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ロトスコープとは何か : 20世紀美術におけるロトスコープの美学

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博士論文等審査委員

(主査) 東京藝術大学 教授 (美術学部) 伊藤俊治

(論文第1副査) 早稲田大学 教授 (文学部) 鈴木雅雄

(作品第1副査) 東京藝術大学 准教授(美術学部) 小谷元彦

(副査) 東京藝術大学 教授 (映像研究科) 山村浩二

(副査) 東京藝術大学 准教授(美術学部) 八谷和彦

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平成30年度

東京藝術大学大学院美術研究科

博士後期課程学位論文

ロトスコープとは何か

20 世紀美術におけるロトスコープの美学

東京藝術大学大学院美術研究科

先端藝術表現研究領域

1315920

岩崎宏俊

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目次

序章

1 はじめに 1 各章構成 3 第1 章 ロトスコープとは何か

4 1−1 ロトスコープの誕生と変遷 4 1−2 ロトスコープへの批判と表現の可能性 10 1−3 ロトスコープの分類 20 第2章 震える視線

22 2−1 見る主体の二重化 22 2−2 原形質性の再考 29 2−3 自律するキャラクター 30 第3章 痙攣的な美とロトスコープ

34 3−1 シュルレアリスムの理念とコラージュ 34 3−2 意味論的コラージュとロトスコープ 38 3−3 ダイレクトペイントによるロトスコープ 47 3−4 不気味なものとしてのロトスコープ 54 第4章 運動剽窃としてのロトスコープと自作解説

62 4−1 運動のアプロプリエーション 62 4−2 特殊なネクロフィリア、あるいは狂気的な理性 67 4−3 NEO 100 TÊTES について 68 終章 再び、ロトスコープとは何か

71 謝辞 75 参考文献 76

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序章

はじめに 本論は、「ロトスコープとは何か」という大きな問いかけのもと、「これまでアニメーターの作画補助ツー ルとしてアニメーション史に埋もれていたロトスコープには、表現技法として別の可能性があるのではな いか」という問いを立て、ロトスコープの美学を20 世紀の美術文脈のなかで考察し直すことで「ロトスコ ープをひとつの表現技法として体系立てること」を目指したロトスコープの比較美術論である。また、本論 では、これまで一貫してロトスコープを表現技法として用いて映像表現を行ってきた筆者の経験を重要な 資料として考察を行った。つまり、本論はロトスコープの表現技法としての体系化でありつつ、筆者自身の 作品のコンテクスト化または作品解説のための資料という側面を担うものでもある。 以上のように、本論は研究論文であり筆者の作品解説文であるという特殊な体裁となっているが、これは ロトスコープを表現技法とする先行研究の少なさが理由のひとつとなっている。冒頭で「これまでアニメー ターの作画補助ツールとしてアニメーション史に埋もれていた」と書いた通り、もともとロトスコープとは 1915 年にマックス・フライシャーによって発明された、既成の実写映像をベースにして主にイメージをな ぞり、トレースすることでアニメーションを作成するというアニメーターの“作画補助ツール”であり、技 法というよりは生産効率を高める“装置”という認識であった。(Fig.1) それがひとつの技法として本格的 に使用され始まるのは20 世紀後半頃からであり、その歴史はまだ浅く必然的にロトスコープを表現技法と した先行研究はまだほとんどない状況にある。また、もうひとつの理由としてアニメーションにおける比較 美術の研究自体がアニメーション史に関する先行研究の数と比べて圧倒的に少ない状況にあることも指摘 しておきたい。アニメーション研究や批評を行う土居伸彰は、こうしたアニメーションの研究状況に対し て、先行研究の優れた成果を認めつつもそこには「アニメーション=商品」という「疑われることのないひ とつの大きな前提が立てられている印象がある」1 とし、そのよう な前提の研究からは「当然のように抜け落としてしまっている歴史 や達成があるのではないか?」2 と指摘している。おそらく、ロト スコープを表現技法とする視点も、この「アニメーション=商品」と いう 前提 から は見 落と され てし まう も のの ひと つで あっ た と考え られる。 また、ロトスコープが数あるアニメーションの技法とは本質的に 異なる存在であることも、ロトスコープを技法として再考しようと するうえでの障壁となっているのかもしれない。従来のアニメーシ ョンは、何もないところから運動を創出することを念頭に置いてお り、その技法は作画の際に使用されるマチエールによって差別化さ れていた。つまり、これまでのアニメーションの技法の発明とは、 このマチエールの発見であり、その美意識はマチエールそれぞれの 性質 によ って 得ら れる 運動 表現 の効 果 に向 けら れた もの で あった と言える。これに対し、ロトスコープは既成の映像をマテリアルと 1 土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』フィルムアート社、2016 年、P.24 2 前掲書、P.25 Fig. 1. ロトスコープ 特許図 (1917 年)

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し、その映像の運動をなぞることで新たな運動を創出する。つまり、創るべき運動は既に存在しているので ある。言い換えるとすれば、従来のアニメーションが運動をゼロから創出するという唯一性に重きを置いて いたとするならば、ロトスコープは逆に既にある運動を複製し編集することに重きを置く技法であったと 言えるだろう。これは、今思えばアニメーションというジャンルを拡張する可能性を秘めていたと言える。 だが、同時に考案当初の目的からは逸脱するものであったため、伝統的なアニメーションという枠組みの中 では注目されることはなく、むしろある種の異物とみなされ、批判と共にアニメーションの歴史に刻まれる ことになった。 しかし、このロトスコープの特徴であるイメージをなぞることで新たなイメージを生成するという行為 は、アニメーションのひとつの技法である以前に、人々が古来より意味を見出してきた身振りでもあったこ とを忘れてはならないのではないだろうか。プリニウスは、ある娘が旅立とうとする恋人の 影スキアの輪郭線を 壁の上になぞったという行為に「絵画の起源」3 があると博物誌のなかで伝えている。影をなぞることで現 れたイメージは、恋人という存在の代理物であるが、それは写真のような機械的な複製ではなく、描くとい う行為によって残された(編集された)恋人のシルエット(新たなイメージ)である。仮にロトスコープを、映 像という影をなぞることで新たなイメージを生み出す行為であるとするならば、ロトスコープとはある意 味で20 世紀における絵画の起源の回帰と考えられはしないだろうか。 特に、20 世紀後半頃から現れるロトスコープを用いたアニメーション表現には、アニメーターの作画補 助ツールとしてだけではなく、なぞることで運動を再編集して新たなイメージとする“運動の再コンテクス ト化”を多く見出すことができる。筆者が注目するのは、こうしたロトスコープを表現として扱う新たな流 れであり、本論では、ロトスコープの表現技法としての本質は、この“運動の再コンテクスト化”にあると 仮定して、作画補助ツールとしてあったロトスコープを新たな動的ダイナミズムを持つ“表現技法”として 再発見したいと考えている。その際、ロトスコープが伝統的な平面アニメーションの視線の中では異物化し てしまう以上、この研究は従来のアニメーション研究という閉じた領域の中だけでなく、広く美学的に捉え 直す必要性があると言えるだろう。 それでは、いかに美学的に捉え直すべきであろうか。記号学者のユーリー・ロトマンは、アニメーション の特質を「記号の記号を操作するもの」4 であると指摘している。これは、アニメーションが既に成立して いる異なる芸術からの引用を経ることで新たな時間を構築する表現の表現という考え方であるが、アニメ ーションがその核となる“運動”というイリュージョンを創出するために“絵を描くこと”を礎石としてい る以上、引用される記号の多くは絵画の表現様式やマチエールから認めることができる。そこで本論では、 副題で示した通りロトスコープを20 世紀の美術史に位置づけ美学的に捉え直すことにした。これは、ロト マンの「記号の記号を操作する」という指摘をただ単にアニメーションのヴィジュアルに視覚的効果を与え るための表現やスタイルの引用と捉えるのではなく、アニメーションをアニメーションよりも以前にあっ た何か 記憶や思想や様式との“連続性”と捉える身振りでもある。そして、この視点に立ったとき、ロト スコープはただの作画補助ツールではない別の認識が可能となると考えられる。 例えば、ロトスコープのプロセスは既成の実写映像という既に在るイメージのなかから運動をトレース することで抽出し、アニメーションという新たなイメージを生成するというものである。従来の認識のまま であれば、これはアニメーターの作画補助のプロセスという認識でしかない。だが、20 世紀の美術史に位 置づけて考えるならば、このプロセスは既成の雑誌やカタログなどからイメージを切り抜いて抽出し、貼り 合わせて新たな平面を生成するコラージュのプロセスとの間にいくつもの類似点を見出すことができる。 3 『プリニウスの博物誌 第 34 巻〜第 37 巻』(中野定雄・中野里美・中野美代 訳)、雄山閣、2013 年、P.1409 4 Yu.M.ロトマン『映画の記号論』(大石雅彦 訳)、平凡社、1987 年、P.219

