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ペンペルフォルトのゲーテ

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(1)Pempe-fort. NAKAJIMA(°ept.〇f. 明. ペンペルフォルーのゲ-チ Goethe. 島. German). 彦(ドイツ語教室). 関係にあったのであろうか。. 「力」「自然」′「独創」などをスロ-ガンに. 掲げて、荒々しい、力強い文学を志向していた。例えばゲ-テのヴェ. ていたが、しかし他方では. に反発していた。ゲ-テもこの時代の影響で極めて感傷的な面を持っ. った。又ヤコ-ビは極めて感傷的な人であった。この点にゲ-テほ常. たので、ヤコ-ビはヂ-テにとってまず対立するグル-プの人間であ. 動の人達はまさにこのような旧来の文学を破壊する事を目的としてい. 文学を基盤としていたが、ヘルダ-やゲ-テを中心とする疾風怒涛運. は機知と優雅に富んだロココ風、美徳育成を目的とする啓蒙主義的な. ヤコ-ビはゲィ-ラントとの結びつきを特色とする。ゲィ-ラント. 緊蛋が常に二人の関係を支配していた。. に客観的な世界観照の態度へと変っていってこの両者の差から生ずる. の中にあったのに対してゲ-テほ若い時の主観が勝った態度から次第. ゲ-テとヤコ-ビの関係ほ究極的にはゲ-テがヤコ-ビの感傷性に. ランスに侵攻した時(1七九二年)の後の従軍記である。その中で十. 頃の視点から、その当時の状態を総括的にみょうという態度に変って いる。その頃の自分を正確にとらえようとする意志が認められる、従 ってイクリヤから帰国(一七八八年)して以来シラ-との親交の始ま る(一七九四年)までの間のゲ-テの状態を知るのにこの部分は適切 である。これを読むと友人の家で歓待されながら孤独に苦しんでいた ゲ-テの姿が浮かび上って-る。その孤独ほどうして生れたのかそれ を明らかにするのがこの小論の目的である。. Heinrich]acobi(以下単にヤ去-. 一一七九二年以前のゲーテとヤコービ ゲ-テが1七九二年Friedrich ペソペルフォルトのゲ-チ. 五七. でのChronik風から1変して、後の一八二〇年のこれを書いている. 批判的であったという事につきる。或はヤコ-ビの世界は主観的な心. ビと言う時はこの弟のヤコ-ビを指す)と再会するまで両者ほどんな. Akihiko. 中 数頁fiES.'アユツセルドルフの郊外のペソペルフォルトに住んでいるヤコ -ビ家を訪問した時の体験にあてられている。叙述はこの文では今ま. ゲ-テの「滞仏陣中記」は、オ-ストリア・プロイセン連合軍がフ. in.

(2) ペンペルフォルトのゲ-チ. ルタ-は感傷文学の極限であり、後半になーるほどヴェルタ-は自分と. GeorgJacobiで. A)れほ後に破棄されてしまったがその中で彼はヤコ-ど. ソトの協力者であるヤコービ兄弟に対して彼の気持に変化が生じたこ. とも想像にかた-ない。更にゲ-テとヤコ-ビの間の橋渡しの役を婦. 若い)が一七七二年以来フランクフルトに住んでいてゲ-テ家と知合. になっていた。その次の年ヤコ-ビの妻ペソティと彼の妹のロッテが. フランクフルトにやってきて、ゲ-テの妹のコルネリヤと親しい間柄. になった。こうしてゲ-テはヤコ-ビの妻と知り合いになったが'彼. コ-ビに批判的であった事がこの文通になんの障害にもならなかったo. 女に好意をもち、ここに両者の間に親しい文通が始まる。ゲ-テがヤ. とメルク-ル誌を創る。そのメルク-ル誌でヴィ-ラントは「ドイツ. に仲介の労をとった.例えばフ7-ルマ-嬢はヤコ-ビに'ゲ-テが. マ-嬢や両者の共通の知人であったゾフィ-・ラ・ロッシェは積極的. るうちにヤコ-ビ家に興味をもつに至ったのであろう。更にファ-ル. べッティほ両者を仲介する事はしなかったが、ゲ-テは彼女と交際す. の軽歌劇A-cest.について友人に宛てた書簡」を発表する。その友人. る。これがゲ-テの怒りを買い、ゲ-テは「神々と英雄とヴィ-ラン. ることになるが、それにはこのような背景があったのである。ゲエア. 