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サルトルの他者論と現代心理学 : 研究主題としての「眼差」

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サルトルの他者論と現代心理学 : 研究主題として

の「眼差」

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

74

ページ

1-32

別言語のタイトル

Sartre’s theory of otherness and contemporary

developmental psychology ”GAZE” as a subject

matter in scientific research program

(2)

     

サルトルの他者論と現代心理学

         

─ 研究主題としての「眼差」─

  

  

  

   

  

はじめに

サルトルによれば、他者の存在はその「 眼 まな 差 ざし 」によって知られるものである。何者かによって見られているという私の 経験において、他者は私に顕現するのだとサルトルはいう。しかし、サルトルは、他者の存在があらかじめ確認された上 でその眼差が自分に向けられた場合にどうなるかということを述べているのではない。見られるという経験によってはじ めて他者という存在が私に顕現すると述べているのである。このように、見られるという経験を他者理解の根底に据える 点に、サルトルの他者論の独創性があることはいうまでもない (一) 。 ではこのような独創的な議論をどのように理解すべきであろうか。私はこの論文で、こうした問いかけを出発点にして サルトルの他者論の意義を新たな視点から認識し直してみたいのである。 そのために、現代の発達心理学の研究動向に注目してみなければならない。発達心理学においては、幼児の他者理解を 生後ほぼ九ヶ月から十二ヶ月の時期に設定する見解が支配的であった。なぜならこの時期になって幼児はようやく他者の

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柴    田    健    志 二 視線に意図を読み取るようになると考えられてきたからである。では、生後九ヶ月まで、幼児には他者理解が存在しない のであろうか。このような疑問は、支配的な見解の下で抑圧されてきた疑問である。しかし近年、この疑問に積極的に答 え よ う と す る 研 究 が 注 目 さ れ て い る。 支 配 的 な 見 解 に お い て は、 他 者 の 視 線 は 本 質 的 に 外 的 な 対 象 に 向 け ら れ た 視 線 と し て 考 え ら れ、 自 己 に 向 け ら れ た 視 線 は 軽 視 さ れ て き た。 共 通 の 対 象 に 注 意 を 向 け る と い う「 共 同 注 意 (joint attention) 」 が 研 究 の 最 重 要 課 題 と し て 位 置 づ け ら れ て き た と い う 事 実 が、 こ う し た 事 情 を よ く 物 語 っ て い る (二) 。 し か し、 幼 児 が 自 己 に 向 け ら れ た 視 線 な い し 注 意 に 対 し て 情 動 的 に 反 応 す る と い う こ と は 周 知 の 事 実 で あ る。 こ の 事 実 を 再 確 認 す る な ら、 他者の視線とは本質的に自己に向けられたものとしてあり、 かつまた自己に向けられた視線に対する情動的反応の中には、 意図を持った他者の存在理解がすでに暗黙に含まれているのではないかという推定が成立するであろう。外的な対象に向 けられた視線の理解は、そこから派生したものにすぎないのではないか。発達心理学の分野において、このような問題意 識にもとづく研究がすでに始まっているのである (三) 。 発達心理学の分野におけるこのような新しい動向が、サルトルの他者論の発想と明白な類似を示している点に着目して みなければならない。この類似を糸口にしてサルトルの他者論を見直し、その意義を再認識するということがこの論文の 主題である。 用 語 に つ い て あ ら か じ め 留 意 し て お こ う。 こ の 論 文 で は、 サ ル ト ル の 用 語 で「 眼 差 (regard/gaze) 」 と し て 記 述 さ れ る ものと、発達心理学で「注意 (attention) 」として記述されるものは、ほぼ同義に取り扱われる。

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サルトルの他者論と現代心理学 三

  

 

見られる経験

上記の主題を展開するためのポイントを、サルトルの他者論をもとに提示してみなければならない。明確にすべきポイ ントは、他者の眼差がその対象によって二種類に区別されるという点である。 (1)外的事物に向けられた眼差 (2)自己に向けられた眼差 サルトルはこれらのうち(2)を他者理解にとって根本的なものとみなしている。なぜだろうか。その理由を鮮明に理 解 し な い 限 り、 サ ル ト ル の 他 者 論 の 要 点 を つ か む こ と は で き な い。 そ こ で ま ず、 『 存 在 と 無 』 に お け る サ ル ト ル の 議 論 を できる限りサルトルの意図にそって整理してみなければならない。 他者の存在は、 例えばテーブルや椅子のような事物の存在とは根本的に異なる。 なぜなら他者とは私と同様に意識をもっ た存在だからである。では、そのような存在はどのようにして知られているのであろうか。テーブルや椅子の存在は、そ れらを知覚することによってたやすく知られるであろう。ところが、これと同じ仕方で他者の存在を知ることができるで あろうか。無論、そのような仕方で他者の存在を知ることはできない。この認識が議論の出発点である。しかし、この認 識に対しては以下のような反論が予想されうるであろう。 テーブルや椅子は知覚の対象としてその存在を現すことができる。では、同じ仕方で他者を知覚するとき、他者は他者 としてその存在を現すであろうか。一見すると、事態はそうなっているように見えるのである。事実、私はまさに他者を

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柴    田    健    志 四 対象として知覚しつつ、彼らをたんなる事物とは区別して認知しているのではないか。私と同じように意識をもった存在 を、私は現に知覚しているのではないか。 しかし、ここで次のように問い返すことができる。このような場合、そこに他者が存在しているということは果たして 確実なことなのか、と。この問いは次のように言い換えた方がその意図が明確になるであろう。──そこに存在するのが ロボットではないと果たして確実に言い切れるのか、と。サルトルは、それが決して確実なことではないという。対象と して知覚する限り、人間を人間そっくりのロボットから区別することはできないからである。それゆえ、それがロボット ではなく人間であるという判断は蓋然的な判断であるにすぎない。サルトルは次のように書いている。 「私が知覚している通行人が人間であって人間そっくりのロボットではないということは無限に蓋然的である」 (四) 蓋然的であるというのは、おそらくそうであるという意味である。すなわち、あの通行人は人間ではないかもしれない。 サルトルは何がいいたいのであろうか。サルトルがこう書くのを読んだとしても、自分がそこに人間を見ているという 私の確信はおそらく少しも揺らがないであろう。私は人間をたんなる事物とははっきりと区別して知覚していると信じる ことができるからである。サルトルもそれは承知しているであろう。問題はその確信がどこから来ているかである。実際 には、この確信は人間を対象として知覚することから得られたものではない。知覚という水準に止まる限り、あの人は本 当に人間なのだろうかという、蓋然性の不安から完全に逃れることはおそらくできないであろう。したがって他者の存在 に関する認知は別の仕方でなされていると考えなければならない。これがサルトルの論点である。 サルトルは、じつはここで『第二省察』におけるデカルトの懐疑を踏襲している。デカルトもまた、対象知覚による限

