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新オーストリア学派の市場経済擁護論 (松尾 博教授退官記念論文集)

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新オーストリア学派の市場経済擁護論

越 後 和 典  この小稿は,新オーストリア学派の市場経済擁護論の骨子を紹介しようとす るものである。フライブルグ学派,シカゴ学派,バージニア学派等,新オース トリア学派をも含めて,いわゆる新自由主義の陣営に属すると見られる学派 は,いずれも熱烈な市場経済擁護論者であるが,彼らの主張する擁護論の論拠 は必ずしも同一ではない。さらに,新オーストリア学派を形成していると目さ れる人たちの間ですら,その競争論・独占論・自由論・国家論等を仔細に検討       すると,若干の相違が認められ,それを反映:して,彼らの市場経済擁護論にも 微妙なニュアンスが存在する。だから,新オーストリア学派の市場経済擁護論 の本格的な検討は,一方ではこれを新自由主義の他の学派の見解と比較し,他 :方では,新オーストリア学派内部の諸見解を整理するという形で進められるこ とが望ましいのであるが,ここではそのような作業を行う紙幅がないので,と りあえず,新オーストリア学派の内部でほぼ合意がえられていると思われる見 解を抽出して,若干の解説を加えることにしたい。 1  新オーストリア学派の市場経済擁護論の最も重要な論拠は,第1に市場経済 こそが最も合理的な経済の秩序形態であるという主張,第2に市場経済こそが 個人的自由と両立しうる唯一の秩序形態であるという主張,の二つに要約でき ると考えるが,この二つの主張を検討する前に,彼等の意味する市場経済の概 !)新オーストリア学派内部での異論については,拙稿「独占の概念」『彦根論叢』第  227号,および「M.N.ロスバードの国家論」『彦根論叢』第228・229合併号等を参  照されたい。

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念そのものについて,注釈を加えておく必要がある。なぜならば,市場経済と いう言葉自体が,ミーゼスやハイエクには必ずしも適切な用語とは考えられて           いないからである。  ハイエクによれば,経済(econDmy)という語は,世上,二つの異なる種類 の秩序に対して使用されている。第1の用法では,家計・企業あるいは政府を 含む何等かの組織(organization),すなわち一元的な目的階層に役立つよう に慎重になされた計画的な資源配置に対して使用される。これに対し,第2 の用法では,われわれが社会経済・国民経済・世界経済,あるいはたんに経済 という場合のように,多くの相互に関連しあった第1の用法でいう経済の構造 (structure)に対して使用される。市場における競争過程が生み出す秩序づけ られた構造としてのいわゆる市場経済は,まさにそれであるが,しかしそれは 組織ではなく,自発的秩序(spontaneous order)ともいうべきものである。ハ イエクは,その師ミーゼスにならって,その自発的秩序をカタラクシー(cata− llaxy)と呼んだ。  ヵタラクシーとは,ギリシャ語のkata11ateinに由来する言葉であり,ギリ シャ語では「交換すること」という意味のほかに,「コミュニティに迎い入れる こと」とか,「敵を味方に変えること」といった意味があるといわれている。 経済という語につきまとう設計主i義的合理主義の臭気を嫌って,ハイエクは市 場経済という言葉よりもカタラクシーという言葉を好むようである。拙稿では 市場経済という語を使用するが,その意味するところは,ハイェク的なヵタラ クシーのことである。  さて,カタラクシーとしての市場経済観から,次のような命題が導出される。 その第1は,市場経済は一定の目的にもとづいて設計されたものではないから, 2) ミーゼスおよびハイエクの説として以下で述べるカタラクシー論については.次の  著書を参照した。Ludwig von Mises, Human・Action,1949, Revised ed.1963, passim,  especially pp. 232−256; Friedrich A. Hayek, Laxv, Legislation and LibertN, volume  2. The Mirage of Social Justice, 1976, chap. 10; New Studies in PhilosoPhb,,  Pogities, Economtcs and the History of ldeas, 1978, pp. 90一”一92.

