• 検索結果がありません。

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

滋賀大学教育学部紀要教育科学 No.52,pp.43-57,2002

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議

藤田弘之

1、はじめに 本論文は、イギリスにおける保守党関係団体 の1つであるボウ・グループ(BowGroup一以 下、BG)の結成と発展を考察しつつ、このBG がどのような教育政策論議を行ったかを検討す ることを目的とするO パウエル(E.Powell)は、「特に2大政党制国 家において、政党はその境界内にほとんどすべ ての問題に関して、全く正反対の意見を広く持 ち、また含み得るということが認識されなけれ ばならないO」(1)と述べているが、政党を研 究する際、政党間の思想やイデオロギーの違い とともに、政党内の諸勢力や諸集団について考 察する必要があるOこうした研究は概してこれ まで十分ではなかったO保守党についても戦後 さまざまな党内、または党関係集団が形成され たOノートン(P.Norton)は、「戦後数十年間 で議会政党はかくして広範な下部機構を発展し たO下院議員たちは行動集団を組織しつづけたO その中で最も顕著なものは1940年代のトーリー 改革委員会(ToryReformCommittee)、1950 年代のボウ・グループ、1つの国民集団(One NationGroup)、さらに1960年代、およびより 最近の月曜クラブ(MondayClub)、新自由 主義のセルスドン集団(SelsdonGroup)、トp .)-改革集団(ToryReformGroup)ブル ジズ集団(BrugesGroup)などがある0--」 (2)と述べているO このようにBGは戦後保守党史上重要な党関 係集団の1つであったが、近刊の保守党史関係 の著書において、以下のように説明されているO 「1950年に大学の友人達のグループによって設 立され、1952年に保守党本部より後援を受ける。 1957年に再出発する01960年までに、そのメン バーはおよそ800人を数えたOその機関紙、『ク ロスボウ』(Crossbow)、及びその出版物は若 43 い保守党員たちが彼らの見解を述べる場を提供 したOも`っとも、これらの出版物の内容は,党 やボウ・グループの見解を代表するものではな いこと明確にされたがOメンバーの多くは、例 えば、ハウ(G.Howe)やパウエルのように、そ の後入閣したO社会政策や人権に重きをおいた ので一般的に保守党左派と見られたが、それは 常に健全な財政の原則に関心を持っていたO」(3) BGについては相対立するさまざまな評価が なされてきたOしかし、この集団の存在が一定 の意味を持っていたことは認めなければならな い。この集団について例えばローズ(R.Rose) は、「BGは大きな変化を経験している社会にお いて、保守主義の原理の意味を新たに考え出そ うという努力のために、また政治の仕事に対す るその有効な組織のために注目に値するもので あるO」(4)と述べているOまた、エリオット (M.Elliott)は、「現在では活発に活動する多 くの政策集団に埋没し、これらの集団のひとっ の声にしか過ぎないが、一一一1950年代、1960 年代にBGが保守党の``知的発電所"であった ことは疑いのないことであるO」(5)と述べてい るO BGは自らをなんらの意味でも圧力集団では ないと主張しており、実際公式には保守党本部 とは関係のない組織であったためその影響力を 疑問視する向きもあるが、実際上は保守党の準 公式の部分組織であり、若い人々の保守党員と しての政治意識を高め、新しい保守党議員の補 給、揺藍の集団となったもので、これを無視す ることができないO ところで、管見する限り、これまで日本にお いて本格的にBGを取り上げたものはないと思 われるOまた、本国においても、保守党史関係 の文献において触れられることはあったが、本 格的な研究はなかったOこれまで刊行された先

(2)

行研究はわずかにローズの論文のみであるOこ うした研究の空白を埋めたのは、バー(N.Barr) による近著であるO(6)バーの著作は、これま で十分知られていなかったこの集団について種々 の点を明らかにしており、非常に参考になるO BGは教育政策についての論議もなしており、 出版物を出している。しかし、バーの研究にお いても、この集団の教育政策論はほとんど検討 されていないO 「1960年代は福祉国家の花盛りであるOJ 「1945年から1970年まで、一一一福祉国家の事 実の流れは広く一方通行で流れた。しかし思想 の潮流は多くの逆流を含んでいたO」(7)こうし た潮流の中で保守党関係集団であるBGの立場 を検討することも意味のあることであるO 本稿は、以上のことをふまえつつ保守党教育 政策史研究の一環として、BGの教育政策論議 を取り上げ検討しようとするものであるO検討 は、BGが一定の影響をもち、またはその活動 が活発であったと考えられる、1950年代から60 年代を中心とするOそして、ローズやバーの先 行研究を参考にして、ボウ・グループの結成、 組織、活動を考察するとともに、入手したこの 集団の教育関係の資料を分析して、その教育政 策論を明らかにし、それを保守党教育政策史に 位置づけ考察したい0 2、ポウ・グループの結成と発展 バーは、「彼らは"愚かな政党"としての保 守党のイメージに対抗するためにBGを設立し た。そのイメージは、どこよりも、彼らがごく 最近卒業した大学において強かったO左翼は知 的で、興奮をもたらすものであり、折衷的なも の(eclectic)であった。右翼は、その恩恵を受 ける人々にとっては楽園として、しかしすべて の他の人にとっては地獄として、戦前の保守党 政府のイメージへ常に言及されることによって 困惑していた。ケインズの政治経済学は保守党、 労働党の考え方を支配したOしかし、ケインズ のメッセージをより効果的に利用し、戦時の共 同体的精神が去ったところで取り上げるべきも のとしてとして国有化を描いたのは左翼であっ たO」という文章でその著書を始めているO(8) バーの指摘のように、BGは戦後の労働党、左 翼の優勢の中で、これに対抗するために大学を 卒業したばかりの若い人々を中心に結成された ものであったO よく知られているように、労働党は戦後の社 会状況を追い風として、支持を伸ばし、その影 響力を強めていたOコール、ラスキなどの思想 は、大学に浸透したO十分な財政的基盤を持っ たフェビアン協会は、社会主義の普及に大きな 影響を及ぼしていたO対照的に、1940年代-1950年代の保守党にはフェビアン協会に匹敵す るような知的集団は存在しなかったO当時、保 守党の組織を改革しようとしたウールトン卿 (LordWoolton)さえ若い時はフェビアン協 会員であったO こうした中で、ケンブリッジ大学などにおい て保守党を支持する学生の問で労働党や社会主 義に対抗する動きが生じつつあったOしかし、 こうした活動は大学を卒業すると継続しなかっ たOその1つの理由は、彼らにとってふさわし い受け皿となる保守党関係組織がなかったので あるOオックスフォード・ユニオンなどの学生 団体で活動するには年をとりすぎていたOかと いって下院議員に立候補するにはまだまだ若す ぎたO こうした状況の中で、BGの結成を主導した のは、エメリー(P.Emery)であった。かつてオッ クスフォード・ユニオンの司書であったエメリー は、1950年夏にハートフォ・-ドシャーのポッデ スドンで開催された大学保守党および統一党連 盟(FederationofUniversityConservative andUnionistAssociationT以下、FUCUA) の会合で、団体結成の必要性を主張したO彼に よれば、それは大学を卒業したメンバーにとっ て1つのクラブのような社会的アメニティを提 供するものであり、またそれは保守党に対して 1つの刺激として活動し、知的社会主義やフェ ビアン協会への効果的な対抗を提供するように、 大学生や大学卒業生の思想を焦点づけるもので あったO特に彼にとって、大学内で大きな存在 になり、また影響力を持っているフェビアン協 会は、攻撃すべき明らかな対象であったOつま り、社会主義への対抗と知的保守主義の確立が エメリーの第一の目的であったO彼の考え方は この会合で支持され、それ以後、エメリーと、

