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<寄稿>トロント大学留学記(1) : アメリカでのキャンプ経験とトロントでの最初の学期 

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(1)

<寄稿>トロント大学留学記(1) : アメリカでのキャ

ンプ経験とトロントでの最初の学期 

著者

武田 建

雑誌名

関西学院史紀要

25

ページ

167-232

発行年

2019-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/00027603

(2)

トロント大学留学記(1)

 

  

アメリカでのキャンプ経験とトロントでの最初の学期

武田

 

Ⅰ   初めての留学   1   「うちの貨物船で行きなはれ」   2   いざ出帆 Ⅱ   太平洋波高し   1   船酔い   2   北太平洋の荒波 Ⅲ   いよいよアメリカ!   1   ダンちゃんのお出迎え   2   必死の食事   3   東部へひと飛び Ⅳ   再会とYMCAキャンプ

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  1   鉄鋼の町ピッツバーグ   2   トイレにびっくり!   3   キャンパーが来た!   4   「ジャパン・ナイト」   5   「びっくり!」の連続   6   ウクレレで子守歌 Ⅴ   公的扶助受給者の子どもキャンプ   1   ピッツバーグからクリーブランドへ   2   気になるキャンパー Ⅵ   いよいよトロントへ   1   汽車の旅   2   メイドのいる寮   3   図書館に行く   4   映画でも見よう   5   新入生のアドバイザー   6   安食堂 Ⅶ   トロント大学社会福祉大学院   1   学校が始まる   2   ドント・ワーリー(大丈夫!心配ない)   

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  3   授業内容 Ⅷ   チンプンカンプンの授業   1   持つべきものは友   2   モーガン先生との対決   3   最初のリポート提出 Ⅸ   楽しい実習   1   社会福祉実習   2   子どものグループ担当   3   スーパービジョン   4   子どもたちが喜ぶプログラム   5   ウクレレ再登場   6   「やさしく、こすって」   7   氷上の実習   8   氷上の戦い   9   トロントの冬   10   病院訪問 Ⅹ   留学生活あれこれ   1   ややこしい組織の大学   2   寮生活

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  3   久しぶりの日本食   4   生涯の友との出会い   5   グループワーク専攻 XI   カナダのクリスマス   1   クリスマス休暇   2   休暇 vs. 試験準備   3   クリスマス・ツリー Ⅰ   初めての留学   1   「うちの貨物船で行きなはれ」     一 九 五 六 年 春、 私 は、 東 京 の 国 際 基 督 教 大 学( I C U ) で 一 年 生 の 英 語 の 授 業 を 受 け て い た。 三月に関学の文学研究科前期課程を修了した私は秋からカナダのトロント大学の社会福祉大学院 に留学することが決まっていた。関学で修士号を取得した私が、国際基督教大学で新入生と机を 並 べ る こ と に な っ た 理 由 と ト ロ ン ト 大 学 へ の 留 学 が 決 ま っ た 経 緯 に つ い て は、 『 学 院 史 編 纂 室 便 り』第四七号(二〇一八年五月一日)で紹介したとおりである。   神戸YMCAのキャンプ長をしていらした今井鎮雄先生は、少しでもトロントでの社会福祉実 習に役立つよう、留学前にアメリカでキャンプリーダーの経験を積まそうとお考えになった。そ の結果、私は夏にピッツバーグYMCAの少年キャンプでリーダーをすることになった。東京の

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YMCA同盟にアメリカからきていたロング主事がアレンジしてくださったのだ。おまけに、彼 の長男で、秋から大学生になるボブも同じキャンプでリーダーをするという。ボブは、神戸Yの 余島キャンプで一夏リーダーの見習いをしていた。私にとっては後輩のキャンプリーダーで、大 きな支えになってくれる若者だった。   私は、内外協力会の奨学金を戴いて留学するのだが、当時、フルブライトでもなんでも、北米 に行く留学生はアジアとアメリカ西海岸の間を航行するアメリカン・プレシデント・ラインを利 用した。アメリカの客船の船底に、ずらりと並んだ 蚕 かいこだな 棚 のような二段ベッドに二週間、共同生活 よろしく押し込められるのである。経験者のお話をうかがっても、快適な船旅だったと言う人は い な か っ た。 「 そ ん な 船 に 乗 る の は 嫌 だ な …」 と 思 い、 貨 物 船 に 乗 せ て も ら う 手 は な い の か と 考 え始めた。どこからか聞いた話だが、貨物船だと乗客は個室でとても良い待遇らしい。   幸いなことに、上甲東園の父の家の近所に、四人の息子さんが全員関学というご一家が住んで いた。上の三人はアメリカンフットボール部員である。だから、普段から顔見知りだった。そこ で、 あ る 晩 お 邪 魔 し て、 「 プ レ シ デ ン ト・ ラ イ ン の 船 底 と 同 じ 船 賃 で、 私 を 西 海 岸 ま で 載 せ て 下 さる貨物船はないでしょうか?」と相談してみた。   あちらは船会社の重役さんである。こんな話はお手のものなのだろう。二~三日すると、六月 五日頃、神戸のメリケン波止場からロサンゼルス近くのロングビーチまでゆく船がある、という ご連絡を戴いた。大急ぎで内外協力会の了承をとり、この貨物船に乗ることに決めた。船の名は 日 ひ 川 かわまる 丸 。日本郵船の氷川丸と同じ発音であるが、あちらはれっきとした客船、私が乗せて戴くの は貨物船である。もっとも、同じ大きさの客室が四つあるので、一応貨客船ということにしてお

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こう。   当時、アメリカ留学といえば、月の世界へゆくような感じだった。朝日新聞阪神版に、なんと 私 の 留 学 の こ と が 写 真 入 り で か な り 大 き な 記 事 と し て 掲 載 さ れ た。 そ れ を 見 た の が 父 の 友 人 で、 実業界のお偉い方々だった。父経由で、お餞別として私にドル紙幣を下さった。一九六四年に観 光渡航が自由化される以前の話である。日本の経済界リーダーによる「海外現地視察」が許され 始めた頃であった。そういったエリート実業家は、使い残したドルを持ち帰っていたのだ。   今どきの方は「なんのことだ?」とお思いになるだろう。日本は太平洋戦争に負け、一九五四 年まで連合国軍の占領下にあった。一ドルは三六〇円と言われていたが、実際にはいくらお金を 払っても、公に円をドルに換えることは許されていなかった。私は、直接戦争には行かなかった 世代であるが、円はあってもドルが買えないという現実を経験し、初めて敗戦国の国民であるこ とを自覚したような気がした。 2   いざ出帆   出帆の前日と当日、 見送りの人たちへの対応と挨拶に疲れ果てた両親と私は、 前の晩にして、 「早 く出帆させてくれよ!」と言いたい気分だった。重い足取りで三宮までやっとたどり着いたとき、 母の提案で駅前の喫茶店のようなところで「最後の晩餐」にあずかることにした。疲れはてた親 子三人は話をする元気もなく、ただ黙々と出されたものを平らげた。誰も言葉にはしなかったが、 「早く船が出ないかな」という願いは同じであった。   翌朝、船にゆくと、もう見送りの人たちが来ていた。見送りの人たちはぞくぞくと船にやって

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くる。私のよく知らない、父や母の友人知人まで来たのには驚いた。関学関係では、当然文学部 の社会事業学科の先生と学生、教育学の仲間も来ている。アメリカンフットボール部は、監督の 米田満先生以下、OBと現役。それから、教会にYMCAなどなどである。外国へゆくことは珍 しい出来事だった。しかも、地元の神戸港から出発とは滅多にないことだ。   船 が 出 帆 す る と き、 そ の 頃 は 国 内 船 で も 紙 テ ー プ を 投 げ る こ と が 許 さ れ て い た。 た だ 見 送 り の人たちが埠頭から船に向かってテープを投げても、デッキにいる私にまではなかなか届かない。 大量のテープが私の元に届けられ、私が船の上からテープを投げる羽目になった。二本の手では 沢山のテープを握れない。そこで、ほとんどのテープを船のデッキの上のありとあらゆるものに 結び付けておいた。   誰がどう手配したのか知らないが、モーターボートの親分のような船に乗って、両親をはじめ、 かなりの人数の人たちが私の船を追いかけてきた。しかも、相当接近してくる。私の乗っている 貨物船が見送りの船にぶつからないか、気が気でない。皆さん、盛んに手を振って下さる。私も 手を振らなければ失礼に当たる。恩師で精神科医の杉原方先生も乗っておられ、二人でよく練習 した「手品もどき」の動きをやって笑わせて下さった。皆さんのご厚意に感謝。でも、このオー バーな見送り方はどうだ?   留学って本当に大変だ。皆さんの期待の大きさと「前途多難」とい う予感が私の頭をよぎるのだった。

