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元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について : 郭子興と芝麻李

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(1)元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 野. On. Some. 芝麻李-. と. 一郭子興. 繊. 口. EasternRed-Clothes Especially. -. Kou. in Late. Dynasty. Li. -. NoGUCⅡⅠ. StJ二MMA Kou. Yiian. Chih-ma. t2:u-hsingand. Tetsur6. the. 郎*. RY. his group, tzu-hsing郭子典and Chu groupthat yaan-chan朱元嘩 of landlords. army. and such status, have. His group. provincials would one, at least untill Chih-ma were. group. a. at Hao which established chou濠州, had entered first, were a at combined a had as the party and colour of fellow had kind to other not what of relation. Kou's. his. Li芝麻李and army. combined a have relation. have. group. grown. up.. of outllows, toLi's, though. at. established It may be. group,. which perhaps. to. seems. had. a. H軸chou徐州,. no that considered lin-erh relation to Ham. 韓林児in. early time. Collapse of Hsii chou 12th year of Chih-ch金ng group,. at. While,. Kou. the. same. time,. divorced. Hao. of late Hsii chou It is difncult Red-Clothes have. gone. group. group. accompanying 元, of Yiian. 至正 let. both. chou had a. like. so,. in past. to. connection therefore,. to consider, in late Yiian dynasty. let his. are. that. the. expressed. 目 し. が. 次 き. 1.濠州集団の基盤とその性格 2.郭子興の異質性 3.濠州集団と元帥の称号 of. History). sta鮎. at. September. ru11ed. Hao. of chou. Eastern relation within some by afigure, as several studies. Ⅰ.郭子興とその集団. *歴史学教室(°ept.. Li,. Hsii groups and chou analysed. depend Chu, one upon and of staffs Ham troubles. with after internal. time.. は. of. Hao. of. group. death.

(2) 野. 22. 繊. 口. 郎. Ⅱ.李二とその集団 1.徐州集団の性格 2.徐州集団の崩壊と彰・趨 Ⅲ.諸集団の関連 1.濠州集団と朱元嘩集団 2.濠州集団と徐州集団 3.徐州集団と竜鳳集団 付.趨君用と朱元嘩 す. Ⅳ.む. び. 註. は. し. が. き. 本稿ほ,さきに発表した「初期朱元埠集団の性格」1)とともに,元未明初の政治的・軍 事的諸集団の性格及びそれらの相互関係を明らかにし,ひいては,該時代の史的情況の解 明の一助にしようとする目的をもつ。この目的に沿おうとすると,論題に掲げたいわゆる 東系紅巾軍のみならず,いわゆる西系紅巾軍の諸勢力や張士誠集団やについても考察を加 えなければならない。しかし,その後老についてほ,愛宕松男氏・今井春夫氏などの所 論2)があるので,西系紅巾軍諸勢力とともに他日に譲り,いまほ,論題に沿って述べてゆ きたい。. 東系紅巾軍という呼称は,谷口規矩雄氏によって使用されはじめた語8)であると思われ るが,それは山根幸夫氏が北系紅巾軍と呼び4),重松俊華氏が白蓮教系紅巾軍と呼んだ8) ものを指している。本稿では,その呼称に異をたてることなく,東系紅巾軍の名を踏襲す るo. この系列下の諸勢力として,重松・谷口両氏は同じような系統図を作製し,その間に. ほ少しばかりの相違が見られるのみ8)であるので,大勢はそれによって知り得ようoただ し,この系統図についてほ,補正すべき必要があるように思う。 それら諸集団のうち,韓林児・劉福通集団(竜鳳集団). ・郭子. ・芝麻李集団(徐州集団). 興集団(濠州集団). ・朱元嘩集団がその主たるものであろうT).そして,朱元萄とその集団 「朱集団 の一般的性格についてほ,前掲の拙稿でいささかの考察を試みた。要約すると, は,一部の論説でいわれるように,ある時点を境として白蓮教学的,反体制教学的なもの. からそれとは全く反対のものに変質したのではなく,当初から反白蓮数学的・旧体制数学 的な意識をもち,伝統的な体制維持の土豪・地主層に社会的基盤を置いた集団であった」 と考えてきた。この見解は,やがて大方の叱正を得て訂正されねばならないかも知れない が,本稿でほ,朱元嘩がはじめてその魔下に参じた郭子興とその周辺,及び郭が参画して いた集団を支配する立場にあったとされている芝麻挙らの徐州集団の観察を通して,東系 紅巾軍諸勢力相互の位置関係を論じてみたい。.

(3) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. ト. 28. 郭子興とその集団. 1.濠州集団の基盤とその性格 郭子興,字は伝わらない。その伝ほ「明太祖実録」 「名山蔵」 「罪惟録」などや,. 「明史稿」 「明史列伝」 「明書」 「明史」 「嘉靖南畿志」 「康照鳳陽府志」などの地誌に見える.郭とそ. の集団のもつ宗教的雰囲気などについては,前稿に触れるところがあったので,いま,で きるだけ重複の煩を避けつつ,記述を進めていこうo 郭子興がその膝下に人衆を釆めた動境を説明する記録には,かれが元末に流伝した「民 間造託の言」を知るや 誤りて其の説に中り,之を信ずること甚だ篤し・-妄りに家財を散じ,除かに賓客と 結ぶ.. とする「贈瀞陽王冠遠郭公廟碑」. (「国朝献徴録」 3所収o以下「廟碑」と簡称する)と,. 其の言を察し,天下必ず変有るを知る。乃ち家財を散じ,陰かに豪族と結ぶ。 とする「明太祖実録」. (中央研究院歴史語言研究所本)乙未春条との二系統があり,両者の問. に聯かの違いをみせている.両者の記述の相違については,前稿で論証したように,前著 即ち「廟碑」のほうにより多くの信濃性があるとみたいのであるが,いずれにしても,こ の時点において,かれが何を考え,何を企てて釆衆したのかについてほ,明確に記すとこ ろがない。. ことさらに生業を捨て,家財を散じて衆衆した郭子興は,至正十二年二月,濠州に拠っ 「罪惟録」 て挙兵する.濠州集団は,このときに成立したo挙兵の直接の契機についてi 伝5源陽王郭子興伝は, 元の至正幸卯,妖言起る。韓山室汝頴に乱し,徐寿輝斬黄を檀にし,芝麻李亦た其の 党彰早住・趨均用と与に,徐州を陥る。子輿の心動き,牛酒を推め,銭烏を散じて士 を結び,里中の豪孫徳崖等四人と与に,共に衆を率いて濠州を襲い,之に拠る。 と記し,自己の基盤である安徽定遠から北西万一帯に拡がる諸勢力の蛎起に影響された結 果であると述べる。. 「名山蔵」1典譲記も,至正十一年に芝麻李・徐寿輝・劉福通・張士. 誠・方谷珍などの興起を記したあとに 是の時,群盗四起し,鐘離・宝達の間,皆な農を棄てて凶に趨る。 と述べることに続けて,郭子興の濠に拠ったことを記録している.また「乾隆題州府志」 10雄志旗史ほ, 至正十一年,事覚れ,福通等遠かに穎州に入りて反す--時に,郭子興,亦た濠に拠 りて之に応ず. と記して,劉福通の動きに呼応したと述べる。近時の研究のなかでも,谷口氏が郭子興の 挙兵は劉福通に応じたかの如き記述8)をし,三田村泰助氏が挙兵後の子興ほ芝麻李の控制 を受けたという9)ことをみると,濠州集団の挙兵の直接動機をこの面からより深く探るこ とは,却って困難となるoそこで,こうしたことを常に念頭に置きつつ,それに先立って, 濠州集団の社会的基盤について一瞥しておこう。.