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サルトルの他者論と現代心理学 五 り、あの通行人はじつは「自動機械」ではないかという疑惑から逃れることはできないと述べている。それゆえ、あの通 行人が人間であって決して 「自動機械」 ではないという確信は、 対象知覚とは別の仕方でえられているというのである (五) 。 因に、デカルトはそれを「精神の洞察」 (六) と呼んでいる。 サルトルの論点も同じである。すなわち、 対象知覚という水準において、 人間とたんなる事物との区別が成立するには、 それに先立って、 対象知覚とはまったく別の仕方で他者の存在が認知されていなければならないであろう。そこで問題は、 対象知覚とは異なる認知とはどのようなものなのかということになる。いうまでもなく、この点でサルトルはデカルトよ りも緻密な議論を展開していくのである。 他者の眼差がサルトルによって語り出されるのはまさにここにおいてである。すなわち、他者の存在は自分が他者を見 ることによってではなく、全く逆に他者によって自分が見られるという経験において顕現すると主張されるのである。 こうして他者の存在は私に眼差を向ける者として認知されることになる。サルトルはこのような他者との関係こそ「根 本 的 な 関 係 」(七) で あ る と い う。 そ れ は ど う い う 意 味 で あ ろ う か。 こ こ で 上 記 の 区 別 を 参 照 し な け れ ば な ら な い。 サ ル ト ル によれば(2)自己に向けられた他者の眼差こそ根本的なものであり、それに対して(1)外的事物に向けられた他者の 眼差は派生的なものでしかない。 例えば、私の見ている公園の芝生に誰かが眼差を向けるのに気づいたとき、私はそこに他者の存在を認めることができ る (八) 。 そ れ ゆ え、 わ れ わ れ を 他 者 の 存 在 に 気 づ か せ る の は そ の 眼 差 で あ る と い い う る で あ ろ う。 眼 差 に よ っ て、 他 者 の 存在がたんなる事物の存在とは異なる仕方で現れるのである。しかし、他者が外的事物に眼差を向けるのをたんに対象と して知覚するということから、 このような区別が成立するであろうか。意識を持った存在がそこに存在するという理解は、 その眼差を対象としてのみ知覚していても出てこないであろう。 その眼差はロボットの機械の眼かもしれないからである。

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柴    田    健    志 六 しかし、私は外的事物に向けられた他者の眼差をそのようなものとしては見ない。私がその眼差に認めるのは意識の存 在である。あるいは、 私とは違った観点から芝生を見ている主観の存在である。ただし、 このような理解は対象知覚によっ ては決してもたらされないものだと考えられるのである。では、外的事物に向けられた眼差に対して、私はいかにして他 者の存在を読み取っているのであろうか。ここから、他者によって見られるという経験が他者理解にとって根本的なもの として言及されるのである。 眼差をとおして他者の存在を認知するには、自己がその対象でなければならないであろう。私は見られているという経 験が他者を現前させるのであって、この経験がなければ他者が何かを見ているという認知は成立しないであろう。 「 眼 差 を と ら え る と い う こ と は 世 界 の 中 の 対 象 と し て の 眼 差 を 理 解 す る こ と で は な く( こ の 眼 差 が わ れ わ れ に 向 け ら れ ている場合は別として) 、眼差を向けられていることを意識することである」 (九) 引用が少々分かりにくいかもしれないが、ポイントは眼差そのものの知覚と眼差を向けられているということの認知と の 区 別 で あ り、 か つ 後 者 を 根 本 的 な も の と み な す と い う 主 張 で あ る。 実 際 に 他 者 の 眼 差 を 知 覚 す る こ と 以 上 に、 「 見 ら れ ている」と感じることの方が他者認知には深く関わっている。サルトルは、自分が見られているという経験の確実性から 私を見るものとしての他者の存在の確実性を導いているのである。見られているという経験は、私が私の存在から引き出 すことのできない独自の経験だからである。 「私はそれ 〔眼差としての他者の現前〕 を私から導きだすことはできない」 (一〇) 「 羞 恥 (honte) 」(一一) と い う 情 動 が こ の 経 験 に 必 然 的 に 伴 う と い う 点 を サ ル ト ル が 強 調 す る の は、 こ の よ う な 情 動 が 自 己 の 存 在 の み を 考 え る 場 合 に は 決 し て 意 味 を な さ な い も の だ か ら で あ る。 「 羞 恥 」 を 感 じ る こ と に お い て、 私 の 世 界 を 超 越

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サルトルの他者論と現代心理学 七 する存在が私に顕現するであろう。 だからこそこの経験は私以外の主観の存在の証明となりうるのである。 これに対して、 対象としていくら他者を観察したとしても、そこに他の主観の存在を確信することはできないであろう。換言すれば、そ の場合には自己の意識を超越した別の意識の存在を確信することはできないであろう。極論すれば、この場合には他者と はたんに私の想像物であるかもしれないのである。 したがって、私は見られているという経験が私に他者の存在を確信させた後でなければ、外的事物に向けられた眼差に 他者の存在を読み取ることはできないということになる。他者とは、 先ず始めに私を見る主観として顕現するのであって、 私 が 他 の 諸 事 物 の あ い だ に 知 覚 す る 対 象 と し て の 他 者 は、 こ の 主 観 と し て の 他 者 を 前 提 し て い な け れ ば な ら な い。 「 他 者 によって見られることは、他者を見ていることの真理である」 (一二) とサルトルがいうのはこの意味においてである。 まとめてみよう。たんなる事物とは異なる、私以外の主観の存在を私に知らせるのは眼差である。しかし、眼差がその ような力を持つのはそれが外的事物に向けられている限りにおいてではない。自分が見られているという意識を持つこと によって、言い換えれば自己が眼差の対象となることによって、他者という、私の世界を超越するもうひとつの主観の存 在が顕現するのである。 「私が眼差を向けられていると感じる限りにおいて、他者の超世界的な現前が私にとって実現するのである」 (一三) このように、他者の二種類の眼差のうち、 (2)自己に向けられた眼差が根本的なものであり、 (1)外的事物に向けられ た眼差はそこから派生するものにすぎないと考えられる。他者の眼差はまず自己に向けられたものとして理解されるから こそ、その後に自己から逸れて他の事物の方へ、世界の方に向けられた場合にも、それとして認知されうるのである。

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柴    田    健    志 八 以上、私はできる限りサルトル自身の意図に沿った形で『存在と無』における眼差の議論を再構成してみた。無論、こ の再構成には私自身の関心もはたらいている。サルトルが議論の中心に据えたのは、 (2)自己に向けられた眼差であり、 ( 1) 外 的 事 物 に 向 け ら れ た 眼 差 は 前 者 を 論 じ る 参 照 項 の 役 割 し か 持 っ て い な い。 私 は、 こ う し た 論 点 の 組 立 そ の も の に は手をつけていない。私はむしろ、 (2)が根本的な他者との関係であるというサルトルの論点を確認しつつ、 さらに(1) が(2)を前提しているという点をサルトルのもともとの議論よりも前面に出したにすぎないのである。というのも、そ うすることでサルトルの他者論の独創性が鮮明になると考えられるからである。 私がサルトルの他者論の独創性と考えているのは、他者という存在を二人称で理解するための精密な概念を作り出した という点である。その精密な概念が「眼差」にほかならない。 私の考えでは、他者に関する哲学的考察は、つねに三人称という観察者的視点で語られてきた。これが上記(1)外的 事物に向けられた眼差をとおして他者が理解されているとする視点である。しかし、このような三人称の視点では他者の 存在はじつはリアルにとらえられない。他者理解の構造をリアルにとらえるには、他者を二人称に置いて考えてみる必要 がある。そしてそのような態度を徹底させたとき、 (2)自己に向けられた眼差が語られうるのである。 そこで以下では、三人称の視点の問題点を示すことによってサルトルの他者論の独創性をさらに追求してみなければな らない。そのために、私は哲学的な他者論ではなく、むしろ現代の発達心理学の研究成果を参照することにした。その理 由 は 二 つ あ る。 第 一 に、 「 視 線 」 な い し「 注 意 」 と い う 主 題 が 発 達 心 理 学 に お い て は つ ね に 重 要 な 研 究 主 題 と し て 取 り 扱 われてきたという点を挙げなければならない。発達という観点からすれば、他者の視線や注意を認知するということが個 体の社会的認知発達にとって重要なものであるという理解が研究者たちに共有されているのである。哲学的な文献にはこ

