く。1894年8月帰国。 1885 徐載弼、日本を経て米国に亡命し、高校・大学で学び1893年卒業、病理学講師、次いで医師 となり、1895年12月帰国。 1886 1884年日本に亡命していた辺燧、渡米し、言語学校を経て、1887年農科大学に入学し、1891 年卒業。最初の米国大学卒業生となるが、同年、列車に轢かれ死亡。 1894-1895 (日清戦争) 1895年7月、朴泳孝、日本に再亡命。1907年帰国。 1901 講道館に8人留学、柔道を学ぶ 1904-1905 (日露戦争) 1905 (韓国統監府。初代統監に伊藤博文) 1910 (日韓併合。朝鮮総督府設置) 1910 日本に留学生2,000人程度 1922 金賢準、東洋大学を卒業して、ドイツ・ライプチヒ大学に留学。1928年、新聞学の学位論文 で哲学博士を受けて帰国。1930年『近代社会学』を出版。 1937 (日中戦争始まる) 1941 (太平洋戦争始まる) 1950-1953 6・25(朝鮮戦争)

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1952 留学生を100人から300人に増員し、米国以外に欧州・オーストラリア・中国に留学先を広げ ることを政府で協議。しかし、財政難のため数年で中止 1951∼1976 海外訓練生1万4,003人派遣。内米国に20%以上 1953∼1971 世界42カ国に1万1,355人留学。内米国留学生が87.6% 1955 文教部告示「外国留学資格告示および設定に関する規定」(海外留学生規定)公布 1957 文教部令「海外留学に関する規定」制定 1967 外国人奨学生招請開始(国費) 1977 国費留学制度発足 1979 「海外留学に関する規定」を大統領令に格上げし、海外留学政策を緩和 1981 私費留学試験を廃止 1983 「国外留学に関する規定」に名称変更 1985 留学予定国常用語試験(外国語試験)を導入し、私費留学を再規制 1994 外国語試験を廃止 2000 「国外留学に関する規定」「同規定施行細則」改正により、中学卒業以上に留学資格を与える ことに変える。 上の年表で窺えることは、「1953∼1971年」の29年間の留学者数を年平均に均してみると、約390 人である。「1953∼1971」の「世界42カ国」の行き先は不詳である。先進国に数が集中していたと しても、それ以外の国へごく少数でも留学者が居たらしいことが窺える。 『国際教育白書』11により、解放後の留学制度の変遷過程を記す。この白書では、私費留学制度 は4期に分けられ、第1期「制度確立および厳正な規制時代」(1955−1980)、第2期「開放時代」 (1981-1985)、第3期「再規制時代」(1986−1993)、第4期「自律規制時代」(1994−現在)と区分 されている。 第1期、1955年の通称「海外留学生規定」は国費留学制度発足以前であるので、主に私費留学に 関わる規定である。「高卒以上」の希望者に対し、5科目試験を課し合格者に海外留学資格を与えた。 1957年には受験資格が「大卒以上」に変わる一方、試験科目は2科目に減らされた。1979年に留学 の門戸が拡大された。 第2期、1981年には私費留学試験を廃止するが、大卒者または高卒者で成績が上位 20%以内の者 に対して資格を与えた。同時に高卒未満の学歴者には認定による早期留学制を導入した。 第3期には、留学生の国際的問題が発生したため、留学先の公用語試験を課す様にした。1988年 には高校の成績に拘わらず、高卒以上で外国語試験合格者・免除者に私費留学資格を与えた。 第4期は、留学希望者に対する外国語試験を廃止し、高卒以上の学歴者(学歴認定者)に門戸を 開放した。1999 年には兵役との関係で、「高卒未満留学の制限」規定が裁判により、無実化され、 2000年末に中学卒以上の者に留学資格を認めるように、変えられた。

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表2 国外韓国人留学生数の推移(1971-1999) 出典:韓国教育部『国際教育白書』2000 表2で「第1期」の1970年代から以降、海外留学者数が急増していることが窺える。この教育部 の資料とは別に、法務部統計(表3)もあるが、同じ年度を対照できる1995年、1997年、1999年の 数値を見比べると、1995・1997年は数千人、1999年は「15万4千人」と「10万9千人」で大きく開 きがある。この差はどう解釈されるか、明らかでない。「3月−2月」の年度と「1月−12月」の年 の差であろうか。法務部は出入国届けであれば、同一人が1年内に複数回、出入国をしている場合、 その回数が含まれていることになる。 なお、国費留学者数は1977年から1991年まで年平均にすると15人、1992年以降も最多の年で69人、 2000 年度では40人に過ぎない。また、「留学」とは別に「研修」もあるが、これはここでは扱わな い。 表3 留学目的の韓国出国者数の推移(1994-2002) 資料:法務部 表4で注目されるのは、他州に比べて桁はずっと少ないが、アフリカへの留学が1994年以降、増 加傾向にあることである。ただ、これは国別に見ると、南アフリカ共和国への留学者が増えており、 ついでエジプトで、この2カ国でほとんどを占める。南アフリカ共和国は英語圏としての選択が主 のように思われる。残余の国々へ1人、2人と見えるのとエジプトへは、「地域研究型」留学者であろ う。 表4にリンクする統計として国・地域別の数値も参照できるので、国・地域別の留学者数の特徴 について触れておく。 年 度 1971 1975 1980 1985 1991 1993 1995 1997 1999 国 数 41 34 35 46 52 61 66 69 71 学生数 7,632 10,278 13,302 24,315 53,875 84,765 106,458 133,249 154,219 年 度 1994 1995 1996 1997 1998 留学生数 102,668 110,381 118,471 125,177 108,715 年 度 1999 2000 2001 2002 2003 留学生数 109,077 119,370 132,626 162,420

