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戦間期ポーランドのマイノリティと居住地  ――アポリナルィ・ハルトグラスの在留型シオニズム(宮崎悠)

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Academic year: 2021

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197 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 196

一八世紀末のポーランド分割以来、ロシア、オーストリ ア、プロイセンによる支配は一世紀以上続いたが、第一次 世界大戦によって三支配帝国をめぐる国際・内政状況が変 化し、ポーランドの独立回復は具体的な国境線の画定を伴 う 議 論 に 進 ん だ。 パ リ 講 和 会 議 に お い て ド モ フ ス キ ( Roman Dmowski, 1864-1939 ) ら ポ ー ラ ン ド 代 表 団 は、 産 業地域を含む西部国境地帯を獲得した。東部国境について は国際会議における交渉と切り離されたまま拡張が進み、 旧ポーランド=リトアニア共和国のような諸民族の連邦を 理想とするピウスツキ ( Józef Piłsudski, 1867-1935 ) は東方 へ の 領 土 拡 大 を 志 向 し た。 東 方 領 域 に は ウ ク ラ イ ナ 人 (ル テ ニ ア 人) や ユ ダ ヤ 人 と い っ た 多 く の マ イ ノ リ テ ィ が 居 住 するが、ピウスツキらの連邦案は諸マイノリティ集団から 理解されていなかった。また、ドモフスキらが目指した国 民国家案は国内の現状と一致しておらず、ポーランド第二 共和国がいずれの案をとるにしても現実と矛盾する状況が 生じていた。 領内のマイノリティのうち最多数は、主に東部地域に居 住するウクライナ人であった。これに対し、単純に数の上 ではウクライナ人よりも少ないものの、ユダヤ人の問題は

第Ⅱ部

両大戦間期

中央

戦間期

居住地

残留型

宮崎

複 雑 さ に お い て 最 も 際 立 っ て い た。 「ユ ダ ヤ 人」 と 呼 ば れ る人々は、ポーランド人と同様に三分割領のいずれにも居 住し、それぞれの支配帝国の政治的・社会的文化を持って いた。そうした差異にもかかわらず「ユダヤ人」と総称さ れ、また、ポーランド・ナショナリズムが自らの居住地を 排 他 的 に 求 め た と き、 「ユ ダ ヤ 人」 の 居 住 地 は ほ ぼ 同 じ 場 所にあった ( Bartal 2005 ) 。 本稿では、戦間期ポーランドを形作る国家構想が、第一 次世界大戦以降どのように提示され競合したのかを、独立 運動が残留型シオニズムに与えた影響とその結果から検討 する。戦間期のポーランドにはピウスツキを中心とするゆ るやかな権威主義体制が成立し、政権自体に反ユダヤ的な 傾 向 は な か っ た も の の、 国 家 構 想 (多 民 族 の 連 邦 を 目 指 す の か、 一 民 族 の 国 民 国 家 か) は 流 動 的 で あ っ た。 一 九 三 〇 年代にはドモフスキらの独立運動を引き継ぐナショナリズ ムが急進化し反ユダヤ主義的傾向がいっそう強まる。こう し た な か、 ナ シ ョ ナ リ ズ ム が「ポ ー ラ ン ド 人 (国 民) 」 か ら排除しようとした「ユダヤ人」の側は、一様ではない反 応を示した。ここでは、戦間期ポーランドに特徴的な立場 として残留型シオニズムに着目する。

残留型

残留型シオニズムは、ポーランド国民としての権利義務 の自覚とユダヤ人意識とを折衷し、パレスチナにおける国 家建設を遠い目標として一定程度移住を支援しつつ、喫緊 の課題である国内のユダヤ人の権利安定と地位向上に努め た。この立場は戦間期ポーランドにおいて萌芽したものの 十分な時間を与えられず、最終的には第二次世界大戦の勃 発によりパレスチナへ拠点を移さねばならなかった。 アポリナルィ・ハルトグラス ( Apolinary Hartglas, 1883-1953 ) は、 残 留 型 シ オ ニ ズ ム の 代 表 的 な 論 者 で あ っ た。 一 写真1 アポリナルィ・ハルトグラス (出所)Yoni Eshpar 氏提供。

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199 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 198 九三〇年代に弁護士、政治家、ジャーナリストとして活躍 した。彼はロシア分割領におけるポーランド独立運動の盛 り上がりのなかで一〇代を過ごしてドモフスキの思想に傾 倒し、独立後はポーランド国民としてユダヤ人が平等な地 位を得られると信じた。将来的なパレスチナ移住・ユダヤ 民族の国家建設を理想としつつ、現実にはポーランド国内 でのユダヤ人国民の同権化と地位向上を図った。 ポーランド国家とユダヤ民族・ユダヤ共同体の関係をめ ぐるハルトグラスの「パトリオティズム」は、戦間期の終 焉を告げる一九三九年九月一日にピークを迎え、一九四〇 年のパレスチナ移住という断絶に至る。残留型シオニズム が 遠 い 理 想 と し て い た パ レ ス チ ナ 移 住 が 現 実 に な っ た と き、明らかにされた矛盾と限界とはどのようなものであっ たのか。本稿では、ポーランド政治から消えていったシオ ニ ズ ム の 一 事 例 を 検 証 し、 残 留 型 シ オ ニ ズ ム の 遠 い 目 標 (パ レ ス チ ナ へ の 移 住 と ユ ダ ヤ 国 家 の 建 設) が 実 現 し て し ま っ た こ と に 伴 う「デ ィ ア ス ポ ラ の 喪 失」 (故 郷 ポ ー ラ ン ド か ら の 引 き は が し) が 一 人 の シ オ ニ ス ト に 残 し た も の の 意味を改めて考察する。