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サルトルの他者論と現代心理学 九 れと比較すべき研究の蓄積は存在しないであろう。第二に、発達心理学における近年の動向において、視線の三人称的な 取 扱 い か ら 二 人 称 的 な 取 扱 い へ の シ フ ト が 生 じ て い る と い う 理 由 が 挙 げ ら れ る。 こ の シ フ ト の 意 味 を 問 う こ と に よ っ て、 三人称の視点からの研究が他者の理解にとっては不適切なものであるという点を具体的に示すことができるのである。

  

 

人称の問題

発達心理学においては幼児が他者の視線を認知するメカニズムを研究する際の視点として、三人称の観察者的視点が支 配的であった。すなわち、幼児が大人の行動を観察によって理解しているという視点から認知の発達理論が構築されてき た。その理論によれば、 幼児が大人 (他者) と注意を共有するのは生後九ヶ月以降である。この時期から、 幼児は意図を持っ た存在として他者を認知すると考えられている。これは認知の発達に関して重要な局面である。なぜなら他者が意図を持 つということを理解することによって、他者に心的な性質が付与されると考えられるからである。いうまでもなく、社会 的 認 知 (social cognition) 」 の 中 核 を な す「 マ イ ン ド・ リ ー デ ィ ン グ 」 の 能 力 は、 他 者 を 心 的 な 性 質 を 持 っ た 主 体 と み な す こと (mentalizing) を前提している。 しかし、それ以前に何が生じているかについては、じつは理論的な空白が生まれてしまっている。しかも、この時期を 理論的に空白にする限り、なぜ九ヶ月以降に「共同注意」が突然生じるかを説明できない。この問題点について、近年注 目されている研究に目を向けることによって明らかになってくるのは、この理論的空白が三人称の視点に起因していると いう点である。

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柴    田    健    志 一〇 発達心理学の分野における支配的な見解の典型は、マイケル・トマセロの学習理論の中に見出すことができる。トマセ ロの学習理論は、生命進化の中でヒトが占める特異な位置の認識を背景にしている。ヒトが地球上に現れた時期はおよそ 二百万年前に設定されるが、二百万年という時間は進化論的には極めて短い時間である。それだけの間にヒトが高度な文 明を達成しえた理由は何か。トマセロはそこに「学習」を見出した。つまり、ある個人ないし集団が発明したことを、別 の個人ないし集団が学習しかつそこに改良を加えることで文化が累積的に継承され、極めて短い時間の間に飛躍的な文化 の発展がなされえたのである。 トマセロのいう「学習」とは、厳密には「文化学習」であり、他者の行為の外面的な反復とは区別される。 「文化学習」 に不可欠な条件は他者の意図を理解する能力である。 「 こ の よ う に 他 者 を 自 己 と 同 じ く 意 図 を も っ た 主 体 と し て 理 解 す る こ と は、 ヒ ト の 文 化 学 習 に と っ て 決 定 的 な こ と で あ る」 (一四) ただたんに真似るのではなく、その意図を理解した上で真似ることによって、文化の継承および発展が可能になる。トマ セロは、彼自身の研究を含む霊長類研究の成果を踏まえ、霊長類の中でこのような能力が認められるのはヒトだけである と結論している。 「 経 験 的 証 拠 の 圧 倒 的 多 数 は ヒ ト だ け が 同 種 の も の を 自 分 と 同 じ く 意 図 を 持 っ た 主 体 と し て 理 解 で き、 そ の 意 味 で ヒ ト だけが文化学習に参与できるということを示している」 (一五)

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サルトルの他者論と現代心理学 一一 このような進化論的な認識を背景にして、生命進化の過程でヒトが持つことになった他者理解の能力が個体発生におい てどのように発現してくるかを明らかにすることがトマセロの学習理論の課題となる。トマセロの問いは次のようなもの になるだろう。 [a] 幼児はいつから大人(他者)の意図を理解するようになるのか [b] 幼児はどのようにして大人(他者)の意図を理解するようになるのか   [a]については生後九ヶ月から十二ヶ月の期間という解答が提出されている。また [b]については、大人(他者)と注意を共 有するという事象すなわち「共同注意 (joint attention) 」が重視される。 「 生 後 九 ヶ 月 ご ろ か ら 十 二 ヶ 月 に な る と、 一 群 の 新 し い 行 動 が 発 現 し は じ め る。 そ の 行 動 は 初 期 の 行 動 の よ う な 二 項 的 な ものではなく、対象や人との相互作用を調整することを含んでいるという意味で三項的なものである。そこから生じるの は、 子 供 と 大 人、 そ し て 両 者 が 注 意 を 向 け る 対 象 な い し 出 来 事 か ら 成 る 指 示 の 三 角 形 で あ る。 共 同 注 意 (joint attention) という用語は、ほとんどの場合、社会的スキルと社会的相互作用から成るこうした複合物全体を特徴づけるために用いら れてきた」 (一六) 大人(他者)が注意を向けている対象に自分も注意を向けるという行為において、意図を持った存在としての他者理解 が 認 め ら れ る と い う の が ト マ セ ロ の 主 張 で あ る。 「 共 同 注 意 」 に 引 き 続 い て「 視 線 追 従 」 や「 指 差 し 」 な ど が 発 現 す る こ

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柴    田    健    志 一二 とからも、トマセロの主張は妥当なものであると考えられる。 し か し、 こ こ で 次 の 問 題 点 を 指 摘 し な け れ ば な ら な い。 「 共 同 注 意 」 が 見 ら れ る の が 生 後 九 ヶ 月 以 降 で あ る と い う の は 事実であろう。私はこうしたデータに異議を差し挟む気はない。また「共同注意」が意図の存在に対する幼児の理解を示 すものであるという主張にも特に異議はない。問題は、この二点を認めても、この時期以前に幼児は何らかの意図を持っ た主観の存在を認知していないという結論は出てこないという点である。実際、幼児は生後から継続的に大人(他者)の 視 線 に 曝 さ れ て い る し (一七) 、 視 線 に 対 し て 情 動 的 な 反 応 を し て い る の が 観 察 さ れ る。 し か し こ の よ う な 事 実 は 発 達 心 理 学 の支配的なパラダイムの中ではほとんど問題にされてこなかった。トマセロにおいても同様である。 しかし、この時期を理論的空白として残しておくことは「共同注意」を中心にした支配的パラダイムにとっては理論的 なリスクを生じさせるであろう。なぜならこのパラダイムの内部で次のような問いが問われる余地があるからである。 [c] 幼児はなぜ生後九ヶ月に突然他者と注意を共有するのか [d] 幼児はどうしてたんなる眼の方向に意図の存在などを読み取りうるのか これらを問うならば、九ヶ月以前を真剣に検討せざるをえないであろう。そうでなく、どこまでも九ヶ月以後の発達に固 執するなら、 生後九ヶ月以降に発現するようプログラムされた何らかの生得的能力を想定せざるをえないであろう。実際、 バロン=コーエンの「注意共有メカニズム (sharing attention mecanism; SAM) 」の理論 (一八) などはそのような生得仮説に ほかならない。しかし、このような抽象的な仮説によっては幼児の他者理解はリアルにとらえられない。           九ヶ月以前を正面から問題にすることによって、こうした問題点は鮮明なものになるはずなのである。そこで発達心理

