ベーツ資料の翻訳:『関西学院六十年史』と『関西
学院七十年史』
著者
池田 裕子
雑誌名
関西学院史紀要
号
23
ページ
27-74
発行年
2017-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00025758
ベーツ資料の翻訳
―『関西学院六十年史』と『関西学院七十年史』―
池田
裕子
Ⅰ.はじめに
C・J・L・ ベーツ( Cornelius John Lighthall Bates, 1877-1963 )は、カナダ・メソヂスト教 会 宣 教 師 と し て 一 九 〇 二 年 に 来 日 し た。 同 教 会 が 関 西 学 院( ア メ リ カ 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 に よ り 一 八 八 九 年 に 創 立 ) の 経 営 に 参 画 し た 時、 最 初 の 宣 教 師 の 一 人 と し て 一 九 一 〇 年 に 赴 任 し、 二 年 後 に 開 設 さ れ た 高 等 学 部( 文 科・ 商 科 ) の 初 代 部 長 を 務 め た。 一 九 一 七 年 に 関 西 学 院 を 離 れ た が、 一 九 二 〇 年、 第 四 代 院 長 に 選 出 さ れ て 戻 り、 二 〇 年 間 院 長 を 務 め た。 上 ケ 原 移 転、 大 学( 予 科・ 法 文 学 部・ 商 経 学 部 ) 開 設 の 大 事 業 は、 ベ ー ツ 院 長 の 下 で 行 わ れ た。 一 九 四 〇 年 末 に ベ ー ツ が神戸港からカナダに帰国した時、埠頭は教職員、学生・生徒、卒業生で溢れたと伝えられる。 これまで、 当『関西学院史紀要』のほか、 『学院史編纂室便り』や広報誌『 K. G. TODAY 』等で、 私 は 幾 度 か ベ ー ツ の こ と を 紹 介 し て き た。 例 え ば、 広 報 誌 に 連 載 中 の「 学 院 探 訪 」 で は、 四 三 編中一八編がベーツに関わる内容である。執筆にあたり、ベーツが書いた様々な英文資料を参照し た。 ベ ー ツ は ま と ま っ た 著 作 を 残 さ な か っ た が、 毎 年 の「 院 長 報 告 」( President's Report ) の ほ かにも興味深い資料(書簡、日記、原稿等)が見つかっており、そのごく一部は日本語に翻訳さ れた形で公開されている( 『母校通信』 、『神学研究』等) 。しかし、もっとも基本的と考えられる 次の三点は翻訳されていない。 1. Robert Bates,
Newcomers in a New Land
, private edition, [October 1988,] 47 pages.
2.
C. J. L. Bates, ''Reminiscences of Kwansei Gakuin Forty Years A
go and Since,'' 『関西学院 六十年史』 、一九四九年一〇月二九日、三~九頁。手書き原稿あり。 3.
C. J. L. Bates, ''The Sixty Years in the Ministry,''
『関西学院七十年史』 、 一九五九年一〇月 三〇日、五五八~五七六頁。タイプ原稿あり。 一 点 目 の Newcomers in a New Land は、 ベ ー ツ の 三 男 ロ バ ー ト に よ る 編 集 で あ る が、 そ の 大 部 分は父親が彼に語った驚くほど詳細な記憶の口述筆記である。カナダに移住したベーツ家の人び とのことが紹介されていて、ベーツ自身とその背景を知る上で欠かせない。 あ と の 二 点 は、 関 西 学 院 の 年 史 の た め に ベ ー ツ が 書 い た 回 想 録 で あ る。 『 六 十 年 史 』 に は 一 九 一 〇 年 以 降 の 関 西 学 院 で の 想 い 出 が 綴 ら れ て い る。 『 七 十 年 史 』 に は 牧 師・ 宣 教 師 と し て 過 ご し た 一 八 九 七 年 以 降 六 〇 年 間 の 忘 れ ら れ な い 出 来 事 が 記 さ れ て い る だ け で な く、 執 筆 時 ( 一 九 五 七 年 一 二 月 ) の 世 界 情 勢 や 子 ど も 時 代 を 過 ご し た オ ン タ リ オ 州 ロ リ ニ ャ ル 村 で の 経 験、
来日の経緯にも触れられている。 今回、日本語に翻訳したのは後者二点である。関西学院から原稿の依頼を受けた時、ベーツの 脳 裏 に は そ れ ま で に 出 会 っ た 多 く の カ ナ ダ 人、 ア メ リ カ 人、 日 本 人 の 顔 が 浮 か ん だ こ と だ ろ う。 しかし、日本の学校の年史に掲載されるのだから、読者としては日本人を想定したものと思われ る。したがって、私たちに読みやすい英語で書かれている。ベーツの文体には読む者を惹きつけ る独特の力がある。安易な日本語訳により、その魅力、力強さと温かみが失われてしまっては台 無しだ。ベーツの心のひだが伝わらない。それを避けるため、こなれた和文にするよりも、多少 ゴツゴツしていても、オリジナルの文体が持つ勢いが過度に損なわれることのないよう、私なり に努めた。
Ⅱ.
「過去四〇年間の関西学院回想録」
(『関西学院六十年史』 、一九四九年) 私が関西学院のことを知ったのは一九〇八年でした。その夏、私たちは軽井沢にいました。マ シュース夫妻 もおられました。ある時、マシュース氏が訪ねて来ました。私たちは、関西学院の 経営にカナダ・メソヂスト教会が参画する可能性について話し合いました。当時、カナダ側は青 山学院神学校と協力して中学を再開することを考えていた ので、この話はそれ以上進みませんで した。 しかし、一九〇八年、カナダの伝道局は南メソヂスト監督教会からの招聘に応え、同教会、日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 と 協 力 し、 神 戸 の 東 郊 に あ っ た 関 西 学 院 の 経 営 に 参 画 す る こ と を 決 め ま し た。カナダのメソヂスト教会と伝道局の最初の代表として、私は任命を受けました。 こ の よ う な 仕 事 を 始 め る 機 会 を 与 え ら れ た の は 名 誉 な こ と で あ り、 大 変 幸 運 だ っ た と、 私 は 今も嬉しく思います。妻と私が、二人の子どもレヴァーとルル を連れ、関西学院に到着したのは 一九一〇年九月でした。私たちはヘーデン博士夫妻 の歓迎を受け、キャンパスの北西の角にあっ た 家 に 移 る ま で、 世 話 に な り ま し た。 当 時、 宣 教 師 館 が 三 棟、 日 本 人 教 師 館 が 四 棟 あ り ま し た。 日 本 人 教 師 館 に は 院 長 だ っ た 吉 岡 博 士 、 松 本 教 授 、 曽 木 教 授 、 吉 崎 教 授 と そ れ ぞ れ の 家 族 が 住 ん で い ま し た。 ヘ ー デ ン 博 士 夫 妻 の 家 は、 キ ャ ン パ ス の 北 側 に 位 置 す る 宣 教 師 館 の 真 ん 中 で し た。 ニュートン一家 とマシュース一家は休暇帰国中だったため、残り二棟は空いていました。D ・ R ・ マッケンジー博士夫妻 が東側の家に越して来ました。彼らは関西学院に一年しかおらず、東京に 移りました。こうした方々の名を私は尊敬の念をもって想い出します。今日、ご健在の方はほと んどおられなくなってしまいました。 そ の 頃 の 関 西 学 院 は、 後 年 の 姿 と は ま っ た く 異 な っ て い ま し た。 神 戸 の 東 の 端 に 位 置 し、 ひ な び た 田 舎 で し た。 市 電 に 乗 る に は 一 五 分 程 歩 か ね ば な り ま せ ん で し た 。 校 舎 は 四 棟 あ り ま し た。一八八九年の創立時に建てられた小さな古い木造校舎二棟は近年寮として使われてきました 。 普 通学 部 と神 学 校 と 図書 館 は南 側 の大 きな 三 階 建て の木 造 建築 の 中に あ って、 美 しい 煉瓦 造 り の チャペル が西門 の近くにありました。 東側は美しい松林が村を囲んでいましたが、残念なことに、数年後バッタの異常発生により壊 滅的被害を受けました。当時、吉岡博士が院長、ヘーデン博士はニュートン博士の後任として神 学校長になったばかりでした。ヘーガー博士 が普通学部長を務めていました。彼は神戸に住んで