(3)

イギリスにおけるポウ・グループの教育政策論議 当時このFUCUAの副議長であったダリッフイ ス(B.Griffiths)が中心となってそれを構想し、 検討を続け、具体化することになったO(9) こうして最初の運営委員会が1950年11月29日 にイーストエンドのボウ(Bow)で開催され、そ の後1951年の2月7日にBGの第1回の設立会 議が開催され、正式にこの団体が発足したO (10)BGの設立時、38人のメンバーが名を連ね たOこの中には、エメリーやグリッフイスは当 然であるが、その後保守党で活躍するハウ、リー スモッグ(W.Rees-Mogg)、ジョーン・ステバ ス(N.St.JohnStevas)などが含まれていたO BGは、すでに準備段階から保守党本部の支援 を受けていたが、設立会議にも保守党関係者が 出席し、4人がシニアーメンバーとして名を連 ねることになったOそしてその後も、保守党本 部や執行部との関係を保ったO このように設立されたBGは、設立準備段階 から拠点としてきたイーストエンドのボウに事 務局を置き活動を始めた。事務局には、議長の 下、事務局長、司書、出納担当が置かれること になったOそして、グリッフイスが議長に、エ メリーが事務局長になったほか、司書にフリー スが、出納担当にレムキン(J.Lemkin)が就任 したO(11)また、BGの活動について審議、決 定する総会(generalcouncil)も設けられたO BGの憲章はその主要な機能として以下の点 を掲げているO (1)保守党や一般大衆にとって興味ある政治・ 社会問題に関する建設的な考え方や調査 の水路を提供することO (2)フェビアン協会の影響と戦うことO (3)BGの委員会やグループとして活動して いる会員によって行われた調査研究の結 果を出版することO BGはこのようにして設立され活動を始めた が、その活動は当初必ずしも明確ではなかったO 労働党やフェビアン協会への対抗という点では 一致していたものの、その実際の活動について はエメリーとグリッフイスでは微妙に異なって いたOグリッフイスは、BGの目的を、調査し、 議論し、考え方を出版することとしており、会 議で承認されたが、なおあいまいであったOこ うして、BGは、「我々は何らの正説も、何らの 45 異説も持たないO」とする立場をとり、それは 団体として特定の立場をとらないという政策を とることになったOこうした立場は、1960年当 時の議長、フーソン(T.Hooson)の、「われわれ は怒りを持っている若い保守党員ではないOわ れわれは保守党を分裂させてはいないOわれわ れは圧力集団ではなく、また何らBGの路線とい うものはないO我々は政治的に興味深い問題を 研究する若い保守党員の研究団体であるO」と いう言葉にも見ることができるO(12)また、B Gの文書には、「BGは圧力団体ではなく研究集 団であるOそれは保守党関係者、また他のもの が考察に値すると考える事実や考えを出版する ことに関わっているO」と述べられているO(13) BGは政治的な調査・研究の役割を果たすととも に、社会的な役割も果たすことになったOすな わち、それは若い大学卒業生達に会食や政治問 題や思想についての議論の場を提供し、また、 閣僚、大学の講師、他の特別の専門家の講演の 機会を提供したO 当初38人のメンバーで始まったBGはその活 動を発展させ、会員数を増やしていったO会員 となれるのは35歳以下の保守主義的な見解を持っ た人々とされ、グループの現会員によって加入 が推薦され、承認された。ただし、保守主義的 であるということはかなり弾力的に解釈され、 保守党員であることは入会の要件とはされなかっ たO推薦者がいない人については、入会委員会 による面接、またはその裁量によって入会が認 められたO大学の学位または同等の専門的資格 は要求されなかったが、教育歴のない人の入会 は控えられたOまた、当初35歳以下と定められ た年齢制限は後に緩和され、年齢制限以上の人 も加入した。 既述のように、1951年の設立時、事務局はイー ストエンドのボウに置かれていた。しかし、そ の後1957年に、セント・ジャイルズ、ハイスト リートへ、1960年にはバーナーストリートへ、 また1963年には、ハイ、ホルボーンに移転したO 事務局には、後述のように、1957年に機関誌、 『クロスボウ』が発刊されるのにともなって、 編集部が置かれたが、その他は、1964年まで設 立時の体制で活動したOしかし、この年、組織

(4)

改革が行われ、議長、事務局長、出納担当者の 他、政治担当者が置かれ、これとともに司書が 調査事務局長に代わった。また、1953年にバー ミンガムで支部ができ、その後、国内の主要都 市において支部が設けられ、その活動は全国的 に展開されることになったO BGはこのように発足し、調査研究、それに 基づく出版活動と情宣、政治問題についての会 合開催などの活動を始めたが、それは必ずしも 順調に発展したわけではない。1956年末になる とその活動は遅滞し、会員数も伸びなかったO BGはまた、活動のための財政問題をかかえ、 そのとるべき方向についての内紛もあったO BGがこうした低迷から抜け出し、その後発展 する契機は、機関誌、『クロスボウ』の発刊で あったO機関誌の発刊は以前より検討されてい たが、1957年の10月1日にこの『クロスボウ』 が創刊され、これをきっかけに活動が活発化し た。保守党本部の支援も受け、情宣も進み、次 第に認知されるとともに、会員数も徐々に増え ていった。(14)すなわち、その会員数は1958年 には、485人、1960年には、873人、1963年には 927人になったOその後減少傾向を示したが、 1960年代の後半には再び増加に転じ、1968年に は1000人を数えた。 ローズは、1960年当時の会員の特徴を分析し ているOそれによれば、会員の多くは、保守党 員のエリートである。年齢の平均は28歳、彼ら の階層は中産階級の上であった。職業から言え ば、全体の46パーセントが専門職、27パーセン トが実業関係者、13パーセントがジャーナリズ ム関係者などであったO教育歴ではノヾブリック スクール出身者がかなり占めていた。(15) ところで、この『クロスボウ』の刊行は、 連合産業家協会(theUnitedIndustrialist,S Association一以下、UIE)の財政的支援、バ ルトン出版社(HultonPress)のバルトン (E.Hulton)の援助によって可能になったもの である。とりわけ、UIEの支援は重要であった。 UIEは、自由な企業活動を推進することを目的 とし、社会主義に反対し一層の国有化と闘う団 体に財政支援を行おうとしていた。UIEは、B Gをこうした団体と考え、1954年ごろよりBG 関係者と関係を持ち、支援を始めたが、とりわ け1957年ごろより、その支援を強化したもので あったOこのことから、BGが当初からその立 場の重要な側面として経済自由主義を持ってい たことがわかるO(16) さて、BGは公式には保守党本部から独立し た組織であり、独自に活動したOこのため、保 守党の政策形成過程や会議に正式に関わること ができなかったOこの点で保守党青年部(Young Conservatives-以下、YC)とは異なっていた。 YCは80人の執行委員のうち15人の代表を送り、 党の年次総会に相当数の代表を送ったO しかし、BGは保守党本部や保守党幹部と関 わりをもたなかったわけではなく、インフォー マルに緊密に接触し関係したO党本部、及び幹 部も例外的な場合はあったが、おおむねBGを 支援したO党本部は、もちろん拒否することも あったが、その判断によってBGのノヾンフレッ トを出版したOまた党幹部との関係については、 「BGは保守党と緊密な接触を持っているO会合 はしばしばもたれる0---演者(注、BGの会 合での)には、首相、バトラー、レノックス・ ポイド、ブルック、エクルズ、ボイルなどを含 んでいたOこれらの会合は単に平凡なものでは ないOここで会員達は率直に、また精力的に彼 らの見解を提出した。一一一保守党幹部はBG の考えをよく知らされたのである。」というロー ズの記述からその一端を知ることができるO

