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世界恐慌下のICIの発展 : 多角化と「多国籍化」に関連して

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文 論

世界恐慌下のICIの発展

多角化と「多国籍」化に関連して

杉崎京太

1. はじめに

 本稿の課題は,1930年代初頭の世界恐慌下にあって,イギリスの巨大有数

化学企業lmperialChemicallndustries社(以下ICIとするジがいかな

る企業展開を行ったかを検討することにある。その際,あえて「恐慌下の企 業発展」という,一見すると逆説的なタイトルを掲げた理由は以下のような ものである。  行論でもふれるように,世界恐慌下にもかかわらずI C Iの収益が高かっ たという点がまずあげられる。従来,I C Iのような巨大独占企業が,恐慌 期に高収益をあげうる理由は,生産制限を通じての価格維持という,独占体 特有のビヘイビアに帰せられてきたが,一方でそれは停滞性の影を色濃く負 うものでもあった。しかしそのような独占体のビヘイビアが,一国内,一産 業内に立脚したドイツ的独占を典型として抽象されたものとするならば,帝 国という外延的市場をもつイギリスのような場合にもそれは直ちにあてはめ うるのであろうかという疑問が生ずる11)そもそも独占形成がドイツなどに比 して未熟であったイギリスの場合,分析の対象となるべき実体の形成が遅れ ていたといえるが,I C Iの成立により,イギリス的独占のビヘイビアの検 討も行いうる素地が生まれたわけである12)これにっいて,例えばStocking

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とWatkinsはその著書CαπεJs併Co卯e痂∫o擢で,世界恐慌期にお』け るアメリカ,イギリス,ドイツの巨大化学企業の高収益を同列に扱い,カル テルにその原因を帰しているが,果たしてそれで十分であろうかという点が, 本稿を貫く問題意識である13)サブタイトルが示すように,それはイギリス型 「多国籍」企業発生史のケーススタディでもある14)  I C Iについてはこれまでも,多くの先学によって紹介がされてきた。と りわけ鬼塚教授によるそれは,詳細な内容とも相侯って今日なお水準を画す るものである15)しかし教授の論稿はI C Iの通史的概観を試みられたもので あり,必ずしも世界恐慌期という時期設定を意識されたものではない。また, われわれがとりあげる30年代における海外事業拡張については,「ナショナ リズムの高揚に強制された当6)とされるが,「多国籍」的展開に際しての企業の能 動性がもっと強調されてもよいように思える。本稿では資料面からの制約は あるが,世界恐慌期におけるI C Iの企業展開がいかなる意味で発展性をも ちえたのか,若干の考察を試みることにしたい。なおこの時期の重要な軸点 をなす合理化については,あらためて別の機会に検討していきたい。

2.前史一I C lの成立から世界恐慌まで

 I C Iは,1926年12月,Brunner,Mond社,Nobel Industries社,United Alkali社,British Dyestuffs社の四社合同により払込資本5680万ポンドで 設立された。この合同にともなう特徴を粗描すれば以下のようになるであろ う171  まず第一に,よく知られているように,この合同はドイツにおけるI Gフ ァルベンの成立を契機とするものであった。幼稚な染料部門をかかえるイギ リスの化学工業をI Gの圧力から防ぎ,帝国市場を防衛するには,大独占体 の創出が必要とされたのである。その意味からも,I C Iの設立はその当初 から国家的利益に立脚し,イギリス帝国という広範な市場圏を包摂すべきも

       

のとしてあった。

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 第二に,化学工業内異業種問合同によってI C Iが成立したことは,すで にある程度多角化していた経営を再統合することを必要とした。このため, たんに部分的な合理化,工場の統廃合にとどまらず,経営組織の総体的な改 編を迫られることになった。当初は財務の中央統制をしきはしたものの,合 同時の四社がそのまま存続する形式がとられたが,29年6月には,アルカリ, 一般化学品,肥料合成品,石灰,染料,火薬,金属,塗料・人工皮革の8事 業グループヘと再編され,いわゆる分権的事業部体制が確立していったので ある19}  第三の特徴は,この合同が及ぼした社会的資金動員機能である。I C Iに よる増資は27年から29年にかけて£1830万に達した。I C Iは財務の中央統 制を強力に行うことで,後に述べるBillinghamへの重点投資を行う一方, 内部蓄積を図り,同時期に内部留保を£1630万増額した。Fitzgerald によ れば設立当初約£1780万に及んだとされる過大資本部分の償却もこの間にな し崩しにすすめられていったのであり,そのことが,世界恐慌下の危機克服 を容易にする大きな要因ともなったのである801  このようにして成立したI C Iの20年代後半期における重点戦略は,合成 アンモニアによる肥料生産にあった。すでにBrunner,Mond社によって Billingham の合成アンモニア工場に£300万の設備投資がなされ,23年11 月から硫安年産8トンの妬.2ユニットが生産を開始し,25年には妬.3ユニッ トの建設がすすめられていたが,I C I設立後さらに妬,4,妬,5ユニットの 建設も着手された。I C Iが27年から30年にかけてBillinghamに行った設 備投資総額は£2000万に及び,完成後の年産能力は窒素21万トン,硫安98.7 万トンに達したのである8D  こうした肥料重点戦略の主眼が農業諸国向けの輸出にあったことはいうま でもない。イギリス国内の肥料市場は,農業そのものの占める比重の低さに 加え,農民の硫安消費量が1エーカー当たり平均7.11bと,ドイツ農民のそれ の13.81bに比して少なく,また販売ルートの面からも,混合肥料メーカーと その下にある雑穀商によって支配され,I C Iの手が十分及ばないなどの問