研究史

ハルトグラスの存在は、イスラエル建国後は顧みられな くなり、労働シオニズムが主流のシオニズム研究にあまり 登場しない。二〇〇〇年を過ぎてから彼の思想的側面に関 心が寄せられるようになり、一九二〇〜三〇年代には彼の 論説は多くの読者を得ていたことが明らかになっている。 ハルトグラス研究の第一人者ジンドゥルによれば、自伝的 回 想 録『二 つ の 世 界 の 境 界 で』 ( Hartglas 1996 ) が 没 後 四 十余年を経て出版されるまで、ハルトグラスを主題とする 研究は殆どなされていなかった * 1 。メンデルソンによれば、 ハルトグラスは従来、ロシア領ポーランドの指導的シオニ スト、グリュンバウム ( Izaak Grünbaum, 1879-1970 * 2 ) の親 しい協力者として言及される場合が多かった ( Mendelsohn 1981 ) 。 回想録が出版されると、 ワルシャワやシェドルツェ の ユ ダ ヤ 史 に 関 す る 文 献 に、 ハ ル ト グ ラ ス の 文 章 が 体 験 談・証言として引用されるようになる。特にホロコースト 研究の観点からするなら、彼はワルシャワに一九三九年一 二月まで留まり、ゲシュタポの交渉相手ともなった。その ためナチス・ドイツ占領下のユダヤ人の生活状況を伝える 資 料 と し て の 価 値 が 認 め ら れ て い る ( Engelking & Leociak 2001 ) 。 た だ し、 パ レ ス チ ナ 移 住 後 の ハ ル ト グ ラ スの筆致は基本的にポーランドへの望郷に従っており、ド イツ軍との関係を含め負の側面は不自然なほど僅かしか描 かれていない。 定 期 刊 行 物 を 対 象 と す る 研 究 に は 彼 の 名 は 頻 繁 に 現 れ る。 一 九 〇 六 年 以 降、 ハ ル ト グ ラ ス は ワ ル シ ャ ワ や ウ ッ ジ、クラクフなどで発行されたポーランド語のユダヤ系新 聞・雑誌約二〇紙に寄稿、数紙の編集に携わった * 3 。ツァワ らによる一連の研究 * 4 は、一八三〇年代から第二次世界大戦 後まで視野に入れたポーランド語のユダヤ系定期刊行物の 整理分類を行っており、ハルトグラスの交際範囲や発言の 傾 向 を 読 み 取 る こ と が で き る。 日 本 語 の 先 行 研 究 で は、 ポーランドを含むロシア・シオニズム研究の文脈から言及 されている。鶴見太郎は自由主義系シオニストのロシア語 雑 誌『ラ ス ヴ ェ ト ( Razsvet ) 』 の 寄 稿 者 と し て ハ ル ト グ ラ スを取り上げ、彼がオットー・バウアーによるユダヤ人の 民 族 自 治 論 を ど の よ う に 援 用 し た か を 紹 介 し て い る (鶴 見 二 〇 一 二) 。 ま た、 戦 間 期 の 議 会 に お け る 少 数 民 族 の 処 遇 是正に着目した、安井教浩の研究がある (安井 二〇〇三: 二八三―三三三) 。 ハ ル ト グ ラ ス の 主 な 著 作 に は、 先 述 の 回 想 録 ( Hartglas 1996 ) の ほ か、 初 期 の 代 表 作『領 土 と 民 族』 ( Hartglas 1906b ) が あ る。 一 九 二 〇 〜 三 〇 年 代 に は ポ ー ラ ン ド 語、 イディッシュ、ロシア語のシオニズム系雑誌・新聞に数多 くの論説を寄稿した。一九四〇年に移住したパレスチナに おいては、ポーランド・ユダヤ人向けにシオニズム運動の 経緯とパレスチナの入植状況を説明するパンフレット『こ の 国 を 知 れ

ポ ー ラ ン ド の 兵 士 へ』 ( Hartglas 1944 ) を 残した。

生涯

少年時代

ハ ル ト グ ラ ス は ポ ー ラ ン ド 会 議 王 国 東 部 に 位 置 す る ビ ャ ー ワ ・ポ ドラス カ の 同 化 ユ ダ ヤ 人の 家 庭 に 生 ま れ 、両 親 は 普 段 か らポ ー ラ ン ド 語 を 話 し 、 ポ ー ラ ン ド 風 の生 活 様 式 に 囲 ま れ て 育 っ た 。 ハ ルト グラス の 生 ま れ た 町 の ユ ダ ヤ

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201 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 200 人 住 民 の う ち 多 く の人 は イ デ ィ ッ シ ュ を 話 し 、 ま た 服 装 も 長 い外 套 を 着 、 帽 子 を 被 る ス タ イ ル が 大 多 数 で あ っ た 。 そ う し た な か では 例 外 的 に 、 ハ ル ト グ ラ ス は 家 庭 で も ポー ラ ン ド 語 を 話 し 、 両 親 は 「 子 ど も に 聞 か れ た く な い と き だ け 」 イ デ ィ ッ シ ュ で 話 す と い う 、 ほ ぼ ポ ー ラン ド 様 式 の 日 常 生 活 を 送 っ て い た 。 少 年 時 代 の ハ ルト グラ スは 「 自 分 は 国 民 と し て は ポ ー ラ ン ド 人 で 、 た だ 信 仰 の 点 で 、 形 の 上 で 、 ユ ダ ヤ 人 な の だ 」 と 、 信 仰 と は 分 離 し た ポ ー ラ ン ド 人 意 識 を 抱い て いた 。 ド モ フ ス キ 編 集 の ポ ーランド ・ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 標 榜 す る 雑 誌 『 全 ポ ー ラ ン ド 評 論 』 を 愛 読 し ( B ułh ak 2 00 0: 73 、 街 の 住 民 の 多 く を 占 め た 正 統 派 ユ ダ ヤ 人 を 「 リ ト ヴ ァ ー ツ ィ ( Li tw ac y ) と 呼 び 、 彼 ら に 違 和 感 を 抱 き な が ら 一 〇 代 を 過 ご し た 。 違 和 感の 理 由 は 、 ド モ フ ス キ の国 民 形 成 論 にお い て ユ ダヤ 人 が 占 めた 位 置 か ら 推 測 で き る 。 ドモ フ ス キ が ユ ダ ヤ 人 を 「 我 々 」 か ら 排 除 す べ き 「 他 者 」 と し た 契 機 の 一 つ は 、 一 八 八 〇 年 代 以 降 、「 リ ト ヴ ァ ー ツィ 」 が 、 ロ シ ア か ら 主 に リ トア ニ ア を 経 由 し て 会 議 王 国 ( 特 に ワ ル シ ャ ワ 、 後 に ウ ッ ジ ) へ 移 動 し て き た こ と に あ っ た ( ハ ウ マ ン 一 九 九 九 : 一 六 四 ; H au m an n 20 00 : 132-135 ) 。 ド モ フ ス キ は 彼 ら を ロ シ ア か ら 大 量 に 流 入 し て く る 黒 服 の 集 団 と し て 敵 視 し ( D mowski 1893: 10 、 国 民 形 成 論 が 想 定 す る ユ ダ ヤ 人 像 は 、「 リ ト ヴ ァ ー ツ ィ 」 に 限 ら ず ユ ダ ヤ 人 全 体 を 「 内 な る 他 者 」 と 見 な す 方 向 へ 展 開 し た 。 こうした会議王国の反ロシア的な文脈に由来する感情を 一〇代のハルトグラスはドモフスキと共有していた。以前 から会議王国のポーランド社会に同化していたユダヤ人に とって「新顔」の「リトヴァーツィ」は「ロシア本土深く からやって来た、ロシア語とロシア文化にすっかり浸かっ た」 人 々 で あ り * 5 、 近 づ き が た か っ た ( Cała & Zalewska 2000: 190 ) 。 彼 は 自 宅 に 間 借 り し て い た ロ シ ア 出 身 の ユ ダ ヤ人青年たちについて「私は[中略]ポーランド人であっ たのに、彼らは『リトヴァーツィ』だった」とし「私たち を分かつものは、日常の言語のみならず、暮し方、教養、 振る舞い方の違いであった」と回想している。 ギムナジウム時代には社会主義に傾倒する友人の影響で 多くの書物を読んだ。しかし社会主義に同調はせず、それ 以上に影響を受けたのは、ロシア領において禁止されてい た『全ポーランド評論』で、ハルトグラスはオーストリア 領 の ク ラ ク フ か ら 取 り 寄 せ て 定 期 購 読 し て い た ( Hartglas 1996: 44, 48 ) 。 ド モ フ ス キ の 熱 心 な 読 者 と し て「全 ポ ー ラ ンド主義」から受けた影響は少なくなかったと考えられる ( Bułhak 2000: 73 ) 。 初 期 の ド モ フ ス キ は、 ポ ー ラ ン ド 語 を 話すとか、ローマ・カトリック信徒であるといった形式的 な区別以上に、集団への献身を「ポーランド国民」の条件 として重視していた。そのため、ユダヤの信仰を持ちつつ ポーランドの国民であることは矛盾しない、とも解釈でき た。 ハルトグラスは、大学に入学した頃には「すでに私は反 ユダヤ主義者ではなくなっていた」と述べているが、裏を 返すなら、少年期に周囲のユダヤ人社会に対し抱いていた 違 和 感、 「彼 ら」 と 自 分 が 同 じ も の と 看 做 さ れ る こ と へ の 反感の大きさを表している。一〇代半ばでヘルツル著『ユ ダ ヤ 人 国 家』 を 読 む が、 「ナ ン セ ン ス だ