(4) 野. 24. 口. 繊. 郎. 郭子興自身は「定遠県富民」と記され,さらに,その父10)のときに山東曹州から定遠に 至り,富家の婿となって大いに家賃を婚ませた,と伝えられるように,いわゆる土豪層に 「明書」 (叢書集成本) 属する存在であった,と考えてよい。その殖産の方法について,. 89. 起兵諸国記1に記す源陽王郭子輿記は,その父の代におけるこ七から記しはじめて 術,益すます債れ,秦,日に益すます盈つ。之を久しくして,遂に大いに田宅を買い, 定遠の盲人と為り,子三,女-を生む。子輿は其の仲なり。郭公死するや,三千倶に 精して環著し,富を以て豪属と為る。. と述べ,父郭公の占卜の術による華財が大であったことをわれわれに示している。このよ 「明書」の記述も要領を得ず, うに,郭子興自身を含む三子の蓄財に関してほ, 鏡」乙未春粂なども,兄弟とともに「善殖資産」につとめたと記するに止まるが, 鳳陽府志」. 「明太祖実 「康願. 6風俗の条の定遠県の項が「朱書地理志」を引いて. 土壌膏沃にして,練烏の利あり。人,商貫を善くし,麟里鏡富にして,高皆の家多し. ということをみる11)と,必ずしも農によってのみその資産を形成したと考えなくてもよい ようである。父が賠となった家の業である農とともに,商にも携ったと考えたほうが,郭 子興のもつ後述の如き性格などを規定するのに便なようである。ともあれ,郭は定遠地方 に板をもつ土豪であり,かつ父のもつ占卜の術などを通じて,恐らく郷村の指導者的地位 を保っていたものであろう。 都子興とともに挙兵したものは,さきの「罪惟録」伝5の記述によると, 「名山蔵」 43天国記に載せる郭子興伝も 崖等四人」と知ることができ,. 「里中豪孫徳. 子興,亦た其の豪傑の子孫徳崖等四人と与に,濠の令を遂い,自ら元帥を称す。 「国権」1重正十二年二月乙 と伝えて, 「罪惟録」の記述との一致を見せている。ただし, 亥朔条は,この四人について. 定遠の郭子興,群盗の四起するを見て,其の客孫徳崖・衆口・魯□. ・滞□等と与に,. 豪傑の子弟を率いて,攻めて濠州を抜きて之に拠り,自ら元帥を称す。 と述べて,これ以前にこの地方ないし郭家に客として存在したものであったと記し, 碑」も同様に,前引の如く「陰結賓客」と記している。 このように,. 「廟碑」 「国権」などという基本的史料の一部に,客ないし賓客という語の. 冠せられていることに関する疑問は,速かには解決し難いが,大方の史料がかれらを称し て豪と表現していることから,′孫ら四人の社会階層は郭と同額のものであった,と理解し 「明太祖実録」乙未春粂が郭子興の略伝を載せたなかで記す「由是,豪 て大過あるまい。 里中」という語と,上に記した孫ら四人についての「里中豪」という語とほ,実質におい てそれほど大きな違いをもつものに冠せられる形容辞であるとは考えられないことも,上 「明太祖実録」壬辰二月条が の理解の傍証となろう。そして,孫ら四人の出身について, 時に,孫徳崖等四人,農畝より起る。 と記し, 「皇朝本紀」 (「紀録尭編」 11所収)も 愈・魯・孫・津,農より出ずる。 ということをみると,郭とともに興起した孫ら四人は,農を業とし,かつ豪といわれる階. 「廟.

(5) 25. 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 層に属するものであった,とすることの妥当性は,さらに強まるのでほなかろうか。強い て郭と他の四人との差違を求めれば,さきに触れたように,また後に詳述する如く,郭に 伺える郷村の指導者的臭いが他の四人にはない,ということであろうか12). 以上のように考察してくると,濠州集団は,土豪層を指導的階層とする集団であった, と規定して差支えない。 濠州集団の士卒について,. 「明太祖実録」乙未春条は「与所結豪傑子弟,攻抜濠州城」. 「名山 と記し, 「国権」1至正十二年二月乙亥朔粂も「率豪傑子弟,攻抜濠州」と述べ18), 「罪惟録」伝5蘇陽王郭子興伝ほ「率衆, 蔵」1典譲記でほ「率賓客子弟,閉濠」といい, 襲濠州」と記す.後世の宗教結社・秘密結社などが事を起す場合によく用いられろ,むし 「明太. ろ常套語となっているものほ, 「率衆」という語である.このことを考え併せると, 祖実録」や「国権」がことさらに「豪傑子弟」と記すことほ,濠州集団の中核的部分が土 豪あるいはそれに類する,ないしそれに依存する階層のものであったことを,妥当なもの として推察させる素材となる。. 濠州集団の基盤,ないし性格をよりいっそう判然とさせる作業を進めるために,郭子興 の活動した地域的範囲を眺めてみよう. 「明太祖実録」に従って記すと,次の如くである。 壬辰(1352). 2月. 定遠に起り濠州に拠る. 英巳(1353). 6月. 朱元嘩に瀞州に迎えらる14). 乙未(1355). 3月. 和陽に卒す. この活動範囲は,最遠の濠州・和陽問でも,直線距離にして100キロメートルほどの地域 である.最初の拠点を離れて源-,聴から和-と移動した事情についてほ,後述するよう に,ともに挙兵した孫徳崖らとの力関係や朱元嘩との関連を考えると,了解することがで きるが,ともあれ,郭子興の行動半径は,その活動期間があまり長くなかったということ もあってか,それほど広範囲でほない。 こうしたことを踏まえて,再び「国権」1至正十二年二月乙亥朔条をみてみよう. 定遠の郭子興,群盗の四起するを見て--豪傑の子弟を率い,攻めて濠州を抜きて之 に拠り,自ら元帥を称す。 この言い方からすると,濠州集団の形成にほ,郷曲の保衛という目的が存在したのではな いか,と伺い得る。土豪勢力を中心に置き,群盗に対処すべく軍武を調偏し,濠州を拠点 にした,という解釈である。濠州集団ほ郷曲保全の地主武装集団であった,という性格規 定である。 この性格規定ほ,次のことによっても裏付けされ得ると思われる。至正十五年一月,蘇 徳崖ら四人ほ,その部するところを率いて和に至り,食を朱元嘩に求めた。その理由は, 濠の橿駒の乏絶にあった1B).このことから,濠州集団の幹部のなかにあって郭子興ひとり は,後述するような理由で他の同調者に疎んぜられて孤立し,ために朱元嘩を頼って南下 せぎるを得なかったけれども,孫徳崖らほ依然として濠に止まっていたのであることを知 り得るo郭にほ他のものに比してやや異なる要素があったものの,郭を含むこの集団は, まさしく郷曲保全のための地主武装集団であったのである。ただ都子興ひとりのみに,他.

(6) 26. 野. 口. 繊. 郎. の性格を付して考察しなければならなくなる。従って,この集団を郭子興集団と呼ぶ場合 がある16)ものの,宋ほ郭子興ひとりのみ異質であって,孫ら四人の幹部には,純粋に郷土 保全の意識による集団結成の意図があったとみたいのである。 2.郭子興の異質性 そこで,郭子興ひとりのみがこの集団内においてやや異質であった,ということについ て考えてみよう.郭と孫徳崖ら四人ほ,濠州を占拠すると各自が元帥号を自称したという. ここに示されるように,この集団にほ確たる統一的指導体制ほなく,郭子興のこの集団に おける統制力ほ決して強いものでほなかった17)。とくに,郭が朱元嘩を得てこれと緊密化 し,ともに蜂起した孫・愈・魯・播を軽視したことなどから,郭が次第に四人に疎んぜら れ,隊伍のことなどが四人の専決となるに及んで,郭と他の四人との間の幕ほいよいよ深 まり,互いに相い清疑するようになった。この情勢ほ,至正十二年九月,徐州が元相脱脱 に攻められて落ち,芝麻李が掃えられて殺され,その部将の彰・超が濠州に投奔して以後, さらにその欠陥を露呈した。郭・穿と孫ら四人・趨との間に確執が生じ,郭が孫・趨に掃 えられて,孫家の幽背中に錯繋されるという事態にさえ発展した。その後に,朱元嘩は徐 連など二十四人を率いて南下し,やがて天下平定-の道を歩むようになるのであるが,い くばくならずして彰・趨が衝突して趨が兵柄を専ら.にし,郭が孤立するに及んで,釆は郭 を源州に迎えるに至るのである。その翌年またほ翌々年,前述の如く,孫らほ食糧を求め て朱元嘩を頼って和に来り,朱はかれらを援助した。このことが郭子興に聞え, 実録」乙未春条によると,郭ほために「然,心常快快憂悶,致疾,久不起,遂卒」に至っ. 「明太祖. たという18)0. この事実経過の中には,多くの問題点が含まれている.それは,郭子興のその集団内に おける位置に関わるもの,換言すると,郭の異質性に関わる疑問と,郭集団と他集団との 関連に関わる疑問とに,それぞれ集約することができる。いまここでほ,とくにそのうち の前者について,即ち,郭子興が何故に他のものに疎んぜられたのか,という点について 考察を加えておこう19).. 前述の如く,郭子興の父は山東曹州の∧である。流れて安徽定遠に至り,富家の曹女を 妻として以後,その家運大いに隆昌したというo定遠土着の実力者から見れば,いわばよ そ者であり,卜占予言を事とした成り上りの豪家であった,とみてよい。それに比して, 孫・愈・魯・渚ほ,一本に「客」あるいは「賓客」とあるのが気にかかるが,孫らが芝麻 李の部将に蹟使されても濠を出なかったことを考え併せると,土着の豪であった,とみて よかろう.こうした存立基盤の微妙なちがいが,子興をして「孫徳崖等四帥,田野人」20) 「皇朝本紀」 といわしめることとなったし,両者の疎隔を生む素地となったのであろう。 ほ,このことに関して. 源陽王-・諸雄の上に列すo其の雄に四あり,愈・魯・孫・涛なり.意,同じきと錐 も,乱の其の処に及ぶや,志を異にす。 と述べて,郭子輿と他の四人との意識の異なりを説明し,さらに続けて 静・魯・孫・播,農より出ず.其の性盛真乞1)にして,謀知和同し,独り王と異なる..

