われわれには→われわれを束縛してやまない生死︵無明︶の業と、その束縛より解放せしめんがための佛性の業 とがある。佛教において業論はきわめて大きく重要視されてきたが、それは、それら諸業がわれわれを束縛してや まない業であるが故であり、それらの諸業からわれわれを解放せしめることこそが佛教の目的であるが故である。 従っていうまでもなく、佛教の歴史は、佛︵覚者︶の智慧に基いて、その智慧から必然的結果としてはたらきでた ① 慈悲のはたらきをもって、われわれを生死︵無明︶の業から解放せしめんとした解放の歴史であったといえよう。 ところで、われわれを生死︵無明︶の業より解放せしめる佛性の業とは、次下に解読を試みた﹁究寛一乗宝性論 ︵罰四目樹○餅ゆぐ号圃盟巨農母習○詐胃四国ロ耳②︲勘、曾包︶﹂とその註釈︵冒圃︶に明らかな如く、﹁厭離微土・欣求浄土﹂ ということにほかならない。佛性思想は、.切衆生悉有佛性﹂という大前提の上に成立している大乗佛教におけ る重要な思想の随一であるが、﹁生きとし生ける者ことごとくに、佛性︵g&富︲目副巨・覚者となる因︶がある﹂
俳性の業一七三
佛性の業
I厭離微土・欣求浄土
はじめに
、 −J ノ川
一乗
というこの思想を、目下の〃佛性の業″ということで換言すれば﹁生きとし生ける者ことごとくに、〃厭離械土・ 欣求浄土″という業がある﹂ということである。まことに、稔士︵生死。無明の世界︶を厭離し、浄土︵浬盤・真 実の世界︶を欣求することこそ佛道実践の基本であり、そこにこそ発菩提心の発動がある。械土に対する厭離なき 浄土に対する欣求はなく、浄土に対する欣求なき微土に対する厭離はない。而して、厭離と欣求なくして浄土を語 るは浄土を汚し、欣求と厭離なくして械土を語るは所詮無明でしかない。 ② 次下に解読を試みた部分は、宝性論において〃佛性の業″が解説されているところであるが、そのダルマリンチ ェンの註釈︵目圃︶が難解であるため不充分な解読に終らざる得なかった。従って、一応の解読試文でしかない。 ︹この解読試文について︺ ③ ② ① 註 一 一 、 、 一、サイドラインを附してある部分は宝性諭本文︵四件.つぎ息.吟︾勺窃怠.扇も.雪息.巴であり、その外の部分はダルマ ③ リンチェンによる註釈︵目圃︶の文章である。 ⑱写・︾屈凹9国唱吋習劃ぎず倒叩凹巨巴働﹃山口○斧肖印3ロヰ四︲獣昇3︵両日オ①。ざ割圃国.]○ぽ口黒○口︺勺異口p︾乞呂︶ 司圃︺旨四目乱口○詐四司沙曾具3︲目&︵○3日.zo自白臆﹄目呂.z○.豊囲.目冒蔵外七四︶ 一、︹︺内は意味を明確にするために挿入した解読者の文章であり、︵︶内は語意を明確にするため補ったものである。 一、各区切の終りに示した︵︶内の数字は目圃︵○冨昌本︶の頁数行数である。 白井成道﹁根本佛教の立場﹂︵ポストエ﹂ダ’一スト、第2号、FAS協会︶参見。 この点については、拙著﹁インド大乗佛教における如来蔵・佛性の研究﹂︵文栄堂︶第一部第一章を参見されたい・ ダルマリンチェンの宝性論釈︵笥圃︶については、前掲の拙著の序説第二を参見されたい。 一七四
も願いもないであろう。 いもないであろう﹄︵き。あ算.や韻︶ ︵この偶文に対する釈疏は、次の如くなされている︶ もし本来的に清浄であり無漏の種子である佛性守目富︲合剖口・佛となる因︶がないならば、苦の過患︵且日蝕く四︶ を見ることに対する厭離︵昌壗ぐ己︶はないであろう。また、安楽の利益を見ることによる浬梁に対する欲求も要求 ﹃苦を厭い、寂静を得んとの切望と願いとの業を有する﹄︵甜・四1口吻匡も.ざ︶ ︵この半偶に対する釈疏は、次の如くなされている︶ ① ︹佛の︺種姓命○吋煙︶を具する者のなす業祷肖目色︶が大いなる願望︵日農鼠昌邑冨︶であることは、輪廻の苦 なる膿にたえないことを了知して輪廻の苦を厭離し、寂静なる浬藥を得んとの切望と、得ていたらという願いを業 としていることである。そのような考え︵g目巨︶が生じるならば、︹佛の︺種姓を有する者のなす業であると知 るゞへきである。︵目圃︾魑騨・︲。︶ これによって指示されている︵凹僅巨魁︶証成︵出目四口四︶は、〃有情には佛の種姓︵g目冨︲頃︶茸曾︶がある。何