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題があった。このためICIは,イングランド,アイルランド,スロットラ ンドにそれぞれ持株会社を設立し,混合肥料メーカーを統合しようと試みた が,肥料製造者連合(F MA)に阻まれ,1928年にようやくスコットランドで Scotish Agricult皿al Industries社を設立しえたにとどまり,国内の肥料市        くユ ヲ 場の開拓・掌握は十分とはいえなかったのである。  このためI C Iの合成アンモニア工場への大規模投資は硫安の輸出へとむ かうことになったが,ここでの市場も競争が激化していた。I Gやチリ硝石 との競合に加えて,日本にみられるような硫安自給生産の発展,さらにコー クス炉・ガス工場での副産アンモニアの生産が増加するなど,窒素の生産過        剰が世界的に進展していたからである。  以上のような合成アンモニアー肥料生産を軸にすえた大型投資の戦略に比 べると,この時期の多角化が占める比重はけっして大きなものではなかった。 それほどまでにBminghamの合成アンモニア工場への集中的投資は突出し ていたのである。もっともこの時期にも,29年に非鉄金属のAllen Everitt &Sons社を合併するなど,合併による新規事業への進出の地ならしは続け       きられていたが決定的な重みをもつにはいたらなかった。  一方,20年代における「多国籍」的展開についてふれておけば,それは次 のようなものだった。I C I合同によりそれまでにBrunner,MondとN・bel Industriesの中核二社がそれぞれ海外に蓄積した“経営資源”は統合される ことになった。Brunner,Mond社は主として販売子会社,代理店を,帝国内 のみならず,中国・インド・西アジア等にも展開してきた。一方,Nobel In・ dustries社は,南アフリカでDe Beers社と合弁でAfrican Explosives and Industries社を,またカナダでは,Du P・nt社と合弁で,Canadian In− dustries社を企業化してきたが,(15)I C Iの合同により,それらは統合されて その帝国市場圏の基盤となっていった。後にふれる国際カルテルに際しての 市場分割も,こうした20年代の展開に基礎があったのである。  I C I成立がもった以上のような特徴をふまえて,恐慌下のその展開につ いて検討していくことにしよう。

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3.世界恐慌下におけるI C l

 i)世界恐慌のインパクトとl C I  世界恐慌がI C Iに深刻な衝撃を与えたであろうことは,さきにみたこと からもおのずと明らかであろう。I C Iは,その最重点部門である硫安生産 での戦略的投資で挫折するという極めて悲劇的事態に逢着したのである。  1929年秋のニューヨーク株式恐慌は,世界農業の内に「成熟しきっていた 矛盾を爆発させるヨ6)ことになった。農産物価格の崩落が始まり,農業諸国は 「先進資本主義諸国の工業製品にたいする購買力を縮小ないし制限しつつ, 先進資本主義国の工業部門を,恐慌に巻き込み,その結果世界的に,後進国 と先進資本主義国,農業部面と工業部面とで相互促進的に恐慌が深化望して いくという事態が進行していった。  I C Iではこの恐慌のはじまった29年末に,Billinghamの妬,5ユニットが 完成をみたが,これはそのまま財務悪化の要因へと転化していった。Reader の引用した社内文書によれば,業績が最も悪化した1931年において,I C I の「資本及び剰余」 ‘Capital and Surplus’総額は£1億774万で,そのう ち£7459万がイギリス国内の生産グループに,£765万が海外事業に投資されて いたが,国内事業投資中の30%にあたる£2238万がBillinghamの肥料及び 合成製品グループヘのものであった。しかし31年における同グループの純営 業利益率は,使用資本に対して0.2%の£4.5万にしかすぎず,使用資本の49 %にあたる£1104万分が稼動していなかった。ちなみに,同年中の各事業グ ループ別の使用資本と資本利益率は,使用資本の大きさにしたがってみると, アルカリが£1676万に対し10.9%,一般化学製品がε1253万に対して2.8%, 以下,爆薬が£894万の9.4%,染料が£568万に対して唯一3.4%の損失を計上 したほかは,金属で£556万の4.0%,革布で£190万の10.6%,石灰で£84万の 10.1%という構成であった。なお同社はこれら生産事業以外に,£1664万の 証券投資を行い,そこから£110万の収益をあげていた。これは一方では市価