いたので、 毎日人力車で通っていました。マシュース教授が図書館長で、 長谷氏 が財務部長でした。 本館三階にあった図書館からの美しい眺めを私はいつも想い出します。田畑と港をはるかに見渡 すことができました。北は摩耶山に向かい、山々が連なり本当に美しかった。 Old Kwansei は世 界でもっとも美しい学校の一つでした。 その後の発展は急速でした。 私が関西学院に赴任したのは、 神学校で教えるためでした。 ニュー トン博士の組織神学の授業を引き継ぎました。最初の学生の中に、現在広島女学院 の院長を務め て いる 松 本 卓夫 博 士 と 戦前 の 関 西 学院 神 学 部長 で、 現 在広 島 女 学院 の 松 下 学部 長 が いま し た。 最 初のクラスにそのような優れたキリスト教の信仰を持つ学生がいたことは、私にとって大きな喜 びでした。彼らは日本の知的、霊的指導者になりました。初期の学生の名は大勢記憶に残ってい ます。多過ぎて、ここに言及することができません。 翌年、私は高等学部(文科・商科)の部長に任命されました。その年、マシュース教授と私は、 吉岡博士や他の人びとの助けを借り、高等学部の組織や課程のプランを練りました。神学校の新 し い 校 舎 が 建 て ら れ た 年 で も あ り ま し た 。 本 多 監 督 と 江 原 素 六 閣 下 は 文 部 省 へ の 高 等 学 部 認 可 申 請 の手 続 き を助 け て く ださ い ま した。 当 時 の文 部 次 官 福原 氏 は、 麻布 中 学 で 江原 氏 の 教 え子 で し た。そのことで大いに助けられました。 高等学部は一九一二年四月に、学生数商科約四〇名、文科四名で開設されました 。四年後に商 科を卒業した一二名の中に、小寺敬一教授や白石英一郎氏や石本徳三氏がいました 。原野駿雄教 授は文科の最初の学生の一人でした 。私たちがここまでやって来ることができたのは、故村上教 授 を始め、最初期の高等学部教師陣のおかげです。村上教授の熱意と威厳は文科の鑑でした。務
め に 対 す る 彼 の 深 い 関 心 と 献 身 を 忘 れ る こ と は で き ま せ ん。 木 村 教 授 、 佐 藤 教 授 、 岸 波 教 授 、 曽 木教授、松本教授、石田教授 やその他の方々は、高等学部の教育の基礎をつくるのを助けてくれ ま し た。学 部 長 を務 め た 故ア ー ム スト ロ ン グ博 士 と 故ウ ッ ズ ウ ォー ス 博 士 が 加わ り、 ス タ ッフ は 大いに強化されました。 病気により吉岡博士が院長を退き、 ニュートン博士があとを継ぎました。 神学校長だったニュー トンのあとはヘーデン博士が継ぎました。こうした間に学校は大きくなりました。キャンパスは 東に数千坪広がり、最終的に二五エーカー(三万坪)になりました 。教室や教師住宅や学生寮の ために新しい建物が建設されました。土地の東半分に、立派な運動場を持った普通学部校舎が美 し い 姿 を 見せ 、 本 館 が高 等 学 部 専 用 校 舎 にな り ま し た。 大 隈 侯爵 の 訪 問 を受 け た 時、 西 川 玉 之 助 氏 が中学部長、吉岡博士が院長、ニュートン博士が神学部長、私が高等学部長でした。この訪問 は、関西学院普通学部の初期の学生の一人で、のちに長く理事を務め、常に忠実な友であった永 井柳太郎閣下 のご尽力によるものでした。 大隈侯爵には、当時、もっとも大きかった普通学部講堂で教師と学生にご講演いただきました。 この他にも著名な方々、かつて関西学院で学び、国内で雄弁家として知られる永井氏や久留島氏 に話をしていただきました。私の記憶に鮮やかに残る初期の出来事の一つに、音楽の勉強のため 数年間滞在したドイツから帰国した山田耕筰氏 の来訪があります。彼もまた、関西学院の初期の 学生でした。優れた才能を持つ努力家で、世界的名声を得ていました。 高 等 学 部 の 組 織 と 学 修 課 程 に お い て、 私 た ち の 大 き な 目 的 の 一 つ は、 学 生 の 間 に 自 治 と 自 己 責任の精神を植え付けることでした。その観点から、学生会を組織し、その役員は学生により学
生の中から選ばれました。関西学院における私の人生を振り返った時、自治による学生会は大い に成功し、高等学部運営の大きな助けになったと思います 。関西学院の歓びとなり、誇りとなっ た学生団体はグリークラブとそれに類似した音楽団体でした 。高等学部のモットー ''Mastery for Service'' と ウ ォ ッ チ ワ ー ド ''Character and Efficiency'' は、 私 た ち を 理 想 の 姿 に 導 い て く れ ま し た 。 一 九 一 七 年、 私 は 残 り の 人 生 を 東 京 の 中 央 会 堂 で 送 る た め、 関 西 学 院 を 離 れ ま し た。 し か し、 一 九 二 〇 年、 光 栄 に も 理 事 会 は 私 を 吉 岡 博 士 と ニ ュ ー ト ン 博 士 の 後 任 院 長 に 選 ん で く れ ま し た。 この機会を利用し、関西学院のために尽くして来られたこのお二人の献身とご厚意を、心から神 に感謝したいと思います。両院長の想い出は、お二人が生涯のほとんどの時を過ごされた関西学 院と共にあります。学院をキリストと真理と正義と神に続く道に導くため、大きな働きをされま した。 次の九年で関西学院の各部はますます成長しました。神学部のヘーデン博士、文学部のウッズ ウ ォ ー ス博 士、 高 等 商 業 学 部 の神 崎 氏 、 中 学 部の 田 中 氏 が、 か つ てな い ほ ど 大 き く 発 展さ せ ま し た。新校舎が建ち、関西学院は神戸とその近郊の人びとを魅了する文化活動の中心になりました。 新しい講堂は、辺りで一番大きなホールで、演奏会や大きな集会を開くのに最適でした。救世軍 の ブー ス将 軍の 集会 や 偉大 な音 楽家 ゴド フス キー や カワ ロフ の演 奏会 に 出席 する 機会 に恵 まれ ま した。 神 戸 市 郊 外 に あ っ た Old Kwansei で の 生 活 は、 か け が え の な い 想 い 出 で す。 キ ャ ン パ ス に 住 む 日 本 人、 ア メ リ カ 人、 カ ナ ダ 人 の 関 係 は 友 好 的 で 本 当 に 幸 せ で し た。 ジ ョ ー ン ズ、 ク ラ ッ グ、
アウターブリッヂ、ホワイティング、アグバン、ウッズウォース、マシュース、ミックル、ヒル バーン、そしてベーツの家族はキャンパスの中で一緒に育ちました 。一時期、宣教師の子どもは 二二名いたのです。彼らは今や大人になり、牧師や医者や教師やそのほかの分野で重要な地位に ついています。 一九二九年、関西学院は古い場所から西宮の新しく広い場所に移り、大きく変わりました。愛 着ある旧キャンパスを離れることは本当に残念でしたが、移転によりもっと大きなことができる ようになりました。移転を計画し、旧キャンパスを売却して新キャンパスを購入することを進め て く だ さ っ た 菊 池 氏 、 ア ウ タ ー ブ リ ッ ヂ 氏 、 ウ ッ ズ ウ ォ ー ス 氏、 河 鰭 氏 、 さ ら に 阪 急 電 鉄 の 小 林 社長 、現院長で当時高等商業学部長だった神崎氏に、関西学院は永遠に尽きぬご恩があります。 西 宮 移 転 の お か げ で、 大 学 の 設 立 と 竹 中 工 務 店 に よ る 美 し い 校 舎 の 建 築 が 可 能 に な り ま し た。 移転後の一〇年は、あらゆる面で成長の日々でした。戦争が起こり、長年にわたって築いてきた 実り多い関係が終止符を打つまでは。そのあとのことを皆さんにお話ししましょう。過去を振り 返って私はこう思いました。 「なんて素晴らしい日々だったのだろう!」 。一九一〇年に私が関西 学院に来た時、学生は三百人でした。一九四〇年大晦日に去った時、三千人以上の学生がいまし た。私の名が記された卒業証書を持つ卒業生が六千人以上います。これらの若者…今はそんなに 若くないかもしれませんが…のことを考えると、私は胸がいっぱいになります。彼らの上に神の 祝福がありますように。イエス・キリストの霊が彼らをお導きくださいますように。 一九四〇年一二月三〇日午後七時に神戸を出港した時の記憶は大変鮮やかです 。船が暗闇に進 む中、数百人の教師と学生が埠頭に立ち「ベーツ先生、さようなら。またいらっしゃい」 と叫ん
でいました。どんなに戻りたかったことか。それは、これまでのところ叶いませんでした。そし
て、永遠に叶うことはないでしょう。しかし、想い出の扉は開いています。たくさんの愛おしい
出来事が出たり入ったりします。日本と関西学院が迎えた新しき日の夜明けをお慶び申し上げま
す。すべての教師、学生、卒業生とそのご家族の上に神の豊かな恵みがありますように。
C. J. L. Bates, ''Reminiscences of Kwansei Gakuin Forty Years
Ago and Since.''
Ⅲ.