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Ⅱ   太平洋波高し 1   船酔い   船は、防波堤と防波堤の間を通って港の外に出た。しかし、防波堤という「囲い」の外に出た だけで、いつものように平穏な瀬戸内海である。毎夏、小豆島のYMCAキャンプに往き来して いた海だから慣れっこだ。大きな波もうねりもなく、その日もいつものように静かだった。   紀伊水道にさしかかると、船は大きく揺れ始めた。私は船旅が苦手だ。とくに船の揺れに弱い。 英語で言えばシー・シック、つまり船酔いである。しかし、船酔いになる前に「見送り疲れ」と なり、客室のベッドの上で「うたた寝」を始めてしまっていた。   そ ん な 私 の と こ ろ へ、 「 船 長 が お 呼 び で す 」 と、 ボ ー イ さ ん が 連 絡 に き て く れ た。 ど う や ら、 私たち船客とこれから毎日食事を共にする船の上級乗組員、つまり二等航海士や機関士以上の士 官 と パ ー サ ー、 英 語 で 言 え ば オ フ ィ サ ー と ご 対 面 を す る た め だ。 そ し て、 「 今 日 か ら ロ ン グ ビ ー チに着くまで、毎日食事はこの食堂でご一緒しましょう」と言う。乗客は、ニューヨークに赴任 する商社の駐在員、青山学院中学の英語の先生、東京大学医学部の先生をされているご主人のも とへいく奥様と赤ちゃん、それにこの私である。   食堂には、正方形のテーブルがきちんと並べられている。動かそうとしてもびくともしないよ う、四本の脚が床にがっちり止められている。テーブルが動くかと、おそるおそる押したり引い た り し て い る 私 を 見 て、 「 も う じ き、 何 故 動 か な い よ う に な っ て い る か 分 か り ま す よ 」 と、 若 い 航海士が意味深に言った言葉がやけに気になった。

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  メニューは日本食が中心であるが、ときどき中華っぽいものやハンバーグのようにやや洋風の ものも出てくる。 おかずのチョイスはないが、 朝食だけは和食とトースト程度の選択が可能である。 一方、日に日に風と波は激しくなってくる。そして、寒さも厳しくなる。もちろん、部屋の中は 暖かくしてあるが、船内を散歩するついでに甲板に出たら、 「寒いよー」という程になってきた。 出帆前、私は世界地図を広げ、神戸とロングビーチを定規で線を引いて結んでみた。すると、そ の 線 は ハ ワ イ の 近 く を 通 っ て い る。 「 し め た!   双 眼 鏡 で 覗 け ば ワ イ キ キ ビ ー チ の フ ラ ダ ン ス が 見られるかな?」などと思ったことは、全くもって浅はかだった。   貨物船の目的は、預かった荷物を安全かつ速やかに、しかも安価に目的地に届けることである。 地球は丸い。だから、神戸から西海岸にゆくには、南太平洋をゆくよりも、まず北にどんどん上 がってアリューシャン列島の近くを通ってゆくのが最短距離だという。どおりで船はゆれ、私は ひどい船酔いだ。こんな時は、私の大好きな「お床の中の男」になるに限る。午後、ベッドでう つらうつらしていると、 「コン、 コン」と、 誰かがドアをノックする。目をこすりながら開けると、 例のボーイさんが立っていて、 「船長がお呼びです」と言う。   大急ぎでデッキに立っている船長さんのところへ行くと「武田君、何をしてた?」というご質 問だ。 「船酔いで、横になっていました」と正直に告白すると、 「これから留学する若い者が、昼 寝ばかりしていてどうする。僕の横に立って、北太平洋の荒波に慣れなさい」とおっしゃる。心 の中で 「僕は船乗りになるわけではないので、 別に船酔いを克服できなくてもいいんです」 と思っ たが、そんな不謹慎なことは「関学ボーイ」たる者、絶対口に出せない。

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2   北太平洋の荒波     北太平洋の荒波は大きく、激しい。船の舳先から大波が来たと思ったら、たちまち甲板は全部 波の下に隠れてしまう。 船長と私が立っている船の中央の上の方まで波が迫ってくる。 「お父さん、 お母さん、長い間お世話になりました。僕は北太平洋の海の底に沈みます」と言いかけたら、船 の 舳 先 が 海 の 中 か ら 少 し ず つ 見 え て き た。 「 や れ、 助 か っ た。 こ の 船 は 潜 水 艦 か な?」 と い っ た 言葉が出てくるほどの激しさと怖さである。船の高いところに立っていると、揺れも大きいのだ ろう。吐き気がしてきた。しかし、怖い船長にそうとは言えない。 「そろそろ勉強にもどります」 といって、自分の部屋に逃げ帰った。   翌 日、 「 武 田 さ ん、 そ ろ そ ろ ク ジ ラ が 見 え る 頃 で す よ 」 と、 一 等 航 海 士 が 私 を 誘 い 出 し た。 船 長の差し金にちがいない。しかし、船の外は霧が立ちこめ、暗くて何も見えない。聞くと、船は アリューシャン列島の沖を航行しているそうだ。次の日は二等航海士の番だ。同じ世代であるか ら気が楽だ。 「イルカは群れをなして移動するから壮観ですよ」 。「そうですか。 海 イ ル カ 豚 はいるか?」 なんて、シャレにもならない。   気が付くと寒い。暖房はしてあるのに、心理的に北太平洋の荒波に翻弄され、身も心もくたく た で、 身 体 が 冷 た く な っ て し ま っ た よ う だ。 「 有 難 う ご ざ い ま し た。 寒 く な っ た の で、 お 風 呂 に 入れて貰ってきます」と、お礼の言葉もそこそこに、風呂場に直行である。船内とは言え、当時 の日本のどこの家庭にでもある四角い木の風呂桶である。なみなみときれいなお湯が入っている。 ただし、このお湯は海水だ。だから、風呂桶の中で温まり、身体を洗うまでは、桶のなかの潮水 を使う。あがる前に、別の器に入っている真水を頭からかぶって塩気をとらないと、あとで身体

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がひりひりする。   こうやって、船長以下、乗組員の方々に助けられ、励まされ、私の船酔いも船旅もだんだん終 わりに近づいてきた。 一〇日目が過ぎて、 一日か二日経っただろうか。 突然、 霧が晴れ、 陸地がはっ きりと見えてきた。その頃になると、波もようやく静まり、あれほどひどかった船酔いも、ほん の少しだけ楽になったような気がしてきた。   陸 地 が だ ん だ ん 近 づ い て き た。 サ ン フ ラ ン シ ス コ の 沖 は と っ く に 通 り 過 ぎ、 そ ろ そ ろ 目 的 地 ロングビーチである。最後の朝食にお赤飯が出たことを今でも覚えている。船酔いに悩まされた この二週間、決して楽しかったとは言わないが、私の六年数カ月におよぶ長い留学生活の出発点 がこの太平洋横断であることは間違いない。これから一体どんなことが待ち受けているのだろう か?   船の中の毎日は、日本にいる時とまったく変わりがなかった。だが、この船を降りた途端、英 語の国だ。いよいよ留学生活の「はじまり、はじまり」である。 Ⅲ   いよいよアメリカ! 1   ダンちゃんのお出迎え     ロ ン グ ビ ー チ に 着 い た。 こ れ か ら 最 低 二 年 間 ト ロ ン ト 大 学 で 勉 強 す る の だ か ら、 荷 物 は も っ と沢山持ってきたかった。太平洋横断は船だから、いくらあっても問題はない。しかし、その後、 西 海 岸 か ら ト ロ ン ト ま で は 飛 行 機 と 汽 車 の 一 人 旅 だ。 沢 山 の 荷 物 が あ っ た ら 身 動 き が と れ な い。