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の変動にともなう評価損発生の可能性を示してはいるが,他方ではそれを補        しユ ってあまりある内部資金の厚さを示すものとして重要である。  ともあれ,こうしてBilhnghamの合成アンモニア工場への集中的投資は 恐慌の深化のなかで重い足枷となっていった。Billingham工場建設のために 29年5月に発行されたI C Iの株価は,発行時の33s6dから31年には9s          ほゆ 10去dにまで下落した。  もはやBillinghamの硫安工場がフル操業することはありえないと観念さ れたとき,I C Iのなしうる転換は,合理化を挺子にこの巨大な不採算部門 からなし崩しに撤退を図ることと,発展部門への多角化によりその比重を軽 減していくことであった。その際,国際カルテルと政府の保護政策は重要な 安定化要因として作用した。しかし同時に行われた多角化と「多国籍」化こ そあらたな発展の方向を示すものであった。次にこれらの展開をみていくこ とにしよう。  ii)国際カルテルヘの加盟と政府の保護政策への依存  (ア)国際カルテルヘの加盟  窒素肥料過剰をめぐってI C IとI Gはすでに28年頃から接触を始めてい たが,I C IとI G及びI G支配下のNorsc・HydroのD E Nグループとチ リ硝石生産者によって国際協定が結ばれたのは,29/30肥料年度であった。 しかしこれは,「チリ側に対して量的制限を課さず,またヨーロッパの小規 模な窒素肥料製造業者を考慮に入れなかったので現実性を欠いていた響この ため30年8月,ヨーロッパの他の諸国のメーカーを含む国際窒素カルテル Convention de Industrie de l’Azote(CIA)が組織され,チリ生産者と提 携して各国自給を原則とする販売割当や,各国より拠出する資金を積立て補 償基金として生産制限を行なおうとしたが,条件の不利なチリ生産者の離反 に会って一年で瓦解した。D E Nグループの協定はその後も存続したが,再 び価格下落が生じたため,32年にはあらためてチリの参加のもとに再編され      のユンたのである。 一132一

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 このヨーロッパにおける国際窒素カルテルがI C Iにとってもった意義は, 帝国市場圏を確保できたことと,生産制限による設備遊休化を正当化しえた ところにあったといってよい。D E Nグループ内における32年の,I C Iと I Gの販売量割当は,I C Iの18去に対して81茅というものであったが,②211 C Iはこれにより帝国市場を確保し,その中での競争制限と価格維持を可能 にしていたのである。  この時期にI C Iがあらたに加盟した国際カルテルとしては,31年の国際 水素添加特許協定International Hydrogenation Patents Agreement(IH PA〉,32年に加盟した染料カルテルがあった。またこのほか2国間のものと して,29年にはDu Pontとの間に特許・製造法相互利用協定Patents and Process Agreement(PPA)を結んでいた。このうちIHPAは,石炭液化 に際しての特許使用を英帝国内とし,石油消費量の25%以内に生産量を制限 したうえで,販売方式や手数料等を,I G,石油会社との間で定めたもので あった83)染料カルテルの場合も,それ以前に結ばれていたP P A同様に,特 許権交換協定と輸出市場分割を規定したものであり,いずれもイギリス帝国 をI C Iの専有市場と定めていた。P P Aは,セルローズ,塗料・ワニス, 有機化合物,酸,アルコール等広汎な対象について特許交換を定めたもので, Nobel Industries社以来のDu Pont社との技術提携を強化し,カナダや南ア メリカでの合弁企業の基礎をなしていたといえる。一方染料カルテルは,幼 稚産業だったイギリス染料工業によるはじめての市場分割への参画を意味し ていた841  このような国際カルテルヘの参画は,不採算部門における生産制限と,新 興部門における特許交換が中心であったが,いずれも市場分割による帝国圏 の確保が優先されており,その意昧ではLandesもいうように「取引制限の 原理ヨ5)が多分に作用していたといえよう。アウトサイダーに対するダンピン グ攻勢もその裏返しであったが,そうしたアウトサイダーを結局のところ駆 逐できなかったように,②6)カルテルによる「取引制限」にもおのずと限界があ ったのである。

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 (イ〉政府保護への依存  国際カルテルを国内に対して補強する機能をはたしたのは,政府の関税政 策であった。31年9月の金本位制停止を機に,11月に異常輸入関税法,翌年 2月には輸入関税法が成立して,一般保護関税が導入され,7月には帝国特 恵体制がしかれた9これらとともに化学工業に対しては,石炭液化保護政策 がとられたので,これをみておくことにしよう。  Billinghamではすでに20年代後半の合成アンモニァー硫安製造工場建 設の過程で,石炭液化にっいての研究が進められていた。すなわちハーバー ・ボッシュ法によるアンモニア合成の高温高圧技術を,高圧水素法として知 て知られるベルギウス法による石炭液化に応用しようというものであった。 これは石油自給のみならず,石炭需要の拡大をつうじて雇用の増大を図ると いう点からも注目されていたが,硫安工場の遊休化によりその重要性は一層 増すことになった。しかし原油と価格競争するためには政府の保護が不可欠 であった②81から,I C I初代会長Mondとその死後を襲ったMcGowanは, 政府と交渉を続け,その結果,34年には炭化水素油法(British Hydrocarbon Oil Production Act)の制定をみた。これにより1ガロンにつき,4年半8 dから9年間4dの間で政府の定める関税あるいは物品税により,国内産の

       