佛性の業一七五
﹃もし佛性︵g&園︲島国目︶がないならば、苦に対する厭離はないであろう。また浬藥に対する欲求も要求も願︹佛性の︺業の意味を広釈する
︹佛性の︺業︵菌忌日どの説示
となれば、輪廻が嫌悪︵巴員国︶され捨離されんとし、浬樂が獲得されんとするのを見るが故である〃ということで ある。G5・I忠亀︶ ③::.⋮⋮③ 対する厭離もなく、浬藥に対する切望も欲求も要求も願いもないであろう″ 意志︵8苗圃︶であり、心の発露︵日斥g冒隅目の厨国︶であるとは、かの方便によって浬藥が成就されるであろう ことを見て愛慕することである。︵穐唱l毎︶ というそれは$︹得る。へき対象を︺すでに了解していることである。願 ︵四g居里目︲胃陣国︶を得ることに卑劣︵切目員○s︶でないことであるとは、かの功徳を具えているものを得んとする であるとは1浬 ︹浬梁に対する︺ る苦の過患を見ることによって︹輪廻に対する︺厭離を生起せしめ、浬藥における安楽の利益を見ることによって 且国曾︶の有情においてさえ︲も、二種の事柄︵圃昌四︶を実現︵冒呉冒冒印昏3m目煙︶する。すなわち、輪廻におけ ⑤ 1コ私﹄型に豆夛了小川J一,、ノノm叩J7皇・ずげ乢詑く一・丁ぐ無く、︽司軋、。︸・う.ニュゴ当︲r↑ノ、ノ、J、Ⅱノ、..、ノ、JO’一・、1ノ可α111JっJ二、lFl︲卜しI〆〃、fM、I言.、ヨョ・当Iノ ﹂とである。
’
次の如く、 その点について略説すれば、佛性合且︵岸畠︲目削ロ︶なる本来的 ④ ヨ有含目ぐ餌・輪廻︶と浬藥とにおけるその苦と安楽と、過患と功徳とを見るのは、 ② 勝鬘経の中に、 浬藥において得らる、へき功徳が具わっていると了知することである。 要求︵冒凹.碁自国︶は熱望され、︽ 切望と欲求と要求と願い 〃世尊、もし如来蔵︵菌昏凋鼻騨︲盟号目・如来を生み出す胎蔵︶がないならば、 ︺とを生起せしめるのである 左対象を得 。ための方 に清浄である種姓命○茸騨︶は、邪定聚︵目]昏乱茸四︲ 便言凰冨︶ その い︵官営己巨︶は熱望された対象に対する に ’ゴ を探求すること念 と説かれている。 切望︵o冨目四︶は熱望 欲求︵旨呂四︶は熱望された対 ︹佛の︺種姓︵唱茸四︶があ ︽一呈一、 一斗しユノ 、IIIllIll1 騨国員﹄pH函凹旨漕凹︶ 、当。●凸Iノ ︷四ロロ匡四い四一 / ◆、 -7寺、 ∼ ヤー 韓『 一 一 。 〉一・ V,− ある 象 ’考されて、輪廻における苦の過患が見られ、 ︵この偶文に対する釈疏は、次の如くなされている︶ 有︵輪廻︶と浬藥とにおけるその苦の過患と安楽の功徳とを見るのは︹佛の︺種姓があることによるからである。 およそ、有︵輪廻︶と無︵浬藥︶との過患と功徳とを見るそのことは、︹佛の︺種姓なき人々にはないからである。先 によっては︹輪廻に対する︺随行︵、自侭Pgが、後によっては︹浬藥なる︺止滅︵口旨員昌︶が説かれている。︵縄竪︲。︶ 脱の種姓があると妾 輪廻の過患と、解脱の利益を得ることと、空性の声を聞くこととによって〃身の毛がょだっ〃等が起こるとき、 自らの相続において順解脱分の善根︵go厨§鼠唱制︲丙巨獣]pgpgがあると知るべきである。しかし前もって作ら れている順解脱分と同一ではない。何となれば、そこにおいては、道を修習する必要がないからである。 その意楽なくして、別解脱律儀︵冒幽計目○戸閏︲闇日ご胃四︶は全く︵自己︲目②︶生じがたいことによって、輪廻の過患 を見て、︹それを︺厭離する習気︵﹃開四目︶を起立することに精進す寺へきである。清浄なる朋友によってよく説明さ れたことによりただ一度だけ︹その意楽が︺生じたときでも、順解脱分の善根を具すると知るべきである。︵縄ご#。︶
│
③
るときにあるが、種姓なき人々には、そのことは認識されないのである 白分︵曾匡倒尉⑳ゞ・性善︶ そのような随行と止滅とを決定する根拠佛性の業
cにあるのである。従 なる順解脱分を具する人によって、 、 〆,1,.0日︲■︲4︲︲︲11h日■0140111︲h卜Db .何故であるか、 って、因なく縁なくしてそれが生起するとい また浬築における安楽の利益が見られるそのことは、 によって、一般的なものと特殊なものとしての輪廻の過患が思 ’11.1.,・⋮⑦ と云わば、|
