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ヘーゲルの「人倫」における主体性の問題

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Academic year: 2021

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(1)ヘーゲルの「人倫」における主体性の問題. on. the. 夫. 滋. 田. 沼. Subjectivity of "Sittlichkeit". in the. Hegel's. Philosophy. NuMATA*. Shigeo. SU:M二岨ARY one. of the principles. a means of Hegel inner "Moralitat,,.. of morality. lies in the subjectivity of conduct・ from is distinguished the which. social morality The present thesis. handles. how. the. The Kantian. subjectivity of this. 〟Sittlichkeit'J individual "Sittlichkeit''. is.. objective spirit (objective Geist)・ namely is a llniversal this reasonable of the social objective spirit loglC・ but development the "Sittlichkeit" is the of reasonable nothing logic. And the ``sein"・ Conseis based on the i`sollen''of logical After of morality all the character has lost important meanlng the Of say we the thought quently must of aSittlichkeitn The. subject of Hegel・s. もistbrical. tbe. vivid. man.. subjectivity. "Sittichkeitn. But. of. is the. essence. individual. conduct・. 1. 近代の倫理には,われわれの実践がどこまでも自己の良心に媒介せられ,自己の真実に 出るものでなければならないという要求があるo倫理的であるためには実践ほ何処までも その人にとって主体的でなければならぬということである。まことに実践が如何に合法的 であり,あるいは幸運によってよい結果をもたらしたとしても,それが実践の主体の自己 自身の真実に発するものでないならば,本当に倫理的であるとは言われないのであるoカ ソトのあの「この世界において,いなこの世界の外においても,制限なしに善いといいう るものは書き意志以外にほない。」1'という言葉が人々を感激せしめるのも,それが人々の 倫理についての主体性の要求を満足させるからに外ならないからであろう。 ところで,近代の倫理におけるこのような主体性の自覚は,倫理の究極の基礎づけを超 越神の愛や,権威あるものの上からの教えに求めるところの立場の崩壊にともなって明確 になってきたものだと一応言える。しかしこうして自覚されてくる主体性の倫理はやがて 別の問題に直面するようになるoそれが今日の倫理状況の問題なのである。それほ一つほ いわば人間がやっと手に入れたと思った自己の主体性とは一体何なのか,あるいは何であ りうるのか,それが実ほ理論的をこも実際的にも大変厄介な問題になってくるということで .ある。もう一つは,神に代って力を獲得した社会の倫理的要求と,個人の主体的倫理の要 求との問に起きる対立の問題である。また,ここには自己の主体性を重荷と感ずるに至り た人間が,エ-リッヒ・フロム流に言えば「自由からの逃走」に向う債向も起きている. このフロムは今日新しく成立しつつある人間の性格の塾を「市場的構え」と名づけ乏), *哲学教室(°ept.. of. Philosophy). j=:.

(2) 20. 沼. 敦. 田. 夫. ヴイッド・. 1)-スマンは同じ人間の性格類型を「他人指向型」と呼んでいる3)が,何れも それは実践の原理がその人の内部から得られるのでなくて,社会的需要に応ずることにあ るような商品化された人間の塾を意味している。個人の主体的倫理はあやしいものになっ ているのである.. さて,このような問題意識をもって,翻って私はドイツの近代の初めにヘーゲルによっ て体系化されたその「人倫」. sittlichkeitに関する思想を考察してみたい。ちょうどこの. 思想は,キリスト教信仰の哲学的批判によって,その信仰を哲学へと上捺しようとする立. 場にある倫理思想であり,ギ1)シャ古代のポリス的社会u)倫理を高く評価するとともに, やがて起きようとする近代市民社会の問題をも予感している。このような場所で,特に近 代の倫理に要求される主体性の契磯はどう自覚され,扱われているであろうか。それは今 日から顧みてどのような意味をもち,どのような問題点を含んでいただろうか。 2. --ゲルは神が真理であり,ただ神のみが真理であるという意味における真理こそ哲学 の対象であるという4'が,これほ--ゲル哲学解釈の一つの鍵になる言葉である.その 「神」とは彼において遂に何であったろうか。彼は宗教をどう把え,全哲学の中でそれを どう位置ずけたか.また実際に彼の生活の中で宗教はどのように生きていたのであるか. --ゲルの「人倫」における人間の主体性の契機の意味を問うためには,まずこのことを 問題にする必要があるが,この点についての--ゲル解釈は--ゲル以後の人達の問にい ろいろな相違がある。しかし今日素直に彼の著作を読んでみるならば,われわれは少なく とも,彼の全著作の中で「神」という名はしばしば荘重な響きをもって現れてくるもの の,実はそれはも早普通の意味での宗教弥b情の対象ではなく,神はただ思索の中に,そ して,思索それ自身としてのみ存したものであることを認めなければならない。彼によれ ば「神」即ち絶対的真理であるところの絶対的実在こそ宗教の対象であるとともに哲学の 対象であるが,哲学がこの対象を概念的に把挺するbegreiffenという運動を通して真に 己れのものとするに対して,宗教ほこの絶対的実在を自己としてではあるが,ただ表象と して前に置いてvor-stellenいるものである。そして宗教と哲学との関係は,絶対的実在 を表象する宗教の表象性が完全に克服され,絶対的実在が絶対知として,彼の「概念」に よって全く浸透されたものとして己れを知るに至って彼の哲学ほ最高の形態に達するとい うことである5).このような意味で明らかに宗教ほ哲学の中へと止揚され,神は人間の哲 学的思索そのものとしてあるのである。 さて,このことほ倫理の問題に限って言うと,いうまでもなく次のことを意味する。す なわも,倫理の根拠,つまりかくあるべきところの人間のあり方,行動のし方の究極の根 拠を超越的郎申に求めるという立場が明確に捨てられて,その根拠は上に言った絶対的実 在であるところの「精神」,人間にとってほ彼岸の真理ではなくて,自己自身の主体的な 真理であるところの「精神」の中にのみ見出されることになったということである。彼の 「人倫」の思想もこのような立場でのみ成立しうるものなのであるo. このことほ一般的に.