(17)BGの指導者達は、首相、閣僚、下院議員

などと接触し、インフォーマルな話し合いを持っ ており、党指導者の公的、私的な支持を受けて いたOBGの出版物は、政府関係者によって読 まれ、彼らが、BGに特定の問題についての研 究を要請することもあったO(18) もちろん、以上のような状況は、BGに限る ものではなかった。バトラーは、こうした組織 について、たこの足計画(octopusplan)と呼 んでいる。すなわち、保守党青年部、BG、大 学、スイントン・カレッジその他の集団に触手 を広げ、政策課題について報告や考えを受け取 り、保守党本部でそれらを読み、その是非や政 策化について検討するというものであったO(1 9)しかし、この時期、BGの存在は保守党にとっ て重要なものであったO

(5)

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議 BGと保守党との関係は、保守党のいわば研 修機関であるスイントン・カレッジにおけるイ ンフォーマルな人間関係によって強まったOス イントン・カレッジは、保守党関係者の学習や 相互交流の場として、スイントン卿が自らの邸 宅を開放し提供したものであったが、BG関係 者の多くも様々な機会にこれに参加したのであ るO(20) 後述のように、保守党内ではBGやその出版 物に対する異論や反対も生じたが、しかし比較 的短い期間にBGは保守党内で一定の認知を獲 得し、保守党に一定のインパクトを与えること となったのである0 3、ボウ・グループの活動とその立場 コケット(R.Cockett)は、「BGは1つの国 民集団より異端であるO」(21)と述べているO BGには多様な見解や立場を持ったものが集まっ たOこうして、BGは、既述のように、公式に は、団体として一体的に特定の立場に立ち、そ の見解を表明するものではないとされたOしか し、議長職や事務局を担当したスタッフ、『ク ロスボウ』の編集者達は多くの場合に特定の見 解や立場を表明し、これを主張した01957年の 執行委員会の覚書では、「BGは、ポートをゆす る慎重な試みではなく、社会主義者達が失敗し た多くの問題の取り扱いにおいて保守党が進歩 をなすことができなかったという事実を認める 点で、多くの受け入れられた党の政策に対して より疑問視する態度を維持すべきであるOBG は多くの明らかに慢性的な問題に関する大胆な 提案とともに表に出ることを恐れるべきではな い。」としているO(22) BGは多数の会員を抱えていたが、こうした 会員のうち中央にいる30人の委員はいわば、リー ダーシップ・グループにおり、BGの全体を統括 したOまた、約250人ほどは、BGの調査研究活 動に関わったOとりわけ、リーダーシップグルー プはその立場を左右したOただ、BGの立場は 陣容が変わることによって変化し、さらに特定 の立場をとることを迫られるときもあったO すでに述べたように、BGの重要な活動の1 つは調査研究活動と出版であったOこの調査研 究活動、出版活動からBGの見解や立場を知る 47 ことができる。調査研究活動は、BGに置かれ た出版・調査専門委員会によって指揮監督され たOこれは、保守党や一般に政治に関心を持っ ている人々が検討する価値のある事実や思想を 調査研究するために研究グループをっくったO 各グループは、6人から12人のメンバーからな り、各々はプロジェクトに責任ある主宰者が指 揮した。BGの会員はこの研究グループに参加 する資格があったが、各グループにはその領域 の専門家も含まれた。各グループは独自の方法 で調査研究を進めたが、研究の有効性について 疑問が生じたとき、また研究が進まないときは、 プロジェクトを中止し、新たなプロジェクトを 立ち上げたO約1年の研究の後、各グループの 代表が研究成果の概要をまとめ、総会に提出し、 そこで出版の是非について検討されたOそして、 了解が得られたものについて、公式に出版され たOただ、出版物の内容は個人的見解であり、 BG全体の政策をあらわすものではないという 但し書きが常に添えられたO出版物はフェビア ン協会とは対照的に、学問的、政治的名声を持 たない人々によって書かれた。これは全員に年 齢制限が設けられていることが主な理由であっ たO BGは、1952年7月、最初のパンフレット 『イギリスにおけるカラードピープル』 ("ColouredPeopleinBritain'')を発刊し たOこれは、当時としては、オリジナルなテー マであったため、各方面の注目と評価をうけたO その後、BGは、およそ年2回のわりでノヾンフレッ トを刊行したが、1961年までに発刊されたパン フレットは以下の通りであるO 『大学の投票』("TheUniversityVote'',1953)、 『産業と資産所有資本主義』("Industryand theProperty-OwningDemocracy"、1954)、 『自由の活力:地方自治体改革への提案』("The LifebloodofLiberty:SomeProposalsfor LocalGovernment''、1954)、『産業における 専門家でない大学卒業生達』("Non-Specialist GraduatesinIndustry",1955)、『2つの印刷 された講義:国民賃金政策と政策の聴衆者たち』 ("TwoPrintedLectures:National WagesPolicyandtheAudienceofPolitics",

(6)

1955)、『試練に立つ広告』("Advertisingon

Trial''、1956)、『人種と権力』("Raceand

Power",1956)、『賃貸住宅』("TheHouseto

Let",1956)、『ヨーロッパからの封軌("Challenge fromEurope",1957)、『誰のパブリックスクー ル』("WhosePublicSchooIs?",1957)、『今 日の税』("TaxesforToday",1958)、『精神 が問題である』("MindsMatt,erS",1958)、 『ウェールズのための仕事』("WorkforWales'', 1959)、『喜んで学校へ』("WillinglytoSchool", 1959)、『芸術とパトロネッジ』("Patronage andtheArts",1959)、『ウエストミンスター の両翼』("WingsoverWestminster",1960)、 『交換教師』("ExchangeTeacher",1960)、 『我々の都市を生きさせよ』(``LetourCities Live"、1960)、『中小企業の見通し』("Outlook forSmallBusiness"、1961)、『実践の中の 原理』("PrinciplesinPractice'',1961)『安定 と生き残り』("StabilityandSurVival", 1961) こうした出版物に見られるようにBGはその 時々の政治課題をとりあげ、その調査研究のテー マはきわめて多岐にわたる。またこれらは、そ の評価もまた与えた影響もさまざまであるが、 アフリカの独立問題、ヨーロッパとの関係の問 題など、その立場を明確にし、影響を与えたも のも多いO すでに述べたように、BGは1957年に機関誌、 『クロスボウ』を創刊したOこの編集委員会は、 実質的に執行部と緊密に連携をとって活動したO ただ、執行部とは別組織であり、ある意味で編 集者の方針がより明確かつ大胆に表明されるこ ともあったOこの『クロスボウ』はBGについ て多くの人々の認識を得るのに大きな役割を果 たしたO各号はほぼ、約80ページ以内であり、 1つのテーマに絞り、これに関して、4-5編 の論考をいれた。また、他の問題、書評、ちょっ としたユーモアなども入れたO購読数ははぼ 4500部あまりを数えた0 1957年から1960年まで、6号が出され、これ らには全部で152の論考が収められているOロー ズの分類によれば、そのうち42が外交、植民地 問題、40が保守党の政策や原則、政府の組織の