I
もし殺生などの罪悪
﹄︵埠胄o︾の︸くげ.己.四m︶ 、うのは道理でない。 ⑧ ︵凰冨︶を排除するこ 一七七 相続において解’
における諸々の有情の身にすらも、如来の日輪の 圃国︲切目国︶の中に、﹁その点について、後に正法を聞くことによって、 ある。︵縄恵l麗騨“︶ を生じない限りその限り、 楽︶を具する菩薩や独覚の種姓ある者や声聞 q呉目ぐ鼻︲m己冒日ロ寓目︶者の身の上に、順次に 解せしめる。 過誤に堕ちいるという命題 | ’ 有と無との過患と利益とを観る 正しく,具有することによって、 服って如理作意々○日の○日、日煙の房習.農︶に住 覚肌する縁としての善き人に出遇うこと、ま 。、 見ることがかれにあるならば、 とによって生起するその
|
’ 種姓を断たれた状態の人々であるかれら︵一關提︶にも種姓がある。その理由は、智慧顕現荘厳経︵百画目巨国伍日︲ ⑫ 過誤に堕ちいるとして指摘した確かな証拠 を具する菩薩や独覚の種姓ある者や声聞の種姓ある者や浄らかな深い意楽を具する有情や正しい信解を具する 郡くてはなくして、 言国且副︶における障害︵目目沙︶を説示・三乗の中の随一の法に対する信解 有と無とにおける過患と利益とを見る知恵︵g&宮︶を生ずることは達成−’
そのことがあることになろう。しかしそうであっては過誤に堕ちいることになる。 ⑩ 般浬梁しない種姓を有する者としての一剛提︵旨。冨昌時四︶にすらも 厨国垣に住すること等である解脱を得る縁としての四つの白法︵8目原巨富P︶を ︹佛の︺種姓を覚齪せしめ、︹佛の︺種姓を覚解したことによって和姓があると了 およそ遇来的な垢を浄化した種姓は→まえもって福徳を積んでいること、川境に住すること、自からよく
⑪ 降りそそぐことによって、かれらを利益することになる。そして未来 ⑨︲︲!︲︲︲︲︲:⋮,.⑨ 因なく縁なくして、︹佛の︺種姓なきに、⑬I
︹如き︺智慧の光が、 ねがい 浄らかな深い意楽︵且ご凱葛沙・増上意 邪定の相続︵日鼻萄劃く印口々胃 を生ずることは達成しえないので ︹それが︺はじめから在ることを 一七八 有と無との過患と利益とを 、︾そのL﹂き、 へ④。彦旨ロロ丙は︶〆、
少,の四、。冒計倒口四︶修得完成されるべき種姓︵“四日口目昌菌︲唱吋四︶があるが故に、畢寛じて不浄なる性質の者はありえない。 次のことが伺察されるべきである。すなわち、 ①一切有情によって佛が得られることが可能であるならば、佛は後にごく少数の有情の利益のみをなすべきであ ることによって、利他は少分となり、福徳聚を円満しないことになろう。 ②一切有情が成佛してしまっているときは、︹佛は︺一人の有情の利益すらもなさないことになるから、︹佛の︺
佛性の業一七九
法を怨怒すれば解脱を得ることにならないという とが、邪な輪廻に愛執する力を有することをます 根本意趣は、︹かれが大乗の法を処 なく、︹なかなか︺解脱が得られない と説かれていることに矛盾する、と云わぱ、そのように説かれたそれは、 の因である解脱道 琴へきではない。すなわち一切有情には、本性として清浄なる邨姓︵胃鳥目︲冨尉泳巨目目︲襖︶茸四︶があるが故に、また 次の如く、聖般渥桑︹経︺等の多くの経典の中に、 遇来的な垢によって︹そのために︺畢寛じて清浄とならず、 ﹁ 一關提︵甘○冒貝詩巴 、 町脱を得ることにならないという必要性としての大乗の法を怨怒することを止滅せんがためである。 ︹かれが大乗の法を怨怒するとき︺数えきれないほどの長い間の他時を輪廻に流転しなければなら が生じることによって、 は畢寛じて般浬梁しない性質を有する﹂ ことを意趣して説かれたのである。︵器ご’鰐︶ とをますます増長する者︵旨呂四口邑圏 善法を増長せしめる﹂ 佛を得ることができない有情が一人でもいるとなす ⑭ と説かれている︵畠騨奎︲。︶ ︵胃巴揖威も餌H泳貝丘巨︲喚︶茸騨︶があるが故に、 大乗の法を怨怒し、解脱に背を向けるこ 一関提︶の因であるが故に→大乗の利他は断たれることになり、虚無の辺に堕ちいることになろう。 ③一切有情が佛を得ることが可能でないならば、正等覚者たちによって自ら獲得されたその位に一切有情を安立 せしめんとして、輪廻の続く限りなされる十二の仕方︵十二分教︶によっての転法輪は効果なきものとなり、また 一切有情が輪廻の苦を寂滅することのみを求めても、しかも大乗の大悲という特徴を円満しない。すなわち世尊た るものとして自ら︹獲得された︺その位に一切有情を安立することが︹でき︺ないとき、法を愛惜して弟子に伝え ⑮ ないこと︵§の9戸ぽ目且︶がある過誤に堕ちいる︵堕過︶等の五害が説かれていることに矛盾する。︹何となれば、 それら五害を説く必要がないことになるからである︺。 艸一切有情によって輪廻の苦が寂滅され得ることができるときは、究寛一乗としてすでによく証成されているこ とによって、佛を得ることが努力なくして成就し、︹また︺解脱を全く得ることが可能でない有情がいるときは、 それは声の如くにあらざる密意︵号冨胃身四︶を有するものとして、聖軌範師によって教証と理証とをもって証成 されているのと矛盾するから、︹これらの点について︺どうしてであるかを説明しなければならない。 一切有情が佛を得ることが可能であるとき、輪廻に辺際がないと述べることも合理的でないものとなろう、と云 わば、それについて、二がある。 ⑪反対論者の主張を否定する。 ②自らの主張を設定する。 第一︹反対論者の主張を否定する︺・或る一類の人あっていわく。﹃一切有情は成佛するであろうと決定することは 一八○
⑯ 現に望めないし、︹一切有情は︺成佛するであろうという可能性のみとしても証明することはできない。すなわち 果が生じる可能性を証成するためには、因聚の充分であることが証拠︵]罫彊︶として確立される必要がある。もし 一切有情において佛︹となるため︺の因聚が充分であるならば、解脱道にいまだ悟入していない有情はありえない という過誤に堕ちいること︵堕過︶になる。その同じき理由によって、有情は、有情が輪廻して輪廻がある限り、 それ以外としてなく、従って輪廻の終局もない。また、〃究寛一乗として証成される意味︵胃普騨︶は、︹解脱︺道に すでに悟入している一切有情が成佛するであろうとの意味である〃と説かれているとしても、しかし︹そのように 説かれている︺宗︵胃四且鼠・命題︶が道理によって証明されているのは見られない。すなわち、因聚が充分である とき、果が生じる可能性の普遍性・確実性は道理を語る概念︵号冒冒身凹︶であるが、しかし果を生じることが可能 であるとき、因聚が充分であるとの普遍性は︹道理を語る︺概念でない。何となれば、道理に矛盾するが故である。 それはまた︹たとえば︺、麦の種子より麦の芽が生じることは可能であるが、しかも︹種子だけでは因︺聚が充分 であると証成されないが如きの故である。 またさらに、聖なる声聞たちによって佛が得られることが、⑩可能であるか、或は、②可能でないか。第一の如 く︹可能︺であるとき、︹声聞にも︺佛の因聚が充分であるという過誤に堕ちいること︵堕過︶を許すことにおい て、︹声聞が︺大乗の道に悟入しているという堕過となる。前後両方の堕過の証拠︵]日溜︶と妥当性つ目§は︶は ⑰ 承認されているし、後の堕過が極度の堕過︵餌は冒閉§鴨︶であることも承認されている。一切有情が︹大乗の︺道 に悟入している者のみではないことに違反する。第二の如く︹不可能︺であるとき、事実に矛盾する。究寛一乗で あることにも矛盾する。また一切有情が成佛するであろうとき、成佛してしまっていることがありうると認めるべ
佛性の業一八一
