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『中書王御詠』注釈稿(4)

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『中書王御詠』注釈稿(4)

著者

中川 博夫

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

56

ページ

1-166

発行年

2019-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000472

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一

『中書王御詠』注釈稿(四)

中川博夫

 

一、鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の家集の一つ『中書王御詠』 (三五八首)の注解を試みる。 一、1番歌から始めて順番どおりに注釈を付して、数次の分載とする。今回は、雑( 210~ 358)を取り上げる。 一、次の各項からなる。 ①整定本文。②本文を改めたり注記が必要な場合は、本文の項目を立てる。③通釈。④本歌・本説・本文(前項の 「 本 文 」 と は 別、 基 に し た 漢 詩 文 の 意 )、 参 考( 宗 尊 が 踏 ま え た 歌 な ら び に 解 釈 上 に 必 要 な 歌 )、 類 歌( 表 現・ 趣 向 が 類 似 し た 歌 )、 享 受( 宗 尊 歌 を 本 歌 取 り し た 歌 )、 影 響( 宗 尊 歌 を 踏 ま え た 歌 )。 ⑤ 出 典。 ⑥ 他 出。 ⑦ 語 釈。 ⑧ 補 説。②と④~⑧は、無い場合には省略。 一、 底 本 は、 冷 泉 家 時 雨 亭 文 庫 蔵 本 の 影 印 版『 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書   第 三 十 一 巻   中 世 私 家 集   七 』( 二 〇 〇 三・ 八、 朝日新聞社)に拠る。適宜、その転写本である宮内庁書陵部蔵本(五〇一・八七)を参照する。 一、本文は、次の方針に従う。 1.底本の翻印は、通行の字体により、歴史的仮名遣いに改め、意味や読み易さを考慮して、適宜ひら仮名を漢字 に、漢字をひら仮名や別の漢字に改める。送り仮名を付す。清濁・句読点を施す。なお、原則としてひら仮名の

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二 反復記号は用いない。 「謌」 「哥」は「歌」に統一する。 2. 本 文 を 改 め た 場 合、 底 本 の 原 状 は 右 傍 に 記 す( 送 り 仮 名 を 付 し た 場 合 は 圏 点 )。 私 に ふ り 仮 名 を 付 す 場 合 は (   )に入れて区別する。その他、問題点や注意点は、適宜特記する。 3.他資料の本文との異同は、漢字・仮名の別や仮名遣いの違いや送り仮名の有無など、表記上の違いは原則とし て取らない(解釈の分かれる可能性のある表記上の違いである場合は参考までに注記する) 。 4.底本の本行の原状(見消ち等の補訂は本行に復元)に対して他資料の本文との異同を示す。 5.底本の和歌には、合点(鉤点)が付されていて、まま胡分の塗り消しがあるという。影印版では判然としない ので、時雨亭叢書の解題に付載の一覧に拠りつつ、これらを〔補説〕に記すこととする。 6.歌頭に通し番号を付した(新編国歌大観番号と同じ) 。 一、引用の和歌は、特記しない限り新編国歌大観本に拠る。万葉集は、原則として西本願寺本の訓と旧番号に従う。 なお、表記は私に改める。歌集名は、原則として「和歌」を省く。その他の引用は、日本歌学大系本他の流布刊本 に拠る他、特殊な本文の場合には特記する。

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『中書王御詠』注釈稿(四) 三

 

雑 離別 210   さらぬ 世 よ の 慣 な らひを 辛 つら き 限 かぎ りにて 命 いのち のうちは 別 わか れずもがな 〔通釈〕   雑    離別 避けられないこの世の(死別の)慣らいを辛いことの極限として、せめて命があるうちは別れずにいたいもの だな。 〕  吹 く 風 の さ ら ぬ 慣 ら ひ も 忘 ら れ て 千 代 も と 嘆 く 花 の 蔭 か な( 万 代 集・ 春 下・ 花 歌 中 に・ 三 七 二・ 鷹 司 院 按 察。続古今集・春下・題しらず・一〇九) いかなれば辛き慣らひの夢の世にさらぬ別れの現なるらん(続古今集・哀傷・法印覚寛身まかりける後よみ 侍りける・一四五八・覚宗) つひに行く道よりもけに悲しきは命のうちの別れなりけり(続後撰集・羈旅・別の心を・一二八三・雅成親 王。秋風集・離別・題しらず・九九八。新三十六人撰 正元二年 ・四九、 二句「道よりもなほ」 ) いかがせんありし別れを限りにてこの世ながらの心変はらば(続後撰集・恋三・久しくかき絶えたる人に遣