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      新’t・一ストリア学派の市場経済擁護論  191 失敗(faihlre)はありえない,ということである。そもそも成功するとか失敗 するとかいった議論では,所与の目的を前提し,その目的を実際にどの程度に 達成しているかという点が問題となるのであるから,本来目的をもたない自発 的秩序に対して,その失敗を議論することは無意味である。勿論,政府は目的 にもとづき設計された組織であるから,「政府の失敗」はありうる。というよ りも,「市場の失敗」といわれる現象の本質は,実は「政府の失敗」にほかな        きう らない,と新オーストリア学派は考える。  第2に,同様の議論は,市場が効率的であるかどうかについての議論にも適 用できる。主流派経済学では,いわゆるパレート最適性という効率性基準をも っているが,完全競争均衡を理論的に否認する新オーストリア学派の場合は, パレート最適性の議論を空疎な論理の遊戯として片づける。この学派の場合 も,非効率性は望ましい目標と両立しえない手段が選択されたとき発生すると 考える。しかし何がその個人にとって望ましい目標であるかを,外部の観察者 は知ることができないし,個人がある行為からどれほどの満足をうることがで きるかを客観的に測定する方法も存在しないと考える。さらに,個人を超越し た社会的目標といったものを客観的に設定することはできないと考える。この ような前提の下で,新オーストリア学派の考える効率性の唯一の判断基準は, 個人が抑圧ないし強制(coercion)されることなしに,自由に行為できるかど       のうかという点にこれを求めるということになる。  一般に市場における自発的な交換は,常に当事者双方をベター・オフすると 考えてよい。なぜならぽ,交換は交換しない場合よりも自己にとって有利であ ると双方が考えるからこそ行われるものだからである。それゆえ,自由な市場 での交換は効率を促進するものである。このことはまた,交換が常に当事者の 3) Cf., Murray N. Rothbard, A4an, Economツ, and Sgate,1962, P.156.ロスバードに  よれば,たとえば外部:負経済(external diseconomies)と呼ばれる現象は,個人の所  有権への侵害を許している政府の失敗(failure of government)のケースと論断され  る。 4)Cf., Hayek, op. cit.(!976),なお拙稿「競争の概念」『彦根論叢』第218号,およ  び「産業組織論に対する一批判」『彦根論叢』第221号参照。

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一方に損害を与えるゼロ・サム・ゲームであるという認識を否定するものとい ってよい。  第3に,以上の議論から市場経済,すなわちカタラクシーの円滑な作動の為 に必要な条件は,市場参加者が共通の社会的目標をもつことや,交換の相手方 の便益や目的を知ることなどではなく,自発的な交換を妨害されないことであ        5) る,ということが知られよう。ハイエク流にいえぼ,それは財産権を保護する 法の支配であると考えてよい。 皿  カタラクシーとしての市場経済を新オーストリア学派が擁護する最も重要な 経済的理由の一つは,この秩序形態のみが,個人の間に広く分散・所有されて いる知識ないし情報を社会的に動員・活用できるという意味で,最も合理的で あると考えるからである。  この思想が鮮明に展開されているのは,ハイエクの有名な「社会における知       の 識の利用」と題する論文においてである。  周知のように主流派経済学の教科書では,経済学は所与の資源の最適配分の 問題を取扱うものとされている。そして,この所与の資源を配分する方式に市 場的方式と計画的方式があるというように議論を進め,この代替的な方式の間 の技術的優i劣を論じるという形をとる。比較経済体制論の多くも,このタイプ に属するように思われる。  しかし,ハイエクの立場では,このような問題の設定は基本的に誤りであ る。なぜならば,資源を所与として,その合理的な配分問題を考察することは 経済問題ではなく,計算問題にすぎないからである。ハイエクは次のように論 じる。 5) Cf., Hayek, oP. cit. (1976), p. 1!5. 6) Cf., Hayek, lndividualism and Economic Order, 1948, Midway reprint 1980, pp.  77一一91.ちなみに,この論文は,もとAmerican L“conomic Reviexv(vol.35, September  1945)に発表されたものである。

