東南 ア ジア研 究 11巻1号 1973年 6月
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デル タの運河 開発 に関す る一考案 (
Ⅰ)
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朝 より
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朝四世王治世 まで
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ThehistoricaldevelopmentofhydraulicworkscarriedoutincentralThailandseemsclosely determinedbythepbysiographyofthereg10m,Whichisdevidedintotheolddelta,thedeltaic highandthedelta鮎 t(Takaya:19711・Thisarticleaimstoanalyzetheregionalchangeofthe ChaoPhrayadeltaseenastheLeben∫raum(geographicallivingspace)oftheSiamesepeople, byinvestigatlngtheformativeprocessofthecanalsystem beforetheintroductionofthemodern irrigation-transportation system operated byKrom KhZong(DepartmentofCanals・1
ThroughoutAvutthayanand theearlyRatanakosinperiods,ma・nycanalsofmilitaryand transportationalpurposeswereexcavatedbytheSiamesekingsinthedeltaflatreg10n. This reglOn)beingspareselypopulated,wasnotsoimportantforricecultivationuntillthemid・ni ne-teenth century.
In themid・nineteenth century,however,theSiameseGovernment,in orderto meetthe foreigndemandforrice,triedincreasingriceproduction byexpandingricelandand,forthis purpose,startedtheconstructionofacanalsystem fortransportationaland irrigationalpurposes on thewestbank (Mahasawat,Phasicharoen,Damnoensaduak,etc.).
Inspiteoftheeffortsofthegovernmentlthereclamationofricelanddidnotyieldtheexpected resultasisseeninthecaseoftheMahasawatcanal;althoughthelargescaleland-holdingde・
velopedbyroyalfamiliesando氏Cialnobles,vastamountsoflandthusoccupiedwereleftun・ cultivated.(tobecontinued)
Ⅰ は じ め に
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デル タとよばれ るCha
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水系を中心に形成 された 広大な 複 合デル タ は,Cha
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を頂点 とし,西か らMa
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の河 口 を結ぶ シャム湾海岸線 を底辺 としている。 このデル タはAyut
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朝(1350-1767A.
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以来, タイ人の生活空間の中心部分を構成 し,国家の生産基盤 もこの地域の水稲耕作におかれていた。田辺 :Chao Phrayaデル タの運河開発に関す る-考察 (I)
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デル タの広大 な生活空間を支配す る国家に とって必要な交 通 手 段, さ らに水 稲耕作を基本 とす る農業生産は ともに このデル タの 自然的条件 に強 く規定 されていた と考 え ら れ る。 すなわ ちデル タの集落内, 集落間の日常交通は もとよ り, 旧制度下 における 国家の兵 役 ・徳役農民Phr
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の運搬, 租税徴収, 遠距離交易などの交通路は,主要河川 とその分流,支 流水路による内陸水運に依存 し,さ らにその機能 の合理化 は運河開削に求め られたのである。1) また このデル タの降雨 は南西 モ ンスー ンがイン ドシナ半島,マ レー半島を縦断す る中央 山系に よって遮断 され るため,水稲耕作に必要な雨量の約2/3に しか達せず,古 くか らその不足分を 河川 の自然氾濫 に依存す る溢流液淑農業 を発達 させた といわれてい る02)自然の 降雨 とデル タ の地形 に強 く規定 され る溢流港概農業 にとって氾濫水の合理的利用は,既存の河川支流 ・分流 水路 に加えて運河開削を必要 とした と考 え られ る。 タイの国民経済の発達は19世紀 における自由貿易の開始をメル クマール と し,西欧植民地勢 力 の外圧 の もとに国際分業体制の一環 に組み こまれてい く占デル タにおける運河開発 はかか る 外的な条件 に強 く規定 され,植民地諸 因の米需要に応え る輸出米生産拡大 を主要 な目的 として 展開 され るよ うになる。I
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3)は,19世紀 中葉以降のタイ経済の変動を分析す る中で, 耕地面積拡大のための国家 による港淑事業 と しての運河開発 の展開を概観 している。そ こでは 五世王治世後期 (1890-1910A.
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以 降の体系的港淑 ・排水計画に もとづ く運河開発の 輸 出 米生産拡大 に果た した役割 が中心的に論 じられてい る。Ra
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運河開削にその端諸を もち, オ ランダ人技師Vande
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の招碑 と農務省運河局Kr
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の設 置によ って基礎が つ くられ,後 に港翫局Kr
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の手 によ って展開をみた近代的な体系的濯蔽 ・排水計 画の進展は,た しかに運河開発 における画期的意味を もつ ものであ った。I
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は, かか る 体系的な事業が展開す る以前においては,国家の耕地拡大,港概工事など- の関心は比較的低か った としているが,4)はた してそ うであろうか。運河開発 におけるこのような見解 はCr
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などのタイの地誌的研究 において も同様である。 体系的な 運 河 開発 に先行す る伝統 的な確淑技術や伝統的運河の存在 に言及 してい るものの, それ らの もつ地理学 的な意味, さ らにはCha
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デル タとい う地域の発展 の中で果た した役割は論 じられ ることはなか った。
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デル タとい う地域には固有の 発展過程が存在 したのであ り, 運河開発 もかか る地域の固有の論理の中で捉 え られなければな らない。 19世紀末葉か ら今世紀にか けての体系 的凍敵 ・排水事業 の展開は, それに先行す るデル タの伝統的な運河開発 を必然的な前提 とした 1) Credner(1935):pp.304-5. 2) ibid.:p.213;Fisher(1964):p.495. 3) Ingram (1971):pp.79-85. 4) ibid.:pp.80-1. 5) Credner(1935):pp.215-7. 6) Pendleton(1962):p.141. 15東南 ア ジア研究 11着l号 のであ り, それを捉 え ることな しに運河開発 に よる地域 の変貌 を国民経済 の発展過程 の中に正 しく位 置づ けることはで きない と考 え る。西欧植民地勢力の外圧 を直接 的契機 と して ひきお こ された タイ社会 の変動 は,それに対応す る主体 的諸条件 の検討によ って解明 されねばな らず,国 家 による生 産基盤の整備 としての運河開発 もそのよ うな視点か ら検討す る必要が あるだ ろう。 近年の ChaoPhrayaデル タの港概 ・排水 に関す る研究 は, 現在の農業開発 を中心に した富 士岡,海 田による一連 の研究,7)タイの経済発展 の中に位置づ けた Bhochana8)の研究 な どが ある。 また社会経済史的研究,農業経済学 的研究 としては,友杉,9)本 岡,10)によるす ぐれた論 考が あ り,地理学 の分野では Hubbard,R.Ⅴ.ll)による運河開発 の歴史地理的研究,Nelson, C.R.12)による水運の研究 などがみ られ る。 友杉 の一次史料による濯概 ・排水 開発 の社会経済史的研究 は,デル タの自然地理学 的分析 を 背景 と して運河開発 の展開が経済 の発展段階 の中に位置づ け られ,歴史地理学的研究への示唆 に富むア ウ トライ ンを描いた もの として高 く評価 されなければな らない。13)また本間は 農業生 産の基盤条件 として港翫 ・排水 によ る水利条件 と交通 ・市場条件 をあげ, と りわ け末端水利 と 協同組合 との関係か らタイ農業 の現状分析を行 な って いる。 この基盤条件 を構成す る水利条件 と交通条件 の検討 は,19世紀後半 の運河開発 の研究 において も中心的な分析方法 とな ると考 え られ る。 以上 のよ うな成果 をふまえつつ,小稿 においてはタイ史料 を中心 と しなが ら,交通手段, と りわけ水運 の発達 と耕地面積拡大 を通 じた生産力発展への契機 とな った運河開発 の展開過程 を 追求 し, この地域の変貌 を解 明 したい。
運河開発 に関す る史料 として は,すでに,ChaoPhraya
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ongsanupraphat(Na主Phonlaek)によ る 『農務省史』RdangPrawatKasuang Kasettrathikan (1st・ed・1910
,2
nd・ed・1941 A.D.)14)の中においてAyutthaya朝以来,五世王治世 にいた る主要運河 記 事が簡潔 に 整理 され てい る。典拠 とした根本史料 は,主 と して王朝年代記 ,四世 王,五世王治世 の法令な どであ るが, 年次や運河規模,耕地面積 な どを示す数値 には誤 りが多 く,無批判的な史料 の採択 に もとづ く 混乱 が認 め られ,その利用にあた って は根本史料にたち返 って検討す る必要がある。Hubbard によ る運河開削事例 の整理 も, 多 く 『農務省史』 の記事 に依拠 してい るが, そのよ うな基礎的 7)富士岡(1966):pp.123-36;富士岡(1967-a);富士岡,海田(1967):pp.138-66;富士岡 (1967-b):pp. 135-45. 8) Bhochana(1961). 9) 友杉(1966):pp.147-56. 10) 本間 (1966):pp.9ト130. ll) Hubbard(1967). 12) Nelson(1967). 13) 同者著によるタイの土地制度史の研究もデルタ下流部の開発にともなう土地所有の変化を捉え る隙 き わめて有益である.友杉 (1967):pp.61-115. 14)P.K.K.:pp.125-61田辺 :Chao Phr.ayaデル タの運河開発に関す る-考察 (J)
作業 の欠如 と,不 的確 な地 名比定 が認 め られ る。 したが って小 稿 に おいて は,年代 記 Lとて は,
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王朝年代 記』Phr
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の諸刊本,15)お よ びChaoPhr
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親 王 に よ る『Ra
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王朝一世 王,二世 王 年 代記』PAr
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王朝 三世 王,四 世王年代 記』PAr
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17)な どの テキス トを使 用 して検討 す る。 ま た四世 王治 世に関 して は 『史料集成 』 巻25
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所収 の 『四世 王治世 にお ける建造物』Ru
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18)と比較 して検 討す る必 要 が あ る。 四世 王以 降 にお いて は,
『年 次別 法令集
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h19)に収 録 された 運河 開 削, 改修,管 理, お よび沿岸 の土 地 所有 に関す る諸法 令 の検討 が必須 で あ る。Ba
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の国立古文書館 は五世 王治 世の政府 各 省 の 一大史 料群 を 収 めて い るが,20)この時 代 の運 河開 削に関す る史 料 は, 農務 省 運河局 文書59フ ァイル(
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9.2/59)を中 心 に, 内務省 お よび建設 省文 書 フ ァイル に収 め られて い る。 と りわ け運 河局文書 は,Va
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を招蒋 して1903年 に設 置 された運河局 に よ る一連 の液概 ・排 水事業 の文書 を中心 に収 録 されて い るが,Ra
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暦107年 (1888A.