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四 はしる・八四九・定家。拾遺愚草・恋・久しくかき絶えたる人に・二六五五) 〔類歌〕   長からぬ命の程を限りにてしばしも君に別れずもがな(風葉集異本歌・后の宮ただにもおはしまさで出でさ せ給ひけるに、聞こえさせ給ひける・一四一二・ふた葉の松の帝の御歌) 恋ひ死なむ命のうちを限りにて後の世までは嘆かずもがな(慶運百首・恋・不逢恋・七三) 〕  閑 月 集・ 離 別・ 人 に つ か は し け る・ 三 六 五、 「 返 し / 読 人 し ら ず / 命 あ り て 別 る る 道 は お の づ か ら 又 逢 ふ 末 を頼むばかりぞ」が続く。新後拾遺集・離別・旅にまかりける人に・八五〇。 〔語釈〕   ○さらぬ―「避らぬ」 。避けられない、どうしようもない。 「慣らひ」にかかる。 〔補説〕   宗尊は、鎌倉殿御家人東胤行(法名素暹)との間で、該歌に通う次のような贈答を交わしている。素暹は、 文武兼備の士として、実朝から宗尊まで四代の将軍に仕え、弘長三年(一二六三)八月六日以前に没している(吾 妻鏡) 。      素暹法師わづらふこと侍りけるが、限りに聞こえ侍りければつかはしける          中務卿宗尊親王    限りぞと聞くぞ悲しきあだし世の別れはさらぬ慣らひなれども      返し         素暹法師    かくつらき別も知らであだし世の慣らひとばかり何思ふらむ(新後撰集・雑下・一五一六~七)   歌頭に合点あり。

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『中書王御詠』注釈稿(四) 五 (離別) 211   年 とし を 経 へ て 馴 な れ 慣 な らひにし 名 な 残 こり こそ 別 わか る る ゝ 今 いま の 契 ちぎ りなりけれ 〔通釈〕 (離別) 長い年月を経て、馴れに馴れて親しんだ名残こそが、別れる今のせめてもの縁なのであったな。 〔参考〕   年を経て馴れたる人も別れにし去年は今年の今日にぞありける(後拾遺集・哀傷・五八六・時文) 〔出典〕   文永三年十月五百首歌・別離(竹風抄) 。 〔他出〕   竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・別離・一三六、結句「辛さなりけれ」 。 〕  ○ 別 離 ― 竹 風 抄 で は「 別 離 」 で、 そ れ は『 古 今 六 帖 』( 第 四・ 別 ) の「 わ か れ 」 に 当 た り、 「 別 」 の 表 記 で は、 『 堀 河 百 首 』( 雑 ) に 見 え る。 宗 尊 が 撰 進 さ せ た と 考 え ら れ て い る『 東 撰 和 歌 六 帖 』 の 題 目 録( 雑 ) に は「 別 離 」 と 見 え る。 「 離 別 」 は、 『 古 今 集 』 以 来 の 部 立 の 名 称 で、 『 久 安 百 首 』 の 題 に 立 て ら れ た。 ○ 馴 れ 慣 ら ひ に し ― 「馴れ慣らふ」は、歌語としては珍しい。 『今鏡』 (花園の匂ひ)に、 (賀茂臨時祭の四位の陪従として召されて参内 し た 清 輔 が、 六 条 天 皇 代 に い ま だ 昇 殿 を 許 さ れ て い な か っ た の で、 と ま ど い な が ら )「 北 の 陣 の 方 に 巡 り て、 后 の 宮のおはします、御達の局町など見るに、また殿上の方ざまへ参りて、はるかに見渡しなどしけるにも、昔に変は りたる事もなく、馴れ慣らひたりし人どもの見えければ」 (講談社学術文庫本)と見える。 七月八日の暁、 鎌 かまくら 倉 を 出 い づとて 212   めぐり 逢 あ ふ 秋 あき は 頼 たの まず 七 たなはた 夕 の 同 おな じ 別 わか れに 袖 そで は 絞 しほ れど