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サルトルの他者論と現代心理学 一三 学における近年の動向に注目してみなければならない。意図を持った存在としての他者の理解が「共同注意」においては じめて成立するという見方は、幼児が大人(他者)の存在を三人称の観察者的視点から理解しているという前提から出て くると考えられる。すなわち、幼児と大人(他者)との相互的なやりとりの中においてではなく、大人(他者)を外から 観察するという位置に幼児を置いた場合に、幼児が意図を持った主体の存在を理解しているということが明瞭になるのが 九ヶ月以降だということなのである。 しかし、三人称の視点のみから幼児の他者理解を考察すべき理論的必然性はじつは存在しない。それゆえ、それ以前に 何 が 生 じ て い る か を 考 察 す る 必 要 が あ る。 そ し て そ の 際、 「 共 同 注 意 」 に お い て と 同 様 に 大 人( 他 者 ) の 視 線 に つ い て の 理解がポイントとなるであろう。九ヶ月以前の幼児は大人(他者)の視線をどのように理解しているのであろうか。この 時期にはまだ「共同注意」が成立していないがゆえに、幼児と大人(他者)との関係は、これらに外的対象を加えた「三 項関係」ではなく、幼児と大人(他者)のみから成る「二項関係」である。この関係の特徴は、幼児と大人(他者)が直 接的に向き合っているという点にある。言い換えれば、ここで幼児は二人称の視点で大人(他者)を理解せざるをえない のである。 では、二項関係においては、幼児にとって大人(他者)の存在はどのようなものとして現れてくるであろうか。いうま でもなく、 自分を見るものとして現れてくるであろう。二人称の視点で大人(他者)と向き合う限り、 幼児はその視線(眼 差)から逃れることはできない。問題は、生後九ヶ月以前の時期において、視線がどのように受け止められているかであ る。自己を対象として見つめる主観の存在に幼児は気づいているのであろうか。 こ こ で ヴ ァ ス デ ヴ ィ・ レ デ ィ の 優 れ た 研 究 を 参 照 し て み な け れ ば な ら な い。 レ デ ィ は、 幼 児 が 大 人( 他 者 ) の「 注 意 (attention) 」を認知するのは生後九ヶ月以降に成立する「共同注意」においてであるという通説に対して、 それ以前の「相

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柴    田    健    志 一四 互注意 (mutual attention) 」においてすでに注意は認知されていると主張している。 「 生 後 一 年 目 の 終 わ り に 生 じ る 外 的 対 象 へ の 共 同 注 意 は、 幼 児 が 他 の 人 々 の 注 意 を 発 見 す る 段 階 の 到 来 を 告 げ る も の で あ る と 一 般 に は 信 じ ら れ て い る。 〔 こ れ に 対 し 〕 私 は、 生 後 数 ヶ 月 の 間 に 生 じ る 相 互 注 意 が、 す で に 注 意 の 方 向 に 関 す る 認知を含んでいると主張したい」 (一九) では、大人(他者)の注意はどのような仕方で認知されているのであろうか。重要な点は、幼児が認知すべき注意は、ほ かならぬ自己に向けられた注意であるという点である。この点を先ず鮮明に認識しておかねばならない。 「 他 者 の 注 意 が 何 か に 向 け ら れ て い る と い う こ と は、 生 後 わ ず か 数 ヶ 月 の 時 点 で す で に 理 解 さ れ て い る。 た だ し、 そ の 目標が幼児〔自己〕であるという条件においてである」 (二〇) このように大人(他者)の注意が自己に向けられたとき、 幼児はそれをどのように認知していると考えられるであろうか。 誰もがごく身近に経験しているとおり、大人が幼児に注意を向けると情動的な反応が見られるであろう。レディは、注意 の存在はまさにそのような仕方で認知されていると主張するのである。 「幼児は生後きわめて早い時期から他者達の注意を情動的に認知している」 (二一)

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サルトルの他者論と現代心理学 一五 例 え ば、 「 幼 児 は 大 人 が 彼 ら と 眼 を 合 わ せ た と き の 方 が 眼 を 外 ら し た と き よ り も よ く 笑 う 」(二二) で あ ろ う。 し か し、 こ こ で 特に注目すべき反応は、大人(他者)から注意を向けられたときに幼児がしばしば当惑した反応を示すという点である。 「 彼 ら〔 幼 児 〕 は、 他 者 の 眼 差 (gaze) か ら 逃 れ ら れ な い 場 合、 あ る い は 彼 ら に 向 け ら れ た 眼 差 が 無 表 情 な も の で あ っ た り何か意味ありげなものであったりする場合には当惑を示すものである」 (二三) さ ら に 幼 児 は「 眼 差 を 避 け る 」(二四) こ と に よ っ て 自 分 に 向 け ら れ た 注 意 に 対 し て「 無 関 心 を 装 う 」(二五) こ と も あ る。 し か し 最 も 注 目 す べ き 反 応 は、 幼 児 が 見 ら れ る こ と に 対 し て「 照 れ た (coy) 」(二六) 反 応 を 示 す と い う 点 で あ る。 こ れ ら の こ と は すべて大人にも起こりうる。つまり、眼差に対する大人と同様の反応がすでに生後数ヶ月の幼児において認められるので ある。この点をもとに、自己を対象として知覚する、意図を持った主体の存在は、すでに九ヶ月以前に理解されていると 主張することができる。 このように、レディの議論は見られる経験によって生じる情動を重視することにもとづいて組み立てられている。サル トルとの類似はすでに明白であろう。サルトルは、他者から見られるという経験につねに「羞恥」が伴うという点を強調 していた。 サルトルにとってこの情動が他者を考察する際に重視された理由はすでに指摘しておいた。 繰り返していえば、 このような情動はたんに自己自身を眼中におく限り成立しないものであり、それゆえ自己の外部に自分を見る主観が存在 するということを確信させる条件であったからである。外的事物に向けられた眼差なら、あれはじつは機械の眼ではない かと懐疑することが可能である。しかし、いったん自己自身にそれが向けられるなら、そのような懐疑は成立しない。見 ら れ て い る と い う 経 験 は、 「 羞 恥 」 と い う 情 動 を と も な っ て 経 験 さ れ る が、 自 分 は じ つ は「 羞 恥 」 な ど 感 じ て は い な い の