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に まで遡 る多 くの運河 開 削許可 の 申請 を め ぐる文書 を も含 んで い る。 小稿 は これ らの運河局文 書 と農務省 土地局Kr
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文 書 の若干 に つ いて も検討 を加 え る。 ま た地 図 に関 して は, タイ国陸軍地 図局 に よ る1910年 代 の調査 に もと づ き, 1950年代 に改補編蒸 された1/5万 地 形 図 を中心 に,アメ リカ空軍 に よ る1/25万 地 形 図 な ど も使用 した。 ITChaoPhraya
デル タの 自然環 境 1.Cha
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デル タ上 流部デ ル タ上流部 とは,
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か らCha
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本流 を中 心 に そ の 分 流 河 川Supha
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諸河川 の流域 で, ほぼAyut
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近 郊 までの地 域 を さす。高谷 21)15) p.p.K.A,①;p.p.K.A.動 p.p.K.A.③;P.P,K.A.㊨.①および⑧はKhurusapha版 『Ayutthaya 王朝年代記,北方年代記』全2巻,Bangkok,1961所収のテキス トを用い,③,④ に関しては, それぞれ 1964年,1971年のKhlangWitthaya版の 刊本テキス トを用いる0 16) p.p.K.A./,/).KhlangWitthaya版 (1962)を使用。 17) p.p.K.a.Ill,ZV.KhlangWitthaya版 (1963)を使用. 18)p.p.25.『史料集成』巻25のこの一編に関 して,Wenk,K・は四世王自身の執筆であろうと推定 してい るが,後代の者による補注が付加されている。Wen坂(1962):p・246・ 19) P.K.P.S.
20) Bangkokにおける未刊行文蕃史料の所在の概略についてはWyat上,D・,Wilson,C・によって 紹介され ている。Wyatt,Wilson(1965):pp.105-18・
21) Takaya(1971):pp・375-97・
東 南アジア研究 11巻1号 によ る地 形分 類に したがえば,古デル タ地域 とよぶ海抜 5-20mで南北 の傾斜,起伏 も比較的 あ り分流水 路が密 に発 達 した地域 が大半 を 占めてい る。 自然堤防 は極 めて よ く発達 し, その後 背湿地 では氾濫水が深 く長期 にわ た って湛水す る部分 が連鎖 して連 な って い る。 自然堤防間 の後背温地 に展開す る水路網 にそ って耕地 が広が ってい るが,今世紀 の体系的港 概水利事業 が展開 され る以前 において は, 耕地 もか ぎ られた低湿地 に しか分布 して い な か っ た。22)これ らの水路網 の うちには, 自然 の分流水路以外 に人工的 に掘 削 された と推 定 で きる小 規 模 な運河水 路が認 め られ る(Fig.2)。小規模 な運河 は, 多 く河川沿岸 の 自然堤防 を横切 って 後背湿地 に向か って お り, 自然 の水路 や沼沢 を掘 りつないだ と考 え られ る もの も存在す る。 こ れ らの小 運河 の開削 の時期 は定かではないが, 自然堤防列一後背湿地 とい う地形 の起伏 のパ タ ー ンに よ って規定 され る水稲耕作 の可耕地 を拡大す るた めに掘 削 され た と考 え られ る。 自然堤 防 の発 達 した河川沿 いには,連続 して 切 れ 目のない列状水 路村23)が展 開す るの も古デ ル タ地 域 の集落形 態 の特徴 で あ り, その背後 の水 田にのび る小運河 とともに, この地域 固有 の景観 を 構成 してい る。
この地域 の都市 的集 落 (中心集落) ともい うべ きAyutthaya,Suphanburi,Singburi,phr
0-mburi,Inthaburi,Angthongな ど も主要河川 沿岸 に立地 し,歴史 的に も古 く,Ayutthaya朝 の畿 内の第
4
級 国 HuamBangChattawaの うちに含 まれて い る.24)2. ChaoPhrayaデ ル タ下流部
デル タ下 流部 はAyutthaya付近 か らシャム湾 沿岸 までのほぼ 5m以下 の低平 な地域 を さ し, 高谷 の地形分類 に よ るデル タ徽高地 ,デル タ低地 が大部分 を 占め る(Fig.1)。この地 域 は過去数 千年間 の堆積 によ って シャム湾 か ら生 じた といわれてい る。25)その うち,Bangkokを中心 に 西方 は ThaChin河西岸 NakhonChaisi付近 まで, 北方 はChaoPhraya河 に沿 って Non-thaburi地方 まで,東北方 は RangSit運河地域南端 まで,東 南方 は BangPakong下流西岸
まで ひ ろが る海抜平 均 3m,所 に よ り5mに達す る地域 はデル タ徽高地 に分 類 され る。 デル タ 徽高地 の一部 は古沿海州,古汀線 な どにあた る部分 だ と推定 され,周辺 のデル タ低地 よ りも約 1m高い。起伏 は緩慢 で あ るがデ ル タ低地 よ りはあ り, 支 流 ・分流水 路 も後者 よ り は 密 で あ る。したが って後者 に くらべて湛水 は比較的浅 く,排水 も比較的 早 く行 なわれ るといわれ る。26) 一 方,デ ル タ低地 に分 類 され る地域 は,2m以下 の低温地 が大部分 を 占め, 起伏 はほ とん ど 存在 しな い。 また この地域 のデル タ表面 は地形 的に きわ めて不安定 で あ るといわ れ る。広大 な 22)ibid.:pp.384-6. 23) Sternstein(1965-b):pp.30-i. 24) 田辺 (1972):pp.247-51.
25) Smyth(1898)Vol.1:pp.54-5;Takaya(1969)‥p.24.Bangkokで行なわれたボ-リングによると,砂 利は砂および粘土の互層が125mまで続き,未だ基盤に達 しなかったといわれる。Credner(1935):p.37.
田辺 :Chao Phrayaデル タの運 河開発に関する-考察 (1)
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OldDeltaandFan-TerraceComplexArea Accesscanals
1・・Ayutthaya 2:Pathum Thani 3:Nonthaburi 4‥Bangkok
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.・SamutPrakan 6:Chachoensa0 7:NakhonPathom 8:NakhonChaisi 9:SamutSakhon 10.・Ratburi ]1:SamutSongkhramFig.I PhysiographicRegionsand Trunk CanalsintheLowerPartoftheChao PhrayaDelta;modi丘ed from TAKAYA (1971):p・390・
沼沢 や荒蕪地 が展 開 し,特 に臨海地帯 にはマ ング ローブやニ ッパヤ シな どが群生 し,塩水 の影 響が強い。 下流部 におけ るデル タ低地 の 分 布 は,Ⅰ∋angkok東北方 のRangSit運 河 地 域,
pathumthani西方地域, およびデル タ徴高地 とシャム湾 との間の臨海地帯 にみ られ る。27)
下流部における居住 の歴史 は きわめて新 しく,本格的な開発 とェクメ ネの展開は19世紀中葉
の ボー リング条件
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5A.