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      新オーストーリァ学派の市場経済擁護論  193  もしわれわれの選好体系や利用可能な手段についての完全な知識など,すべ ての目的適合的な情報が所与であれば,社会的資源の最適配分の条件を数学的 形式で述べ,コンピュ ’一蓋ーによってそれを定量的に指示することが可能とな る。もし,そうであれば,市場はコンビュー一一ター的役割を果すにすぎず,市場 経済の成功の程度は,方程式体系の解に,市場による資源配分の成果がどの程 度接近しているかによって判定されることになろう。しかし,われわれは決し て全知全能の神ではないのであって,人びとの選好体系に関する知識は所与で はありえないし,社会の利用可能な手段に関する知識についても,それらをわ がものとしているわけではない。むしろ,われわれは,われわれを取りまく環 境についての知識が,集中化・統合化された形態では存在せず,ばらぼらの個 人が持っているところの,しばしば矛盾する知識として,また不完全で分散し た断片としてのみ存在する事実に注目せねばならない。そして,この事実に注 目するならば,社会の経済問題は,たんに所与の資源をどのように配分するか という問題ではない筈である。それは誰にもその全体が所与ではありえない知 識の利用の問題つまり,個人のみがその相対的重要度を知っている諸目的の ために,社会の構成員によって知られている知識をどうして最善に利用するか の問題なのだ,とハイェクはいう。  この視点からハイエクは,知識と呼ばれているものに二種類があることを指 摘する。彼の説くところによれば,第1は特定の個人が所有・支配している知 識であり,第2は適切に選ばれた一団のエキスパートが所有していると予想さ れる知識である。  今日,知識といえば科学的知識のみを意味し,それは事実上,上記の第2の 知識を指すように考えられるが,ハイエクのいうには,これは誤りである。第 1の知識は特定の時・場所,つまり特定の状況についての,科学的とは呼ぶこ とのできないような非体系的な知識であるが,この種の知識の利用が最新の科 学的発明を利用するのと同様に,社会にとって重要な役割を果すことはいうま でもない。ところが,注意すべきは,この第1の知識は,統計的に集計し処理 することが不可能なものである。だからこの種の知識のすべてを,何らかの方

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法で中央計画当局に伝達し,中央計画当局がそれらを総合して計画を樹立し, それにもとづいて指令を発するという形では,十分な利用を期待することがで きない。この種の知識を利用で・きるのは,この種の知識の所有者自身,すなわ ち特定の状況に精通し,その変化に急速に適応することの可能な現場の人間の みである。ここに,この種の知識を資源配分に活用するには,現場の人置に最 終決定をゆだねるという形の分権化が必須の条件となる。  この場合,市場は価格というシグナルを現場の人間に送ることによって,現 場の人間,すなわち市場への参加者が,そのシグナルに応じてその所有する知 識を活用して行為することになる。この結果,あたかもすべての知識を所有す る全知者によってのみ可能と思われるような資源配分の解をもたらすような方        わ向へ事態が進展する,とハイエクは見るのである。  もちろん,そのような解は即時にもたらされるわけではない。むしろそのよ うな解をもたらす過程は,いわば不断に継続するものといってよい。なぜなら ば,技術や嗜好などの基本的なデータの変化の発生が不可避的であるばかりで なく,かりにそのような基本的データが不変であっても,市場参加者の間の個 別的計画には錯誤がつきまとうので,その訂正が必要になるからである。カー ズナー流にいえば,市場には,市場参加者の個別的計画が,うまくかみ合って いないという意味での不均衡が存在するからである。この不均衡は一回かぎり の市場調整で解消する筈がない。  ちなみに,カーズナーは,この不均衡を人に先んじて発見し,不均衡を均衡 に向けて動かす市場調整過程の担い手を企業家と称した。また,カーズナーは この企業家の特性が,不均衡に対処する機敏性(alertness)にあると考えた。 いうまでもなく,カーズナー的な企業家は,ハイエクのいう現場の人間のみが 活用できる知識の保持・活用者であり,その企業家による機敏性の発揮過程,       8) 即ち市場調整過程が競争であるというのである。 7) 以上のハイエク論文についてのより詳細な紹介は,拙稿「市場と企業一理論的展望  一(2)」『季刊現代経済』第17号(昭和50年3月)でなされている。 8)Cf., Israel M. Kirzner,(フompetition and Entrepreneurship,1973, passim.なお以