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柴    田    健    志 一六 ではないかと懐疑することは不可能だからである。それゆえまた、外的事物に向けられた他者の眼差の理解は、自己に向 けられた眼差の理解から派生するものにすぎないと考えられるのである。 この最後の点について、レディもまたサルトルと同じ結論に達している。九ヶ月以前からそれ以後にかけて、幼児が大 人(他者)の注意に対して示す反応を丹念にたどっていくと、幼児が反応する大人(他者)の注意の対象が徐々に自己と いう対象から離れていくのが観察されるのである。すなわち、自己(二ヶ月以降)→自己の行為(七ヶ月以降)→自己が 手に持っている対象(九ヶ月以降)→外的対象(十ヶ月以降)→過去の出来事・不在の対象(十五ヶ月以降)というよう に (二七) 。 心理学的観察として卓越しているのは、自己の行為へ向けられた視線を自己そのものに向けられた視線とは区別するこ とで、自己という対象から本来の意味での自己以外の対象への移行がより連続的に理解できるようになっている点であろ う。なお、補足説明だが、自己と自己の行為を区別するのは、幼児の反応に明瞭な差異が見られるからである(この点は 後 述 )。 こ の よ う な 観 察 を も と に、 次 の よ う に 結 論 づ け る こ と が で き る。 他 者 の 注 意 は 先 ず 始 め に 自 己 に 向 け ら れ た も の として理解されるのであって、 「共同注意」における他者の注意の認知はそこから派生したものにすぎないのだ、と。 「 自 己 は、 幼 児 が 経 験 す る 他 者 の 注 意 の 第 一 の 目 標 で あ っ て、 ま さ に こ の 経 験 を も と に し て、 そ の 他 の 主 題 に 向 け ら れ た他者の注意は理解されうるのである」 (二八) このように、レディは「共同注意」以前を考察することによって、他者の注意はすでに生後数ヶ月の時点で認知されてい る と い う 点 を、 自 己 に 向 け ら れ た 眼 差 に 着 目 す る と い う サ ル ト ル 的 な 発 想 に よ っ て 主 張 し、 「 共 同 注 意 」 に お け る 他 者 理

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サルトルの他者論と現代心理学 一七 解をむしろ派生的なものとして位置づけている。 すでに指摘した「共同注意」理論の内在的問題点がこれで解消されるはずである。 [c] 児 は な ぜ 生 後 九 ヶ 月 以 降 に 突 然 他 者 と 注 意 を 共 有 す る の か。 ─ ─ こ の 点 に つ い て は、 幼 児 は も っ と 早 く か ら 他 者 の注意に気づいていると考えることで問いそのものが解消するであろう。 [d] う し て た ん な る 眼 の 方 向 に 意 図 の 存 在 な ど を 読 み 取 り う る の か。 ─ ─ こ の 点 に つ い て は、 視 線 の 目 標 が 自 己 で あ る 場 合 に は 注 意 な い し 意 図 の 存 在 は 直 接 的 に 理 解 さ れ る の で、 「 共 同 注 意 」 に お け る 眼 の 方 向 に 意 図 が 読 み 取 ら れ る の はその延長線上で可能になると考えることができるであろう。   さて、このような発達心理学の研究成果を参照することによって、サルトルの他者論のどのような側面が鮮明になって くるかという点に注目しなければならない。幼児における他者理解という問題を、三人称の視点の問題点を明確にすると いう方向で考察してみた結果として徐々に鮮明になってきたのは、三人称の対案としての二人称の視点が、情動的な理解 といういまひとつの視点と深く結びついているという点である。この点から以上の考察を見直してみよう。 個体発生の初期の段階ですでに、視線の中に意図を持った主体の存在が認知されていると考えなければ、生後九ヶ月以 降に生じる「共同注意」という現象はじつは十分に説明できない。ところが、九ヶ月以前の段階では幼児はただ自己に向 けられた他者の視線に情動的に反応するにすぎない。しかし、このような情動的な反応こそがじつは根本的な意味におけ る幼児の他者理解であると考えれば、九ヶ月以降の発達は無理なく説明できる。そして実際、幼児の情動的な反応がすで

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柴    田    健    志 一八 に「 理 解 」 で あ る と 考 え る こ と に 矛 盾 は 存 在 し な い。 こ の 点 に 矛 盾 を 見 出 す の は、 「 理 解 」 と い う こ と を 観 察 者 的 な 視 点 からの知覚にもとづく理解という狭い意味に解する限りにおいてであろう。ところが、そのような観察者的な視点からも たらされる他者理解は蓋然性の粋を出ず、むしろ情動的な理解に支えられていると考えられる。すなわち情動的な理解が 知覚にもとづく理解の可能性の条件となっていると考えられるのである。 すでに指摘したように、見られる経験から他者の存在が確信されるというサルトルの他者論において重要な役割を果た すのは、自分が見られている存在であるということが「羞恥」という情動によって意識されるという点であった。他者の 存在理解は、対象知覚をとおしてもたらされるものではない。おのれの存在が全身で経験する情動を通して顕現するもの な の で あ る (二九) 。 こ の 経 験 は「 お そ ら く 他 者 が 存 在 す る で あ ろ う 」 と い う よ う な 理 解 を も た ら す の で は な く、 「 他 者 は 存 在する」という断言の形でその存在を認めさせるであろう。   このように、サルトルの他者論を規定するのは、三人称の観察者的視点に対する二人称的な視点の優位であるが、重要 なのはこのことが含意する以下の点である。サルトルにおいては、情動的な経験による理解が対象知覚による理解よりも 明らかに優位におかれている。それが二人称の視点の優位ということの意味なのである。 発達心理学の研究成果を参照することによって鮮明になってくるのは以上のような点である。以下ではサルトルの他者 論と発達心理学における幼児の認知発達理論との平行関係をさらに詳細にたどることでこの点を敷衍しよう。 しかし、それと同時に、私はこの作業をとおしてもうひとつの重要な点を指摘していくつもりである。それは、サルト ルにおいて、情動的な理解が対象知覚による理解よりも優位にあるということは、論理的なものに対する非論理的なもの の優位を意味しない、という点である。むしろ、情動にも堅固な論理が内在しているという主張がサルトルの主張である と考えられるのである。サルトルの他者論の意義を再評価するのであれば、 この点の指摘を欠くことはできないであろう。

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サルトルの他者論と現代心理学 一九 無論、以下の考察の重点はサルトルの他者論と発達心理学の比較対照に置かれることになるであろう。この考察をとおし て、サルトルの他者論が持つ、情動的理解の根源性という主題をより深い水準で確認しなければならない。

  

 

情動的理解

情 動 的 な 経 験 に よ る 他 者 理 解 が 個 体 発 生 の 初 期 に 生 じ、 そ れ が 以 後 の 対 象 知 覚 に よ る 理 解 を 条 件 づ け て い る と す れ ば、 情動的理解の優位という視点をとることは不可避である。では、すでに対象知覚を世界認識の構図の中心に持つ成人の他 者理解においてはどうであろうか。ここにおいてもやはり情動的理解が優位にあると考えられる。なぜなら、個体発生に おいて情動的理解が知覚的理解に先行するという関係は、すでに個体の成長が完了した時点においては、構造的に前者が 後者の土台となるという形で維持されていくと考えられるからである。サルトルの言葉を繰返すなら、 情動的な理解は 「根 本的」であると考えられるのである。 サルトルの他者論の独創性を認識するためには、この論点の重要性を鮮明にしなければならない。そのために、この論 点をさらに敷衍していこう。そこで以下では、他者の眼差を感じることから生じる情動の種類について、サルトルの哲学 的考察とレディの実証的考察との平行関係をもっと詳しく対照させて示してみることにしよう。 サルトルは「羞恥 (honte) 」以外に「恐怖 (crainte) 」(三〇) と「自負 (fierté) 」(三一) を挙げている。サルトルによれば、 これら はすべて他者の眼差を感じることによって発生すると考えられるものである。注目すべき点は、これら三つの情動はいず れも幼児が生後九ヶ月以前に示すものであることがレディによって報告されているという点である。まずサルトルの議論