(7) 27. 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. と記して,郭と他の四人との異質性の説明を深める22).従って,両者を比較すると,孫ら 四人にほより強い郷土保全の意識があり,郭子興にはそれがなかったのではないけれども, それとともに流志的な性格をも併せ持っていた,といえるのである。その故に,郭ほ,蘇 らとの確執を芝麻李の部下の彰と結託して打開しようと図ったことが彰の放死によって失 敗すると,朱元嘩の招きのあったことをさいわいとして源州に移ったのであり,それでい て,朱とともにさらに南下して和陽を攻略すること,即ちさらに濠州から遠く離れること にほ梼跨をみせたのである23)。さらに付言すれば,郭子興がともに謀起した同志を捨てて, 一介の乞食僧であった朱元嘩を頼りとしたのも,郭が未の中に成り上り老的同質性を見出 したからでほあるまいか,とさえ思われる。. 総じて,郭子興を首領の一人として,ために郭子興集団とも呼ばれている濠州集団ほ, うちに郷土保全意識の強い部分と,それとともに流志的意識をも併せ持った部分とがあっ たのである。郭子興ひとりのみが質を異にすると前述したことほ,まさしくこの点を指す のである。. また,郭が孫らに疎まれたことの原因の一つに,郭の人と為りな挙げることを忘れてほ なるまい。. 「明史列伝」1郭子興伝ほ. 子興の人と為り,放と鼻悼にして闘を善くし,而うして,性情直にして容るること少 し。. と述べて,その人と為りを形容する。郭に対してかなりの好意を寄せつつ編まれた「明太 祖実録」巽巳六月粂も, 凡そ,軍中に得る所有らば,上,皆な取ること無く,輯ち分ちて群下に給せしむ。他 将,獲る所有らば,輔ち以て子興に献ず。子興,上の献ずる所無きを以て,頗る悦ば ず。故に謹言あらば,待て以て之を問す。 というような郭の人と為りを伝え,さらに,郭が朱に頼りながら,蔑言を信じて朱を遠ざ けたことを,再三ならず記録する。こうした人格の所有者であったことも,郭が孫らに疎 まれる原因の一つであったに違いない。. 3.濠9ItII集団と元帥の称号 前引の史料の二,三に既に示されたように,郭子興ら濠州集団の幹部は,起兵に際して 元帥の号を称した。前述の如く,郭子興にほ異質なものを見出すことができるとほいうも のの,かれを含めた濠州集団に郷曲保全の地主武装集団としての性格を認めることができ るとすると,郭ら五人が自称した元帥の号ほ,元末の社会的混乱の中において,しばしば 郷党自衛のために結成され,ときにほ元朝支配機構の末端をさえ担った,ないし担おうと した「義軍元帥」の謂ではなかったか,という臆測が生じてくる。この臆測ほ,濠州集団 の性格を上述のように考えることを支える材料とはなり得るものの, 年閏三月甲戊朔条が ・・-元兵,数たび来り討つや,子興,験勇にして善戦す. と記す如く,郭集団が元朝軍と戦いを交えたということ,. 「国梓」1至正十二. 「国初群雄事略」2所引の「皇. 明記事録」が郭の自称を「毒州制節元帥」と記録していること,などを見知すると,補正.

(8) 28. 野. 口. 繊. 郎. すべき必然に迫られるようである。 ところで,. 「明太祖実録」壬辰二月乙亥朔条は,郭子興の挙兵を記し,. 定遠の人郭子興・孫徳崖及び爵某・魯某・播某等,兵を起して自ら元帥を称し,攻め て濠州を抜く。 と述べて,元帥を称したものの主格を酸味にしつつも,その後にほ,これら五人に対して 元帥の称を絶えて冠さない。. 「国権」は,前引の如く「自称元帥」の主語を郭子興とおき. ながら,郭以外を称して「四帥」という語で記すo じ記録の仕方を示すo 「廟碑」には,. また,. 「名山蔵」43天田記も,. 「国権」と同 「名山蔵」1典譲記太祖1ほ,かれらのいずれにも冠称を載せないo. 「軍帥四人」と記すことを除くほかに「帥」の字を記さず,郭子興に. 「明史列伝」1に載せる郭子興伝ほ は「王」字を冠する。 始め,子興,同に事を起す著は,孫徳崖及び愈・魯・津等三人,子興と与にして五な り.各おの自ら元帥を称して,相下らずo と記して,五人のものがそれぞれに元帥と自称したことをいい,さらにその後においても, (影)大・. (過)均用,皆な自ら王を称す。而うして,子興及び徳崖等,元帥為ること. 故の如し。. 「明史稿」列伝8の郭子興伝も,これと同 と,元帥の称のその後も存続したことをいう. 文である。そして, 「皇明記事録」のみが,前述の如く 定遠県の富民郭姓なる老,衆を究めて香を焼き,毒州制節元帥と称す. と,郭子興が毒州制節元帥を自称したことを伝える。これらの諸記録を比較し,かつ郭・ 孫ら五人の関係を考え合わせると,先ず,元帥号が自称であって,他のいかなる集団から 与えられたものでもないことほ,既に明らかであろう。次いで,元帥の号ほ決して郭ひと りのみでほなく,五人のものがそれぞれに称したことも,そのように想定して間違いない。 さらに,毒州制節元帥の号の存在を伝える記録が一本のみであるので,その実偽のほどは 定かでなく,かつその号を称したものが郭ひとりであったのか,他のものもそうであった のかは全く不明であるものの,いかに内部に対立があろうとも,同一の集団内に同一の称 号が複数存在することの不自然性と不合理性とを考慮すれば,毒州制節元帥の号は,. 「皇. 明記事録」の記すように,郭ひとりに止まったであろうし,そうであったとすると,互い に他を牽制し合った郭以外の四人の元帥にも冠せられるべき称号が別に存在したことにな ろう。しかし,この点に関する考証ほ,既出の史料のみでほ解決不能であって,これ以上 に推測を重ねることは,却って問題の本質をあやまることとなる。 さて,郭子興が自称したと考え得る毒州制節元帥の「毒州」について,三田村氏は,毒 州は「いわゆる竜鳳朝廷の謂であるが, としながらi. --このときほまだ竜鳳政権は存在しないから」 「徐州に拠った紅巾の与党芝麻李の節制をうけ,元帥号を称したのであろう」. といわれる24)o これは,紅巾-韓林児の毒州政権一芝麻李の徐州集団一郭子輿の濠州 集団という上下関係を念頭においた叙述の仕方であると思われる。しかして,毒州の地が,. 至正十五年に劉福通に迎立された韓林児が小明王と号して建都した地であることは,いう. を倹たない。しかし,郭子興が毒州制節元帥を称した至iE十二年二月当時,韓林児は前年.

(9) 29. 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 五月に起乱した父山室の敗死後,母とともに逃走中であり,従って,至正十二年の時点で 「嘉靖南畿志」8郡県志5沿革や 郭が毒州の制節元帥を称することほ,何の意味もない。 「歴代沿革表」の記すように,毒州は元代には河南帰徳府に属していた2缶)のであるから, 郭の根拠地濠州またほ定遠とほむしろ縁の薄い地方であった。加えて,至正十二年の時点 でほ,韓集団の号令の力は無に等しかったのであるから,新興の郭子興に対する統制力な いし指揮力をもっていなかったことは,明らかである。よしんば劉福通集団の号令が濠州 集団の上に及んでいたとしても,郭子興が「毒州」という特定地名を自称の元帥号の上に 「毒州の制節を受ける元帥」の意であった 冠する必然性は,何らないのである。かくて, という考えほ,不可に近いことになる。要するに,都子興ほ「毒州」という地名を自己の 「皇明記事録」の誤記ではないか,ということ 元帥号の上に冠さなかったのではないか, である。三田村氏のいう如く,この号の自称をもって,濠州集団が,少くとも郭子興が他 のいずれかの集団の控制をうけていた証拠とすることは,できないようである。だいたい, 濠州に拠って元帥を称しようとするとき,距った地名をそれに冠することほないo一般に こうした場合,自然には濠州の地名を元帥号に冠するであろう。そこで,毒州制節元帥よ 38貫の りも「濠州制節元帥」という称謂のほうが不自然でほない。呉喰氏「朱元嘩伝」 「制節」・「節制」のいず 記載ほ,この点について「濠州節制元帥」としている28).また, れが正しいかは,遠かむこほ決し難いが,より一般にほ「節制」であることほ周知であるo なお,孫徳崖・魯某・蘇某・津其の四人のその後,即ち濠州集団のその後についてほ, 至正十五年一月を期として明らかでないo. Ⅱ.李二とその集団 1.徐州集団の性格 李二が起軍するに至るまでに関する記載は, も詳しいo李二の出身について,. 「庚申外史」至正十一年五月条のものが最. 「庚申外史」ほ剰、riの人と記し,. 年八月丙戊粂は育県2T)の人と記すが,その当否ほ暫く措いて,. 「元史」順帝紀至正十一. 「庚申外史」をなぞりつつ,. かれらの起軍の動擁を探ることから論を進めていこう。 李二ほ隣人趨君用と語らい,また夢こなるものの協力を得て,至正十一年八月に挙兵す る。李二は,その家に芝麻-倉を有し,飢歳にあたって「尽以賑人」した故に芝麻李と通 称されたというが,この故事をみると,義侠心に富んだ,人々を賑救するに足る大きさの 倉のひとつをもつはどの階層であった,とみることができる。しかしまた,この時期の人. 物に,破頭播・讐刀趨・李軌頭などと名乗るものがいたことを昇ると,李二の通称の由来 あばた 杏, -倉の芝麻を放出したので,とすることのほかに,芝麻面であったので,とすること. もできる。そして,その同志のあり方からみて,後の考え方のはうがより妥当であるよう 「明氏実録」 (「学界類編」史参所収)天統二牛黄卯春条に,明宝珍 にみうけられる。なお, の部将が苛を攻略することを写した記録の中に,. 「指揮芝麻李,由蜜番人」とあるが,こ. こに記された芝麻李ほ,いま問題としている李二とほ別人であろう。 「明太祖実録」では趨均用と記されていて, 趨君用ほ, 「君用老,趨社長也」と記される。.