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-表4 韓国からの留学生数の推移・行き先別(1994-2002) 資料:法務部 アジアでは中国と日本への留学者数が5桁(万)であり、4桁(千)が台湾・フィリピン、3桁 (百)が香港、インド、インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ベトナム、それに迫る国 としてカザフスタンが見られる。 アメリカでは米国とカナダが5桁で、ブラジル・メキシコ・ペルーがそれに次いで3桁ないし2 桁。1994年以降皆無は3、4国である。 ヨーロッパではイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシアへの留学者が4桁、オランダ、 オーストリア、スペインが3桁である。 オセアニアではオーストラリアとニュージーランドに4桁、グアムに2桁ないし3桁、フィジー に2桁ないし1桁である。 1994 年から 2002 年までのどの年もゼロである国・地域は世界で数えるほどしか残っていない。 1993年以前の統計を参照しえていないが、韓国はノ・テウ政権期(1988-1993)の1990年に旧ソ連と 国交樹立、1992年中国と国交樹立して、「反共国家」ではなくなってから、渡航可能国が一挙に広ま った。それらの国にいち早く留学し、すでに博士学位を受けて帰国している若い世代がある。 合 計 アジア アメリカ ヨーロッパ オセアニア アフリカ その他 2002 162,420 68,809 60,764 21,335 11,236 275 1 2001 132,626 54,029 51,443 18,313 8,692 149 0 2000 119,370 48,560 46,366 17,052 7,206 185 1 1999 109,077 46,281 40,177 15,478 7,031 109 1 1998 108,715 45,978 39,492 14,919 8,234 89 3 1997 125,177 50,554 46,498 17,471 10,568 86 0 1996 118,471 50,201 43,148 15,443 9,616 63 0 1995 110,381 49,919 40,165 13,365 6,876 56 0 1994 102,668 48,709 37,998 11,305 4,621 35 0

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「教育移民」と「早期留学」

現在、「教育移民」「早期教育移民」という言葉を耳にしている。これは主に英語力は韓国内の学 校や塾では、他人より抜きん出た能力を子どもに身に付けさせることは難しいので、英語国へ家族 で移民し、英語環境を子どもに与えるというもので、それが早いほど良いというので、小学生・あ るいはそれ以前から「早期に」ということである。 2003年12月31日の中央日報、東亜日報によると、小学生の「単身留学」は、2000年705人、2001 年2,107人、2002年3,464人と急増している。 ソウルから江原市へ向う高速道路の途中に「民族史観高等学校」の看板が目に入る。これは私立 高校で、1996年に開校した。現在、韓国でもっとも秀才が集まる高校と言われている。世間の噂で は、「中学で学年2番の成績では受験資格がない。1番の者だけが集まって受験する」「授業は英語 で行われる」「卒業生はアメリカのアイビー・リーグ大学への直接入学を目指し、ソウル大学を目指 すのはその次のレベルの連中である」。実際、国際物理オリンピック、国際生物オリンピックに生徒 が出場するたびに入賞を果たしている。2005年の募集生徒数は150名ほど、1クラス15名の10クラ ス、2003年の教職員数は93名。長期休暇中は校外希望者に特別教育プログラムを実施し、2003年冬 はスキー時間もありのプログラムで、355万ウォン。校訓には「出世のための勉強をするのでなく、 学問のための勉強をする」ということが明記されている。そして卒業生中からノーベル賞受賞者を 出す、という目標がある。校内で、先生も生徒も韓服を着ている。「民族史観」という校名を象徴す る服装であり、芸術の学習時間も重視し、そこで韓国芸術が学ばれる。同校のホームページでは卒 業生がどの大学に受かったという情報は掲載していない。海外・国内の大学への進学のための情報 として、その準備のための考え方が懇切丁寧に説かれており、同校に関心を向ける父母が、子ども は他校に進んでも参考にするのであろう。

2.韓国外国語大学校の歴史

現在、韓国に外国語大学校が2校ある12。1954年に開校した韓国外国語大学校と、1982年に開校 した釜山外国語大学校である。ここではより歴史の古い、韓国外国語大学校を対象として、韓国の 国際人養成に大きく寄与してきた過程の一端を明らかにしようと思う。

(1)略 史

韓国外国語大学校は朝鮮戦争後の1954年4月にソウルの中心地、鍾路2街で開校した。2004年に は創立50周年になる。

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創立者の金興培初代理事長(1914年生)は、1930年代から1950年代にかけて初めは文具などを売 る一店舗から起こして、それから事業を製造業・鉱業・保険金融関係にまで展開して産をなした。 この間、1943年には京城府議会議員に立候補して、最多得票で当選し、政界にも活動の場を広げた。 6・25(朝鮮戦争。1950年6月25日∼1953年7月)時には釜山に避難している間に、その資産を寄付 して韓国外国語大学校の母体となる財団法人・韓国育英会13を設立(1952年)した。財団法人の関 係者が学園設立構想中に、折しも李承晩大統領14が外国語大学の設立を文教部に指示したが、当時 の政府は朝鮮戦争終了直後で、復興建設を優先的に進めるものがたくさんあり、財政面で余裕が無 かった。文教部と財団は相談して、外国語教育を私立大学として行うこととした。金興培は「焦土 と化した祖国を豊かにするには、語学教育と世界で活躍する人材が必要」との見解に基づき、文教 部との相談の会合に文教部側委員の一人として出席していた安鎬三を初代学長に招いた。安鎬三は 東京の正則英語学校で学び、帰国して英語教育者として働いていたが、1950年、米国国務省招請の 交換教授で渡米し、すぐ朝鮮戦争が起こり、米国国防省文官として帰国、戦争の間、米軍司令部で 働いた。彼は学長として、少人数教育、全科目を英語で行う、専任教員は週40時間以上、学園内で 生活し、学生との接触機会を多く持つ、などの理想主義的外国語教育法を強調した。開校当初は英 語、フランス語、ドイツ語、中国語、ロシア語、スペイン語など、6言語の教育課程を置くように した。2代目学長の朴術音も、英語教員・校長・延禧大教授を経て、朝鮮戦争の間に社会部長官(大 臣)となった人物で、その英語力で国際機関・外国から韓国への援助資金導入に貢献が大きかった。 その後、1957年9月から現在のソウル市東大門区里門洞に校地を移転し、1980年からは京畿道龍 仁の校地でも教育を始めて、今日に至る。この間、韓国外国語大学校(通称「外大」(ウェデェ)は 今日まで質量共に発展を続けている。『外大40年史』は開校当初の鍾路期を「揺籃期」、1957年9月 の里門洞への移転を契機に「成長期」、外国語学部から外事学部を分離した1963年12月以降を「第 1拡張期−社会科学接木」、1972年1月以降を「第2拡張期−研究所・専門大学院増設」、1980年10 月以降を「総合大学−里門洞・龍仁時代」と時期区分している。 a)学科・大学の増設 1964 年に政治外交学科、貿易学科が開設されて、それ以降、社会科学系の行政、新聞放送、法、 経済、経営、経営情報などの学科が次々と設置されている。1969 年には英語教育科、仏語教育科、 ドイツ語教育科、1974年には韓国語教育科が開設されて、語学教員養成が始まり、1981年には数学、 物理学、化学などの理系学科と、人文系の哲学科が開設された。さらに、1984年に史学、1989年に 環境学科、微生物学科、1991年に統計などの学科が開設され、コンピュータ関係では、1993年に制 御計測学科、1994年に電子工学科、1995年に情報通信学科が開設された。このように、学科編成だ けをみても、「外国語大学校」の校名から想像される教育範囲を大きく超える総合大学へと発展して きた。