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による自由貿易の開始 を契機 とす る米穀生産の拡大 を通 して行 なわれ る。 それ以前 の Ayutthaya朝 か らRatanakosin朝初期 の この地域 における 中心集落 揺,主要河川 の沿岸 な どに散在 し,港津 としての機能 を もった と考 え られ るが, その背後の広 27) 2'bid.:pp.387-8・東 南 アジア研究 11巻1号 大 な低湿地 は未開発 のまま放置 されて いた。 それは第- に,主要河川以 外 に船舶 の航行可能 な 交通路が欠如 していたか らで あ り, また氾濫水 を効果 的に水 田に導水 し,排水す る運河水 路が 欠如 した場合,水稲耕作 は不可能 で あ ったか らで あ る。28)
1
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世紀 中葉 には じま るこの地域 の運河開発 は,先ずBa
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を中心 と して東西 の主要河川 を結合す る幹線運河 の開 削によ り内陸水運 の体 系を完成 させ て い くが, その地域 はほぼデル タ 微高地 に一致す る。 そ して最後 まで荒蕪地 として残 されたデル タ低地 において は,1
9
世紀末以 降によ うや く運河 開発 が着手 され る。運河開発 の展 開過程 は, このよ うなデル タの 自然琶境 に 強 く規定 されなが ら進行 して い ったので あ る。以下,Ayut
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朝以 降 の運河開削の事例 につ いて,具体 的な史料検討 に もとづ いて逐次 明 らかに し,運 河開発 の展開過程 を追求 す る。m
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朝初 期の運河 開発1.
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朝 (1350-1767A.
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朝 の農業生 産 の基盤 はデル タ上流部 に置かれていた と考 え られ るが, この地域 に おけ る運河 開削の記録 は きわ めて少 ない。 しか し河川か ら自然堤防 を越 えて 後背湿地 にいた る 小運河 の存在 は,地 形 図上 に多 く認 め られ, その開削 目的 は氾濫水 を水 田に導 くた めの液概水 路 であ った と推定 され る(
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2)
。これ らの無数 の小運河開 削の記録 は,Ayut
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史料 と して の『
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王朝年代記』 には,ほ とん ど見 えていない。 いま,地形図上 に認 め られ る小運河 が後 の あ る時期 の掘 削 による とい う可能性 を排 除す るな らば,Ayut
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王朝 の中央政府 の 記録 を伝 え る年代記 にあ らわれない点 は, これ らの掘 削工事 が国家 の事業 として行 なわれたの ではな く, む しろ村落 の農民 レベル で展 開 された ことを示 唆 して い ると考 え られ る。29)かつてCr
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30)はデル タ全域 の運河水路地割 の形態発生学 的検討か ら, 国家事業以外 の農民によ る 開削運河の例 と して この地域 の曲流す る小運河 を あげてい る。 しか しそれ らとて も何 らかの国 家 の関与 が あ った と考 え られ,Ayut
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史 料 の 一 つ で あ る 『三印法典』Kot
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(「官 印法」 1743A.
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成立)には次の よ うな一節 が見 え る。31)「水天神 phraPhirunが龍王の背にまたがっている模様の印璽は,水田に水を汲み入れる時, もしく はB屯ngBangや運河を掘削し (水田に)水を引 く場合に用いる0--
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」
この印璽 は当時 のKr
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(農務省) の官印 の一 つで あ り,沼沢 を掘 りつ ないだ溝渠 と推 定 され る1
3
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や32)小運河 を掘 削 して濃翫す る場合, 国家 の許可 が必要 で あ った こと 28) Bowring(1857)Vol.1=p.8. 29) 高谷助教授の御教示によれば,これ らの 「小運河」は既存のデルタ分流水路の通水性をよくした程度の ものであり,いわば古い分流の川ざらえともいうべき性格のものだといわれる。 30) Credner(1935):p.217. 31) K.T.S.Vol.1:pp.147-8.32) BradleyはB包ngは荒蕪地の中の水の流れない大きな水路Khlongだとし,跳 ngBangはそれ らの小 さなものをさすとしている.Bradley(1873):p.360.
田辺 :Chao Phrayaデルタの運 河開発に関す る-考察
(I
)
====記 R'verchc'nnelo「cc,noI K :Channelwhich thenameofKuo71gCan - Roc]d beshown on thetopographicalmap. ・・.一.・- RoILvvoy A :TheKhおNacanal
BB v川oqe,■ncJud-nqruns B :Old palace :: RicefleFds
タイ国陸軍地図局1915年調査,1953年改補, 1/5万 地形図 Ayutthaya図幅よ り作成。 Fig.2 SmallCanalsand City-moatsofAyutthaya
を思 わ しめ る。33) このよ うな港 砥用 の小運河以外 の
Ayut
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朝 の運河 を特徴 づ ける ことは, 先 ず ほ とん ど すべて の運河開 削 ・改修 が 国家事業 と して展 開 され, 総奉行Ma
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の 監督下 に お い てphr
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(篠役農民) を動員 して行 なわれ た事 であ る。 そ して運河 の形態 ・機能 に したが って,都 市環 濠 運河 ,短絡運河Khl
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,横 断運河 のはば三つ に分 類で きる。 a) 都市環濠 運河一 般 に
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遷都 の時期 に は,す でにCha
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33) Ayutthaya朝にあっては, 国家による液淑水路等に関する水利規制はさして 厳格なものであったとは
考えられない。『三印法典』所収の 「雑律」phraAyakanlietset28,29,30などに見える,他人の水田か ら水を盗んだ場合の罰金の規定などが,わずかにその一端を示すものであろう。K・T・S・Vol・2 :pl209・
東 南 アジア研 究 11巻1号
諸河川 の合 流地 点付近 に堤濠 囲郭 を備 えた王都 が完成 をみた とされて い る。34)そ の 後 の 王 都
の環濠 運河 に関す る 記事 は 『Ayutthaya王朝年代 記
』
に は少 な くとも二 つ あ る。35)す なわ ち『LuangPrasoet本』 の小暦942年 (1580A・D.)の条36)に 「王都 の城壁 を倒 し, 河 川沿岸 に移 して建設 した
。
」 とあ り,『PhanChanthanumat本』 の小 暦932年 (1570A.D.)に は,37)城壁 を河川 沿岸 に移 し,城 砦 を設 けて 囲郭 を完成 させ た後, 「東 方 の KhdPhranakhonの地 域 に, 以前 の水 路 よ りも幅 広 い水 路 を掘 削 させ た。 -・-」 とあ る。両本 の年 次 の異 な りは, いまは問 わな い と して, 少 な くと も16世紀 に おいて3河 川 と KhdNa運 河 に 囲 まれた Ayutthayaの プ ランが完 成 をみ た と考 え られ る(Fig.3)。この よ うな城壁 ・城砦 な ど軍事 的設 営物 と onesetとな った 都市環濠 運河 の 開 削 の 例 は,
IJOpburiな どデ ル タ上 流部 の都市 に もみ られ,38)Ayutthaya朝都市 の固有 の景観 が 形 成 さ れ たので あ る。 b) 短絡 運河 KhlongLat Ayutthaya中期以 後 ,外 国貿 易 の発 達 とと もに王都以 南 の下 流部 に お け る港 津都市 の重要性 が増大 す る。 また ChaoPhraya本 流 の機能 も,船 舶航行 にお け る王都 とシャム湾 を結 ぶ幹線 水 路 Lとて の性格 を おび るよ うに な った と考 え られ る。 そ のた め ChaoPhraya河 の曲流部 を 短絡 させて航 路 の短縮 をはか る短絡 運河 の掘 削が しば しば行 なわれた。大規模 な開 削事例 は少 な くと も10以 上 を数 え,Ayutthaya朝 の運河 開 削事業 の大半 を 占めて い る。 これ は, いわば 人工 的 な河道 をつ けか えに よ る交 通手 段 の合理 化 を追 求 した もの とい え る。 この種 の運河 開 削
は, 『Ayutthaya王朝年代 記』 に よ るか ぎ り, す べて ChaoPhraya河 下 流 部 で,Pathum Thani以 南,phraPradaeng(NakhonKhnankhan)問 の メア ンダー部分 にか ぎ られて い る. 工事 に よ る河道 の変遷 は, タイ史 料 のほか に,Hagueの 国立中央 文書 館所蔵 の ChaoPhraya
流 路図 (1987-8)39)を は じめ,DelaLoubとre(1691A.D・),F.Valentyn(1726A.D.),E.Kae一 mpfer(1727A・0・)な ど欧人 の流路 図 に おいて確認 す ることがで きる。Tablelは これ ら流路 図 の リス トで あ り,Fig.3は これ らの史 料 の検 討 に よ って短 絡運河工 事 の概要 を示 した もので あ る。これ らの うち Tret Noi運河 につ いて年代記 の記事 を一 例 と して 検 討 して み る。『phra Pramanuchit本』 には次 の ど と くで あ る。40) 34) Boranratchathanin(1963):p・6,footnote2;Sternstein(1965-a)‥pp・88-90;Sternstcin(1960-t'):pp. 211-20. 35) Wood,W.A.R.は1550A.D.Chakraphat王の時,以前の土塁を倒 して煉瓦で城壁を建造 したとしてい るが,琵濠については記 していない。Wood(1926):p.114. 36)p.p.K.A.(手Vol.1:p,151. 37)p.p.K.A.@ :p.134. 38) Narai王が一時王都をIJOPburiに移 した時の環濠運河の開削などoP・P.K・A.② Vol.2:p.95. 39) 同文書館所蔵史料に関してはMeilink-Roelofzによる紹介がある。Meilink-Roelofz(1965):pp.167-84.