認めている(1)。ゲ-テほ一七七四年の夏衝動的にヤコ-ビ家を訪問す. 連の直接的間接的の影響についてはゲ-テも自伝「詩と真実」の中で. ゲィーラントについて考えを変えたことを伝えている。これらの婦人. ト」という茶番劇を書-(一七七三年九月から十月)。この茶番劇はゲ. が突然ヤコ-ビ家を訪問することになったのには上述の背景のほかに'. H.Nico)ai(2)はゲ-テはその頃特に自分の気持を他人に理解して貰. 曲「ゲッツ」の批評においてもこれを公正に扱おうとした。これがゲ. 受けて立って応戦したが、年長者の余裕で応じた。その上ゲ-テの戯. この時の感動は感傷時代にふさわしい高ぶった調子で両者の手紙の中. は消えてしまい、共感と信頼の感情に圧倒されてしまうのであった。. 接お互に相接すると両者とも相手の人間に魅了されて、今までの対立. いたいという欲望が強かったと述べている。ゲ-アとヤコ-ビとは直. -テのヴィ-ラント観に変化をもたらした。ゲ-テは文学的傾向にお. 気持が一致した唯一の時であろう。この帝のゲ-テはまだセンチメソ. に記されている。この時がゲ-テとヤコ-ビの長い交際の中で完全に いてゲィ-ラントと異っていることほ前と同じであるが、しかしゲィ -ラントという人間を評価するようになった。それと同時にヴィ-ラ. 近に役立つのである。ゲィ-ラントはメルク-ル誌でゲーテの攻撃を. との対立を一層激化させると思われるこの件がゲ-テとヤコ-ビの接. -ビにも知られる結果となる。ところが皮肉な事にゲ-テとヤコ-ど. -テの了解なしにゲ-テの友人のレンツが印刷してしまったのでヤコ. 歌劇はギ-シヤの悲劇詩人エウ-ビデスのものより秀れていると述べ. とはヤコ-ビのことである。この書簡の中でヴィ-ラントは自分の軽. 兄弟やヴィ-ラントをやっつけている。ヴィーラントほヤコ-ビ兄弟. 書いている。,. にゲーテはl七七二年九月に「ヤコ-ビ兄弟の不幸」という謁刺劇を. 七二年)、ヘルダ-やゲ-テはその感傷的な友情讃歌を批判した。更. あった。彼がG)eimとの往復書簡を発表した時(一七六八年と一七. ゲ-テの前に現れたのはまず最初に兄のlobann. 世界の奥底まで迫ろうとする巨人の姿がみえる。. 自然の中に無限なものの琴不を見ようとする。又ウルファウストにほ 人連が行った。ヤコービ兄弟の叔母のフ7-ルマ-症(年は兄弟より. いう鏡を通してしか世界をみないのであるが、しかし初めの部分でほ. 五入.

(3) タルな要素を多分に持っていて、後年と違って自分の気持は残さず吐 露していた。 このようにして始ったゲ-テとヤコ-ビの友情はすぐに試練を迎え ることになった。一七七五年にヤコ-ビの最初の小説「A--wi-ごが現. ビのゲ-テ訪問となる。このヤコ-ビのワイマ-ル訪問は両者が会っ. 全』、私. て旧交を暖めたという事に意味があるばかりでな-、彼の訪問にょっ. て、ワイマ-ルの人達の間にスピノザに対する関心がにわかに高まっ. たことで重要である。ヤコ-ビほヮイマ-ルにゲ-テを訪問する前、. 激を受けてシュタイン夫人と共にスピノザのエチカを読み、シュタイ. うか、という論争が始まったのである。一方ゲ-テもヤコ-ビから刺. ソとヤコ-ビの間にいわゆる、レッシソグはスピノチスーであるかど. を世に明らかにした。ここにレッシソグの友人であるメンデルスゾ-. うちにスピノザの学説を論ず」という小冊子の本を出して、この問題. た。やがてヤコ-ビは「モ-ゼス・メンデルスゾ-ンに宛てた書簡の. た時、ヤコ-ビとヘルダ-やゲ-テとの会話の中心はスピノザであっ. をゲ-テに伝えている。したがってヤコ-ビがワイマ-ルにやってき. しかったからヤコ-ビほレッシソグのこの答に驚いてその会話の模様. 越えた、人格神を信じている人々にほスピノザの汎神論は無神論と等. ばこれ(スピノザ)以外の人を知らない。」(3)と言った。この'世界を. はそれ以外の事を知らない。--もし私がだれかの説と同じだとすれ. 同意しないものである。私はそをれ享受しえない。『一即. ると答えた。レッシソグは「神に関する正統派の概念ほ、もほや私の. -ビの驚いたことにレッシソグはこの詩の思想ほ自分の思想とl致す. プロメテウスには、超越的な神を否定する傾向が表れていたが、ヤコ. 