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柴    田    健    志 二〇 を整理しよう。 サ ル ト ル に よ れ ば、 他 者 の 眼 差 を 感 じ る と い う 経 験 は、 「 羞 恥 」 と い う 情 動 が お の れ の 存 在 を 覆 い 尽 く し て し ま う 経 験 であった。確かに、日常の経験においても他者の眼差はしばしば「羞恥」を感じさせるものである。しかし、見られると いうことはそもそもなぜ恥ずかしいのであろうか。鍵穴から部屋の中を覗くという、哲学史上でも傑出した例が『存在と 無 』 に 登 場 し て い る (三二) 。 そ ん な 行 為 を 誰 か に 見 ら れ る の が 恥 ず か し い こ と で あ る こ と は い う ま で も な い。 し か し、 こ の 例のみに固執することは誤解を招きやすい。なぜならサルトルがこの例を使って示そうとしていることは、このような恥 ずべき行為を実際に見られるということよりも、むしろ自分が見られていると感じること自体が「羞恥」をもたらすとい う点だからである。すなわち自己が誰かの対象になっていると感じること自体がこのような情動をもたらすと考えられる のである。 では、サルトルのいう「羞恥」とは、厳密にはどのような情動を指しているのであろうか。私にとって私は対象ではな い。ところが他者にとっては、私は対象となりうるであろう。いや、他者にとってのみ、私は対象となりうる。では、他 者にとっての私は私自身とは何の関係もないのであろうか。サルトルはそうではないという。例えば、自分の性格につい ての他者の評価を自分に関係のないものとして無視しうるであろか。 「 他 者 が 私 の 性 格 に つ い て 記 述 し た も の を 私 が 見 せ ら れ る と き、 私 は 決 し て 自 分 の 姿 を そ こ に 認 め る わ け で は な い が、 そ れにもかかわらず私はそれが私であることを知る。人が私に提示するこの見知らぬ姿を、私はただちに引き受けるのであ るが、しかしそれが見知らぬ姿であることに変わりはない」 (三三)

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サルトルの他者論と現代心理学 二一 他者のみが知っている私を自分のものとすること (そうしないわけにはいかない) 、ここに 「羞恥」 の真の意味がある。実際、 人から褒められたとき( 「彼は優秀である」等々)に感じられるのは紛れもなく「羞恥」である。 「恐怖」 もこれと同じ構造から発生してくると考えられる。 「恐怖」 とは、 私にとっての私の存在 (サルトルのいう 「対自」 ) が、他者の眼差の対象となることで脅かされているという情動である。他者の眼差がもたらす私はいわば私ならざる私で ある。 しかしこの私ならざる私を、 私は自分の存在次元として引き受けざるをえない。 私ならざる私とは対象としての私 (サ ルトルのいう 「即自」 ) であって、 そのような存在の仕方は、 私にとっての私の存在の仕方と異なる。私にとっての私 (対自) の意味は、つねに自己の諸可能性に向けてその存在の所与性を超出していくことにあるからである。これに対して、対象 として存在するということはある性質をもつものとしてその所与性を凝固させてしまうことなのである。恐怖とは、私に とっての私(対自)が、他者にとっての対象としての私(即自)に飲み込まれ、後者が崩壊すると同時に前者も崩壊して し ま わ な い か と い う 危 惧 の 念 に ほ か な ら な い (三四) 。 こ の よ う な サ ル ト ル の 考 察 に は 現 実 性 が あ る。 実 際、 人 か ら も は や 評 価されなくなったとき、なお自己の諸可能性に向けておのれの存在を超出していくことは非常に困難なことであると感じ られないであろうか。 最 後 に「 自 負 」 を 考 え て み よ う。 「 自 負 」 は こ れ ら と 異 な っ て い る よ う に 見 え る。 し か し、 サ ル ト ル に よ れ ば、 「 自 負 は 根 源 的 な 羞 恥 を 排 除 す る も の で は な い 」(三五) 。 む し ろ、 「 自 負 が 打 ち 建 て ら れ る の は 根 本 的 な 羞 恥 す な わ ち 対 象 で あ る と い う 羞 恥 の 地 盤 の 上 に お い て で あ る 」(三六) 。 他 者 の 対 象 と な る こ と で 現 れ る 私 と は、 本 来 は 私 の 与 り 知 ら ぬ 私 の 姿 で あ る。 と こ ろ が こ の 他 者 か ら 与 え ら れ た 自 己 の 姿 に 対 し て「 自 分 に 責 任 が あ る と 認 め る 」(三七) と す れ ば、 そ こ か ら「 自 負 」 が 発 生 す る、 と サ ル ト ル は 指 摘 し て い る。 そ し て サ ル ト ル は こ の 情 動 を「 虚 栄 (vanité) 」(三八) と 言 い 換 え て い る。 な ぜ な ら 自 分 の与り知らぬ自分を自分で所有しようとするということは、人の眼に触れる次元でのみ自己たることを欲するということ

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柴    田    健    志 二二 を意味するからである。サルトルによれば「自負」ないし「虚栄」とは次のような情動である。 「 他 者 が 私 を 対 象 と し て 構 成 し て い る 限 り に お い て 他 者 が わ た し に 付 与 す る と こ ろ の こ の 美、 こ の 力、 こ の 精 神 を、 私 は あえて逆用することによって、賛嘆の感情もしくは愛の感情を他者に受動的に帯びさせようとする」 (三九) 対 自 が 即 自 を 引 き 受 け ざ る を え な い こ と が「 羞 恥 」( お よ び「 恐 怖 」) を 作 り 出 し て い た の に 対 し、 「 自 負 」 に お い て は 対 自としての存在からあえて眼を背けることによって対自と即自の葛藤が避けられようとしている。この意味において、 「自 負」は「羞恥」からの「逃亡的な反応」 (四〇) として考えられるのである。 さて、これら三つの情動は、他者の眼差を感じる限りでのわれわれの存在を全体として規定するものとして言及されて いる。われわれが他者という超越的な存在を見出すのは、これらの情動を自己の内に経験することを通してである。 しかし、情動は、例えば痛みのようなたんなる内的感覚とは異なるという点に注意すべきである。情動による他者理解 は対象知覚にもとづく客観的な他者理解とは対立するが、にもかかわらずその中には一種の論理が内在しているという点 を認めなければならないのである。例えば、 他者が提示する私の姿は私ならざる私であるという論理なしに、 いかなる「羞 恥」もありえまい。サルトルが丹念に記述しようとしているのはこの論理なのである。 この点は、情動の論理性についての短い迂回にすぎない。 では次に、実証的な水準でこれら三つの情動に対応すると考えられるものを見ていかなければならない。驚くべきこと に、 他 者 理 解 に と っ て 根 本 的 な 役 割 を 果 た す 情 動 と し て サ ル ト ル が 言 及 し た 三 つ の 情 動 は、 「 共 同 注 意 」 以 前 の 幼 児 が 他 者の眼差に対して示す反応の中にすべて見出されるのである。