きであるというのも︹汝の︺主張としてきわめて明らかである︹が、それは全くの過誤である︺・﹄と。 他の人々があっていわく。﹃輪廻に終局はないという定義はその通りである。一切有情は成佛するであろうとし ても、一切有情が成佛してしまっていることはありえない。しかるに、一切有情が成佛するであろうとき、一切有 情が成佛してしまっていることがありえるのは普遍的である、と許すならば、〃一切法︵g凶ぐ鱒︶は消滅してしまっ ていることがありうるという堕過となる。何となれば、一切法は減するであろうからである。〃という堕過について ︹このことを反証する︺証権︵胃酋日日︺沙︶と承認︵隣惇冒冨盟白煙︶との明確な何らのものも説示する根拠がないとい う堕過を説示している。しかるにそのことが許されるとき、どのような過誤があるか、︹と云うと︺、〃一切法が消 滅してしまっていることがありうるとき、一切法が虚無であることがありうる〃という堕過となる﹄と語るならば ︲もの ︹釈答︺・全く許される。すなわち、︹汝の論法によれば︺〃一切法舎彦画く四︶が無であることがありえないとき、法 もの 含目ぐゆ︶が無であることはありえない〃と認めねばならないことになろう。︹そうであれば︺〃その限りの法は有で ︲もの あるが、それ以外としての法は無である″ということが堕過となる。︹もし反論して︺〃一切法が消滅してしまって もの いることがありうる︹という堕過となる︺が故に〃と云わぱ、その意味が、それ以外の法はありえないということで 堕過となるという意味であるとき、しからば〃その限り青は有であり、それ以外として青は無である〃と証成でき ることが堕過となる。青が消滅してしまっていることがありうるが故に、︹汝の主張の︺証印官凋騨︶が成立しない とき、︹汝にとって一切法は︺常住実体的なものという堕過となる。すなわち、自らの因より生じて消滅してしまう ことがありえないが故に、一切法が消滅してしまうことはありえないことにおいてもまた、そのような堕過となろう。 〃一切有情が成佛してしまっていることがありうることは堕過である。成佛するであろうが故である〃というこ 一八二
とについて、一類の人あって〃一切有情が死んでしまっている者として普遍であること︵ご箸gは堕過である。 一切有情は死ぬであろう者として普遍であるが故である〃という過誤を︹職として︺語るのは、知識がきわめて粗 雑であることを明らかに示している。 先の堕過において﹃〃一切有情が成佛してしまっている者として普遍であることは堕過である″といわれ、或は 〃一切有情が成佛してしまっていることがありうることは堕過である〃といわれていることが正確に了解されるべ きである。〃一切有情は成佛するであろうけれども、成佛するであろうと決定しているのではない〃﹄と語るのは、 ⑱ 道川を知らない混乱︵ぐ陦倒国︶であることが明らかである。そもそも〃汝の一切有情は成佛するであろう″というか の決定智︵日野騨冨︶は、汝自らの相続である証権︵冒騨目四目︶によってもたらされるのか、或はもたらされないのか。 第一の如く︹汝自らの相続である証権によって、その決定がもたらされるの︺であるとき、﹃︹一切有情は成佛す るであろうけれども︺一切有情は成佛するであろうと決定することにおいて堕過となる。一切有情は成佛するであ ろうと証権によって決定するが故に、︹しかもそのことの︺普遍であること︵ぐ乱冒亨遍充︶は証成されない。すな わち証権によって決定されても、事実︵胃昏四︶において決定されていないが故である﹄と云わば、〃汝の一切有情は 成佛するであろう″というかの決定智は、固執された対象︵煙g目ぐの笛︲ぐ冒冨︶に対する雑乱の邪智であることに おいて堕過である。汝の知識によって〃成佛するであろう″というように決定するのであり、事実の根拠︵胃昏四︲ の夢目色︶を欠いていることにおいて〃成佛するであろう″という決定は何らもありえないが故である。たとえ火に よって煙が生じると証権をもって証明しても、︹煙の︺生じていることが︹事実として︺決定していないその如く
⑲⋮:.・・・⋮⑲⑳
であるとき、矛盾を確定すること︵目鼻冒冒、︶への反証︵胃鼻号色目盲︶はありえないであろう。註釈の中に﹁決佛性の業一八三