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父の友人たちから過分なお餞別をいただいた。必要なものはトロントに着いたら買うことにしよ う。   スーツケースを二つ抱えて甲板に出る。神戸YMCAの山川先生からロサンゼルスのご親戚へ お預かりした品は、後生大事に首からぶら下げた。もっとも、お渡しする相手は初対面だし、名 乗り出て下さるまでどんな人か知る由もない。知っている人は誰もいないだろうと思っていた出 迎 え の 人 の 中 に、 私 が よ く 知 る お 顔 が あ っ た。 「 あ、 関 学 で 学 生 Y M C A の 活 動 を し て い ら し た 藤 田 允 さ ん だ!」 。 大 先 輩 の 藤 田 さ ん( 通 称 : ダ ン ち ゃ ん、 一 九 七 九 年 四 月 か ら 一 九 九 一 年 三 月 まで関西学院国際センターで事務長、室長を務めた)は、学生時代から世界を相手に活躍するよ うな人だった。卒業後、 日本YMCA同盟の学生部に入られた。だが、 私が海を渡った頃は、 イー デン神学校(ミズーリ州)を卒業され、ちょうどカリフォルニア大学ロサンゼルス校で学んでお ら れ た。 彼 の 友 人 の ア メ リ カ 人 の 車 で ロ サ ン ゼ ル ス の Y M C A に 連 れ て 行 っ て も ら い、 そ の 後、 みんなで昼食を食べたことを覚えている。私にとっては、日本を出てから初めての英会話である。   藤田さんのグループと別れ、YMCAの宿舎に帰る。疲れた、眠い。そうだろう、日本を出て からずっと波の上で、揺られゆられて二週間。船酔いに悩まされ、ふらふらしながら生きてきた のである。たとえ言葉は出来なくても、話せなくても、大地の上を歩けるのは幸せなことだとし みじみ感ずるのだった。とっくの昔に、船酔いはどこかに飛んで行ってしまった。 2   必死の食事   元 気 が 出 る と、 お 腹 が 空 い て い る こ と が 分 か っ て き た。 で も、 こ こ は Y M C A の 宿 舎 で あ る。

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食べるには、面倒でももう一度外に出た方がいいだろう。お金はある。近所に食堂があることも 確認済みだ。 あとは店に入ってオーダーするだけだ。 「ヨーシ、 出発!」 。 誰もいない部屋に向かっ て「 い っ て ま い り ま ~ す!」 。 こ う や っ て 元 気 づ け で も し な い と、 一 人 で ア メ リ カ の レ ス ト ラ ン には入れない。まだ、アメリカ上陸一日未満である。   レストランは目と鼻の先だ。すぐに着いたが、中に入る勇気が湧いてこない。 「何を食べよう」 、 「何と言おう」 、「何を飲もうか」と、次から次へ心配が湧いてくる。だんだん周囲は薄暗くなる。 もうお腹はペコペコだ。 「ゴー・フォア・ブローク」 。第二次世界大戦で、二世の四四二部隊が突 撃するときに叫んだ言葉だ。私も一か八かの突撃だ!   お そ る、 お そ る、 ド ア を 開 け た。 「 い ら っ し ゃ い ま せ 」 と い う 声 は な か っ た が、 ウ ェ イ ト レ ス が 奥 へ 案 内 し よ う と す る。 私 は 入 り 口 に 近 い 席 を 指 さ し て、 「 こ こ が 良 い 」 と 言 っ た。 多 分、 私 が言った言葉より、指でさした行動言語が通じたのだろう。相手は「OK」と言って、メニュー を持ってきてくれた。何をオーダーしたかは全く記憶がない。しかし、メニューを指させば、何 を食べたがっているかは世界中どこでも必ず通じる。   それは良かった。その次が大変だ。敵は「何を飲むか?」と聞いてくる。 「何がありますか?」 。 「コフィー」 、これは最後に「F」があるから発音し難い。 「ミルク」 、これは真ん中に「L」があ るからダメ。三つ目の「ティー」 、これはいい。   「ティー、プリーズ」   順調な滑り出しだ。なにも気取って「イングリッシュ・ティー」などと 言わなくても、ここはアメリカだ。   でかした、 でかした。次はポテトだ。相手は 「どんなポテトをお望みか?」 と尋ねているようだ。

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また、 「何がありますか?」 。「フレンチ ・ フライド」 、これは「F」があるから発音し難い。 「マッ シュド・ポテト」 、このマッシュドはどんなスペリングだ?   「MA」かそれとも「MU」か?   面 倒 く さ い「 パ ス 」 だ。 最 後 は「 ベ イ ク ド・ ポ テ ト 」。 こ れ が 良 い。 「 ベ イ ク ド、 プ リ ー ズ 」。 最 後 に、 敵 は「???」 と 言 っ た。 「 ア イ・ ベ ッ グ・ ユ ア・ パ ー ド ン 」 と、 中 学 部 で 英 会 話 の 時 間 にハービン先生から習った通りを言った。どうやら、通じたらしい。相手はもう一度、二度言っ て く れ た が、 「 ミ ー・ ノ ー・ ア ン ダ ス タ ン ド 」 で あ る。 「 時 は 金 な り 」。 相 手 も 私 だ け に か ま っ て はいられない。 「OK」と言って、無罪放免にしてくれた。   Y M C A の 宿 舎 の ベ ッ ド で 寝 る 前 に、 「 留 学 と い う の は 大 変 だ …」 と し み じ み 思 っ た。 ま だ、 アメリカ上陸第一日目の夜である。これから先、どうなるのだろうか?   何とも言えぬ、漠然と した不安が頭をよぎるのだった。 3   東部へひと飛び   翌日、ピッツバーグ行きの飛行機は午後遅い便である。途中で乗り換えれば、いろいろ近道は あったのだろうが、とにかく生まれて初めてのアメリカ旅行である。英語も話せないし、読むの も遅い。飛行機の出発までは、咋日お土産をお渡しした神戸の山川先生のご親戚が車でロサンゼ ルスをご案内下さった。ハリウッドの豪勢なお屋敷を見たり、車から降りなくてもハンバーガー を食べられるレストランに行ったり。浦島太郎が竜宮城に着いた時のような心境である。 「ただ、 物珍しく面白く、月日がたつのも夢のうち♪」といった気持だ。夕方ロスの空港で降ろして戴く。 さあ、これからは本当に一人旅だ。

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  空港の案内嬢に切符を見せる。まだ時間があるけど、ゲートまでは早めに行こう。スーツケー スを預けて身軽になりたい。もっとも、身軽になったところで、どこへも行くところはない。搭 乗口から離れて、迷子になったら大変だ。   やっと飛行機に乗り込む時間がきた。搭乗券というのか、自分の席の番号を後生大事に右手に 持ってきょろきょろ見回していると、スチュワーデスのお姉さんが席を指さしてくれる。手真似 足真似で全ての用が足りるなら、アメリカでの生活は簡単なのに。   ざっと六〇年前の飛行機である。西海岸から東海岸に近いピッツバーグまで一飛びの便なんか なかったのだろう。 シカゴで一旦、 地上に降りた。 後で考えると給油のためだったのかもしれない。 席を離れる乗客も多い。実は、私は夕食を食べていなかった。それで降ろしてもらって、何かお 腹 に 入 れ た か っ た。 搭 乗 口 を 出 る 前 に、 「 ゲ ー ト 番 号 」 を メ モ し て お こ う。 誰 か に 何 か を 尋 ね る のも一苦労だ。目の前にちょっとした食べ物を売っているカウンターがある。背もたれも何もつ いてない丸い腰かけに座ろうとするのだが、この椅子の高さはなんだ。走り高跳びの選手の跳躍 よろしく、 「エイ!」と気合を入れて飛び乗らないと届かない。次は、 何をオーダーするかである。 「ホットドッグ」 にしよう。出発前に言われた。あの細長いパンに細長いソーセージを挟んだのは、 「ホットドッグ」ではない、 「ハットドッグ」と言わないと通じないと!   とにかく今回は通じた。 次は「何を入れますか?」と尋ねてきた。そんなときは「エブリシング」と言えばいい。飲み物 は「コーク」 。これでアメリカの子ども並には機能できている。ちょっと情けないような、だが、 少しだけ達成感が残った。