(10) 30. 野. 口. 繊. 郎. 君・均の正否は決し得ないものの,その出自を社長とするところから,郷村における何ら かの意味での指導者的階層に属するものであった,と考えてよかろう。 夢二については, 「元史」順帝紀至正十一年八月丙戊粂でほ,老穿と記されるが,後に 触れるように,恐らく同一人物であろうoかれほ,趨君用の質問に答えて 応えて日く,州県,賑済ありと云う。日日之を侯つも実は事を誤り,飢えて得る所な し--官府,信ずるに足らざるなり,と。 といったと伝えられるところから,元政権に対する不満分子とみることができ,かつ 燕城の南の夢二,其の人勇惇にして胆略あり,其の人を得ざれば,大事を挙げるべか らざるなり。. 噴,吾れ,汝の背力の人に過ぐるを視る. という趨の評価を受けていることから,武闘的面において一定の評価を得ていた人物であ ろう乞8).. 彰二ほ,趨君用に李二がこの謀議に参加しているか否かを糾した上で,くみすることを 決意している.こうした伝えをみると,李二は,郵州から粛県にかけての地において,何 らかの意味で郷党の信望厚い人物であったとも知られよう。李・彰に関わる伝えを綜合し て臆測してみれば,任侠的・仲間的な水瀞伝的結合の色彩を,そこに見出すことも可能で ある。挙兵に際して「困得八人,款血同盟」したということも,この臆測の誤りでないこ とを裏付けるものであろう。 この集団は,徐州党とも呼ばれている。指導者の大部分が徐州とその近傍の出身であっ たこと,徐州城を攻略し,忽ちにして十万余の軍兵を得て四方に勢威を張ったこと,など に由来するのであろうo徐州集団が興起した背景については, 李二の. 「庚申外史」に記載された,. 日く,朝廷妄りに土木の功を興す。百姓の貧苦,告するなし。吾れ聞く,頴上に香軍 起るに,官軍これをいかんともするなし,と。. という言辞や,先に触れた夢二の「官府不足信也」ということばをみると,反権力的反元 政府的な意識に駆られ,ある部分で頴上の劉福通集団の動きに触発されてのことである, とうけとることができる。しかし,同時に 何ぞ此の時に当りて,真の男子,富貴を取るの秋ならんや。 という李のことばや,超君用が夢二を説得したときの 汝,能く我が謀事に従えば,豊に但だに衣食のみならずして,己に富貴も汝に従わん。 ということばを読み,かつ「明史稿」列伝8が,至正十二年九月のこの一党の濠州への釆 奔のことを記したなかで, 徳崖等,其の放と盗の魁にて名あるを以て,乃ち共に之を推奉し,己が上に居らしむ。 と述べることを読み合わせると,かれらの興起は,単に,時に乗じて富貴を取ろうとする 野盗に類する存在でほなかったか,とさえ思わせられるのであるo同じく後日において, この一党に 時に彰・超の二雄,力を以て衆を禦し,部下ほ皆な人を凌辱す乞9)..

(11) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. と記録される行為のあったことや,至正十七年に趨君用が小明王韓林児魔下の命をうけて その大都攻撃の一葉を担った事実があったことをみると,この集団の野盗的洗志性ほ,い っそう顕著に認められてくる. 「元史」慣帝紀至正十一年八月丙戊条は, 李二,芝麻李と号す.其の党と与に,亦た焼香を以て衆を究めて反す。 と記す。. 「焼香衆衆」とは,後世の白蓮教などの宗教的秘密結社がよく用いる手段ではあ. るが,この集団には,史料に見る限りにおいて,宗教的色彩を認めることほできない30). 「庚申外史」至正十一年五月粂の記述は,白蓮教をもLらて興った劉福通に呼応するものの ひとりとして芝麻李の名を記し, 「元史」伝25脱脱伝は,その至正十二年粂に 紅巾に芝麻李と号する者ありて,徐州に拠る. と記し,またその党の趨君用が韓林児磨下の命をうけた前述の記鋸などをみると,この集 団が韓林児・劉福通集団と連繋する集団であったことを,一応は首肯し得るとしても,そ の故にここに白蓮教などの宗教的色彩を認めることほできない。系列的にほ韓・劉集団に 連るものの,自己自身の実質的意識としては,野盗的色彩の濃い集団であった,とみてお きたい。. こうした性格規定に近い見解は,既に鈴木中正氏によって与えられている81)o即ち,氏 ほこの集団を宗教的ポーズをとった無頼の徒とされる。宗教的ポーズということば遣いに 微妙な違和感を覚えるが,鈴木氏の見解ほ,原則的に支持することが可能である。これに 対して,三田村氏は,この集団を強惇仁侠の土豪集団とされ$2),加えて,李二の徐州集団 をも含めて東系紅巾軍は,帰巣性つまり地域性を強くもつ非流志集団である,といわれる. 他の集団のことほ姑くおいても,既述の如く,李二とその集団がむしろ流竜的な性向をも っていたこと,幹部指導者に「社長」を含むとほいえ,集団全体として土豪集団とみるに 足る史料に欠けることから,三田村氏の見解には,基本的に賛成しかねる点があるo なお,かれらの起軍の動機が黄河の改修にあったことほ,既に明らかである83)o 2.徐州集団の崩壊と影・連 至正十二年九月,自ら軍を督して徐州に向った元の丞相脱脱は,准東の元帥$4)遮善之, 同じく豪民王宝の援助をうけて徐州城を回復した。首領芝麻李は遁去したものの脱脱は面 目を施し,太師に降せられ,金銀を賜った。十一月にほ脱脱のために徐州平志碑が建てら れ,かれにほ爵位が加えられた8さ)oそしてこのとき,徐州は武安州と改められているo 遁蓋した後の芝麻李について, 「庚申外史」至正十三年条ほ 脱脱,徐州を平ぐ占芝麻李を得るを以て功を奏す--月余にして,始めて芝麻李を獲 え,京師に桔送するも,脱脱,密かに人をして雄州に就きて之を殺さしげ6)0 と記すo脱脱による徐州の回復を「庚申外史」は至正十二年条にも記し,併せ七芝麻李の 遁去のことをも述べ,さらにその事実を,同書は十三年条に再び繰り返し,他の記事を挟 んで「月余始獲」と続ける。銭謙益の「国初群雄事略」1がこの中略の部分を無視して前 後を連結させて引用しているのをみると,この「月余」とは,至正十二年九月を距ること 一月余りとみるのがよいようである37).. 31.