(3) 21. ノーゲルの「人倫」に.おける主体性の問題. 言えば,宗教的倫理から主体的人間の倫理へという,いわば倫理思想の近代化のコースを --ゲルが自覚的に歩いたことを意味する.だが--ゲルにおいてこの歩みの内実はどの ようなものであったか。また,その人問主体はどのようなものであったか。 そこでこの事情をまず彼の青年時代について(チュービングン時代・ベルン時代・フラ ンクフルト時代)少しく見ておこうo --ゲルが青年時代を送った18世紀末のドイツの社会状況,精神状況にまでいま触れ る余裕はないが,彼がその状況の影響を強く受け,其処から出発しながら,次の時代を先 取してゆくものであるのは言うまでもない。彼ほ1788年両親の希望にしたがってチエ「その頃神学は世紀の潮 -イムの言葉を借りると, 流の渦中にあった。」6)のであり,プロテスタソティズムの正統信仰は啓蒙的理性の浸透の ビングソの神学校に入るのであるが,. 下で大きく揺れ動いており,その神学校においても事情は同様である。他方隣国フランス ではこの頃既に市民革命が始まっており,社会的条件の遅れたドイツにおいてもようやく 歴史と社会の在り方についての関心が人々を捉え始める。ちょうどこのような場所がヘー ゲルの思索の出発点になっている7)0 H.. さて青年期の--ゲルの労作は,ノールによって「--ゲル青年時代の神学論文集」 Nobl,. Eege】s. tbeologiscbe. Jugendschriften. るが,それは「民族宗教とキリスト教」. として窮輯出版されたものに含まれてい. 「イエスの生涯」. 「キリスト教の既成性」. 「キリス. ト教の精神」 「キリスト教の精神とその運命」等の一種のキリスト教解釈が中心になって いるものである.この一種のキ7)スト教解釈と言った労作から何を引き出すかほわれわれ の観点によることであるけれども,レヴィツトなども言うように8)これが一種のキ1)スト 教批判であることほ間違いない。それではこのキリスト教批判からわれわれは,われわれ の問題に関してどのようなことを知りうるかo. この点について結論的なことだけ言えば次. のようなことを挙げることができるo. 第一ほ彼のキリスト教研究ほ決して狭い神学の枠内に止まるものでなくて,キリスト教 は現実的な社会生活の中でどのように生きてきたか'という社会的歴史的関心がそこには強 く働いており,宗教は個人的な内面生活の問題としてよりも民族的社会的精神の問題とし て考察される傾向が強いことである.第二は宗教問題は彼にとって何よりも道徳的実践の 原動力という見地から問題にされる傾向があり,この見地において彼が宗教に求めたのは ●. ●. ●. 実践的理性として働く生きた主体的な力であり,既成的Positivな信仰に対しては極めて 批判的であったということである。. このことの意味をもう少し説明するo第二の宗教問題の思索には道徳実的践的見地が強 く働いているとほ,いわば宗教とは道徳的信念として働く限りにおいて意味をもっと考え られていることである。しかもそこには宗教が道徳の根源をなすだけでなく,人間の道徳 「凡ゆる真の宗教,そしてわれわれの宗教 的要求が宗教の根源だという考え方がみえる。 の目的と本質は人間の道徳にある.」9)とも彼は言っているのである。この期の--ゲルは カント的な「実践理性の神のボスチエラート」の線の上を動いていいるように見えるとこ ろもあるが10),むしろ人間の主体的な道徳的要求そのものを「神」とする方向がより目につ.