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      新オーストリア学派の市場経済擁護論  195  このように,新オーストリア学派を代表するハイエクやカーズナーによれ ば,市場は社会の資源配分において,個人によって分散・所有されている知識 を活用・動員できる唯一の秩序であって,計画経済方式は,知識の利用という 点で致命的な欠陥があるということになる。  新オーストリア学派の中でも,ハイエクやカーズナーによる市場経済擁護論 は,以上のように,社会に拡散している知識・情報の重要な部分を,計画経済 方式では活用できないことを強調する点で特徴があるが,もとよりこのタイプ の市場経済擁護i論のみが,この学派の特徴をなすものではない。社会的な資源 配分の方式についての選択肢が,私有財産制度を基礎とする分権的な市場方式 と,生産手段の全面的社会化を前提する集権的な官僚方式の二つしかないとす れぽ,後者の方式の成立を論理的に否定することは,間接的に前者の方式を是 認することになる。この点に関し,ミーゼスの社会主義論とりわけ社会主義 経灘こおける経済計算の不可能性に関する議論および社会主義企業における        企業家精神の欠如に関する議論は,余りにも有名であるので,ここではその紹 介を割愛する。  次に市場経済こそが個人的自由と両立しうる唯一の秩序形態であるという主 張を検討しよう。この主張は,市場の政治的含意を不問に付し,専ら市場を資 源配分の為の好都合な技術的装置としてのみ評価しようとする立場(社会主義 者を含む主流派経済学者の多くはこれに属すると考えられる)に対し,明確な 一線を画する,いわゆる新自由主i義者特有の市場観の特質を反映している。  ところで,この主張を理解するには,第1に自由とは何か,第2に自由は何 故に尊重されるべき価値を有するか,の二点について考察しておく必要があ  上のカーズナー所説については,前出拙稿(『彦根論叢』第218号)および拙稿「企業  家について」『彦根論叢』第231号で詳細に取扱っている。 9)Hayek(ed.), Colleetivist Economic Plαnning,ユ935.迫間真治郎訳『集産主義計画  経済の理論』実業之日本社,昭和25年。とくに同訳本!01∼143ページ参照。

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る。勿論,自由論について本格的に検討するには,一冊の著書を必要とするほ .どの多くの論者の見解と多面的な問題を取上げる必要があるが,ここでは当面 の課題に重要と思われる最少限度の考察にとどめねばならない。        ユの  さて,まず自由の概念についてであるが,バーリソの指摘するように,自由 に対する考え方には,大別すると消極的自由の考え方と積極的自由の考え方が ある。前者は,いわば「何々からの自由」,後者は「何々への自由」を意味す るということもできよう。前者は,他人,とりわけ国家の恣意的な束縛・強制 から個人が解放されている状態を自由と考えるのに対し,後者は個人が何事か を達成ないし享受しうる能力ないし範囲が拡大することをもって自由の増進と 考え,その為の国家の介入・干渉をむしろ積極的に歓迎しようとするものであ る。  歴史的にみれぽ,17∼18世紀では,ジョン・ロックやアダム・スミスによっ て,自由とは神ないし自然によって与えられた自然権と考えられていた。具体 的には,分別ある成人の問の私的な契約に政府の如き第三者が介入しないとい う,いわゆる契約自由の原則が強調されたことはもとより,広く第三者による        エ 抑圧からの解放が自由の拡大と考えられていたようである。これは,バーリン 流にいえぼ,消極的自由の考え方を代表するものといってよい。  これに対し,1880年代にはいると,たとえば,トマス・ヒル・グリーンによ って,積極的自由が強調されるにいたった。グリーンによれば,契約の自由の 如きは,決してそれ自体が目的ではない。自由とは,彼によれば,個人をして その特殊な能力を発揮させる力であり,彼はこのような自由を積極的自由と呼 んだのである。この立場からいえば,たとえば,雇用主や地主が労働者や小作 人と結ぶ契約は,強者の弱者に対する抑圧を反映する場合が多いが,もしそう であればこの限りにおいて,国家がそのような契約を破棄ないし是正させるよ        う介入することは,弱者にとっての自由の拡大になるというのである。  10)Isaiah Berlin, Fozar Essays on Liberty,!969.小川晃一ほか訳『自由論』みすず書   房,昭和46年。新装版,昭和54年,同訳本 297∼390ページ参照。  11) Cf.p Alexander H. Shand, The Capitalist Alternative,!984, pp.200∼201,  12)  Cf., ibid., p.201.