(12) 野. 32. 口. 繊. 郎. なお,芝麻李が械送される途次において密殺された所以は,知ることができない。とも あれ,ここに,いわゆる徐州集団ほ,徐州城を保つこと年余にして瓦解したのであるo 徐州集団の崩壊につれて,李二とともに事を起した幹部の趨・勤ま,濠州に投奔したo このことを記した「明史列伝」1郭子興伝ほ 元師,徐州を破る.徐の帥参大・鵡均用,余衆を率いて濠に奔る. 「明太祖実録」壬辰九月条ほ, と記し, 「明史稿」列伝8も同文である.これに対して, 元兵,徐州を復すo徐の帥彰早住・趨均用,余衆を率いて濠に葬る. と記し, 「名山蔵」 43天国記もほぼ同じである.また「廟碑」ほ,この時に濠州に釆奔し 「明史列伝」と「明太祖実録」とを併せ読 たものの名を「参・鵡」と姓を記すに止まる。 むと,彰大と彰早住88)とほ同一人であるとうけとれるが,これは「元史」順帝紀至正十七 年是歳粂にある「彰大之千早住」という記事によって,父子関係にあることがわかる。ま た,. 「国初群雄事略」1は,その詳弁ほ「源陽事略」中に見えるとしながら,. 「奔濠州老,. 当為彰大」と述べている。こうしたことから,濠州に釆逃した徐州の余党ほ,彰大・早住 父子と超君用を指導者とした勢力であったとするのがよい,と思われる.彰大・趨君用ほ, やがてそれぞれに魯准王・永義王を称し,郭子興らの濠州集団を暁使するに至るのであり, 「明史稿」 「明 大の死去w)とともに,子の早住が父のあとを襲って王を称したのである40). 史列伝」に載せる郭子興伝ほ,ともにこの理解に立って記述を進めている。 なお,さきに,李二にくみした人物として,夢二あるいは老影という名を挙げ,恐らく において, 同一人物であろうと記した。このことについて,銭謙益は「国初群雄事略」2 「元史」順帝紀至正十一年八月粂を引きながら, 「老彰老,早住之父彰大也」と記している。. いま,姑くほこの説に従いたい41). ところで, 「明太祖実録」壬辰九月条は,濠州に遷移した参・趨の関係について, 早住,頗る智数あり,権を挙りて専決す。均用,但だ唯唯たるのみ。 と記し,前に触れた如く,郭子興は彰早住と結託して,避君用と結んだ孫徳崖ら四人と角 逐したことを述べる。従って「同書」ほ英巳六月粂に 未だ幾ばくならずして,二人自ら相い香併し,戦士多く死し,早住亦た亡ず。惟だ均 用,兵柄を専らにし,狽戻益すます甚しく,子興の勢,孤なり。 と述べて,郭子興がやがて濠州を離れて朱元嘩に誘われて源州に移った伏線とするo即ち, 彰早住の死によって郭は依存するところを失ったため,新たに部下朱元嘩を頼って濠州を 去った,と解釈することが可能であって,殊更に無理なところはないo ところが,さきに 述べた如く,銭謙益に従い,また「明史列伝」1などに従うと,壬辰九月条の「明太祖実 録」は,早住を大と読みかえることが可能であるが,しかし英巳六月粂のそれほ,同様の 操作を行なえば 未だ幾ばくならずして,大死し;子の早住其の衆を領す。均用の専,狽だ益すます甚 し.子興を挟んで肝胎・胡州を攻め,将に之を害さんとすo という「明史列伝」1の記述となり,影と郭子興との繋りは切れないままに存続すること となる。父のあとを襲った早住の勢力が趨に替られただろうことほ想像に難くないが,そ.

(13) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 33. れにしても,蔀の難儀に当っての早住の去就についての記録は,何も伝えられない。その 後に早住の名を史書に見るのは, 「元史」願帝紀至正十七年是歳粂の 超着用及び彰大の子の早住,同に准安に拠るo という記鐘のみである.恐らく,当初,彰・趨という力関係を有していた両者ほ,彰大の 死町よって,趨・彰という関係に転じ,早住自身の態度ほ確められないけれども,趨に御 せられるままに都子興を孤立させてしまったのではなかろうか。こう考えることによって, 郭子興が濠を去って源におもむいた背景を矛盾なきものにすることができるのである. 彰早住の死に至る経緯及びその時期についてほ,詳かにし得ないo前引の「元史」順帝 紀至正十七年是歳粂以後において,かれの名を史書に見ることは不可能であり,従ってそ の死ほ至正十七年以後としか知り得ないし,同時に不正確でしかない。塘君用のそれにつ いては, 「庚申外史」至正二十一年九月粂に,薬学帖木児が山東を征したことを述べたな かで,当時の山東の情況を写して, 山東にほ,毛貴,遵君用の殺す所となり,其Lの将統推祖,復仇をなして君用を殺して 自り,国内遂に大いに乱るo と記して,察雫帖木児はこれに乗じて勝ち進んだと結ぶ。. 「元史」贋帝紀によると,至正. 二十一年七・八月のころにほ,察寧帖木児による山東出兵が行なわれていたoしかして, 毛貴・避雷用の内紛についてほ,同じく「元史」塀帝紀によると,至正十九年四月甲子に 超君用による毛貴殺害があり,同年七月丙辰に続継祖による復仇が行なわれたと記録され が幻.いまほ, 「元史」によって,趨の最期を璽正十九年七月丙辰としておきたい.ただ L,この内紛の理由ほ,定かではない。. Ⅲ.諸集団の関連 I.濠州集団と朱元嘩集田 挙兵して濠州に拠った郭子興らのいわゆる濠州集団は,当時のいわゆる東系紅巾軍諸勢 力・諸集団と,どのように連なる存在であったのか。以下,このことを課題として述べて みよう。. 濠州集団が,若干の兵力をそれぞれ直接指揮下にもつ諸将の寄り合いで成立していたこ とは,前述の,郭と他の四人の幹部との関り合い,郭が源州に移駐したときに兵万余を率 い,その後の軍事行動をその兵を朱元嘩の兵三万余と合して行なったこと,それにも拘ら ず孫徳崖らは別の兵力を郭の去ったあとの濠州において維持していたこと,などによって 明らかである.即ち,臆ぼ同等の勢力者の寄り合いの集団のなかの一つの勢力として存在 した郭子興の勢力は,下への連なりとしてほ,朱元嘩という有力な部将を有していた。郭 子興ほ,前述の如く,その性質からしてしばしば朱元嘩を裏切る行為を行なったのである が,それにも拘らず,朱ほそのような郭を尊重し,のちに源陽王とまで追封した6この所 「明太祖実在」の伝える 以については,前稿に小考を試みたのでいまその詳細ほ省くが, ところに依ると,朱は義に厚い側面を持っていたという6即も,壬辰九月粂に,郭が適君 不救非義也」4急)とい 用・孫徳崖らに執被せられたとき,朱は「上白,郭公干我恩厚有艶.

(14) 野. 34. 口. 域. 郎. って救援におもむいたということ,それのみならず,郭の子とともに,郭が親交していた 彰にこの事態の解決を委ね,自らはその指示に従ったということ,また,英巳六月条に, 郭子興が蔑言に惑わされて朱元嘩の左右の老を自己の磨下に加えようと図って李善長を抜 こうとし,挙がこれを肯じなかったとき,朱は「上日,主帥之命,弗可達也」といったと 「上錐見疎遠,而幸子興愈恭,未嘗有怨言」と伝えられること いうこと,さらに同条に, t. などほ,兼の義に厚いことを示す好例であると思われるo. ただ,これらを伝える記録が 「明実録」とその淀れを引く後世の編纂物に多いことをみるとき,こうした挿話は,にわ かにほ信じ難いoここでは,朱が郭を尊重した背景は,. 「明実録」に従えば,朱の義理固. く,任侠心に富んだ人柄による所大であったと考えられる,とだけ述べ,さらに「明書」 20宵闇紀1に 恵妃郭氏。子興の季女なり。入りて太祖に侍して意妃に封ぜられ,覇王椿・代王桂・ 谷庶人棟を生む。 とあることを頼りに,郭子興ほ朱元嘩の義父であったことをつけ加えて止める. これらの諸例をみれば明らかなように,朱元嘩ほ,少くとも濠州集団中の郭子興を主と 衣,その支配に服する存在であった。濠州集団が郭子興集団と通称されるのは,この朱・ 郭の関係によるのであるから,濠州集団-郭子興集団とおくことは誤解を招く恐れが十分 であるが,少くとも,郭子興一朱元嘩という上下関係は,明確であったとすることがで きる。但し,濠州集団中の孫ら四人と朱元嘩集団との関連についてほ,郭と孫ら四人とが 同輩であるからといって,孫ら四人一朱元嘩の上下関係を設定することはできない。孫 らが食を和に求めたときの朱の態度などからみると,むしろ,孫ら四人と朱とほ同輩であ るという見解をもつことさえ,できるのである。 こうしたことを含めて,濠州集団全体と朱元嘩集団との間に,いかなる関係をもたせる べきかについては,従ってにわかに決定することはできないが,ただ,安易に図式化する ことはできないようであり,重松・谷口両氏が記した関連図は,研かの訂正をしなければ ならないであろう。. また,至正十五年三月に竜鳳集団は,郭子興の干天叙を都元帥に,部将張天祐を右副元 帥に,朱元嘩を左副元帥に任じた。この時の朱元嘩の態度についてほ前稿に述べたが,そ れはともかくとして,この事実を以て,濠州集団ほそれ以前において竜鳳集団の控制をう けていたのでほないか,という疑問も生ずるであろう.この事実の生じた時点,即ち至正 十五年とほ,その二月に韓林児を帝とする大宋国が成立して,その意気盛んであったのに ひきかえ,都子興の病没によってその勢力の前途は晴渡たるときであった。こうした情勢 においてほじめて,前稿に述べたような朱元嘩の態度が考え得るのである。しかしそれ以 前において,少くとも史料上においては,竜鳳集団あるいは韓集団・劉集団と濠州集団と の連関を示す何ものも存在しない。現存の史料にそれを示すものがないからといって,当 時において何の連関もなかったとはいい得ないが,洪武十七年の刻にかかわる「廟碑」に ち,片鱗すらもそれを伺い得るものがない。濠州集団ほ,その起兵の当初において,竜鳳 集団ほもとより劉福通集団との間にも,上下関係をもたなかったとみたいのであるW.郭.