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Ⅳ   再会とYMCAキャンプ 1   鉄鋼の町ピッツバーグ   えっちらおっちら、やっとのことでピッツバーグにたどり着いた。ロングさんご夫妻と息子の ボブが迎えてくれる。日本で知っている人たちとの再会が嬉しい。彼らは大して日本語を話せな いし、それにアメリカ人だ。しかし、日本で出会っていただけに、なんとなく一安心だ。キャン プにゆくまで、ロングさんのお知り合いのお宅に泊めて貰う。キャンプ中、二週間ごとにキャン パーが入れ替わるときには一泊の休みがあるので、泊まりに行くお宅でもある。   ロングさん一家と買い物にでる。一緒にキャンプリーダーになるボブは、Tシャツや下着を何 枚も買っている。 「キャンプでは新しいシャツや下着を着るのかな?」と尋ねたら、 「たまたま古 くなったから」と言う。私は新しいのを日本から持ってきたつもりだ。だから、ほんの一~二枚 しか買わなかった。これが大きな間違いのもとであることが後に判明する…。   ホストファミリーのお嬢さんはまだ中学生。でも、背が高く、ちゃんとお化粧をしているので、 大学生かと思った。関学前の甲陵中学の女子生徒とはまったく違う。夕方には、ボーイフレンド が 迎 え に 来 て デ ー ト で あ る。 映 画 に 行 っ た よ う だ。 な ん と、 ボ ー フ レ ン ド の お 父 さ ん が 運 転 す る車で迎えにきて、映画館まで送って貰っている。えらく物分かりの良いお父さんだと思ったが、 息子が中学の上級生になってもデートの相手を見つけることができないと、この国の親は結構心 配するようだ。当時、日本では中学生がデートするなんてもっての外であったのに。アメリカで は、子どものデートに家族総出で手伝うのか?   何だか、日米の文化的差異を目の当たりにした

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ような気がする。 2   トイレにびっくり!   キャンパーと呼ばれる子どもたちが来るまでの数日間、ペンシルベニア州内外の大学から集め られたキャンプリーダーたちに、研修会のような「準備期間」 (トレーニング ・ キャンプ)があっ た。子ども一人ひとりについて毎日簡単な記録を書くのだが、どんな点に注意して書くかといっ た類のことである。社会福祉と教育心理を専攻し、何年も神戸YMCA余島キャンプ長今井鎮雄 先生のもとでリーダーをしてきた私には、そんなことはお手の物だ。   このキャンプで一番ショックだったのは、トイレの構造である。日本の男子用公衆トイレの場 合、 「小」は全員一列に並んで「発射」するが、 「大」は周囲と遮る仕切りがあり、最低限のプラ イバシーは保たれている。ところが、このキャンプでは大の便器だけがむき出しのまま、ずらっ と並んでいる。アメリカでは、リーダーもキャンパーもこうしたやり方に子どもの時からある程 度 慣 れ て い る の だ ろ う。 「 実 弾 」 を 発 射 し な が ら 隣 と 話 を し て い る!   だ が、 日 本 で 生 ま れ 育 っ た私にとっては、まさに「未知との遭遇」 。慣れるまで悪戦苦闘の連続であった。 3   キャンパーが来た!   トレーニング・キャンプは二泊三日だからすぐに終わった。私にとっては、言葉が英語である 以 外、 「 ほ と ん ど 神 戸 Y M C A の キ ャ ン プ と 変 わ ら な い 内 容 」 で あ る こ と を 知 っ た だ け で も 大 き な収穫だった。英語は出来ないが、やるべきことが分かったので大安心である。

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  とは言うものの、いざ実際に一〇名のアメリカの子どもが自分のキャビンにくるのかと思うと、 緊 張 せ ざ る を え な い。 親 に 連 れ ら れ、 年 齢 的 に は 小 学 校 の 三 年 生 と 四 年 生 が 一 〇 名 や っ て き た。 半分が白人で、残り五名が黒人である。大抵はご両親が付き添ってきているが、なかにはダウン タウンYMCAのバスに乗って、子どもだけで来たキャンパーもいる。   まず、トレーニング・キャンプで練習した通り、私の自己紹介から始めよう。続いて、各キャ ンパーがどこから来たか、何年生で、どこに住み、どんなことが好きかといった簡単な自己紹介 だ。その次は、どうやってベッドを決めるかである。日本ならば、差し当たりジャンケンである が、 こ の 国 に は そ れ は な い だ ろ う。 「 あ み だ ク ジ 」 と い う わ け に も ゆ か な い。 小 さ な 紙 に 一 か ら 一〇までの数字を書き、それを帽子のなかに入れて「くじ引きだ!」 。   顔と名前を覚えようとする。困ったことに、白人の子どもはみんな同じに見える、黒人の子ど も も 同 様 だ。 昔、 中 学 部 に 来 た 若 い 宣 教 師 見 習 い( J 3) の ジ ム・ サ ー ロ ー 先 生( 驚 く な か れ、 二〇一七年にICANがノーベル平和賞を受賞したとき、受賞講演を行ったサーロー節子さんの ご夫君である)から、一年目はクラスの生徒たちがみんな同じ顔に見えたと聞いていたが、それ と全く同じ経験であった。   仕方がない、紙に名前を書いて、その横に「トムは白のTシャツ」 、「ビルは赤と白のストライ プ」と、服装をメモしておいた。これは案外役に立つ。いいアイディアだと自画自賛していたら、 午後の水泳の時間になって全員シャツを脱いだら、誰が誰やら分からなくなってしまった。   困ったことは無数にある。食事が終わると、歌を歌ったり、スピーチがあったりする。それは 私がやるわけではないから、 「参加することに意義あり」 といったところだ。困り果てたのは、 キャ

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ンプ長やプログラム・ディレクターのアナウンスが聴き取れないことだ。子どもは分かるだろう が、肝心のリーダーの私が分からないというのはどうも具合が悪い。そこで、同じエイジグルー プのリーダーをしているボブに教えてもらうことにしておいた。これは大いに助かった。   ある大雨の日の昼食時、例のアナウンスがあったが、ボブはトイレに行っていた。私はアナウ ンスを「大雨で川が増水しているから、 見物にいってごらん」と理解した。常識で考えたら、 キャ ンプでそんなアナウンスがあるわけがない。ところが、英語でものごとを聞いたり、考えたりし ていると、その英語力に合わせ、幼い子どもの思考レベルに陥ってしまうことがある。子どもを 連れ、川の方に行こうとする私を見て、プログラム・ディレクターが必死に止めた。九死に一生 を得た思いだった。 4「ジャパン・ナイト」   キャビンのリーダーをしていても、ときどき自分のキャビン以外のプログラムに参加するとか、 特別の役目を果たさなくてはならないことがある。 「私は日本から来て、 英語が不自由だから」と、 私 が 属 す る 中 学 年 の セ ク シ ョ ン・ デ ィ レ ク タ ー に 言 っ た の だ が、 「 お 前 は 遠 い 日 本 の 国 か ら 来 た 貴 重 な リ ー ダ ー だ か ら、 ぜ ひ 金 曜 日 の 夕 食 後、 私 た ち の セ ク シ ョ ン で 日 本 の 話 を し て く れ 」 と、 逆に励まされてしまった。   さて何を話そうか、何をやろうか?   まず、日本から持ってきた浴衣の出番である。これを着 て日本人らしくしよう。今から六〇年以上前の話である。日本人の大部分は畳に座り、布団を床 に敷き、その上で寝る。左手に茶碗を持ち、右手で箸を握ってご飯(米)を食べる。魚好きな国

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民だが、肉も大好き。その代表がすき焼きである。頭に浮かんでくる日本の生活を手短に説明す る。それでも、結構良い反応があった。相手は小学校の三、 四年生だ。   苦心の末、 日本の話をすませ、 「ジャパン ・ ナイト」 は無事終了。 「やれやれ」 とほっとしていたら、 同じセクションのリーダーが、突然「ケン、ヨーカン?」と聞いてきた。ジャパン・ナイトで日 本の食べ物や飲み物の話をした直後だったので、てっきり彼が羊羹について質問したのだと思っ た。それで、 「ヨウカンとは非常に甘く、硬めのジェリーのような日本を代表するお菓子である」 と説明した。するとまた、 「ヨーカン?」と聞くではないか。もう一度、 「ヨウカンとは、甘くて ちょっと固い、日本のジェリーである」と説明する。   相手は困ったような顔をして、また「ヨーカン?」である。ようやく分かったのは、彼は必死 になって「ユー・アー・カミング?」と、南部訛の英語で尋ねていたのだった。しかし、南部訛 りを聞いたことがない私には、 「ユー・アー・カミング?」が「ヨーカン(羊羹)?」に聞こえ、 一所懸命「甘くて、硬い、ジェリー」と答えていたのであった。   六 年 数 カ 月 の 留 学 生 活 で 英 語 に ま つ わ る 失 敗 は 無 数 に あ る。 だ が こ れ は、 私 に と っ て 最 初 の、 皆さんに笑って戴けるベストの失敗談のひとつである。 5   「びっくり!」の連続   キャンプ場のすぐそばに線路が敷かれていた。客車は見たことがなかったが、日に何回も長い 貨物列車が通るので、子どもを連れて見に行ったことがある。日本の貨物列車も相当長いが、ア メリカのそれは日本の何倍もの長さである。その上、ひとつの貨車がとてつもなく大きい。貨車