発表の詩「プロメテウス」をレッシソグに示してその見解を問うた。. の考えがレッシソグにょって支持されることを期待して、ゲ-テの未. 一であると信じていたスピノザを無神論者だと考えていた。彼は自分. 死亡する。ヤコ-ビは超越的な人格神を信じていて、神と自然とほ同. 1七八〇年にレッシソグを訪ねた。レッシソグほそれから数ヶ月後に れたが、これはヤコ-ビがゲ-テ窒息識して書いたもので、随所にゲ ーテとの関係がみえる。ヤコ-ビほ当然ゲ-テが認めて-れるものと 思ってゲ-テに送ったがゲ-テほそれに対して沈黙を守った。ゲ-チ はこの小説に賛成できなかったが、それはこの作品の芸術的な不十分 さに対してであり、更にも一つはその過度の感傷にたいしてであっ. 「A--wi-ごの原稿を送り、「私ほこのフリッツの作品が印刷されないよ. た。ゲ-テはヤコ-ビには返事をださなかったが、ファ-ルマ-嬢に うに希望する」と書いた(一七七五年八月)。ゲ-テがワイマ-ルに. 移住した後(一七七五年十1月)'ヤコJ.i'はワイマ-ルにいるヴィ ーラントにゲ-テはこの作品についてどんな事を言ったかと問い合わ せている。彼の返事ほヤコ-ビを落胆させた。ゲィ-ラントはゲ-チ がなにも言わなかったと答えている.更に1七七九年ヤコ-ビの次の. 作品、理想的な精神の友情物語「Woldemar」が発表された。これほ. ゲ-テのはげしい反感を買い、彼はユタスブルクの公園で友人達と wo-demarのパロディを演ずる。最後にWo-demarは悪魔に連れさ られ、その上その本の表紙が木の幹に釘づけにされ、悪戯としても度. が過ぎていた。これほ後にヤコ-ビの知る所となり、彼は感情を害し て、ここに両者の文通は途絶えてしまう。この件についてはさすがに. ゲ-テもやりすぎたと思って'やがて彼からヤコ-ビに和解の手紙を だす(一七八二年十月)。ヤコ-ビはヂ-テの方から差出さわた仲直り. の手を喜んで受けて、ここに友情ほ復活し、一七八四年九月のヤコペソペルフォルーのゲ-チ. 五九.

(4) ペンペルフォルトのゲ-チ. ist. ein. und. たんなる神的なものほ存在しない。(EsgibtkeineVernunft,a)sin person,alsoweilVernunf-ist,so G6ttliches)(5). 自然の無限の変化を観照して、その中に支配している法則を知ろうと. ここでは『信ずること』と『観照』とが対比されている。ゲ-テは. 五日)。. るのみだと言うなら、私は観照を大いに重んずる」(一七八六年五月. を見る事にょって私が幸せになるようにと-・-君ほただ神は信ず. -それに対して神は私に自然科学を恵んで-れた'神の仕事(注。自. bloB. きょうだいや友人連など。それに対して神は君を形而上学で罰した-. いものを持っている。家屋敷、ペンペルフォルト、富と子供達、女の. 事が大事なのであり、客観的に証明するものではない。ゲ-テはヤコ ービに宛てた手紙の中で次のように言っている。「君は多くの羨まし. の神』への信仰」を述べている(6)。このような存在についてほ信ずる. 自然の知的な創造者であり、かつ立法者であるもの。精神である一人. あげているようにみえる。ヤコ-ビほ「『最初の、そして最高の知性。. ている。ノゲエアにほヤコ-ビほ余りにも自分の頭の中で世界をつ-り. ている。彼は心の中でヤコ-ビの思弁癖(Spek己ation)にうんざりし. をたびたび手紙の中で形而上学理的論家(Metaphysiker)とからかっ. 界の中に神を求める.この宗教観の差は世界観の差にも通ずる.ヤコ -ビは世界を主観的に見、ゲ-テは客観的に見る。ゲ-テはヤコ-ど. ってくる。ヤコ-ビはこの世界の向こうに神を求め、ゲ-テはこの世. ein. nicht. 以外には理性はない、それ故理性があるからして神があるのであり、. 六〇. スピノザをめぐってゲ-テとヤコ-ビの問の考えの差が明らかにな. Gott. ン夫人の書きとめた「スピノザ論文」という文章にその成果が残され ている(-)。ところでゲ-テほ宗教的な信念については他人の前でそれ を吐露する事に対して障る気持があったので、ヤコ-ビとメンデルス ゾ-ンの論争には傍観者となっていた。