40) p.p.K.A.②Vol.2:p.219.TretNoiは最近の 『Chetphon寺Phanarat憎正本』の刊本ではKretNoi
と記されている。p.p.K.A.④ :p.595.『農務省史』の記事においては小暦1048年としているが,これは 明 らかに誤写であろう。PK.K.:p.130.
田辺 :Chao Phrayaデルタの運 河開発に的する-考察 (1)
Table 1 ChartsoftheLowerPartortheChaoPhrayaRiver
1) "KaartvandeRiviervanSiam,vandeZeetota且nStad Siam ofteJuden,"1687-8,(Loeupe No.267,GeneralStateArchives,the llague), a facimi le isin the Siam Society's mapcollection.
2) DelaLoub占re,"Cartedu CoursduMenam du PuisSiam jusqu'alaMer,Copieden petit -d'apresunefortgrandefaitteparMr.delaMarelngenieurduRoy
,
"
from:DelaLoubとr
e,
DuRoyaumedeSiam,Tome 1,Amsterdam,1691.3) Ⅹaempfer,Engelbertus,``MappaMeinam,FluvijAdOring・Eng・Kaempferdelin I.G.S.,〟 from:Kaempfer,F・・,T/leHi∫loryofJaPa7l,togetherwithaDe∫-iZionofzAeKzlngdom ofぷ●am,tr.Scheuzer,vol.1,London,1727.
4) Valentyn,FranGOis,"DeCrooteSiamse,RievierMe・Nam ofteMoederderWatereninharem loopmetdeinvallendeSpruytenVerbeeld)Hfrom:Valentyn,F・)BesrhrJ,mugvanDuden
N2'ew Oo∫/・Zndign,Tom.Hl,p.ⅠⅠ,No.35,Dordrecht,1726.
5) Mare,M.de la ing6nieurdu Roi,"Carte du cours de M昌一nam depuis Siam jusque' alamercopleeen Petitd'apresunefortgrandefaiteparMr・dela Marelngenleurdu Roi,"from:Fournereau,Lucien了`LeSiam Ancien日,Am aZe∫`fuMu∫eeGuimcf,Tome vingtParis,1895.
「寅年第4年,王はphraThonburiを総奉行に任 じ,南部諸国の民部の民1万を徴発し,屈曲して迂
回しているBang 】∋ua Thong運河ljの曲流部に短絡運河を掘削して 直線とせよと御命 じになった。 phraThonburiは命に従い南部諸国の民1万を動員し,深さ6sok(3m),幅6wa(12m),全長 29sen (1.16km)の TretNoi運河を1カ月余で開削させた
.
A
寅年第4年 は小暦1084年 (1722A.D.)と考 え られ るが,Kaempfer図 は もとよ り, De la Loubとre図, さ らには1687-8年 の Hague国立中央文書館 図に さえ もこの運河開 削跡 が 確 認 で きる。 しか も年代記 の記事 に見 え るTretNoi運河 の規模 につ いては, 1910年代 調査 の1/5万 地形 図上41)で計測す るか ぎ り, ほぼ一 致 して い る。 したが って記事 は この 運河 につ いて語 っ て い るに もかか わ らず,掘 削年次 は少 な くと も1687年以 前 に求 めな ければな らない。 しか しこ の運河掘 削を示 す, あ るいはそれを暗示 す る記事 は他 に見 ることはで きない。Damrong親 王 および 『Nakhon KhBankhan史』 の著者 らは42)この記事 を誤 りと して,南方 の PhraPra-daeng近郊 の短絡 運河 LatPho運河の掘 削を示 す ものだ と して い るが, 記事 内容 が TretNoi
運河 に一致 して LatPho運河 に一致 しないか ぎ り, その根拠 は薄 弱 といわねばな らない. し たが って ここでは,年代記 の記事 は TretNoi運河 開削を反映 して い るが, その年次 は1687年 以前 と推定 し,年代 記編第 時にお ける攻究 を予想す るに とどめ る。
南 部諸 国 とは当時 の畿 内の うち Ayutthaya以 南 の第4級 国を さす と考 え られ, 比較 的工事 現場 に近 い数 カ国のPhraiの篠役労働力 が動員 され るのが通例 で あ った。これ らの短絡運 河は, 時 と して主流河道 に変化す る場合が あ り,Fig.3に見 るどと く,ChaoPhraya下流 の流 路 は大 きな変遷 を とげてい ったのであ る。 短絡 運河や旧主流河道,支 流 ・分 流水路 な どが複雑 にか ら 41) 459/4-47Nonthaburi県図幅。
42) Sang(1961):pp.7-8.
東南 ア ジア研究 11巻1号
Fi虫.3 Short・cutCanalsand Old TransverseCanalsinAyutthayan Period
み合 うPathum Thani,phraPradaeng間の水路は, おのずか ら一つの体系をな してい る。 こ の運河体系は,後述す るどとく下流部の水運 の発達す る過程で Bangkok と東西 の諸河川を結 合す る幹線運河 とを接続す る役割 を果 たすのである。
田辺 :Chao Phrayaデルタの運 河開発に関す る一考察 (I) C) 横 断 運 河 短絡運河 と同様 に船舶航 行 を 目的 と した 運河 で あ り,年代記 には
Sa
mr
ong
運河(
Fi
g.3
)
(
K
l,以 下運河開削事例 には運河番 号を付 し, 図中に もその番号 を入 れた O) とMa
ha
c
ha
i
運河(
K 2)
の2
例 を見 る ことがで きる(
Fi
g.
4)。 いずれ もその水路 は下 流部 の臨海地帯 のデ ル タ低地 をBangkok
付近 か ら南東方,南西方- と走行て しい る。 当時 はほ とん ど居住す る者 もなか った荒 蕪地43)を貫 通す る これ らの運河 は具体的 にいか な る機能, 目的を もち, いか に 掘 削 されたので あ ろ うか。Sa
mr
ong
運河 につ いて年代記 は,Ayut
t
ha
ya
朝初期Rama
t
hi
bo
di
二世 の治 世 小暦860年(1498
A・
D・
)
4
4
)
にすでにBangkok
東 南部 にSa
mr
ong,Tha
pNang
な どの運河が存在 した こ とを記 してい る。そ して これ らの運河 の水路床 が浅 くな り大型船 の航行 に支 障 を きたす ので調 査 して掘 削 して い る。Sa
mr
o
ng
運河 はその水路地 割 をみ るか ぎ り, 明 らか に既存 の分流水路 を利用 し掘 りつ ないだ もの と推定 され,掘 削工事 と同時 に汝深 ・改修工事 も行 なわれて いた ことを示 して い る
。Sa
mr
o
ng
運河 の水路 は曲流 しなが らBa
ngPa
ko
ng
河 口付近 に達 して お り,Cha
oPhr
a
ya
とBa
ngPako
ng
両河 を結合 す る横 断運河 と して機能 した と考 え られ る. 同様 の機能 は西方 のMaha
c
hai
運河 につ いて もいえ, その 日的, 掘 削作業 の実態 もよ り明 らか と な って くる。そ して運河の形 態 もSa
mr
o
r
唱
運河 と異 な り,直線水 路 の掘 削が計画的 に追求 さ れ る(
Fi
g.
4)。年代記 の小暦1066年 (1704A.
D.
)
には次 のよ うに見 え る。
4
5
)
「そこで PhrabatBoromabophitPhraPhutthaChaoYuhuaは, そのKhok Kham運河がきわめて 屈曲しており,人々が船で往来するのに困難であり,多 くの砂州を迂回していかねばならず, もし距離
を短縮する直線水路を掘削すれば, 人々は喜ぶであろうと御考 え になった。---しかる後,Samuha
Nayok(民部卿)にKhokKham運河掘削のために3万人を諸国か ら徴集 し,深さ6sok(3m),上部幅
8wa(16m),底幅5wa(10m)の直線水路の掘削を御命 じになり,phraRatchaSongkhram を総奉行
として諸国の民を指揮 し,勅令に遵わず運河掘削を完了せよと命 じた。」
さ らに王 は居並 ぶ大 臣, 高官 を前 に して,歴代 の諸王 の運河掘 削の事跡 を語 り
,KhokKha
n
運河掘 削事業 を 自 らの生涯 の栄 誉で あ る と認識 したのであ る。46)
No
nt
ha
bu
ri,Tho
nbur
i
,Na
kho
nCha
i
s
i
,Sakho
nbur
i
,Sa
mutSo
ngkhr
a
m,Phe
t
bu
ri,Ra
t
-bur
i
,Sa
mutPr
a
ka
n
な ど, い ずれ もデル タ下流部 の諸 国8
カ国よ り徴発 したPhr
a
i3
万余 をきず け られた
phr
aRa
t
c
haSo
ngkhr
a
m
は,「
Sakhonbur
i
河(
ThaChi
n
回) まで貫 通 させ ん と し,340s
e
n
(13.6km)
の道程 を測量 し, 外 国人 に望遠鏡 でのぞかせて直線 を ひき, 杭 を 立 てて隊 に したが って(
Tam Mua
tTam Ko
ng)
掘 削の持 ち分 を分 担 し, さ らに運河 の規模 に43) DelaLoubbreは17世紀末葉において,臨海のこの地域にはほとんど住民はいなかったと記 している. DclaLoubをre(1691)tomeI:pp.7-8. 44) p.p.K.A.@ Vol.1:p.48. 45) ibid.:p.204・ 46) ibid.:p.205. 25
東南 ア ジア研究 11巻1号
づ
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寸 .8 ! & 26田辺 :Chao Phrayaデル タの運 河開発に関す る一考察 (I)
したが った幅,深 さで一人分 の持 ち分 の長 さを分担 した.」47)
翌年(1705
A.