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      新オーストリア学派の市場経済擁護論  197  このような積極的自由論による国家介入に人びとが賛成するのは,多くの場       13)合,チャールズ・テイラーの述べるように,個人はしばしぼ不合理に行為する 可能性があるという理由によるものと思われる。テイラーは次のような例をあ げる。いま,ある人が水泳を学びたいと願望しているにもかかわらず,水に対 するいわれなき恐怖心から,水に入ることをためらっていると想定せよ。この 場合,彼が水に入ることを妨げる何らの外部的障害がないにもかかわらず,彼 自身の恐怖心によって,あたかもそのような障害が存在するのと同様の不自由 な状態におかれている。この場合,誰かが彼の背中を押して彼を水中に飛び込 ませたとせよ。このことによって,彼は水への恐怖心が根拠のないものであっ たことを知り,念願とする水泳を習得しえたとするならば,彼はここではじめ て自由を増大しえたことになる,というのである。この例では,水泳のできな かった者が,水泳ができるようになったことを自由の増大と考える積極的自由 の立場と,この積極的自由のために,外部からの介入を正当化しうるという思 想が示唆されている。  しかし,このテイラーの例は私見によれば適切ではない。たしかに水泳教室 にはいって水泳を学ぼうとする子供に対して,教師が背中を押して水に飛び込 ませる行為は,教育活動とし,て合理的であり,是認されるべきであろうが,独 立した成人たる個人の一般的な:活動に対しては適切ではない。個人に対し,そ の人が自分の真の目標ないし欲求が何であるかを知らないから,その人を強制 して真の目標を追求させるべきである,といった議論は,むしろ個人の自由 にとって極めて危険であるといわねばならない。なぜな:らば,このような議論 は,当人以外には知ることのできないはずの個人の真の目標なるものを,権力 者が恣意的に設定し,その権力者の好む方向へ個人を強制するおそれがあるか らである。  ところで,新オーストリア学派の自由観は,明らかに消極的自由の系譜に属 する。たとえばハィエクは,自由を他人の恣意的強制のない状態,他人による !3) Cf,, Charles Taylor, What’s Wrong with Negative Liberty ? in Alan Ryan (ed.)  The ldea of Freedom, 1979, a1so Shand, oP. cit., pp. 201一一一203,

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       ヱの 何らかの強制が可能なかぎり減少している状態として定義している。しかも, ハイエクの場合は,そのような自由が法(Recht, nomos)の支配の下において        ユら  のみ実現すると考えるのである。  ここでハイエクが法というのは,長い歴史を通じて多数の法律家の努力によ って発見された「正しい行為に関する一般的規則」を意味し,これを組織にお ける規則としての法律(Gesetz, thesis)と区別する。後者の法律は,しばしば 支配者ないし権力者が,自己の都合によって恣意的に制定するものであって, 前述のカタラクシーの円滑な作動を妨げ,個人の自由を侵害するケースが多い と考える。  ハイエクは,国家そのものを否定するのではなく,むしろ国家活動の正当性 を決定すべき原則を明確にし,その原則からの逸脱が個人の自由を侵害すると 考えるのである。これに対し,同じ新オーストリア学派の系統に属するロスバ ードの見解は,国家を抑圧の機関と考え,国家からの解放を自由の実現と見る    ユ   のである。  困家ないし政府の役割を一定の原野こよって制限することを自由の実現とみ るか,国家を自由の侵害によって成立するものと考え,国家そのものの否定を 自由の実現とみるかば,重要な相違点であるが,いずれにしても,自由を国家 を含む他人の恣意的強制からの解放として把える消極的自由の立場からみれ ば,社会の資源配分が個人の自発的な交換を通じて行われるカタラクシーとし ての市場経済こそが,自由と両立しうる唯一の秩序形態であると考えられるこ とは,余りにも明白である。 !4) Hayek, Tn’e ConstitutionげLiberty,1960, p.11.;alsQ Studies in Philosophン,  Politics, and Economics, 1967, p・ 384. 15)ハイエクのnomosとthesisの概念,および法の支配の意味については,古賀勝次  郎『ハイエクの政治経済学』新評論昭和56年,第3章で詳しく取扱われている。 16) ロスバードの国家論については,前出拙稿(『彦根論叢』228・229合併号)を参照  されたい。

