1.はじめに 現在,医薬品として用いられる抗体をはじめとするタンパク 質の多くは遺伝子組換え動物細胞を用いて製造されている。 タンパク質は,一次構造までは遺伝子の塩基配列のみに依 存するため微生物でも生産できるが,抗体などのタンパク質の 多くは,ポリペプチド合成後に糖鎖で修飾される。これらのタ ンパク質はその一次構造のみでは生理活性が現れないもの が多く,微生物では完全な合成が困難であり,二次,三次構 造の構築と糖鎖修飾の機能を持つ動物細胞を用いる必要が ある。 医薬品生産に用いられている動物細胞培養の多くは,本 来は付着依存性である組織細胞を剥(はく)離して順化する 近年,製薬業界では,抗体医薬品の開発・製品化が活発化 するなど,大型で生産収率の高い動物細胞培養槽が求められ ている。大型培養槽では,細胞が吸収する酸素を供給するとと もに細胞が吐き出す二酸化炭素を除去するために,十分な量の 通気と攪拌(かくはん)が必要である。一方で,過剰な攪拌によ るせん断応力と気泡通気は細胞にダメージを与え,細胞が死滅 するという問題がある。これらに対応するため,動物細胞培養槽 のスケールアップと最適化設計を目的として,細胞培養槽の数 値シミュレーション技術を開発した。横軸に攪拌回転数,縦軸に 通気量をとって,大型培養槽内の二酸化炭素濃度および流体 せん断応力による細胞死滅速度を示す運転可能領域線図を作 成することにより,大型培養槽の設計最適化を図っている。 図1 動物細胞培養プラント設備 国内最大級である培養容積10 m3の抗体医薬品生産用の動物細胞培養槽の外観を示す。 34 Vol.89 No.05 418-419 2007.05 医薬品産業における日立グループのソリューション
抗体医薬品の生産性向上を支援する
動物細胞培養槽シミュレーション技術
Mammalian Cell Culture Tank Design by Computational Fluid Dynamics
天野 研
Ken Amano渋谷 啓介
Keisuke Shibuya中野 隆盛
Ryusei Nakano35 ことで単一細胞として液体培地中で浮遊させ,栄養源や酸 素を供給しながら培養するものである。 一般に酵母や大腸菌による培養も含めて,培養プロセスは 合成化学プロセスに比べて単位液量当たりの収率が低い傾 向がある。特に抗体医薬品においては,培養液当たりの抗体 収量が小さいこと,培地が高価であること,一患者当たりの 必要投与量が大きいことなどの理由により,非常に高価に なっている。このため大型で細胞数密度が高く,生産収率の 大きい培養槽が求められている(図1参照)。 数値シミュレーション技術は,この培養槽のスケールアップ 設計において培養環境を最適に設計する手段を提供するこ とができる。 ここでは,数値シミュレーション技術による培養槽の最適化 手法について述べる。 2.培養槽の大型化とその問題点 2.1培養槽のガス交換性能 動物細胞においては糖類およびアミノ酸を栄養源とし,代 謝産物としては乳酸およびアンモニアを生成する。また,酸素 を吸収して二酸化炭素を吐き出す。乳酸,アンモニア,二酸 化炭素などの代謝産物は,細胞の増殖を阻害する。通常, 酸素は散気管からの気泡通気,および培養槽液面を通して 供給され,細胞によって吐き出された二酸化炭素は酸素とは 逆の流れで気泡および培養槽液面を通して排出される(図2 参照)。 動物細胞培養槽の設計においては,次の2項目が必要で ある。 (1)細胞が要求する培地中の栄養源や溶存酸素濃度を一 定/均一に供給,混合するとともに,増殖を阻害する二酸化炭 素を速やかに除去すること (2)流体のせん断応力や気泡によって細胞が死滅しないよ うに,通気,攪拌(かくはん)回転数を最適に保つこと しかし,この2項目は相反する関係にある(図3参照)。 培養槽が大型化し,かつ,細胞数密度が増えると,培養 槽内の物質移動速度は大きいことが要求される。一般に,攪 拌翼の回転数を上げていけば,培養槽内の混合速度および 気液界面のガス交換速度はいくらでも改善していくが,動物 細胞は微生物細胞のように硬質の細胞壁に覆われておらず, 流体のせん断応力によって容易に死滅する。このため,攪拌 回転数を無制限に上げていくことはできず,穏やかな攪拌に とどめざるを得ないという制約がある。これらの理由から,現 在,微生物培養槽には300 m3以上のものもあるが,動物細胞 培養槽は最大で15 m3 のものにとどまっている。 2.2細胞の死滅特性 栄養源の枯渇やアンモニアの蓄積は細胞死滅の大きな因 子であることが知られている。