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の数を一つ二つと数えたキャンパーもいたが、途中で数え切れなくなったといって止めてしまっ た。   貨物列車の長さと貨車の大きさは、そのままその国の産業の強さと力を物語っているのではな い だ ろ う か?   「 見 ざ る、 聞 か ざ る 」 で、 ア メ リ カ の 国 力 を 知 ら ず に 戦 争 を 始 め た 無 謀 さ を し み じみ考えさせられたキャンプ生活であった。   私が初めて太平洋を渡った一九五六年、日本ではやっとテレビが普及し始めていた。ほぼ同じ 頃、電気冷蔵庫や洗濯機も市販されたように思う。当時、テレビを含めたこの三つの電化製品を 日本では「三種の神器」と呼んでいた。一九五〇年代半ばから後半にかけての話である。アメリ カはそれより何年か早かったのだろう。少なくとも、洗濯に関しては、家庭での手洗いは過去の も の に な り、 多 く の 家 庭 で は 一 週 間 分 ま と め て あ の 大 き な ア メ リ カ 製 電 気 洗 濯 機 に 放 り 込 む か、 クリーニング屋に出していた。当時、クリーニング屋では、ドライクリーニングとカッターシャ ツのように洗濯してアイロンをかけるもの、そして第三のサービスとして普通の水洗いもやって いた。   私には、キャンプのリーダーたる者、自分の下着ぐらいキャンプの洗濯場で手洗いし、物干竿 に干すものだというイメージがあった。それが、半ダースの下着を日本から後生大事に持ってき た 私 と 、 二 週 間 に 一 度 の 休 み に 家 に 持 ち 帰 り 、 電 気 洗 濯 機 に 放 り 込 む ア メ リ カ の 学 生 と の 差 に な っ たのである。週末キャンプに残るリーダーには、 クリーニング屋が取りに来て、 洗ってすぐ に配達してくれるサービスがあった。   週末まで下着がもたない私は、こまめに洗ってキャンプの洗濯場に干しておいた。そこで顔を

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合わせたのが、ドイツから夏の間キャンプ・リーダーをしに来て、手当を貰い、その金でアメリ カ見物をして帰るドイツ人学生だった。戦勝国と敗戦国の暮らしの差が、洗濯事情に反映されて いたような気がしたものだ。キャンプ前にピッツバーグの郊外で、ボブが沢山下着やシャツを買 い込んでいた理由がやっとわかったが、ちょっと手遅れだったようだ。 6   ウクレレで子守歌   アメリカやカナダの子どもたちは、就寝時間になってもなかなか眠らない。一人のリーダーに 一〇人のキャンパーである。彼らは数を頼みに、リーダーを悩ます 術 すべ をいろいろ知っている。や れ「喉が渇いた、水を飲みに行きたい」 、「トイレにゆきたい」 、「暑い」 、「明る過ぎる」 、「暗過ぎ る」などなど、エトセトラであった。   そんな時に威力を発揮したのが、日本から持ってきたヤマハのウクレレである。神戸YMCA のキャンプで、リーダー仲間から弾き方を教えてもらった、このちびっ子弦楽器、大きな音は出 せないが、子どもを寝かしつけるにはもってこいの武器だった。日本の子どもの歌はスローテン ポが多い。ボロンボロンとウクレレを弾きながら 「夕焼け小焼け」 、「カラス何故鳴くの?」 といっ た童謡を歌っていると、その単調なメロディーが眠気をさそうのだろうか、しばらくすると子ど もたちは黙って寝てしまう。   始 め、 私 の キ ャ ビ ン だ け ど う し て あ ん な に 早 く 寝 る の だ?   と い ぶ か し く 思 っ て い た 仲 間 の リーダーたちも、どうやら原因はウクレレにあるらしいと気がついたようだ。そうなると、自分 のキャビンの子どもが寝付いて、キャンパーから解放された私に「SOS」の発信が届く。あち

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らこちらのキャビンを回って、ウクレレ日本童謡コンサートの開催である。   ウクレレが活躍したのは、就寝時だけではない。夕食前、私たち三年生四年生組は、食堂の入 口に全員が集まって入場する。 揃うのを待つ間、 ウクレレの登場だ。 アメリカの子どもの歌やキャ ンプソングはいろいろあるが、ここで必ず歌うのが、私が紹介した「ジャパニーズ・ルンバ」で ある。ただし、この歌、日本ではほとんど誰も知らない。戦後、沖縄かどこか、アメリカ軍の駐 屯地に来ていた兵隊か、彼らに近い日本人が作ったのだろう。    どこ行くの?   ね    ここへ来なさい、ハイ    お早うございます    ジャパニーズ・ルンバ    アイ   アイ   アイ    ジャパニーズ・ルンバ    アイ   アイ    ジャパニーズ・ルンバ    アイ   アイ   アイ    お早うございます と い っ た、 簡 単 な 歌 詞 と メ ロ デ ィ ー で あ る。 日 本 語 の 部 分 は 私 が 歌 い、 「 ジ ャ パ ニ ー ズ   ル ン バ

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  アイ   アイ   アイ」というところをキャンパー全員で歌う。これが受けて、ご飯前の大合唱に なるのであった。 「芸は身を助ける」とは、正にこのことだ。 Ⅴ   公的扶助受給者の子どもキャンプ 1   ピッツバーグからクリーブランドへ   ピッツバーグのYMCAキャンプで二カ月間のリーダー経験を終え、いよいよトロントへ向け 出発と思ったが、そんなに早くトロントに着いても仕方ないだろうと考え直した。関学社会福祉 の先輩、丹治義郎先生がウエスターンリザーブ大学の社会福祉大学院を修了し、夏の間、貧困家 庭の子どものキャンプでプログラム・ディレクターをしておられる。そこを見学してから出発し ても遅くはないだろう。   持つべきものは先輩である。電話をすると「いつでも来い。キャンプに仕事もある」という有 難いお言葉である。ピッツバーグのホストファミリーに送られ、グレイハウンドバスでクリーブ ランドへ。到着して電話をすると、丹治さんがすぐに迎えに来て下さった。     丹治さんは、裕福なユダヤ系アメリカ人のお宅に、書生のような形で住まわして貰っておられ た。そのお宅だけではない、周囲はみんな立派な米国のお屋敷である。そんな所で週末を過ごし、 翌日からまた貧困家庭の子どものキャンプが待っているわけだ。ギャップが大きいだろうと思わ ずにはいられない。私が到着した夜は、丹治さんの社会福祉専攻の大学院の同級生とのお別れ会 でもあった、ちょっとしたレストランで夕食を食べる。日本を出てから、社会福祉の大学院の学

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生に会うのは初めてである。良い経験をした。   丹治先生は関西学院大学経済学部出身で、学生時代は山岳部に属していらしたが、どちらかと いうと「探検部」的な活動をしておられた。樺太の山にこもったりして、遭難事故も経験なさっ たそうだ。そして、太平洋戦争から帰られた後、神戸市の社会福祉協議会にお勤めのときに竹内 先生と出会い、社会事業学科の助手として、また地域福祉領域の教員候補として関学にいらして 助手になられた方である。数年後、ウエスターンリザーブ大学へ留学なさったのだ。お招きした 二人のアメリカ人大学院生は同じクラスの学生ではあるが、丹治先生に尊敬の念を抱いているこ とはその態度からも明らかだった。我らが先輩、大したもんや!   翌日、公的扶助を貰っている家庭の子どものウェルフェア・キャンプに到着。キャンパーが寝 泊まりするキャビンは粗末なバラックのような建物だ。ピッツバーグのYMCAキャンプにあっ た乗馬、 ライフル、 カヌーといった様々な趣味のプログラム、 プールでの水泳、 野球やフットボー ルの道具、さまざまなレクリエーションの設備はない。広いがただの原っぱのようなグラウンド には、ミットがひとつと二本のバット、それにボールがひとつ転がっているだけだ。それ以外の 野球用具は見当たらなかった。私は、野球よりフットボールの方が教えやすい。YMCAのキャ ンプでは、八月の声を聞いた途端にフットボールが出てきたが、ここにはフットボールのシーズ ンはまだまだやってきていないようだ。   ピッツバーグは男の子だけのキャンプだったが、北米の多くの子どもキャンプは男女共学つま り 「 コ ー エ ド 」 キ ャ ン プ で あ る 。 夏 も 終 わ り が 近 づ き 、 キ ャ ン プ 終 了 ま で あ と 二 週 間 。 そ ん な と き に 、 キャビンのリーダーがひとり病気になったので、私がリリーフ ・ ピッチャーならぬ、リ