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この大学機構の発展は、語学文学学科、およびその上に乗る大学院の数を増やしたばかりでなく、 国際交渉に必要な経済・法・経営学、語学文学の背景にある文化・社会を扱う国際地域学、国際報 道に必要な新聞・放送学、さらにコンピュータ・情報工学などの工学系から哲学・物理・化学など 基礎学問にいたるまで広範な学問領域の専門家を揃えている。医科大学はない15が、文系・理工系 からなる総合大学の陣容となっている。この総合大学化への道は、外国語教育の比重を低下させた、 と理解されるべきものではなく、第1級の通訳翻訳人材を養成するためには、幅広い分野で最新の 専門用語・国際事情に精通した専門家を学内に擁している環境こそが求められた結果と理解される。 語科以外の各学科でも、語学に強い専門人を養成することを強調している。実際、外大の卒業生と なると世間の期待は「外国語に強い」というところにあるので、語科以外の学生もそれを目指して 励むことになる。 自習環境として、PC室のほか、毎日24時間開放の図書館自由閲覧室、視聴覚教育院その他の建物 の施設で視聴覚教材の利用、衛星放送視聴16ができる。衛星放送では多くのチャンネルで様々な言 語による放送を視聴することができる。 大学機構の発展に関し、外大ホームページの「略史」では以下のように要約している。 (前略)本大学校がこのように目覚ましい発展を重ねていることは、外国語と地域研究を土台に 各自の専攻を忠実に履修する多くの人材を養成してきたことで、国家と民族に大きく寄与している ことを立証するものだと思う。 韓国のように国土が狭小で、資源が不足する状況では優秀な人材が活発に海外に進出、韓民族の 生存の基盤を拡張し、国の要所を強固にすることが緊要であることは言うまでもないことである。 今や、韓国外国語大学校では外国語の理論と実際を習得する分野はもちろん、外国語を土台に世 界各地域の政治、経済、社会、文化等に対する理論と実際を教授・研究することで、文化交流およ び発展に寄与しうる自主的探求者・国際的韓国人・独創的専門家を養成する特殊総合大学校として 至高な私たちの教育理念をこの時代に創造的に調和、昇華させるために持続的で、進取的な努力を 傾けている。(松本訳) 教育されている言語の種類については、創始期は6言語であったが、現在はそれ以外にポルトガ ル語、オランダ語、スカンジナビア語、日本語、マレー・インドネシア語、アラブ語、タイ語、ベト ナム語、インド語、トルコ語、イラン語、ポーランド語、ルーマニア語、チェコ語、ハンガリー語、 ユーゴ語、アフリカ語を加えてきた。これらは語科(学科)ないし専攻名に表れている言語名であ り、合計23種の語科ないし専攻となっているが、たとえば「スカンジナビア語」(スウェーデン語、 ノルウェー語、デンマーク語)、「ユーゴ語」(セルボ・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)、 「アフリカ語」(アフリカーンス語、スワヒリ語)などのように、一語科ないし専攻の中で教えられ る近縁言語を数え上げれば、語科数を上回る言語数となる。一言語内でも、たとえば日本語科の例

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では、志願者が多かったことによる教員数の多さに恵まれて、文学関係では上古、中世、近世、近 現代の研究者が居て、現代語に限らず、各時代の古語までも幅広くカバーされている。 b)大学院の増設 「大学院」の語には広狭二義がある。広義には下の7大学院すべてを含む場合であり、狭義には、 下の7大学院中の一つ、関係者が自らの関係大学院を指す場合である。そしてさらに1962年創立の 「大学院」だけを指す場合があるが、この場合は「一般大学院」と呼んで誤解が生じないようにされ ている。他の頭に語句のついた大学院だけの全体を指す場合は「専門大学院」または「特殊大学院」 と称する。 現在の大学院名で、開設年次順に並べると以下の通りである。 1962 大学院 1972 世界経営大学院 1979 通訳翻訳大学院 1981 教育大学院 1984 経営情報大学院 1993 政策科学大学院 1998 国際地域大学院 このように大学院が多く分立しているのは、一つには学生の属性がそれぞれ偏っており、また教 育システムもそれぞれの目的に特化させた内容をもつため、混乱を招かないよう大学院規定をそれ ぞれが持つようにしたからと理解される。 c)研究所・学術雑誌の増設 海外の地域専門の研究所、そこから刊行されている学術雑誌(多くは年刊)を表5に整理した。 表5 韓国外国語大学校 研究所・学術雑誌年表 1964 出版部から『(韓国外大)論文集』創刊 1964 海外事情研究所。1966『海外問題』創刊。1968「国際事情研究所」に改称 1965 ドイツ研究所 1967 フランス研究所。1983『フランス研究』創刊 1968 学生相談室(学生処内)。後、「学生指導研究室」と改称。1982「学生生活研究所」として