人造石油は輸入原油に対して保護をうけるものとされたのである。I C Iは このためBillinghamに新なに£270万を支出して石炭液化に関する使用総資 本を£440万とした。しかし,I C Iの収益取分は使用資本の5%と規定され ていたため,初年度の税引後純収益は£16.5万にしかすぎず,それらは全て 設備の償却にあてられたのであった801  このように石炭液化計画に対する保護は,化学工業のもつ国家的重要性に 由来するものであり,この保護政策も政府の介入の新たな展開を示してはい たが,総合的な産業政策の位置づけを欠いたままであり,弥縫策としての性 格は否めなかった。  結局のところ,これら国際カルテルや政府による保護政策は,窒素肥料投 資に挫折し危機に頻したICIの基盤の動揺を防ぐ意昧はもちえたが,それ以 一134一

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上のものではなかったといえるであろう。われわれは,I C Iの32年からの 収益回復の構造を明らかにするために,その多角化, 「多国籍」化について さらに検討しなければならない。  iii)恐慌下の多角化と「多国籍」化  (ア)経営多角化の展開  多角化は,Billingham工場内部と,I C I全体とで並行して行われた。 Billinghamでのそれは,いわゆる“生産シナジー”効果を狙ったものといえ るであろう81}化学工業の基礎原料の相互連関性がそれを可能にした。先にふ れた石炭液化もそこから派生したものといえる。アンモニアからはまた硝酸        アンモニウム,ニトロチョーク等もつくられる。またナフタリン・メタノー ルの他にセメントやプラスターの製造への展開も可能であり,Billinghamで は,“Drikold”の商標でドライアイスの製造・販売も始められた。こうして Billingham工場自体が当初の硫安中心から複合経営へと移行していった。31 年から34年にかけてBillinghamでは£455万を減価償却したが,その一方で         石炭液化等のために,あらたに起29万を投資したのであった。  Billinghamでの多角化が合成アンモニアや混合肥料生産から派生していっ たものであるとすれば,染料部門では有機染料の開発が進み顔料や印刷イン クの開発も行われた。またアルカリ部門では,レザー工業からの需要にこた えて重炭酸ナトリウムの生産が開始され,びん洗浄用のアルカリ洗剤が “L、st.。,”の商標で33年から販売されるなど新製品の開発が進んだ84}また, ペイント・ラッカーはセルローズラッカーとして,自動車用の仕上げ塗装剤 “Belco”,産業・一般家庭用塗装剤の“Dulux”が市販されるにいたるなど       急速に開発の進んだ領域で,35年からは一事業グループを形成した・また36 年にはプラスチックが新たなグループとして独立した。ここでは透明プラス チックの“Perspex”や“Diakon”等が航空機産業などからの需要により, 急速に成長をとげていたのである浬61このほか従来小部門であった,革布や石 灰,金属などのグループがそれぞれ急速に成長をとげていた。これらが,自

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動車,建築,電機などの新産業の発展に対応するものであったことはいうま でもない。  このような一連の多角化は,I C I内部での開発投資の成果が商品化され た場合が多かったが,それと並行して企業合併による多角化も行われた。31 年に染料のBritish Arizarine社,金属のBroughton Coopper社やプラス チックのCr・ydon Mouldrite社の合併が行われた。I C Iでは,これら周辺 の新興会社を包摂することで多角化をすすめ,硫安生産に偏った経営構造の 是正を図っていったのである。  こうした多角化の成果は,その後の使用資本や収益の構造の中に十分うか がうことができる岬まずBillinghamについてみると,その使用資本は32年 から37年に%減じて£1450万となり,使用資本利益率は18%へと好転してい た。その要因は,38年のBillinghamの国内売上げ中54.1%を占めるに至っ た人造石油にあったことは疑いない。もっともBillingham工場がかつてI C Iにもった比重を人造石油が代替しえたわけではなかったようである。む しろ,27年の合同時には合計して使用資本が£480万と,Billinghamに比し て55%にしかすぎなかった,金属,ペイント・革布,染料の三グループの成 長が著しく,使用資本は37年には£1580万に達し,その使用資本利益率が12 。5%に達したことに示されるような,経営多角化全般の成果が,I C Iの収 益の安定を生み出していったのである。その意味からも,恐慌下における経 営多角化こそ,I C I発展の基礎をなすものであったといえよう。  もちろん問題がなかったわけではない。I C Iにおける多角化はこの時点 での有機化学や薬品,合成樹脂などの技術革新に十分見あうものではなかっ た。これは主として経営首脳の技術革新に関する素養の浅さに由来していた といわれる岬第二点は,そのビヘイビアが化学工業原料部門における独占を 基礎に,垂直統合へと向かわなかった点である。両者はいずれも,I C Iに よるイギリス国内での投資の不徹底をもたらしたと考えられる。それはまた, I C Iがたんに一国投資の枠内でなく,帝国圏に立脚せざるをえなかったこ とに少なからず由来しているといえよう。以下この点を「多国籍」的定着化