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〔通釈〕   七月八日の暁、鎌倉を出るということで 再びめぐり逢う秋は期待しないのだ。七夕の両星の(めぐり逢う七月七日の翌朝と)同じ(この七月八日暁の鎌 倉との)別れに、やはり涙の袖は絞るけれども。 〔補説〕   文永三年(一二六六)春以来の宗尊の妻宰子と僧良基との密通の風聞をきっかけにするかのように、宗尊は 北 条 氏 に よ り 将 軍 の 地 位 を 追 わ れ 鎌 倉 を 出 て 帰 洛 す る。 宗 尊 は、 七 月 四 日 に 御 所 を 出 て 越 後 入 道 勝 円( 北 条 時 盛 ) の左介邸に入り、八日に京都へ出発し、鶴岡若宮社(八幡宮)前の赤橋を西行し武蔵大路を経たという。その赤橋 前で女房輿を若宮社の方にに向け、暫く祈念し詠歌したという。その折の作であろうか。   以下、 230まで帰洛途次の各所に於ける詠作。羈旅歌風に歌枕・所名や土地の景趣等に寄せながら、将軍職を離れ 鎌倉を追われて京都へ戻る人生を詠嘆述懐する趣が強い歌が続く。   歌頭に合点あり。 足 あしから 柄 を 越 こ ゆとて 213   いかにせむ 急 いそ ぎしまでは 関 せき 据 す ゑて 憂 う きに 越 こ えける 足 あしから 柄 の山 〔通釈〕   足柄を越えるということで ど う し よ う か。 ( 京 都 へ と ) 急 い で( そ こ に ) 行 っ た ま で は 急 い だ け れ ど、 そ こ に は 関 を 設 け て あ っ て、 憂 く 辛 い中で越えた、悪し柄という悪路の足柄の山よ。 〔参考〕   いかにせむ恋路の末に関据ゑて行けども遠き逢坂の山(新勅撰集・恋二・七五五・藻璧門院少将。日吉社撰

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『中書王御詠』注釈稿(四) 七 歌合 寛喜四年 ・恋・五七。三十六人大歌合 弘長二年 ・一八八) 〕  い か に せ ん 我 が 門 に さ へ 関 据 ゑ て 人 の 行 き 来 も 安 か ら ぬ 世 を( 竹 風 抄・ 巻 一・ 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌・ 門・ 一一四) 〔語釈〕   ○足柄―相模国西部の郡名だが、ここは足柄山とその周辺のことであろう。○急ぎしまでは―よく分からな い 表 現。 「 急 ぎ し 待 て ば 」 で も 一 首 に 収 ま ら な い。 ○ 関 ― 足 柄 の 関 の こ と。 相 模・ 駿 河 両 国 境 に あ る 足 柄 山 の 東 麓 にあった関。ここは、前の「急ぎしまでは」を承けて「 急 せ き」が掛かるか。○足柄の山―相模国の歌枕。相模国と 駿 河 国 の 境 山。 金 時 山 に 連 な る 足 柄 山 塊 の 一 峰、 足 柄 峠 一 帯 の 称 か。 「 急 ぎ し 」 と の 対 照 で か つ「 憂 き 」 の 縁 で 「悪し柄」が掛かるか。宗尊の「月待ちていざ越え行かむ夕闇は道たどたどし足柄の山」 (柳葉集・巻五・文永二年 潤四月三百六十首歌・雑・八〇八)も同様であろう。ちなみに、将軍宗尊の幕下に祗候した顕氏は、宗尊親王家の 「 当 座 続 歌 」 で、 「 駒 並 め て い く た び 峰 を 越 え ぬ ら ん 作 れ る 道 も 足 柄 の 山 」( 顕 氏 集・ 羈 旅・ 三 五 ) と、 明 ら か に 「足柄」に「悪し柄」を掛けた歌を詠んでいる。 〔補説〕   類歌の宗尊詠は同じ参考歌を踏まえていよう。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、足柄山を越えたのは翌九日であ ろ う。 「 弘 長 二 年 十 一 月 百 首 歌 」( 旅 ) で「 知 ら ざ り し 心 地 も さ す が 旅 馴 れ て 山 路 急 ぎ し 足 柄 の 関 」( 柳 葉 集・ 二八七)と詠じたのは、京都から東下した折に足柄の関を越えた時の感懐を鎌倉で追想した詠作であろうか。ある いはこれを思い起こしていたか。   歌頭の合点を白滅。