「献身六〇年」
(『関西学院七十年史』 、一九五九年) 聖書日課:マタイによる福音書六章二五 ― 三四節 聖 句:イザヤ書二六章三 ― 四節 堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩 。 この言葉は長年にわたり、私に安らぎを与え、励ましてくれました。眠れない時、心が弱って、 く じ け そ う な 時、 手 術 室 に 連 れ て 行 く 看 護 婦 を 待 っ て い る 時、 不 安 と 恐 怖 を 鎮 め て く れ ま し た。 ベッドサイドから愛しい人を見つめる時、痛みや死別の不安や悲しみを和らげたい時、このメッ セ ー ジ の 言 葉 は 常 に 支 え と な り ま し た。 「 堅 固 な 思 い を、 あ な た は 平 和 に 守 ら れ る。 あ な た に 信 頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」 。こ の 一 年 は 私 に と っ て 困 難 な 年 で し た が、 そ れ を 埋 め 合 わ せ る 輝 か し い 出 来 事 が あ り ま し た。 友と愛する人びとのご厚意とご協力、医師と看護婦の技術と誠意、健康を回復できるかどうかわ からぬ不安、八〇年間の想い出、特にキリスト教の信仰を持った両親や故郷、そして学校生活の 想い出、さらに、教会の牧師・宣教師として奉仕できた名誉、常に神と共に生きて来たという意 識―これらすべては、病と苦しみのさなかも私の生を豊かにし、この一年を素晴らしいものにし てくれました。 五月一二日、献身六〇年を祝うため、私はオタワに行くことになっていました。しかし、病気 で行けなくなりました 。それでも、この六〇年間の想い出はただのひとつも消えることはありま せん。 「この六〇年」 。それは、なんと素晴らしい時だったのでしょう。馬と馬車の時代から飛行 機と宇宙船の時代まで。この間の科学と技術の進歩は、人類誕生以来それまでの進歩以上のもの でした。五五年前、妻と私は二週間かけて太平洋を渡りました。今や、鷲のような翼に乗ってし まえば、一日もかかりません。 素晴らしい年月でしたが、人類にとって恐ろしい年もありました。科学的な知は進歩しました が、 仲間といかに平和に生きるかということを人類は学んで来なかったからです。 知( knowledge ) は 力 で す が、 智( wisdom ) の み が 自 由 な の で す。 人 類 が 良 い 意 志 を 実 行 す る こ と を 通 し て の み、 永遠の平和が実現するのです。 短い休戦期間はありましたが、世界はほとんど常に戦争状態でした。過去六〇年間にカナダは 三つの戦争に加わりました。数週間前の戦没者追悼記念日 に、戦争で命を落とした一〇万の尊い 犠 牲 者 を 女 王 と 共 に 追 悼 し ま し た。 こ の 恐 ろ し い 年 月 の 間 に、 カ ナ ダ は 植 民 地 か ら 独 立 国 家 と
なって 、世界の出来事に影響力を持つようになりました。大英帝国から共和国へと平和に姿を変 えたのです。世界中で、アジアやアフリカの有色人種と呼ばれる人びとによるナショナリズムの 高揚と帝国主義、植民地主義の否定がより顕著に見られます。フランスとイギリスが大陸に所有 していた植民地から徴兵した兵士は両世界大戦に参加したことにより、ヨーロッパやアメリカの 人びとが望ましい暮らしをしていることを知り、西洋の国々の豊かな生活を自分たちも享受した いと考えるようになりました。こうして、アジアのフィリピン、東インド諸島、インドシナ、中 国、マレーシア、ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、アフリカのガーナが解放され、独立 しました。この動きはさらに続いています。 破壊と再建が激しく続く年月の間、多くの国々における政治体制の変化は世界の人びとに希望 と恐怖をもたらしました。抑圧された人びとには希望を、それまで世界の富と特権を有していた 人 び と の 心 に は 恐 怖 を 与 え ま し た。 特 権 階 級 と 君 主 制 は ほ と ん ど 破 壊 さ れ、 「 人 民 民 主 主 義 」 の 名のもとにおかしな独裁者が現われました。世界は、共産主義と自由主義と中立国に三分されま した。紛争は今なお続き、問題は解決していません。 このような時代を生き、国と教会と世界の発展に参画するのは大変なことです。私の幼き日の 故郷はオタワ川南岸のロリニャル村 でした。オタワから六〇マイルの所にあり、オタワとモント リ オ ー ル の ち ょ う ど 中 間 で し た。 当 時、 東 オ ン タ リ オ 辺 り は、 フ ラ ン ス 語 を 話 す 人 口 が 増 加 し ていました。少年時代、ロリニャルには大きなカトリック教会が一つと小さなプロテスタント教 会が三つありました 。日曜の朝は長老教会、午後は聖公会、夕方はメソヂスト教会に通うのが当 時の私たちの習慣でした。三つの異なる教会を、祈りの家、礼拝の家、讃美の家と私は考えてい
ました。礼拝上の様々な要素が三つの教会のすべてにありながら、識別できる程度の違いが見ら れました。この三つの教会を知ったことは、私の生涯の仕事に対する何よりの準備となりました。 地域社会を構成する様々な要素は、私たちの関係に幸福をもたらしました。私たちは皆違ってい ました。それぞれが、自分たちの文化と言葉と教会が一番だと思っていました。しかし、寛容と 良い意志と互いを敬う心が問題を友好的に解決してくれました。私たちが小さなメソヂスト教会 を建てた時、すべての人から、カトリックの司祭からさえも援助してもらいました。教会の女性 が 寄 付 を 求 め ベ ル ベ 神 父 を 訪 ね た 時、 神 父 は こ う 言 い ま し た。 「 プ ロ テ ス タ ン ト の 教 会 を 建 て る のに私は何も差し上げることはできませんが、敷地内の古い建物を壊せば何か差し上げられるで しょう」 。そして、心からの笑顔と共に四ドルを差し出したのです。 一八九四年、私はモントリオールのマギル大学に入学しました 。それまでの概念が覆される新 しい時代でした。進化論が新世界に到達し、マギル大学学長を辞めたばかりの尊敬すべきウィリ アム・ダウソン卿 はこの概念を恐れ、拒絶しました。彼は偉大な科学者であり、地質学者で、敬 虔なキリスト教徒でした。当時のもうひとつの新たな概念は聖書批評学で、スコットランドの大 学では既に認められていましたが、カナダではまだ理解されていませんでした 。キングストンに あ る ク ィ ー ン ズ 大 学 は、 カ ナ ダ で こ の 概 念 を 受 け 入 れ た 最 初 の 大 学 で し た。 多 く の 信 心 深 い 人 びとはキリスト教の信仰が傷つけられることを恐れました。しかし、当時新しかったことは今で は当たり前のことです。教会はより強くなり、聖書はそれまで以上に広い世界に広まっています。 なぜなら、新たな未消化の科学的概念の影響を中和する別の動きが起こるからです。その中で有 名 な の は、 ム ー デ ィ と サ ン キ ー の 福 音 伝 道 や ジ ョ ン・ R・ モ ッ ト 、 ロ バ ー ト・ E・ ス ピ ア 、 そ し
て我がF・C・スティーブンソン による学生ボランティアと平信徒伝道運動です。こうした運動 は教会の目を世界に向け、主の声を世界中に広め、福音を説く大きな力になりました。 一八九七年五月、私はオタワ地区の志願牧師―当時私たちは「見習い」と呼んでいました―と して認められ、ブラインドリバーに派遣されました。モントリオール年会の西端に位置し、もっ と も 開 発 の 遅 れ た 担 当 区 域 で し た。 今 と 同 じ く 当 時 も 大 量 の ウ ラ ン が あ っ た の で す が、 だ れ も そのことを知りませんでした 。その頃のブラインドリバーは人口二五〇人の材木伐採の中心地で、 イギリス人、フランス人、先住民とその混血が住んでいました。教会の建物がなかったので、ほ ん の 一 部 屋 だ け の 小 さ な 学 校 を 使 い、 毎 日 曜 の 夕 方、 四 〇 人 程 が 集 ま り ま し た。 し か し な が ら、 ブラインドリバーは私の始まりの地です。教会の出発点と考えられる場所で過ごした年には、興 味深い想い出がたくさんあります。そんな想い出のひとつが私にとって初めての葬式です。イギ リスから移住した農民の年若い妻の葬式でした。彼女はお産で亡くなりました。新しい丸太で作 られた簡素な松の棺が一頭立ての荷馬車で小さな墓地まで運ばれました。墓地には先住民の墓が いくつかありました。夕暮れ時で、日が沈み、隣の敷地からカウベルによる弔いの音が聞こえて きました。六〇年経った今も、その情景が色褪せることはありません。哀愁により美しく和らげ られただけです。 翌年、私はキングストン近郊のポーツマスに派遣されました。そこで、三年間メソヂスト教会 の学生牧師を務めました。教会はロックウッド精神病院の近くにあり、キングストン刑務所から もそう遠くありませんでした。病院と刑務所の職員、 さらに病院の患者がほんの数名教会に参 加 し て い ま し た 。 あ る 日 曜 、 受 刑 者 か ら ホ リ ー ・ ジ ョ ー と 呼 ば れ て い る カ ー ト ラ イ ト 宗 教 主 事 の