D.
)
着工 した この運河掘 削は,phr
aPhut
t
haCha
oSda
王 の死 によ り半途 に て中断 し, 十数年後 の小暦1083年 (1721A.
D.
)ThaiSa
王の治世 に3万 のPhr
a
i
を 動員 し,2
カ月余 でThaChi
n
河 口に貫通 した。48)このKhokKha
m
もしくはMa
ha
c
ha
i
とよばれ る直線運河 は,す でに存在 した
Cha
oPhr
a
ya
河の曲流す る分流水路 と接合 し,ThaChi
n
河 口 のSa
kho
nbur
i(
Sa
mutSakhon)
にいた ってい る(
Fi
g.4)
。地形図上49)で は, この運 河 はま った くのニ ッパ ヤ シの密林地帯 を横切 って走行 して いる。 この運河 は,明 らか に東方の
Sa
mr
o
ng
運河 とと もに横断運河 として船舶航行 をのみ 目的 と した交通路 であ った と考 え ら れ る。Cha
o
Phr
a
ya
河を中心 と して,東方 のBa
ngPa
ko
ng
河 口,西方のThaChi
n
河 口を結合 した これ らの横断運河 は, 王都Ayut
t
haya
か ら両河 口および沿岸 の地 方国支配のた めの重要 な交通路 で あ った と考 え られ る。 2.Ra
t
a
na
kos
i
n
朝初期 (1782-1851A.
D.
)
1767年 の
Ayut
t
ha
ya
朝滅亡後, ビルマ軍を駆逐 してTho
nbur
i
を一時王都 と し,Ra
t
a
na-kos
i
n
朝 は1782年 にBa
ngkok
に遷都 した。Ra
t
ana
kos
i
n
朝初期, とりわ け一世王,二世王治 世 における運河 開発事業 の展 開は, 以前 のAyut
t
ha
ya
朝 のそれ と大 きな変化 はみ られない。 運河の形態 ・機能 も軍事的防衛機能 と しての王都 の環濠運河や,水運の合理化 をはか る若干の 短絡運河などが ひきつづ き掘 削され る。Ra
t
anakos
i
n
朝初期 においては運河 開 発 は ま った くAyut
t
ha
ya
朝 の伝統 を踏襲 したかた ちで進行す る。 a) 都市環濠運河Ba
ngko
k
の環濠運河開削については,『
Ra
t
a
nakos
i
n
王朝一世王年代記』,小暦1145年 (1783 ア人 を動員 して掘 削 され, 旧嘉Ayut
t
haya
と同様 な環濠 囲郭都市が建設 された ことが記 され てい る.堤濠 囲郭 の内部 には二本 の運河が掘 削 され, そのプ ランも整備 されてい く(
Fi
g.5
)
0 さ らに-本の運河水路が環濠 よ り東行 して開削 され,次の どと くある。51) 「またさらに一本の大きな運河をSakae寺の北側に掘削し,Mahanak運河という名を賜わった。こ の運河は,往時の旧京Ayutthayaにおけるがどとく,雨期の国家の儀典において, 都の人民が船を駆 って集まり楽や詩を演 じるためのものである。-=-」Ma
ha
na
k
運河(
K 4)(
Fi
g.5)
は都市域か ら東方 の交通路 を開 くためで あ った と考 え られ る が,失われた旧京Ayut
t
hay
a
の栄光 を回復せん とす るRa
t
a
na
kos
i
n
朝の理念 は, このよ うに47) ibid.:pp.205-6. 48) ibid.:pp.218-9.
49) 530/4-47SamutSakhon図幅,531/4}17BanHuaKrab包 囲幅0 50) p.p.K.A.),IJ.:p.68.
51) ibid.:p.68.
東南 アジア研究 11巻1号 王都 の運河プ ランの上に も反映 しているのであ る。 b) 短 絡 運 河 Ayutthaya朝において航路の短縮 を企図 した短絡運河の うち把は,王都の下流部への遷都に よって,それ らの もつ機能 に矛盾が生ず る場合があったO例 えば Bangkok か らさ らに下流の 大曲流部の航路を短縮 したLatPho運河 (K 5) は満潮時における潮流によって幅が拡大 し, Bangkok 付近にまで 塩水が達 し, 周辺の耕地 に 被害が発生 した といわれている (Fig.3)0 そのため, 一世王は小暦1146年 (1784A.D.
)
, Ayutthayaの廃虚の城壁 を倒 して煉瓦を船で運 び,堰 を築 いて これを遮断 している。52)C) 運河開発 の変化
Ayutthaya朝以来の運河開発 の内容に変化が あ らわれ るのは,三世王治世 に入 ってか らであ る。先ず第1に以前よ り軍事的側面が運河開発 と密接な関係 を もつよ うになった点である。第 2に,Phraiの格役義務にかわ って課役代 KhaRatchakanの代金納が進展 し,53)運河開削工
事には不安定な徳役労働力にかえて安価な華僑労働力が導入 されは じめた点である。 河川 ・運河水路の もつ軍事的機能 は,軍団輸送,主要な水路拠点の防衛 とい う点で古 くか ら 重要であ った と考 え られ る。54)とりわけマ レー半島部へは対 ビルマ, 後 には英植民地勢力 との 対決か ら,また コラー ト高原およびメ- コン中流域の ラーオ系土侯領域の経営のため, さ らに はカンボジア経営をめ ぐる安南 との対決は,迅速 な軍用 ・物資の移動が要請 された。同時に拡 大す る財政支 出に見合 う課役代や諸税 の徴収を円滑 に首都 に集中させ る交通手段を保証す る必 要があった。55)このよ うな軍事的な, また財政収入拡大の要請か ら,首都近郊の河 口や既存運 河の防衛拠点の強化 さ らにデル タ下流部の東西の主要河川を結合す る横断運河の整備 ・開削 が実現 してい った と考 え られ る。
河 口地方国 HuamaangPaknam とよばれ る Chao Phraya,ThaChin,Maeklong など主 要河川河 口の要衝を占める港津は,古 くAyutthaya朝以来,Kromatha(港務局)所轄の交易 の中心地 として重 きをな した。 しか し同時に城砦都市 としての機能を備え
,1
9
世紀に入 って以 降, その近郊 の河岸に墜塁を築 き軍団を配 して防備をかためて きた。 このような河 口地方国の 城砦都市の典型は Ayutthaya朝初期の PhraPradaengであ り,ChaoPhraya河の堆積 によ る河 口の陸化のため,17世紀初頭,phraChaoSongtham 王の時代 には,phraPradaeng を 廃 して さ らに南方 の東岸 に SamutPrakan を建設 している (Fig.4)0二世王治世小暦1176-8年 (1814-6A.D.)には, SamutPrakan と首 都 との 中 間 で, 元 の 52)ibid.:pp.79-80.
53)石井 (1968):pp.51-2;友杉 (1966):p.152. 54)Wales(1934):pp.229-30.
田辺 :Chao Phrayaデルタの運河開発に関す る-考察 (l)
phr
aPr
adae
ng
の対岸 に さ らに新 たな 城砦 都市NakhonKhBa
nkha
n
を 建設 し,56)Pa
t
hum
Tha
ni
の モー ン人 の壮丁3
00
を移 住 させ て守備 に当 た らせ て い る。 また小暦1
1
81
年(
1
81
9A.
D.
)
に も
Sa
mutPr
aka
n
に多 くの隻 塁 を建 設 した 記事57)が あ る. これ らは す べ てChaoPhr
a
ya
河水 路 にそ って首都 を防衛 す る拠 点 で あ ったが, しだ いに既存 の運河 の要 衝 に も墜塁 が配 置 さ れて い く
。ChaoAnu
反 乱鎮圧後, 『三世 王年 代記』仏暦2
31
0
年(
1
829A.