こ の 話 と 私 た ち と 何 の 関 係 が あ る だ ろ う?」 と 訝 り、 「ポ ー ラ ン ド か ら 千キロメートルも離れたトルコ領の砂漠に国家を作る?   誰がそんなところに行くものか」とまったく受け入れる余 地 が な い。 結 局「嫌 だ、 自 分 た ち は ポ ー ラ ン ド 人 だ し、 ポーランド人のままでいる。私たちがユダヤ人だというの は、ただ形式的に信仰に関してのことだ」と強い拒否感を 示した。少年時代のポーランド・ナショナリズムからシオ ニズム受容への変化が見られるのは、大学進学のためワル シャワへ移ってからであった ( Hartglas 1996: 45-50 ) 。

時代

ロシア帝政下のワルシャワ大学に進学したハルトグラス は法律を学び、シオニズムの影響を受けた学生サークルの 集まりに参加し始める。当初はシオニズムの実現可能性に 懐疑を抱くものの、少年時代の「反ユダヤ主義」を脱し、 学 生 シ オ ニ ス ト の サ ー ク ル「カ デ ィ マ」 へ 加 わ っ た ( Hartglas 1996: 57-62 ) 。 一 九 〇 四 年 に 大 学 を 卒 業 す る と、 苦労して弁護士の職を得て地方の小都市シェドルツェへ赴 く。シェドルツェは商業がさかんであり、一九世紀後半に はユダヤ系住民が全体の約七割を占めたとされ、シオニス トの拠点となっていた ( P. ( Popowski ) 2009: 110 )。この間 ワルシャワにおいては、一九〇六年二月、初めてのポーラ ン ド 語 に よ る シ オ ニ ズ ム 雑 誌『ユ ダ ヤ の 声』 が 創 刊 さ れ る。最初の数号を手にしたハルトグラスは編集作業に参加 す る こ と を 決 め ワ ル シ ャ ワ へ 戻 っ た。 『ユ ダ ヤ の 声』 は、 ワルシャワの同化ユダヤ人層や、イディッシュとポーラン ド語の両方を解する青年層の読者から反響を呼んだ。しか し「ユダヤ人の民族的権利をスローガンとするシオニズム 雑誌」はポーランド人読者に受け入れられず、定期購読の

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203 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 202 とりやめが相次いだ ( Hartglas 1996: 87-88 ) 。 さらに深刻な衝撃を与えたのは、相次ぐポグロムの報せ であった * 6 。一九〇六年六月の聖体節にビャーウィストクに おいて * 7 、また九月にはつい最近まで暮らしていたシェドル ツェにおいて ( Hartglas 1996: 88, n.18 ) 、 多くのユダヤ人住 民が殺害された。ハルトグラスはいずれも事件のさなかに 現地入りし、危険を冒して書き送った報告記事を『ユダヤ の声』が掲載した。ビャーウィストクの出来事について、 『ユ ダ ヤ の 声』 の 報 告 記 事 で は「カ ト リ ッ ク 信 徒 が 手 は ず を整えたとは思われていなかったが、この機会に便乗して [ポ グ ロ ム に] 参 加 し た 人 は い た と 見 ら れ る」 ([   ] は 引 用 者 注) と 述 べ ( Hartglas 1906a: 282 ) 、 計 画 的 で な か っ た に せ よ ポ ー ラ ン ド 人 も ユ ダ ヤ 人 殺 害 に 関 与 し た と 示 唆 し た。この記事の内容が口実となり、彼は弁護士事務所を追 われ、一九〇六年一一月末『ユダヤの声』は廃刊に追い込 まれた。ポーランド語での意見表明の場と職場とを同時に 失い、加害者にポーランド人を含むポグロムの危険を直接 目にしたハルトグラスだが、引き続きポーランドに居住す る 方 針 に 変 化 は な く、 『ユ ダ ヤ の 声』 の 廃 刊 直 後 に『ユ ダ ヤの生活』を創刊する ( Hartglas 1996: 87-93 ) 。 ただし、ポグロムを機に彼の領土観は変化しており『領 土と民族』 ( Hartglas 1906b ) ではユダヤ民族独自の領土の 必要性を明確に説いた。また、一九〇六年一二月にはヘル シンキにおいて第三回ロシア・シオニスト会議に参加し、 その途上で立ち寄ったペテルブルクの『ラスヴェト』編集 グループに知己を得た。ヘルシンキ会議については「シオ ニ ズ ム の 発 展 に お け る 転 換 の 瞬 間 と な っ た」 と 評 し て い る。 「そ の と き ま で、 シ オ ニ ズ ム と い う の は 実 際 の と こ ろ、平穏な、ガルートの環境に深く根ざしたユダヤ人の協 会であった。彼らは何らかの奇跡によって、あるいは偶然 によって古い祖国を再建することに成功する瞬間を夢見て い た」 。 つ ま り、 従 来 は シ オ ニ ズ ム 運 動 に 携 わ る と い っ て も、普段は正統派の教えを守り、あるいは同化し、または 資 金 集 め の プ ロ パ ガ ン ダ の み を 行 っ て、 政 治 は 幾 人 か の 「専 門 家」 任 せ で あ っ た。 そ れ に 対 し て、 よ う や く ヘ ル シ ンキ会議が現実的なプログラムの輪郭を描いたとし、シオ ニ ズ ム 運 動 の 具 体 化 の 契 機 を 見 た の だ っ た ( Hartglas 1996: 96 ) 。