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に沿って解明していこう。  (イ)「多国籍」的展開と現地定着化  I C I成立時におけるその海外子会社の展開の概略はすでにふれた。恐慌 期のI C Iの海外活動は,端的に言うならば,それら拠点での現地定着化に あったといってよい。その大きな要因が,ナショナリズムの昂揚にあったこ とは否めない。しかし,企業の側の主体的選択があったこともまた確かであ る。その論理の一端をうかがい知るのに,われわれは南アフリカにおける De Beers社との合弁会社African Explosives and Industries社(AEI〉を 例にみてみよう。  恐慌期のI C Iの南アフリカでの活動は,南アフリカ・ポンド切下げを前 後に分けられる。  前期は30年から32年12月の南アフリカ・ポンド切下げまでである。この時 期の南アフリカは恐慌で打撃をうけ,経済は急速に収縮しつつあった。イギ リスの金本位制停止にもかかわらず旧金平価を維持していたため,金が流出 し輸出は激減した謹9)この30年4月にI C I,De BeersとA E Iの3者は協 定を結び,A E Iの市場をアフリカ内部に限定し,その範囲内でI C Iと技 術交換を行うこととした。この協定に沿って直ちに,I C Iは技術協力を行 い,A E Iは32年にかけて,£58万の資本支出をもって,Billinghamと同型 小型の合成アンモニア工場を建設したのであるぎo}この計画を推進したI C I 側の理由は,Modderfonteinが合成アンモニア生産に適する立地条件を具え ており,割安に合成アンモニア生産ができること,硫安生産だけでなく爆薬 の原料となる硝安製造が可能で,ニトロ・グリセリンの代替物となりうるこ と等であったが,20年代半ばから浸透がつづいていたチリ硝石を駆逐できる だけでなく,㈹本国でその有用性を失いつつあった合成アンモニアの生産技術 を移転し,その代償としてロイヤリティを得られることも大きかったといえ る821しかし,一方で31∼32年の恐慌は肥料生産に大打撃を与えていった。  ところが32年末に南アフリカが平価切下げを行うと,金産出業がブームと なり,(43133年から6年問で,£8000万が金山開発に流入した841このため爆薬を

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中心にA E Iの業績も回復し,前期の年平均£40万の収益から,35年には£ 90万に達したのであった851  このように南アフリカでは,I C I本社主導の技術移転が,現地経済での 優位性をもたらした。恐慌期のデフレ作用は,工場建設費を低下させ,逆に その後のブームが巨富をもたらすことになった。これに対して,オーストラ リアや南アメリカでは,輸入代替工業化の流れを把えて現地定着化が行われ たといってよい野  農業恐慌は,とりわけ農業諸国にデフレ効果を及ぼしたが,交易条件の大 幅な悪化に対抗するために,為替切下げ,関税引上げなどの自国産業保護に よっ、て輸入代替が進んだ幽これに対してI C Iは積極的に,販売組織の現地 生産会社化,あるいは現地資本との合弁化を行ったのである。  オーストラリアでは29年に,ニュージーランドを含め,現地関連子会社を 統合してImperial Chemical Industries of Australia and New Zealand 社(ICIANZ)が設立された。同社は,オーストラリア最大の金融グループ Broken Hillグループとも提携関係をもっただけでなく148)本社輸出と競合す る弾薬の現地生産化にふみきるなど1491積極的に定着化をすすめたところに特 色があった。  一方,南アメリカでは為替管理が一般化し配当や利潤の送金が制限された ことが,現地化を一層うながしたといえるが,その他の条件は,オーストラ リア等の自治領とほぼ同様であった。すなわち,為替切下げ,関税引上げによ り,イギリス製品の競争力は鈍化し,これに対処するための特恵関税も,と りわけ,化学・鉄鋼など非差別・標準化製品においては効果がうすかった801 このため,現地企業との競争に対処するには,従来の販売会社から,現地生 産への移行が心要とされたのである。また南アメリカの子会社は,Du Pont 社との従来の提携関係をふまえ,両社の技術協力を強化する役割も果たした。 35年にはDu Pont社と合弁で,Industri&s Quimicas Argentinas“Duperial”        51)S.A.が設立され,工場建設や現地企業の合併を進めたのがそれである・  このように現地定着化をうながした要因は,恐慌下での現地政府の自国産

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業保護政策であったが,I C Iはそれまで蓄積した情報と豊富な資本を利用 して,輸入代替を行う主体の一つとして現地に定着していった。こうした定 着化によるメリットは大きなものがあったといえよう。商品として流入する 際には障害となるポンド高は,資本として機能するときには長所に転化し, デフレ効果を満喫できたばかりでなく,保護関税により逆にドイツ等のダン ピングに対しても競争力を保持しえたからである52)さらに技術移転,技術協 力をなしうるメリットもあった(5鋤ことからみても,その投資効果はきわめて 大きかったといわなければならない。  しかし他方でこうした現地化は,そのまま本国からの輸入に代替し,本国 に雇用削減効果を及ぼしかねなかった841しかしそれも結局は, 「多国籍」 化したI C Iが一方では本国の保護政策を受益しながらも,他方では国益性 と背馳し,一国的制約を超越して利潤極大化を図るべき主体として成長しつ つあったことを示していた。もっともI C Iの場合は「帝国内企業」であり, その意味では,イギリス帝国の“国益性”には合致していたというべきであ ろう。  ともあれ,I C Iの海外部門は世界恐慌期を通じて拡大した。31年には使 用資本総額£765万であったものが,37年には£1150万へと増加したのである。 その内訳は約£800万が生産関連会社への投資であったといわれており,現地 への定着化傾向をみてとることができるのである85)