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さらにその外縁を広げるならば、ロトスコープはその発明と同時期に展開したダダやシュルレアリスムと いった20 世紀の前衛芸術運動における実践から、既存の映像作品の全体または一部を使い回すことで作品 をつくるファウンド・フッテージ、そして既存のイメージを流用、剽窃させるシミュレーショニズムまでを 射程とする美術動向との連続性を見ることができるのではないだろうか。本論では、これらの動向を見出さ れたオブジェを再コンテクスト化し、美的価値を付与させるファウンド・オブジェとして括り、ロトスコー プとの比較を行う。そして、ロトスコープをマテリアルとしての映像という影をなぞり、20 世紀美術史の いくつかの影をなぞりながら現代に回帰した技法として再発見することで、ロトスコープを取り巻く歴史 に作画補助ツールや批判だけではない、表現技法として新たな軌跡を残したい。 各章構成 序章では、本論の概要を示した。第1章では、まず論文全体の基礎となるロトスコープについて、発明者 であるマックス・フライシャーの半生を辿りながら、現在に至るまでのロトスコープの歴史や主要な作品お よび作家の変遷を振り返る。次に、これまでロトスコープに向けられてきた主な批判について考察すること で、逆説的にロトスコープの特徴(=表現技法としての可能性)を明るみに出す。そして、ロトスコープを 20 世紀美術史のなかでもファウンド・オブジェの文脈と共鳴する表現技法として、ロトスコープの特徴を4つ に項目化する。第2章では、ファウンド・オブジェの文脈と共鳴するロトスコープの特徴のうち「(1)非完結 的な継起するイメージ」に焦点を当て、ロトスコープによって生成される映像の構造や、それを見る経験に ついて考察する。また、それをベースにアニメーションの原形質性の概念を再考する。第3章では、ファウ ンド・オブジェの文脈と共鳴するロトスコープの特徴のうち「(2)コラージュの方法論」と「(3)不気味なも の」に焦点を当てる。ここでは主にシュルレアリスムの実践との共鳴点を中心に考察が展開される。また、 ダイレクトペイントによるロトスコープや、ロトスコープのデジタル版ソフトウェアであるロトショップ なども取りあげ考察する。第4章では、ファウンド・オブジェの文脈と共鳴するロトスコープの特徴のうち 「(4)アプロプリエーション」に焦点を当てながら、これまでの考察をふまえたうえで筆者自身の作品の解 説を試みる。終章では、これまでの比較研究を総括しながら、ロトスコープを表現技法として体系化し、そ の可能性についてまとめを行うことで「ロトスコープとは何か」という大きな問いかけに対する答えを提示 する。

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第1章

ロトスコープとは何か

本章では、まず論文全体の基礎知識となるロトスコープの歴史をまとめる。次にロトスコープに向けられ てきた批判を改めて検証し、ロトスコープの表現技法としての可能性を整理する。だがまず本章の前置きと して、ロトスコープの原型ともいうべき装置に触れておこう。 ロトスコープをその誕生から振り返るならば、そこには前提としてシネマトグラフが存在していなけれ ばならない。なぜならロトスコープとは撮影したフィルムを1コマ1コマ断片化し、トレースをすることで アニメーション化する装置として発明されたからである。だが、実はロトスコープの原型ともいうべき装置 は、シネマトグラフの発明よりも前、エドワード・マイブリッジの作業に見出すことができる。マイブリッ ジは、1878 年に初めて疾走する馬の連続撮影に成功して以降、多種多様な被写体をカメラにおさめてその 運動のメカニズムを解明した人物である。この連続写真は、これまで人間の眼には知覚することができなか った時間を裁断化して現前させただけでなく、写真という時間の静止の驚きと同時に、それらを連続させる ことによって動的錯覚を発生させるという静と動が入れ子になるような運動プロセスをも発現させること になった。マイブリッジはこの錯覚を利用して裁断化された運動を再び動かすためにズープラクシスコー プというゾートロープと幻灯機を組み合わせたプロジェクターのような装置を考案する。この装置は、後に トーマス・エジソンのキネトスコープやリュミエール兄弟のシネマトグラフの発明へと繋がるきっかけと なった装置だが、このときズープラクシスコープによって映し出された疾走する馬の映像こそ、写真をもと にガラスディスクに描き写された絵であった。つまり、この映像とはアニメーションとして再現された映像 であり、その作業工程はロトスコープとほぼ変わりのないものなのである。もちろんマイブリッジは最初か らアニメーションを作ろうという意識はなかったはずだし、マックス・フライシャーによるロトスコープの 発明のコンセプトもズープラクシスコープとは異なる。だが、シネマトグラフの発明を境にして、その前後 でカメラを介して裁断化された運動をなぞり、再び動かすという行為が現れていたことは興味深い。このよ うな運動回帰のプロセスは、ロトスコープの本質として本論のなかで幾度も反芻されることになるだろう。 1-1 ロトスコープの誕生と変遷 ロトスコープの生みの親であるマックス・フライシャーは、弟のデイヴ・フライシャーと共に、ココ・ザ・ クラウン、ポパイ、ベティ・ブープ、スーパーマンなど多くの有名なキャラクターを世に送り出し、一時期 はアメリカにおけるアニメーションの黄金時代の一角を担ったフライシャー・スタジオを設立した人物だ。 そしてロトスコープとはスタジオの設立のきっかけとなった技法である。マックスは、6人兄弟の次男とし て1883 年に生まれ、4歳のときに両親に連れられてアメリカのニューヨークへ移住した。夜間の商工高校 に通い、1900 年には名門のクーパー・ユニオンにて芸術や工学を学んだ。その後、デイリー・イーグル社の 美術部に使い走りとして入り込むと、徐々にその才能を開花させ、写真部員としてレンズの使い方や、組版、 製版などを身につけ、入社2年後には風刺漫画の担当にもなった。イーグル社を辞めたあとは数年で職を変 え、やがて写真や機械の素養があったことを活かしてポピュラー・サイエンス誌の美術編集者の職に就く。 マックスの息子であり映画監督のリチャード・フライシャーによれば、「『ポピュラー・サイエンス』に入る ころには、マックスはすっかり映画のとりこになっていた」そうで、なかでも特に「アニメーションに夢中