(15) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 35. の去ったあとの濠州集団,それを孫徳崖集団と呼んでもよいが,それと竜鳳集団との繁り を示す史料の⊥片もないことも,如上の説を裏付けることになるであろう. 2.濠州集団と徐州集団 濠州集団の上-の連なりについて,三田村氏は,前引の如く,芝麻李の節制をうけたで あろうと説かれる。その根拠として,前述の毒州制節元帥を称したこと,芝麻李が郭の決 起の前年にすでに王号を称え,官属を整えていたこと,芝麻李の勢力が「庚申外史」によ 「そう思ってみると」とし ると濠州をも制圧していたこと,などを挙げられる。さらに,. て,趨・彰が療州敗戦の後に濠州城に逃れたことも,濠州の五元帥が敗残の二将に旗使さ れたことも故なしとしないと述べられるoそしてこの筆法でい桝ぎ,敗残の二将が五元帥 を超えて王号を称したことも肯ける。筆者もまた前稿において,三田村氏の言をそのまま に「郭子興は芝麻李の控制をうけたであろう」と述べた。、しかし,いまこの点について, 改めるべきでほないか,という考えをもつに至った。 考えを改めるについて解決を必要とする第一は,郭子興とその集団の元帥号の称謂に絡 まる問題であるoこれについては,前述の部分で,その称号ほ自称であって,他の集団か ら付与されたものではない,と考えてきた。第二にほ,徐州集団の活動の面の考察である。 「庚申外史」至正十一年八月条は,芝麻李の挙兵を述べたあと, 徐州の近県及び宿州・五河・虹県・豊浦・霊壁を奄有し,西して安・豊・濠・潤を井 す。. と記すoしかし,この記事は,至正十一年八月真に記されてあるからといって,その時点 において濠などの地がすでに徐州集団の勢力下にあったことをいうのではないようである。 「名山蔵」1典譲記は,同時期のことを記して 李芝麻,徐・潤・武安・朽院・苛の諸州県に拠り,汚陽王と号すo といい46),濠には触れていないo. これは,この当時,挙がまだ濠州にまで勢力を伸ばさな かったことを物語るのであって, 「庚申外史」がその至正十一年八月粂に濠の名を記すのほ, のち至正十二年九月に,趨・彰が濠州に釆奔し,濠州集団を臨促するようになった以後の ことを,それに先立つ年代の箇所に併記したまでであろう48)。このように考えてはじめて, 即ち,もし李二 郭子興らが「逐濠令」47)してここに依拠したことが首肯できるのであるo らの勢力が濠にまで及んでいたのなら,郭が挙兵して初めに闘う相手は徐州集団でなけれ ばならなかっただろうに,州官を逢って濠州を占拠したのであれば,この地ほ,まだ元朝 政府の治下にあったのである48).. 徐州東田は,李二の存生のうちほ,かれを頭領としてそれなりの統制のとれた集団であ った,と消極的に認め得る.その間に混乱のあったことを示す材料のないことが,その理 由である。このころの徐州のこの集団と郭子興の濠州集団との関連ほ,以上のように,史 料上において明確でほない。反政府を口号として興起した勢力ということでの共通性はみ られるものの,その社会的な性格として,徐州の側には武闘的流竜性が,濠州の側にほ土 豪的郷曲保全性があったと考えられるのであるから,本質的には,両者ほ相い容れない関 係にあったわけである.従って,至正十-. ・十二年当時における両集団の上下関係は,必.

(16) 36. 野. 口. 繊. 郎. ずしも明瞭にはし難いものの,濠州集団は,その挙兵の当初において,とくに上に連る勢 力を持っていなかった,と判断してよい.のちに顕著になってくる濠州集団内の郭子輿以 外の分子の土着性などを考え併せると,この判断はさほどの誤りでほない,と考えられる。 しかし,この判断に対して,次のような疑問も提示されようo来奔した徐州集団の残党 の彰大・超君用に,郭子典・孫徳崖らのこの集団の幹部がやすやすと頗使されるに至った ことほ,それ以前から濠州集団が徐州集団の控制を受けていた証左でほないか,という議 「廟碑」が 論である。仮りに,この議論がなり立つとすれば, 未だ幾ばくならずして,客軍の首帥の参・趨,兵を以て来りて濠に駐し,二姓皆な王 を僧称す。王等,遂に制する所となる. と述べる「遂」字は,どのように解釈したらよいのであろうか。しかも,彰・趨を指して 「罪惟録」伝5は, 「客」軍という表現を用いるのである。また, 九月,彰早住・趨均用等,徐州に戦敗して濠に奔る.徳崖等,拒む能わずして,遂に 尊びて之に事う。 という。ここに記された「不能拒,遂尊事之」という表現のしかたは,. 「廟碑」とニュア. ソスを一にする.そして,こうした記述ほ,それ以前において,徐州集団と濠州集団との 間に,明確な上下関係を認めることのできないことを立証するものでしかないであろう。 至正十二年九月に李二が描殺されるや,かれとともに興起した幹部の彰大父子・趨君用 紘,前述の如く徐を捨てて濠に逃れ,この地を保有していたいわゆる濠州集団と兵を合し, ほどなく自己自身が内部分裂を起しつつ,濠州集団にも内在していた内紛の芽を助長して いった。即ち,元政府軍の攻撃によってもたらされた徐州集団の崩壊は,その残党が混入 することによって,濠州集団の自壊作用を促進したのである.そして,この時点における 両者の関係は,武力的な面に優れている参・超の勢力が,濠州集団の上に立つものとして 位置づけされる。客軍の将が王を称えたことに対し,本来的にその地を保有する勢力が抗 し得ず,依然として元帥号を称えるに止まっていたことほ,両者の力関係による上下の序 列の存在を物語るものであるo徐州集団と濠州集団との上下関係ほ,芝麻李の薮後に生じ, それが生じた時点では,既に濠州集団の自壊作用が進行しつつあったのであるo 3.徐州集団と竜鳳集団 さきに記したように,徐州集団ほ劉福通らの動きに影響されて興起した,と理解させら れる史料が存在している。そこで,徐州集団と劉福通集団ないし韓林児集団,あるいほ竜 鳳集団との関連について考えておこう。 既に周知のように,竜鳳集団ほ白蓮教集団であるが,徐州集団成立の時点でほ,劉福通 集団は組織されているものの,白蓮教の宗家である韓林児集団は成立をみていない。また, 徐州集団の幹部である李二・彦大・彰早住に関する記録にも,劉または韓との繁りを伺わ せるに足るものは残されていない。さらに,徐州集団全体としてほ,前に述べたように, 白蓮教を含むいかなる宗教的色彩をも認められない。こうした事実をみてくると,いくつ かの記軌こ,その挙兵が劉福通らに呼応したことをいっているにも拘らず,徐州集団と白 蓮教集団との関わりは,もう一つ定かではない.ただ,至正十一年に起草した韓山童の描.

(17) 37. 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. えられたあと,その妻と子の林児が武安に逃れたということ49)から,中山氏ほ,. 「武安は. 此時に徐州路を改称したものであり,徐州は芝麻李が攻敬した地である。従って韓林児母 子は一時芝麻李に依頼したように思われる。」と述べられ50)て,両者の問の関連を,むし ろ肯定しようとする。しかし,徐州が武安と改称されたのほ,前述の如く,至正十三年十 一月であって,徐州集団結成の至正十一年当時ほまだ徐州と称されていた。また,当時, 武安の名をもつ地ほ,河南と四川とに存在した.河北津城から永年に流された韓山童の妻 子が逃れて産れ住んだという武安ほ,その地から西に省境を越えた河南武安県か,と思わ れるo. こう考えてくると,徐州集団と韓または割との関連は,否定的な方向に傾きつつ, 暫く未詳のままにしておかなければなるまい。 徐州集団のうちで,竜鳳集団との繁りをもつものに,趨君用がいる。しかし,かれとて ち,韓林児または劉福通の直系列下に位置するのではなく,劉の部将ないし党与となって いた毛貴61)に属し,やがてこれを殺すに至るのである.趨君用が毛貴に投帰した年代は, これも不明瞭であるが,至正十七年から毛貴殺害の同十九年四月甲子に至る問であったこ とは当然であろう。 「元史」順帝紀至正十七年六月是月条に 劉福通,汁・梁を犯すo其の軍,三に分かつ.関先生・破顔播・鴻長男・沙劉二・王 士或は育・巽に志し,自不信・大刀敦・李善書は関中に趨り,毛貴は山東に拠る。其 の勢,大いに振う. とある記事は,. 「庚申外史」至正十七年粂によると. 河北の関先生・沙劉二を分ちて,兵を萌して育・巽に入りて,朔方より上都を攻めし む。准安の趨君用・部将の毛貴の兵を分ちて,田豊を合せて,大都に趨らしむ。 と表現される。ここに記された田畳とほ,義軍黄軍万戸であったが,至正十七年七月に元 「庚申外史」の記事はその年代に 政府に坂いた人物であり方2),また,いままでしばLば, 必ずしも直接しないことを確めてきたことなどをみると,趨君用が毛貴に合した年代の考 証について,これ以上の進捗を望めなくなる。ただし,ここに趨の肩書きが「准安」とな っている点に留意し,かつ,かれが彰早住とともに准安に拠った記録を「元史」が贋帝紀 「元史」に従 重正十七年足歳粂に載せることを思い起すと,かれが毛貴と合した時期を, ってこの年六月としても大きな誤差ほなかろう,と思われる。 付.遭君用と朱元嘩 劉辰の「国初事蹟」. (「借月山房東砂」第五集所収)紘,次のような伝えを記録する. 濠州の胡家に女ありて,寡を守る。太祖,之を納めんと欲するも,其の母,従わず。 後,聞く,軍に随いて鮭安に在りて,骨って人に遠かず,と。太祖,人を遣わして書 を以て平章樽君用に達し,之に主たらんことを請う.君用,胡氏を以て其の母と共に, 送りて至るo太祖,之を納めて,立てて胡妃と為すo. ここに述べられている胡妃とほ, 「明史」列伝4諸王伝中に,太祖の第六千楚昭王横の生 母として記されている胡充妃であって88),かの女の伝ほ, 「罪惟録」伝2皇后列伝の諸妃 美人附伝中に見える54)o 楚昭王禎の誕生は「明書」. 86皇子諸王宗室紀1楚記によると,. 「甲辰年」とあり,太祖はかれの生まれたとき,たまたま武昌攻略に成功したb6)との報を.