第一次世界大戦

ヘルシンキからの帰国後、まだ二〇代の彼は洗練された ユダヤ文化のあるワルシャワへ引っ越して弁護士業を行う 計画を立てるが、大戦が勃発する。一九一四年七月から家 族 と バ ル ト 海 沿 岸 へ の 旅 行 に 出 て い た 彼 は、 ロ シ ア 領 へ 戻って前線に送られることを避け、いったんドイツ領に留 まった。ロシア領ポーランドが独・墺軍に占領されてよう や く、 シ ェ ド ル ツ ェ へ 戻 る こ と が で き た ( Hartglas 1996: 129-130, 144-155 ) 。 一九一六年一一月五日にはポーランド国家の設立がウィ ルヘルム二世とフランツ・ヨーゼフ一世の名において宣言 される。実はこの宣言はポーランド国家の地理的境界線に ついていっさい言及しておらず、信用に値しないとの見方 もあった。それでも、ポーランド分割を行った三国のうち の二国が、公式に立憲君主国家としてのポーランド建国を 認める宣言を出した意味は大きかった * 8 。また、一九一五〜 一八年のドイツ軍によるワルシャワ占領は、多くの実質的 利益をもたらした。ロシア支配下に比べ、ポーランド人の 自由な活動に対する制限がずっと緩和されたためである。 ド イ ツ 占 領 下 に は、 長 い 間 地 下 活 動 と し て し か 行 わ れ な かった「政治」に公に携わる機会があった。ハルトグラス も シ ェ ド ル ツ ェ に お い て 公 職 に 就 く 機 会 を 得 た ( Żyndul 2002: 45 ) 。 一九一八年、唐突にドイツ帝国が崩壊すると、ピウスツ キがマグデブルク要塞から解放されワルシャワに帰還、摂 政会議から権力を委譲される。衝突や抵抗のないままドイ ツ軍がただ武装解除されるのをワルシャワ市民が目撃して いたことは、二〇年後、第二次世界大戦において彼我の力 関係を見誤る一因になったとノーマン・デイヴィスは指摘 している (デイヴィス 二〇一二:一二五―一二八) 。

独立

ハルトグラスは独立ポーランドにおいて政治家・弁護士 として活躍した。憲法制定議会選挙で議員に選出されてか ら、一九三〇年まで政治に携わった。一九二五―二七年に はユダヤ人議員サークルの代表となり、ユダヤ人の境遇改 善を行うことを目下の課題とし、とりわけロシア統治時代 にユダヤ人に課された不利な法的規制や差別が独立後も維 持されていることに異議を唱え撤廃に取り組んだ。弁護士 業においては冤罪事件や改宗がらみの訴訟を手がけて注目 を集めた ( Żyndul 2002: 47 ) 。 議 員 時 代 の ハ ル ト グ ラ ス の 様 子 を 示 す エ ピ ソ ー ド が あ る。一九一九年四月、ユダヤ教の過ぎ越しの祭り、キリス

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205 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 204 ト教の復活祭の夜であった。ハルトグラスはこのとき復活 祭の休暇をシェドルツェで過ごすこととし、妻と共に知人 を訪ねていたが、ある委員会の議員達がやって来るという 連絡を受け、急遽自宅へ呼び戻された。自宅には、旧知の グリュンバウムの他に数人が待っていた。議員団は「ピン ス ク の 虐 殺」 と い わ れ る 事 件 (ユ ダ ヤ 人 の 若 者 三 四 人 が、 ロ シ ア の ス パ イ と 疑 わ れ、 ポ ー ラ ン ド 人 の 少 佐 に 射 殺 さ れ た) の 現 地 調 査 へ 向 か う 途 中 で あ っ た。 深 夜 に 到 着 し た 客 をもてなすのに事前の準備はなく、普通のパンにかえて復 活 祭 の ケ ー キ (バ プ カ) 、 自 家 製 の ハ ム、 バ タ ー、 ク ラ ッ カ ー (マ ツ ォ ッ ト と い う 発 酵 さ せ な い パ ン) 、 ビ ー ル と ウォッカという、ありあわせの食卓を、虐殺事件の調査委 員会のユダヤ人議員二人、ポーランド人議員五人と、ハル トグラスが囲んだ。雰囲気は気まずく、というのもポーラ ンド人議員のなかには、反ユダヤ主義者で知られた農民党 議員のミゼーラ ( Antoni Mizera, 1886-1942 ) がいたためで あった。ミゼーラは、当時流布していた儀礼殺人の噂その ままに「マツォットというユダヤのパンにはキリスト教徒 の子供の血が材料で入っている」と信じ、生まれてこのか た手を触れたこともない、という人物であった。すでに夜 中であった。疲れた議員らはマツォットにバターやハムを 載せるなどして、どんな規律も意に介さずに口へ運んでお り、最初は拒んでいたミゼーラも空腹とあって食べざるを えなかった。すると、とてもおいしかったらしく、彼は作 り置きをすっかり空にしていったよ、とハルトグラスは回 想している。この訪問を境に、ミゼーラはユダヤ人議員に も進んで話しかけてくるようになり、ハルトグラスらのユ ダヤ人同権化活動にも協力した。ハルトグラスはこの挿話 に つ い て、 「政 治 的 な 成 功」 が 予 想 外 に 得 ら れ た の は、 ユ ダヤ人の家でも「村のだんな方」の家でするのと同じ様に バプカを焼き、ハムやバターを食べて暮していると分かっ たからだろう、あとマツォットがおいしかったのだろう、 と述べている ( Hartglas 1996: 204-206 ) 。 ユダヤ社会とポー ランド社会の相互の無理解が不要な恐れと憎悪を招いてい る、 と い う 見 方 は、 ハ ル ト グ ラ ス と 同 時 期 に 論 壇 で 活 躍 し、ポーランド=ユダヤ交流史の発掘を進めていた歴史家 リ ン ゲ ル ブ ル ム ( Emanuel Ringelblum, 1900-1944 ) の 考 え とも一致していた ( Kassow 2007 ) 。 議会政治を退いてからのハルトグラスは再び法廷弁護士 として実績を重ねた。ユダヤ人の弁護士だからと顧客に避 けられることはなく、彼が弁護した被告の殆どはポーラン ド 人 な ど 非 ユ ダ ヤ 人 で あ っ た ( Żyndul 2002: 45 * 9 ) 。 ポ ー ラ ンドで生活し国家の基盤である法秩序の一端を構成しなが ら、シオニズムという思想との折り合いは、どのようにつ け て い た の で あ ろ う か。 彼 は、 ポ ー ラ ン ド に 留 ま っ て 啓 蒙・教育活動を行い、より若い世代のユダヤ人にパレスチ ナへの移住を勧めることが重要であると説明していた。同 じくポーランド出身のシオニストで後にイスラエルの初代 首 相 と な る ベ ン グ リ オ ン ( David Ben-Gurion, 1886-1973 ) が、ポーランドを真の故郷とは考えず、三歳からヘブライ 語 に 親 し み ( Pearlman & Ben-Gurion 1970 ) 、 一 〇 代 の う ち に パ レ ス チ ナ へ 移 住 し た の と は 対 照 的 で あ っ た (森 二 〇 〇 二: 三 〇 ― 三 一) 。 ハ ル ト グ ラ ス が 移 住 を た め ら っ た 理由としては、言葉の問題に象徴されるポーランドへの愛 着が挙げられる。彼にとってポーランド語が自他共に認め る 第 一 言 語 で あ り、 ヘ ブ ラ イ 語 は 使 う 機 会 が 殆 ど な か っ た。イディッシュは堪能ではなかったと告白しているが、 むしろポーランド語話者としての自負心を表しているとい えよ う ( H art gla s 1 996: 20 3 * 10 ) 。 パ ヴ ェ ウ ・ フ ィ ヤ ウ コ フ ス キ が 指 摘 す る 様 に 、 ハ ル ト グ ラ ス の 生 涯 を 特 徴 付 け た の は ポ ー ラ ン ド と ユ ダ ヤ 人 社 会 へ の 二 重 の 愛 情 で あ っ た ( F ija łkows ki 20 10: 11 1-1 12 。 一九三〇年代は彼の言論界における活動の最も盛んな時 期であった。一九三四年二月には経済紙『我々の防衛』に おいて、ナチス商品のボイコット・キャンペーンを呼びか け て い る。 「我 々 は ド イ ツ を ボ イ コ ッ ト す る の で は な く、 ヒトラーのドイツをボイコットするのであり、ヒトラーの 反ユダヤ主義が凋落するときには、ドイツをボイコットす る理由はなくなるであろう」という記述には、ドイツ企業 との取引により身をたてているユダヤ人や、ドイツ国内で 商業を営むユダヤ人の商品もボイコットの対象となってし ま う こ と へ の 配 慮 が 窺 え る ( Hartglas 1934: 2 ) し か し 時 局は彼の期待に反して悪化していった。