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リーフ・カウンセラーとして、年少組のキャビンを担当することになった。キャンパーは六歳か ら八歳のおチビさんである。可愛いい。そして、片親(シングル・ペアレント)の家庭からきて いる子どもが圧倒的に多い。 そういうキャンパーのほとんどは父親を知らない。 だが、 「アンクル」 と呼ぶ男性が家にいることが多い。後になって丹治さんと女子キャンプのプログラム・ディレク ター(後の丹治夫人)から教えられたが、当時の黒人社会は一種の「母系社会」であった。女性 は若くして結婚するが、 若い夫婦の離婚率は非常に高い。 男は妻と幼い子供を残して家を出て行っ てしまう。 母親は、 子どもを育てながら次の男性と結ばれる。 その男との間に子どもをもうけるが、 その男もどこかへさまよい出てしまうことが少なくない。男は常に

"come and go"

である。こう して、当時の黒人社会は母親を中心として家庭が築かれ、守られ、維持されてゆくのだ。 2   気になるキャンパー   私のキャビンに一〇名のキャンパーが到着した。全員黒人の子どもたちである。みんなお母さ んが精いっぱい努力して、新しいシャツとまではいかなくても、持っている衣類の中からいいも の を 選 ん で 着 せ た の だ ろ う 。 一 応 、「 パ リ ッ 」 と し た 身 な り を し て い る 。 た だ 、 一 人 だ け 、 荷 物 を ス ー ツ ケ ー ス で な く、 ス ー パ ー で 買 い 物 を す る と 詰 め て く れ る 厚 め の 紙 袋 に 詰 め 込 ん で き た子がいた。汚れた下着もズボンも歯ブラシも、みんな一緒くたである。それだけではない。そ の子はいつも黙ってうつむいていた。もっとも、こちらも英語がよく話せないので、口数は少な めだ。   同 じ 黒 人 で も、 こ こ の キ ャ ン プ の 子 ど も が 話 す 英 語 は と っ て も 分 か り 難 い。 ピ ッ ツ バ ー グ の

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キャンプでもよく聞き取れなかったし、分からないことが多かった。しかし、ここの子どもたち の 英 語 は チ ン プ ン カ ン プ ン で、 ま さ に お 手 上 げ 状 態 で あ る。 「 日 本 と ピ ッ ツ バ ー グ の キ ャ ン プ 経 験 は な ん だ っ た の か?」 。 オ ー バ ー に 言 う と、 憂 鬱 な 気 分 に 陥 り そ う だ。 そ ん な 私 の 気 持 ち を 察 したのであろう。丹治さんが「ケン、いいものが見つかった!」と、アメリカンフットボールの、 あの楕円形のボールを持ってきて下さった。これさえあれば、 「鬼に金棒」とまではゆかないが、 男の子を遊ばせるぐらいは「お茶の子さいさい」である。   私がボールを持って立っている所から一〇メートルほど離れた場所に子どもたち全員を一列に 並べ、一人ずつ「ゴー」と言って、まっすぐ縦に走らせる。その線上に山なりのボールを落とす ぐらいは、 私にだってできる。その昔、 関西学院大学が甲子園ボウルで優勝したときのクォーター バックだぞ。子どもたちにフットボールをやらせながら、心配なのは例の少年である。グループ か ら 離 れ、 一 人 地 面 に 座 っ て 土 の 上 に 何 か 書 い て い る。 気 に は な る け ど、 残 り 九 人 を 置 い て 一 人 の キ ャ ン パ ー の 所 に ゆ く の も は ば か ら れ る。 キ リ ス ト 教 の バ イ ブ ル に、 「 イ エ ス・ キ リ ス ト は 九九匹を置いて、一匹の小羊を助けに行かれた」とあったが、信仰心の浅い私にそんなことは出 来ない。   キャンプの午後は、絵を描いたり、池で泳いだり、そこらの木を切って工作したり、といった 活動である。キャンパーが自分の好きな活動に参加する時間だ。公の名はインタレスト・グルー プ。私は途中から参加したリーダーだから、その時間のグループ担当は免れ、自分のキャビンに 帰ってきた。すると、あの少年がひとり入口にポツンと座っている。こんな場合、 「どうした?」 と聞くのは野暮というものだ。グループに参加するのが嫌だからここに残っているのだ。少年の

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隣に、小柄な東洋人の青年も黙って座った。子どもは少しずつリーダーの方に身体を近づけ、や がてもたれてきた。リーダーは、自分の腕で子どもの身体をそっと支えた。英語も日本語もいら ないコミュニケーションがそこにあった。 Ⅵ   いよいよトロントへ 1   汽車の旅   ピッツバーグのYMCAキャンプは、私にとって北米生活へのこの上ないオリエンテーション であった。また、クリーブランドのウェルフェア・キャンプは、これから社会福祉を専攻する者 にとって素晴らしい経験になった。こうして三か月近いアメリカ滞在を終え、いよいよ目的地カ ナダのトロントを目指す日がやってきた。   クリーブランドからトロントへは汽車の旅である。飛行機に乗るには近すぎる。初体験だ。駅 で切符を買って列車に乗り込む。指定席でない、自由席の客車に乗った。しばらくすると、車掌 さ ん が 切 符 を 調 べ に き た。 そ れ は 一 向 に か ま わ な い の だ が、 切 符 を 取 り 上 げ て 返 し て く れ な い。 こ れ は「 え ら い こ っ ち ゃ」 。 ト ロ ン ト に 着 い て 下 車 す る と き、 切 符 が な か っ た ら、 不 正 乗 車 で 駅 員に捕まって叱られるぞ!   その昔、中学生の頃にキセルして見つかり、しぼられたことを想い 出した。 「切符、キップ!」と叫ぶと、 「俺が貰ったから大丈夫」と不可解なことを言う。   私があまり心配そうな顔をするので、車掌が窓のシェードに挟んだカードのような紙切れを指 し示し、ニッコリ笑って「OK?」ときた。こちらもつられて「OK」と言ったものの、心配で

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ある。列車の中をそっと観察してみると、どうやらその紙切れは、どこで下車するかを示す「し るし」のようなモノらしい。駅が近づくと、車掌がやってきて、次に止まる駅名を言いながらそ の紙を持ってゆく。切符を持たずに乗客はみな降りてゆく。それでも心配な私は、下車した客が 改札口でどうなるかと目で追うが、小さな駅には駅員もいない。この国では、切符が必要なのは 列車に乗るときだけのようだ。考えてみると、飛行機だって同じだ。ことによると、わが国のや り方が二重手間なのかな? 2   メイドのいる寮   昨夜は、暗くなってからトロント・ユニオンステーションに着いた。カナダ合同教会の本部の 方だろう、駅まで迎えに来て下さった。今考えると、夜に着けば、相手の方は仕事が終わっても、 出迎えのため職場に残らなくてはならない。寮の管理人も、遅くまで居残りをして下さった。そ んなことへの配慮に欠けていて、いろいろご迷惑をお掛けした。これは大きな反省点だ。   私が入ったのは、トロント大学の一角にある、カナダ合同教会が設立したリベラルアーツ・カ レッジのヴィクトリア ・ カレッジと合同教会設立の神学大学院イ(ン)マヌエル( Emmanuel )・ カレッジの寮である。この神学校の名をカナダの人は 「イマヌエル」 と言う。 「イ」 の後ろの 「ン」 は発音しない。理由は分からないが、とにかく私にはそう聞こえるのであった。この寮に何人の 学生が住んでいるのか、定かではない。それは、大学や寮が秘密にしているからではなく、この 原稿を書き始めるまで、私が寮生の数など考えたこともなかっただけの話だ。   寮 の 目 の 前 に ヴ ィ ク ト リ ア・ カ レ ッ ジ の 校 舎 が 建 っ て い る。 い つ 頃 建 て ら れ た か 知 ら な い が、