定されないものでこそ︵圏eある。反証する者がありうるが故に﹂と釈されているからである。 同じく︹証権を重んじる汝の立場から︺﹁成佛するであろうと決定するとき、成佛するであろうことについて矛 盾を確定することへの反証︹相違縁の害︺はありえないことになるからである﹄と云わぱ、職と事実との両方がと もに証成しない。すなわち、かの職において、火によって煙が生じると証権によって決定するとき、︹現に煙の生 じていることが決定していなくとも︺煙が生じると決定しないのは矛盾である。証権によって決定しないとき、命 題︵官鼻昔画︶の意味が証権によって証成されない如く、命題は、われわれの命題なるものを設定することを証成せ しめる何らの真実性もない、と自ら暗愚であることを示しているだけである。 さらにまた、﹃聖なる声聞や独覚たちは成佛するであろうと決定していないという堕過となる。成佛するであろ うことについて矛盾を確定することへの反証はありうるが故に、︹それについての︺普遍性は認められる﹄と主張 するとき、究寛一乗と決定することを自からも主張することに矛盾する。註釈のかの本典の意味もまたその如くで ないと、その解釈において広く述尋へられた。その如くでなくして、汝が主張する如くであるとき、瓶は存在すると 決定されない堕過となる。瓶が存在することについて矛盾を確定することへの反証はありうるが故である。それ故 に、生じることについて矛盾を確定することへの反証がありえても、それが生じないとすることはできないことに ついて、どのような矛盾があろうか。 第二の如く︹汝自らの相続である証権によって、その決定がもたらされないの︺であるとき、︹すなわち︺一切有 情は成佛するであろうという汝のかの決定が汝自らの証権よりもたらされないとき、汝にとって〃一切有情は成佛 するであろう″という命題は道理でないという堕過となる。また〃成佛するであろう″という汝の判断智は適切な 一八四
もの︵四口ぐ胃昏四︶でないという堕過となる。〃成佛するであろう″というそれは、汝の相続である証権によって証 成されないが故に、普遍性がないことにおいて、見られず知得されない因言①目︶は真実でないと誹誘されねばなら ⑳ ないことになる。その如くであるとき、因は他の真実についても道理は同じであるから、間接的な認識令閨○︺爾騨︶ のす等へてを証成する何らのものもない、と認めねばならないことになる。それ故に、了解を具する賢者と愚者との 差別は、自らが認める命題の意味を証権によって証成する方軌を明確に設定することを知っているのと知らないと 差別は、自ら缶 の差別である。 一切有情は成佛するであろうことが証権によって証成されて、成佛するであろうことがあると決定されないとき 証権によって知覚されるものはあると決定される設定がなされないことになる。成佛するであろうものとして存在 していることは定まっていて∼成佛するであろうと決定されない、と語ることより他のどのような不道理があろう か。一切有情の空間命口騨の︶と時間︵計のロOSとの面より、成佛するであろうと、成佛しないであろうと、必定して いるかしていないかである。後の如く︹に必定していないの︺であるとき、︹成佛するであろうとか成佛しないで あろうという︺承認は矛盾する。第一の加くに︹必定しているとき、すなわち︺成佛しないであろうと必定してい るとき、承認は矛盾する。成佛するであろうと必定しているとき、成佛するであろうと定めないのは矛盾である。 有情の空間と時間との面より、どこにおいても︹成佛するであろうと︺必定していない、と云わば、有情の空間と 時間との面よりどこにおいても︹成佛するであろうと︺必定していないとき、成佛するであろうと汝によって判断 されるそれは相応なきもの︵四$目富国旦冨︶となろう。 ﹁無垢なる種姓に道を開く力なく、
佛性の業一八五
じき道理によりて一 認めねばならない。 云わぱ、 第一一︹自らの主張を設定する︺.すでに述ぺた如く、成佛するであろうと認めて、成佛するであろうことを尊重する のを認めないのは道理に矛盾すると述べた。一切有情は成佛するであろうと証成されないというそれも、道理とし て伺察にたえられない。一切有情の心は本性として清浄でないとき、所知を真実体︵の鼻冨・諦︶として成立する法 ︵。丘肖日蝕︶はありうると認める雫へきであるから、一切法は諦空︵の四q四︲自国目四国︶であると証権によって証成されな いが故に、勝義諦は設定されないことになる。︹しかるに、一切有情の︺心は本性として清浄であることが証権に よって証成されるとき、而執なる習気を具する垢が心を離れる可能性において、︹垢が︺遇来的であると、かの同 じき道理によりて証成される。