又ヘルダ-のように理論的に この問題を整理しまとめる事はしなかった。彼ほヤコ-ビにせきたて られてしぶしぶ態度表明を行っている。ヤコ-ビがスピノザは無神論 者であると批判した事に対して彼は反論している。 「彼(スピノザ)ほ神の存在を証明しているのではない。存在が神. は彼こそ最大の有神論老であり、キリスト教徒であると呼んで誉め讃. なのである。その為に他の人達が彼を無神論者と批判するならば、私. えたい」(l七八五年六月十二日) 「私は君と同じ意見でほない、又私にとってスピノザ主義と無神論 とは別の物である。そして彼を読むとただ自分自身からのみ説明でき る。私が彼の自然観をもたないとしても、自分のそれに1香合う本を 挙げるとなればエチカを挙げざるをえない」(1七八五年十月二十一 このようにゲ-テほヤコ-ビに向かって自分はスピノザの汎神論を 信奉していると告白し、このスピノザの汎神論はヤコ-ビの信じてい る伝統的な超世界的な人格神とは異るがしかし無神論ではないと言っ ている。ヤコ-ビの宗教観についてはこの頃ヤコ-ビにあてたヘルダ -の手紙の中で適確に言い表されている。 「君は正真正銘の正統派のキ-スリ教徒だね。というのほ超世界的 な神(einenextramudanenGott)を持っていて君の魂を救っている のだから」(一七八五年九月十六日)。 この事についてヤコービ自身の言葉はこうなっている。「人格の内. 然). 日).

(5) した。しかしヤコ-ビの出発点ほ最高の知性である神を信ずることで. 新しい世界を開いていく人であったので、その事情を知らない知人達. ゲ-テの孤独の原因ほ彼の変貌にあった。ゲ-テは時と共に変容し、. ている。. 記」の中で過去を振返りながら、できるだけ客観的に把握しょうとし. 深まったのである。この事についてはゲ-テは三十年後に「滞仏陣中. たが、しかし自分を本当にほ理解して貰えなかったので彼の孤独感は. 受け、戦場の疲労を癒やすことができ、文学や芸術を語ることができ. 軍から離れてペンペルフォルトに立寄った時、彼は友人1家の歓迎を. たが、既に真の理解はありえないことを知っていたo実際一七九二年、. たがってゲ-テはヤコ-ビに対しては友人としての関係ほ保持してい. 今述べたような状況が一七九二年両者が再会するまでにあった。し. ペンペルフォルトのゲーテ。彼のレテリスム. の中に働いている法則を客観的に知ることこそ真の認識であると考え ていた。. く、認識にまで拡張した時、その酸味さに準えられなかった。ヤコ-. ある。ゲ-テはヤコ-ビが『信ずること』を宗教的なものばかりでな ビが彼のスピノザ論でラファ-タから借りてきて、「すべての人間の認. 識と活動の要素は信ずることにある」をつけ加えた時、ゲーアは「君 が終りの所で信ずるという言葉を扱ったやりかたを承認することがで きない、このようなやり方を君に許すことができない、それは信仰の 論弁家(Glaubenssophisten)のものであり、彼等は知識の確実さをお おい隠すのに懸命なのだ」(一七八五年十月十1日)と言って非難し ている。. こうしてスピノザを巡ってゲ-テとヤコ-ビとの間の相違があきら かになってくるが、ついに彼はイタリアにおいて、ヘルダ-に宛てた. 手紙で決定的なことをいう。 「L(注。ラファ-タ」のこと)がおとぎ話を本当のものにする為に全力. して祭ったり、Cが飛脚から福音伝道師になろうとしている時(cは. もうひとりほ概念の. 々を遠ざける結果となった。. 六一. る彼のレアリスムであったと言っている。彼のレアリスムが彼から人. さてゲーテは自分と友人との間の隔りをもたらしたものは、いわゆ. ゲ-テがそこにいるのを見て、当惑したのである。. ゲ-テ、イフィゲ-ニュの中で崇高な人間性を称えたゲ-テとは違う. の友人達ほ彼を理解できなかった。それで彼は孤独であった。同じよ うにべソペルフォルトの人達は自分達の知っているゲ-テ、若い時の. そもそも彼がイタ-7から別の人間として帰って釆た時もワイて-ル. は新しいゲ-テを理解できず、ここに彼の孤独がはじまるのである。. ペソペルフォルトのゲ-チ. 