(18) 38. 野. 口. 繊. 郎. 聞き,かれの長ずるのを待って楚に藩封すること軒こ決した,といわれている58).従って, 胡氏納妃の時期は,当然それ以前でしかも趨君用が准安に在ったとき,と定めることがで き,そうするとその年代ほ,重正十七年の前半ということになろう。 そして,ここで主要な話柄ほ,楚昭王でも胡充妃でもなく,至正十七年前半の時点にお いて,超君用に「平章」の肩書が冠せられていることである。永義王を自称していた趨の この時点における肩書の「平章」が,いかなる意味ないし性格をもち,またどの勢力から 与えられたものであったのかについて,請書ほ記録を残していない。推測を重ねることは 可能であるが,これは疑問として後考に委ねたい。但し,かなり重要な疑問である。この 至正十七年とほ,鵡が影早住とともに濠を出て准安に拠った年であり,また,劉福通の意 を受けて毛貴とともに山東に北征した年でもあるからである. Ⅳ.む. す. び. 以上に述べてきたことをここにまとめて,むすびに代えたいo 郭子興・孫徳崖・魯某・播某・愈某を主幹とする,いわゆる濠州集団は,元未の混乱の なかにおいて,地主・土豪の連合武装部隊として,郷曲の保全を目的として結成され,濠 州に拠って元帥を自称した。この時点でこの集団は,当時姫起していたどの集団とも,特 別の上下関係をもっていたとは思われない。しかし,郭のもつ成り上りのよそ者という人 格は,他の要素とも相い供って,やがて孫ら四人の疎んずるところとなり,郭はやがて自 己の魔下に加わった朱元嘩を頼ってこの集団を離脱し,朱元嘩集団と行動を共にするよう になるのである。. 濠州集団の挙兵に先立って起ったいわゆる徐州集団ほ,元政府権力の後退と秩序の顔廃 という現実に即応して,. 「取富貴」るべきことを呼号して興起した,武力に長じた集団で. あった。武闘的な面と流志的な面とはもっていたものの,明確な政治的理念はもとより, 宗教的理想をも所有してほいなかった。紅巾を掲げたということで韓林児・劉福通集団に 従っていた,と理解され勝ちであるが,この集団の興起の当時にほ韓集団は形成されてい なかったこと,紅巾の旗職ほ必ずしも白蓮教結社を示す旗職ではないことから,この集団 が韓・劉集団に直隷していたということは,少くとも当初においては,ほっきりと認める ことはできないようである。. 濠州集団と呼び慣わしてきた武装地主連合集団は,強力な一本の命令系統を持たない, ないし持ち得ない集団で奉ったが故に,形成直後から自己分解の新しを見せていた.この 萌しほ,徐州集団が瓦解して,その敗残の二部将が豪州に投奔したとき,より増大し,の みならず二部将の離間をも誘った。内部分裂の困素を包含していたという点でほ,濠州・ 徐州の両集団とも,同様の傾向をもっていた。この両集団が合したとき,分解作用は相乗 された,ともいえよう.元末の東系紅巾軍諸勢力中において,畢尭,朱元嘩集団が残り得 たのは,未元嘩の指揮命令権か強力強大であって,従って同等の権力者は存在せず,命令 系統が整っていたこと,を最大の理由とすることができようoそして,この点に関してい えば,韓集団も,朱集団と直接するまでは,ほぼ同様であったとみてよい。.

(19) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 89. 徐州集団の,いわゆる東系紅巾軍内における位置づけに関する従来の研究によると,こ の集団ほ韓林児・劉福通集団に直隷し,彰大・早住父子や趨君用をその幹部として,濠州 に拠った郭子興・孫徳崖らの集団に命令支配権をふるった,と位置づけされているo し,以上の論証を踏まえて考えてくると,徐州集団の東系紅巾軍中における位置づけは,. しか. 必ずしも定かでほなくなる。韓林児・劉福通集団との関連は,李二の興起のときに認めら れるとする見解があるものの,必ずしも明確でほなく,徐州集団崩壊後数年を経た至正十 七年に,残党の一部将超君用が韓林児の丞相劉福通の命を受けたことが記録されているに 過ぎない。また,濠州集団に対する位置関係も,当初から上に立つものであったというの では決してなく,李二の穀後において,その部将の武力的優越性によって,結果として上 下に連なった,とみたほうがよいようであるo. 従って,かつて重松氏が試み,近時谷口氏によって踏襲された如き,一定の図式によっ てこれらの関係を表現把握しようとすることは,困難であるばかりでなく,誤解を生じや すい,とみなければなるまい。少くとも,郭子興らが起兵した至正十二年二月,徐州集団 の崩壊した同年九月,郭子興が朱元嘩に迎えられて源に移った至正十三年六月,竜鳳集団 の成立した至正十五年二月,郭子興の死去した同年三月,超君用が劉福通との繁りで記録 されている至正十七年六月,のそれぞれの時点における位置関係がそれぞれに異ることは, 以上の考察によって明らかになった,と考えられる。 註. 第1類 第18輯。本稿で「前稿」という場合にほ,これをさす。 1)横浜国立大学人文紀要 2)愛宕松男氏「朱呉国と張異国一初期明王朝の性格に関する一考察--」文化17巻6号,今 井春夫氏「朱元嘩集団と張士誠集団」中国農民戦争史研究2 3)谷口規矩雄氏「朱元嘩」人物往来社(中国人物叢書9)0 4)山根幸夫氏「『元末の反乱』と明朝支配の確立」岩波講座世界歴史12 岩波書店. 5)重松俊華氏「宋元時代の紅巾賊と元末の弥勧・白蓮教匪に就いて」史淵24・25・28. 6)両氏の相違ほ,朱元嘩集団と肩を並べる集団の一つに,重松氏が記す雀徳の名を谷口氏が記さ 0. ないのみである。. 7)これら諸集団のうち,朱元嘩集団のみほ,最後まで朱元嘩を首領として存在したので,その名 を集団の呼び名とすることに何ら違和を感じない。しかし,韓林児・劉福通集団ほ,実は至正 十一年に韓山童・劉福通らが坂し敗れたのち,割に率いられて各地に転戦し,至正十五年に至 って逃匿していた林児を迎立して竜鳳と元号を建てたのであって,韓林児は劉の塊偏に過ぎな いともいえる。従って,この集団の呼び名を韓・劉集団とすることにいささかの梼躍を覚える ので,本稿では至正十五年二月の竜鳳政権成立以後についてほ竜鳳集団と呼び,それ以前にお ける勢力ほ韓または劉を使いわけてみたい.また,芝麻李集団・郭子興集団については,それ ぞれ後述の理由によって,その称呼を実態にそぐわないと考え,本稿では徐州集団・濠州集団 と記すことにしたい。 75頁。 8)谷口氏「前掲書」 9)三田村泰助氏「朱元嘩と紅巾軍」田村博士項寿東洋史論叢。 10)前稿に,この父の名が「罪惟鐘」伝5瀞陽王郭子興伝にのみ「書目」と見える,と記したが, これほ固有名詞でほなく, 「日を善くする」という占トの術をいうものであろうので,ここに 訂正する。 ll)鳳陽府に属する他の県についても, 「同書」は,概して商茸の風の存在したことを述べる。例 「在城務商賓,在野勤稼稽,盲年無告許之風」と, えば臨准県について, 「濠梁誌」を引いて述.