招きを受け、刑務所で説教しました。受刑者の一人が壁に描いた等身大の宗教画により美しく装 飾されたチャペルには、腕を拘束された受刑者が約三百人いました。チャペルの一面に開かれた 大きな窓があり、その窓から説教者は三〇人程の女性受刑者を見ることができました。六〇年前、 女性は男性のわずか十分の一しか悪いことをしなかったようです。その割合は、その後もっと増 えたのではないでしょうか。 この二つの更生と癒しの施設に関わったことで、精神的な病と犯罪の問題がよくわかるように なりました。それは、他のいかなる方法でも知りえないことでした。しかし、ポーツマスで過ご した三年間で受けた最大の恩恵は、クィーンズ大学で学ぶ機会が与えられたことです 。グラント 学長は一流の研究者に良い刺激を与える指導者でした 。そんな中に哲学のジョン・ワトソン教授 がおられ、当時、観念論の第一人者とみなされていました 。その指導の下で学べたことはまれに みる幸運でした。ギリシャ哲学、ドイツ哲学、イギリス哲学の原典研究を通して、知の信頼性と 宗教的信仰心を確信する根拠を注意深く探る土台を築きました。ワトソン博士の主張「神への合 理的信仰心こそ道徳の基本である」を忘れたことはありません。このことを今日、私たちは再び 学ぶ必要があります。活力に満ちた宗教は良き生の中にあり、真の危険のない道徳が生きた聖な る神を信仰する動機となるに違いありません。 一 九 〇 一 年 夏、 私 は モ ン ト リ オ ー ル の ド ー チ ェ ス タ ー 通 り メ ソ ヂ ス ト 教 会 に 派 遣 さ れ ま し た。 同 年 一 一 月、 オ タ ワ の ド ミ ニ オ ン 教 会 の S・ P・ ロ ー ズ 博 士 か ら 按 手 を 受 け、 正 式 な 牧 師 に な り ま し た。 そ の 時 の 礼 拝 は、 私 の 想 い 出 の 中 の ハ イ ラ イ ト の 一 つ で す。 ロ ー ズ 博 士 は、 も っ と も 素 晴 ら し い キ リ ス ト 者 で あ り、 研 究 者 で し た。 彼 は、 「 コ リ ン ト 信 徒 へ の 手 紙 一 」 一 三 章 を も
とに説教し、 「『愛』を『牧師』に替えましょう」と言って、こう続けました。 「牧師は忍耐強い。 牧 師 は 情 け 深 い。 ね た ま な い。 牧 師 は 自 慢 せ ず、 高 ぶ ら な い 」。 こ れ は 新 米 牧 師 の 私 に と っ て 良 い教訓でした。私たち牧師にとって、個人的野望や満足をわきに置くことがどんなに重要である ことか。 栄えの主イェスの 十字架をあおげば、 世の富、ほまれは 塵にぞひとしき 。 その年、私はカナダの諸都市のより貧しい地域の生活状況を学ぶ機会に恵まれました。そのよ うな貧困と飢えがカナダに存在することを私は知りませんでした。宣教師として日本に行く前の さ さ や か な 勉 強 に な り ま し た。 私 た ち の 時 代 の 偉 大 な る イ ギ リ ス の 歴 史 家 ア ー ノ ル ド ・ ト イ ン ビ ー は著書『一歴史家の宗教観』の中で、私たちの宗教的、道徳的生活の方向と質を決定づける 挑 戦 と そ の 応 戦 に 特 徴 づ け ら れ た 歴 史 の 宗 教 的 見 解 に つ い て 語 っ て い ま す。 一 九 〇 二 年 は 私 に とって最大の挑戦の年でした。その挑戦は、これまで私の人生に応戦を求めてきました。その年 の一月、私が学んでいたモントリオールのウェスレアン神学校 をF・C・スティーブンソン博士 が訪問されました。博士はその時、若者を伝道活動に誘う活動をされていました。ある日、博士 は 私 に こ う お っ し ゃ い ま し た。 「 ベ ー ツ 君、 来 月 ト ロ ン ト で 行 わ れ る 学 生 ボ ラ ン テ ィ ア 大 会 に 行 き ま せ ん か 」。 私 は「 い い え 」 と 答 え ま し た。 「 ど う し て 行 か な い の で す か 」。 博 士 は お 尋 ね に な りました。 「時間もお金もないからです」 。すると、博士はこう言われました。 「時間に関しては、
そ こ に 行 く こ と 以 上 に 有 効 な 使 い 途 は あ り ま せ ん。 お 金 に 関 し て は、 こ れ を 使 い な さ い 」。 そ し て ポ ケ ッ ト に 手 を 入 れ、 一 〇 ド ル を 差 し 出 さ れ た の で す。 「 こ れ を 費 用 に 当 て な さ い。 そ し て、 私の家に来なさい」 。 それは最初の挑戦でした。次は、その大会でジョン・R・モットが中国からの電報を読み上げ た時でした。 「北中国は呼んでいる。ギャップを埋めよ」 。それは、二五〇人の宣教師と二五〇人 の中国人信徒が殺された義和団事件 を指していました。その時、若き預言者イザヤが神殿で聞い た言葉 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」 を使って、 モットはマッセイ ・ ホー ル の 大 観 衆 に 挑 戦 し た の で す。 三 百 人 の 男 女 が イ ザ ヤ の 献 身 の 精 神 に 応 え ま し た。 「 わ た し が こ こにおります。わたしを遣わしてください」 。その時、初めて私の耳に讃美歌が聞こえました。 正義の主イェスに 従いゆき、 血に染む御旗に 続くは誰。 苦き杯も まよわず受け、 十字架を担いて 従う者 。 それは、わくわくする挑戦でした。 数週間後、私は中国への任命を受けましたが、それはすぐに日本に変更されました 。さらに挑 戦は続きました。数日後、妻になることに同意してくれていた若い女性 に、私の決意を書き送り ました。彼女の返事は、 「あなたと一緒に参ります。それだけが私の望みです」 。
一九〇二年八月六日、オンタリオ州モリスバーグで私たちは結婚しました。その地のメソヂス ト教会で、彼女の父親は牧師をしていました 。数週間後、私たちは日本をめざし、西に向かいま した。ちょうどその時開催されていたメソヂスト教会の総会に出席するため、ウィニペグに立ち 寄りました。それは、さらなる大きな挑戦の機会でした。教会の合同問題を検討する委員を任命 するため、他のプロテスタント教会も総会に招聘すべきだとプレスビティリアン大学〔正しくは、 長老教会を代表して参加したマニトバ大学〕のパトリック学長 が提案したのです。この挑戦は受 け入れられ、二三年後の一九二五年、カナダ合同教会が誕生しました 。キリスト教会の歴史にお いて偉大な日でした。なぜなら、その時始まった動きは、解放に向け大きな影響を与えたからで す。 四 百 年 前 の 宗 教 改 革 以 来、 も っ と も 大 き な 影 響 の 一 つ で し た。 こ れ が 大 成 功 だ っ た こ と は、 三二年前の合同以来、いかなる地方教会もカナダ合同教会から離脱していないこと、そして、教 会運営において、 旧教派による分裂が一度も起こらなかったことが証明しています。インド、 中国、 日本、アフリカ等さまざまな国で同様の合同が行われ、現在その他の国でも検討されています 。 私 た ち の よ う な 古 い 人 間 は、 か つ て の 教 派、 メ ソ ヂ ス ト や 長 老 派 や 組 合 派 が 持 っ て い た 特 別 な 教 義 が 失 わ れ て し ま っ た よ う に 感 じ る こ と が あ る の は 事 実 で す。 し か し、 現 在 享 受 し て い る 信仰と人脈の豊かさから見れば、それは大したことではありません。私たちには偉大な教会があ り、多くの機会に恵まれ、大きな責任を持ち、大きな資力があるのです。しかし、これらのこと は、別の挑戦を生み出します。私たちは自分たちの仕事にふさわしいでしょうか? 私たちは危 機に直面しています。責任を正確にはかることができない危険、自己満足や精神的満足に陥る危 険です。私たちは、 パウロがコリントの教会に発した警告を心に留めおかねばなりません。 「いっ
たいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」 。私たちには借りが あります。 私たちの前に去った者たちへの借り、 自らの血で私たちをお救いくださった主への借り。 ウィニペグの総会で、初めて日本人の知り合いができました。それは、私たちの教会の日本年 会初の日本人年会長になったばかりの平岩恒保博士 でした。それまで、その職は宣教師が務めて いたのです 。私たちは彼から初めて日本語を学びました。 ウィニペグからさらにバンクーバーまで西に向かい、ほどなく日本行きの旧エンプレス ・ オブ ・ インディア号に乗船しました。当時の航海は現在といかに違っていたことか。陸が見えなくなる と、私たちは何もかもから切り離され、海と船だけになりました。陸と私たちを結ぶ無線通信は なく、世界のニュースも届きません。暗闇を凝視し、危険を知らせるレーダーもありませんでし た。船の浮力と乗組員の技術のほかは、風と波のなすがままでした。大荒れの航海でした。激し い嵐のため、エンジンが止まり、船は広い太平洋の真っただ中を漂いました。航海初心者にとっ て、不安でいっぱいの経験でした。楽しい想い出は、祈祷書の威厳に満ちた船長による日曜礼拝 です。讃美歌は、船で旅する人のためのものが歌われました。それは、イギリス船籍の船の朝の 礼拝で通常歌われるものでした。 涯しも知られぬ 青海原をも 奇しき御手もて 造りし御神よ、 波路ゆく友を 安く守りませ。
船は嵐の影響を受けましたが、予定通りの日数で、日本の沿岸の明かりが見えました。二週間 もの単調な航海のあと目にした心躍る光景でした。 私たちが来日したのは、一八七三年に私たちの教会の最初の宣教師 が到着した時とはまったく 異なり、大変幸運な時でした。開拓者の仕事は終わっていました。別の人たちが働いていて、私 たちはそれに加わりました。日本の教会が設立され、力を持ち、可能な限り自国のキリスト教活 動に責任を持っていました。もっとも幸運だったのは、キリスト教徒となった最初の世代の多く が健在だったことです。その中に、私の良き友だった賀川豊彦 がいました。彼は世界中のキリス ト教会で知られた人物で、二〇世紀においてもっとも献身的で影響力のあるキリスト教徒でした。 彼を知ったことでキリストの霊の強い影響を感じ、いっそう献身と自己犠牲に挑戦しようと思い ました。あらゆる階層と聖職者に、政界、教育界、ビジネス界に有能なキリスト教徒の指導者が いました。数としては少数でも、その影響は絶大でした。彼らを知ったことで大いに助けられま した。その子息、息女が現在、この国のキリスト教の指導者になっています。 しかし、多くの人びと、特に地方の人びとはキリスト教に触れていませんでした。それは今も そうです。その結果、日本の教会はアメリカやイギリスから来る宣教師を歓迎しました。宣教師 は 同 僚 と し て、 キ リ ス ト の 兄 弟 と し て や っ て 来 ま し た。 自 分 た ち だ け で は あ ま り に 数 が 少 な く、 何千万人もの国民に福音を説くにはあまりに力が弱かったからです。それは今も同じです。別の 意味でも、日本に来たのは楽しい時代でした。ちょうど日英同盟が締結されたばかりで 、イギリ ス的、アメリカ的なものが好まれました。あらゆる面で、変化と進歩の時代でした。一九〇二年 に来日した時、 東京に電車はありませんでした。しかし、 翌年、 走り始めました 。交通手段は、 「人
力車」か、自転車か、余裕ある少数の人は馬車でした。自動車はまだ先のことでした。私たちの 来日は日露戦争の二年前で、第一次世界大戦のほとんどの期間、日本にいました 。そして、迫り くる第二次世界大戦の影響により一九四〇年の大晦日に立ち去らざるを得なくなるまで 、日本で 過ごしました。軍事力が増大し、それに伴い国家的野望とプライドが過度に膨らむのを見てきま した。大変残念で悲しいことに、人口増加のため、限られた資源のため、そしてその状況を理解 する人々の同情を喚起するため、日本の欲求は切迫していきました。日本の政界と軍部の指導者 たちの忍耐が足りず、日本の成功が滅亡の始まりになりました。戦争と屈辱的な敗戦のあと、私 は 日 本 の あ る キ リ ス ト 教 徒 に 言 い ま し た。 「 日 本 が 戦 争 を 避 け ら れ な か っ た こ と が 残 念 で な り ま せ ん。 戦 争 し な け れ ば、 失 っ た も の を す べ て 持 ち 続 け る こ と が で き た で し ょ う に 」。 そ の 日 本 人 はこう答えました。 「しかし、 それが一体、 何の役に立つというのですか。神は最善をご存じです。 私たちはもっと良い日本をつくるのです」 。 私 た ち は 最 初 の 七 年 を 東 京 と 日 本 の 中 央 部 に 位 置 す る 甲 府 で 過 ご し ま し た 。 い ず れ の 地 で も、 仕事の多くを学生の中で行いました。毎年クリスマスには、 五〇年前に東京で私の英語バイブル ・ クラス の一員だった男性からカードか手紙を受け取ります。その後のクラスの参加者からも、数 多く送られてきます。こうした個人的つながりと友情こそ、私たちにとって最高の報酬です。 一九〇九年から一〇年にかけての最初の休暇帰国 のあと、私たちは関西学院のスタッフに加わる ため、西日本の神戸に行きました。その後の三〇年、ほとんどそこで過ごしました。一九一〇年 に到着した時、三百人の学生がいました。三〇年後に帰国する時は、三千人以上になっていまし た。現在、大学には九千人以上の学生がいて、日本でもっとも影響力のある大学のひとつになっ
ています 。そして、一八八九年に南メソヂスト監督教会が基礎を据えたキリスト教主義教育を忠 実に守っています。四五年前以降に私が教えた学生の何人かが重要な仕事の指導者になっている のは、大変嬉しいことです 。七千人以上の青年、関西学院の卒業生の卒業証書に私の名前があり ます。彼らは時々手紙をくれます。こうして、東洋で師弟間に存在する麗しい敬愛の情が続いて いるのです。 日本での最初の二五年間、私たちは健康そのものでした。しかし、一九二七年、私は悪性貧血 になり、妻は私をトロントに連れ帰りました 。多くの人はそれが私の最後の旅になると考えてい ました。しかし、神の摂理により、五カ月後、日本に戻ることができました 。不安だった日々の ことが数多く思い出されます。日本を去る前日、選ばれた二人の女性、日本で最初に知り合った 母娘が別れを告げに来ました。二人は私のベッドの横にひざまずきました。母親の小杉さん が私 の手を取り、快復を何度も祈りました。それから立ち上がって、私の目をのぞきこみ、大きな声 で 言 い ま し た。 「 治 り ま す、 治 り ま す、 治 る 」 。 そ の 言 葉 は 実 際 に 快 復 す る ま で、 海 を 渡 る 時 も カナダでもずっと耳に響いていました。それは今も続いています。数年後、彼女の葬儀に私は厳 粛な気持ちで臨みました。娘は、一九四五年に自宅の庭の防空壕で亡くなりました。 日本でもカナダでも、私たち夫婦は何度か病に見舞われましたが、キリスト教徒の友人たちの 熱心な祈りにいつも支えられました。私たちのための祈りは豊かに報われました。娘と三人の息 子は日本で生まれ、教派は異なりますが、皆教会の仕事に従事しています 。ロリニャル村での私 の幼少期の経験が子どもたちに繰り返されたように思うことがあります。 二人の日本基督教団総会議長がトロントに住む私たちを訪ねて来ました。一人は旧メソヂスト
で、もう一人は組合教会でした。私たちは日本の教会を心から信頼し、支援しています。プロテ スタント、カトリック、正教会に五六万人以上の信者がいます。三二万人以上がプロテスタント 教会に所属し、その五〇%以上が日本基督教団です。日本の教会のことを神に感謝します。しか し、日本の人口は現在九千万人を超えています。ですから、福音を伝える仕事は大きく、私たち は新たな協力に挑戦しています。海外伝道局と婦人伝道協会が呼びかけに応え、日本に五〇人以 上の宣教師がいることを嬉しく思います。 カナダに戻ってからの一七年間、レジャイナで 、オンタリオ州の様々な場所で、ケベック州で、 トロントのベルフェア教会で、そして多くはロイヤルヨークロード教会で 、私たちが思いもしな かった礼拝と親睦の機会が数多く与えられました。これらの教会の牧師と教会員には、私たちが この先祈り続けても返せないほどの恩義を感じています。 主イエス・キリストへの奉仕は、この世でもっともやりがいのある務めです。もしも生まれ変 われるなら、私たちを愛し、私たちにご自身を捧げられた主の証人として、私たちをいずれかの ミッションにお遣わしくださるよう願う以外、望むことは何もありません。