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独立改編、両キャンパスに置く。1994「学生生活相談研究所」に改称。 1969 言語研究所。1973『言語と言語学』創刊。 1969 貿易研究所。1973『貿易論集』創刊(1982 年まで)。1981「経済・経営研究所」に改称。 1982『経済経営研究』創刊 1972 ソ連・東欧研究所。1979年『研究叢書』創刊(1986年第12輯で廃刊)。1982年『スラブ研 究』創刊。1990年「東ヨーロッパ・バルカン研究所」と1993年「ロシア研究所」に分立。 1972 中国問題研究所。1975『中国研究』創刊。1993「中国研究所」に改称 1974 中南美(中南米)研究所。1976『中南美研究』創刊。1991「中南美研究所」に改称 1974 外国語研修院 1976 中東問題研究所。1981『研究論叢』創刊。1992『中東研究』に改称。1993「中東研究所」 に改称 1977 アフリカ研究所。1979『アフリカ研究』創刊 1978 セマウル研究所。1979「韓国地域問題研究所」に改称。1981『統一論叢』創刊。1983『韓 国地域研究』創刊。1993「公共政策研究所」に改称。1993『公共政策研究』に改題。1997 「社会科学研究所」に改称・拡大・改編。1998『社会科学研究論集』に改題 1981 外国語研究所。1986『外国語教育研究論集』第3号発行(創刊はそれ以前)。1992「外国語 教育研究所・言語研究所」に改称 1982 人文科学研究所。1987「論文集」第1輯、1993第2輯。1996『人文学研究』創刊 1984 国際コミュニケーション研究所 『東西言路』1985創刊。1997「言論情報研究所」に改称 1984 史学研究所。1987『外大史学』創刊。1996「歴史文化研究所」に改称。『歴史文化研究』に 改題 1984 通訳・翻訳センター(会議通訳・翻訳問題研究。大学付設機関)。1997『通翻訳研究論文集』 創刊 1986 経営情報研究所(MIS研究所)。1987『MIS研究』(企業情報システム)創刊。「企業経営研 究所」に改称。1999『企業経営研究』(経営関連)創刊 1986 基礎科学研究所。1989『基礎科学研究』創刊 1990 東南亜研究所。1991『東南亜研究』創刊 1990 日本文化研究所。『日本文化研究』は1985より日本語科内で発刊。1993「日本研究所」に改 称。『日本研究』に改題 1990 東ヨーロッパ・バルカン研究所。1992『東ヨーロッパ研究』創刊 1992 法学研究所。1994『外法論集』創刊 1993 外国学総合研究センター発足。1997『国際地域研究』創刊 1993 北美(北米)研究所。1995『北美研究』創刊 1993 西ヨーロッパ研究所。ドイツ研究所とフランス研究所を母体。1995『西ヨーロッパ研究』

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創刊、6号まで。7号(2000)から『EU研究』に改題。2000「EU研究所」に改称。 1993 ロシア研究所。1997『ロシア地域研究』創刊 1995 外国文学研究所。1996『外国文学研究』創刊 1995 南アジア研究所。1996『南アジア研究』創刊 1996 情報産業工学研究所。1996『情報産業工学論文集』創刊 1997 環境科学研究所。1999『環境科学誌』創刊 1993年、研究所のほとんどは外国学総合研究センターに統合された。それに先立って、1991年に 韓国外国語大学校発展後援会が「在職教職員、卒業生、在学生の父母、社会各界の著名人」を中心 に結成され、外国学総合研究センター(龍仁)建設、教授研究棟(ソウル)建設、博物館建設、研 究活動支援、奨学事業などの目的で年次的に寄付金が集められた。1994年で外国学総合研究センタ ーの年間予算約100億ウォン。建物は地下1階、地上4階、建坪延2,000坪。専任事務職員は外国学 総合研究センターに4名が置かれている。 外国学総合研究センターの規定によると、同センターの長である院長は総長が推薦し、理事長が 任命する。運営委員会が置かれ、院長が委員長、幹事は事務課長、院長が推薦し、総長が任命する 委員から成る。研究所は研究費支援が欲しい場合、12月末までに当該年の収支計算書、翌年の事業 計画書、支援要請書を提出する。支援研究費を受けた研究事業は承認された研究が終了して1ヶ月 以内に報告書を提出する。教員は1研究所の常任研究員になることができ、他の2以上の研究所の 非常任研究員となれる。 研究所には学位を取得してまだ専任の職を得ていないポスト・ドクターを年限契約によって採用 し、研究所室管理を担当する責任研究員として置いているようである。各室に責任研究員を置き、 責任研究員は研究所事務を担当しながら、授業も担当し、就職や研究費取得のため自らの研究業績 も出していかなければならない。多忙な責任研究員の補助を、次にそれになりたい、後輩でもある 大学院生たちが担っている。外大には学会事務局が多く置かれているので、学会の通常事務、学会 大会事務も担う場合が多い。 外国学総合研究センター規定には「研究所の解散後の研究所財産は大学に帰属する」という条項 もあるが、40年史を見ても研究所名の改称はあっても、解散した例は見つけられない。各研究所は 機構図の上で、地域研究群と専門分野(比較研究)群のいずれかに置かれている。

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(2)現在の大学組織

2003年現在の大学校全体の組織構成は次のようになっている。 学校法人・東園育英会の理事会は理事長、理事8名、監事2名、事務処職員4名。理事長が任命 する委員による予算・決算委員会、教員人事委員会、教員懲戒委員会(法人理事委員は委員数の2 分の1を超えない)がある。 大学機構は次の通り。 a)総長 b)総長直属機関 企画調整室 秘書室 建設本部 学生就業情報センター 学事委員会 c)対外副総長 研究・対外協力処 入学処 広報室 d)ソウル・キャンパス副総長 本部(教務処、学生支援処、総務処、情報支援処) 大学17(西洋語、東洋語、社会科学、法学、商経、師範の6大学。3教学課) 付属機関(図書館、外大教育放送局18、出版部、外大新聞社、非常計画官室19、学生サービス・ センター) e)龍仁キャンパス副総長 本部(教務処、学生支援処、総務処) 大学(人文、経商、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、東洋学、自然科学、情報産業工科の7大学。 4教学課) 付属機関 f)大学院 大学院20(碩士21課程42学科;博士課程30学科) 世界経営大学院(碩士課程5学科;研究課程5学科) 通訳翻訳大学院(碩士課程3課程(2言語、3言語、特殊言語協同);博士課程1学科。通訳 翻訳センター) 教育大学院(碩士課程23専攻)