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だった」ようである。5 ここまでの半生をみても、マックスはかなり多彩な人物であったことが窺い知れる が、特に機械工学に明るかったことはロトスコープ技法の発明に繋がるひとつのポイントとして挙げられ るだろう。なぜなら、デジタル化によって簡単に動画を静止イメージへと変換できる現代とは異なり、当時 は撮影した映像を1コマずつ描き写すために映写機を改造する必要があったからだ。 だが、そもそもなぜこの技法が発明されることになったのだろうか。それには20 世紀はじめのアニメー ションの黎明期をふりかえらなければならない。黎明期のアニメーション史おける主要なふたつのアニメ ーション、1906 年のジェームズ・スチュアート・ブラックトンによる『愉快な百面相』と、1908 年のエミ ール・コールによる『ファンタスマゴリー』を皮切りに、1910 年代に入るとアメリカではアニメーション の産業化が本格化した。しかし、分業による大量生産が目指されたものの、肝心のアニメーターの技量はま だ低く、完成したアニメーションの動きは酷いものが多かった。そこで、誰にでも簡単にリアリティのある 動きが描ける方法という生産効率の向上を図るために考案されたのがロトスコープである。つまり、ロトス コープとは未熟なアニメーターのための一種の作画補助ツールとして発明されたといえる。この点で、当時 すでに対象を忠実に模倣する写実主義に限界をみて問い直しを始めていた絵画などと比べると、ロトスコ ープはカメラ・オブスクラへと回帰するような現実模倣のツールとして美学的にはあきらかな退行をみせ ているといえるだろう。だが、当時のアニメーターの技量の問題や、分業による大量生産を実現するために 時間と労働力を軽減させることを念頭に置いた場合は、非常に合理的なアイデアであったとも言える。それ に、アニメーションはその性質上、基本的には虚構であるにも関わらず、頑に現実模倣へむかう傾向にある。 現実の物理的法則や社会文化に従い、自らの虚構性をまるで本当の現実であるかのように振る舞うことに 集中するのである。こうした虚構性と現実模倣の関係について、アンドレ・バザンはジョルジュ・メリエス の映画にふれながら「映画における幻想的なものは、写真映像の否定し難い写実性によってしか可能になら ない。(…)幻想映画の中で観衆の気に⼊っている点というのは、明らかにそのリアリズムなのであり、写真 映像の否定し難い客観性と出来事の信じ難い性格との間にある⽭盾なのだとわたしは⾔いたい」6 と述べて いるが、これはアニメーションにおいても通ずる指摘だろう。つまり、アニメーションは自らの虚構世界を、 リアリティがあり信じられる世界とするための担保として現実模倣へと志向するのであり、ロトスコープ はバザンの言うようにカメラという客観性や写実性を用いることで、より直接的に現実模倣へと志向して いると言える。しかし、ポール・ワードが指摘するように、ロトスコープを用いた映像を見るという行為は、 「現実模倣的な表象に「没入」できる場合には、普通、感じとられることがない」7 ある矛盾、「リアルす ぎると同時に、リアルさに欠ける」8 という奇妙な経験を引き起こしてしまう。 だが、この経験を検討する前に、マックスがどのようにロトスコープを発明し、また現代においてロトス コープがどのように発展したのかを確認しておこう。前述したリチャード・フライシャーの評伝によれば、 ポピュラー・サイエンス誌の編集長がマックスに昨今のアニメーションの出来栄えについて不満を漏らし たことが発明のきっかけとなったという。9 実写をトレースするというアイデアを思いついたマックスは、 まずモデルの動きを撮影したフィルムを1コマ1コマガラス板に投影できるように映写機を改造し、次に ガラス板に映されたイメージに紙をあててトレースを行った(当時のアニメーションは既に背景と人物を分 ける多層撮影が行われていたため、基本的にはモデルの動きのみをトレースした)。全てのコマをなぞり終 えると、また作画用紙を撮影してアニメーション化した。こうして出来上がったアニメーションを作る一連 5 リチャード・フライシャー『マックス・フライシャー アニメーションの天才的変革者』(田栗美奈子 訳)、作品社、2009 年、P.26 6 アンドレ・バザン「二重焼付けの生と死」『映画とは何かⅡ —映像言語の問題』(小梅永二 訳)、美術出版社、1970 年、P.35-36 7 ポール・ワード「ロトショップの文脈 コンピューターによるロトスコーピングとアニメーション美学」(土居伸彰 訳)、『表象 07』、 月曜社、2003 年、P.82-83 8 前掲書、P.84 9 リチャード・フライシャー『マックス・フライシャー アニメーションの天才的変革者』(田栗美奈子 訳)、作品社、2009 年、P.28

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の装置を“ロトスコープ”と名付けて1917 年に特許を取得し、1919 年に遂にロトスコープを用いた最初の アニメーション作品『インク壷の外へ』(Fig.2)が公開されたのである。その物珍しい方法は大きな話題を呼 び、1934 年にフライシャー・スタジオが所有していたロトスコープに関する特許の独占権の期限が切れる と、他のスタジオでもロトスコープを用いた作品が製作されるようになった。例えば、ディズニーでは『白 雪姫』(1937 年)で初めてロトスコープが用いられている。他の主要な作品としては、ラルフ・バクシの『指 輪物語』(1978 年)や、ノルウェーのバンド a-ha のミュージックビデオ『Take On Me』(1985 年)などをピック アップすることができるだろう。また、2000 年代に入るとボブ・サビストンによってロトスコープのデジ タル版ソフトウェアであるロトショップが開発され、リチャード・リンクレイター監督のアニメーション作 品『ウェイキング・ライフ』(2001 年)や『スキャナー・ダークリー』(2006 年)で使用されて注目を集めた。 日本におけるロトスコープの使用は、前述したラルフ・バクシの影響が少なくない。例えば、バクシの『指 輪物語』をわざわざ渡米して鑑賞した手塚治虫は、ロトスコープに興味を持ち、自ら『火の鳥2772 愛のコ スモゾーン』(1980 年)で部分的に使用している。バクシが乱用といえるほどロトスコープを多用するのに対 し、手塚が部分的な使用にとどまったのは、恐らくバクシのロトスコープに向けられた多くの批判も一緒に 目の当たりにしたからだろう。バクシの場合は、実写のフィルムを描き写したり描き変えたりするだけでな く、ほとんどそのままセルに焼き付けるシーンも多々あることから完成した映像はただの実写映像である ような印象を覚えてしまう。そのため、わざわざアニメーションにする必要がないとの多くの批判を受けて いた。手塚も「ロトスコープを使うとこんな結果も予測されるから、日本では、便利だからといって使うの もほどほどにしてもらいたいと思う」10 と述べている。 このように、ロトスコープはアニメーション史において常に批判と隣り合わせであった。そのため、制作 の現場ではロトスコープを使用する際、ほとんどのスタジオで一目見ただけではそれと分からないような 処理が施されている。近年になり、テレビアニメシリーズの『惡の華』(2013 年)や、岩井俊二監督の『花と アリス殺人事件』(2015 年)などのように、あえて全編ロトスコープで制作する作品も現れ注目を集めたが、 それでもやはりロトスコープの使用に対する批判的な態度は現在でも見受けられる。だが、その一方で批判 されがちなロトスコープの性質をひとつの表現方法として全面的に押し出して使用する作家もいる。本論 10 『手塚治虫漫画全集 別巻 5 巻 手塚治虫エッセイ集2巻』、講談社、1996 年、P.158 Fig. 2. フライシャースタジオ『インク壺の外へ』(1919 年)