C. J. L. Bates, ''The Sixty Years in the Ministry.''
Ⅳ.おわりに
私 が ベ ー ツ 資 料 に 着 目 し た 背 景 に は 二 人 の 先 生 か ら い た だ い た 助 言 が あ る。 一 九 九 八 年 六 月、 人 事 異 動 で 学 院 史 資 料 室( 学 院 史 編 纂 室 の 前 身 ) の 配 属 と な っ た 時、 学 生 時 代( 商 学 部 ) の 恩師中村巳喜人名誉教授 は、刊行されたばかりの『関西学院百年史』に対する感想を私に語られた。 その中にこんな言葉があった。 「 関 西 学 院 は ア メ リ カ 人 宣 教 師 が 創 立 し、 ア メ リ カ 人 と カ ナ ダ 人 と 日 本 人 が 協 力 し て、 発 展 さ せてきた学校です。関西学院のことを知るには、日本語の資料に当たるだけでなく、宣教師が書 い た 英 文 資 料 を 収 集 し、 読 み 込 む 必 要 が あ り ま す。 『 百 年 史 』 は そ の 点、 不 十 分 で す。 資 料 庫 に どんな資料があるのか知りませんが、英文資料があったら、すべて読みなさい。活字やタイプ打 ちされたものだけでなく、手書き文書にもしっかり目を通しなさい。新しい発見は英文資料の中 にいくらでもあります。英文資料は宝の山でしょう。それをあなたが見つけて書くのです。関学 に資料がなければ、アメリカやカナダに行って集めてくるのです。まず、ベーツ院長のことから 始めなさい。わからない英語があったら、宣教師に尋ねなさい。英語を母語とする教師に必ず英 語で質問すること。日本人教師に尋ねてはいけません。できないとは言わせませんよ。それだけ のことを私はあなたに教えてきましたからね」 。 敬虔なカトリック信者で、関西学院のご出身でもない中村先生が『百年史』を詳細にお読みに なっていたことを知って驚いたが、私は恩師のお言葉に素直に従った。英文を読む上で生じた疑 問点は文学部におられたアメリカ人宣教師ジュディス・ニュートン教授 に何度も尋ねた。ニュー トン先生が退職されてからは、モントリオール在住のアルマン・デメストラルさん とトロント在 住のカミラ・ブレイクリーさん に質問し、教えていただいた。私はベーツが書いた英文を繰り返 し 読 ん だ が、 日 本 語 に し よ う と は 思 わ な か っ た。 中 村 先 生 は「 読 み な さ い 」 と 言 わ れ た が、 「 訳 しなさい」とは一度も言われなかったからである。
日本語に翻訳するよう私におっしゃったのは神学部の神田健次教授である。神田先生は、キリ スト教徒でもなく、大学院で勉強したこともない私を神学研究科博士課程後期課程のゼミに受け 入れ、一〇年以上ご指導くださった。その先生が定年を迎えられる最後の年に、ベーツ資料をほ んの一部だが日本語に訳し、紹介することができた。神田先生に心から感謝しつつ、自分の非力 を痛感し、申し訳なく思う。 繰り返しになるが、一九〇二年に来日したベーツは、一九一〇年から一七年、および一九二〇 年 か ら 四 〇 年 ま で の 計 二 七 年 間、 関 西 学 院 で 働 き、 高 等 学 部( 文 科・ 商 科 ) 開 設、 大 学( 予 科・ 法文学部・商経学部)開設、上ケ原移転の大事業を成し遂げた。スクールモットー ''Mastery for Service'' は、 高 等 学 部 長 時 代 の ベ ー ツ が 高 等 学 部 の た め に 提 案 し た 言 葉 だ っ た。 そ の 貢 献 の 大 き さと今日にまで及ぶ影響力を顧みると、日本で青少年の教育に生涯を捧げたベーツの「挑戦」を、 彼自身が記した言葉により見直すことの意義は大きい。その「挑戦」を、今を生きる私たちが受 け止め、 「応戦」することが関西学院の未来につながるだろう。 私はベーツ資料に「挑戦」した。本稿はそれに対する「応戦」のささやかな一歩である。 ・本稿執筆にあたり、次の資料を参照した(特別な場合を除き、注には明記していない) 。 『関西学院百年史』通史編Ⅰ、一九九七年五月二〇日。 『関西学院百年史』通史編Ⅱ、一九九八年三月二〇日。 『関西学院事典』増補改訂版、二〇一四年九月二八日。 ジ ャ ン・ W・ ク ラ ン メ ル 編『 来 日 メ ソ ジ ス ト 宣 教 師 事 典 一 八 七 三 ― 一 九 九 三 年 』、 教 文 館、 一 九 九 六
年二月二五日。 ・旧字体は新字体に改めた。 ・ 原 稿 の 閲 読、 助 言、 批 判 を し て く だ さ っ た 神 田 健 次 神 学 部 教 授、 井 上 琢 智 前 学 長、 辻 学 広 島 大 学 大 学院教授に感謝します。 【注】 (1) William Kennon Mathews ( 1871-1959 )。アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師。一九〇二年に来日 し、 〇 四 年 か ら 四 一 年 ま で 関 西 学 院 で 教 え、 第 二 代 図 書 館 長 を 務 め た。 〇 八 年 に エ ヴ ァ・ ウ ィ リ ア ム ズ( Eva Williams ) と 結 婚。 マ シ ュ ー ス の こ と を 図 書 館 元 職 員 は 次 の よ う に 記 し て い る。 「 … 日 本 語 の 上 手 な 人 で、 い つ も 金 メ ダ ル を ぶ ら 下 げ て い た。 大 学 で は 特 待 生 だ っ た そ う で、 遠 く 祖 先 を た ど る と G ワ シ ン ト ン の 名 も 出 て く る ほ ど の 名 門 の 出 身 で 私 も 先 生 の 家 系 作 り を 手 伝 っ た こ と が あ る」 (入交光三「関西学院生活五〇年」 、『 KG TODAY, 関学通信』第三号、 一九七〇年六月一一日、 四頁) 。 ( 2) 一 八 九 九( 明 治 三 二 ) 年 に 宗 教 教 育 を 禁 じ る 文 部 省 訓 令 第 十 二 号 が 公 布 さ れ、 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 は 麻 布 尋 常 中 学 校 の 経 営 か ら 手 引 い て い た。 な お、 青 山 学 院 は ア メ リ カ の メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 が 創 立 し た 学 校 で あ る。 ア メ リ カ の メ ソ ヂ ス ト 教 会 は、 南 北 戦 争 に よ り 北 部 の メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 と南部の南メソヂスト監督教会に分裂していた。 ( 3) ベ ー ツ 夫 妻 は 日 本 で 四 人 の 子 ど も に 恵 ま れ た が、 こ の 時 点 で 誕 生 し て い た の は 長 男 レ ヴ ァ ー ( William Lever, 1903-1967 )と長女ルル( Lulu Dell, 1905-1977 )の二人(
Newcomers in a New Land,
pp. 33-38 )。 ( 4) Thomas Henry Haden (1863-1946 ) 。 ア メ リ カ 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 宣 教 師。 一 八 九 五 年 に 妻 ジ ェ ニ ー( Jennie, 1852-1917 ) と 共 に 来 日。 一 八 九 六 年 か ら 一 九 四 〇 年 ま で 関 西 学 院 で 教 え、 第 二 代 神
学 部 長 を 務 め た。 な お、 ヘ ー デ ン は 日 記 を 残 し て お り、 エ モ リ ー 大 学( ジ ョ ー ジ ア 州 ア ト ラ ン タ ) に 保 管 さ れ て い る。 日 記 に よ る と、 ベ ー ツ 一 家 の 到 着 は 一 九 一 〇 年 九 月 六 日 で、 一 〇 日 朝 ま で ヘ ー デン家の世話になったことがわかる。 ( 5) 吉 岡 美 国( 一 八 六 二 ― 一 九 四 八 )。 一 八 九 二 年 か ら 一 九 一 六 年 ま で 第 二 代 院 長 を 務 め た。 一 九 一 四 年 四 月、 吉 岡 は 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 を 代 表 し、 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 総 会 に 出 席 す る た め 渡 米 し た。 ア メ リ カ 訪 問 後、 ト ロ ン ト に 行 き カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 伝 道 局 関 係 者 の 歓 迎 を 受 け た。 さ ら に、 吉 岡 は モ ン ト リ オ ー ル か ら 大 西 洋 を 横 断 し、 ス コ ッ ト ラ ン ド に 向 か っ た の だ が、 そ の 際、 当 時 オ タ ワ に あ っ た ベ ー ツ の 実 家 を 訪 ね て い る。 日 本 に い る ベ ー ツ は 吉 岡 の 訪 問 を 喜 び、 「 な ん て 上 品 で 魅 力 的 で 信 仰 心 篤 い 紳 士 な の で し ょ う 」 と 母 親 が 手 紙 に 書 い て 来 た と ニ ュ ー ト ン に 知 ら せ て いる( Letter of Aug. 5, 1914, from C. J. L. Bates to J. C. C. Newton, the United Methodist Church Archives )。 ( 6) 松 本 益 吉( 一 八 七 〇 ― 一 九 二 五 )。 