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新オーストリア学派の市場経済擁護論  199 rv  ところで,一体なぜ自由に尊重されるべき価値があるのだろうか。この問題 については,自由至上主義的(Libertarian)と呼ばれる学派の中にも,考え方の        ユリ 相違があるように見受けられる。ノー・・マンP・パリーによれぽ,結果論主義者 (consequentialist)と自由を権利として主張する権利理論家(right theorist) とでは,自由が尊重されるべき理由についての見解が異なるという。彼は前者 に属するグループとして,ミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ学派, この小稿で取上げている新ナーストリア学派,およびブキャナンとタロックに よって開拓された公共選択理論のバージニア学派をあげ,後者に属するものと して,R・ノージッタ, A・ランド,およびロスバードを取上げている。ロス バードは,ミーゼスの流れをくむ新オーストリア学派の中で,その無政府主義 的傾向を代表する理論家であるが,パリーの分類では,権利理論家の典型とさ れている。  さて,結果論主義者は,自由を社会の幸福増進における決定的に重要な用具 的価値(instrumental value)を有するがゆえに尊重されるべきであると考え る。既述のようにハイエクは,広く個人の問に分散された形態においてのみ存 在する知識・情報を,社会的に勤員・活用することによって,意図されざる結 果を生み出すのは,政府によって妨害されない自由な市場である,というので あるが,彼がこのように主張する場合には,カタラクシーの下での自由な競争 が,社会の繁栄や公衆の福利に最もよく役立つに相違ないという信念がかくさ れているように思われる。ハイエクは自発的秩序としての市場という秩序形態 が人間行為の所産ではあるが,特定個人の発明したものでも,社会によって計 画的に設計されたものでも,さらに一定の目的の下に意識的に運営されるもの でもないという点で,設計主義的合理主義者から何か価値の劣るものであるか に思われるとしたならばそれは誤解であるという。文明というものは,本来, 17) Cf., Norrnan P. Barry, “Review Article: The New Liberalism,” British Journal  of Political Science, No. 13, 1983, pp. 93一’一!23.

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われわれが予め熟慮することを必要とせず遂行しうる重要な作業の数を拡大さ せることによって前進するのである。われわれは,不断に,公式・シンボル・ル ールを利用するが,それらの意味を理解した上で利用しているわけではない。 しかもそれらを利用することによって,個人的には持っていない知識の助力を うることが可能となるのである。市場と価格システムは,それぞれの分野で成 功を収めた習慣や制度と同様に,人びとがそれを理解することなしに,それに 出くわした後にその効用を学んだ秩序の一つである。ハイエクは以上のように        エ ラ 論じ,その文明論的意義を強調するのである。このような文脈における市場や 自由の理解の根底には,自由ないし自由を具現した市場という秩序形態こそ が,社会の利益を増進するものであり,同時にそれば高度の文明の精華である, という認識が存在することは明白である。そして,このような自由の効用の解 釈による自由の価値の強調こそが,結果論主義と呼ばれる所以でもある。  これに対し,権利理論家は,自由を個人の権利と考え,それが自己実現に対 してもつ固有の価値を強調するとともに,その自由を奪う国家による抑圧的な いし強制的行為を,一切の結果論的考慮なしに不道徳と判断するのである。        ユの      の  この権利理論家の中にも,ノージッタやランドは一種のミニマル国家論者で あって,強制権力を有するミニマル国家を,個人の権利擁護のために必要であ ると論じるのに対し,ロスバードは,国家を原理的に非倫理的な存在と考え, 個人は自己防衛の権利を国家に譲渡すべきでないと論じる。このロスバードの 議論は,国家を自由市場と根本的に対立するものとしてとらえ,国家なき自由         市場の実現を説く点で,自由至上主義者の中でも最も徹底した議論といえる。  このように,リベルタリアンと呼ばれる人たちの中でも,自由の窮極的な価 値を何に求めるかに関し,見解の相違が認められるが,いずれにしても,市場 18) Cf., Hayek, op. cit., (1948, Midway reprint 1980), pp・ 86一一89. 19) Cf., Robert Nozick, Anarehy, State and UtoPia, 1974. 20) Cf., Ayn Rand, Capitalism: The Unfenozvn ldeal, 1967. 21) ロスバードの無政府主義理論については,前出拙稿(『彦根論叢』第228・229合併  号)参照。