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中世のお城を思わせる厳めしいつくりである。尖った飾りの付いた屋根に、 城壁のような壁、 黒 く 塗 ら れ た 窓 の 縁 な ど が そ れ を 象 徴 し て い る。 私 は 実 物 を 見 た こ と が な い の だ が、 大 昔 の ヨ ー ロッパ建築の中には、こんな様式が幅を利かせていた時代もあったのだろう。   旅の疲れか、 キャンプ疲れか、 はたまた汽車の旅での緊張のためか、 翌朝は寝坊をしてしまっ た。 ド ア を コ ン コ ン と ノ ッ ク す る 音 が し た。 驚 い て ド ア を あ け る と、 年 配 の 女 性 が「 メ イ ド で す 」 と 言 っ て 、 掃 除 道 具 を 持 っ て 立 っ て い る 。 び っ く り し て い る 私 に 「 毎 朝 、 掃 除 に 来 ま す か ら 」 と い っ て、 部 屋 の フ ロ ア を モ ッ プ の よ う な も の で 拭 き 始 め た。 慌 て て ベ ッ ド の シ ー ツ や 毛 布を整えようとすると、 「それも私の仕事だから触らないで」と 宣 のたま う。当時、 アメリカに比べると、 カナダの大学進学率はかなり低かった。それにしても、大学生のこの「貴族扱い」はなんだ? 3   図書館に行く   メ イ ド さ ん が 出 て い っ た の で、 洋 服 に 着 替 え て 社 会 福 祉 大 学 院 の 校 舎 を 尋 ね て み よ う と 思 っ た。学校が始まるまで、 まだ一週間は十分ある。学生は勿論、 先生もまだ研究室には出てきてお られないだろう。でも、図書館は開いているはずだ。   図書館というのは、 おそらく世界共通だろう。とにかく本が沢山あって、 受付に図書館員がい る。今では、 必要な本はコンピューターで検索して図書館員に持ってきて貰うか、 自分で書庫に 入って探して読むかである。トロント大学は大きな総合大学だ。全学の学生 ・ 教職員を対象とし た大きな大学図書館がある。しかし、 大抵の場合は、 自分が属する学部や学科、 あるいは専門大 学院のなかにある図書室で本を読んだり借りたりすることになる。 当然図書館員とも親しくなれ

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る。と、いうことは、いろいろ助けて貰えるわけだ。   当時の社会福祉大学院はブロア・ストリートという広い道路に面する、古色蒼然とした建物の 三階より上を使っていた。ちなみに、下二階は音楽学部の教室だった。だから、社会福祉は事務 室も、教員の研究室も、図書室も、教室も、みんな三階より上にあった。エレベーターなんてな い時代に建てたのだろうか。木の床は、ヒールを履いた女性が歩くと妙に大きな音がする。はじ めは、階段の手すりにしがみつきながら三階まで自分を引っ張り上げていたが、どうも手すりが ぐらぐらするような気がする。遠く日本からカナダくんだりまでやって来て、三階から落ちて死 んでしまったら、関西学院に帰って、グループワークの授業もフットボールのコーチもできなく なる!   「君子危うきに近寄らず」 。それ以来卒業するまで、階段を上がり降りするときは手すり と反対側を歩くことにした。   そんなことよりも、今日の一日をどう過ごすかである。学校が始まっているわけではない。先 生 も 来 て い な い。 そ れ な ら ば、 久 し ぶ り に「 図 書 室 で 勉 強 し よ う 」 と い う 殊 勝 な 心 掛 け に あ い なった。年配の女性図書館員に「一年生が読むべき本を読みたいのですが」と言ったつもりだっ た。 相 手 は そ の 求 め に 質 問 し て く る。 私 が 分 か っ た 範 囲 で は、 「 福 祉 の ど ん な 領 域 か?」 と 聞 い ているようだ。 おいおい、 そんな難しい質問をするなよ。 「社会福祉専攻の一年生が誰でも読む本」 。 "I got you!" (わかったわ)と言って、彼女は書庫へ向かった。しばらくすると、何冊か本を持っ て き て く れ た 。「 一 冊 で も 読 み 切 れ な い 」 と 思 っ た が 、 せ っ か く 持 っ て き て 下 さ っ た ご 本 で あ る 。 「 有 難うございます」と、押し頂くように本を借り、机に向かった。   本は借りることが出来た。さあ、読もうと意気込んだのだが、相手は英語の文献だ。高等部時

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代の英文和訳の宿題のように、一言ひとこと辞書を引きひき読むのである。なんとスローな読書 なんだ!   自分でも呆れるほどの遅さである。こんな読書力で授業についてゆけるのだろうか? クラスが始まる前から心配が襲ってきた。 4   映画でも見よう   英語を読む練習は、図書館でかなりやったつもりだ。くたびれた。カナダの秋は早い。八月と いうのに、 午後四時を過ぎると涼しいくらいである。 トロント大学のキャンパスは広い。 おまけに、 クイーンズパークというバカでかい公園がキャンパスの真ん中にある。寮に帰っても、誰も待っ て は い な い。 夕 食 前 に「 聞 く 英 語 」、 つ ま り ヒ ア リ ン グ の 勉 強 を し よ う と、 通 り が か り の 映 画 館 に飛び込んだ。映画を観たければ、ストーリーぐらいは知っておくべきだった。いきなり飛び込 んだ決断は「よし」としよう。しかし、用意も準備も0点だ。何が何だか分からないうちに映画 は終ってしまった。これには大反省である。映画のストーリーを勉強している暇などない。こち らは日出ずる国ニッポンからきた留学生だ。英語ができなくて当たり前だ。   で も 、 な ん だ か 悔 し い 。 い ろ い ろ 反 省 し 、 ま た 考 え た 結 果 、「 映 画 の ス ト ー リ ー と は 言 わ な く て も 、 登場人物がどんな人かぐらいの知識がないと、 映画を観ても何にもわからない」という結 論に達した。それでは、観る映画は漫画か西部劇か、二つに一つである。当時は、カウボーイ対 インディアンの戦いが全盛だった。これは簡単だ。それにプラスして、白人同士の間でもめ事が 起こる。もう一つ考えた。西部劇を観るときは、映画の終わりごろに入って、最初にラストシー ン を チ ェ ッ ク し て お く と よ い。 最 後 に ス ク リ ー ン で キ ス し て い る 男 女 が 善 玉 で あ り、 主 人 公 だ。

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これだけの知識を持って西部劇に臨めば、だいたいの筋書きは分かる。 5   新入生のアドバイザー   図書館通いも三日目である。本を借りに行くと、図書館員が「新入生のアドバイザーが明日会 いたいと言っているけど、都合はいかが?」と尋ねているようだ。図書館と映画館以外は何もな い 毎 日 だ。 「 O K。 エ ニ ー・ タ イ ム 」 と 答 え た が、 心 の な か で は「 何 故 授 業 が 始 ま る 前 に、 先 生 が私に会いたいのだろう?   私の英語の力を試すのかな?」と不安と疑問が湧いて来るのだった。   図書館を出る前に、 「新入生のアドバイザーとは、 どんな役目をする人ですか?」と尋ねてみた。 前もって質問をノートに書いて、それを何度も読み返し、万全の準備と練習をしてから聞いたの だ。だが、返ってきた答えは「ゴッドフリー先生よ」と、名前だけだった。これには少なからず 落胆である。自分の英語力の無さ、発音の悪さを改めて痛感。   翌日、アドバイザーを訪ねると、白髪交じりの小柄な女性の先生だった。おずおずとドアの外 から自己紹介をすると、立ち上がって部屋の中に招き入れて下さった。これまで、日本でどんな 勉強をして、どんな実践活動をしてきたか、ここでは何を専攻し、どんな科目を取りたいか、こ と細かく尋ねて下さっているようだ。よくわからないが、出来るだけ私の希望に沿ってプログラ ムを作ってあげようという気持ちはひしひしと伝わってくる。有難いことだ。コチコチになって いる私を見て、 先生は校舎の筋向いにあるカフェテリアに誘って下さった。店に入ると、 「あなた、 『 カ フ ィ ー』 は 好 き?」 と お 尋 ね に な る。 こ の 国 は コ ー ヒ ー で な く、 カ フ ィ ー と 発 音 す る く ら い は分かってきた。