彼は主観を通して世界を知るのは真の認識とは思っていなかった。そ. についても信ずることにょって決定されるのは堪え難い事であった。. ゲ-テにとって宗教上の問題についてばかりではなく、認識の問題. ヤコ-ビのこと)」(一七八七年十月十二日)(7). 混乱、知と信仰、伝統と経験という言葉の混同を恥じないのか?(注。. よって生きていると言って罰せられないのか?. を避けている。ひとりほ、生あるものはすべて自分の外にあるものに. からかったもの)、自然の奥にあるものを、もっとあきらかにすること. クラディウスのこと。彼の発行した雑誌『ヴァソツペックの使者』を. を尽したり、1(注。ヤコ-ビのこと)が空疎な小児的頭脳の感情を神と. 二.

(6) ペソペルフォルトのゲーテ. ゲ-テの言うレアリスムとは、主観的、〉感傷的にものを見るのでは. なくて、客観的に具体的に世界に接する態度をいう。彼はここでレア リスムとは反対の概念を「憧」れという言葉で表わした。 「道徳的な人間は憧れを表わした時、他の人びとに愛着の情をよび 起す。憧れは所有と願望を同時にあらわしている。やさしい心をもっ ていること、そして同じ心を他の人の中に見つけたいという願望 を」(8). 憧れをもっているひとは、やさしい心をもっていると同時に他の人 にもそれを期待し、お互いに共感の中にひたるのである。この感傷性 をゲ-テは、自分は既に克服したと考えていた。 「私の心の中にあった憧れは私の若い頃にはあまりに多すぎたので、 私は年とともにそれを克服するよケに努めた.そして一人の男にとっ てはもほやふさわしいものではな-、十分のものでもなかった。それ 故に完全な最後の充足を求めようと思ったのである」(9) ゲ-テは若い時には感傷過多で苦しんだが、今やそれを克服してい た。しかしヤコ-ビは終生感傷的な人で、自分の感情を吐露すること を好むと共に、相手にも同じことを求めた。. デュアのこのレアリスムは友人達には理解されなかった。それで次 のような場面が生ずるのである。. 「しかし私の友人たちはこのように変化した考えを認めようとほせ. ず、かつての作品を持ち出して昔の感情をよみがえらせようと試み、. 夕べの朗読のために『イフィゲ-ニェ.」jを私に手渡したoしかしそれ. はなかなか私の気持に合わなかった。やさしい感性が私にとってはよ. そよそしいものに感じられた。それが他人にょ.って朗読されてもその. ような響きは私にとって燈しいものだった。しかしこのre品が間もな. く元に戻されながら人々はもっとひどい拷問を私に課そうとしている. ようにみえた。次ほ『コロノスのエディプス』が持ち出された。芸術、. 自然、世界とは反対方向の、出陣によって硬-なった私の心にとって. この作品の気高さは耐えがた-思われた。もう百行もついていけなか. の崇高な人間性が彼のレアリスムにはよそよそしいものに感じ. ここでゲ-テが言っているように、以前の自分の作品「イフィゲー. った」(-1). ニェ」. られた。そして彼が逝にレアリスムの立場から書いた新しい最近の作. 品を読んだ時、人々に喜ばれなかった。. れたであろうか。ヤコ-ビ家にも対仏戦争の失敗にょる重苦しい気分. 印刷された『大コフタ』にょって友人たちを傷つけていたことにさえ. ぬものであったので冷た-あしらわれたが、その時私はずっと以前に. 「私の『七人の兄弟』ほ姉分の『イフィゲ-ニェ』と似ても似つか. が忍び込んできていた。そこで人々は文学などの話をして、それを忘. 『七人の兄弟』というのは「Megapra20nの息子達の旅」のことであ. 気づいた」(S).. れた。その際私のレア-スムが現れてきて友人達をあまり喜ばせなか. している。どちらも出事栄えはよ-な-てゲ-テの天才はどこにもみ. に終った作品である。「大コフタ」ほ大詐欺師カリオス-ロを素材に. る。これはフランス革命の出来事を寓話夙に扱ったものであり、断片. ったが」(10). 「われわれは道徳上、又は文学上の話をしてこのような考察から脱. にほ至らなかった。ゲ-テは書いている。. れようとしたのだが、その際ゲ-テのレアリスムの為に心からの歓談. さてゲーテのレアリスムはヤコ-ビ家では実際にどんな風に受取ら. 六二.