それ以外としては外教の学徒︵日留日倒昌の騨冨︶の如く、垢が心の本性に入っていると ⑳有情たちの相続であるかの垢を擢破する方便がないが故であるか、或は、 ②方便があっても、知る者が誰もいないが故であるか、或は、 ⑧それ︵方便を知ること︶があっても、求めることを随時に生じえないが故であるか、或は、 垢を離れる可能性を証権によって証成するも、垢を推破する対治が相続において生じる可能性を証成しない、と 佛説を捨てるに等しい﹂ 勝者︵佛︶の真意︵§ご甘劉四︶を註釈する、と語るは、 聖教に教化をあらわす教令なきに、 一八六
第四もまた道理でない。有情が自から求めるとき︹でも︺、佛世尊は一切有情を一子の如くに慈しむことが害さ れないことによって、法を説示することを捨てないが故である。 第五もまた道理でない。しばらく︹佛の︺種姓を月覚めしめる縁を完備して、種姓に目覚めることになることは 本論の偶頌や解釈文等によってよく証成されているが故である。 以上、成佛するであろうことがありえない人はありえないと認めて〃一切有情は成佛しないであろう、または成 佛するのでも成佛すゞへく定められているのでもない〃と認めるゞへきでない。
佛性の業一八七
第三もまた道理でない。諸佛の激励︵88口四︶によりて、至福︵:耳目昌騨︶を求めることを生じない有情はあ ⑳ りえないが故に、また至善︵日原H①菌3︶を求めることをともあれ生じないとしても、一切有情は佛の二極姓を具 するが故に、また一切有情が佛位に立つことを許す悲︵冨目目︶を害さないことによって、ともあれ一人でも輪廻 を厭離し浬樂を求めることを生じることになるが故である。これは三伺察によって清浄なる聖教の正しくの因に依 りても証成される。 しているが故である。 ⑤示されても、かの方便に悟入して学修することがありえないが故であるか、である。 第一は道理でない。無我を了解する般若を学修して垢をことごとく滅尽することが可能であるが故である。 第二は道理でない。有情のために、無我を了解する般若を学修する方便が到彼岸の説示を道理をもってよく証成 ● ④そのことがありえても、方便を知れる人によって慈悲︵同日︶が等起されそれが示されることがありえないが 故であるか、或は、しからば﹁一切有情は成佛してしまっているというのは堕過である。成佛するであろうが故である﹂と云わば、 実に許される。成佛してしまっているのは堕過であると罵る画く庸君︲︶のは道理でないとすでに述べた。 しからば、﹃有情はいつも存在しない者︵:園ぐゅ。無︶でありうるのは堕過である。一切有情は成佛した者とし て存在している者︵g当騨。有︶であるが故に﹄と云わば、︹その主張には︺普遍性がない。汝が成佛した者とし ての存在であるとき、汝が存在しない者︵昏圃く沙︶であることは矛盾である。有情が無︵非存在・各自くい︶であり うるのは堕過であるというけれども、実に許される。畢寛無なる法︵g習四︶が存在しているが故である。 ①諸佛の目的とされる対象としての有情が無︵非存在︶でありうることは堕過であるというけれども、許される。 先の如くである。②佛の目的とされる対象としての有情が断滅することがありうるのは堕過である。一切有情は成 佛した者として存在しているが故である︹というけれども許される︺。③しからば、第八地の菩薩を特性とする汝が 断滅することがありうるのは堕過である。汝は成佛した者として存在しているが故である︹というけれども許され る︺。普遍性はともに等しいから、三つとも認められる。汝はその普遍性を証成するのが佛であるとき、有情でな いことによって、普遍性について︹汝が︺考えるのか考えないのかをよく了解せよ。また詳しく観察するとき、一 切有情は成佛した者として存在しているのであって、一切有情と佛との両者の差別はなされない。 ﹃一切有情は成佛した者として存在しているとき、それはどこに存在しているのか、如何なるとき存在している のか﹄と云わば、しからぱ$汝によって〃有情のために佛が得られるべきである″といわれる所得としてのかの正 等覚は、誰の相続においてあるのか、如何なるときあるのか。︹汝が答えて︺﹃自らが現等党するときにあるのであり ⑳ かれの相続においてあるのであるが、菩薩聚なる道にある者の相続において、かれの所得である佛はないが故である。 ◆ 一八八