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経営情報大学院(碩士課程7学科) 政策科学大学院(碩士課程6学科) 国際地域大学院(碩士課程9学科;博士課程3学科) g)付属研究機関 外国語総合研究センター:外国語研修評価院、外国語教育研究所、言語研究所、通訳翻訳研究 外国学総合研究センター:国際地域研究(11研究所)、専門分野研究(11研究所)、外国語研修 h)付設機関 学生生活相談研究所 法律相談所 創業保育センター22 産学研コンソーシアム・センター 平生教育院 一般大学院 『大学院要覧 2003∼2004』掲載の機構表によると、碩士課程は「人文・社会系列」に33学科、 「自然科学系列」に6学科、「工学系列」に3学科が関わっている。学部では「仏語科」、大学院では 「仏語仏文学科」と学科名称が微妙に異なる場合や、学部と同じ場合もあるが、多くは学科単位に学 部も大学院も授業運営に責任をもつ。「日本語科」の場合は、大学院で「日語日文学科」と「日本学 科」の2学科を持つ。博士課程には「人文・社会系列」に22学科、「自然科学系列」5学科、「工学 系列」は2学科である。碩士学科だけに見える学科として「文化コンテンツ学科」がある。博士課 程にだけ見える学科として「比較文学科」がある。この2学科には学部の異なる学科から教授が寄 り集まっている。 入学定員は碩士課程409名、博士課程115名。授業は昼、研究者養成が目標である。 世界経営大学院 夜間授業の大学院で、学生の大部分が会社員という。経営学碩士課程には、国際通商学科(貿易 経営専攻)、国際経営学科(人事組織専攻・マーケティング専攻・国際経営専攻)、国際海運物流学 科(国際海運物流専攻)、情報管理学科(経営情報(MIS)専攻、電子商取引専攻)、国際金融学科 (保険専攻、証券金融専攻、財務・会計専攻)があり、各学科の中で1から3専攻が用意されている。 年間入学定員は158名。経済学碩士課程には国際通商学科があり、国際経済と地域経済の2専攻があ る。 他の大学院規定と比べて、休学がしやすいようである。 この大学院が行っている「最高経営者課程」というのがある。これは4ヶ月間、毎週火曜日夜に

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70分授業を2コマ、あるホテルで夕食つきで行うプログラムである。出願資格は「国会議員、政府 およびマスコミ界の高位経営者、公・私企業の代表または役員、その他の上と同等な資格を有する 経営者、上の資格の配偶者」で、50名ほどを募集する。講義主題は「マクロ環境分析」「ミクロ企業 戦略」の中に、世界・技術革新・経営手法・人事管理などの新しい動向や、健康への配慮も促す科 目も含まれている。 通訳翻訳大学院 通訳翻訳大学院は母国語と専攻言語を完璧に駆使できることを入学前提条件としている。「相異な る言語間のコミュニケーション行為は高度な知性と言語能力と文化感覚が要求される高次元の人間 行為」であり、「単一性よりは多様性が優先視され、国粋的な民族主義者であることに先立ってこの 地球を一つの単一共同体と思うことができる地球人(Earthian)にならなければならない時代に生き ている」という文言が紹介記事の中に見える。 碩士課程は2言語課程(韓英科・韓仏科・韓独科・韓露科・韓西科・韓中科・韓日科・韓ア((ア ラビア語))科の8学科)、3言語課程(韓英仏科・韓英独科・韓英露科・韓英西科・韓英中科・韓 英日科・韓英ア科の7学科)、特殊言語協同課程(韓マイン23語)が置かれ、2言語課程と3言語課 程には「翻訳・順次通訳専攻」「国際会議通訳専攻」があり、特殊言語協同課程には「翻訳・順次通 訳専攻」が置かれている。博士課程は1999年に開設され、通訳学・翻訳学の2専攻で、研究言語は 韓英・韓仏・韓独・韓露・韓西・韓中・韓日・韓アの8組である。入学定員は碩士150名、博士10 名である。同時通訳関係科目は碩士課程に置かれている。 私が参観させてもらったある授業では、全員イントネーションも完全な日本語で今後の自動車産 業についての情報報告と討論であった。自動車の専門用語が間違いなく使えるかがチェックされる が、毎週テーマは多岐にわたり、最新情報であるので講師の先生も知らない言葉がある。私も問わ れたが、私もよく分からなかった。 本大学院での学習を通じて、まさに通訳・翻訳の理論、実務能力を高度なレベルで身に付ける。 碩士はこれまで1,370名を送り出した。卒業生の中には最高レベルの通訳、すなわち首脳会談、国際 会議の同時通訳として、活躍している人たちが居る。卒業生の中で成績優秀者だけが、同大学院に 1983 年付設の「通訳翻訳センター」の研究員となることができ、このセンターでは外部からの通 訳・翻訳依頼に応じている。その高度な能力を有する人材の行う業務に対する対価も高く設定され ている。 同大学院に置かれた「BK21特化事業団」で行っている専門用語辞典編纂の成果の一つ、「サッカ ー用語辞典」はこれまで8ヶ国語に翻訳されて、サッカー国際試合に役立てられているという。 ソウル・キャンパスの国際館には通訳翻訳大学院と国際地域大学院が入っていて、そのための施 設がある。この建物で特徴あるのは第一に、同時通訳用8ブースを備えた国際会議場である。この 会議場の活用例は後述の模擬国連総会である。

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国際地域大学院 国際地域大学院の碩士課程に置かれている学科は、韓国学科、中国学科、日本学科、東南・南ア ジア学科(オセアニア地域を含む)、中東・アフリカ学科、ロシア・東ヨーロッパ学科、ヨーロッパ 連合学科、北米学科、中南米学科(ブラジル、スペイン語圏)の9学科で、国際政治、国際経済、 比較社会・文化の3分野に分けられ、27専攻がある。2000年に博士課程が開設され、国際地域学科 (中国、日本、東南・南アジア、中東・アフリカ、ロシア・東ヨーロッパ、ヨーロッパ連合、北米、 中南米の8専攻)、国際関係学科(国際政治学、国際通商学、比較・社会文化の3専攻)、韓国学科 (韓国学専攻)がある。入学定員は碩士課程85名、博士課程10名である。 『国際地域大学院要覧』の教育課程欄に「地域学教育の3段階」という表が掲載されている。そ れによると、次の通り。 第1段階(言語深化)英語および外国語を駆使する能力の培養 第2段階(知識蓄積)文学・語学・政治・経済・歴史・生活文化に関する全般的知識習得 第3段階(価値創造)政治・経済・社会文化分野に関する地域専門家としての研究および応用能 力培養 そして、「内実化、開放化、国際化」ということを謳っており、「内実化」で言語能力認証制、圏 域別・分野別専攻の協同、原語講義、現場実習、複数指導教授制、「開放化」で海外姉妹校との教 授・学生の定期的交換・交流プログラム、優秀な外国語留学生を 10 %以内で受け入れ、奨学金支 給・寄宿舎提供、外大各機関に集積された文献等の利用便宜、「国際化」で世界的水準の地域専門家 を養成するために施設・環境も国際水準で運営、講義用語は英語と現地語(外国人学生の討論参加)、 視聴覚教育室で衛星放送網を通じて世界各国のTVニュースを視聴できる、などとしている。 要覧巻末には国際機構職員、国際機構初級専門家制度、国際機構インターンシップの説明も加え てある。 その他の大学院 教育大学院(碩士課程入学定員266名)は授業時間によって「夜間系」(23専攻)と「季節系」(英 語教育専攻)に分けられている。夜間系の専攻の種類は、国語教育・外国語としての韓国語教育・ 中国語教育・日本語教育・英語教育・児童英語教育・仏語教育・独語教育・スペイン語教育・ロシ ア語教育・倫理教育・哲学教育・歴史教育・一般社会教育・産業教育・電子計算教育・相談心理教 育・教育行政教育・幼児教育・体育教育・化学教育・数学教育・物理教育である。 経営情報大学院は(碩士課程入学定員94名)は昼間授業で、夜間にも開設できると規定で定めて いる。コンピュータ関係の専攻を置き、社会科学系列と自然科学系列に分かれている。 政策科学大学院(碩士課程入学定員90名)は6学科10専攻が置かれている。学科専攻の種類は、 公共政策学科(公共政策専攻・公共行政専攻)、外交安保学科(外交安保専攻)、新聞放送学科(新 聞専攻・放送専攻)、広告広報学科(広告専攻・広報専攻)、環境政策学科(環境政策専攻・環境監