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      新オーストリア学派の市場経済擁護論  201 ないし市場経済が自由と両立しうる唯一の秩序形態である,と考える点では一 致している。  ところで,新オーストリア学派は,結果論主義的ではあるが,自由の価値を 強調する点では他の学派に勝るとも劣らない。たとえばハイエクは,自由をプ ラグマティックな理由によって棄却すべきでないと主張する。ハイエクのいう には,市場秩序への個別的な介入は,関係者にとって魅力的であるに相違な い。それは,明白で直接的な利益を局部的利害関係者にもたらすかにみえるか らである。しかし,自由が本来もっている価値の一つは,それが事前に知るこ とのできない機会を,人びとに提供するという点にある。つまり,われわれ は,特定のケースにおける自由の制限によって失われるところのものを,決し て予め知ることができないのである。だから,自由を既知の目標に対して,ト レード・ナフする何かであるかのごとく取扱うべきでない。もしそういうこと をすれば,自由は不可避的に衰退し,いわゆる統制波及の原則によって,自由 のいっそうの制限を必要とする傾向が加速度的に進展し,その結果,人びとは 測り知ることのできないほどの多くのものを失うことになろう。ハイエクは以        きヨ  上のように論じる。

v

 新オーストリア学派を代表するハイエクは,消極的自由の擁護のために,以 上のような議論を展開した。  現代資本主義の福祉国家化と,それに伴ういわゆる先進国病と呼ばれる病理 現象に想到する時,私には以上のハイエクの議論が,かなりの説得力を有する ように思われる。しかし,ひるがえって思うに,現代人は果して自由に至上の 価値を認めているだろうか。自由と同等に,あるいは自由以上に,安定とか安 全にも高い価値を与えているかにみえる。きびしい自己規律と自己責任を伴う 自由よりも,消費者は生活の安定を,経営者は事業の安全保障を,労働者は雇 用の安定を希望しているようにもみえる。自由競争は長期的には,決してゼ 22)以上の・・イエク説の要約に関しては,Shand, op. eit., P.207.を参照した。

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ロ・サム・ゲームではないが,短期的には競争当事者の優勝劣敗を伴うもので ある。きびしい競争的淘汰よりも,国家による弱者の温存を願うのもまた人情 の常ではなかろうか。そして,もし社会の多数の人びとが,自由と同等に安定 を,あるいは自由よりも安定にむしろより高い優先順位を認めるとするなら ば,自由至上主義者の立場からすれぽ,それもまた自由な個人的選択として尊 重されるべきではなかろうか。  しかしこのことは,安全保障のために,ある程度の自由の制限を受け入れよ うとする立場であって,ひとたびこのような:立場を是認すれぽ,自由への侵害 が拡大する危険性があり,それはまさに「隷従への道」であることを説くのも, また新オーストリア学派の人たちである。ミーゼスは「自由のための計画化」 とは,幻想にすぎず,干渉主義者の口実であって,自由と一般的福祉を達成す        23) るための計画化などは存在しないという。       ヨの  このことは,シャソドが鋭く指摘するように,新オーストリア学派を含むリ ベルタリアンと称せられる人たちが逢着する一つのジレンマではなかろうか。 この問題については,より深い考察が必要であるが,紙幅の制約上ひとまずこ こで筆を欄く。 23) Cf., Mises, Planning for Freedom, 1952, Fourth edition 1980, pp. 10一一一17. 24) Cf., Shand, op cit・, pp. 207一一一208.

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