溶存二酸化炭素濃度が細胞増 殖率に与える影響については芳賀1)がデータを示しており,二 酸化炭素濃度が100 mmHgを超えると増殖率の低下が現れ 始める。 流体のせん断応力による細胞死滅のメカニズムについて は,各種仮説が提案されているが,確立した定説がない。液 面からのガスの巻き込みや気泡通気がない条件では,細胞 は容易には死なない。一般に,槽内の乱れが強くなり乱流場 の渦の大きさが細胞のサイズと同程度になると細胞は死滅す ると言われる2)。一方,気泡通気がある場合,気泡が液面で Feature Article 散気管 気泡 気泡 酸素 酸素 二酸化炭素 細胞 細胞 二酸化炭素 二酸化炭素 液面 空気通気 図2 培養槽内のガス交換 スパジャーから供給された気泡によって培地中へ酸素が溶解する。細胞は酸 素を吸収して二酸化炭素を吐き出す。二酸化炭素は再び気泡中に移行し液面 から排出される。自由液面にも空気が流通しており,酸素と二酸化炭素がガス 交換する。 混合性能 流体せん断応力による 細胞の死滅 ガス交換性能 二酸化炭素の蓄積 運転可能 領域 撹拌回転数 通気量 図3 培養槽の運転可能領域の概念 攪拌回転数と通気量を上げていけば,混合性能およびガス交換性能はいくら でも改善していくが,これは細胞の死滅とトレードオフの関係にあり,運転可能領 域はこれらの条件に制約されている。
36 Vol.89 No.05 420-421 2007.05 医薬品産業における日立グループのソリューション 破裂する際に気泡液膜に付着していた細胞が死滅するとい う報告がある3)。これに従うと細胞の死滅速度は通気量のみ に比例することになる。N.S.Wangらは,細胞死滅速度は気泡 の表面積と攪拌回転数の両方に依存しており,細胞死滅速 度が物質移動容量係数に直接比例するというデータを示して いる4)。このことは,攪拌によるガス交換性能の強化が,細胞 死滅と完全にトレードオフの関係にあることを主張している。 3.培養槽シミュレーション技術 攪拌槽内のガス輸送を数値シミュレーションで求める理論 式は各種報告されているが,実際の細胞培養槽で検証され たものはほとんどない。 そこで,実験室で小型の細胞培養槽を用いて,物質移動 容量係数を測定する実験を実施するとともに,これと数値シ ミュレーションによって算出される乱流統計量との相関を求め, 物質移動容量係数を流体力の関数として与え,かつ,従来 の経験則とも合致する半実験的理論式を導出した。同時に, 乱流統計量および気泡量と細胞死滅速度の相関を実験的に 求めている。 一定の通気量と攪拌翼回転数の下での物質移動容量係 数KLaのシミュレーション例を図4に示す。 4.シミュレーションによる運転可能領域の把握 前述の培養槽について,横軸に回転数をとり,縦軸に通気 量をとって,槽内の二酸化炭素濃度の値を等高線で示した グラフを図5に示す。通気量を増やすことによって二酸化炭素 の脱気量が増えるのでグラフの上へいくほど二酸化炭素濃度 が下がる。 このグラフ上で,一定の回転数で一定の二酸化炭素濃度 とするために必要な通気量は一意に決まるが,この通気量を もって細胞が必要とするだけの酸素を供給するためには,通 気ガス中の酸素濃度を調整する必要がある。このため,二酸 化炭素濃度一定の線上では,回転数が高くなるにつれて通 気ガス中の酸素濃度が高くなる。一方,破線で示す二酸化 炭素濃度の等高線が交わり1本に融合してしまうラインは通気 ガス組成が100%O2で飽和するラインであり,この破線上では 二酸化炭素濃度一定の条件を満足していない。 これとともに,同図には流体のせん断応力による細胞死滅 速度(Kd)の等高線が載せてある。この図から,溶存二酸化 炭素濃度が100 mmHg以下で,細胞死滅速度が0.01 Hr−1と なる領域は存在しないが,攪拌回転数が15 rpm以上ならば, 溶存二酸化炭素濃度が100 mmHg以下で,細胞死滅速度 が0.02 Hr−1以下となる運転可能領域が存在することがわか る。高回転数側で運転可能領域が拡大するのは,主に自由 液面からの二酸化炭素の脱気が促され,二酸化炭素濃度が 下がるためである。 現状では,細胞死滅速度のモデルには不確実さがあり,こ の図の定量性は確実とは言えないが,異なる培養槽間での 運転可能領域の相対比較は成立しており,有意の差をもたら すことを確認している。 別の観点として,細胞死滅速度を縦軸にとり,二酸化炭素 濃度を横軸にとったグラフ上に,さまざまな培養槽形状と運転 条件をパラメータにとって数値シミュレーションを行った結果を プロットすることも可能である。