(4) 沼. 22. 政. 田. 夫 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. Religionの主張と宗教の既成性Positivitat. く。このことを彼の主体的宗教subjektive. の否定がよく語っているように思われる。主体的宗教とは道徳的義務の根源としての,人 間の主体的要求として心の中に生き生きしている宗教であり,これはそのまま主体的道徳. を意味している。そして宗教の既成性とほこの主体的なものが歴史の中で客体化されるこ とによって自己に対立し,自己を圧迫して隷従を強いるものになり,自立を否定するに至 (ユダヤ教や ったもので,彼は歴史過程としてはこの成立を必然的なものと認めながら, キリスト教に関して)それを生命を失った宗教の姿として批判するのである11'。第一の点 ほこの彼の実践において重んぜられる主体性は個人的主体のそれであるよりも,社会的集 --ゲルの 団の主体性,歴史における民族の主体性という意味が強いということである。 最初の草稿は「民族宗教とキリスト教」と呼ばれるが,ここては彼はキリスト教は歴史的 ●. ●. ●. ●. には私的宗教privat. Religionであったと批判し,ギリシャ民族の,公的生活に人々の. 心情を結んでいる民族宗教を理想としている程である。 われわれは以上のように「--ゲル青年時代の神学論文集」を中心として見るとき,主 体的宗教の主張の中で,倫理の中心には-ッキリと人間主体が据えられていることを知る。 ヘーゲルの主張する倫理はこの段階において既に超越的な神の手を明らかに離れ,しかも そのような神への通路を残していたカント的な個人の内面性に基けられることをも超えて, 客観的な歴史的社会的性格をもつものになっているのであるoこの歴史的社会的なもの, ●. それほここでほ民族精神であり,あるいほ生Lebenと呼ばれるものであるが,これが何 処までも主体的に自己を充実してゆくところに倫理は成立すると考えられているのである。 ただここで問題になる一つのことは所謂「既成性」に関することであって,既成的なもの. に服するところには生の本来的活動はないとしても,既成的なものは生が自ら歴史の過程 で作り出し自らに対立せしめたもノのであるゆえにそのすべてがただ単純に否定されるべき ものでもない。ここに彼の思索の労苦もあるが,それが後の弁証法の自覚への新芽をなし ている。. こうして始めに注意したところの宗教の哲学への止提,宗教倫理から主体的人間の倫理 へということは,. --ゲルの青年時代においては右のような思考として進められつつあっ たと考えることができるoそこでこれを参考としながら,次に主体的人間の倫理であると ころの後の「人倫」の思想について,その主体性の契機の行く方を追ってみよう. 3. 彼が自らの哲学体系の第一部とするつもりで書き始めた「精神現象論」の序論の中でわ れわれは「生々たる実体Substanzはまことは主体Subjektであるところの有Seinで これは言ほばある.」12'「実体は本質的には主体であるoJ18'というような言葉に出遇うo. -ゲル哲学の根本命題の宣言であって,青年時代以来求めてきた硬の立場がここで確立さ れたことを示しているが,われわれの問題でいうと,宗教倫理が主体的人間の倫理へと完 全に止捗されたことの宣言だと受け取りうるものである。でほそれはどのような意味にお いてであろうか。.

(5) 23. ノ-ゲルの「人倫」における主体性の問題. 右の命題は端的に言えば真理,あるいは絶対的実在,あるいは絶対者はただに襲在たる だけでなくして主体であるということである。もっとも実在たる絶対者が主体であるとい 「神. うことは別に新しい主菜ではなく自明なことだとも考えられよう。たとえば普通に, は永遠なるものである」とか,. 「神は愛である」とか,. 場合,それほアリストテレスの言葉で言えば,. 「神は創造者である」とかいわれる. 「動かされぬものでありながら自分では動. かすもの」を意味し,したがってそこでは絶対者が主体として考えられているのだと言え そうだからである。しかし--ゲルに言わせれば14'それほ絶対者を主体として「表象」す ●. ●. るものであって,. --グルの主張している命題はこのような表象された主体を意味してい るのではないoすなわち--ゲルが絶対者ほ主体であるという時,絶対者は固定的な点の 如く考えられるのでなくて,その点自身が自ら為す運動において自己であること,絶対者 が自己として,自己運動において何処までも自己であることを意味しているoこの自己は 絶対者であるから,その外に自己を見るものなどを考えることは出来ない,そのような自 己である.実体とは存在的な意味において絶対者を端的に指示したものであるのに対して, 主体とは「自己」の意味をもつものであり,自己内反省によって自分自身を定立する運動 のことである。このような意味で絶対者はただ実体であるだけでなく,その実体とは本来 ほ主体なのだということ,これが--ゲルの主菜していることなのである。. 附けカロえて言えば,このような意味での主体とはもはや客体に対立する主体でないこと 「真理と は明らかであろうo それは主・客を包む全体であるところの絶対的主体であるo しかもこの全体が主体であるの (a)即目的に存在し, (b)他. は全体である」15)といわれるこの全体が主体なのであるo. は,あの一般によく知られている言い方でいえば,それが, (c)即自的に存在しながら対自的に存在するo 者たる存在・対自存在であり,そして,. -. このような運動であるからである1¢)。 ところでわれわれの問題は倫理にある。そ・こで次に問う必要があるのは右の絶対的主体 と人間との関係であるが,まず絶対的主体に絶対的なるゆえに人間をも含むものであるの は言う迄もない。絶対者は絶対的実在であり神であり「精神」であり「世界精神」であり, 青年時代にほしばしば「生」と呼ばれたものであるが,われわれは既に「主体的宗教」に おいてもみたように,これは決して超越老ではない。実体ほ主体だというのがこのことの 断固たる宣言なのである。しかし絶対者たる精神がそのまま直ちに人間の自然的意識であ るのではない。自然的意識の実体あるいは本質が栴神だとされるのであって,自然的意識 がこの自己の実体に達するためには容易ならぬ労苦の道程を経験せねばならない。だがこ の距離は無限ではない。この道程の経験ほ個人の意識と自己意識との問で為されるととも ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. に,世界史において為されれる。いや世界史においては為されるでなくて,為されたとい. わねばならない.つまり--ゲルは,自己の時代に至って世界史はその本質たる世界栴神 を完全に体現し,自己の完成に達したと考えていたからである17)0 ともかく,このように超越者を拒否して絶対的主体を主張する彼の立場はすなわち神と 人との融合,精神と自然的人間との融合を意味しているo このことほ神が無くなったと言 うべきであるとともに,人間が神になったとも言いうるであろうo さきに注意した青年時.