一 九 〇 二 年 か ら 神 学 部 教 授。 一 九 二 〇 年、 副 院 長 に 就 任。 在 職 中 の 二 五 年 一 二 月 逝 去。 そ の 時、 院 長 の ベ ー ツ が カ ナ ダ に 休 暇 帰 国 中( 当 時、 宣 教 師 は 七 年 毎 に 一 年 の 休 暇 が 与 え ら れ て い た ) だ っ た た め、 院 長 代 理 を 務 め て い た。 訃 報 を 聞 い た ベ ー ツ は 休 暇 を 切 り上げ、翌年二月に帰任した。 ( 7) 曽 木 銀 次 郎( 一 八 六 六 ― 一 九 五 七 )。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 が 関 西 学 院 の 経 営 に 参 画 し た 時、 神 学 校 教 授 に 就 任。 松 本 益 吉 急 逝 後、 副 院 長 を 務 め た。 ベ ー ツ と は 東 京 の 中 央 会 堂 で 一 緒 だ っ た 時 期 がある( 『日本基督教団本郷中央教会七十年の歩み』 、一九六〇年、五七頁) 。 ( 8) 吉 崎 彦 一( 一 八 七 〇 ― 一 九 二 五 )。 一 九 〇 六 年 か ら 神 学 部 教 授( 『 日 本 キ リ ス ト 教 歴 史 大 事 典 』、 一九八八年、教文館、一四七一頁) 。 ( 9) John Caldwell Calhoun Newton ( 1848-1931 )。 ア メ リ カ 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 宣 教 師。 一 八 八 八 年 に 妻 レ テ ィ( Lettie Emma ) と 共 に、 娘 ル ー ス( Ruth Elisabeth )、 ア ニ ー( Annie Glace ) を 連 れ
来日。 創立時の神学部長。 ニュートンがアメリカから持ち込んだトランクいっぱいの本が図書館 (書 籍館)の始まりだった( W. K. Matthews, ''Notes on the First Fifty Years of the Kwansei Gakuin Library,'' 『関西学院六十年史』 、一九四九年、 一〇頁) 。一九一六年から二〇年まで第三代院長を務め、 二 三 年 に 帰 国 し た。 ニ ュ ー ト ン の 後 任 院 長 選 出 は 難 航 し た が、 理 事 会 で 当 初 か ら 一 貫 し て ベ ー ツ を 推していたのはニュートンであった(
Minutes of the Boar
d of Dir
ectors of the Kwansei Gakuin,
Feb. 6, 1920, April 21, 1920 )。 ( 10) Daniel Rial McKenzie ( 1861-1935 )。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 宣 教 師。 イ ビ ー 自 給 バ ン ド の 一 員 と し て 一 八 八 七 年 に 来 日 し、 一 八 九 〇 年 に 正 規 の メ ン バ ー に な っ た。 一 八 八 八 年 に ユ ー フ ェ ミ ア・ イ ザ ベ ラ( Euphemia Isabella, 1863-1932 ) と 結 婚。 息 子 の ア ー サ ー( Arthur Peason McKenzie, 1889-1960 ) も 宣 教 師 と な り、 一 九 三 二 年 か ら 関 西 学 院 で 教 え た。 第 二 次 世 界 大 戦 中、 ア ー サ ー は ハ ー バ ー ド 大 学 の ア メ リ カ 海 軍 言 語 学 校 で ア メ リ カ と カ ナ ダ の 軍 人 に 日 本 語 を 教 え、 カ ナ ダ 陸 軍 中 佐 と な っ て、 バ ン ク ー バ ー の カ ナ ダ 陸 軍 言 語 学 校 の 責 任 者 を 務 め た。 戦 後、 再 び 関 西 学 院 に 戻 り、 一九五二年まで教え、創立されたばかりの国際基督教大学に移った。 ( 11)神戸市電の終点は熊内一丁目だった。市電布引線が上筒井まで延長されたのは一九一九年。 ( 12) 一 八 八 九 年 に 最 初 の 校 舎、 翌 年、 第 二 校 舎 が 建 て ら れ た。 本 館 竣 工 後 は、 そ れ ぞ れ 南 寮、 北 寮 と な り、やがて前者は神学部、後者は普通学部の寮となった。 ( 13) 関 西 学 院 は 一 八 八 九 年 に 神 学 部 と 普 通 学 部 か ら 始 ま っ た 。 普 通 学 部 は 兵 庫 県 の 認 可 を 受 け て い た が、 神 学 部 は 無 認 可 の ま ま ス タ ー ト し た。 と こ ろ が、 文 部 大 臣 の 認 可 は 神 学 部 の 方 が 早 く、 一 九 〇 八 年 九 月 四 日、 専 門 学 校 令 に よ り「 私 立 関 西 学 院 神 学 校 」 と な っ た。 ベ ー ツ の 赴 任 も 神 学 校 教 授 と し て で あ っ た。 一 九 一 二 年、 専 門 学 校 令 に よ り 高 等 学 部( 文 科・ 商 科 ) が 新 た に 開 設 さ れ る と、 「 私 立 関 西 学 院 神 学 校 」 は、 「 私 立 関 西 学 院 」 の 神 学 部 に な っ た。 ま た、 普 通 学 部( 普 通 科 ) が 文 部 大 臣 の 認 可 を 受 け、 中 学 部 と 改 称 さ れ た の は 一 九 一 五 年 二 月 一 二 日 で あ る が、 そ の 数 年 前 か ら 宣 教 師 は
普 通 学 部 の こ と を ''Academic School ( or Department )'' で は な く ''Middle School'' と 表 記 す る よ う になっていた。ベーツも本稿で ''Middle School'' のみ使っている。 ( 14) 一 八 九 三 年 に 着 工 し、 一 八 九 四 年 に 献 堂 式 が 行 わ れ た 本 館 は、 当 初 二 階 建 て だ っ た。 三 階 部 分 が 増 築されたのは一九〇八年である。 ( 15)一九〇四年に献堂式が行われたブランチ ・ メモリアル ・ チャペル。関西学院の旧校地原田の森にあっ た建物で現存する唯一のもの。現在は神戸文学館として使われている。 ( 16)西門が原田の森の正門だった。この門は上ケ原に移築され、大学院一号館前に設置されている。 ( 17)
Samuel Eugene Hager
( 1869-1950 )。アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師。一九〇三年、 妻ジョー ジ ア ナ Georgiana ( 1867-1956 ) と 共 に 来 日。 一 九 〇 四 年 か ら 四 〇 年 ま で 関 西 学 院 で 教 え、 一 九 〇 七 年 か ら 一 一 年 ま で 第 七 代 普 通 学 部 長 を 務 め た。 そ れ は 関 西 学 院 に と っ て 困 難 な 時 代 で、 一 九 一 〇 年 に は 普 通 学 部 卒 業 生 が 皆 無 に な っ た( 上 級 学 校 進 学 に 必 要 な 文 部 省 の「 指 定 」 の 効 力 が 及 ば な い 学 年の在籍者全員が他校に移ったため) 。こうした状況の中、 ヘーガーは吉岡美国第二代院長と協力し、 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 と の 合 同 経 営 の 話 を 積 極 的 に 進 め た。 二 人 は 創 立 者 W・ R・ ラ ン バ ス の 母校ヴァンダビルト大学で共に学んだ仲間であった( Sam H. Frank, ''Samuel E. Hager, American Missionary in Japan: A Biography, ''A thesis for the degree of Master of Arts, Florida State University, p. 83 & pp. 86-91 )。なお、人力車で通勤していたヘーガーの住所は ''2 of 145 Shichome, Kitano Cho, Kobe'' (『 基 督 教 年 鑑 』〈 復 刻 版 〉 ① 大 正 五 年 版、 日 本 図 書 セ ン タ ー、 一 九 九 四 年、 四 一 八 頁 )。 住 居 は ポ ー ト ア イ ラ ン ド( 神 戸 市 中 央 区 ) の 北 公 園 に 移 築 さ れ、 「 み な と 異 人 館 」 と 呼 ばれている。 ( 18) 長 谷 基 一( 一 八 五 五 ― 一 九 二 七 )。 原 田 の 森 の 土 地 取 得 に 際 し、 吉 岡 美 国 ら と 共 に 土 地 所 有 権 者 の 一人となった。普通学部・中学部で化学を教えた。 ( 19) ア メ リ カ 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 日 本 宣 教 部 は、 そ の 第 二 回 年 会 の 二 日 目( 一 八 八 八 年 九 月 一 日 )
の セ ッ シ ョ ン で、 神 戸 に 男 子 校、 神 戸 と 広 島 に 女 子 校 を 設 置 す る こ と を 決 議 し た( Minutes of the
Annual Meeting of the Japan Mission of the Methodist Episcopal Chur