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サルトルの他者論と現代心理学 二三 サルトルが言及したのは 「羞恥」 「恐怖」 「自負」であった。 レディの研究では 「照れ (coyness) 」「当惑 (distress) 」「巧みな行為 (clever action) 」および「お道化 (clowning) 」が言及されている。 こ の う ち、 「 照 れ 」 と「 当 惑 」 に つ い て は す で に 言 及 し て お い た。 こ れ ら が サ ル ト ル の「 羞 恥 」 と「 恐 怖 」 に 対 応 す る こ と は い う ま で も な い。 こ こ で は、 「 巧 み な 行 為 」 お よ び「 お 道 化 」 が サ ル ト ル の い う「 自 負 」 に 対 応 す る も の で あ る と いう点を示しておかねばならない。 「 照 れ 」 や「 当 惑 」 が 生 後 二 ヶ 月 か ら 見 ら れ る の に 対 し て、 生 後 六 ヶ 月 以 降 に は い く つ か の 新 し い 反 応 が 見 ら れ る よ う になる。 「巧みな行為」 および 「お道化」 はその中のひとつである。 これら以外に言及されているのは 「見せびらかし (showing off) 」 と「 焦 ら し (teasing) 」 で あ る。 前 述 し た よ う に、 幼 児 が 反 応 す る 注 意 の 対 象 が、 自 己 そ の も の か ら 自 己 に よ っ て 遂 行される行為へと移行しているという点に留意しておこう。 さてそこで、 「巧みな行為」および「お道化」の内容を見てみよう。 「巧みな行為」──人から褒められた行為を反復し、再び褒められようとすること (四一) 。 「お道化」──人を笑わせた行為を反復し、再び笑わせようとすること (四二) 。 ありふれた出来事である。しかし、これらが他者の対象としての自己の姿に自己自身を同一化させるという構造をもっ ているという点に注意すべきである。それはサルトルのいう「自負」の構造にほかならない。もっとも、これらは厳密に は情動的反応とはいえないかもしれない。しかし重要な点はむしろ、他者によって自己に与えられた性質を使って他者に 働きかけるという、サルトルのいう「自負」の構造がここに明瞭に認められるという点であろう。

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柴    田    健    志 二四 こ の よ う に、 用 語 の レ ベ ル ま で 同 一 で は な い が、 内 容 の 上 で は サ ル ト ル と の あ い だ に 明 瞭 な 対 応 が 見 ら れ る の で あ る。 レディによれば、これらの情動的な反応からは、幼児が他者の存在理解を持っていることが読み取られる。このような観 点にたって、レディはさらに情動的な反応という仕方での他者理解が、それ以後の他者理解を条件づけていると主張して いる。 「 注 意 に 対 す る 情 動 的 な 反 応 は、 有 機 体 が 注 意 の 存 在 を 理 解 し て い る と い う こ と を 決 定 的 に 示 唆 す る も の な の で あ っ て、 それは相互注意において最も強力に生じ、おそらく注意に関するさらなる理解の媒介となっているものなのである」 (四三) このように、情動的な他者理解が個体発生の初期に成立し、それが後のより洗練された他者理解を条件づけているとす れば、 この関係は成人の他者理解においても構造的に維持されうるであろう。レディは、 幼児の見せる情動的な反応は「成 人 の 情 動 的 な 反 応 に と て も よ く 似 て い る 」(四四) と 述 べ て い る が、 レ デ ィ の 基 本 的 な 主 張 が 正 し け れ ば、 こ れ ら が よ く 似 て いることは当然であるといわねばならない。むしろ、これらが似ているという事実そのものが、レディの主張の正しさを 裏付けていると考えられるのである。 まとめよう。われわれの他者理解の根底に存在するのは対象知覚ではなく情動的な反応である。発達心理学の成果を参 照してこの点を敷衍して示すことがここでの目的であった。われわれの他者理解は本質的なところでは情動的反応にもと づいているというのがサルトルの主張だが、そのような主張は個体発生の観点から見て妥当なものであることが指摘しう るのである。

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サルトルの他者論と現代心理学 二五 自己の意識の経験に肉薄する現象学的なアプローチには、このように意識の原始的な層にまで届くような射程が秘めら れている。サルトルの他者論の独創性は、このアプローチを徹底することで生み出された。サルトルが根本的なものとし て 見 出 し た 経 験 の 層 は、 個 体 発 生 か ら み て 原 始 的 な も の で あ る と 考 え ら れ る。 サ ル ト ル の 他 者 論 が 持 つ 異 様 な 説 得 力 は、 この点に起因していると考えられるのである。これが以上の考察によって主張しうる結論である。

  

研究主題としての「眼差」──むすびにかえて

哲学と心理学を対照させたこの比較研究は、現代の心理学の最新の成果をもとに、すでに古典となったサルトルの哲学 の独創性を検証するという形で行われたものである。この目的についてはすでに結論を述べておいた。それをここでもう いちど繰返す必要はあるまい。ここではむしろ、哲学と心理学の見地を総合的に取り扱い、他者理解という問題について ひとつの提案をしてみることにしよう。一般的な研究主題として「眼差」を位置づけることによってこの論文を閉じるこ とがその目的である。 認 識 の 出 発 点 を 主 観 に 設 定 す る 近 世 の 哲 学 に お い て、 他 者 の 存 在 理 解 は ひ と つ の ア ポ リ ア を 構 成 し て き た。 他 者 と は、 私の意識を超越する別の意識を持った存在である。ところが近世哲学の前提によれば、意識の存在は本人によってのみ直 接的に認識されうるものである。すると、どうして私に他者の存在が理解できるかは理論的にはアポリアとならざるをえ ない。 このような問題構成はじつは現代哲学においても依然として存在しているという点に注意すべきである。他者の心は直

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柴    田    健    志 二六 接的に観察できないが、われわれはその存在を確かに知っている。そこで、観察できない存在者を認識するには観察可能 な 事 実 に も と づ く 何 ら か の 推 論 に 訴 え る 必 要 が あ る と い う 科 学 の 方 法 が 参 照 さ れ、 わ れ わ れ は 心 に 関 す る 暗 黙 の「 理 論 」 によって他者の心を認識しているという説が提案されるのである。これが現代哲学において「理論理論」と称される立場 で あ る。 因 に、 こ の 立 場 は セ ラ ー ズ に 代 表 さ れ る「 機 能 主 義 (functionalism) 」 か ら 発 展 し て き た も の で あ る (四五) 。 ま た こ こでは、この立場が多くの心理学者によって共有されているという事実にも注目しておく必要があるだろう。すでに本論 で も 触 れ た バ ロ ン = コ ー エ ン の 他 に も、 メ ル ツ ォ フ (四六) の よ う な 最 も 影 響 力 の あ る 心 理 学 者 が こ の 立 場 を 採 用 し て い る の である。 これに対し、他者の心は直接的に観察できないという同じ前提に立ちつつ、他者の心の理解は「理論」によるのではな いと主張する立場が存在し、 「理論理論」派と対立する議論を提出している。 「シミュレーション理論」と称されるその立 場によれば、自己の心の状態だけが直接的に認識しうるものであるのだから、他者の心の理解は自己の心についての理解 にもとづいていると考えるほかない。すなわち、われわれが他者を理解する際には、自分があたかも他者になった ふり 0 0 を して、そのとき自分に生じる心理状態から他者の心理状態が把握されている、というのである(シミュレートとはふりを するという意味である) 。しかし、 私の考えによれば、 「シミュレーション理論」 という新しい名称の理論は、 リップスの 「感 情移入」説ないしはミルの「類比」説といった、十九世紀思想の焼き直しにすぎない。しかも、ここで認識されているの は 他 者 の 心 理 状 態 で は な く た ん に 自 己 の 心 理 状 態 で あ る こ と は 明 白 で あ る。 し か し、 こ の 立 場 は ゴ ー ル ド マ ン (四七) の よ う な 哲 学 者 に よ っ て 強 力 に 擁 護 さ れ て い る。 ま た、 心 理 学 者 で こ の 立 場 を 採 用 す る の は、 本 論 で も 取 り 扱 っ た ト マ セ ロ (四八) である。 こ の よ う に、 他 者 の 存 在 と い う 近 世 哲 学 の ア ポ リ ア は、 「 社 会 的 認 知 」 と い う 主 題 の 下 に、 現 代 の 哲 学、 心 理 学 に お い