一九三九年九月一日

ドイツによるポーランド侵攻が現実味を帯びると、ユダ ヤ共同体はポーランド国内における立場の明確化を迫られ た。ハルトグラスのユダヤ人同権化活動とポーランド・パ トリオティズムとの融合は、権利と義務を不可分とする国 民観そのままに、第二次世界大戦の勃発に際しピークに達 した。ハルトグラスは一九三九年九月一日付の『ノヴィ・ ジ ェ ン ニ ク』 紙 に「全 ユ ダ ヤ 民 族 は

ポ ー ラ ン ド と 共 に!」 ( Hartglas 1939: 3 ) と 題 す る 声 明 を 寄 稿 し て い る。

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207 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 206 これは、一週間前の八月二四日、ポーランド・シオニスト 会議において満場の拍手により受諾された、中央委員会の 宣言を支持する内容であった。 宣 言 文 は、 「シ オ ニ ス ト 組 織 と ユ ダ ヤ 民 族 は、 ポ ー ラ ン ド の 側 に 立 つ」 と し、 「自 ら の 自 由 と 独 立 を か け た 戦 い」 へのユダヤ共同体の協力姿勢を明示した。ハルトグラスは ここで、宣言が「全ユダヤ民族の名において」出されたの か、シオニスト会議にその権利があるのか疑問視する人々 も 存 在 す る と 指 摘 し、 そ う し た 批 判 は「何 が『民 族 ( naród ) 』 で あ る か を 理 解 し て い な い」 か ら 生 じ る も の で、 「民 族 と い う 概 念 を、 文 化 的・ 宗 教 的 あ る い は 歴 史 的 な型の一致する集団の算術的な総数と同一視している」と 批 判 す る。 彼 に よ れ ば、 「民 族」 と は「一 定 の 共 通 す る 考 えや共通の精神を持ち、自覚的に共通の目的へ向かう人々 の有機体的集合」であり、その場合にはシオニストが唯一 の正統性をもつユダヤ「民族」の代表であることは明らか である、という。より正確には、シオニスト会議は「自覚 的なユダヤ民族の名において」つまり「自らを建設しつつ あるユダヤ国家の名において」宣言したのであり、パレス チ ナ に お け る 五 〇 万 人 の ユ ダ ヤ 人 の 集 合 (す で に 一 定 程 度 国 家 と し て の 性 質 を 持 ち、 萌 芽 的 な 軍 を 持 つ) が、 シ オ ニ スト会議の口によって語っている、と説明する。背後には さらに六百万人のユダヤ民族がおり、さまざまな国に分か れて暮らしているとはいえ、彼らはシオニズムの圧倒的な 影響下にいて「シオニスト会議の演壇から出てくる一つ一 つの言葉を恍惚として聞き、それらの言葉を道標とも自身 の 進 歩 の た め の 道 徳 的 規 範 と も 見 な し て い る」 と い う。 従って、ユダヤ民族がポーランドの側に立つという宣言は 「三 五 〇 万 人 の ポ ー ラ ン ド・ ユ ダ ヤ 人 が、 法 的 命 令 だ け で なく道徳的命令によって、自分の意志によって、国民とし てまたユダヤ人として、ポーランドの自由裁量の下にある ことを意味している」という。ここでハルトグラスは宣言 文を抜粋する。 「武器を背負う能力がある者、 ポーランド・ユダヤ人はすべて、 軍に加わり、自らの血と命をポーランドのために 捧げる準備ができており、 ポーランドのユダヤ共同体全体は、 国家がユダヤ共同体に要求するあらゆる犠牲を、 被る用意ができている。 」 ハルトグラスはこの宣言を、ユダヤ系の政党や団体、宗 教共同体がこれまでにポーランドへの協力を言明してきた こ と を 総 括 す る、 確 実 な 保 障 だ と 述 べ る。 「パ ト リ オ テ ィ ズ ム の 行 動 に お い て、 ポ ー ラ ン ド 国 民 で な い 者 さ え も 含 め、ユダヤ民族全体の意思の証明を与えた」という。とい うのも、ポーランドの「反ユダヤ主義者たちがうんざりす るほど書いているような、世界に単一のユダヤの大国があ る わ け で は な い (そ れ は 第 三 帝 国 の、 金 で 雇 わ れ た か あ る い は 名 誉 職 の エ ー ジ ェ ン ト の 空 想 で あ る) 」 が、 し か し、 も し各国に分散する「ユダヤ民族が、最も権威ある代表の口 を 通 じ、 影 響 力 や 交 友 関 係 を ポ ー ラ ン ド の 善 ( dobro ) の ために活用したい旨、了解するよう求められたら、