4.むすびにかえて

 この時期のI C Iの業績を損益計算書からみると以下のようになる。税引 後の粗収益についてみると,27年の£444万から,28年の£572万,29年の£635 万へと上昇したあと,31年には£441万にまで低下したが,以後,32年の£573 万,33年の£700万,34年の£735万へと回復していったのである。この粗収益 からは内部留保として,中央損耗基金と中央準備金が計上され,以後配当と 役員賞与にあてられる・注目すべきことは,この内部留保の巨大さであり,

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また注意すべきことは,この粗収益計上以前に設備保全のための出費や資産 の償却がなされていることである。まず内部留保についていえば,27年∼29 年の3年間に利益勘定から準備金への組み込み額は£302万,30∼32年が£300 万,33∼35年が£600万で,この結果35年のI CIの内部留保は,恐慌下にもか かわらず£1022万に達していた。また後者にっいていえば,たとえば恐慌の 最悪期の31年でも£175万,32年に£226万が保全費としてあてられていたので あり,これと並行して子会社資産の償却も進められていた861また35年にはI C Iは,後配株資本を廃止して,£7732万から£7192万へと減資を行った。鬼 塚教授もいわれるように「“創業者”に特別な利益分配権を認めた後配株を廃 止して,資本の構成を簡素化したことは,企業の所有と経営の関係を近代化 することを意昧雪7したのである。  このように,恐慌過程をつうじてI C Iは資本構成の改善をはかり,経営 体質を強化していったのであり,これまでみてきた多角化や「多国籍」展開 とあわせて考えるならば,停滞というよりはむしろ発展をとげつつあったと いえるのである。  このような「恐慌下の発展」を可能にした条件は,本稿では十分にふれら れなかったが,イギリス経済という外部条件そのものの変化,すなわち,管 理通貨制と低金利政策への移行に伴なう恐慌からのすみやかな回復,とりわ け建築,自動車の耐久消費財をはじめ,化学製品を消費する新産業の立ち直 りがあったことはいうまでもない981しかしここでは,Billingham投資に蹉跣 しながらも,その負担を軽減していったメカニズムの解明こそが課題であっ た。それはすなわち,一方では,国際カルテルによる市場分割と国家保護か らの受益によって不採算部門の負担を軽減しながら,同時に,一部門重点投 資から新興部門への多角的投資をつうじて,遊休化した資本の活用と新規事 業の拡大を図り,さらには「多国籍」的な定着化により,新興国の輸入代替 化にも対処するというきわめて積極性に富む展開をっうじてなされたのであ った。  このように,I C Iという巨大独占体の恐慌過程におけるビヘイビアは, 一140一

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一方ではカルテルや国家保護をっうじて安定化の基盤をえながらも,他方で は企業内部の改編により,その資本と“経営資源”を内的に移動させること で,あらたな発展をとげるというものであった。そしてかかる内的移動は, 「多国籍」化した経営内部で一国性の制約をこえて行われるとき,利潤極大 化にとってより有効な作用を及ぼすことにもなったのである。 〔注〕 (1)こうした問題意識の背景として,馬場宏二「金融資本の蓄積様式一金融資本と帝国主  義(三)一」東京大学『社会科学研究』第32巻3号(1980年11月)を参照されたい。なお,  イギリスの場合,閉じていない系として,資本流出の間題を念頭におく必要があるよう  に思われる。 (2)Leslie Han隔ah,The R∫5e oμhεCoγpoγα孟e Ecoηo㎜忽(Methuen,1976),P.70f.. (3)G.W.Stocking&M.W.Watkins,Cα惚」50γCo即e痂∫oη∼’Tんe Ecoπo偏cs oブ  血診eTηα翻oπαJ Cαγ彦e’sゐ卸B%s加essαπd Go砂eγ伽πeπ君 (Twentieth Century Fund,  1948),P.124. (4〉戦間期における「多国籍」企業発展の問題を提起したものとして,安保哲夫『戦間期  アメリカの対外投資 金融・産業の国際化過程』(東京大学出版会,1984年〉序章を参照  されたい。また,AlfredD.Chandler,“The Growthofthe TransuationalIndustrial  Firm in the United States and the United Kingdom:A Comparative Analysis,”  Ecoηo煽c HJs置o瑠Re毎eω,2nd ser.,XXX皿,N・.3(August,1980)も参照。 (5〉鬼塚豊吉「I C Iの発展とイギリス化学工業」(1)∼(1鋤『化学経済』,(1):15巻10号(1968  年10月),(2):15巻11号(1968年11月),(3):15巻14号(1968年12月),(4):16巻1号(19  69年1月),以下各月刊。神野璋一郎「イギリスにおける化学工業トラストの成立一I  C Iの概観」 『立教経済学研究』4巻2号(1951年)。関吉郎「I C I」。(伊東光暗,  石川博友・植草益編『世界の企業1,イギリスの社会と企業』筑摩書房,1975年,所収) (6)鬼塚,前掲論文(8):16巻7号(1969年7月〉78頁。