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視専攻)、北韓学科(北韓専攻)である。授業は夜間実施を原則とし、必要に応じ季節授業・遠隔授 業もできると定めている。 外国語研修評価院 1974年、政府と韓国貿易協会の後援を受けて、政府・民間商社の海外駐在員の外国語能力訓練計 画を実施するため外国語研修院を開設した。その後、1981年に外国語能力試験機関の政府指定を受 けて、外国語評価院を設立、1998年に外国語研修評価院に統合した。外国語研修院で学んだ人数は 1万2千人を超えるとされる。 教育課程は「20週正規昼・夜間課程」「10週一般人・大学生課程」「委託教育課程」「韓国語課程 (昼間)」がある。 「20週正規昼・夜間課程」の昼間課程は9時30分から16時30分まで1日6時間(計約600時間)、 夜間課程は16時40分から21時30分まで1日3時間(計約300時間)、週5日、1クラス15名以内で 編成される。能力レベルに応じて英語は9段階、日本語等は4段階に分けてクラスが組まれる。 「10週一般人・大学生課程」は生活会話能力の養成を目標とし、「大学生課程」は17時30分から 19時20分まで、「一般人課程」は19時40分から21時30分まで。クラスの規模、段階分けは上と同じ である。 「委託教育課程」は外大に置かれている24言語中から、企業の教育要請によって応じる課程であ る。社内教育より専門的・体系的に行う。 「韓国語課程」は外国人・在外韓国人を対象にした集中的課程である。 外国語能力検定試験は外大で開発した試験で、24言語について各言語ごとに理解領域(聴取、読 解。600点)、表現領域(作文、会話。400点)の試験が行われ、その成績は500点以下の「等級外」 を底辺にして、501点以上が10等級に分けられる。 平生教育院 上の大学院、研修院はすべてソウル・キャンパスで運営されている。2001年から龍仁キャンパス に生涯学習の平生教育院が開設された。設置されている課程は、教養課程(世界歴史文化紀行、ラ テン文化講座、実用コンピュータ)、外国語課程(英会話、生活英語、TOEIC、中国語、日本語、ス ペイン語、英語集中課程)、国際地域情報課程、公務員・民間企業人研修である。「生活歴史文化紀行」 は地域別・主題別に開設し、専任教授・研究所を中心に開設される。ラテン文化講座は人気のラテ ン・ダンス講習。英語集中課程は夏季・冬季に合宿形式で実施される。国際地域情報課程は海外進 出予定企業を対象とする教育を目標とする。

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(3)学生活動

学生も国際性に富んだ活動を多様に繰り広げているが、その中でとりわけ評価が高い活動である 模擬国連総会と外大学生通訳協会を紹介する。 模擬国連総会 2003年9月19日(金)午後2時から韓国外国語大学校・国際館エギョン・ホールで「第27回模擬 国連総会」が開催された。ここでの叙述は主にそこに出席した際のメモと、配布された A4 版冊子 『第27回模擬国連総会結果報告書』(282p.)、『難民に関する国際社会の協力増進』(33p.)に拠ってい る。 模擬国連総会は外大教育の成果を象徴する学生行事であると思われる。第1回は1959年に開催さ れ、その後行われなかった年もあり、1989年からは毎年実施されている。韓国の国連加盟が認めら れたのは、北朝鮮と同時加盟した1991年である。それまで、韓国のみの加盟申請は断られ続けてい たので、それ以前の模擬国連総会は加盟への願いもこもった行事であったと推察される。 主催は韓国外国語大学校・模擬国際連合24。後援は韓国外国語大学校総同門会、国家人権委員会 (韓国政府機関)、UN韓国協会、UNICEF韓国委員会、UNESCO韓国委員会、UNCHCRソウル事務 所、中国大使館、英国大使館、フランス大使館、日本大使館、韓国外交協会、平和運動連合。協賛 はINTEROJO(コンタクトレンズ)、SK C&C(ITアウトソーシング)、KFC(ケンタッキーフライド チキン)、第一銀行、パークランド(紳士服)、CESL(外大前英語学院)、ヘウォン・インターナシ ョナル(レトルト食品)、ウォン旅行クラブ(旅行社)、マルシェ(レストラン)。 準備委員は企画チーム、学術チーム、広報渉外チームに分かれ、企画で「模擬国際連合の年間日 程を計画・作成、模擬国連総会および各種ワークショップと説明会などの行事を企画し、各種行事 の印刷物を作成」、学術で「総会の議題を選定し、各種資料収集を通じて、代表委員と共にセミナー を進行し、総会の内容を詰める。内容を深めるため、関連分野の教授や研究機関、大使館を訪問し て助言を得る」、広報渉外で「新聞社、放送局など各種メディアを通じ対内外的に模擬国連総会を広 報し、政府部署、企業、大使館、研究所などの機関訪問を通じて模擬国連総会が成功裏に開催され るように後援渉外を担当」する。冊子に紹介されている委員の数と所属は、準備委員長1名(男: 外大行政02)(大学名・学科名・入学年の順)、企画チーム長1名(女:外大英語02)、学術チーム長 1名(女:外大中国語00)、学術チーム委員5名(男:外大政治行政系列03、女:外大政治行政系列 03、女:外大英語01、男:外大商経系列03、女:外大法学02)、広報渉外チーム長1名(女:外大政 治外交 01)、広報渉外チーム委員7名(男:外大ドイツ語 03、女:外大商経 03、女:外大経済 02、 女:外大ドイツ語03、女:外大仏語教育03、女:外大独語教育03、女:外大ドイツ語00)。全員が 外大生である。性別は男性が4名、女性が12名で女性が多い。入学年別では「00」2名、「01」2名、 「02」4名、「03」8名で、1年生が半数を占めている。