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が注目するのはこのような作家たちの領域であり、その多くは、商業的なメインストリームのカウンターと して現れた個人作家に見出すことができる。 1941 年にディズニースタジオでのストライキをきっかけに、退職したアニメーターによって設立された UPA(ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ)や、市場では受け入れられにくいドキュメンタリ ーや短編アニメーションを中心に扱うNFB(カナダ国立映画制作庁)などに見られるように、集団制作から個 人制作への転換は、これまでの規範化されたアニメーションにはないリミテッドな制作姿勢を生み出した。 この日本では誤解されがちなリミテッド・アニメーションという言葉は、時間やコストの削減だけを目指し たものではなく、限られた条件やスタイルを元に表現の可能性を求めるという意味でのリミテッドである。 ロトスコープにおいても、これまでの作画補助ツールとしてではなく実写映像の運動を自由に描き変えて 新たな運動として再構成していくようなスタイルの多くがこうした個人作家の中から生まれている。この ような新たな流れは、1980 年代から顕著に現れ始め、デジタル化が進んだ 2000 年以降は、学生作品にまで 広く見受けられるようになった。11 先に挙げた a-ha のミュージックビデオのアニメーションを担当したマイケル・パターソンはこうしたロ トスコープを補助的なツールとしてではなく、表現方法として使用した先駆者の一人であったといえるだ ろう。マイケル・パターソンの代表作は、a-ha の『Take On Me』(1985 年) (Fig.3)のミュージックビデオだが、 ロトスコープを使用したデヴュー作は学生アカデミー賞を受賞した短編アニメーション作品『Commuter』 (1981 年)(Fig.4)であり、a-ha の『Train of Thought』(1986)のミュージックビデオでは、この『Commuter』を ベースに制作されている。マイケル・パターソンのロトスコープアニメーションの特徴は、鉛筆のタッチを 生かしたドローイングである。短時間で行ったクロッキーのように線に強弱がつけられ、省略も多く、勢い よく引かれた線が境界線の役目を負うこともある。この線を境に明暗が反転するなどのギミックはロトス 11 デジタル化した現代におけるロトスコープの制作行程を以下に記す。まず素材となる動画を撮影し、次にパソコンへ取り込んで動画 データをJPG などの静止画データへと変換する(例:1 秒 24 枚の JPG データで書き出す)。次に1枚1枚トレースする(作画の方法は自 由)。全てを描き写したら通常のアニメーションの制作工程と同様に、作画を取り込み、再び時間軸上に配置してアニメーション化す る。補足として、実写の撮影は背景をグリーンバックなどの単色で統一し、モデルの衣類は背景色から際立つ色を選べば輪郭線が見つけ やすくなるため作画が楽である。逆に、野外での撮影で背景に衣類が溶け込んでしまう場合は、衣類のポイントとなる部分にしるしを付 けておくとよい。いずれにせよ、描き写す際に不必要なものは省き、必要なものは描き変えることができるため、常に完成図から逆算し て作業を行うことが必要である。この点においては、インディペンデント作家などの予算の少ない現場にとって経済的な技法ということ もできるだろう。大掛かりなセットを組まずとも、背景や衣装は後で描き加えればよいし、大勢のエキストラを雇わずとも、一人のモデ ルに異なる動きを何度もさせ、あとでそれぞれを描き写して合成すれば群衆を作り出すことも可能である。

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コープアニメーションのひとつの代名詞ともなっており、オマージュとしてよく引用されている。このよう な筆致のドローイングは、それまでの均一な線でシルエットを囲み、運動をキャラクター化していた従来の ロトスコープの用いられ方とは一線を画すものである。運動そのものを閉じ込めないという前提の元で動 きの勢いをそのままドローイングによって表現しようとする姿勢は、明らかに作画補助ツールからは逸脱 したものであり、ロトスコープの運動の可塑性について新たな視点を導入したと言えるだろう。 同じように、ロトスコープを表現として使用した先駆者のひとりに、イタリアのインディペンデントで活 躍するアニメーション作家のジャンルイジ・トッカフォンドがいる。トッカフォンドは、デヴュー作の『La Coda』(1989 年) (Fig.5)から現在に至るまで一貫してロトスコープを用いて作品を制作している。商業的な 仕事も多数手掛けており、日本ではアートディレクターの葛西薫によるユナイテッド・アローズの企業CF に起用されアニメーションを制作している。トッカフォンドのロトスコープは、1コマ1コマ透過させてト レースする通常のロトスコープはなく、既成の実写映像を1コマ1コマ出力したプリントやフィルムに直 接加筆する、ダイレクトペイントによるロトスコープである。その独特なロトスコープは、実写映像の運動 をウエットで浮遊感を伴う柔らかな運動へと変容させ、詩的で実験的な映像作品を創りあげている(トッカ フォンドについては第3章で詳しく考察する)。 さて、ここで現代のメディアにまで視野を広げてみると、モデルの動きを感知してその運動全体をデータ 化するモーション・キャプチャーのルーツには、これまでみてきたロトスコープがあるといって差し支えな いだろう。12 データ化された運動は、いくらでも加工、改変、合成ができる原料となったことで、その利用 は映画やアニメーションに限らず、ゲーム、スポーツ、医療、ロボット工学にいたるまで、人の動きを必要 とする多くのジャンルでの展開を可能にした。また、近年では AI 技術と融合した運動の流用も見られる。 カリフォルニア大学バークレー校の研究者が開発した『Everybody Dance Now』(Fig.6)は、ソースとなる映 像からダンサーの動きを検出し、ターゲットとなる映像の人間に反映させることでダンスが苦手な人でも 映像内でプロのダンサーのように踊ることができるという、まさに映像から映像へと運動を流用し新たな 運動イメージを作り上げる技術である。Youtube で公開されている映像を見る限り、部分的に処理が追いつ 12 エティエンヌ=ジュール・マレーは、一見すると現代のモーション・キャプチャーのような身体に密着する黒いコスチューム(腕と脚 に沿って光る白い線が引かれている)をモデルに着せ、動きを連続写真におさめる「幾何学的クロノフォトグラフィ」を撮影している が、マレーの目的は運動を裁断化し動きを可視化することにある。それに対してロトスコープは、裁断化された運動を改変し新たなイメ ージを生成させることを目的としている。このイメージの流用や可塑性の点においてモーション・キャプチャーのルーツはマレーの連続 写真ではなく、ロトスコープにあると筆者は考える。マレーの「幾何学的クロノフォトグラフィ」については以下を参照。松浦寿輝『表 彰と倒錯 —エティエンヌ=ジュール・マレー』、筑摩書房、2001 年、P.172