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  ウ ェ イ ト レ ス が 来 た 。 先 生 は 「 カ フ ィ ー 」、 私 は 「 テ ィ ー 」。 そ れ は 奇 跡 的 に 通 じ た よ う だ 。 ほ っ と し て い る と、 「 ミ ル ク?」 と 尋 ね ら れ る。 「 ノ ー、 ノ ー、 私 は テ ィ ー だ 」 と 言 う と、 ウ ェ イ ト レ ス は 「 テ ィ ー に ミ ル ク を 入 れ る の か ? 」 と 聞 く 。 そ こ で 「 レ モ ン を く だ さ い 」 と 頼 ん だ の が 失 敗 だ っ た 。 突 然 「 lemon 」 と 言 っ た の が 拙 か っ た 。 こ の ウ ェ イ ト レ ス に 限 ら な い 。 カ ナ ダ の 人 に は 、 私 の 「 L 」 の 発 音 は 曖 昧 模 糊 と い う の だ ろ う か 、 全 く 理 解 で き な い 発 音 の よ う だ 。 私 だ け で な く 、 多 く の 日 本 人 に と っ て 「 L 」 と 「 R 」、 そ れ に 「 T h 」 の 発 音 は 鬼 門 で あ る 。   アドバイザーの先生も、 助け船の出しようがない。当時、 カナダはイギリス連邦の自治領であっ た。 国 旗 も イ ギ リ ス 国 旗 を 使 っ て い た。 テ ィ ー に は ミ ル ク が お 決 ま り で あ っ た。 「 郷 に 行 っ て は 郷に従え」という言葉は真実だな…と、変なところで感心した。   だが、 ミルクティーは嫌だ。なんとかしてレモンティーを飲みたい。 「そうだ!」と、 アイディ ア が 閃 い た。 「 ど う だ!」 と ば か り、 紙 ナ プ キ ン に ボ ー ル ペ ン で「 lemon 」 と 書 い た。 そ れ を 見 た彼女は、 「おー、 レモン。わかった!」と、 奥へ引き返した。紅茶一杯頼むのにこの苦労である。 授業が始まったら、一体私はどうなるのであろう。 6   安食堂   図書館、散歩、映画館、そして食堂で夕食というスケジュールが毎日続く。今まで日本語ばか りで生活してきた人間にとって、毎日英語の本を読み、英語の映画を見るということは結構疲れ る経験だ。それに、私はカナダ合同教会のスカラシップを戴いているのだから、あまり贅沢は許 されない。晩ご飯もできるだけ安く食べられるところを探さないといけないと思っていた。それ

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に、図書館ではずっと座っているので、歩くことも必要と感じていた。そこで、キャンパスから ダウンタウンの映画館まで、市電や地下鉄に乗らずに歩いてゆくことにした。   ダウンタウンには、きれいで立派な構えのレストランが沢山あった。しかし、そんなところに 留学生が毎日食事に通っていたら、たちまち破産してしまう。節約、せつやく。ダウンタウンま でゆかなくても、ヴィクトリア・カレッジからそう遠くない所に、余りきれいではないが、洋食 兼中華料理の店を発見した。三カ月前にロサンゼルスでレストランに入った時と違って、こちら もかなり英語のメニューを読めるようになったし、オムレツにハンバーガーくらいならば、英語 で 注 文 で き る よ う に な っ た つ も り で あ る。 中 国 人 ら し い ウ ェ イ ト レ ス が メ ニ ュ ー を 持 っ て き た。 それを見ながら何にしようかと迷っていると、 「チャイニーズ?」と尋ねてきた。 「ジャパニーズ」 と答える。後で考えると、彼女はどうやら「中国語のメニューを持ってきましょうか?」と尋ね てくれたようだった。残念ながら、私にはそこまで理解できるほどの在カナダ経験がなかったし、 中華レストランのからくりにも通じていなかった。   それから数カ月後、同じ寮に住むことになった香港の牧師さんと一緒にこの店に来たら、彼は 中国語のメニューを持ってこさせて、中国語でいろんな料理を注文した。すると、それまで私が 見たことも、聞いたことも、食べたこともない、山海の珍味が登場したのである。それまで私が 食べていたものとは全く異なるレベルの味と香りの料理だった。   とはいえ、寮に近いし、値段は手ごろ。何となく日本からの留学生にはアットホームに感じら れる安食堂である。日課となった西部劇鑑賞後は、ついそこに足が向く。     ある晩、料理を食べ終わる頃、例のウェイトレスがチェリ―パイを持ってきた。デザートは注

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文していなかったのにと、いぶかしそうな顔をすると、彼女はにっこり微笑んだ。どうやら、彼 女 の お ご り ら し い。 「 サ ン キ ュ ウ 」 は「 T h 」 で 始 ま る。 上 の 歯 と 下 の 歯 と の 間 に 舌 の 先 を は さ ん で「 サ ン 」 キ ュ ウ と 言 わ な く て は な ら な い。 一 生 懸 命 発 音 す る と、 「 シ ー」 と、 唇 の 前 に 人 指 し指を当ててにっこり笑い、くるりと回ってキッチンに小走りに帰って行った。   次 の 晩 か ら 悩 み が 始 ま っ た。 も う 一 度、 あ の レ ス ト ラ ン に 行 き、 彼 女 の 好 意 に 甘 え る べ き か、 それとも厚かましいから遠慮すべきか。自分の方からデザートを頼んだら、彼女の気持ちを傷つ けないだろうか。悩みは続く。そして、夏休みが終わった。明日から授業が始まり、寮の食堂が オープンする。それを報告しなくてはと、 多少どきどきしながら、 レストランでの「最後の晩餐」 にゆく。なんと、彼女の姿がない!   お休みなのか、やめたのか。尋ねる勇気もなく、一人淋し く夜の街をとぼとぼ歩いて帰った。九月初旬というのに、急に冷たい秋風が吹きはじめ、肌に寒 さを覚えるのであった。 Ⅶ   トロント大学社会福祉大学院 1   学校が始まる   い よ い よ 学 校 が 始 ま っ た。 私 が 通 う ト ロ ン ト 大 学 社 会 福 祉 大 学 院 に 行 く に は、 ヴ ィ ク ト リ ア・ カ レ ッ ジ の 男 子 寮 の 筋 向 い に あ る 女 子 寮 の 横 を 通 っ て ヤ ン グ・ ス ト リ ー ト と い う 大 通 り に 出 て、 次の角を左に曲がる。すると最初の建物だ。歩いてわずか五分。校舎の隣りには、約一万人を収 容できる、 大学所有の小さなスタジアムがある。当時、 大学もプロも、 トロントのカナディアン ・

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フットボールの試合はすべてここでやっていた。その年の冬に行われたカナダのプロ王座決定戦 であるグレー・カップも、こんな小さなスタジアムでやっていたのだ。そのときは、クラスメー トと一緒に、校舎の最上階の教室から試合を「無料で」盗み見したことを想い出す。ガードマン のおじさんもいっしょだったから、捕まることはない。ご心配なく。ここの校舎の学生である特 権を最大限に生かしたチャンスだった!   カナダやアメリカの大学では、卒業式はとても華やかだし、盛大だ。また、その前後には様々 な行事がある。 しかし、 入学式というものはほとんど行われない。 そんなことを知らない私は、 ちゃ んとスーツを着てネクタイを結び登校した。どんなクラスメートがいるか興味があるが、そんな ことよりこれから一体私はどうなるのかの方がよほど心配だ。   社会福祉専攻の大学院一年生はざっと八〇名。そのうち私が専攻するグループワークはたった 一〇名で、残りはみんなケースワーク専攻である。そちらは仕事の数もずっと多いし、給料もや や高い。聴講生である韓国のYWCAの先生を除くと、八〇名中、留学生は私一人である。でも、 さすが名門校、東は大西洋、西は太平洋沿岸と、国の両端からも学生が集まってきている。   オリエンテーションということで、四階の大教室で研究科長のチャック・ヘンドリー先生のお 話を聞く。先生は北米のグループワークの先駆者的存在で、YMCAなどが目ざす教育キャンプ の大御所である。神戸YMCAのキャンプ長、今井鎮雄先生からお借りして、ヘンドリー先生が 書いた教育キャンプの本を読んだことがある。読むのはこちらのペースでいいが、話すのは先生 の ペ ー ス だ。 そ れ に つ い て ゆ く の は 絶 望 的 だ。 先 生 の 話 の 中 で 分 か っ た の は、 「 よ う こ そ、 ト ロ ント大学社会福祉大学院へ」くらいであった。半分はあきらめの境地で努力したが、疲労だけが

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