(7) えないので、ヤコ-ビ家の人々ならずとも感激しなかったであろうが、 しかしその中に現れているゲ-テの新しい傾向が彼等に奇異の念をよ んだであろう。感情の昂揚とか、清らかな人間性の讃美ほ姿を消して、 社会の現実に目を向けようとする彼のレアリスムは彼等を当惑させた であろう。ちなみにヤコ-ビほ後年ゲ-テの「ウィルヘルムマイスタ -の修業時代」を批判したが、それも主人公と女優マ-アンネとの関 係が不純にみえたからであり、ここにヤコ-ビの文学の噂好がうかが える。. ゲ-テほ主観的に世界を見る態度を克服して、客観的に事物をみる. ように努めたのだが、その傾向が彼を自然科学研究にむかわせたもの でもあった。これも彼のいうレアリスムのあらわれである。この頃の 彼の主要な仕事は文学よりもむしろ自然科学研究にあった。. 彼は自然を観察することにょって世界観を確固としたものにした。 或は自分の考えが自然の中に実証きれるのを見た。彼ほ自然の多様さ の中に統一を見、変化の中に動かない固定したものを見た。彼は一七 八四年に人間にも顎間骨があるのを発見した。これは彼の原理を実証 って生ずる多様な生物の中に失われずに存在するというのである。彼. するものであったので彼は大変喜んだ。即ち「原型」は「変態」にょ. は植物研究でも「原植物」(Urpflanze)というものを考えていて'イ. 「私の自然観察のほうも同じように受け入れられそうになかった。. ペソペルフォルトの人々に語った。その結果は次のようであった。. 私がこの仕事にたずさわる時の真剣な情熱ほ何人も理解できなかった。. 何人もこの情熱が私の心の内奥からほとばしり出ているのを見なかっ. た。彼らはこの注目に価する努力を気紛れな迷いと考えた」(ほ). 「すでに一年も前に出版された『植物変態論』についても彼らはほ. とんど知識をもっていなかった」(14)。. 「つまり彼らは、どんなに教養があろうと、みんな分割された光を. いる生きた光をあの死んだ仮説にまで引き戻そうとしたのである」(15)0. 覚え込んでいて(注。色彩に関するニュ-トンの説)、自分たち'iESl享受して. このようにゲ-テは一番の関心事であった自然科学においても人々 の理解をえられなかった。だから. 「私の考え方が彼らと合わないばかりかむしろたいていは真反対で. あってみればなおさらのこと、彼らは自分が正しいと信じていた。当. 時の、そしてその頃の長い間の私ほど孤立した人間をひとは考えるこ. とができないだろう」(16)という欺きになったのである。. ゲ-テがシラ-と親交を結ぶまで(1七九四年)、彼は文学創作にお. Nico)ai‖Goethe. Ausgabe. und]acobi.Studien. Werke.Hamburger. Lehre. zur. Bd.)0,S.3),. des. den. Briefen. Spinoza. Geschichte. いて不毛であったが、その背景にはこのような孤独な状況があったの である。. Goethes. Freundschaft.Stuttgart)965,S,40,. die. Mende)ssohn.Beilagen. Bd.4.Uber. 2:ur. タリア旋行のさいバレルモでそれが発見できるのではないかと思った。 それから色彩の研究を行っていて'色彩ほ光の屈折にょって生ずると. Heinz ihrer. Moses. in. いうニユ-トンの説凪対して、色彩は'光と闇、明と暗の働きにょっ. Herrn. zu. ]acobi.Fr.H.‥Werke Briefen. an. て生ずる曇り(dieTrdbe)であるとした。 ゲ-テは自分にとって一番の関心事であった自然科学研究について ペソペルフォルトのゲ-・テ. 六三. 注.