本性として清浄にして、 因と果とは同時でないが故に﹄と云わば、その他についても、そのように語ることに、どのような不合理があるか︵ 輪廻に最初があるとき、無因となるから、最初の辺際はないことにおいて、終局の辺際があるのでもない、と云 ⑳ わば、一類の人あって﹁輪廻には総じて後辺はないが、輪廻には別して後辺︵終局︶はある﹄と語るのは矛盾であ る。存在物舎目く四︶としてはありえない瓶について、存在するというのは矛盾であるが故である。或る阿含の中に ﹁輪廻に後辺は見られない﹂と説かれたのは、或る有情が、かのときのみに解脱を得るが、それ以外に︹解脱を得 ることを︺生起しないというときの決定は凡夫たちによって考えられる寺へきでない、という意味である。従ってす でに述べた如く、解脱を得ることがありえない有情はいないと知るべきである。人あって、〃輪廻に後辺がないこ とにおいて、一切有情は成佛するであろう″というのは→矛盾せる難儀である。戯諭︵官名§8︶はもう充分であ 叉句。︵④四ヶ吟71の、ご]︶ 見られない。あたかも、金像が泥などによって覆われている如くである﹂
佛性の業
常住であることを性質としている本 ﹁有情の心とその垢とは無始︽ て清浄であることにおいて、 有情が遇来的な垢によって清浄となりえないのは道理でない。 |とにおいて、 遇来的な垢を清浄にする可能性があることが意趣されて説かれている︵畠ご︲曙︶。 Lあるけれども、しかも遇来的な垢は終りを具している。 遇来的な垢のことごとくが清浄にされて、輪廻が力なノ§ 性として清浄なる真如は、 は、無始より垢の殻によって外側が覆われて、 その故は、世尊によって差別なく一切有情には、'
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鞍 ﹂具している。すなわち、心が本性とし 輪廻が力なくなるときにはたらきでる 一八九 現 今 宝 = 別 j− VL−と、経の中に説かれている。︵歸豆︲傘︶ 註①sQg①glと色冨呂①口冒.還元の冨.に示されている如く、﹁大いなる願望﹂とは﹁大浄信﹂﹁大信心﹂ということ である。なお旨く稗.z○.隠置に§。gの91盲目冒曾の用例がある。 ②大正第十一巻六七七頁C、大正第十二巻二二二頁bに相当する。 ③の犀.欠。周旨.による。 ④佛性論︵弁相分第四中、事能砧第四︶には﹁不定聚﹂とあるが、悉有佛性の立場からすれば、﹁邪定聚﹂とある、へきであ ろう。﹁不定聚﹂とあるのは、琉伽唯識学派としての世親の理解とすべきであろうか。 ⑤以下に説明される。g目煙ロCO目︾胃胃昏四昌騨︾冒眉丘冨との四種心について、宝性論の漢訳︵大正三十一、八三一頁a︶ では﹁求心、欲心、順心﹂の三心のみであったり、﹁欲、求、稀、欲得、願﹂ともある。なお佛性論では﹁欲求楽願﹂の四 種心とあるが、説明の内容に少しく相異したところがある。例えば、第一の﹁欲﹂については四種の信が、また第四の﹁願﹂ の説明の中には﹁以自利故不捨浬渠為利他故不捨生死﹂の一文が述べられている。 ⑥以下については、佛性論では﹁浄分﹂と表現され、福徳分と解脱分と通達分という内容で説叫されている。 ⑦望4.欠、日号による。 ③葛冨の餌日ロ。g&a、。鴨ロ。とあるが、国ワに従って目葛、閏ロロ呂呂葛。開国秒に訂正。なお目ずに関して、宝性論では 巴摘む四目計函邑も秒色四国国四口﹄︺四宮1くであるが、目鼻脚では巳侭8m①]ご秒ごIと言いかえられている。 ⑩園ロは︸品閂2.閏︺・普通は巨○︵]・︸︺のロ.この点については、拙著﹁インド大乗佛教における如来蔵・佛性の研究﹂ ︵文栄堂︶一九九’二○○頁を参見されたい。 ⑪弓弓では乞号。こ○胃三︵3目言鼻3.四輪︶とあり、佛性論に一致する。宇井伯寿著﹁宝性論研究﹂五三六頁脚註い、 、。許mも四口目闘魚・宅秒Q ⑨目旨.と園圃は欠・ ⑩目号.は︸品閂2.m 一九○
⑫本文に峰 ⑬目号.に ⑭本性住︵ ⑮切鼻呂拝 ⑯岸四昏○