D.
)
の条 には次 の ように見 え る。58)
「Sakhonburiにおいては,phrayaChod屯kRatchasetthi(ThongChin)に命 じてMahachai運河口の 側の沿岸に隻塁を建設させた。 しかる後,Wichian Chodok隻塁という御名を賜わった.華僑の漆喰 (pun)運搬賃金は
4
7
chang,1
5
tamlh g,3
baht,2
salBng,1
faang.Chao Phraya Maha Yottha 傘 下のモーン人一族をSakhonburi領内で生活させ, 壁塁守備隊長 の名 はLuang Phalomhima,Khun DechaChamnanを副隊長 とした。
」
Mahac
ha
i
運 河 口で あ り同時 にThaChi
n
河 口で あ るSakhonbur
i
は イ ンター チ ェ ンジの城 砦都 市 と して機 能 したので あ る(
Fi
g.4)
。 ここで注 目 しな けれ ば な らないの は, この壁 塁工事 が華僑有 力者 と推定 され る者 に命 じ られ, しか も華僑 労働者 が雇用 された ことで あ る。 これ は 年 代 記 で管見 す るか ぎ り, 華僑 労働者 が公共土木事 業 に雇用 され た最初 の事 例 で あ ろ う。59)こ れ以 後 , 運 河開 削 ・改修工 事 な どは, ほ とん どす べ てPhr
a
i
の徳役 に代 わ って 華僑 労 働者 を 投 入 して展 開 されて い く。年 代記 に は上 掲 の記事 に ひ き続 き,
Mahac
hai
運 河 にSakhonbur
i
で接合 し,臨海 のデル タ 低地 を西行 LMae
kl
ong
河 口Sa
mutSongkhr
a
m
に達 す る長距 離 の横 断運河 の中央 部分 を 構成 す るSunakHon
運 河(
K.
6)(
Fi
g.4)
につ いて次 の よ うにあ る。60)「しかる後,ChaoPhrayaPhrakhlang(大蔵卿)を総奉行に任 じてSunaklion運河を掘削させた。
ChaoPhrayaPhrakhlangは子細に調査 し,運河の直線箇所において水流が落ち合い,いたる所で底が浅
くなっており, もしその箇所に分岐運河を掘削して落ち合 う水を流出させれば,底が浅 くならないであ
ろうとの意見を述べた。そこで華僑を雇いあげ,その箇所か らPhoHak村近郊の平地に向けて一本の運
河を掘削した。しかる後,水牛の力を借 りて村民はその道河内を踏み捗 り,みなぎる水は急速に流れて深
くなり,今日にいたるまで底が浅 くなることがない。支払った華僑の掘削賃金は
1
0
2
chang,
4
tamlang, lsaldng,1faangであったOJSunakHon
運河 は, 掘 削年次不 明で共 に 自然 の水 路 を掘 りつ ないだ と推 定 され る二本 の曲 56) p.p.K.A
./,IZ.:p.5
0
5
.
57) ibid.:p・
6
9
2.
58) p.p.K.R.Il
l,JV.:p.9
2
.
5
9
) 1
8
2
4
A.D.の二世王の火葬の時に華僑労働者が雇用されたともいわれる。Skinner(
1
9
5
7
)
:
p・1
1
4
・また 『四世王年代記』においてほ,すでに二世王治世におけるNakhonKhBankhan背後のChaoPhraya河 の短絡運河掘削の時, 華僑労働者が雇用 されたと四世王の考えとして記 してある。 しか しDamrong親 王 『二世王年代記』 にはその際の華僑労働者雇用について言及 していない。 p.p.K.A.JI/,ZV・:p・
4
3
6;
p.p.K.R.),IZ.・・p.6
9
3
.
60) p.p.K.a.I
l
l,rV.:pp・
9
2
-
3
.
東 南 ア ジア研究 11巻1号 流す る運河 を結合 した もので ある。 満潮時に ThaChin河 と Maeklong 河 の双方 か ら浸入す る塩分 を含む水流が この運河部分で停滞 し, シル トを堆積 させて水路床 を上昇 させ た ことが う かがえ る。61)このよ うな シル ト堆積 による船舶航行への障害 は,デル タ下流部 の運河 において は後の時代 に もしば しば発生 し,つねに渡漢 ・改修 の必要 にせま られた。 この場合,満潮時 の 運河水 を北西方向に排水運河を掘 削 して放流 し,流速 を高 める方法が とられ, さ らに水牛 によ って渡拝 させて シル トを流 出させ たので ある。 このよ うな渡深 ・改修 の技術的側面 の重要性 もさることなが ら, SunakHon運河開削の も つ意義 は,先 の Mahachai運河 と接続 して,史上 は じめて ChaoPhraya,ThaChin,Maeklong の三河が人工的水路によ って結合 された ことで あろ う。 そ してその結節点 とな ったのが
Sakh-onburiや SamutSongkhram な どの河 口地方 国の城砦都市であ り, それ らは横断す る運河 と 南北行 して平行す る各河川 との イ ンターチ ェンジと して機能 したので ある。 この時期にはすで に第一次英締戦争 に勝利 した英植民地勢力 との間で, マ レー半島部のスル タン土侯領域をめ ぐ る緊張 が高 ま り, この西方-の運河の もつ軍事的機能 はきわめて高か った と推定 され る。
東方 のカ ンボジア経営 をめ ぐるカ ンボジア ・安南勢力 との対決 は,首都か ら東方-の運河開 削を うなが し,小暦1199年 (1837A.D.)には,BangPakong河上流 の Prachinburi河 にまで 達す る長大 な横断運河である SaenSaep(BangKhanak)運河 (K.7)が開削 され る。62)カ ン
ボジアへ の軍乱 兵糧輸送を円滑 に行 な うため開 削された63)この運河 は,全長 1,337sen19wa
2sok(53・519km)におよび,完工 までに 3年 を費や して いる。SaenSaep 運河の水路は地形 的には Bangkok東方 にひろが るデル タ徴高地上を中心に直線で貫通 し,後の時代 のデル タ下 流部開発 の布石 をな し, この地域 の幹線運河 と して機能す るよ うにな る。 軍事的, あるいは租税徴収 の円滑化 をはか った Ratanakosin朝初期 の運河 は, 未だ農業生 産力の発展, さ らには商品流通の拡大 と直接むすびつ くものではなか った。 しか し首都を中心 に東西の河川流域を横 断 して結合す るこれ らの運河形態は,釆 た るべ きデル タ下流部開発 を 目 的 とす る幹線運河の阻型 とな ったので ある。 Ⅳ
1
9
世紀中葉 における運河開発 1. Bangkok都市域 の変容 と運河 ・道路 19世紀 中葉におけるタイ経済の発展 は1855年 A.D.のボ- 1)ング条約締結 によ る自由貿易の 開始 をメル クマール と してい る。 首都 Bangkok都市域の景観 に も王宮を核 とす る軍事的な環 濠 囲郭都市 と しての性格か ら西欧植民地勢力 との 自由貿易 を中心 とす る商業都市 としての要素 61)Pallegoixは1843A・D・Mahachai運河からSakhonburiをへてこの運河水路を航行 し, きわめて曲折しながら西へ向かい,塩水であったと記している。Pallegoix(1854)tome1:p.98.
62)P・P・K・R.Ill,IV・:p.179. 63)P.K.K.:p.133.
田辺 :Chao Phrayaデル タの運 河開発に関す る-考察 (I) が急速 に加わ って くる。 しか しこの西 欧植民地勢力の政治的 ・経済的外圧 の もとに変貌を とげ る以前 において も Bangkokの都市域 の景観 は固有 の展開を示 していた。運河開削に関連す る 点では, 19世紀 中葉 の人 口増加 による都市域 の拡大 と外濠運河 の開削に注 目せねばな らない。 仏暦3294年 (1851
A.
D.
)
,即位 して間 もない四世王 は,Ratanakosin朝 の諸王による運河開 削の例 を総括 し次 のよ うに考 えた 。 「先の王の御三方は,人民が往来に便利であるようにと運河を開削された。今日国家は繁栄 し,王都を造 営した当初よりも人口は数倍となり,王都を拡大 してさらにひとまわり幅を拡げるのが適切と思う。」64) 「今日,Phraiの人口は以前よりも増加して豊かとなり, 官吏や人民の館 ・家屋敷は都市域の外側へ とはなはだしく拡大 していった。」 か くして首都外濠 と して PhadungKrungKasem 運河(K.8)は開削 され,3年間を費や し て 137 sen lOwa (5.5km)の長 さを完工 し,都市域 は旧城 内 と相似形 に約2倍 強に拡大 した (Fig.5)0 都市域への人 口集 中は,とりわ け華僑人 口の流入 によると考 え られ,
Tabl
e2
は19世紀初頭か ら中葉にいた る Bangkokにおける華僑人 口の推計 である。 1820年代か ら40年代にか けて全人 口の45%以上 ,多 くて62%を 占め, 50年代 には30万以上 と推定 され る人 口に対 し,20万 といわれTable2 ChinesePopulationin Bangkok Year ChinesePopulation TotalPopulation
) ) ) ) ) ー ) 1 2 3 4 5 6 7 2 6 9 3 9 4 5 2 2 3 4 4 5 5 8 史U 8 8 8 8 8 1 1 1 1 1 1 1 31,000 50,000 60,700 134,000 60,000 100,000 70,000 350,000 81,000 160,154 200,000 404,000 200,000 300,000 6 5 6 2 5 0 0 0 9 6 6 4 6 2 5 4 6 31 i 弔 即 6 6 Source:
1) Crawfurd,J.,ノ♂urnalofanEmba
∫
耳
y/ron theGovernor-Generala/Ind3'a toIJBeCourt∫ofSiam andCock-n-China,London.(rep.)1967,p.450. 2) Malloch,D.E.,Siam・・SomeGeneraZRemarh∫oniz∫Producti07t∫,Calcutta,1852,p.70.