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かず、ターゲットの身体の一部が消えてしまっていたりするシーンが見受けられるため、技術としては未だ 不完全ではあるようだが実用化の可能性は十分に感じられる。13 また、こうしたロトスコープをルーツと するメディア展開の射程は、スマートフォンで撮影された映像にキャラクターを被せて改変するようなア プリにまで押し広げることも可能かもしれない。 このように振り返ってみると、20 世紀後半から現れたロトスコープによるアニメーション表現や、近年 の運動を素材とするメディアやアプリのルーツとしてロトスコープを考えた場合、あきらかに発明当初に 考えられていた、誰にでも簡単にリアリスティックな運動描写を可能にすることや時間や労働力をカット して大量生産を実現するという機能ではなく、イメージの流用や可塑性を孕んだ運動プロセスが機能して いることに気がつくだろう。ロトスコープの運動をトレースする“描き写す”というプロセスは、ある時間 に属していた運動を別の時間の中へと移動させ、変容させる“描き移す”というプロセスへと変化している のである。 以上をふまえたうえで、改めてロトスコープを表現論的に捉え直すならば、その本質は、“ある文脈(時間) に属していた運動を別の文脈(時間)へと移動し、結合させ、形態的にも意味的にも元の文脈から逸脱した新 たな運動に変容させる(再コンテクスト化)こと”14 ではないだろうか。ロトスコープは、運動を“移動”と “出会い”、または“置換”と“変容”というダイナミックな動的プロセスとして捉える特異な視点をもっ ているのである。 そして、これまでロトスコープに向けられてきた批判の多くは、こうしたロトスコープの特徴(=表現技法 としての可能性)が、伝統的なアニメーションの受容の仕方と衝突することによって生じた違和感が要因と なっていると筆者は考える。次節からは、この批判に焦点を当て、当事者たちの証言や実例をもとに詳しく 検証することで、逆説的にロトスコープの表現の可能性を明るみに出したい。 13 これは、2018 年 12 月の状態であることを補填しておく。 14 ここで明記したロトスコープを表現論的な本質は、河本真里の以下の論文に大いに示唆を受けている。河本真里『切断の時代 20 世紀におけるコラージュの美学と歴史』株式会社ブリュッケ、2007 年 Fig.6.『Everybody Dance Now』

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1-2 ロトスコープへの批判と表現の可能性 前節の最後にて、これまでロトスコープに向けられてきた批判の多くは、ロトスコープの特徴(=表現技法 としての可能性)が伝統的なアニメーションの受容の仕方と衝突することによって生じる違和感が原因では ないかと指摘した。では、具体的にどのような批判がロトスコープへ向けられてきたのかを、筆者の経験を 元にして以下に大きく3点取りあげたい。そして、それぞれ事例を検証することで伝統的なアニメーション を見る視線から見落とされてきたロトスコープの別の可能性を考察する。 ロトスコープへ向けられる主な3つの批判 (ⅰ)トレースを安易な手法と考えるアニメーターからの批判 (ⅱ)実写のままでよいのではないか?わざわざ絵にすることへの批判 (ⅲ)リアルだが、リアルさに欠ける。リアリティに関する批判 以上の3つに焦点をあてる。 (ⅰ)トレースを安易な手法と考えるアニメーターからの批判 ひとつ目は、主に作り手であるアニメーターから向けられてきた労働力に関する批判である。序章で述べ たように、従来のアニメーションの技法とは、作画の際に使用されるマチエールによって差別化され、その 美意識は、素材の特性によって得られる運動表現の効果に向けられていたわけだが、そこには前提として、 何もないところから動きを描き出すという作者の表現主体が中心に据えられていた。これに対しロトスコ ープは、未熟なアニメーターでも写実性の高いアニメーションを作ることを可能にすることを目的として いたため、動きをゼロから創作するのではなく既にある運動をトレースするという選択をとった。だが、ま さにこの点が、伝統的なアニメーターからは、楽をしている、ずるい行為であると批判されてしまったので ある。 しかし、この“トレース=ずるい”とする労働力に関する批判は、作家の表現主体を至上とする創造の神 話を前提とした偏った見方であるとも言えるのではないだろうか。たしかに従来のアニメーターたちにし てみれば、未熟なアニメーターが技術の修得もせずにトレースという安易な手法に走ったように見えたか もしれない。しかし、前節の最後で述べたようにトレースを楽に写実性を高めるためのただの“描き写す” 行為と考えるのではなく、ある文脈に属していた運動を別の文脈へと移動させ変容させる“描き移す”行為 として捉え直すのであれば、ロトスコープは既成の運動を再コンテクスト化させる表現技法として20 世紀 美術史の中でもファウンド・オブジェの文脈のなかで体系化できると筆者は考える。 ファウンド・オブジェとは、“見出された(Found) 物体・対象(Object)”のことである。ある目的のために 使用された“もの”を、芸術作品を構成する要素として転用し、美的価値を付与させた“もの”のことであ り、この置換と変容のプロセスは、ロトスコープの発明と同時期に展開したダダやシュルレアリスムにおけ る実践と強く結びついていた。もちろん、当時ロトスコープをそれら前衛芸術運動と結びつけようとした者 はいなかったが、今改めてロトスコープによる運動の“移動”と“出会い”という動的プロセスと20 世紀 の前衛芸術運動とを比較するならば、まず類似性を見出すことができるのは既成の雑誌やカタログなどか らイメージを移動させ、結合させて新たな平面を生成するコラージュの実践であろう。そして、もしこの動

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的プロセスを“デペイズマン”15 という言葉で置き換えるとすると、ロトスコープのプロセスや機能はコラ ージュのなかでも特にシュルレアリスムのコラージュとの間に多くの共鳴点を見出すことができそうであ る。シュルレアリスムとほぼ同時期に実践されたコラージュには、クルト・シュヴィッタースの『メルツ』 16 (Fig.7) などもあるが、メルツはシュヴィッタース本人が「メルツ絵画という画像は抽象芸術作品である。 メルツという言葉は本質的に、考えうるあらゆる素材を芸術的目的のために関係づけることを意味し、手法 的には個々の素材を原則的に同一に価値づけること(Wertung)を意味する」17 と述べているように、メルツ はあらゆる素材を対立させ無価値化=廃品化した上で、そこに新たな価値を与えようとする身振りであっ たのに対し、シュルレアリスムのコラージュは、河本真理が「文学的なアプローチによってコラージュが読、 まれた、、、」18 と指摘するように、素材の意味が維持されたまま言語的に用いられた意味論的コラージュだっ た。そして、ロトスコープもトレースした運動を無価値化=廃品化するというより、モデルの動作という何 かしらの意味を伴う動きをトレースして結合することで新たな物語を発生させる意味論的な機能を備えて いる。そのため、本論ではロトスコープの動的プロセスはシュルレアリスムのコラージュと比較分析するこ とにしたい。 また、ロトスコープの素材となる既成の映像を見出された対象と考えたり、運動の移動を流用または剽窃 として考えるならば、ロトスコープの比較対象は、ファウンド・フッテージや、シミュレーショニズムなど の美術動向にまで拡張することもできるだろう。ファウンド・フッテージとは、映画の歴史的には主に1980 年代以降に作られ始めた第三者によって埋もれていた映像が発見されるという設定のモキュメンタリーを 指すが、19 本論でいうファウンド・フッテージは、ブルース・コナーの『A Movie』(1958 年)や、ペーター・ 15 デペイズマン(Dépaysement) とは、本来あるべき環境から別のところへ移すことによって異和を生じさせるシュルレアリスムの中心的 な概念のひとつ。もともとは、仏語で「国外へ追放する」「異郷の地へ送る」などの意味を持つ。 16 メルツとは、シュヴィッタースが日常生活のなかで偶然発見したバスや劇場のチケットや車輪などの廃品を用いたコラージュのこ