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サルトルの他者論と現代心理学 二七 て も 依 然 と し て 議 論 を 呼 ぶ 争 点 と な っ て い る。 ま た、 こ の 論 争 に は、 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン の 研 究 で 知 ら れ る ガ レ ー ゼ (四九) の ような脳神経科学者も参加している。そしてこのような理論的対立をとおして明瞭に浮かび上がってくることは、これら の理論的立場が他者を三人称の観察者的視点でとらえようとする点を共有しているということである。しかし、観察者と いう視点をとり続ける限り、何が他者の理解を可能にしているかをリアルに認識することはできず、かえって理論的なリ スクを生み出しているという点に留意しなければならない。他者理解についてのリアルな認識は、全く逆に、他者から観 察される位置におのれを立たせることによってもたらされるであろう。サルトルの他者論の教訓的な意義はこの点に存す る。 ギ ャ ラ ガ ー (五〇) の よ う な 現 象 学 者、 あ る い は ホ ブ ソ ン (五一) の よ う な 心 理 学 者 の よ う に、 二 項 関 係 に お け る 相 互 作 用 や 情動的関係を強調することは確かに重要である。しかしそれのみでは視点の決定的な転換はもたらされえない。近世哲学 のアポリアから脱出するには、 被 0 観察者という視点の導入が不可欠なのである。この意味において、哲学ならびに心理学 の重要な研究主題として「眼差」に注目することは、検討の余地のある提案であると思われる。 注 (一) 現 象 学 の 内 部 に 限 っ て も サ ル ト ル の 他 者 論 は 異 彩 を 放 っ て い る。 サ ル ト ル の 他 者 論 の 現 象 学 に お け る 位 置 づ け に 関 し て は 次 の研究を参照。シェラー、ハイデガー、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティの理論が対照されている。 Zahavi[2001] (二) Joint Attention と い う 同 じ タ イ ト ル で 一 九 九 五 年、 二 ○ ○ 五 年 に そ れ ぞ れ 別 の 編 者 に よ る 論 文 集 が 出 て い る。 こ れ ら は ア ン ソ ロ ジ ー で は な い。 前 者 に は 十 二 本、 後 者 に は 十 四 本 の 書 き 下 ろ し 論 文 が 収 録 さ れ て い る。 Moore & Dunham(eds.)[1995], Eilan et al.(eds.)[2005]

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柴    田    健    志 二八 (三) Reddy[2000, 2003, 2005] (四) Sartre[1943] p.292 (五) 哲 学 史 上 き わ め て 重 要 な テ キ ス ト で あ る。 テ キ ス ト 全 体 を 引 用 す べ き で あ ろ う。 「 た ま た ま 私 は い ま、 通 り を 行 く 人 々 を 窓 か ら な が め る。 そ し て、 蜜 蝋 の 場 合 と 同 じ く 習 慣 に よ っ て、 人 間 そ の も の を 見 る と い う。 し か し 私 が 見 る の は 帽 子 と 衣 服 だ け で は な い か、 そ の 下 に は 自 動 機 械 が 隠 れ て い る か も し れ な い で は な い か。 け れ ど も 私 は、 そ れ は 人 間 で あ る と 判 断 し て い る。 同 じ よ う に、 私 は 眼 で 見 る の だ と 思 っ て い た も の を も、 私 の 精 神 の う ち に あ る 判 断 の 能 力 の み に よ っ て 理 解 し て い る わ けなのである」 。 Descartes[1992] pp.188-189 (六) ibid. p.426 (七) Sartre[1943] p.293 (八) ibid. p.293 (九) ibid.p. p.298 (一〇) ibid. p.311   サ ル ト ル は 明 示 し て い な い が、 こ の 論 証 ス タ イ ル は 明 ら か に デ カ ル ト の『 第 三 省 察 』 に お け る 神 の 存 在 証 明 を 踏 襲 し て い る。 自 己 に 由 来 し な い も の が 自 己 の 内 に 経 験 さ れ る こ と を 根 拠 に し て 自 己 を 超 越 す る も の の 存 在 が 導 か れ て い る か ら で あ る。 他 者 論 に お い て ま っ た く 同 じ 論 証 ス タ イ ル に 訴 え た の は レ ヴ ィ ナ ス で あ る。 た だ し、 レ ヴ ィ ナ ス は 明 示 的 に デ カ ル ト に 言 及 し て い る。 Levinas[1961] pp.169-170   し か も、 レ ヴ ィ ナ ス は サ ル ト ル が あ え て 避 け て い る「 無 限 」 の 観 念 を も デ カ ル ト か ら 受 け 継 い で い る の で あ る。 こ の 論 文 で は 取 り 扱 わ な い が、 こ の 点 は サ ル ト ル と レ ヴ ィ ナ ス の 他 者 論 を 対 照 し て 論じる際の重要なポイントである。 (一一) ibid. pp.259-261 (一二) ibid. p.296 (一三) ibid. p.309 (一四) Tomasello[1999] p.6

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サルトルの他者論と現代心理学 二九 (一五) ibid. p.6 (一六) ibid. p.62 (一七) 「子供たちは、彼らを見つめる他者の眼差に棲みつかれた世界の中で成長する」 。 Rochat[2004] p.259 (一八) こ れ 以 外 に「 視 線 検 出 器 (eye direction detector; EDD) 」「 意 図 検 出 器 (intention detector; ID) 」 の 存 在 が 想 定 さ れ て い る。 Baron-Cohen[1995] pp31-58 (一九) Reddy[2003] p.397 (二〇) Reddy[2005] p.95 (二一) Reddy[2003] p.399 (二二) ibid. p.397 (二三) ibid. p.397 (二四) ibid. p.397 (二五) ibid. p.397 (二六) ibid. p.397 (二七) Reddy[2003] p.398, [2005] p.96 (二八) Reddy[2005] p.106 (二九) サ ル ト ル に お い て、 情 動 は た ん な る 心 身 の 状 態 と は 考 え ら れ て い な い。 『 情 動 論 素 描 』 に お い て す で に 情 動 は 存 在 そ の も の の次元で理解されている。 「情動とは、 「情動」という形式の下で実現するこの人間存在そのものである」 。 Sartre[1938/1995] p.26 (三〇) Sartre[1943] p.328 (三一) ibid. p.329 (三二) ibid. pp.298-299

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柴    田    健    志 三〇 (三三) ibid. p.314 (三四) ibid. p.327 (三五) ibid. p.329 (三六) ibid. p.329 (三七) ibid. p.329 (三八) ibid. p.330 (三九) ibid. p.330 (四〇) ibid. p.330 (四一) Reddy[2003] p.298 (四二) ibid. p.298 (四三) Reddy[2005] p.106 (四四) ibid. p.97 (四五) Goldman[2006] p.7 (四六) Melzhoff[2005] pp.74-76 (四七) Goldman[2005] (四八) Tomasello[1995] pp.119-124 (四九) Gallese[2005] なお、 柴田 [2011] は、 ガレーゼの 「身体化されたシミュレーション」 という説の哲学的含意を追求した研究である。 (五〇) Gallegher[2001] (五一) Hobson[1993]

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サルトルの他者論と現代心理学

三一

   

文献

Baron-Cohen, Simon[1995] Mindblindness an essay on autism and t

heory of mind, MIT

Descartes, René[1992] Alquié(éd.)Oeuvres Philosophiques II, Bor

das

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参照

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