(6) 24. 沼. 田. 夫. 液. 代の「主体的宗教」の主張が既にこの方向を語っていたのである。ここにはも早彼が批判 したところのユダヤの宗教とキ1)スト教におけるが如き厳しい対立I-神の律法と民族の ●. ●. ●. ●. 虐げられた運命との,神の国と現実の世界との,神と人との,等の-ほなく,あること ●. ●. ●. ●. ●. ●. とあるべきこととの二元的対立はない。したがって人間の倫理も神の倫理的秩序にしたが って自己を無にすることにではなくて,根源的対立なしにただ人間が真に主体的に生きる ことに成立するように患われるo これはたしかに近代の倫理であろう。しかし--ゲルは 超越せる神は拒否したが,人間において神をみ,人間に神を融合せしめているのである。. この融合とは如何なる性格のものであり,このような人間が真に主体として生きるとはど のように生きることであろうか。ここに成立するのほ如何なる近代の倫理であろうか。 われわれは右に自然的意識としての人間がその本質たる神すなわち精神に達するために は容易ならぬ労苦の道程を経験せねばならぬといったが,この意識の経験は如何になされ るのかを明らかにしてみることによっていま言った人間と神との融合の関係を考えてみよ う。. 「精神現象論」の序文における彼の叙述を中J亡‖こして考えると,まずその意識の経験と は知. Wissen. を地盤としてなされる。知とは一般に主客の対立に成立するものであるが. --ゲルではこの対立は絶対主体の内部のものであるから,意識が自己の他在Anderこのような知を地盤とする運動によっ sseinのうちに自己を認識するということであるo て最初の低度のあるがままの知が真正の知-高まることが自然的意識(人間)が本来の精 神になってゆくということである。むろん哲学自体が,一般にもそうであるが,特に-ゲルにおいては知をまたほ思惟を地盤とするものである。しかし--ゲルではこの知はた だ哲学の対象に関する知であるだけでなくて,その対象であるところの精神自体の本質で ある知なのである。つまりわれわれが問題としている自然的意識や精神の本来の地盤は知 であり,思惟でるあということ,言い換えれば絶対主体は知的主体であり思惟的主体なの だということである。そしてこの絶対主体が低度の知から真正の,本来の知に達するとい うことが,さきの自然的意識の労苦の道程なのである。 この労苦の道程とはまた自然的意識が自己本来の精神という本質を獲得することであり, 即自的には既に精神であったものが完全な自己自身の自覚に達するということであるが, この運動は裏から言えば自然的意識が本来的には精神であるがゆえに可能になるのだと言 える.自然的意識といったものは自然的生命に結びついている意識のことであり,生きた. 人間の実際の意識であるが,これは精神の定在Dase主nである。これにも段階はあるが, 「最初に有るがままの知または直蝶的なる精神は精神なきものであって感覚的なる意識で ●. ●. ●. ある。」18)と言われるように,最初のものもともかく直接的. unmittelbarではあっても精 神であり,精神なきものdasGeistloseである精神なのである。またこの意識ほ具体的に ●. ●. ●. ●. ●. ●. は個人(といっても--ゲルが扱うのはつねに一般的個人)であるが,個人は歴史を背負 い歴史を背後にもっものとして世界精神が時間の長い経過の中で体現したその実体を即自 的に自分のものとしているともされている.最初の意識がこの■ようなものであるのだか ら,この意識すなわち人間の個人的意識から,真の精神すなわち完全な知への道程は,精.