(8) (4). 5 / \. (. \_ノ. \J. \・・・・ノ. )9231. Crete. desSpino2a・Darmstadt・)980,S・54・. ペンペルフォル-のゲ-チ. Lehre. Bd.)0,S・308・. Bd・)),S・4)6・. Schriften,. Band.Stuttgart.叫▲. この論文の中に表われたゲ-アの考えとスピノザとの比較については. iiberdie. Gesammelte. A亡nage1964.S.39)-S・4)5・. Dilthey:. Nico)ai.S13)2.Ann.42.. unver抑nderte. Ausgabe. Bd.4,S.32. Ausgabe. )acobi}Werke 〓amburger. Hamburger. ebd.S.308. eqd.S,3(0・ ebd.S.3)0.. eqd・S・3)3・. ebd.S.3)3.. ebd.S.3)4. ebd.S.314. ebd.S13)3.. その他の参考文献. und. Gott.in‥Geist. AuAage.)966.Leipz)g.. Schaeder:. Trunz:Goethe. schauung.Hameln)947・. Gott und. und. der. Kreis. Yon. We)t.Drei. der. Goethezeit. Protestatism・Berne. and. Frank・. Bd・8・unver・. Goetheschel. MFnster.M仁nster197)・. Kapitel. Kar)]ustusObenauer:GoetheinseinemVerhaltnis2urReligion・]ena. furt]M,1972・. HarryLoewen:Goethe.sResponse. anderte. H.A.korff:Natur. gart・. Fassungvon)776・ausChr・M・WielandsHTeutschemMerkur"・Stutt・. Allwil)sPapiele・Faksmiledruckdererweiterten. ll. Diltheyが詳細な検討を行っている0. wilhe)m. )acobi.Fr.E;.Eduard. 161514131211109 Erich. We)tan・. to. \-′ ヽ-/. (. \J. ). ( ( (. 6 7 8 (. \J 、・J. ′、 ( ( ( (. ) ), ). 六. 四.

(9) Goethe. in Pempelfort. ペソペルフォルトのゲ-チ. Akibiko. NAKAJIMA. Zu組mmenfassung Beim Herzog. R缶ck2;ug. der. Weimar. von. getrennt. der. Differenz. be2:由glich. 1792u.. Nach Die. ihm. erkennen,. die. senschaften. kein keit.. 六五. Abkehr als dain. Aber. Verst畠ndnis. Erlebnis. diesem ist es. Worten. "Realismus". herrschen.. Diese. Daher. ftihlt. Er will. hier. die Welt. seiner trotz. Objektiven. fhhrt. gum. Entwicklung erwiesener. Meinungs・. in. fast. und Frankreich. Befremden. hervor・. Gegenst孟ndlichen. und. die. und der. Studium nicht. Schon. mehr,. betrachten. ruhig. ihn. Aber. offensichtliche. einer. nicbt. "Campagne Freunden das. bei 芝um. zu. wieder. in. Goethe der. Feld2;ugS・. eine. er. genoL3. Verst畠ndnis.. guten. vom. sich. Hier. des. Goethe. alten. Goethe. ein・. entstand. kam. es. den. Subjektiven. k6nnen. keinem. Jahren. Und. Einstellung. er. Strapazen. zu. bericbtet. bezeichnet. Freunde. diealten. dafdr.. und. den. achtiger. Realismus,. se'1n. Sentimentalen. vom. Freunden den. Man丘ndet. Literatur.. Pempelfort. Yon. hatte. 1792. in. Jacobis. Glaubens.. religi6sen. Yon. seinen. von. wird. ibm.. man. verkennt. des. in. Spinoza. Champagne. sich. langj畠hrigen um. der. bei. erholte. und. beiden. in Sacben. verscbiedenheit. ruft.. den. Auseinandersetzng. aus. kehrte. und. Bewirtung. gastfreundschaftliche es kam 2:Wischen bei. Koalitionsarmeen. folgen. Freundlichkeit. Gesetze. Naturwis・ und. haben. tiefe Eimsam-.

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