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(7)Imperial Chemical Industries,且η郷αJ Repoγげo”舵yeα7,1927. 授権資本は  £950万だった。W.J。Reader,1珈eγ∫α’C舵煽cα’血d%sεγ‘e5:4H減o矧 1.丁舵  Fo7eγ包ππeγ51870−1926(OUP,1970),p.465. (8)ICI合同に際して,IGからの脅威への対処が問題となった。Reader,∫δ泓,p.4531  L.F.Haber,Tみe Cゐe飢∫cα」」勉4πs孟矧1900−193α動εeγπα痴oπα’(}γoω君ゐαπ4  Tec肋o’08’cαJ C加π8e(OUP,1971),p.299. 鈴木治雄監修,佐藤正弥,北林美都穂  訳『世界巨大化学企業形成史』(日本評論社,1984年)457頁。 (9〉 ICI,Aππ秘α’Repoγ君ブoγ 2んe yeαゲ,1929. (1① S孟ocゐ&cゐαπ8e O〃∫c∫α」血εe〃∫8eπcε,1927−1929年版。内部留保の増額分は,合  併差益,株式払込剰余金によるものが圧倒的だった。ICI,A㈱%αZ Repo7げoγ置舵  ye卿,1927,28,29各年版。P.Fitzgerald,血4鰐孟γ∫αJ Co飢6加α彦∫oη∫πEπgJαπ4(Sir  Isaac Pitman& Sons Ltd。,1927),p,10L (11) V.E.Parke,B∫〃痂8んα㎜一丁ゐe Fεγs置丁επ yeαr5 (ICI,1957),P.89,PP.104−107;  W.J。Reader,1卿εγ’αJ Cゐe而cα」血伽s彦漉s:ハH醜oγg l,Tゐe F∫γs彦Q%αγ孟eγ一  Ce伽ず忽1926−1952(OUP,1975),P.101. (12 Reader,op・c菰,Vol.H,p・102,p。109;Haber,op.c拡.,p.300. (1鋤 田中寿一『窒素工業問題』6頁。 (14) ICI,Aππ%αJ Rcpoγ孟,1929. (15)ICI,ハSん・”Acc・傭・μheハc彦嬬∫e5・μんeC・即αη9(1929). (1⑤ 渡辺寛「世界農業問題」 (宇野弘蔵監修『帝国主義の研究2 世界経済』青木書店,  1975年,所収)246頁。 (m 同,256頁。 (18 Reader,op。cJL,Vol.∬,pp.120−121.例えば簿価と子会社株の市価の差は,31年で  £335万に達した(ハ伽%αJ Repoπ,1931)。しかし,ICI,は低価主義をとらず,順次償却  を行いながらも簿価の改定は行わなかった(ハπη%αJ Reρo”,1935)。 (19 Reader,op,c∫言。,Vol l,p.117. ⑳ Harber,op。c∫彦.,p.227.邦訳420頁。 ②1〉長谷川幸生,入江成雄,森田憲『国際カルテル』(文真堂,1980年)129頁。 (22 Reader,op.c∫置,,VoL H,p.151. 鮒 Stocking&Watkins,op.c拡,p.86. 一142一

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⑳ 鬼塚,前掲論文,(5)116巻3号(1969年3月)82頁。 ⑫5〉D.S.Landes,丁馳U励o観d pmme言んe粥2(CUP,1969),石坂昭雄,富岡庄一訳『西  ヨーロッパ工業史 産業革命とその後1750−19682』(みすず書房,1982年)623頁。 ⑫6)たとえば,日本に対するダンピングとその結果について,橋本寿朗「硫安独占体の成  立」『経済学論集』45巻4号(1980年1月)56−62頁を参照。 ⑳ 森恒夫『イギリス資本主義』(宇野弘蔵監修『帝国主義の研究4』,青木書店,1975年)  206,216頁。 ⑫8)W.J.Reader,“Imperial Chemical Industries and the State1926−1945” in  Essα宮s 痂Bγ薦sんB粥s加ess H∫5彦o矧,ed.B.SupPle(OUP,1977),P.233. (29 Rea(ler,op。c菰,VoL H,p.179. ㈹め鼠,P.180。 G1) “シナジー効果”については,土屋守章『企業と戦略 事業展開の論理』(日本リクル  ートセンター出版部,1984年) 191頁以下参照。事業部制との関連では占部都美『事業  部制と利益管理』(現代経営学全集17)(臼桃書房,1969年)第8章7節も参照。 (3の G.T.Morgan&D.D.Pratt,Bγ競3んCんe7痂cα’血d%5診曙:丑s R∫seαπ41)ωeJop−  7ηe魏 (Edward Arnold,1938),p.92f.. (3鋤 Reader,oP.c∫言・,VoL l,P.158;ICI,z4ππ%α’Repoγ孟,1932. (34) 1Cll Aππ包αJ Repoγ彦,1935. (35) 1C1,Aπη賜αJ Repoγ孟,1936. (3⑤ Reader,op.c∫乱,VoL H,p.346. (3のReader,・p・cδちVol.H,p.131,T9及び,p.499,T.2を参照。ただし後者の部門編  成は30年代そのままではないので若干のくいちがいがある。 ㈱痂d.,P,135. (39 A.J.H.Latham,Tんε1)εPγess’oηαη4漉e1)ωe’oP痂8▽Voゲ」4,1914−1939  (Croom Helm,1981),p.170f..林晃史「両大戦間期における南アフリカ連邦の『社  会政策』と労働運動」 (山田秀雄編『植民地経済史の諸問題』アジア経済研究所,  1973年,所収)232−233頁。 (4① A.P.Cartwright,Tんe Dμα,η諺e Co,πPαπ馴丁んεS孟o矧oん4ブγ∫cαπEκμos’”e5  απ4Cんε煽cα翫伽爾εsL∫繍ed(H・rt・rsPrinters,1964),P.193。 但1)必‘4.,P.183.