(7) 25. ノーゲルの「人倫」における主体性の問題. 神が自己意識において自己の主体的活動を生産してゆくことであり,個人がもともと自分 のものであった精神を真に自覚的ならしめ,あるいは真にわがものとしてゆくことなので あるo 「精神が自分の定在Daseinを自分の実在Wesenに等しからしめた」19)道程なの であるo. 次にこの道程,精神の主体的活動の動因は何であろうか。つまり精神が自己自身の全き 知に達する過程を遂行せしめる原因は何であろうか。も早精神の外に何かそのような原因 がありえないことは明らかであるb. でほそれは精神における何であるか。それは精神の論. 理的必然性であるとしか考ええない。彼は若い頃に「愛」を「生」の血液だとして強調し たこともあるが, 「生」が「精神」となるにつれて「愛」は論理的必然性-と変っている。 感覚的意識から始まる精神の主体的運動の道程はそのまま精神現象論の学の道程であるが, この道程の駅から駅へと意識をおしやるものは結局は意識が自己矛盾に陥ってほそれを越 えてゆくということ,意識は矛盾の中に止まりえずして動かねばならぬという論理的必然 性以外にないのである。自然的意識を精神へと自覚せしめるものは自然的意識のなかに既 に即自的に貫流していた精神の論理的思惟のカなのであるo --ゲルは自ら序文の中で現 「この道樫は概念の運動によって意識の世界を必然的関連において 象論の道程について, あますところなく包括するであろう.」20)と言っているo さてこう考えてみると,さきに人間と神ととの融合と言ったことの意味ほより明らかで ある.神はも早人間を超越する実体ではないのであるから人間と根源的に対立するもので. ほなく,それは人間の意識の元来的なものという意味での精神であり,精神は人間の自己 である。しかしこの精神は個人の自然的な意識ではむろんなく,世界史の深奥そのもので あり世界精神である。そして個人の意識は始馴まただ即自的潜在的に精神であるに過ぎな い,いわば個人のおもては自然的意識だが裏は精神であり,裏の精神は始めは睡っている が某こそ実体であり,裏はおもての本質である。このような意味でなら自然的意識もまた 精神であるし,この関係を単純化すならば,精神-自然意識-精神と示すことができ よう。しかも一には断絶ほない。始めの精神-を取り去るならばすぐにこれは自然意 読-精神という自然史に転化しうることがわかる。 このような意味で精神であるところの人間について言えば,われわれは次のような点を 挙げることができる。 1.人間の本質あるいは実在ほ精神にあるが精神とは客観的世界的. なものであり絶対的主体であるゆえに,真に主体的なる人間は個人ではありえなくなるo 具体的にほ客観的社会的なる主体的人間がここにいるのであるo. (-,-ゲルを発展更にお. 2.精神とは思惟的主体であり論理的運動を魂と いてみるとこの点はよく理解できる。) するものであるがゆえに,人間の活動は論理的必然性を根本として理解されるものになっ ている。. さて,ヘーゲルにおける「人倫」とはまさにこのような人間において成立する倫理であ. ら.次に直接「人倫」の思想についてその主体性の問題を考えてみよう..

(8) 26. 沼. 田. 敦. 夫. 4. 既述したように--ゲルにとって倫理・道徳に関する思索は青年時代以来続いてくるも のである.この問題についても彼はカント・フィヒテ的立場の影響の中から出発してくる が,概して言えばカント倫理はこれを批判の対象にしながら自己の思想を明確にしてくる ものである。この過程で両者の問には次第に明確になってくるところの基本的な相違点が あるが,それを一言でいえばカント倫理が個人的人格の内面的自由にその原理を見出すも のであるに対して,. --ゲルの倫理思考では歴史的社会的な人間存在の客観的なあり方の 面が重視されるということである。しかしこのように分けて言うならば,人間のよき存在 のし方としての倫理は実ほこの両面を綜合するものでなければならないであろう。. --ゲ. ルは一応そう考えているのであるoそれゆえ--ゲルはカント的倫理をたんに否定するも. のではない。ただ--ゲルはその哲学の基本的立場からくるやり方によって,カント的倫 理を自己の体系の中に位置ず机そうすることによってこれを止捺してゆくのである.こ うして彼は「現象論」成立のしばらく前の雫からカント的倫理を「道徳」 び,それを止扮する自らの倫理を「人倫」. Moralitatと呼. Sittlicbkeitと呼んで明確に区別しながら「道. 徳」から「人倫」へという体系を主張するようになる。. 尤も「道徳」から「人倫」. -という順序には註をつけておく必要がある。というのは, 叙述の形式購序でいうとすべての彼の著作が「道徳」から「人倫」 -ではなく「人倫」か ら「道徳」. 「現象論」でほ実は「人倫」から「道. -という順序のものも存するからである。. 徳」へであり,そのすぐ前の「イス-ナ実在哲学」 あり, 「エソチクロぺジー」. Encylogadie. der. Jeneser ph.. Real. W.および「法哲学」. Philosophieも同様で G.. der. Ph.. des. Rechtsその他では「道徳」から「人倫」という慣序がみられるo. この問題は実はちよう どさきに言った精神-自然意識-精神と同様に人倫-道徳-人倫という連関が基. 本になっていることを考えれば解決のつくことである。一言で言えば人倫とは精神の固有 のあり方のことであり,. 「精神とは人倫的現実性sittliche. Wirklichkeitである」21'「生け. る人倫的世界はその真理における精神である。」22'したがって人間の意識の発展が其処から 出て其処へ帰ってくるところの故郷である。道徳とほこの精神の旅の中間駅である。それ. ゆえに道徳-人倫も人倫-道徳も矛盾しないのである。. --ゲルにおける精神の運動 の特徴はいつも前進することが遼帰することであることであり,したがってサイクルをな すということである。このサイクルの上で道徳と人倫の関係は理解さるべきである。ただ 究極的な実体たる精神が真理においてあるのが人倫であるゆえこの意味を表明するには道 徳から人倫-と言うのが適切だという迄である。 そこでわれわれは道徳と人倫との関係をもっと内容的に見ながら,人倫の意味を考えて ゆくことにしよう.. さて人間の本質は精神にあり,人間の意識が完全に自覚的に自らの本質たる精神にな争 るところの道程は精神が自己自身の全き透明な知に達する道であり,それは論理的な概念 に浸透されて発展する必然性の過程であったo人倫-道徳-人倫の発展もこのような.