3) Malcom,汁.,Traで・eZsinSouth・Ea∫tcrnA∫ia,Embracz'ngHz'ndu∫tan,MaZ a-ya,Siam andCh'na.withNozice∫ofNumerou∫Mi∫∫ionary Stations,and
aFuZ//IccounloftJieBurma71Empire,Vol.1,London,1839,p.139. 4) Neal,F.A.,NarratiT/・eOfaRe∫idencei7tSl'am,IJOndon,1852,p.29. 5) Malloch,Ⅰ).F・.,op.lit.,p.70.
6) Pallegoix,Mgr.,De∫cr車tionduRoyaumeThaiouSiam,Tome1,Paris, 1854(rep.London,1969),p.60.
7) Bowring,SirJ.,TheKi71gdom andPeoPleqfSiam,Vol.1,London,1857, (rep.1969),pp.85,394.
p.p.K.a.Ill,/V.:p.437. 2'bid.:p.453.
東 南 ア ジア研究 11巻1号
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.
McCartby の原図 (C.1900A.D.)を もとに作成 した もので, かな らず Lも19世紀中葉の 都市 プ ランを忠実 に反映 していない。とりわけ鉄道および BangRak地区 よりChaoPhraya河 に沿 って展開す る会社 ・倉庫などのかな りの部分は,五世王治世,19世紀末 になってか らの もの と推定 され る。 しか し,運河水路 ・道路の地割 など,都市プ ランの骨格は19世紀中葉以降形成 された ものであるFig.5 Plan ofBangkok,cl1900;modiaed from McCarthy (1900).
田辺 :Chao Phrayaデルタの運河開発に関す る一考察 (1) る華僑 はその50%以上 を占めてい る。 タイ人 (Siamese)との比 において も,1854年 の Palle -goix66)の数値 で5 :3で あ る。旧城 内の人 口推計 を示す と考 え られ るMalloch67)の1826年 と 1849年 の数値 においては, タイ人の増加 は約4.8万- 5万 に対 して, 華僑 は約6.1万-8.1万 と 2万人 の増加 を示 している。 これ らの都市域 の人 口の大半を 占め る華僑 は旧制度 の身分制社会 の もとで移動を禁 じられた タイ人徳役農民 にかわ って都市の商店,製造業 などの小経営,交易活動 に従事 して商品経済を 拡大 し, 同時に国家の公共事業 における労働需要に応 えてい ったのである。68)とりわ け自由貿 易 の開始に ともな う商品経済 の拡大 は, その傾向をます ます強 めることになる。 自由貿易開始 と西欧植民地勢力の政治的圧力 は都市景観に変化を もた らしてい った。都市域 お よび近郊 にお ける運河開 削に もそれ は反映 してい る。 『四世王年代 記』 には, ポー リング条 約締結直後 の記 事に次 のよ うにある。69) 「巳年 (1857/8A.D.),諸外国の蘭軌 洋行主 NaiHangは署名 して次のどとき内容の文書を提出し た。商船が交易のため首都まで遡行するにはきわめて長い航路を行 くことになる。雨期には流れはきわ めて速まり,首都に赴かんとすれば多 くの日数を空費することになる。貿易会社(flangS也khai)を南方 のphraKhanong運河口からBangNaにいたる場所に移転する許可を下さり,Ⅰ主angNaからPadung KrllngKasem 運河に貫通する短絡運河を開削していただきたい。」
PadungKrungX.asem運河(K 8)に接 して ChaoPhraya東岸 に展開 した西欧人 の貿易会 社 をは るか南方 の地域に移転 させ るとい うこの 申 し出によ り,西欧人 との トラブルを減少 させ ることがで きると判断 した四世王 は 207sen(8.28km)にわた る ThanonTrong運河 (K.9) を掘 削 させ, その土 を運河北岸 に盛 り上 げ道路 を造成 した (Fig.4,5)。ここにデル タ下流部 に おける伝統的な河川 ・運河 による交通路 に加 えて,西欧人 の要請 に応 えて道路 の造成 が開始 さ れた。 この道河水路 は, 後 に Hualamphong運河,Tei運河 とよばれた もの と一致 し,北岸 の道路 は後の PhraRama四 世道路 と して踏襲 されてい った。 しか しこの運河開削後 も西欧人 の南方-の移転 はお こらず, 元 の地域 に とどま った といわれて いる。70)さ らに数年後 の 仏 暦 2404年 (1861A.D.)には,諸国の領事 は道路が ないため馬車や馬 による交通が不可能で あ り, 西欧人 の健康 を害 してい ると訴え,首都 における体系的道路網 の造成 をせ ま った。71)この圧力 の前 に四世王 は大 々的 な道路造成 を決意 し,城 内か ら西欧各国領 事館 ,貿易会社 な どが立地す る 66)Pallegoixの人口推計は次のごとくである。① 人頭税を支払っている華僑 :200,000人 ② シャム人 : 120,000人 ③ コーチシナ,アンナン人 :12,000人 ④カンボジア人 :10,000人 ①ペグ-人(モ-ン人): 15,000人 ⑥ラーオ人 :25,000人 ⑦ビルマ人 :3,000人 ⑧マレ-人 :15,000 ⑨諸外国のキ リス ト教 徒 :4,000人,総計404,000人oPa】legoix(1854)tome1:pp.60-1・ 67) Malloch(1852):p.70. 68)Skinner(1957):pp.115-8. 69) p.p.K.a./JI,/V.:pp.533-4. 70)ibl'd.:p.534. 71) ibid.:pp.601-3;P.P・25・・p・287・ 33
泉 南ア ジア研 究 11巻1号
BangRak地 区を貫通す る CharoenKrung道路, いわゆ るNew Roadを軸 とす る多 くの道 路が完成 を見た (Fig.5)。道路造成 は,また運河開削 と平行 して遂行 され,Bang及ak(Silom)
運河 (K.10)のよ うに掘 削 した泥土 を道路造成 のために使用す る方法が と られた。 さ らに運河 水路 には橋 がか け られ, 道路網 を基軸 とす る町 割 が 展 開 して い った。72)とりわ けPadung
KrungKasem運河以南 の BangRak地区は ChaoPhraya河 と CharoenKrung道路が平
行 し,水路,陸路双方 の交通手段 を備 えていた。 この地域 には,領事館,西欧人の住宅,ド ッ ク,精米所,倉庫, キ リス ト教会 な どが列状 に水路 と陸路 の問に展開 し,植民地的都市 の景観 を形成 して い く。73)ここに Bangkokの伝統的な環濠囲郭 と運河網によ って構成 され る都市 プ ランは急速 に変容 して い くので あ る。 2.デル タ下流部幹線運河 の開削 自由貿易開始 とともに植民地 諸国の米需要 の拡大に応 えてデル タ下 流部 における荒 蕪地 の水 田開発 が進行 した と一般 に論 じられてい るが, それは具体的にいかな る地域 において, いかな る開発形態 を とって進展 したので あろ うか。 この時期の下流部 の運河開発 は,かか る基本的問 題 と密接 な関連 を もって展開す る。 国家 によ る運河開発 は,下流部 における交通手段 を確保 し,商品 ・物資の流通を保証す ると い う側面か ら追求 され, また同時 に運河沿岸 の濯鶴 による水 田化 と農民による土地 占取 をめざ した と考 え られてい る。 また地租軽減な どによ る開墾奨励政策 は運河沿岸 の荒蕪地 の水 田化 に 大 き く寄与 し,下流部 の耕地面積 を拡大 した といわれてい る。74) 以上のよ うな通説 は, た しかに四世王治世 の国家による運河開発 の基本的な傾 向をいいあて てい るか も しれない。 しか し,具体的なデル タ下流部 の地域 の発展の検討は,今 までかえ りみ られ る ことはなか った。本節では,具体的な運河開発 の事例を検討す ることによ って,運河開 発 の展開を この地域 固有 の論理 の中に位置づ げ,通説 を再 度検討す る。 米価 は しだいに上昇 し,販売 を 目的 とす る米作が下流部で も展開 し,運河 の港概 ・排水機能 も高 ま って い くが
,5
0
年代か ら6
0