問題、31が経済、産業問題、22が社会サービス、

教育、住宅問題、13が文化、道徳問題、を扱っ

ていたO(23) さて、『クロスボウ』に収められた論文「保 守党の公約へのノート」において、BGの出版 物について、会員が合意する基本的な点を示し ているOそれによれば、(1)世界の問題、(2)経 済問題、(3)イギリスの国家の問題についてであ るOこれらにつきBGは、世界におけるイギリ スの地位について現実主義的な見解を持ち、脱、 および反植民地主義の立場を持ち、また親ヨー ロッパの立場をとっているOさらに、経済自由 主義を容認している。これ以外の点で、例えば、 保守党をより民主的なものにすること、労働組 合の活動についての立法、遺産や投資所得の減 税、パブリックスクール(私立寄宿学校)への 公的奨学金、有料高速道路、商業テレビネット ワークの追加などについても触れているO(24) BGの調査研究は、行動のための提案であり、 その目的に資する性質のものであって、したがっ て知識に対するオリジナルな貢献をなすことを 意図しておらず、また厳密な方法論的関心もな いO 以上の出版物のうち、1961年の『実践の中の 諸原理』は今日にいたる保守党の政策の発展を 考えると重要な文書であると考えられるO(25) この『実践の中の諸原理』には「1960年代の BGのエッセイシリーズ」と副題がつけられ、 レイソン(T.Raison)の総括的な論稿を皮切り に、他に8人が9編の論考を寄せているOその タイトルをあげれば、「拡大する繁栄」、「援助 の目的」(D.ハウエル)、「需要に基づく教育」 (G.ホジソン)、「安定とサヴァイヴァル」(L. ビートン)、「社会サービスの改革」(G.ハウ)、 「国益」(Aヰヤンベル)、「余暇へのアプロー チ」(D.フェアバーン)、「イギリス連邦のアプ ローチ」(J.ジェムキン)、「継続する保守主義」 (R.ルイス)であり、それぞれ経済、海外援助、 教育、防衛、社会政策、外交、脱産業社会、イ ギリス連邦、新しい時代の保守主義など幅広い 問題を扱っている。 本論文の趣旨からして、このうちハウとホジ ソンの論考は特に重要であるO教育問題に関し

(7)

イギリスにおけるポウ・グループの教育政策論議 ては後に触れるので、ここではハウの「社会サー ビスの改革」を検討するOこの論稿は、脱福祉 国家における保守主義と副題がつけられ、公的 な社会サービスの削減、国家の社会保障や社会 政策の領域での役割の縮減を主張しているOそ の要旨をあげれば、不平等な社会の克服は必要 であるが所得の結果的平等の達成は不可能であ ること、税制による富の再配分の行き過ぎは弊 害を生じること、私的所有は自由を確保し個人 の活力を引き出すために重要であること、自ら 自立できる人も含めて社会サービスを普遍的に 提供することは間違いであること、公的社会サー ビスは自助できない弱者に対するものを基本と し、それ以外について国家の関わりを縮減すべ きこと、サービスの提供は真にそれが必要な人々 に対して行われるが、その際資産調査などによっ てその対象を選別すべきこと、サービスの提供 は基本的な水準のものであり、それ以上は自助 によって行われるべきこと、等であるOこうし てハウは、国家は我々に対して多くのサービス を提供しつづけることを期待すべきでないとし、 最後に次の文でその論稿を締めくくっている。 「慎重な動きはそれ故、個人が自ら、また自ら の家族のためにますます多くのものを提供する ことを奨励される自助国家の創造に向けてなさ れるべきであるO保守党は、一一一あまりにも しばしば反対の方向に急いで歩んできたOイギ リスの社会政策はあまりにも長い間、ウェッブ やベヴァリッジの時代に形成された態度によっ て支配されてきたOもし、諸資源が我々の国富 にふさわしい規模で、我々の都市の再編や我々 の社会資本の再創造のために見出されるならば、 あるいは税が受忍の限度で保持されるならば、 社会サービスの急進的な改革は久しく待ち望ま れているものである。ここに次の25年間の新鮮 な保守主義思想や活力ある保守党政府の挑戦か あるO」(26) ハウのこうした立場は、1954年に社会市場経 済、産業の私的所有を主張したルイスの『産業 と資本主義』、また1つの国民集団の『1つの国 民』("OneNation")に通ずる点があるOま たその基本点は1965年の『保守党の機会』にも 受け継がれているO 出版された当時、ハウの主張はほとんど影響 49 を及ぼさず、ルイスの主張も含めて批判されたO BGにおいて十分受け入れられなかったOティ ミンズ(N.Timmins)の言うとおり、「しかしそ の当時そのエッセイについて最も顕著であった ことは、それがいかに法則の例外かであったか であるO」(27)また、「このノヾンフレットは、何 らの政治的嵐や運動も生じることができなかっ た。一一一彼、すなわちハウのより急進的な処 方箋のいずれも1964年から1974年までの4回 の保守党の選挙公約に入り込まなかったO」(28) しかし、これが1980年代以後の保守党サッチャー 政権の諸政策に通じるものを持っていたことは 明確であるOティミンズによれば、「1961年の1 5ページのなかで、ハウは1980年代の問に急進 的右派の政策課題になることの多くを要約したO」 ハウは、その後次第に保守党政策形成の中核に 入っていき、それに影響を及ぼすようになった のであるO(29) ハウ及びルイスはなぜこのような主張を行っ たのであろうかO二人は、ケンブリッジ出身の 同窓生であったOルイスは、すでにケンブリッ ジ在学当時からハイェク、ポッパー、ロビンス の著書を読んでおり、経済自由主義を確信して いた。ハウがどういう経緯でこのような確信を 持ったかについて、その自伝において十分語ら れていないOしかし、すでに早い段階から、経 済問題研究所(InstituteofEconomic Affairsr以下、IEA)との関係を持ち、その 立場を共有していたOすなわち彼の自伝によれ ば、「十分興味深いことであるが、これは我々 が、IEAの著者達と同じ頃、同じ方法で取り組 んでいると知った多くの問題の最初のものに過 ぎない。IEAは、『クロスボウ』と同じ年に設 立された。そして、急速にお互いに引きよせら れていった〇一一一ハリスとセルドンは非常に 初期の段階から、『クロスボウ』への定期的な 寄稿者であったO私は、マクミラン政権の政務 次官であったジョウゼフとともに、早い段階か らIEAと規則的な接触を持った保守党の政治家 であったO」(30)こうして、彼は経済自由主義、 自由市場主義の立場を共有し、また影響を受け ていったのである。 さて、BGは、保守党と関わってどのような

(8)