(9) 27. ノーゲルの「人倫」における主体性の問題. 論理的必然性の過程に外ならないと言える, いま人倫とは精神の固有のあり方のことだと言ったが,精神とほ主客を統一する絶対的 主体であり,自分が自分の他者となりこの他在を止捺する運動であるとともに,個別にし て普遍という概念に浸透されているものである。それゆえわれわれの言葉でいうと人倫と は個人個人が自立的な個別着でありながら同時に普遍性に貫かれて全く統一された社会を 作っていることを意味する。一つだけ彼の言葉を引くと「人倫とは個々人が自立的現実 Wirklichkeitをもちながら彼らの本質が絶対的精神的統一を得ている selbst standigen ことに外ならない。」ヱ8)まさに人倫の世界は理想の国なのであるo. ところでこの理想の国,. 真理における精神の世界も,これがもしまだ無自覚的に,ただ自然的なものとしてあるも のであるならば,崩壊せざるを得ない。この崩壊とは,人倫的世界においては統一せられ ていた個別と普遍とが,すなわち,主観内の世界と客観的世界とが分離対立するに至るこ とである。しかしまた,このような崩壊においては精神は矛盾から矛盾へと陥らざるをえ ず,それゆえ矛盾を動因として精神は再び自己の真理たる人倫の世界に向うことになる. この運動の道程でわれわれはカント的道徳から人倫へという段階に接するのである。 ここに登場する道徳を「現象論」はこの箇所の見出しで「自己自身を確信せる精神」と いっている。これはカントでいえば純粋な意志が定言命法という自己自らの立てる普遍的 な法則を行為の格率たらしめようとしていることであるが,これは--ゲルで言えば,い わば現実的世界の普遍が個人的自己のうちで自己として確信せられていることである。し かしこの場合個人に確信せられている普遍,すなわち義務は抽象的な普遍であって,具体 的現実はこれによって律することはできないものであるoつまりこれは個人的主観性が現 実の客観的世界との対立において成立している立場であって,. --ゲルによればこの対立. とは主観的な道徳意識が自己に対立する他在そのものを真の自己自身として把挺するとこ 「かくてこの意識には現実意識の対象はま ろの概念的な統一に至っていないことである。 だ透明ではない。それはまさに他在そのものを,あるいは自分と正反対のものを自分自身 として把挺するところの絶対概念ではない。」皇4)このような対立のなかにあるのに,しかも 自分ではその対立の何たるかを知らないで自己の義務をそのままで現実化することができ ると確信しているのが道徳の立場である。われわれがここで注意したいのは,このような 意味における主・客の対立あるいは相違の上に立つがゆえに道徳の立場はゾルレンまたは 要求の立場になるのだということである。このことが「法哲学」では明確にこう言われて いるo. 「この意志の自己規定が最初に登場するところでは個別的な意志の概念と同一なも. のとして定立されていないのであるから,それゆえ道徳的立場ほ関係,そしてゾルレン, 換言すれば要求の立場なのである。」25'道徳的立場のゾルレンとはカントでは行動主体の自 縛的自由に根拠づけられるものであった.. --ゲルにおいてほゾルレンとともに自由ほ緯 神全体,すなわち歴史的全体が自己を恢復する必然的発展の一案棟であり,そして止揚さ るべきものであることが自由でありゾルレンであることと同じ意味なのであるQ. そこで道徳の立場は止捺されなければならない。要するに抽象性と個人性と主観性と制 限されたものであること等を特徴とする道徳の立場はその特敬のゆえに必然的に止捺され.