と。「KOMMERZ UND PRIVATBANK(商業・個人銀行)」から一部を切り離して「MERZ (メルツ)」と名付けられた。

17 田中純「喜ばしき機械 「メルツ」と資本主義の欲望」『村山知義とクルト・シュヴィッタース』(マルク・ダシー+松浦寿夫+白川昌 生+塚原史+田中純 著)、水声社、2005 年、P.68 18 河本真里『切断の時代 20 世紀におけるコラージュの美学と歴史』株式会社ブリュッケ、2007 年、P.540 19 作品にはホラーが多く、1999 年の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などが有名である。 Fig. 7. クルト・シュヴィッタース『メルツ絵画 9b』(1919 年)

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チェルカスキーの『Dream Work』(2001 年)、そして第 4 章で詳しく取りあげるマーティン・アーノルドの実 践など、主に既存の映像を見出された対象としてコラージュや再撮影などをすることによって新たな映像 を創造する制作実践を指すものである。また、シミュレーショニズムとは、1980 年代から台頭する過激な 剽窃行為による美術動向であるが、この台頭の時期が偶然にも前述したマイケル・パターソンらのロトスコ ープの新しい流れとシンクロしている点は簡単に見過ごすことができない事実であると思われる。 いずれにせよ、ロトスコープのトレースという行為を、ただ安易に“描き写す”行為と考えるのではなく、 ある時間に属していた運動を異なる時間へと移動させ変容させる“描き移す”プロセスと捉え直すならば、 ロトスコープの表現技法としての可能性が見えてくることは明らかであろう。 (ⅱ)実写のままでよいのではないか?わざわざ絵にすることへの批判 ふたつ目は、わざわざ実写映像をベースにして、なぞり絵にすることの意義についての批判である。ロト スコープは実写映像をトレースすることによって新たな運動を創出するが、ロトスコープに批判的な態度 をとる者からは、「実写の動きを目指すのであれば、実写のままでよいのではないか」、「わざわざトレース してアニメーションにする必要はないのではないか」などの批判を受けてきた。そして、こうした批判を一 身に受けたのが、ラルフ・バクシである。ポール・ワードは、ロトショップに関する小論の中で、バクシの ロトスコープ作品についてまわるこれらの批判を取りあげた上でバクシの以下のコメントを引いている。 「わざわざ〔ロトスコープを用いて〕アニメーションにする必要があるのかという疑問が湧いてくるらし い。だったら、ハワード・パイルのイラストレーションにも同じことが言えるんじゃないか?なぜわざわざ イラストにする?写真じゃダメなのか?理由はきちんとある。〔描くことで〕エネルギーが生まれるんだ。 それが重要なんだよ」20 このバクシのコメントは非常に興味深いが曖昧な印象が残る。なぜならば、バクシがロトスコープに作画補 助ツール以上の可能性を見出していることはほぼ間違いないと思われるものの、肝心のエネルギーについ ては明確に定義化していないのである。また、この点に関してはポール・ワードも「このコメントは、なぜ ロトスコープを用いるのかという問いに対する理由のひとつを明らかにする。バクシが言う「エネルギー」 こそが重要なのだ」21 と述べる一方、エネルギーそのものについては同様に明言していない。発言した本人 が意味を述べていない以上、それがどのようなものであるかは試論の域を出ないが、描くことによって生ま れるということはマテリアルとなる実写映像にはもともと備わっていない“何か”が描くことによって付与 されるということであろう。つまり、このバクシの発言は、ロトスコープが運動に何らかの付加価値を与え て運動を変容させる方法と解釈することができるのではないだろうか。本節では、この運動の変容を筆者の 提言する運動の再コンテクスト化と同じベクトルにあると仮定した上で、バクシが例に挙げたハワード・パ イルと写真の比較を糸口として、描くことで生まれるエネルギー、そして再コンテクスト化された運動の構 造や機能を考察し、わざわざ絵にすることの意義について示したい。 ハワード・パイル(1853 年~1911 年)は、著述家であり、かつ児童書のイラストレーターとしても高く評価 された人物である。後進の育成にも励んだことで有名で、生徒にはディズニーに影響を与えた N.C.ワイエ 20 ポール・ワード「ロトショップの文脈 コンピューターによるロトスコーピングとアニメーション美学」(土居伸彰 訳)、『表象 07』、 月曜社、2003 年、P.85 21 同前

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スなどがいる。N.C.ワイエスは水彩画家のアンドリュー・ワイエスの実父であり、その絵の系譜には眼前の ものを正確に描写する高い技術力を確認することができる。この高度な写実表現は一見すると写真と見紛 うほどであるが、パイルの絵において注目すべきは、写実というにはどこか出来すぎている印象を覚えてし まう点である。言い換えれば、パイルの絵には極めて写実的でありながらも、どこか図鑑にでも載っている かのような記号的な印象を同時に覚えてしまうのである。(Fig.8) 鈴木雅雄は、同様の問題をベルギー出身のシュルレアリストであるルネ・マグリットの絵画(Fig.9)に見出し ている。鈴木は、マグリットの絵は一見すると自然主義的に見えるが、あまりにも分りやすい形であり、実 物を前にして苦闘したのちに描かれたものではなく、図鑑やカタログから切り取られてきたようなイメー ジであると指摘する。そして、「「そう見えるように」ではなくて、「そうあるように(あるいは私たちがそう あると思っているように)描かれた、「具象的(figuratif)」ではあっても「表象的(représentatif)」ではない」22 イメージと表現する。鈴木はこのようなイメージを「図」というタームでまとめることで、シュルレアリス ム美術のあり方を「眼前に実在する世界であるかのように立ち現れる古典的な絵画と、無限に反復可能な記 号的イメージとの中間にあるような」23 ものではないかと提言する。もちろんここで、パイルのイラストを シュルレアリスム美術へと接続させるのは性急であろう。だが、パイルとマグリットには、鈴木が指摘する ようなふたつのイメージの中間、もしくは二重化したイメージという構造を見出すことができるだろう。 こうした二重化したイメージは、観者にふたつのイメージを同時に知覚することを強要する。言い換えれ ば、観者の視線は常にふたつのイメージを横滑りつづけることになり、観者はひとつに完結しないイメージ 22 鈴木雅雄+林道郎『シュルレアリスム美術を語るために』水声社、2011 年、P.83-84 23 前掲書、P.83

Fig. 8. ハワード・パイル『Howard Pyle s Book of Pirates』(1921 年)

Fig. 9. ルネ・マグリット『これはリンゴではな い』(1964 年)