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八 蒲原といふ宿に 泊 と まりて侍 り ・ しに、月いと 隈 くま なかりしかば 214   露か か ゝ る 旅 たひ 寝 ね の 床 とこ の 秋 あき の 月 つき 涙 なみた 払 はら はぬ 袖 そて に 見 み るとも 〔通釈〕   蒲原という宿に泊まっておりました時に、月がすごく曇りなく明るかったので 露 が 置 き 掛 か る こ の よ う な 旅 寝 の 床 に 眺 め る 秋 の( す ば ら し く 明 る い ) 月 よ。 ( 自 分 が 悲 し み の ) 涙 を ふ り 払 わ ない袖に見るとしても。 〔参考〕   いとどしく旅寝の床の露けきに鴫の羽掻き涙添ふなり(万代集・雑四・羈中暁思といふことを三四四二・俊 頼。 散 木 奇 歌 集・ 旅 宿・ 右 兵 衛 督 伊 通 の 家 に て 六 首 歌 よ み け る に、 羈 中 暁 思 と い へ る 事 を よ め る・ 七五五。和歌一字抄・暁・羈中暁思・一七六。中古六歌仙・羈中暁思・六二) 狩衣袖の涙に宿る夜は月も旅寝の心地こそすれ(千載集・羈旅・五〇九・崇徳院。久安百首・羈旅・九六) 〔語釈〕   ○露かかる旅寝―「露掛かる」から「かかる」を掛詞に「斯かる旅寝」へ鎖る。○蒲原―駿河国庵原郡神原 庄(現静岡県静岡市清水区蒲原)の宿駅名。 〔補説〕   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、蒲原宿泊は七月十日の夜で あろう。 (蒲原といふ宿に泊まりて侍りしに、月いと隈なかりしかば) 215   月だにも見し 世 よ の 秋 あき に 変 か はれとや 今 いま は 涙 なみた のかき 暗 くら すらん

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『中書王御詠』注釈稿(四) 九 〔通釈〕 (蒲原という宿に泊まっておりました時に、月がすごく曇りなく明るかったので) 月 さ え も、 昔 見 た か つ て の 世 の 秋 の 夜 に 変 わ れ と い っ て、 今 は 涙 が( こ の 曇 り な く 明 る い 月 の 照 る ) 空 を 暗 く し、心を暗くしているのだろうか。 〔本歌〕   月影は見し世の秋にかはらぬを隔つる霧のつらくもあるかな(源氏物語・賢木・一五五・光源氏) 〕  ○ 見 し 世 ― 昔 か つ て 見 た 世、 時 代。 「 世 」 に「 月 」 の 縁 で「 夜 」 が 掛 か る。 ○ か き 暗 す ― 辺 り 一 帯 を 暗 く す る意に、悲しみに心を暗くする意が重なる。 〔補説〕   本歌は、光源氏が、故桐壺帝の忌み明けに三条宮に移っていた藤壺を忍び訪れた折に、藤壺が「ここのへに 霧 や 隔 つ る 雲 の 上 の 月 を 遙 か に 思 ひ や る か な 」( 一 五 四 ) と 命 婦 を 介 し て 光 源 氏 に 贈 っ た 歌 の 返 歌。 藤 壺 の 言 う 「 雲 の 上 の 月 」 は、 か つ て 内 裏 で 見 た 月 の こ と で あ り、 故 桐 壺 院 を 寓 意 か。 光 源 氏 の 言 う「 月 影 」 は、 藤 壺 の 姿 を 寓意し、 「隔つる霧」は、光源氏を拒む藤壺の心を寓意か。   歌頭に合点あり。 手越宿にて月を見て 216   月もな ほ を 同 おな じ 影 かけ にて 澄 す むものをいかに 変 か はれる 我 わ が 世 よ なるらん    土御門院御歌有 る ・ べし 〔通釈〕   手越宿で月を見て 月もそのまま同じ光で澄んでいるのに、どうして様変わりした(この夜に月を眺める)私の人生なのだろうか。 土御門院の御歌があるはずだ。