(10) 28. 沼. なければならないのであるo. 田. 滋. 夫. 「現象論」の構成は周知のように「自己自身を確信せる精神. 「宗教」から「絶対知」へ至り,ここで完結する ・道徳」の次に「絶対精神」に属する, ことになるoしたがって「現象論」では右の道徳の立場がもっていたいろいろな制限を止 揚するのは絶対精神,真実にほ「絶対知」になるoしかし絶対知とは「己れを精神の形態 において知るところの精神」26'であり「概念的知識」. begreifende. Wissenであって,. これほ実体そのものであるところの純粋な論理である。この論理を具体的な人間の存在の 論理とする時に道徳を止揚せるものとしての人倫は成立すべきものであって,これが「ェ. ソテクロぺヂ-」や「法哲学」において道徳の次に位置している人倫であると考えること ができる.. それでは人倫の論理と考えることのできる絶対知の段階の論理とほ何であるか。それは あの実体が主体であるという意味における主体が完全に自己自身を展開し,このことが完 全に自覚化されている論理であって,主観と客観は対立しつつ一に帰し,特殊と普遍との 区別は区別されつつしかも統一されているということ,すなわち絶対的概念に外ならない。 このような論理に貫かれた人間の存在のし方が人倫なのである。この人倫の何たるかは既 に述べたが,道徳の立場との関係で言うな,それほ客観的現実世界の真に何たるかを知ら ずしてこれと対立していた主観的な道徳意識が,この対立を克脱して自にして他,他にし て自というところに達し・真の客観的現実性を獲得したものであり,抽象的な義務の普遍 性が個人の特殊性に媒介されて特殊にして普遍なる現実的具体性をうることである。 哲学からは・. 「法. 「主観的善と客観的な即自的にある善との統一が人倫であるo」乏7,このような. 言葉を見出すことができる。 さてこう考えてくる時・このような人倫の立場はまさに個人の内面的な道徳の問題をそ れだレナのものとして抽象化することから・それを社会的現実的な人間の倫理へと止揚した ものとして,確かに高く評価さるべきものを含んでいることがわかる。彼は倫理とは単に 個人の内面の事がらであるのでなくて外的社会的な人間関係のあり方に関するものである ことをその人倫の恩恵で語っているのであるo主観的なものが客観的現実性を獲得したと 言ったことがこれであるoしかしここでは,われわれが問題にしてきたところの倫理的実 践における主体性の契機はどう理解さるべきであろうかo. --ゲルにおいて道徳を人倫へ. と止捺せしめたものは,人間の本質は精神であるが,精神とは絶対的主体であるところの 全体であるがゆえに,道徳の立場は結局全体から分離せる単なる抽象でしかないというこ と・それゆえ個人道徳のゾルレンは全体的な精神,実際には社会的客観的な精神の論理的 必然性の止揚さるべき契機たるに過ぎなかったということ,このことである。ところでこ のことはまた,個人的主体が社会的客観的精神の中に終局的にほ吸収されることを意味す るであろうo人倫の思想にはこのことが含まれていると考えられる.そうだとすれば,人 倫ほ個人的見地における行動の倫理であるよりも外的社会的人間関係,すなわち社会の構 造的なあ・り方をより多く語るものなのだということになる。この社会の構造的あり方は, 歴史的社会的な精神の必然的発展運動の果てに成立するものであり,その運動の中では個 人的主体的契機には十分な意味が与えられていないということである。むろん,運動にお.

(11) 29. ノーゲルの「人倫」における主体性の問題. ける個人的契境を披は「現象論」の中でも詳しく追ってはいる。個人と特殊性とは精神の 発展運動のサイクルが繰り返し通過する契機であるし,精神とは特殊と普遍との統一なの である。しかしやぼり;先行するものほ全体的精神であり,運動の主体はこの精神なので あって,真に主体的な個人ほ不在であると言えよう。 5. 以上,一般に近代人の倫理生活に要求される主体性の契磯は--ゲルにおいては如何よ うに現れており,如何なる行く方を示唆しているか。彼の人倫の思想を中心に考えてきた。 このことについてなお考察さるべき点を残しているが,一応ここで今までのところを纏め てみることにしたい。. --ゲルにおいて,神こそが哲学の唯一の対象だと言われるが!その神はもはや伝統的 なキリスト教の神でほない。神ほ彼岸の実体でほなく,人間において主体的に生きるもの であり,したがって倫理もまた,人間が神の客体たることにおいてではなく,人間の徹底 した主体性に成立するものでなければならない。このような考え方は彼の青年時代以来の ものであり,時代の思潮に板ざすものであったo しかしこの絶対的実在であるところの主 体が--ゲルにおいて何であり,倫理を基礎づけるこの主体の主体性が何であるか。これ が問題である。. この絶対的実在であり主体であるところのものは世界の全体であり,彼の「精神」に外 ならない。したがってこのような主体である精神は世界精神であり,客観的精神であり, 歴史的社会的精神である。つまり精神とは本来歴史的社会的なものなのだという考え方に --ゲルは明確に達しているのである。それゆえここには本来的意味で客観的現実的世界 と個人的内面的精神との対立ということはも早無くなっている。カント的二元的対立は無 くなっている。個人的意識は本来的には歴史的社会的全体を自己に収赦しているものであ り,客観的な歴史的社会的精神とほこのような個々人を含む統一としての全体なのであるo 人倫的世界とほこのような精神によって成立するものであり,人間世界におけるこの精 神の本来的あり方が人倫に外ならない。それゆえにこの人倫は現実的世界を超える神の意 志に基づくゾルレンでもなければ,現実的世界に対立する個人の内面的良心に成立するも のでもなく,それらの一切を自己として包含する現実的世界の中に成立しているものであ る。言いかえれば,人間が歴史的社会的現実である全体的主体として生き,自己を展開す ると.ころに人倫ほ成立する.人倫の主体性とほまずこのようなものでなければならない. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 次に,このように人倫を人間における精神の本来的あり方とする時,この本来的とは如 何なる意味になるか。このことが--ゲル人倫思想の解釈にほ大切な点になる。このこと の意味ほ彼の精神の発展の運動がつねに前進は還帰であるということ_の上に考えられねば ならぬ。精神が人倫を実現するとは精神が本来の自己に還ることであり,この意味で精神 が真の自己になること,自己の真理を得ることである。まさに人間における精神のあり方 のgewesenであるWesenが人倫だということであり,人倫的世界はこの意味で精神の ●. ●. ●. ●. 故郷である。このことは,人倫とは人間のあるべきsollenあり方であると同時に,人間.