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この準備委員は裏方で、当日の模擬国連総会で舞台に立つ主役が外にいる。議長(男:外大院英 語02)、米国代表(女:高麗法学00)、英国代表(男:高麗経営01)、中国代表(女:漢陽政治外交 01)、ロシア代表(男:外大露語97)、日本代表(女:東国日語日文00)、インドネシア代表(男:外 大英語97)、コロンビア代表(女:外大英語03)、韓国代表(男:外大経営99)、フランス代表(女: 外大仏語99)、イラク代表(男:外大英語99)、ケニア代表(男:延世社会系列03)、北韓代表(男: 外大政治外交02)の13名である。大学院生が1名(議長役)だけ含まれている。 また、準主役として同時通訳担当者がいる。会場のエギョン・ホールには同時通訳施設があり、7 チャンネルを選択できる。この日割り当てられたチャンネルとそこから聞こえる言語は「0:口演 ライブ、1:スペイン語、2:英語、3:アラビア語、4:中国語、5:フランス語、6:ロシア 語」となっている。当日の通訳は、スペイン語なし、英語2名(女:西江新聞放送99、女:ソウル 人文学部02)、アラビア語4名(4人とも性別不詳:外大通翻訳大学院01)、中国語2名(男:漢陽 中語中文96、女:外大通翻訳大学院03)、フランス語2名(女:外大仏語99、女:外大仏語03)、ロ シア語2名(女:高麗露語露文00、性別不詳:高麗露語露文00)。合計12名が見えるが、大学院生 5名が含まれている。性別合計は男性1、女性6、不詳5となっている。 高麗、漢陽、東国、延世、西江、ソウルなどの他大学生が各国代表、同時通訳に参加している。 準備委員より全体的に学年が上になっている。この他に議長の隣に副議長(女)と模擬国会の前後 の司会に男女各1名が担当した。 ホール入り口にはコーヒーショップがあり、そこに受付が置かれて来賓の応対、案内、会場係等、 当日は以上に紹介されていない各種の役割が見えたが、その組織構成については情報を得ていない。 外大学生通訳協会 外大学生通訳協会は1980年に発足している。通訳翻訳大学院開設の翌年に当たる。発足の同月に 「アジア青少年バレーボール大会」の仕事を担った。それ以来、各種の国際スポーツ大会、国際学会、 国際親善プロ野球、筑波博覧会日本現地通訳、ロータリー国際大会、自動車ショー、「ハングルとコ ンピュータ マニュアル」翻訳、マッキンゼー・コリア翻訳等々、その活動年表は途切れることな く、年間何回もの通訳翻訳業務を引き受けてきた輝かしい実績を有している。 日本で言えば、大学内で学生の部活動の位置づけであるが、この協会に入会するには3次にわた る入会試験に合格しなければならない。1次試験は筆記と聴き取り、それに合格すると2次で外国 人教員の協力を得て面接会話試験、それに受かった者が3次試験に進んで、通訳協会役員の面接を 受け、通訳者としての資質を見極められる。3次試験合格者には協会での教育課程が用意されてい て、それを経てようやく人並みの会員となる。 外部からの受注を受ける言語は、英語・フランス語・ドイツ語・日本語・スペイン語・アラビア 語・中国語・ロシア語・イタリア語・マレー語・インドネシア語・ポルトガル語・スウェーデン 語・イラン語・タイ語・オランダ語・インド語・トルコ語・ベトナム語などにわたり、通訳翻訳大

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学院に置かれている通訳翻訳センターより多岐にわたる。 業務例として随行通訳(4時間で8万∼12万ウォン)、電話通訳(10分で1.5万∼2万ウォン)、会 議順次通訳(1時間15∼18万ウォン、超過1時間3万ウォン追加)、会議同時通訳(1時間18万ウ ォン)が挙げられている。出張に要する費用(交通費以外に拘束時間の費用、食事代、入場料等) は依頼者が負担すること、会議通訳は原稿を1週間前までに渡すこと、会議通訳は2人1組で行う ことが条件となっている。 協会は会員の高い語学力を活かして、夏季・冬季休暇中に各国語各レベルの外国語講座も実施し ている。教材は通訳協会で編集したものを使用する。 これ以外にも、外大らしい学生活動として、世界民俗芸術祭典、外国語演劇その他がある。

(4)学生数と卒業生

学生数は入学定員で見ると、「大学」の場合、2000 学年度 3,510、2001 学年度 3,495、2002 学年度 3,495、2003学年度3,495で、4学年度の合計は13,995人となる。 同校の語学教育のレベルの高さについては国内国外に確固とした定評を持つようになって久しい。 入学するのも難しいと言われるが、卒業生名簿を繰ると、大使をはじめとする外交官、航空会社・ 財閥系企業の海外駐在代表、駐韓国日本企業の要職にも卒業生の名は多く見える。首脳レベル級か ら各種国際会議の通訳も多く、もし卒業生同士が「職業上知りえた秘密」を交換し合ったら、韓国 の動向を左右するほど強い力を有しているのではないかとさえ思える。上述の通り、外大の通訳翻 訳大学の建物にあるエギョン・ホールという最大8ヶ国語の同時通訳施設を備えた会議場を会場に 毎年、学生主催による模擬国連総会が他大学生も交えて、それぞれの専攻言語で各国代表として演 説する。ここには来賓として駐韓国国連機関代表および各国の外交官も出席して、審査委員を担当 したり、激励の祝辞挨拶をしたりしている。 卒業生の進路概要 韓国外国語大学校の卒業生名簿『外大同門録1999』(1999)は1758頁の分厚い出来になっている。 企業広告頁もたくさん入っているが、これはページ数に含まれていない。CD-ROM版もあるが、そ の内容は確認していない。この『同門録』によると、卒業生数は6万5千名に及んでいる。このう ち国会議員5名、政党人200名余、現職判事・検事14名、法曹界40名余、長官(大臣)1名、国家 公務員2000名余、大使・公館長20名余、外交通商部150名余、放送・言論界1000名余、教育界2000 名余、そのうち大学教授650名余、金融界1000名余、貿易・企業1万余、航空業界1000名余、外国 機関500名余、海外建設業界700名余、海外留学中1500名余という数値が紹介されている。なお、俳 優の安聖基は外大ベトナム語科の卒業生である。