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一〇 〔参考〕   何事もかはりのみゆく世の中に同じ影にて澄める月かな(山家集・秋・月歌あまたよみけるに・三五〇。西 行法師家集・秋・一九三、四句「おなじ影にも」 。続拾遺・雑秋・五九五・西行) ことごとにありしにも似ぬ世の中に同じ影なる秋の夜の月(新撰六帖・あきの月・二六六・家良) 雲ゐより宿り馴れにし袖の月いかにかはれる涙とか見る(土御門院御集・詠十首和歌・寄月述懐・二。万代 集・雑二・三〇〇五・土御門院。続古今集・雑下・一七三六、結句「涙とか知る」 ) 〔語釈〕   ○手越宿―駿河国有度郡(現静岡市駿河区手越)の宿駅。安倍川の西岸で鎌倉街道に沿う。中世までは木瀬 川(黄瀬川)と並称される遊女のいた所という。○世―「月」の縁で「夜」が掛かる。 〔補説〕   為家の評詞は、参考歌の三首目を指すか。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、手越宿に達したのは七月十一日 であろう。 (手越宿にて月を見て) 217   あはれなり 馴 な れ 来 こ し人も 見 み えぬ 世 よ にな ほ を 身に 添 そ へる 秋 あき の月 影 かけ 〔通釈〕 (手越宿で月を見て) しみじみ寂しく哀れであるな。私が馴れ親しんで来た人も見えない今この時この夜に、それでもやはり我が身に 寄り添っている秋の月よ。 〔参考〕   身に添へる影とこそ見れ秋の月袖に映らぬ折しなければ(新古今集・秋上・四一〇・相模)

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一一 〔 〕  ○ 馴 れ 来 し 人 ― 古 く「 年 を 経 て 馴 れ 来 し 人 を 別 れ に し 去 年 は 今 年 の 今 日 に ぞ あ り け る 」( 元 輔 集・ 一 〇 一・ 時 文 ) が あ る が、 近 く は 良 経 に「 し か す が に 馴 れ 来 し 人 の 袖 の 香 の そ れ か と ば か り い つ 残 り け ん 」( 正 治 初 度 百 首・ 恋・四八〇・良経。秋篠月清集・七七七)がある。○世―「月」の縁で「夜」が掛かる。 (手越宿にて月を見て) 218   な ほ を ざりの 秋 あき の 空 そら 行 ゆ く 月 つき だにも 涙 なみた の 外 ほか の 影 かけ をやは 見 み し 〔通釈〕 (手越宿で月を見て) 心 に 深 く と め な い 秋 の 空 を 行 く 月 で さ え も、 涙 と 無 縁 に そ の 光 を 見 た か。 ( い や 見 な か っ た の だ。 ま し て、 こ の 哀しく切ない秋の空行く月はなおさらだ) 。 〔参考〕   おしなべて秋の空行く村雲も月のあたりの色は分きけり(紫禁集・同〔建保六年七月〕十二日、当座、雲間 月・一〇六七) 荻 の 葉 に 風 の 音 せ ぬ 秋 も あ ら ば 涙 の 外 に 月 は 見 て ま し( 新 勅 撰 集・ 秋 上・ 二 二 三・ 道 助。 三 十 六 人 歌 合( 元 暦 )・七。新三十六人撰 正元二年 ・六三。新時代不同歌合・二八七) 大 方 の 月 を ば 秋 と 待 ち え て も 今 宵 ば か り の 影 を や は 見 し( 明 日 香 井 集・ 同〔 和 歌 所 〕 御 会 元 久 元 年 八 月 十 五 夜 当 座 ・翫月・一一三七) 〔補説〕   秋の月を見れば心動かされて落涙するという通念を踏まえ、失脚し鎌倉を追われるように帰洛する秋の旅の 途次に見る月は涙の中で見るほかにないとの主旨。この涙はいつも付き物であったではないかといった慰めでもあ