年代 にか けて は一定地域 においてはサ トウキ ビなどの商品作 物 の輸送 と結合 していたふ しがあ る。 乾期畑作物 と してのサ トウキ ビは乾期 における大量の濯 親水 と雨期 にお ける排水 を必要 と し, 下流部では首都西方 の Tha Chin 河沿岸 の Nakhon Chaisiか らNakhonPathomにか けて,また東方の Chachoensaoな ど比較的高燥 な地域で栽 72) 環濠内部に造成されたBamrungM也ang,F屯angNakhonおよびCharoenKrung道路の一部はこの地 区において運河水路を補完する交通路となり,商業上重要な役割をはたした。S.Phlainoi(1960):p.163. 73) McGee(1967):pp.72-4.田辺 :Chao Phrayaデル タの運 河開発に関す る一考察 (J) 培 されて いた。75)いわゆ るデル タ徴高地か ら古デル タ,扇状地 な どが この地域 に相 当 して い る。 1810年代 に潮州華僑76)によ って もた らされた といわれ るサ トウキ ビ栽 培77)はす で に三世 王 治世 には Nakhon Chaisiにおいて華僑 のプ ランテー シ ョンと して展 開 し,200- 300の 華僑 労 働者 を有 す る精糖工場が立地 した といわれて い る。78)M allochの輸 出品 リス ト79)に よれば, 1850年頃において砂糖 お よび砂糖製品 は輸 出の第一位 を 占めて 708,000bahtにのぼ り,50年 代60年代で は タイの最大 の輸 出品で あ った。80)しか し1870代 におけ る NakhonChaisi地域 に お ける洪水 や早 魅, さ らに は安価 なジ ャヮ糖 の流入 によ る市場 価格 の低下 に よ り, これ らのサ トウキ ビ栽培 は急速 に衰退 して い く。81) サ トウキ ビの運搬 の 目的 で運河 が開 削 された ことは,小規 模 な短絡運河 ではあ るが,年代記 の次 の一節 に うかが うことがで きる。82)
「IJatXrutの運河は,当初 PhrabatSomdetPhraNangKlaoChaoYuhua(三世王)の治世, 華僑
がサ トウキビ運搬のために掘削した小さな運河であるが,今日,河流が浸触 して幅をひろげ MaeNam
Yai(T九aChin)河の倍となった。」
この短絡運河 は地形 図上 の④点 に比 定で きる(Fig.4)。おそ ら くはThaChin河流域 に存在 し た プ ランテー シ ョンか らThaChin河 を下 り,Sakhonburi経 由で 首都 に達す る航 路 の一部 を 短縮 した運河 で あ った と推定 され る。NakhonChaisi- ThaChin回 - Sakhonburi- M ahachai 運河一首都 とい うこの水運 のルー トは きわめて長大 であ った (Fig・4)o
Nakhon Chaisiか らその西方 にか けての栽培地 域 と NakhonChaisi, 首都 の問の水 運 のル ー トの短縮 はいか に達成 されたで あろ うかJ 次 の事例 において検 討 してみ る。
事 例 1'・ChediBucha運 河 (K.ll) (Fig.4)
かつて のモー ン人 の遺跡 phraPathom 仏塔 を修復 し自 ら王宮を建 立 した四世王 はNakhon Chaisiよ り NakhonPathom までの運河 開削を命 じてい る。
年代 記には この運河 につ いて83)「ThaNaよ り王宮 に達 し, そ こをす ぎて PhraNgam 寺
75) サ トウキビは長期にわたる氾濫には適 さず,氾濫面よりも5-20m高いデルタ縁辺部や丘陵地などが 適 しているといわれる。またサ トウキビが成長 して糖分を増す時期は,熱帯モンスーン地帯では乾期 に あたり, したがって乾期における十分な津鶴を必要とする。VanderHeide(1903):pp・52-3;Credner (19351:pp.239-40.
76) Skinner(1957):p.112.
77) Crawfurdは華僑によって もたらされたサ トウキビ栽培は, 自らのシャム訪問(1822A.D.)より12年を さかのぼることはないと記 している。そしてその栽培地域についてはNakhonChaisiのほか,Chachoe n-saoを中心とするBangPakong流域をあげている。Crawfurd(1828)‥p・1121
78) Pallegoix(1854)tome1:pp.101--2;Neal(1852):pp.68J9. 79) Malloch(1852):pp.46-7.
80) Finlaysonによれば 1821A.D.で産出巌は30,000piculs(1picu1-60kg)で あ った。Nealはまた 1841A.D.に4,000tもの砂糖を積んだ20隻の船が Singapore,Bombayにむけて出港 したとしている。 Neal(1852):pp.68-9,176.また1849A.D.の107,000piculsから1859A・r)・には約2倍の204,000pieuls にその産出量は増大 している。Ingram (1971):p.123.
81) MinistryofCommerceandCommunications(1930):pp.220-1;Credner(1935):p.241・
82) p.p.K.A.Ill,/V.:p.713. 83) ibid.:pp.804-5.
東南 ア ジア研究 11巻1号 まで掘 削 し---全長 448sen(17.92km)」 とあ り,NakhonChaisiの渡場 ThaNaか ら西方 へ掘 られた ことがわか る。 この ThaNaは地 形図上84)で は市場 地 名 TalatThaNa85)とし てFig.4上 の⑧点 に検 出で きる。さ らに 「乾期 にお ける御幸 のため,ChonSadaoか ら王宮 まで 150sen(6km)の道路 を造成 した。」 と見 え,字名 ChonSadaoは⑥点 に検 出で きる。86)この 地域 はデル タ地形 と異 な り,デル タ微高地 よ り複合扇状地 に移行 してお り,乾期においては特 に陸路が必要 とされた と考 え られ る。 この運河開削の 目的は
,
『農務省史』87)によれば, 人民 が phraPathom仏塔へ礼拝 に行 く交通の便 を考 えての ことだ った と してい るが, この地域の サ トウキ ビ運搬 とい う経済的機能が十分考慮 された ことだ と考え られ る。88) NakhonChaisiか ら首都-の水運 のルー トは, 先の Mahachai運河経 由の長大 なルー トの ほかに,NakhonChaisiか ら束行す る, 掘 削年次不明の Yong運河 (K.12もしくは Bang Yai運河) 水路 をた ど った可能性が ある。 おそ らくこの運河 も利用 され,ChaoPhraya河 の 旧河道 MaeNam Om の曲流部を経て Nonthaburi経 由 も しくは直接 Bangkokに達 したで あろう。 しか しこの Yong運河 は当時 きわめて浅 く, 乾期 においては, 船 は綱で曳航 しなけ ればな らなか った といわれてい る。89)ともか く Chedi】∋ucha運河開削によ って, これ らの水 運のルー トをた ど り, サ トウキ ビ栽培を中心 とす る畑作地帯 は首都 の港 と結合 されてい ったの で ある。 サ トウキ ビ栽培 の衰退 と米価 の上昇 は しだいに下流部の水 田化を明確 な 目的 とす る運河開削 を うなが した。 それ らの運河 は主 と して1860年代 に開 削 さ れ, と りわ け首 都 西 方 の Chao Phraya-ThaChin両河間のデル タ徽高地 に分類 され る地域 に貫通 してい く。 前述 の どと く, デル タ下流部 において もこれ らの地域 は,デル タ低地 に くらべて水稲耕作によ り適切な条件下 にあ ったので ある。 そ して この わずか10年余の期間に, ThaChin 河か らデル タ低地 をさ ら に西行 して Maeklong河に達 した横断運河 を含 めて,下流部の三河川 を結合す る内陸水運の体 系の骨格が首都 の西方 において完成 され る。Ayutthaya朝 の Mahachai運河や先 の ChediIjucha運河 な どの既存 の 運河 もこの 内陸水 運の体系を補完 し,下流部の幹線 運河 と して機能す る。 これ らの幹線運河の うちの大部分 は水 運 と沿岸 の港概 ・排水 を 目的 とし,た しかに可耕地拡大 の契機 にはな ったが,かな らず Lも農民 の土地 古歌 によって急速 に水 田に転化 してい った とはいい きれない。運河沿岸 の土地 は王族 や 84) 1913A.D.調査,494/4-47NakhonChaisi図幅。
85) 年代記と地形図上では綴字に若干の異なりがある。
86) 1913A.I).調査,493/4-47NakhonPathom図幅。)
87) P.K.K..・pp.133-4.
88) 五世王治世に入ってもこの地域ではさかんに畑作が行なわれていたらしく
,
『四世王年代記』においてThiphakorawongは 「しかし今日 (五世王治世)華僑が畑作を営み,(遺跡が)めちゃくちゃに破壊され
ていることが多い.」と記している。P・P・K・R・IIZ,JV・:p.805;p.p.25:p.317. 89) A.P.T.Vol.2:p.171.