特徴をもっていたのであろうかOまず、その立 場であるOBGは伝統的な保守党とは異なる性 格を持ち、既存の保守主義に満足せず、自由主 義、進歩主義の立場を持っていたOまた、彼ら は政治改革に通じる合理的分析の価値を信じて いたOそして、労働党のように理論ではなく、 経験に基づく研究、経験上のデータに基づき改 革を論議したOその意味では、バトラーをはじ めとする、保守党内の進歩主義的保守主義者と 考えを共有したO こうして活動を始めたBGであったが、設立 後どのような評価をうけ、影響を及ぼしたので あろうかOこれについて、10年経過した時点で 幾っかの評価があるO例えば、オブザーバー誌 は、「一一一保守党の指導者達と若い進歩主義 者との秘密の、認められない連携であるO」と述 べている。また、エコノミスト誌は「一一一自 らを、何ら特別の保守主義を代表するものでも ない団体としているが、保守党左派であるO自 由主義者、または労働党のガイスケライツから それを区別する何ら大きな原則も持っていない グループであるO」としているOまた、保守党 のアトレイ(P.Utley)は、「一一一急進的自 由主義者、または社会主義者からそれを区別す ることが困難なグループO」としている。概し て、BGは保守党左派と位置づけられ、場合に よっては労働党に近い存在とも見られたのであ るO(31) 1961年に開催されたBGの10周年記念におい て、フェアーリー(H.Fairlie)は、「戦争以来 最も驚くべきかつ成功した政治的な冒険である。」 (32)と称えているOローズもまた、BGに一定 の評価を加えたが、彼の下で学んでいたアメリ カからの留学生であったフランケル(E.Prank el)はBGを評価し、それを参考に、アメリカ において同様の団体を作ったOその後、BGを モデルとする団体は、カナダ、フランスにも作ら れたO保守党内においても対抗する集団が作ら れたO特に、右派の活動家を中心に月曜クラブ が結成されたことは重要である。このようにB Gの結成とその活動は、保守党内部のモラール 向上に寄与したのであるOさらに、BGが対抗 する対象であったフェビアン協会もまた、BG に影響を受け、その活動や組織を見直し始めたO (33) BGは、大臣に新しい立法の制定を迫ること もあったOBGの出版物で出された考えは、例 えば、世界難民年、アフリカの独立問題、脱植民 地主義など、その後まもなく政府の行動となっ て結果することがあったOただし、そのような 影響がどのように及び、また因果関係があった のかは明確ではないO さらに、1959年の総選挙でBGから、57人の立 候補が認められ、うち10人が当選した01966年 の総選挙では、17名が当選、1970年にはさらに 39人が当選し、うち9人がヒース政権で大臣、 または副大臣になったO以上のようにBGは1960 年代からイギリス政治に一定の影響を及ぼし始 めたのである0 4、ポウ・グループの教育政策論議 BGの出版物には、わずかではあるが、教育 問題を扱ったものも含まれているOすでに述べ た、1951年から1970年までの出版物の中で教育 問題を扱ったものとして、『誰のパブリックス クール』(1957年)、『進んで学校へ』(1959年)、 『実践における諸原則』(1961年)、『学校のため の戦略』(1964年)、『保守党の機会』(1965年)、 などをあげることができるOまた、1957年に創 刊された機関誌、『クロスボウ』においても一 部で教育問題が扱われた。ここではこれらの出 版物のうち入手できた文献についてその概要を まとめ、検討するO まず、1959年、『進んで学校へ』であるO(34) これは、6人の著者によって著されたものであ るが、その担当個所については明示されていな いOその内容は、第1章で教育ある選挙民の必 要性について述べた後、教育制度の歴史的背景、 選抜と学校指定、学校指定の代替策、新しい中 等教育、義務教育後の教育制度、試験制度、教 師の供給と質、学校と地域社会、学校経営、教 育財政の各テーマについて考察し、最後にこれ からの教育について提言しているOこのパンフ レットは、すべての子ども達がその能力を十分 に発達させる機会をすべてのレヴェルで提供で きるような教育制度でなければならないとし、 教育機会の拡充や平等化とともに、学校の行政

(9)

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議 的、財政的自由と独立の必要性を認めている。 さらに、これは制度を急激に変えるのではなくJ 現在の制度を発展する方法として、幾つかの提 言をなしているOここでその提言や結論の要約 を紹介しておくO まず、学校についてであるOl、初等学校に おいて遅れた子どものための特別な措置を施す べきこと02、選抜は継続的な過程であり、11 歳試験を最終のものとすべきでないこと。3、 総合制学校は、十分な敷地や教師が確保できる 場合、また優良なグラマースクールの閉鎖を行 わない限り、幾つかの地域において建設される ことは有益であること04、モダーンスクール は子どもが、より上級の教育や何らかの経歴に 進む機会を提供できるべきであること。またそ のカリキュラムは試験による資格の習得に通じ る教科のコースを含むべきこと。5、子どもは より長い期間学校にとどまることを奨励される べきこと。しかし、義務教育期間は延長される べきでないこと。6、第6年級の学習の水準は、 実験室の提供、小さなグラマースクールによる、 公立及び技術カレッジの使用の拡大によって改 善さるべきことO適当な場合、第6年級カレッ ジが設置されるべきことO 次に、教師についてである。1、より多くの、 またより立派な教師が必要とされることO教員 養成カレッジのより一層の拡充が考察されるべ きこと02、より上級の段階の教師の俸給水準 が実質的に引き上げられるべきこと。3、教師 は、相互訪問のより広範な機会が与えられ、ま たリフレッシュコースをとることができること。 サパーティカル・イアーがすべての教師に法的 に期待されるべきこと。 次に、試験であるOl、試験がより柔軟性と 信頼性を確保すべきこと02、2つの新しいレ ヴェルの試験が設けられるべきことOすなわち、 1つは、モダーンスクールの4年を終わった生 徒のためのNレヴェル、もう1つは、0レヴェ ルとAレヴェルの中間のIレヴェルであるO奨 学金のレヴェルは到達テストとしてでなく、大 学の勉強の能力を予測するテストとして計画さ れるべきことO 次に、教育行政関係である。1、十分に確立 された学校の理事たちは、日々の学校経営にお 51 いて、より多くの行政的、財政的独立を与えら れるべきこと、2、教師の基本的な俸給水準は 文部大臣によって支払われるべきこと。 最後に、社会の態度として、子どもの教育に おける学校と親の協力関係を打ち立てるために 努力がなされることO特に、PTAの利用によっ て行われるべきことO 以上である。後に検討するが、提言の内容は、 当時の保守党政権が進めていた教育政策と特に 異なるものではないOすでに問題化しつつあっ た11歳試験や総合制学校についても保守党執行 部とほぼ同じ立場をとっているO 次に1961年に出された、『実践における諸原 則』であるOこれについてはすでに前節で紹介 したが、この著書の中でも教育が論じられてい るOまず、ハウの「社会サービス改革」の中で の主張である。(35)すでに述べたように、ハウ はこの中で、公的社会サービスの削減、国家の サービス提供についてその役割の縮減を述べた が、教育についてもこうした立場から論じてい る。その第1は、教育ヴァウチャー導入の提言 であるOこの問題は、すでに機関誌『クロスボ ウ』において、保守党の政治家、セヴィル(B. Sewill)によって取り上げられていたが、この パンフレットでハウはより明確に述べたO彼は、 親への教育ヴァウチャーの交付による公的、私 的学校選択の自由の拡大、これに伴う親の教育 責任の自覚滴養、負担可能な人々による一定の 私費負担とそれによる国家の財政負担の軽減に ついて論じているO総じて、ヴァウチャー論と して特徴的なことはないが、この時期に、また 保守党関係機関によって主張されたことは重要 である。第2は、大学生に対する給費の削減と 私費負担の増加、受益者負担の主張であるOす なわち、今後予想される大学生の拡大にあたっ て、負担可能なものによる私費負担の増加と弱 者への支援の強化を主張しているO第3は、同 じ論理で、学校給食、学校ミルクの提供にとも なう費用負担について論じているOすなわち、 負担可能なものへの費用負担賦課を主張してい るのでる。 このパンフレットには、ホグソン(G.Hogson) の「需要に基づく教育一効果的な制度への財政」