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一二 り、いつもにましていっそう哀切な涙だとの悲嘆でもあろう。   94補 説 に も 記 し た と お り、 「 涙 の 外 」 は 宗 尊 が 次 の よ う に 用 い て い て、 そ の 述 懐 性 を 窺 わ せ る。 再 掲 す れ ば、 次 のとおり。 ①空も憂き時や知るらむかみな月涙の外のまた時雨れつつ(柳葉集・巻一・弘長元年五月百首歌・冬・四〇) ② 今 日 は ま た 涙 の 外 に 菖 蒲 草 長 き ね を さ へ 袖 に か け つ つ( 柳 葉 集・ 巻 二・ 弘 長 二 年 十 二 月 百 首 歌・ 昌 蒲・ 三一四) ③あはれわが涙の外の秋ならば置きける露や袖に知らまし(中書王御詠・秋・百首の歌の中に・九四) ④ 返 し て も 涙 の 外 の 玉 は 見 ず 夜 半 の 衣 の う ら め し の 身 や( 竹 風 抄・ 巻 一・ 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌・ 玉・ 一 六 八。 中書王御詠・雑・雑の歌の中に・二八二) ⑤ 春 の 月 涙 の 外 に 見 る 人 や 霞 め る 影 の あ は れ 知 る ら ん( 竹 風 抄・ 巻 三・ 文 永 三 年 八 月 百 五 十 首 歌・ 春 月・ 五〇〇) ⑥ 冬 来 ぬ と 涙 の 外 も 時 雨 る な り い か が は す べ き 墨 染 め の 袖( 竹 風 抄・ 巻 五・ 〔 文 永 九 年 十 一 月 頃 百 番 自 歌 合 〕 初 冬・九五八)   これらの内、①②⑥の「涙の外」は、涙以外、あるいは涙に加えて他、の意。③⑤の「涙の外」は、該歌と同様 に、 涙 と 無 関 係、 涙 を 流 す こ と の な い、 の 意。 ④ は、 前 者 に 解 す る の が 穏 当 で あ ろ う が、 後 者 に 解 さ れ な く も な い。 い ず れ に せ よ、 和 歌 一 般 が そ う で あ る こ と を 超 え て、 境 涯 か ら 見 て 特 に、 「 涙 」 を 意 識 し て 詠 ず る 傾 き が あ っ た か と 想 像 さ れ る 宗 尊 ら し い 詠 み ぶ り で は あ ろ う。 ま た、 「 涙 の 外 」 と い う 比 較 的 新 し い 語 を 多 用 し て い る 点 は、 宗尊の学習や詠作傾向の一面であろう。

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一三 宇津山にて 219   都 みやこ へと 急 いそ ぐも 夢 ゆめ か 宇 う 津 つ の 山 やま 現 うつゝ ともなき 世 よ にま 迷 まよ ひつ つ ゝ 〔通釈〕   宇津の山で このように都へと急ぎ上るのも夢なのか。この宇津の山で、現ともないこの世の中に迷いながら。 〕  駿 河 な る 宇 津 の 山 辺 の 現 に も 夢 に も 人 に 逢 は ぬ な り け り( 伊 勢 物 語・ 九 段・ 一 一・ 男。 新 古 今 集・ 羈 旅・ 九〇四・業平) 世の中は夢か現か現とも夢とも知らずありてなければ(古今集・雑下・九四二・読人不知) 踏 み 分 け し 昔 は 夢 か 宇 津 の 山 跡 と も 見 え ぬ 蔦 の 下 道( 最 勝 四 天 王 院 和 歌・ 宇 津 山・ 三 五 八・ 雅 経。 続 古 今 集・羈旅・九一五。明日香井集・一〇〇四) 〔類歌〕   我が心現ともなし宇津の山夢にも遠き都恋ふとて(十六夜日記・四七・阿仏尼) 〕  閑 月 集・ 羈 旅・ 東 を 立 ち て 宇 津 の 山 に て・ 三 八 九。 拾 遺 風 体 集・ 羈 旅・ 都 へ 帰 り 上 り 給 ひ け る に、 同 じ 所 〔宇津の山〕にて・二五〇、 二句「帰るは夢か」 。 〕  ○ 宇 津 山 ― 駿 河 国 安 倍 郡 と 志 太 郡 の 境 山( 現 静 岡 市 駿 河 区 宇 津 ノ 谷 と 藤 枝 市 岡 部 町 の 境 )。 南 に 宇 都 ノ 谷 峠 が あ る 山。 ○ 宇 津 の 山 ― 駿 河 国 の 歌 枕( → 前 項 )。 「 夢 」 の 縁 で「 現 」 が 響 き、 「 う つ 」 の 音 で「 現 」 を 起 こ す 序 の よ う に も 働 く。 ○ 現 と も な き ―「 う た た 寝 の 夢 か と ぞ 思 ふ 時 鳥 現 と も な き さ 夜 の 一 声 」( 重 家 集・ 内 裏 百 首・ 時 鳥・ 一 一 一 ) あ た り が 早 い か。 宗 尊 は、 家 隆 の「 夢 と 見 し 人 は 夢 路 に 迷 へ ど も 現 は な ほ ぞ 現 と も な き 」( 壬 二 集・ 後 度 百 首・ 雑・ 一 九 七 ) や 真 観 の「 あ り し よ に 夢 と や 人 の 結 び け ん 現 と も な き 仲 の 契 り は 」( 新 撰 六 帖・ 第 五・ ち