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の間で引き裂かれる経験をすることになる。恐らく、パイルはこの非完結的な性格を逆手に取り、挿絵とし て用いることで読者の想像力を刺激していると考えられる。つまり、本来ならば物語の理解を助けるために 挿入されるべき絵が、読者の寄って立つ位置を支えるというよりも揺るがすことで、読者を物語と現実の境 界へと迷いこませたり、読者の想像力を遠心的に広げるように機能していたりするのだ。反対に、もし挿絵 の代わりに写真が用いられたとすれば、写真は読者の想像力を限定するように機能してしまうだろう。24 ぜなら写真の本質は、対象を「これは花である」というように指し示す、その強固な指示性にあるからであ る。 (一方、シュルレアリストはこの写真の指示性や時制と付随するテクストの意味作用を逆手にとること で、読者にある種の混乱を引き起こしている)。 別の言い方をしてみよう。写真はこの世界と事実的な関係に基づくインデックスである。25 そしてパイ ルやマグリットの絵は、鈴木が「眼前に実在する世界であるかのように立ち現れる古典的な絵画」と指摘す るように、一見すると眼前の世界をまるで写真のように本物そっくりに描いているように見える。仮に、両 者の絵を“写真的な絵画”とするならば、そこには世界とのインデックス的な繋がりの一端を見出すことが できるだろう。だが、前述したように両者の絵はただ本物そっくりに描かれてはおらず、「反復可能な記号 的イメージ」としても描かれている。これは、ある意味で世界と繋がるインデックス的な臍の緒を断ち切る ようなイメージであるとも言える。つまり、観者はこれらの矛盾を伴う二重化したイメージの間で引き裂か れる経験をすることになるのだ。また、こうしたインデックス的な視点は、ロトスコープのプロセスを考え る上でも有効であると思われる。ロトスコープは実写映像をマテリアルとするインデックス的なイメージ でありながら、なぞることによって生成される類似的で反復可能な記号的イメージでもあるのだ。特にバク シは実写映像に限りなく忠実にロトスコープを行うため、そこには《起源の実写映像》と《絵画的なイメー ジ》というイメージの二重化が生じていると考えられる。 だが、ここで急いで補足を加えなければならない。なぜならロトスコープされた運動は、バクシのように 実写映像を忠実に描き写すものだけではないからである。ロトスコープにおける“描くこと”には、作者の 解釈、演出、誇張などが描き加えられたり、起源のモデルの外見を全く異なるキャラクターへと描き変えた りするなどの“操作”や“改変”のレベルも存在するのである。そのため、生成されたイメージを 1 コマの 静止画で見た場合、必ずしもその外見に《起源の実写映像》と《絵画的なイメージ》というイメージの二重 化を見出せるとは限らないのだ。 それでは、ロトスコープにおいてイメージの二重化が生じるのはいったいどの瞬間なのか。それは、コマ が連なりアニメーションとなった時である。つまり、起源のモデルの外見とは全く異なるイメージで置換さ れたとしても、運動の次元において《起源の実写映像》の現前性が保たれるという事態が起こるのである。 こうした映画における現実感についてクリスチャン・メッツは、それはまず観客の心理学的なものを土台と するとしたうえでこう述べている。 運動は決して物理的ではなく、とにかく視覚的であるので、運動の光景を模造することは、その現実性を模 造することである。実は、運動は「模造する」ことさえできないのであって、ただ再生産できるのみであり、 そしてこの第二の生産は、運動を観る者にとっては第一の生産と同じ現実性の次元にあるのだ。26 24 もちろん写真における二重化も思考することは可能である。だが、このバクシの発言中における「写真」には二重化は含意されてい ないと本論では判断した。 25 写真をインデックス、絵画をイコンと分ける思考法は、ロザリンド・クラウスの写真論に依拠している。ロザリンド・クラウス「シ ュルレアリスムの写真的条件」『オリジナリティと反復』(小西信之 訳)、株式会社リブロポート、1994 年 26 クリスチャン・メッツ『映画における意味作用に関する試論』(浅沼圭司 監訳)、水声社、2005 年、P.28

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メッツによれば、運動こそが強い現実感を与えるものであり、それゆえ観者にとっては再生産された運動に も第一の生産と同じ現前性を覚えてしまうという。つまり、ロトスコープにおいて描くことで生成されるイ メージの二重化とは、アニメーションとなって動き出すことで現れる《起源の実写映像の.運動..》と《絵画的 なイメージ》の二重化なのである。そして、観者は《絵画的なイメージ》を捉えようとすると同時に幽霊に ように現れる《起源の実写映像の運動》という運動の現前性との間で引き裂かれる経験をすることになるの だ。 以上をまとめると、ロトスコープのなぞるという行為によって再コンテクスト化されたイメージ(運動)は、 動くことで現れる《起源の実写映像の運動》と《絵画的なイメージ》というイメージの二重化をその構造と している。このイメージ(運動)は、決してひとつに統一されることがなく、ふたつのイメージを継起し続け ることで観者の視線を引き裂き、単一な意味作用を揺るがすことで新たな繋がりを求めるように観者の想 像力を刺激する“非完結的な継起するイメージ”である。バクシが言う描くことで生まれるエネルギーとは、 このような構造が関係しているのではないだろうか。 そして、この非完結的な継起するイメージを異物と捉えるのか、それとも美の経験と考えるのかによって ロトスコープの美学的な評価は真逆のものになる。考案当初の目的や従来のアニメーションを見る視点か ら考えれば、この非完結的なイメージはリアリスティックな運動を得る代償として現れてしまった異物で しかない。だがこれを美の経験として考えるならば、ロトスコープはその二重化の構造によって実写映画で は決して捉えることのできない現実の側面を表現できる可能性を秘めていると言える。またこの特性は、20 世紀の前衛芸術のいくつかの実践との間に共鳴点を見出すこともできるだろう。例えば、マン・レイの『理 性への回帰』(1923 年)における写真を映画的に試みることで生じる非完結性や、マルセル・デュシャンの 『アネミック・シネマ』(1926 年)におけるひとつに統一されることのない時間性のある形象。または、完結 を放棄し不完全なイメージの連続 痙攣的な美27 へと志向するシュルレアリスムの多様な作品群などで ある。これらはまさにロトスコープにおける“非完結的な継起するイメージ”と共鳴する引き裂かれる経験 として考えることができるのではないだろうか。 (ⅲ)リアルだが、リアルさに欠ける。リアリティに関する批判 最後は、ロトスコープによって生じるリアリティに関する批判である。前節にて引用したが、ポール・ワ ードは、ロトスコープを用いた映像を見るときに生じる違和感について「リアルであると同時にリアルさに 欠ける」という矛盾が生じていると指摘している。しかし、ロトスコープは実写映像をマテリアルとしてい る以上、写実という面においては優れて写実的であるはずだが、いったいなぜそれが「リアルさに欠ける」 のだろうか。ポール・ワードはこう続けている。「リアルさという点では確かに増大しているものの、その リアルさが、カートゥーンの世界にフィットしているように思えないという事態が生まれる」。28 前節でア ニメーションは自らの虚構性にリアリティを持たせるために現実模倣に志向すると述べたが、それはあく までも虚構世界のリアリティを増強するためであって、実写映像そのものになることを目指しているわけ ではないのだ。大切なのは観客がその虚構世界を信じきることができるようにすることなのである。それゆ えにロトスコープによって作られた動きは、カートゥーンの世界に並置されると、〔写実的には〕リアルだ 27 アンドレ・ブルトンは、その著書『ナジャ』において「美、動的でもなければ静的でもないもの。人間の心、地震計のように美しい もの」「美は痙攣的なものだろう、それ以外にないだろう」と述べている。 アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巖谷國士 訳)、岩波文庫、 2003 年、P.190、191 28 ポール・ワード「ロトショップの文脈 コンピューターによるロトスコーピングとアニメーション美学」(土居伸彰 訳)、『表象 07』、 月曜社、2003 年、P.83