(10)

も含まれている。(36)この論稿でホグソンは、 教育資源の配分の問題と配分すべき効果的な教 育制度の2点について論じている。まず、教育 資源の配分問題であるO今日イギリスではさま ざまな改革が検討され進められようとしている が、それらは多額の財源を必要とするO財源の 調達は、増税による方法、他のサービスの予算 を削ってそれを教育にまわす方法、費用の一部 を自己負担にする方法の3つが考えられるOこ れらのいずれも検討すべきであるが、合理的な 範囲で自己負担を求める方法も1つの選択であ り、貧困層にはこれを免除または減額するとし て、初等中等学校に授業料を導入したり、学校 給食費、学校ミルク費への親の負担の増加した りするなど、種々の教育サービスにこの原則を 導入すべきであるOこのことによって政府の支 出は一定程度節約できるが、それは我々が進も うとする教育進歩の方向に支出されるべきとし ているO効果的な制度についてであるが、地方 でのさまざまな実験や試みを認め、多様なもの を提供すべきである。このように多様なものを 奨励し、親がこれから自由に選択ができるよう にし、親の責任を喚起すべきである。また、イ ギリスの制度の欠陥は早い段階から専門化のし すぎであり、少数のエリートのために教育が偏 しており、これを拡大すべきであるOそして、 「はるかに多くの人々がイギリスの教育制度に よって理想とされるはるかにより多くのことを なし得ることであるO教育の真の機能はできる だけ多くの人々が、自ら非常に熱望することを なし、またそれになり得ることを援助すること であるOこの原則を歓迎すべきであるのは保守 党であるO」と結んでいるO(37) こうした主張のうち、受益者負担の原則につ いて保守党本部は世論を恐れたのであろうが、 これが党の公式な政策ではないことを直ちに表 明し、BGとの立場の違いを示している。ここ でホグソンは、受益者負担の原則、教育の多様 化と親の選択、教育機会の拡充整備などを述べ ているが、ここには後に指摘するように異なる 二つの要素が内包されているO 次に、1964年刊行の、『学校のための戦略』 である。(38)これは7名の著者で10の章を著し ている。これも執筆担当を明示していないOこ の本は、緒言の後、第1章で、初等、中等学校 の歴史、第2章で、中等学校カリキュラムの現 状、第3章で、中等教育組織の現状、第4章で、 試験制度の現状をそれぞれ述べ、第5章で、新 しいカリキュラム、第6章で、学校組織の改革、 第7章で、試験制度の改善、第8章で、教員養 成の改革、第9章で、教育研究活動、第10章で、 教員の給与・待遇について述べているOそして、 最後に、以上を基礎にして、カリキュラム、教 育組織、試験、教師、教育研究機関、教師の給 与と待遇の6項目にわたって教育改革の勧告を 提示している。 ここでは最後の勧告のうちカリキュラム、教 育組織、試験、教師を中心としてこの文書を検 討するO まず、カリキュラムについてであるOここで は、すべての中等学校の生徒が11歳から15歳ま で共通の核となる学習を行うべきであるとして いる。それは4つのグループの科目からなって いるOすなわち、コミュニケーション、人間関 係、物質文化、芸術であるOこの4年のコース の後に、学校は高等教育に進む生徒のための特 別コース、1・2年で卒業する職業および一般 コースをそれぞれ提供するものとしているO 次に学校組織である。勧告では、既存の中等教 育の3分岐制のなかではバランスあるカリキュ ラムを提供することは不可能であるとし、地方 当局がニュータウンに学校を建設するとき、総 合制の学校を検討することを勧めているOまた、 現在中等学校が存在する場合すべての地方当局 は中等学校で提供されるカリキュラムを拡大す る方法を検討すべく、既存の枠組みを精査すべ きとしているOそして、これはグラマースクー ルを拡大したり、1つの地域の学校を広域化す る制度によってより大きな単位で提供するよう になされるべきとしているO 次に試験であるOここでは新しい中等教育資 格試験がすべての中等学校の生徒のための試験 として受け入れられるべきとしている。この試 験は中等学校4年目の終わりに生徒が受けられ るようにし0レヴェルの試験は廃止されるべき としているO試験は教師が中心となった組織に よって行われ、進学希望者にも就職希望者にも

(11)

イギリスにおけるポウ・グループの教育政策論議 応じられるようにすべきとしているO 次に教師である。ここでは1つは、校長、校 長就任可能な人に対する特別の教育研修の機会 の提供を、またもう1つは、新しい専門職資格 を設け、それに給与を連動させることを提案し ているO 以上、4つの点についてその勧告を見てきた が、この当時の教育政策としてさほど特徴的な 点はない。その中でも、総合制学校を大きく容 認していることに注目すべきである。すでに述 べたように、BGのリーダーの多くは、バトラー、 マクミラン、ボイルなどと接触を持っており、 この時期で言えば、ほぼボイルの立場を容認し ていたと考えられるO 次に、1965年に出された、『保守党の機会』 である。これには「明日の保守主義に関する15 のボウ・グループのエッセイ」と副題がつけら れ、15名が論稿を出している。このうち、「ウ ェイティングリスト社会」(ハウ)、「教育と親」 (C.Chataway),「教育:5分の1を21歳まで」 (R.Smith)の3編が教育問題を扱っているO まず、ハウの「ウェイティングリスト社会」で あるO(39)この中でハウは、1、教育や保健サー ビスについて消費者の選択の自由の拡大が肝要 であること、2、福祉国家の下で、中央の影響 力が増大し、選択の自由が抑えられてきたこと、 3、こうした管理統制のし過ぎと集権国家は、 硬直性と非能率を生じ、弊害を生ずたこと、3、 豊かな社会の出現とともに、私的サービスを選 択できる人が増えていること、4、社会主義者 は平等を進めるためと称して選択の自由を抑え、 画一的なサービスの利用を強制するが、これは ブラックマーケットを作り出し、強制は困難に なること、5、教育において親に選択権を与え、 学校への分権化を進め、教育の柔軟性、多様性 を確保することが何より必要なこと、6、こう したことを可能にする手段として、ピーコック (A.Peacock)やワイズマンが主張する教育ヴァ ウチャーの導入が検討されるべきこと、などを 主張し、最後に次の文で結んでいるO「我々は すべての市民が現金で、また可能な場合でも現 物でなく、基本的なサービスを確保する手段を もっていることを確認すべきであるOしかし彼 53 は自らの増加する私的資源から公的資源を補う 自由があり、異なった諸施設の問で消費者とし て探し回る自由があるような方法でこれをなす べきである〇一一一公的、私的施設の多様性は 選択の範囲を広げるために育成されなければな らない。教育や保健の領域において、地方の公 務員は自らの諸資源を用いる権利を持たねばな らないとともに、市民の私費からそうした資源 を補うより多くの自由を持たなければならないO なかんずく我々は、ウェイティング・リスト社 会を真に打ち破り、選択の自由の拡大を真にな すことを明らかにしなければならないO」(40) 次に、チャタウェイによる、「教育と親」で あるO(41)この論考で彼は、第1に、学校教育 における親の権利の名目化、空洞化の実態を指 摘しているOすなわち、学校教育に関わるほと んどすべての側面・事項に関して、親の意向は 聞かれず、何も言えないという状態であること、 学校教育に関する必要な情報がほとんど提供さ れないこと、学校や教師、当局が一方的に規よ り優越的な位置にあり、親はそれらと対等の関 係ではないこと、親は子の教育について当局や 学校に任せればうまくいくのであり、干渉しな いことがこのためになるという考えがあること、 親と教師の会(PTA)は親の干渉を防ぎ、い わば親を害のないようにする組織にしかなって いないこと、等々を事例をあげて指摘しているO 第2に、親が子どもの教育に大きな役割を果た し、その成否の鍵であることの指摘であるOす なわち、ダグラス(J.W月.Douglas)をはじめ とする研究やその他の資料を引きっっ、親が子 どもの教育に関心を持っことが重要であり、親 の態度が子どもの教育成果を決することを述べ ている。第3に、以上を基礎に、親の権利の回 復と親への支援を主張しているOすなわち、親 は子どもの教育について、学校や当局と対等の 位置で役割を果たすべきこと、このために当局 や学校は親の希望や意見を尊重する必要がある こと、親の発言力を強化し、学校の選択権など を認めるべきこと、親を支援するための機関が 設けられるべきこと、等を論じているOこのよ うに、チャタウェイは子どもの教育における親 の役割を極めて重視し、親の権利の回復と彼ら