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㈹ε6∫d。,p.190。ロイヤリテfは当初の6千トンにつき£4/t,次の6千トンに£3/t,さら  に次の1万2千トンに£2/tというものであった。 但3〉1933年から資本の流入がはじまり,恐慌時に4{}%まで上昇した6ヵ月預金の利子は  告%にまで下落した。R。S.Sayers,Bα擁∫π8∫η言hεBγ朗訪Co㎜㎜oηωeα航   (OUP,1952),p.366. ㈱ Cartwright,・p.c∫彦.,p.194.しかし,フランケルによれば,その生産指数は1930年代  をっうじて119∼133(1913−100)であった。S.H.Frankel,CαP’∫α」1π砂e討徊ε暢∫η  ∠4!γ∫cα3丑s Co解seαηd E〃ec君5 (OUP,1938),p.82,T2. (45) Reader,op,c∫彦。,p.206. ㈲ この時期の政策が「輸入代替工業化」をそのまま目標にしていたとはいえまい。それ  自体は応急措置的対応が結果として「輸入代替」をもたらし,それをヌルクセやプレビ  ッシュらが理論化したのである。この解説として,西川潤『経済発展の理論』 (日本評  論社,1976年),11章も参照。 ㈱ この時期の関税強化,為替管理については,川田侃「通商政策」 (楊井克巳編『経済  学大系6 世界経済論』東京大学出版会,1961年,第3篇)。馬場宏二「ブロック時代  の国際通貨」 (宇野弘蔵監修,前掲『世界経済』第2章V)を参照。とりわけ一次産品  国の為替切下げについては,League of Nations,加併πα診∫oηαJ C解惚ηcg Eκp併∫・  εηcθ。R。ヌルクセ,小島清,村野孝訳『国際通貨一20世紀の理論と現実一』 (東洋経  済新報社,1953年)第5章6節;C.P。Kindleberger,丁舵WoγJd∫π1)ep惚5s∫oη,  1929−1939(Univ。of Califomia Press,1973), 石崎昭彦,木村一朗訳『大不況下  の世界 1929−1939』 (東京大学出版会,1982年)83頁を参照。 (48〉 Reader,oρ.c甜.,VoL H,pp.208∼210. @9)ICI,Aηη初αJ RepoT言1935.なお20年代までの投資については,Peter Richardson,  “Nobels and the Australian Mining Industrゾ;B%s∫πess疏5孟o瑠,VoL XXVI,  Nα2(July1984)も参照。 (5① 1。蘭。Drummond,乃ηpεゲ∫α’Ecoηo,窺c Poあc営1917−19393S施ゐes加Eκpαπ3’oπ  αηd Pγo置ec痴oπ(George Allen&Unwin,1974),pp.418ff.. (51) ICI,Aππ秘αJ Repoγ置,1935. (52)たとえば,オーストラリアについて,P.ブラウンとH.ヒューズは,ひとたび関税内  で工業が確立すれば, 「その工業の限界的企業がまさに利潤をおさめうる水準に関税率

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 を調節し,限界内の生産者にはかなりの利潤を与えた」としている。C.Foster,ed., A%s置γα」」αηEc・π・伽cPe”e」・卿捌漁εTωe耽言んCeπ吻(G.Allen&Unwin,  1970). 琴野孝監訳『20世紀のオーストラリア経済』 (紀伊国書店,1977年),第4章  P.ブラウン,H.ヒューズ論文,187頁。 鮒 ここでは,いわゆるヴァーノンのプロダクトサイクル論を念頭におき,その有効性と  限界を考えているがその検討は別の機会にゆずる。とりあえず,佐藤定幸『多国籍企  業の政治経済学』 (有斐閣,1984年)2章1も参照されたい。 (5の こうした点はハπηu認Repo7孟でも言及されている。 (55)Reader,op、c∫ぢVoL∬,p.121,p.199.ただし,31年には,その他投資として国内投  資を含んでいたとみられる。 (5⑤ ICI,!1ηπ%αJ Reρoγお,各年版より算出。 励 鬼塚,前掲論文,(6):16巻4号(1969年4月号)75頁。 (謝 これらについては,森恒夫,前掲書,第三章皿を参照。

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