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一四 ぎ る・ 一 五 四 〇 ) や 為 家 の「 人 も 身 も 現 と も な き 心 こ そ ま こ と の 夢 の ま ど ひ な り け れ 」( 為 家 五 社 百 首・ 夢・ 六八三・春日社)等に学んだか。○世に迷ひつつ―宗尊好みの句か。他に「天つ空風の上行くうき雲の宿り定めぬ 世 に 迷 ひ つ つ 」( 竹 風 抄・ 巻 一・ 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌・ 雲・ 五 八 ) と「 焼 く 塩 も 立 つ 白 浪 も い さ 知 ら ず 我 の み か らき世に迷ひつつ」 (中書王御詠・雑・三四二)がある。 〕  当 時 の 京 都・ 鎌 倉 往 還 の 旅 程 に 照 ら せ ば、 鎌 倉 を 七 月 八 日 に 出 立 し て い る の で、 宇 津 山 に 達 し た の は 七 月 十一日であろう。 佐 さ 夜 や の 中 なか 山を 越 こ ゆとて 220   露 つゆ 払 はら ふ 朝 あさ けの 袖 そて は 単 ひ と へ 衣 にて 秋 あきかせ 風 寒 さむ し 佐 さ 夜 や の 中 なか 山 〔通釈〕   佐夜の中山を越えるということで 露を払う明け方の袖は(夏と同じまだ)単衣であって、吹く秋風が寒いこの佐夜の中山よ。 〕  こ の 寝 ぬ る 朝 け の 袖 は ま だ ひ と へ か さ ね は 誰 に あ き の 初 風( 明 日 香 井 集・ 春 日 社 百 首 元 久 二 年 十 二 月 三 日 於 二 宝 前 一 被講七ケ日参籠之間詠 レ 之 ・秋・五六八) うたた寝の朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風(新古今集・秋上・三〇八・式子) 明け方の佐夜の中山露満ちちて枕の西に月を見るかな(秋篠月清集・治承題百首・旅・四八三) 都 出 で し 秋 は か は ら ぬ 袖 の 露 も さ や は 乱 れ じ 佐 夜 の 中 山( 建 保 名 所 百 首・ 雑・ 佐 夜 中 山・ 一 一 二 一・ 俊 成 女)

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一五 夕こりの岩根の雲にかさねてもなほ袖寒し佐夜の中山(建保名所百首・雑・佐夜中山・一一二四・忠定。万 代集・雑四・三三六五) 吹き迷ふ嵐の風の寒き夜に仮寝寂しき佐夜の中山(院御歌合 宝治元年 ・旅宿嵐・二一七・公基) 〔類歌〕   うたた寝の床の秋風吹き初めてまだひとへなる袖ぞ露けき(宗尊親王三百首・夏・一〇六) 〕  続 拾 遺 集・ 羈 旅・ 佐 夜 の 中 山 に て よ み 侍 り け る・ 六 八 〇。 歌 枕 名 寄・ 東 海 三・ 遠 江・ 佐 夜 中 山・ 続 拾 十・ 五〇一七。 〔語釈〕   ○佐夜の中山―「小夜(さや・さよ)の中山」とも。遠江国小笠郡(現静岡県掛川市)日坂と菊川の間にあ る 坂 道( 峠 道 )。 左 右 の 谷 が 深 い 険 路 で、 東 海 道 の 難 所。 ○ 単 衣 ― 裏 地 な し の 衣。 夏 衣。 こ こ は 秋 七 月 十 二 日 頃 の 詠作だが、秋服への更衣もままならなかった混乱の中での、急に出立した帰洛途中の旅であることを表すか。○佐 夜の中山―遠江国の歌枕(→前の「佐夜の中山」の項) 。「佐夜」に「朝け」の縁で「さ夜」が響く。 〔補説〕   実感を伴う羈旅詠であろうが、参考の後ろ四首のような新古今時代以降の「佐夜の中山」の詠み方にも沿っ ていようか。   類 歌 の 宗 尊 詠 は「 夏 衣 ま だ ひ と へ な る う た た 寝 に 心 し て 吹 け 秋 の 初 風 」( 拾 遺 集・ 秋・ 一 三 七・ 安 法。 拾 遺 抄・ 秋・八七。新撰朗詠集・秋・早秋・一九三)を本歌にする。   当 時 の 京 都・ 鎌 倉 往 還 の 旅 程 に 照 ら せ ば、 鎌 倉 を 七 月 八 日 に 出 立 し て い る の で、 佐 夜 の 中 山 に 達 し た の は 七 月 十二日であろう。   歌頭に合点あり。