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が、〔カートゥーン世界の〕リアルさに欠けてしまうのである。ここには、各メディアが内包するそれぞれ のリアリティの問題が横たわっているのだ。 例えば、それは絵画における動勢にも見出すことができる。テオドール・ジェリコーの代表作である『エ プソムの競馬』(1821 年) (Fig.10)では、疾走する馬のギャロップを見ると前脚と後脚を揃えて飛翔している ように描かれている。だが、後にエドワード・マイブリッジの連続写真によって明らかになる通り、馬の四 肢が宙に浮くのは前後の脚が閉じた時である。マイブリッジの解明以降の絵画では、馬がこのように飛翔す るかのように描かれることはなく なった。だ が、この間違いに対して彫刻家の ロダンはジ ェリコーを擁護する姿勢をとって いる。ロダ ンは、「私の信ずるところではジェリコーが正 しくて写真がその逆なのです。だ ってこの馬 は駆けているように見えますもの」と述べ、こ の絵は複数の動作が同時に起こっ ているため 全体では間違っているものの、観 者が視線を 後脚から前脚へと順に追って見て ゆくと「真 実」であると解説する。29 つまり、ロダンによ れば、この絵は画家が意識的に馬 の動きを感 ずる瞬間、その「真実」を抽出して一枚のタブ ローへと結合させることで動勢が宿っているというのだ。このロダンの主張は、マイブリッジの連続写真に よって、たしかに肉眼では捉えきれない馬の疾走のメカニズムが解明はされたものの、絵画において動勢を 描く方法 絵画におけるリアリティ は、必ずしも写実だけとは限らないことを示している。 では、伝統的なアニメーションにおけるリアリティとロトスコープとの間にはどのような齟齬が生じて いるのかをもう少し詳しく考えてみたい。着目すべきは運動のレベルにおける齟齬、つまり運動を創りあげ る作画のレベルにおける齟齬である。映画監督でもあり非常に優秀なアニメーターでもある宮崎駿はロト スコープによる違和感についてこう述べている。 「アメリカやソ連で実写フィルムから仕草とタイミングを描き起こすライブアクションの技法が発生した のも、アニメーターの想像力と描写力の限界が早くから明らかになったからである。とはいっても、実写を そのまま絵に移してみると、名優の演技も妙にヌルヌルとした、不明瞭なものに変化してしまう。実は、演 技とは単なる動きではなく、かすかな光と影の変化、セルでは表現しようもない質感、乾湿、一秒二十四分 の一よりもっと速い、連続する兆しの動態によって成り立っているからなのだ。」30 ライブアクションとは、実際にモデルが動くところを撮影した映像を参考としてアニメーションに活かす 方法を指すが、ここで宮崎の言うライブアクションとはロトスコープとほぼ同義と考えてよいだろう。注目 したいのは、運動とは 1/24 秒では捉えられない「連続する兆しの動態」によって成り立つという部分であ る。言葉通り理解すれば、宮崎の言う運動とは動きが起こる気配が絶えず連続していく状態となるだろう か。ひとつの動きはすぐ次の動きの予兆となり、その連続が運動であると理解すれば、伝統的なアニメータ 29 『ロダンの言葉抄』(高村光太郎 訳)、高田博厚・菊池一雄 編、岩波文庫、1960 年、P.232 30 宮崎駿『出発点 〔1979〜1996〕』徳間書店、1996 年、P.105 Fig.10. テオドール・ジェリコー『エプソムの競馬』(1821 年)

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ーたちが中割り31 のために「連続する兆し」をいかに捉えるのかを模索してきたのも頷けるし、この宮崎 の発言からはこれまで自らが試行錯誤を繰り返してきた自負すら感じられる。つまり、伝統的なアニメーシ ョンにおける動きとは、「連続する兆し」という動作のポイントとなる瞬間をおさえて作画された、抑揚の あるリズムやタイミングのある動きであり、それらは写実から始まりアニメーション的に情報を整理・翻訳 した動きであることがわかる。32 そして、これこそが伝統的なアニメーションにおけるリアリティなのだ。 だが、それに対してロトスコープは撮影された映像をそのまま使用する。基本的に中割りを行うこともな く、単純に作画の枚数が増えるため動きは滑らかに繋がっていく。アニメーション的に情報が整理されてい ないので動作には不規則性が増すが、それこそ写実性が増した証でもあるだろう。しかし、当然ながら伝統 的なアニメーションに見られるメリハリのある動きは減少する。おそらく宮崎のいうヌルヌルとした不明 瞭な動きとは、このような性格の動きを指した言葉だろう。そして、動きを構築するベクトルが異なる以上、 もしロトスコープされた運動を通常のアニメーションの中に並置すれば異物化してしまうのは当然である。 「リアルであると同時にリアルさに欠ける」と言う矛盾はこのような齟齬から生じたものなのだ。そして、 これは同時に通常のアニメーションの中でロトスコープを使用する際には解決しなければならない問題で もあった。 では、各スタジオはどのようにこの問題と向き合ったのだろうか。例えば、ディズニーではロトスコープ する際の実写映像の使用にあたり、「実写を参考とする場合には、絵描きの適切な選択によって、動きを構 成するエッセンスを抽出し、それを誇張する必要がある」と注意している。33 つまり、アニメーターは実写 映像をただそのままトレースするのではなく、実写映像の中から運動の核となるエッセンスを抽出し、アニ メーション的に情報を整理せよというのである。そして、その整理の際に「誇張する必要がある」というの だが、ここにはディズニーアニメーションの「戯画化されたリアリズム」34 という思想を読み取ることがで きる。ディズニーが求めた自然主義的なアニメーションとは、実写をただなぞることで得られるリアリステ ィックな運動の再現ではなく、観客が信じ込めるように説得力をもって伝えることなのだ。例えば、喜んで いるキャラクターは一段と喜んでいるように描くことで観客の心に強く訴えさせるといったように、リア リティの照準を観客に合わせた誇張表現を目指したのである。ディズニーは、このようにロトスコープをデ ィズニー流に情報整理することで、異なる運動同士が並置された際の違和感を軽減させようとした。 反対に、発明者のマックス・フライシャーはロトスコープによって生じる違和感を利用する手段をとって いる。つまり、通常のアニメーションのなかでは浮いて見えてしまうロトスコープをあえて作中の異質な存 在のキャラクターに用いることによって、そのキャラクター性を強調したのである。例えば、初作品の『イ ンク壺の外へ』(1919 年)のココ・ザ・クラウン、『ミニー・ザ・ムーチャー』(1932 年) (Fig.11)の洞窟の中で 登場するアザラシの幽霊、そして『ガリバー旅行記』(1939 年)ではガリバーに用いている。35 ようするに、 マックス・フライシャーはこの時点で既に作画補助ツールとしての役割だけではないロトスコープの表現 方法としての特性を見抜き、機能させていたことになる。だが、その用いられ方はカートゥーンを正しい世 界とした時の異物という扱いに終始しており、アニメーションそのものを拡張するまでには至らなかった 点には注意が必要だろう。 31 アニメーションの作画工程のうち、原画(=動作の要となる絵)と原画の中間を描く作業のこと 32 全編ロトスコープで制作されたTV アニメーションシリーズの『惡の華』では、アニメーターが実写を忠実にトレースすることで、情 報が整理されていない生の動きに対して多くの発見があったというエピソードがある。『アニメスタイル004』株式会社スタイル、2013 年、P110 33 フランク・トーマス/オーリー・ジョンストン『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法』(スタジオジブリ 訳)、徳間書店、 2002 年、P.327 34 前掲書、P.70 35 ガリバーは小人の国に人間が漂着する物語である。つまり、この物語では人間の方が異質なのである。

Fig. 7.  クルト・シュヴィッタース『メルツ絵画 9b』(1919 年) 

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