(12)

への支援の必要を指摘しているが、こうした立 場は、その後の教育政策の展開から考えて、先 見性があったと見られるOついでながら、この 論稿では、IEAやワイズマンに言及しており、 それらの一定の影響があったと推察される。 次に、スミスによる、「教育:5分の1を21歳 まで」である。(42)この論稿は、高等教育、特 に、大学教育の問題を扱ったものであるOその 主張は大要次のようなものであるOl、高等教 育についてこれまで量的拡大が論じられてきた が、これからは同時に質の問題を検討する必要 がある02、大学のあり方の検討は政府が一方 的に行なったり、また大学のみで終わるのでは なく、これまで以上に地域社会がその検討に加 わるべきである03、大学の量的拡大や改革は、 主として経済成長や国家存続のための投資とい う観点から議論されてきた感があるが、それは 1つの要素であって、すべてそれから考えるこ とはできない04、産業界と大学が継続的、か つ緊密な関係を持つことは必要であるが、その イニシャチヴは大学やカレッジにあり、大学は 特定の産業界の要請にストレートに応じるべき ものではない05、大学は社会全体における役 割を考慮する必要があるが、全体的人間 (wholeman)の育成をめざすべきである。6、 大学は、そこで学ぶ人々の社会移動を考える必 要があり、彼らの卒業後のことを考え、それに ふさわしい教育を行なうべきである07、教育 の専門化は避けられないことであるが、専門化 した場合でも専門問の有機的関係と総合化が必 要である08、高等教育から考えて、それ以前 の学校段階での選抜は13歳、または14歳の 時期が適当である09、大学入学のためのGC EのAレヴェル試験について、大学の影響力を 行使し、受験生がそれまでに大学教育に望まし い学力をつけるように誘導すべきである。10、 政府の役割は大学教育の条件整備にあり、大学 は社会の要請に応え、創造的なものであるべき で、学問の自由は絶対である。11、国家が大学 に求めるものは、政府の要求への隷従ではなく、 文化的、知的リーダーシップである011、特に 公的資金の配分は、政府によって一方的に行な われるべきものではなく、大学と行政のパート ナーシップに基づき行なわれるべきものであるO 12、この点で大学補助金委員会(University GrantsCommittee)は重要な働きをしており、 それ、および大学の学長委員会が設置する各種 の専門委員会が自律的に大学改革のため検討を 進めるべきであるOこの論稿は最後に、「何ら の連続する政府の布告も、高等教育を一度に改 革することはできないOより高度なレヴェルの 継続的な議論がなければならないOそれなくし て、またその結果なくしては、社会は物質的に、 また精神的により貧困なものになるであろうO」 と結んでいるO(43)スミスの主張は、当時の保 守党進歩主義者、良識派と立場を共有しており、 その後のイギリスの高等教育の展開を鑑みて、 非常に意味のあるものである。 既述のように、BGはこの他01957年に『誰 のパブリックスクール』を刊行しているOこれ はこれまでに入手できなかったが、ローズやバー の論考の中では、パブリックスクールへの公的 支援について論じていることが記されているO 以上、BGの教育関係の出版物について述べ てきたOこれらの出版物から看取できるBGの 教育政策についての立場は次のある意味で矛盾 する2つの側面を持っていたと考えられる。す なわち、当時の保守党執行部の教育政策を支持、 または容認し、その立場を共有したことであるO それは何よりも、総合制中等学校についての立 場から看取されるOさらに、それらには、将来 の保守党サッチャー政権の教育政策につながる 重要な要素を含んでいたことであるOすなわち、 経済自由主義、自由市場主義を基礎に、教育に おける親の役割や権利を重視し、公的サービス 縮減や受益者負担を進めようとする立場であるO とくに、ハウやチャタウェイはその典型であり、 事実その後保守党政策形成に大きな役割を果た してくのである0 5、ボウ・グループの影響、評価とその保守党 教育政策史における位置-むずびにかえて-1950年から2000年まで、BGは機関紙、『クロ スボウ』を100号以上刊行したOまた、会計問 題からジンバブェ問題まで、つまりAからZま であらゆる政策課題について470を超える刊行 物を出しているO(44)BGは現在も存続し、約 1000人の会員を持っとともに、機関誌、『クロ

(13)

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議 スボウ』の発刊を続け、一定の役割を果たして いるOハウによれば、今日においても「BGは 政治に関する意見を知らせ、社会を改善するの に役立っ思想のため、思想の創造者として政治 的マーケットの必要性を満たしつづけている。」 (45)ただ、「40年前にサンデーメールはポウ・グ ループを現在イギリスで若い人々のもっとも顕 著な、最も影響力のある集団」と述べたが、(46) 今日では、商業的、学問的、政治的さまざまな シンクタンクが存在し、その中に埋没し、影響 力を弱めていることも事実である。 BGは、政府の政策において急激なまた、特 別の変革を達成することを目的としていないO それは意見の一般的風土や世論に、曖昧ではあ るが、長期的な影響を与えることに関心があっ た。そして、そのパンフレットや覚書、機関誌 は新聞やマスコミから一定の評価をうけてきたO しかし、イギリスの政治過程へのポウ・グルー プの現実的な貢献については必ずしも理解され ていない。 BGはとりわけ1960年代において一定の役割 を果たし、その後も種々の政策論議について一 定の影響を与えてきたと考えられるが、今日に いたる状況を考えて、その存在意味は次の2点 においてさらに顕著であったと考えられるOす なわち、第1は、BGは思慮深い、かつ進歩主 義的な保守党関係集団としての評価を獲得して きたことであるOそして、そのことは、思慮深 く、十分な教育を受けた、成功した若い人々の 党として保守党のイメージを高めることに貢献 したOすなわち愚かな政党としての保守党のイ メージを変えるのに役立ったのであるO第2は、 BGは、将来の保守党エリート政治家を訓練し、 彼らが学習する場を提供し、保守党への潜在的 リクルートのルートを提供したことであるO事 実、政権をにない、閣僚となった政治家の多く がが何らかの意味でBGと関わったのであるO 本稿で問題とした1950年代-1960年代のBG の教育政策論議についてはすでに前節において 述べてきたOすでに指摘した通り、それは異な る2面性をもっていたOすなわち、BGのリー ダーは当時の保守党執行部、すなわちバトラー、 マクミラン、ボイルと親交を持ち、これら執行 55 部の立場、つまり進歩主義的保守主義を共有し たOしかし、BGのリpダpには、IEAの立場 を共有し、福祉国家を批判し、1980年代以後本 格化する自由主義的教育政策を先導するものも 含まれていたO保守党教育政策史を検討する場 合、BG内のこの勢力の更なる検討が重要であ る。 本稿作成に際して、最も重要であると考えら れる、機関誌『クロスボウ』を入手、参照参照 することができなかったOまた、一部を除きそ れぞれの論稿の執筆者の経歴や立場の論及も資 料不足のためできなかったOこの点で本稿は不 十分であり、他の機会に補いたいと考えている。 注 (1)Powell,E.,'ConservativesandtheSoclal Services',PoliticalQuarterly、Vol.24, 1953、P.157. (2)Seldon,A.,andBall,S.,edlted、Conserva-tiveCentury、0ⅩfordUnlVerSltyPress, 1994、P.117. (3)Crowson,N.J.,TheConservatlVeParty since1830、PearsonEducationalLimited, 1999、P.228. (4)Rose,R.,`TheBowGroup'sRolein BritishPolitics'、71heWestern,Pol乙tical Q比αer抄,Vol.XIV,No.4,1961、P.865. (5)ElllOtt,M.,'TheBowGroup:AHistory'、 rんe且〟rOpeαnJo㍑r花αZ,Vol.8,No.4,2001, P.29. (6)Barr,J.,TheBowGroupMAHistory-、 PolitlCO'S,2001 (7)Timmins,N.,TheFiveGlantS,Harper Collins,1995、p.247 (8)Barr,J.,P.3. (9)Barr,J.,PP.4-7. (10)ポウ・グループという名称は,最初に事務局が 置かれたポウの地名を取っている. (11)1951年から1970年の事務局役職就任者、およ び1957年から1970年までの『クロスボウ』の 編集者名は以下の通りである.