そ れは最も重要な事項であり、一蹴すべき要求ではない」か ら で あ る。 「ポ ー ラ ン ド の 善」 の た め に 行 動 す る こ と は、 ドモフスキ初期の代表作「我々のパトリオティズム」にお いて「ポーランド人」の基準とされていた点である。ハル トグラスは今一度宣言文に目を向ける。 「 ユ ダ ヤ 民 族 全 体 は ポ ー ラ ン ド の 側 に !   血 と 命 、 財 産 そ し て 道 徳 的 支 援 を

ポ ー ラ ン ド の た め に !   重 大 な 瞬 間 に お い て は 、 皆 が 戦 列 へ 、 塹 壕 へ 、政 府 の 指 揮 の も と へ !   ポ ー ラン ド を 囲 む 防 壁 に お い て 、 我 々 は 防壁全体と緊密に結びつく礎石とならねばならない。 」 さらにハルトグラスは、ここで問題となっているのは他 でもなく「我々が国民であるところのポーランドの問題」 で あ る と し、 「我 々、 ユ ダ ヤ 人 は、 戦 争 を 望 ま な い

結 局のところポーランド全体が、全世界が、戦争を望まない のと同様に。しかし覚えておかねばならない、戦争が起こ ろうと、起こるまいと

ポーランドは、この歴史的な大 混 乱 か ら、 よ り い っ そ う 強 健 に な っ て 抜 け 出 ね ば な ら な い!   そしてユダヤ共同体は、民族として、自身のパレス チナにおける歴史的国家的計画に焦点を合わせつつ、

や は り い っ そ う 強 健 に な っ て 抜 け 出 る の だ」 と 結 論 付 け る。これが、ドモフスキ初期にみられる「パトリオティズ ム」と「ポーランド人」の定義とを敷衍し、ユダヤ人であ ることとポーランド国民であることとを両立可能と見なし たハルトグラスが、戦争の危機に直面して引き出した答え であった。 なお、ハルトグラスを含め当時のユダヤ共同体がどの程 度ナチスの危険性を認識していたかは議論の余地がある。 先述のように、第一次世界大戦期のドイツ軍による占領は

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209 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 208 どちらかというと「良い統治」として記憶に新しかった。 そうしたドイツ認識が「ヒトラー主義は勝利しえない。あ るいは血まみれの決定的な戦闘において敗北し、あるいは 降 伏 を 余 儀 な く さ れ、 徐 々 に 打 破 さ れ る こ と に な る だ ろ う」 と い う (戦 意 発 揚 で な い と す れ ば) 楽 観 に つ な が っ て いた。そして「ヒトラー主義やそれと結びついた黒と赤の ファシズムの全般的な撤退は、パレスチナにおける我々の 立場を強めるに違いない」とし、パレスチナへの移住推進 と正統化の強化にこの戦争が一役買う、という見通しさえ 示している。歴史家リンゲルブルムの記録においても、対 独戦がポーランド社会とユダヤ共同体の協力を強めるとい う肯定的な見方が紹介されていることから、開戦当初のハ ルトグラスの判断は極端に世論から外れていたわけではな かったと考えられる。 ハ ル ト グ ラ ス は 声 明 の 最 後 に、 「我 々 が 望 も う と 望 む ま いと

我々[ユダヤ]の問題は目下、ポーランドの問題 と緊密に結びついている。そのため、我々の民族全体は、 ポ ー ラ ン ド に い よ う と、 ポ ー ラ ン ド の 国 境 の 外 に い よ う と、ポーランドと共に歩み、ポーランドをかけて戦わねば ならない」として、運命共同体としてポーランド国家とユ ダヤ民族とが切り離しえないことを強調している。そして 付言して「このような重大な瞬間にさえ、…我々に対する 敵意に満ちたさまざまな行為」があると指摘し、ポーラン ド国内における反ユダヤ主義の高まりを示唆している。し かし、そうした行為を原因とする「多くの悲しみ」につい ては、いつか「話し合う時が来るだろう」と述べるにとど め、 い ま 争 点 化 す べ き で は な い と 戒 め る。 「今 は 悲 し み や 気晴らしの時ではない」のだから、 「共に結束して」 、ユダ ヤ 人 と ポ ー ラ ン ド 人 が「肩 と 肩 を 並 べ!」 「そ し て 今 よ り、全ユダヤ民族はポーランドと共に!」歩むことを呼び かけて声明を締め括っている。 こ の 声 明 を 書 い た と き、 ハ ル ト グ ラ ス は、 「三 五 〇 万 人 のユダヤ人の血と財産」をもってポーランド国家に貢献す るということが現実に何を意味するのか予見していなかっ た。声明からわずか三ヵ月余り、一九三九年一二月、ハル ト グ ラ ス は 家 族 と と も に ナ チ ス 占 領 下 の ワ ル シ ャ ワ を 逃 れ、パレスチナへ渡った。

「私は人間でいるのをやめた」 。パレスチナに降り立った 瞬間以降の自身をハルトグラスはこう表した。一九四〇年 二月二日、彼は家族とともにトリエステからマルコ・ポー ロ号に乗船し、パレスチナへ到着した。シオニストとして の言動とは裏腹に「そこですぐに死ぬだろうという予感」 を抱いての旅であった。この時を回想する文章が執筆され たのは一九五〇年であり、結局パレスチナ到着後も十年以 上生きていたことになるのだが、それは「誰一人にとって 必要のない、自分にとっても必要のない人間として生きて いる」時間であった。もはや一廉の人物ではなく存在意味 の な い「第 五 の 車 輪」 、 そ れ が パ レ ス チ ナ に お け る 彼 の 自 画像であった。 到 着 後、 ハ ル ト グ ラ ス は カ プ ワ ン ( Eliezer Kapłan, 1891-1952 ) ら 以 前 か ら 交 友 の あ っ た 知 人 や ユ ダ ヤ 機 関 の 幹部らに迎えられる。しかしすぐに、ワルシャワ時代に比 べ、ハルトグラスと彼らの立場が逆転したことに気づかさ れる。晩餐に招かれたハルトグラスは「ワルシャワでは、 私の事務所だけでなく、私の家に招かれるのは彼らにとっ て叶わぬ夢であったろう。まして、私たちを自宅へ招くな ど。それが起こったのだ」と、無名であった人びとがいま や主人役となっている社会に違和感を抱く。彼はロンドン の ポ ー ラ ン ド 亡 命 政 府 に 期 待 を か け て お り、 「ポ ー ラ ン ド は以前の姿で再現される。そして、まだポーランドにおい てユダヤ人大衆との関係において利用価値のある、名のあ るユダヤ人政治家たちが必要とされる」という展望を抱い た。それは「私はポーランドに戻り、そこでかつての地位 を占めるであろう」という願望と同じものであった。 現実にはポーランドへ戻ることはできず、しかし引退す るにも早すぎるという気持ちを抱きながら、生活していか ねばならない。パレスチナ到着以降の回想の大部分を占め るのが生活費の節約の話題である。彼は「内職」として文 章を書き始めるが、清書係がついているわけではなく、な かなか出版の見通しも立たない。新たにやってくる避難者 か ら 話 を 聞 こ う と す る が、 そ の 多 く は 彼 の 招 き に 応 じ な かった。 ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ (オ シ フ ィ エ ン チ ム) に つ い て の 第 一 報がパレスチナに達したのは一九四二年一一月頃とされる ( Hartglas 1996: 379-380, n. 63 ) 。 ハ ル ト グ ラ ス の 記 憶 で は 一 九 四 四 年 に「死 の 収 容 所 や ガ ス 室、 ワ ル シ ャ ワ・ ゲ ッ トーや他の町からの大量輸送について、最初のしらせが届 いた」という。二十数年前、反ユダヤ主義者からハルトグ ラスの友人へと態度を変えた農民党議員ミゼーラは捕えら れ、息子と共にアウシュヴィッツで没した。ポーランド社