ch, South, Second Session, Aug. 31-Sept. 4, 1888, p. 2 )。神戸の男子校が関西学院、広島の女子校が広島女学院である。ただし、広島女 学 院 は そ の は じ ま り を 一 八 八 六 年 に ア メ リ カ か ら 帰 国 し た 砂 本 貞 吉 が 創 設 し た「 広 島 女 学 会 」 と し ている( 『広島女学院百年史』 、一九九一年、二―八頁) 。 ( 20)松本卓夫(一八八八―一九八六) 。一九一二年、関西学院神学校卒業。 ( 21) 松 下 積 雄( 一 八 九 〇 ― 一 九 六 三 )。 一 九 一 二 年、 関 西 学 院 神 学 校 卒 業。 の ち に 礼 拝 主 事、 神 学 部 教 授 を 務 め た。 一 九 四 四 年、 広 島 女 学 院 専 門 学 校 教 授 に 就 任 し、 四 九 年 か ら 広 島 女 学 院 大 学 英 文 学 部 長を務めた。 ( 22) 原 田 の 森 の 神 学 館 は 関 西 学 院 に お け る 初 の ヴ ォ ー リ ズ 建 築。 ア メ リ カ の 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 が 創 立 し た 関 西 学 院 の 経 営 に カ ナ ダ の メ ソ ヂ ス ト 教 会 が 参 画 し て 以 来、 双 方 よ り 三 名 ず つ の 宣 教 師 が 出席する建築委員会( The Building Committee of Kwansei Gakuin )が組織され、一九一一年四月 一 九 日 に 最 初 の 会 合 が 持 た れ た。 同 委 員 会 の 下 に 設 け ら れ た 建 築 実 行 委 員 会 の 第 二 回 会 合 で、 神 学 館 と 宣 教 師 館 建 築 に 必 要 な 専 門 家 の ア ド バ イ ス を 建 築 家 W・ M・ ヴ ォ ー リ ズ に 求 め る こ と が 承 認 さ れた( Minutes of Second meeting of the Executive Committee, May 20, 1911 )。ベーツも両委員会 の 一 員 だ っ た。 ア メ リ カ 側 の 委 員 マ シ ュ ー ス は、 広 範 囲 に わ た り、 骨 の 折 れ る こ の 仕 事 に 週 二 日 と られると書いている( W. K. Matthews, ''Japan. Work in Kobe,'' The Missionary Voice, Vol. 2, Board
of Missions, Methodist Episcopal Church, South, October 1912, p
. 621 )。 ( 23)本多庸一(一八四八―一九一二) 。日本メソヂスト教会初代監督。 ( 24) 江 原 素 六( 一 八 四 二 ― 一 九 二 二 )。 関 西 学 院 が カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 と の 合 同 経 営 に 入 っ た 際、 第三代院長に選出されたが、断った。 ( 25) 福 原 鐐 二 郎 は、 一 九 一 一 年 九 月 一 日 か ら 一 六 年 一 〇 月 一 三 日 ま で 文 部 次 官 を 務 め た( 秦 郁 彦 編『 日
本官僚制総合事典一八六八―二〇〇〇』 、二〇〇一年、一一八頁) 。 ( 26)注2参照。 ( 27) 学 生 募 集 定 員 と し て 公 表 さ れ た の は、 文 科 三 〇 名、 商 科 甲 部( 中 学 校、 指 定 校 卒 業 者 ) 四 〇 名、 乙 部(甲種商業学校卒業者) 二〇 名であった。応募者は五〇名で、 四月一一日に口頭試問のみ実施し、 文 科 三 名、 商 科 三 六 名 を 受 け 入 れ た( 『 関 西 学 院 百 年 史 』 通 史 編 Ⅰ、 三 三 八 ― 三 三 九 頁 )。 商 科 の 入 学生を三九名とする資料もある( 『関西学院高等商業学部二十年史』 、一九三一年、 二九頁) 。しかし、 当 室 に 保 管 さ れ て い る 入 学 願 書 は 三 六 名 分 で あ る。 な お、 文 科 に つ い て、 ベ ー ツ が 四 名 と 書 い た の は、 入 学 時 は 三 名 で あ っ た が、 二 学 期 に 商 科 か ら 文 科 に 移 っ た 一 名 を 加 え た た め で あ ろ う。 文 科 の 一期生としては四名と考えられる( 『文学部回顧』 、一九三一年、七頁) 。 ( 28) 小 寺 敬 一( 一 八 九 四 ― 一 九 五 一 ) は、 一 九 二 〇 年 よ り 高 等 学 部 教 授 に 就 任 し、 戦 後 は 短 期 大 学 商 科 教授を務めた。白石英一郎 (一八九一―?) は、 庭球部、 陸上競技部で活躍した。石本徳三 (一八九二 ―?) は、 卒 業 後、 関 西 学 院 職 員 と な り、 会 計 課 主 任 と し て 働 い た。 商 科 の 最 初 の 卒 業 生 一 二 名 は 「『 学 院 の 生 死 我 に 在 り 』 と 云 ふ 気 概 と 自 重 の 念 を も つ て 常 に 終 始 さ れ た 」 と『 高 等 商 業 学 部 二 十 年 史』は伝えている(二九頁) 。 ( 29) 原 野 駿 雄( 一 八 九 四 ― 一 九 三 二 )。 一 九 一 二 年、 高 等 学 部 文 科 入 学 後、 神 学 部 に 転 じ、 一 九 一 九 年 に 神 学 部 を 卒 業 し た。 文 科 一 期 生 四 人 の 内 三 人 は す ぐ に 退 学 し た た め、 一 九 一 五 年 に 原 野 が 一 級 下 の 田 中 貞、 二 級 下 の 柳 原 正 義 と 共 に 文 科 か ら 神 学 部 に 移 っ た 時、 文 科 生 は 皆 無 に な っ た( 残 る 一 人 は病気療養中) 。ベーツは原野を懸命に引き留めたが、 最後は 「神様の声に従います」 と言って祈り、 そ の 後 一 切 こ の こ と に 触 れ ず、 原 野 を 励 ま し 続 け た( 一 九 七 〇 年 八 月 二 八 日 開 催 の「 関 西 学 院 職 員 修 養 会 」 で 原 野 駿 雄 が 語 っ た 言 葉 よ り )。 一 九 二 七 年、 神 学 部 教 授 に 就 任 し、 神 学 部 長、 初 代 宗 教 総主事を務めた。 ( 30) 村 上 博 輔( 一 八 六 五 ― 一 九 二 六 )。 専 門 部 文 学 部 教 授。 吉 岡 美 国 お よ び 関 西 学 院 初 期 の 教 職 員 一 般
に 見 ら れ る ア メ リ カ 一 辺 倒 の 風 潮 を 痛 烈 に 批 判 し た。 当『 紀 要 』 第 七 号( 二 〇 〇 一 年 ) か ら 二 一 号 (二〇一五年)に『村上博輔日記抄』が翻刻されている(一一号を除く) 。 ( 31) 木 村 禎 橘( 一 八 八 五 ― 一 九 六 九 )。 高 等 学 部 商 科 開 設 時、 商 科 出 身( 東 京 高 等 商 業 学 校 ) の 唯 一 の 教 員 だ っ た。 ベ ー ツ と 相 談 し、 高 等 学 部 の モ ッ ト ー ''Mastery for Service'' と ウ ォ ッ チ ワ ー ド
''Character & Efficiency''
を定めた。 ( 32)佐藤清 (一八八五―一九六〇) 。詩人。 一九一三年から二三年まで高等学部文科で英文学を教えた。 (『佐 藤 清 全 集 Ⅱ( 詩 )』 、 詩 声 社、 一 九 六 三 年、 二 六 七 ― 二 七 八 頁、 『 文 学 部 回 顧 』、 一 九 三 一 年、 五 七 ― 五八頁) 。 ( 33)岸波常蔵(一八七六―一九五四) 。一九一五年より高等学部教授( 「履歴書」 、『母校通信』第一四号、 一 九 五 五 年 五 月、 二 六 頁 )。 後 年、 庶 務 主 事 と し て ベ ー ツ を 支 え た( 辻 学「 『 奉 仕 の た め の 練 達 』 登 場と時局的判断」 『学院史編纂室便り』第二七号、二〇〇八年六月六日、一―四頁) 。 ( 34) 石 田 祜 六。 一 九 一 五 年 か ら 一 七 年 ま で 高 等 学 部 商 科 教 授 と し て 商 業 学 を 担 当 し た( 「 旧 職 員 一 覧 表 」 『高等商業学部二十年史』附録一五頁) 。 ( 35) Robert Cornell Armstrong ( 1876-1929 )。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 宣 教 師。 ベ ー ツ の あ と を 継 ぎ、 第二代高等学部長を務めた。 ''Kwansei Gakuin depends upon you!'' と学生に呼びかけ、自覚を促し た。 第 四 代 院 長 選 出 の 報 を カ ナ ダ で 受 け 取 っ た ベ ー ツ は、 ア ー ム ス ト ロ ン グ が 高 等 学 部 長 を 続 け る こ と、 高 等 学 部 の 二 学 部 分 離 後 は ア ー ム ス ト ロ ン グ を 文 学 部 長 と す る こ と を す ぐ さ ま 伝 道 局 に 要 望した( Letter of April 30, 1920, from C. J. L. Bates to James Endicott, United Church of Canada Archives )。 し か し、 こ の 願 い は 叶 え ら れ ず、 ア ー ム ス ト ロ ン グ は ベ ー ツ の 院 長 就 任 前 に 関 西 学 院 を去った。 ( 36) Harold Frederick Woodsworth ( 1883-1939 )。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 宣 教 師。 一 九 一 三 年 に 関 西 学 院 に 着 任 し、 高 等 学 部 文 科 で 英 文 学 を 教 え た。 着 任 時、 文 科 の 学 生 は 原 野 駿 雄 た だ 一 人 だ っ た