二酸化炭素濃度と細胞死滅速 度はトレードオフの関係にあることから,両者を同時に最適化 することはできず,多目的最適化問題に対するパレート最適 解を求めることになる。複数あるパレート最適解の中から,一 つの最適解を選び出す指針は,抗体収量の最大化,あるい は外乱に対する生産物品質のロバスト性となるであろう。 回転数(rpm) 5 10 15 20 25 30 35 40 45 50 通気量 ( NL /min ) 0 50 100 150 200 二酸化炭素濃度 CO2=50 mmHg CO2=150 mmHg 細胞死滅速度 Kd=0.05(1/hr) Kd=0.01(1/hr) 図5 運転可能領域線図 二酸化炭素濃度が一定となる線を25 mmHgごとに,細胞死滅速度が一定と なる線を0.01 Hr−1 ごとに描く。計算条件として,細胞数密度107 cell/mL,細胞 の酸素消費速度2×10−1 2 mg/cell/s,気泡径1 mm,溶存酸素濃度50% air sat.を仮定している。 槽径=2.5 m 高さ = 2.5 m 0.63 m 図4 培養槽内のKLa分布のシミュレーション(相対値) KLaは,気泡割合が大きく,乱れの強い領域で高い値を持つ。このため,底部 の散気管の上部と攪拌翼周辺で高い値を示している。
37 運転可能領域と薬理的な同等性を主張するデザインス ペースの概念とは異なる概念である。デザインスペースは運転 可能領域の内側のさらに狭い部分領域になるものと考えられ る。将来的には,個別の抗体医薬品について,運転可能領 域の細胞増殖率,二酸化炭素濃度,pH,および浸透圧など とタンパク質糖鎖の活性との相関5)を求めることにより,運転 可能領域からデザインスペースへの変換が可能になると思わ れる。 5.おわりに ここでは,抗体医薬品生産の主力となる大型動物細胞培 養槽の設計支援ための数値シミュレーション技術について述 べた。 数値シミュレーションによって求められる乱流統計量の関数 として,物質移動容量係数と細胞死滅速度のモデルを与え ることにより,運転可能領域線図を描くことができる。また,異 なる培養槽間での運転可能領域を相対的に比較することで 設計の最適化が可能である。今後の課題として,流体せん 断応力による細胞死滅メカニズムの解明が求められる。 1)芳賀,外:動物細胞培養における溶存炭酸ガスの影響,日本動物細胞工 学会2003年度大会(2003)
2)M.S.Croughan,et al.:Hydrodynamic Effects on Animal Cells
Grown in Micro-carrier Cultures,Biotechnol. Bioeng.,29,130 (1987)
3)J.Tramper,et al.:Lethal Events during Gas Sparging in Animal Cell
Culture,Biotechnol. Bioeng.,37,476(1991)
4)N.S.Wang,et al.:Cell Inactivation in the Presence of Sparging and
Mechanical Agitation,Biotechnol. Bioeng.,40,806(1992)
5)R.Kimura,et al.:Glycosylation of CHO-derived recombinant tPA
produced under elevated pCO2,Biotechnol. Prog.,13,311(1997)
参考文献 執筆者紹介 天野 研 1981年日立製作所入社,電力グループ 電力・電機開発 研究所 公共・産業プロジェクト 所属 現在,培養槽の設計研究に従事 工学博士 化学工学会会員 Feature Article 芳賀 良一 1969年日立製作所入社,電力グループ 電力・電機開発 研究所 公共・産業プロジェクト 所属 現在,細胞培養システムの研究に従事 日本動物細胞工学会会員,化学工学会会員 渋谷 啓介 2003年日立製作所入社,電力グループ 電力・電機開発 研究所 公共・産業プロジェクト 所属 現在,動物細胞培養法の研究に従事 理学博士 日本動物細胞工学会会員,日本生物工学会会員,化学工 学会会員 難波 勝 1986年日立製作所入社,電力グループ 電力・電機開発 研究所 公共・産業プロジェクト 所属 現在,細胞培養システムの研究に従事 理学博士 日本動物細胞工学会会員 中野 隆盛 1984年日立製作所入社,株式会社日立プラントテクノロ ジー 医薬・食品プラント事業部 医薬プラント第一部 所属 現在,医薬プラント特に培養プラントの設計に従事 生物工学会会員