(20) 野. 40. 口. 繊. 郎. ベるo. 12)孫などの片伝すらも諸吾が残さないのは,明朝の創始者朱元嘩との関連の深浅に依ろう。 13) 「名山蔵」 48天田記では,この「豪傑子弟」なる語ほ,前引の如く孫徳崖ら四人に冠せられた 辞であった。従って, 「明太祖実録」 「国権」の記す「豪傑子弟」も孫ら幹部を指す謂ではない か,という疑念も生じようが,例えば前引「国槍」の記事をみると,一定の区別をもって記さ れているので,ここでいう「豪傑子弟」が孫らを指すのではなく,その兵卒を指すことほ明ら かであろう。このことは「明太祖実轟」も同様である。 14) 「嘉済南畿志」 10郡県志7人物に載せる郭子興伝には,かれの源州移駐を甲午歳と記す。また, 「国権」も甲午四月の条に記す。 「時,濠梁旧雄愈・魯・孫・清,亦乏糧,其部 15) 「明太祖実録」乙兼寿条.また「皇朝本紀」ほ, 下,皆撃家就食於和陽四郷」と記す。 16)それは,のちの中国の支配者朱元嘩との繋りにおいてのみ,ひとり郭子興の名と活動の大要と が史籍上に残ったからであろう。 17) 「廟碑」は,この点に関連して「時,軍帥四人名位,皆在三上」と述べ,郭子興のこの集団内 における位置を,他の四人との関係で巧みに表現している。郭のこの集団に対する統制力ほ, 極めて弱かったとみてよい。また,このことからも,この集団が地主武装勢力の連合の集団で あったことが知られる。 43貢より61頁の間の処処に詳しい. 18)この経過は,異境氏「朱元嘩伝」 19)同志に疎んぜられた郭子興を,源陽王碑の撰文を張釆儀に依託したときの太祖が「恩徳,注在 朕心」とまでにいったことについてほ,郭集団と他の集団との関連をみるなかで考述するo 20) 「名山蔵」 43天困記。 「鹿真」を「粗直」につくる. 21)王崇武「明本紀校注」ほ, 22) 「明太祖実録」壬辰二月条に, 「時,孫徳崖等四人,起自農畝,性癖潜,知識皆出子興下」とい ういい方は,郭のもつ性質が「藤憩」と相対するものであったことを物語るものであり,かつ 知的レベルにおいて郭が優れていたことをいうものであろう.それほ,農に起るものと,商軒こ 「四 携ったかも知れないものとの相違ででもあろうか。同じことを「明史列伝」1郭子興伝は, 人者,産而顛,日割掠」と記し,郭が他の四人と性向において異ったものの所有者であったこ とを述べている。 2畠) 「明太祖実録」英巳冬十月条など. 24)三田村氏「前掲論文」。 25)所引の書など軒こよると,宅州ほ,明代において鳳陽府に属したo 26)呉氏ほ「廟碑」を根拠の一つとして,五人がともに濠州節制元帥と自称した,と述べるが,呉 氏の所拠を親合してみても,氏の所述と一致しない。版本の相違ででもあろうか。 「元史」地理志によれば,元代において河南江北等処行中書省に属し,その帰徳府徐 27)斎県は, 州の属県であった.至元二年に徐州に併入されたが,同十二年に再び独立している.なお,郵 州は,徐州と同様に婦徳府に属した。 「元史」順帝紀至正十一年八月条の 「庚申外史」至正十一年五月粂, 28)老彰もしくは夢二の名ほ, Qまか軒こは見えず,この二書においても,その後にほ絶えて記さないo なお,この人物について ほ,後にも触れる. 29) 「皇朝本赤aJ。 80)焼香という行為は,結盟の儀式としてしばしば行なわれたことであって,中国社会において, ここにどれほどの宗教信仰的意味合いをもたせ得るのか,疑問である。 81)鈴木中正氏「宗教反乱と易姓革命一元明鼎革の場合-J愛知大学論叢41. 32)三田村氏「前掲論文」. 33)中山八郎氏「至正十一年に於ける紅巾の起事と雫魯の河=J和田博士古稀記念東洋史論叢.な お, 「庚申外史」では,至正十一年粂に関連記事がみられる。 34)この元帥号は,いわゆる義軍元帥の謂である. 85) 「元史」備帝紀至正十二年条, 「同」脱脱伝o 「既而陰構朝旨令法師使者六七返帝始令月怯察児代之」と記され 86)この記事の中略の部分にほ,.

(21) 元末のいわゆる東系紅巾軍諸勢力について. 37). 41. てあって,芝麻李とは全く無縁の記事が挟まれているQ 「庚申外史」至正十三年粂ほ,この記事に続けて,薬学帖木児と李思斉とが義兵を起した,と 「元史」贋帝紀至正十二年条に「是歳」として記されるこ いう事実を記録する。この事実は, とである.. 「庚申外史」ほ,このように,処処において記年ないし記事の混乱をみゃているo. 38) 「国初群雄事略」1所引の「竜飛紀略」では,彰早住を彰祖住に作るというo 「明史列伝」1郭子興伝によると,貫魯の死による元兵の濠州包囲撤退 89)多大の死去の時熟ま, 「国榛」1の紀年を参照すると,至元十三年五月 と,朱元嘩の源陽占領との間にある。即ち, から,翌十四年三月に至る問ということKlなるo 「蓋,夢大既亡 40) 「国初群雄事略」2に見える銭謙益の考証によると,早住が王号を称したのは,. 乏後,早住与君用,同陥貯瓢同拠推安o君用併潜称永義,而早住襲其文之旧,併称魯推」と いい,至正十七年の准安占拠後である,としている. 「明太祖実録」巽巳六月条むこ記される影早住の死に至るまでの 41)なお, 「国初群雄事略」2ほ, 「明史稿」ほ, 彰早住の名ほ,すべて彰大と改むべきである,と述べているが,既に「明史列伝」 この点について正しい記述を行なっている。 「同書」秋七月丙辰 42) 「元史」順帝紀至正十九年夏四月甲子条に「毛貴,為趨君用所殺」とあり, 粂に「趨君用,既殺毛貴。其党統継祖,自遼陽入益都,殺君用,遂与某所部,自相健敵」とい う。. 「郭公,吾父母也」と記すoこのことばが 「名山蔵」 43天田記ほ,この時の朱元嘩のことばを, 決して誇張でないことは,あとに触れる。 44)郭子興らの集団が紅巾を掲げたことをもって,この集団ほ韓林児集団に連るとする説が和田清 氏以来行なわれているが,紅巾が必ずしも白蓮教徒の職でほなく,また同志的結合のしるしで もないことについてほ,前稿においていささか触れた. 45)ここにいう円陽は,湖北にあるそれを指すのでほなく,恐らく徐州と濠州との中R郡こ存在した 「名山蔵」 1典諌記には, 「元丞相脱脱--進撃徐州,李芝麻亦遁入汚陽」 地点ではなかろうか。 43). ともあるが,同じ事実を記した「庚申外史」にほ,円陽の名ほ見えないoもし,汚陽が湖北の それであるとすれば,理に合わないこと明らかであるoいま,その現地名を詳かにし難いが' 徐州と濠州との問の何処かであることほ誤りなかろうo 46) 「庚申外史」の記録の不正確については,先に触れたo 47) 「名山蔵」 43天困記. 48)従って,ここでも,郭子興らはいわば独自の判断で挙兵してこの地に拠っ、たのである,といえ 「自称」であったのであって, る.かれらの称した元帥の号は,まさしく諸史料の記すように, 他から付与されたのではないのであるo 「元史」頗帝紀至正十一年五月粂。 50)中山氏「前掲論文」註26。 「君用--未幾奔山東,依宋将毛貴」 「国初群雄事略」1所引の「竜鳳事境」ほ, 51)毛貴について, と述べて,その所属を明記しているo 「鎮守黄河義兵万戸田豊,坂陥済寧路o分省右丞実理 52) 「元史」慣帝紀至正十七年七月己丑粂に, 門遁,義兵万戸孟本周攻之。田豊敗走,本周還守済寧」とあるo 53) 「明書」 20富国紀1によれば,胡妃なる妃は,太祖にもう一人いるo胡順妃であって,湘三相 の生母である。ここにいう胡妃とは,その生地からして,胡充妃であることは間違いないo 54) 「罪唯録」伝2皇后列伝諸妃美人附に「胡妃,鳳陽人。定遠衛指揮泉之女o生楚王損,有殊寵。 号巽 偶有堕胎邸内河,内侍以為妃所為.上怒,殺妃,投其屍城外,選小李妃補之o楚王来執 東屍,不得.得練帯,迎賓干楚o後,追諒昭敬皇妃」とあるo 55)それは至正二十四年甲辰二月である。 「楚昭玉垣,太祖第六千o始生時'平武昌報適至o太 56) 「明史」列伝4諸王伝の楚昭王櫨の粂に, 祖書目,子長,以楚封之.浜武三年,封楚王,十四年,就藩武昌」とあるo (1974. 5. 5稿) 49).

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