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211 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 210 会との協力を信じ、ワルシャワに留まり貧困層支援と記録 を続けた歴史家リンゲルブルムは、ゲットー蜂起鎮圧後の 瓦礫の上で処刑された。 目的地へたどりついたはずのシオニストが求めた共同体 は、 死 線 の 向 こ う へ 去 っ て い た。 ハ ル ト グ ラ ス が 失 っ た 「見えない糸」 、彼が最後に「私の民族」と呼んだものは、 ポーランド・ユダヤ人社会、それもおそらくは、ポーラン ド語の定期刊行物で結ばれたワルシャワ・ユダヤ人の知的 コミュニティに他ならなかった。彼を認め、また彼が認め た 読 者 層 に「ポ ー ラ ン ド 国 家 の た め、 流 血 を 辞 さ な い 貢 献」を呼びかけたのは、ハルトグラス自身であった。判断 は適切であったのか、ゲットーに彼らを残しパレスチナへ 渡 っ た こ と は 正 当 化 さ れ る の か。 「自 分 の 罪 悪 感 や 卑 劣 さ と と も に 生 き る の が 重 苦 し い」 ( Hartglas 1996: 381 ) と い う 晩 年 の 独 白 に 答 え は 示 さ れ て い な い。 「灰 色 の 時 間 に 一 人座っているのがすきだ * 11 」と詩に記した彼の、先の途切れ た糸をつかむような望郷は、もはや目的地ではなくなった パ レ ス チ ナ か ら 遠 く、 「中 欧」 に 呑 み 込 ま れ た デ ィ ア ス ポ ラの地へと逆照射されたのである。 ◉注 *1 Żyndul ( 2000 ); Mendelsohn ( 1981 ). *2 グ リ ュ ン バ ウ ム は 第 一 次 大 戦 後 ポ ー ラ ン ド・ シ オ ニ ズ ム 運 動 の 主 導 権 を 握 っ た。 一 九 三 三 年 か ら パ レ ス チ ナ へ 移 り、 ユ ダ ヤ 機 関 移 民 部 代 表 と な り、 第 二 次 大 戦 中 は 占 領 下 の ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 に 残 る ユ ダ ヤ 人 を 救 出 す る 活 動 に あ た っ た。 一 九 四 八 年 五 月 一 四 日、 イ ス ラ エ ル 独 立 宣 言 に 署 名 し た 一 人。 Mendelsohn ( 1981: 74 ); Czajka ( 2010: 99-100 ). *3 例 え ば 一 九 三 〇 年 代 に ワ ル シ ャ ワ で 発 行 さ れ て い た 『ツ ォ フ ィ ム』 紙 は、 一 度 な ら ず 一 面 全 体 を 使 い ハ ル ト グ ラ ス の 論 説 を 掲 載 し て い る。 ま た 同 紙 は「ハ ル ト グ ラ ス が ク ラ ク フ へ」 と 題 し 講 演 会 の 宣 伝 記 事 を 打 っ た。 Hartglas ( 1938a: 1-2 ); Hartglas ( 1938b: 1 ). *4

Łętocha, Cała, and Głowicka

( eds. )( 1999 ); Cała ( 2005 ). *5 Kopówka ( 2001: 15 ) は シ ェ ド ル ツ ェ を 例 に 挙 げ、 ポ ー ラ ン ド 独 立 運 動 に 対 す る「リ ト ヴ ァ ー ク」 と、 も と も と 居 住 していたユダヤ人との態度の違いを指摘する。 *6 一 九 〇 三 〜 〇 六 年 に か け、 ロ シ ア 帝 国 で は 大 規 模 な ポ グ ロ ム が 南 部 を 中 心 に 発 生 し、 ポ ー ラ ン ド に ま で 波 及 し た。 ハ ル ト グ ラ ス が 目 撃 し た の は そ の 一 部 で あ っ た。 背 景 に は、 一 九 〇 〇 年 以 降 の 経 済 の 停 滞、 一 九 〇 二 〜 〇 三 年 に か け て の 不 作、 日 露 戦 争 の 混 乱 や 一 九 〇 五 年 革 命 に 対 す る 右 翼 の 反 動 が 挙 げ ら れ て い る。 衝 撃 は 大 き く、 ロ シ ア・ ユ ダ ヤ 人 の 転 機 に なったといわれる。 鶴見 (二〇一二:一〇八―一〇九) 参照。 *7 ビ ャ ー ウ ィ ス ト ク の ポ グ ロ ム に つ い て、 Hartglas ( 1906a: 281-289 )、 Hartglas ( 1996: 90-93 )、 お よ び Sohn ( 2009: 330-334 )参照。 *8 ド モ フ ス キ は 宣 言 を 独 墺 軍 へ の ポ ー ラ ン ド 人 兵 士 の 人 員 補 充 を 容 易 に す る た め に 出 さ れ た も の と し て い る。 ま た、 戦 況 が 悪 化 し た 場 合 に も 独 墺 の 構 想 に 沿 っ た ポ ー ラ ン ド 国 家 が 既 成 事 実 と し て 成 立 し て い る こ と で、 ロ シ ア 領 ポ ー ラ ン ド を 事実上ドイツ側に組み込むための布石であった、 としている。 *9 対 照 的 に、 ユ ダ ヤ 人 弁 護 士 に 依 頼 す る こ と で 判 事 の 心 象 を 害 す る こ と を 恐 れ、 ユ ダ ヤ 人 の 顧 客 は 彼 を 避 け が ち で あ っ た。 * 10 ハ ル ト グ ラ ス に は『ラ ス ヴ ェ ト』 に 掲 載 さ れ た 一 連 の 記 事 や パ ン フ レ ッ ト な ど ロ シ ア 語 の 著 作 も 多 く あ る が、 そ れ に ついて回想では特に触れていない。 * 11 二 〇 一 二 年 八 月 に テ ル ア ビ ブ に お い て 四 週 間 の フ ィ ー ル ド ワ ー ク を 行 っ た 際、 カ リ ン・ O・ コ ッ ソ イ 氏( Karin O. Kossoy ) の 御 助 力 に よ り、 ハ ル ト グ ラ ス の 孫 に あ た る 故 ア ロ ン・ エ シ ュ パ ル 氏( Aron Eshpar ) の 夫 人 リ フ カ・ エ シ ュ パ ル 氏( Rivka Eshpar )、 ハ ル ト グ ラ ス の ひ 孫 に あ た る ヨ ナ タ ン・エシュパル氏( Yonatan Eshpar )とイサマル・エシュパ ル 氏( Ithamar Eshpar ) よ り、 イ ス ラ エ ル で の ハ ル ト グ ラ ス に つ い て お 話 を 伺 う こ と が で き た。 ま た、 ハ ル ト グ ラ ス の 長 男、 故 テ オ ド ア・ ハ ル ト グ ラ ス 氏( Theodore Hartglas ) の 自 伝(未 刊 行) や、 引 用 し た 詩 を 含 む 晩 年 の メ モ、 書 簡、 写 真 を 閲 覧 さ せ て い た だ い た。 深 く 感 謝 す る。 な お 本 稿 で 扱 っ た 資 料(定 期 刊 行 物、 パ ン フ レ ッ ト 等) は、 主 に ワ ル シ ャ ワ の ユ ダ ヤ 歴 史 研 究 所( ŻIH )、 ワ ル シ ャ ワ 大 学 図 書 館、 国 立 図 書 館、 ポ ー ラ ン ド 科 学 ア カ デ ミ ー 図 書 室 で 閲 覧 し、 一 部 を エ ル サ レ ム の イ ス ラ エ ル 国 立 図 書 館 に お い て 閲 覧 し た。 ポ ー ラ ン ド 史 全 般 に つ い て は、 北 海 道 大 学 附 属 図 書 館 と ス ラ ブ・ ユーラシア研究センター図書室所蔵の文献を参照した。 ◉参考文献 鶴 見 太 郎(二 〇 一 二) 『ロ シ ア・ シ オ ニ ズ ム の 想 像 力