(14)

●ボウ・グループ事務局担当(1951∼1970) 年議長事務局長文書担当出納担当 1951-52Grlffiths 1952-53Lemkin 1953-54Stone 1954-55WllllamS 1955-56ガ0ue 1956-57Lemkin 1957-581.emkiT1 1958-59Lewis 1959-60Hennessy 1960-61Hooson 1961-62.打ohリegZ 1962-63月 e托花eSSy EmeryFreethLemkin BankesWilliamsJenhu7, CooperWllliamsLewis BuckHowe BuckLines AndersonLines AIldersonLines TuckmanFox NeedsFox NeedsHowell Needs月離れ Jones Jones Pears Pears Walton/Hennessy Hooson M.Wheaton M.Wheaton NewtonMacGregorTurner 1963-64MacGregorNewtonBrittanAWheaton 年議長調査事務局長政治担当官事務局長出納担当 1964-65月rはαれ 1965-66Bosch 1966-67CrltChley 1967-68Watts Ⅳe私産07IBosch DykesCritchley Nelson-JonesWatts Nelson-JonesSairlSbury 1968-69BrocklebankLamontBland -OWer 1969-70BlandLamontHoward 下線は議員になった者Oイタリックは閣僚になった者 ●『クロスボウ』編集者(1957∼1970) Autumn1957-NewYear1958、ColinJones(2issues) Spring1958-Spring1960、TimRaison(9issues) Summer1960-NewYear1962、GeoffreyHowe(6issues) Spring1962-June1964、DavidHowell(8issues) July1964-September1966、MichaelWolff(91SSueS) October1966-December1968、LeonBrittan(9issues) January1969rDecember1970、SimonJenkins(7issues) Bing 月わg Brocklebank -Fowler BrOCklebank -Fowler Howard Watherston Campbell Campbell Freemα柁 ダreemα花 Burtcher Burtcher

(15)

イギリスにおけるボウ・グループの教育政策論議 (12)Rose,P.866. (13)Rose,P.869. (14)この創刊を祝う会には、H.マクミランも出席 した。 (15)Rose,P.869. (16)Barr,PP.24-28. (17)周知のように、エクルズ、ボイルは文部大臣 を経験している. (18)Rose,P.870. (19)SeldonandBall、P.348. (20)Barr,PP.18-19. (21)Cockett,R.ThinklngtheUnthlnkable, HarperCollins,1995,P.163. (22)Rose,P.876.ポウ・グループが政策の問題に公 的にコミットし,立場を鮮明にする問題はスエ ズ危機のときの生じたO (23)Rose,P.871. (24)cf.Rose,P870. (25)PrinciplesinPractice-AseriesofBow Groupessaysforthe1960S-,TheCon-servativePollticalCentre,1961.著者は、 LBeaton,A.Campbell,D.Falrbairn,G. Howe,G,Hodgson,D.Howell,J,Lemkin, R.Lewis,T.RalSOnであるOなお、これがマ クレガー(J.Macgregor)、ガウ、(I.Gow) ペアーズ(G.Pears)の援助を持って、ハウエ ル、レイソンによって編集されたことが記さ れているOマクレガーは後に教育科学大臣に就 任したO (26)ibld.PP.72r73. (27)Timmins,PP.254-255. (28)ibid. (29)lbid. (30)Howe,G.,ConfhctofLoyalty,PanBooks, 1995、PP.29-30. (31)Rose,P.865. (32)Barr,PP.5ト52. (33)Barr,PP.66-70. (34)WlllinglytoScho01、ConservativePolit-lCalCentre,19590なお、著者は、R.Watts、 E.Crawley、A.Davies、R.Gass、M,Hutch lnSOn、J.Wakelinの6名であったO (35)G.Howe,`ReformofSocialServices',in PrinclplesinPractice, (36)G.Hodgson,'EducatlOnOnI)emand',1n PrinclpleslnPractlCe, (37)ibid.P.42. (38)StrategyforSchooIs、TheConservatlVe PoliticalCentre,1964,なおこの著者は、G. Jones、H.Anderson、P.Boden、J.0'Shea、 D.Rogers、M.Sands、T.Woodの7名であ 57 るO (39)G.Howe,'TheWaiting-11StSociety',in TheConservatlVeOpportunity, (40)ibld.PP.26-27. (41)C.Chataway,`EducationandtheParent', inTheConservativeOpporturllty, (42)Smith,R.,'EducatlOn:One-flfthtotwenty, one'、inTheConservatlVeOpportunlty, (43)ibld.P.81. (44)Elliott,P.29. (45)Barr,PP.vll-Ⅹ1il.

参照

関連したドキュメント

©2021 Happy Elements K.K/スタライプロジェクト)において、ユークス独自の技術により担当楽曲およびMCのCG制

診療支援統括者 事務当直 移送統括者 事務当直 移送担当者 事務当直 資機材・通信手段統括者 事務当直 資機材・通信手段担当者 事務当直 インフラ整備統括者

第9号 マージャン店、パチンコ屋、ゲームセンター など 1000平米超:20時までの営業時間短縮要請

地域の感染状況等に応じて、知事の判断により、 「入場をする者の 整理等」 「入場をする者に対するマスクの着用の周知」

[r]

1951 1953 1954 1954 1955年頃 1957 1957 1959 1960 1961 1964 1965 1966 1967 1967 1969 1970 1973年頃 1973 1978 1979 1981 1983 1985年頃 1986 1986 1993年頃 1993年頃 1994 1996 1997

○福安政策調整担当課長 事務局から説明ですけれども、政策調整担当の福安でございま

国際地域理解入門B 国際学入門 日本経済基礎 Japanese Economy 基礎演習A 基礎演習B 国際移民論 研究演習Ⅰ 研究演習Ⅱ 卒業論文