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海外進出卒業生の進出先人数 『外大同門録1999』ここに掲載されている海外在住卒業生の人数は、概数であるが、全体で1,854 名程になる。住所別の人数は下表の通り。 表6 韓国外国語大学校・海外在住卒業生・地域別人数 大 陸(合計・人) 地  域 北 米(563) 南カリフォルニア 245 北カリフォルニア 45 シアトル 39 アトランタ ハワイ 15 ニューヨーク 71 ワシントン 72 デラウェア 10 カナダ・バンクーバー 44 その他アメリカ・カナダ  19 中南米(270) メキシコ 59 グァテマラ 64 エルサルバドル パナマ 19 ドミニカ共和国 18 コロンビア 23 チリ 24 ボリビア ブラジル 23 アルゼンチン 30 ヨーロッパ(411) スペイン 73 スペイン・ラスパルマス 10 ポルトガル・リスボン イタリア・ローマ イタリア・ミラノ 30 イタリア・その他 スイス フランス 136 英国 30 ベルギー 10 ルクセンブルグ オランダ 19 ドイツ・フランクフルト 17 チェコ その他のヨーロッパ 10 モスクワ 47

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上の人数は少なくはないが、表2、表3で韓国全体の海外留学者数の推移を見たように、他の目 的の海外進出者数も極めて多くなっている。したがって、今日では在外韓国人の中に占める外大同 門の比率は急激に低下してきたということは否定できない事実であろう。

(5)教職員

現職専任教員は『外大一覧 2003−2004』掲載者を見る25と、総413人が数えられる。名前および 記載法から区別すると、その内「外国人」は65人、「韓国人」は348人ほどで、専任教員6人中1人 弱が「外国人」教員となる。 この外に名誉教授は全員で41人、「外国人」は1人だけで、他はすべて「韓国人」である。 学位の取得状況をみると、「韓国人」専任教員の学位は博士331人、碩士(修士)17人で、博士学 位保有率は 95 パーセントとなる。「外国人」専任教員の場合は博士 37 人、修士 25 人、学士3人で、 博士学位保有率は57パーセントとなる。韓国で韓国人が大学教員の職を得ようとする場合、博士号 をもっていることが必須条件と聞くようになって久しいが、外大の場合、定年に近い教授の中に修 士号所持者が若干見られるので、数年のうちに95%よりさらに100%に近づくものと予想される。一 般に「外国人」教員の場合は、専任・時間講師(非常勤講師)を問わず、自身の博士論文作成のた め、研究調査に韓国に来て滞在している人材をスカウトするのが、大学側と「外国人」教員側の双 方にとって好都合である。もちろん、大学側としては博士号をもち、人柄と学生の受けも良く、そ の上、韓国永住志向であれば、それにこしたことは無いかもしれないが、若い学位所持者は専任採 用したとしても、母国への帰国の機会を窺っていて、いつ辞意を示すか知れないという懸念がある。 アフリカ(25) エジプト・カイロ地域  21 その他 アジア(585) サウジアラビア 10 アラブ・エミレイト地域(ドバイ、アブダビ) 19 インド・ニューデリー シンガポール 26 マレーシア 20 インドネシア 194 タイ 57 ベトナム・ハノイ 25 ベトナム・ホーチミン 32 フィリピン 18 中国・香港 52 中国・上海 37 日本・東京(うち6名は日本姓) 42 日本・その他 アジア・その他 オーストラリア 42

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この点、外大「外国人」専任教員の博士学位保有率57%というのは、相当に高い比率ではないかと 思われる。 名誉教授の学位保有率は「韓国人」では100%になる。 次に、韓国人専任教員の博士学位をもつ331人について学位を受けた国別の人数を分けて見ると、 下表の通りである。韓国を除くと、239人が海外23カ国で授与されている。韓国人専任教員の海外博 士取得率は72.2%となる。他大学については調べていないのであるが、おそらく韓国の大学の中で はもっとも留学先国数の多い大学グループに入ることは間違いないであろう。 名誉教授は表中に含めていないが、「韓国人」40人中、韓国25人、海外15人。海外の内わけはド イツ6人、フランス3人、アメリカ2人、日本1人、コロンビア1人、不明2人である。海外取得 率は27.5%であり、若い世代の現職教員の博士学位海外取得率がはるかに高い。これは海外留学が よりしやすくなったという留学環境の変化もあろうが、韓国外大の教員採用に際して、海外での経 歴を持つものを重視するということの反映という条件も重なっているだろう。 表7 韓国外国語大学校・韓国人専任教員「学位を受けた国」別人数 名誉教授の博士学位を取得した海外の国は、15人中、欧米と日本で12人である。残り3名はコロ ンビア1人と不明2人(1人は名誉博士)である。 ここから、これら世界の国々で何年ごろに博士学位を取得したのか、そのために何年ごろに留学 していたのかを調べてみる。これを調べるために、韓国学術振興財団のホームページに研究者個人 情報が載っているので、それを参照した。本人の選択によって個人情報の「公開」か「非公開」に できるが、「公開」の場合は学歴情報も見ることができる。ここから、博士学位取得年、およびそれ 以前の留学期間を見てみると以下のことが分かる。ただし、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリ USA 132 41.1 韓国 92 27.8 ドイツ 25 7.6 フランス 16 4.8 日本 13 3.9 台湾 9 2.7 イギリス 7 2.1 イタリア 4 1.2 エジプト 4 1.2 インド 3 0.9 スペイン 3 0.9 トルコ 3 0.9 マレーシア 3 0.9 インドネシア オーストラリア スェーデン ポーランド ロシア ギリシア 中国 ハンガリー ブラジル ポルトガル メキシコ ルーマニア 合 計 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 331 0.6 0.6 0.6 0.6 0.6 0.3 0.3 0.3 0.3 0.3 0.3 0.3 100.0

参照

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