ユ ダ ヤ人・帝国・パレスチナ』東京大学出版会。 デ イ ヴ ィ ス、 ノ ー マ ン(二 〇 一 二) 『ワ ル シ ャ ワ 蜂 起   一 九 四 四

英雄の戦い(上) 』染谷徹訳、白水社。 ハ ウ マ ン、 ハ イ コ(一 九 九 九) 『東 方 ユ ダ ヤ 人 の 歴 史』 平 田 達 治・ 荒 島 浩 雅 訳、 鳥 影 社( Haumann, Heiko, Cezary Jenne ( trans. from German )( 2000 )Historia Żydów w Europie

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ポーランド政府の論理とユダヤ議員団の論理」 『現代史研究』 四七号、四七―六五頁。

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213 戦間期ポーランドのマイノリティと居住地 212 安 井 教 浩(二 〇 〇 三) 「ポ ー ラ ン ド の 政 治 言 語 に お け る『ユ ダ ヤ 人』

一 九 二 二 年 の 大 統 領 暗 殺 前 夜 の 場 合」 『神 話・ 象 徴・文学』三号、二八三―三三三頁。 安 井 教 浩(二 〇 〇 七) 「第 二 共 和 政 ポ ー ラ ン ド に お け る 議 会 政 治 の 幕 開 け と 民 族 的 少 数 派

東 ガ リ ツ ィ ア・ ユ ダ ヤ 人 の 選 択(一) 」『長野県短期大学紀要』六二号、一三七―一五一頁。 安 井 教 浩(二 〇 〇 九) 「第 二 共 和 政 ポ ー ラ ン ド に お け る 議 会 政 治 の 幕 開 け と 民 族 的 少 数 派

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214 著者紹介 ①氏名…… 宮崎悠 (みやざき・はるか) 。 ②所属 職名…… 北海道教育大学教育学部国際地域学科 ・ 講師。 ③生年・出身地…… 一九七八年、北海道小樽市。 ④専門分野・地域…… 政治学、国際政治。 …… 北 海 道 大 学 法 学 部、 北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 修 士課程、同博士課程、同博士 (法学) 。 …… 北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 助 教、 日 本 学 術 振 興 会 特 別 研 究 員 P D( 同 大 ス ラ ブ 研 究 セ ン タ ー) 、 成 蹊 大 学 法 学 部 助教を経て、二〇一四年四月より現職。 …… ポ ー ラ ン ド( 一 九 九 九 年 〜 二 〇 〇 〇 年、 私 費 に よ る 在 外 研 究 )、 ド イ ツ( 二 〇 〇 八 年、 国 際 ロ ー タ リ ー 財 団 奨 学 生 )、 イ ス ラ エ ル( 二 〇 一 〇 年・ 一 二 年、 特 別 研 究 員 奨 励 費による在外研究) 。 ⑧研究手法…… 史料、文献調査。 ⑨所属学会…… 比較政治学会、 東欧史研究会、 日本ユダヤ学会、 日本国際政治学会。 …… 一 九 八 九 年 に ベ ル リ ン の 壁 が 崩 壊 し、 一 九 九 一 年 に は 地 図 上 か ら ソ 連 が 消 滅 し た こ と に 衝 撃 を 受 け た。 大 学 で は 第 三 外 国 語 で ポ ー ラ ン ド 語 を 学 ぶ こ と が で き、 この地域への関心を深めるきっかけになった。 …… エ マ ニ ュ エ ル・ リ ン ゲ ル ブ ル ム『 ワ ル シ ャ ワ・ ゲ ッ ト ー

捕 囚 一 九 四 〇 〜 四 二 の ノ ー ト 』( 大 島 か お り 訳、 み す ず 書 房、 二 〇 〇 六 年 )。 フ ェ リ ク ス・ テ ィ フ 編 著『 ポ ー ラ ン ド の ユ ダ ヤ 人

歴 史・ 文 化・ ホ ロ コ ー ス ト 』( 阪 東 宏 訳、 み す ず 書 房、 二 〇 〇 六 年 )。 ア イ ザ ッ ク・ バ シ ェ ヴ ィ ス・ シ ン ガ ー『 不 浄 の 血 』( 西 成 彦 ほ か 訳、 河 出 書 房 新 社、 二〇一三年) 。ボリース ・ パステルナーク『ドクトル ・ ジヴァ ゴ』 (工藤正廣訳、未知谷、二〇一三年) 。

参照

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