(12) 30. 沼 ●. 滋. 田. 夫. ● ●. ●. ●. が既にそれであるSeinあり方であることを意味する.こうしてヘーゲルでほあるとある ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ベレとの二元的構造ほ潤えているのである。・しかし勿論あるとあるべしとは全く区別がな いのではない。区別がありながら一つなのであり,其処に即自対自即自のサイクルのなす 運動が成立するのである。あるいはまた其処に普遍・特殊・普遍の「概念」の運動が成立 する。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. このような精神のあるとあるべしとの関係の考え方は倫理思想の史的見地からしても画 期的な意味をもつが,同時に,立ち入って考察するとここには批判さるべき問題点も含ま れている。われわれの考察の主題に関して言うならば,一口で言って--ゲルはこの思想 の中で人間の倫理生活における個人的主体性を見失うに至るということやある。キュルケ ゴ-ルの--ゲル批判の中心も結果的にはこの点に関するのである28)が,わたくしはこれ とは遣った立場からではあるが,同じ点を問題としたいのである。. それでは--ゲルがその思想の中で人倫における個人的主体性を見失うに至るのは何故 であろうか。. このことは,上のような意味で精神が本来的自己となる運動の過程は既にみたように論 理的息惟の必然性の過程であるということ,このことにに関する.むろんこの論理的思惟 とは主観的観念的なそれではなくて,主観・客観的な論理であり,歴史的社会的な現実そ のものの論理だと一応解することができる。だがこの場合論理と現実的なものとは何れが 先行するものであろうか.. --ゲルの立場を貫くならば両者は全く一つでなければならぬ 「法哲学」のあの「理性的なものは現実的で ものであろうoつまり先後はない筈である。 あり,現実的なものは理性的である」という命題もそのことを意味している。しかしわれ われはこの命題から確かにある唆昧さを感じないわ桝こいかないのであるo. この感じはお. そらく,彼の実際の哲学とこの命題で言わんとしていることとの間にほある間際があるが, この間隙を埋めるた糾こ彼はその命題にある酸味さを与えているということ,このことか ら釆ているのではなかろうか。つまり彼はその実際の哲学の中で自らの意図に反して次第 に現実的なるものを喪失し,論理的思惟を前提とし,それに当てはめて現実を眺める如き 汎論理主義的観想の立場に昇っていたのである。こう考えるときわれわれは彼の人倫の思 想において生きた個人の主体性が結局は見失われ,特殊にして曹遍,個人にして社会とい う普遍的論理だけが生き生きとしている事情を理解しうるように思う0 あるいはこうも言える.世界精神を完全にわがものとした個々人が全く自立的でありな がら絶対的統一を得るところの人倫的世界は理念である。理念は現実の理念であって,現 襲ではない。然るにこの理念を現実だとして結局これを固定したところが彼の汎論理主義 的観想の立場なのである。ここでは個別的個人の主体的なゾルレンが使命を終ってしまう のは当然である,と。 註 1). I. Kant,. 2). E.. Fromm,. Grundlegung. 3). D.. Riesman,. Man The. zur. for. Metaphysik. der. Sitten.. 1. Abschnitt.. Himself.谷口,早坂訳,人間における自由.. Lonly. Crowd.加藤秀俊訳,孤独な群衆. ●.

(13) 31. ノーゲルの「人倫」における主体性の問題 4). Hegel,. Encyclog云die. 5). Hegel. 6). R・. 7). Ⅴgl. R.. der. Ph畠nomenologie. Ⅲayn,. W.. Hegel. des. Geistes.. Seine. Wissenschaften.. (DD.). Wissen.. absolute. Zeit.邦訳松本芳景,. Jugend. Lukacs,. der. Hegels. gescbte. --ゲルとその時代,. 36頁.. 8). L6with,. 9). H.. Nohl,. 10). W.. Diltbyなどはこのように見ている,. ll). H.. 12). Hegel,. Yon. Hegel. Hegels. 1906.. 1948.. Junge耳egel,. K.. Nietzsche.邦訳柴田,. zu. Leben. Ph鎧nomenologie. W.. Geistes.. der. S.20.. 13)同書S.24. 14)同書S.22. 15)同書S.21. 16)同書S.24. 27-S.. 17)同書S.. 2臥. 18)同書S.26. 19)同書S.32. 20)同書S.31. 21)同書S.. 314.. 22)同書S.. 315.. 23)同書S.256. 432. Recbtsphilosophie.. §108.. 25). Hegel,. 26). Hegel,. Ph豆nomenologie.上掲書,. S. 556.. 27). Hegel,. Rechts. zusatz.. 28). Kierkegaard,哲学的断片,その他.. philosophie.. §141. S.. Dilthy.上掲書,. Jesu, Positivitat. des. der. 127貢.. --ゲルからニーチェへⅡ 1907.. theologische Jugendschriften.. Nohl.上掲書Das. 24)同書S.. das. §1.. Haym上掲書.. Diltby,. G.. und. Philosophischen. 153. S.. Christlichen. Philosophische. 21.. Religion. Biblithek. BAND. 114.. 1952..

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