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一六 池田宿にて、ひとり月を見て 221   いかならむ 世 よ にもと 言 い ひし人は 来 こ ず 契 ちき らぬ月ぞ 涙 なみた をも 問 と ふ 〕  ○ い か な ら む ― 底 本「 い な か ら む 」 の 傍 記「 な 」 を 本 行 化 し て「 い か な ら む 」( 書 陵 部 本 も 同 様 ) に 改 め る。 ○来ず―底本「こ す て 」(書陵部本同じ) 。 〔通釈〕   池田の宿で、一人で月を見て どのような時でも(訪うと約束する)と言った人は来ない。約束していない月が、私の悲しみの涙に訪れること だ。 〔参考〕   初雪の降らばと言ひし人は来でむなしく晴るる夕暮の空(拾玉集・詠百首和歌・三六四〇) 昔 見 し 人 は 来 ね ど も な か な か に 契 ら ぬ 月 ぞ 忘 れ ざ り け る( 続 詞 花 集・ 雑 上・ 山 寺 に 侍 り け る こ ろ、 月 を 見 て・七九一・源道済。道済集・わづらふ比、山寺にて秋月を見て・二七四) 〔影響〕   待たれつる今宵もつひに更け果てて契らぬ月や涙問ふらん(新葉集・恋三・家にて三百番歌合しける時、待 恋をよめる・八三五・教頼。南朝三百番歌合・待恋・五三、 三句「ふけ り (ママ) てて」 ) 〔語釈〕   ○池田宿―遠江国磐田郡池田(現静岡県磐田市池田)の、天竜川岸に位置した宿駅。 〔補説〕   失脚して帰洛する境遇の中で、かつて鎌倉に将軍としてあった時には付き従っていた人の姿が今は見えない という孤独な悲哀を、涙にくれる自分を変わらずに照らす月に託して詠じる。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、池田宿に達したのは七月十三日 であろう。

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一七   影響に挙げた南朝歌人二条教頼の一首は、特徴的な下句が近似する。南朝歌人達が宗尊の歌に関心を寄せていた こ と は 種 々 の 事 例 か ら 疑 い な い と こ ろ と 考 え る が、 『 中 書 王 御 詠 』 自 体 が 南 朝 に も た ら さ れ て い た の か 否 か、 そ の 所収歌を南朝歌人がいかにして知り得たか、といった点についてはさらに追究される必要があろう。 浜名橋を 過 す ぐとて 222   入 いりうみ 海 の 浜 はま 名 な の 橋 はし に日は 暮 く れて 秋 あきかぜ 風 渡 わた る 浦 うら の 松 まつはら 原 〔本文〕   ○入海の―「いり   うみの」 (「り」と「う」の間の「う」を白滅) 。 〔通釈〕   浜名の橋を通り過ぎるということで 入海(遠江の湖)に架かる浜名の橋を渡るところで日は暮れて、浦の松原に秋風が吹き渡るよ。 〕  目 に 近き難 波 の 浦 に 思 ふ か な 浜 名 の 橋 の 秋 霧 の 間 を ( 能因 法 師 集 ・ 遠江 に 公 資 朝 臣 許 に 送 レ 于 レ 時 在 二 摂 州 一 一三九) 雁がねも霧の途絶えや恨むらん浜名の橋の秋の夕暮(最勝四天王院和歌・浜名橋・三四九・具親。雲葉集・ 秋上・四四四) 高師山夕越え暮れて麓なる浜名の橋を月に見るかな(続古今集・羈旅・東にまかりける時、浜名の橋の宿り にて月隈なかりけるを見て・八七八・北条政村) 〔類歌〕   入海の浜名の橋の松原に月かたぶきぬ明けぬこの夜は(沙弥蓮愉集・雑・六八〇) 面影はそれとも見えて行きとまる浜名の橋に秋風ぞ吹く(時広集・名所・浜名橋・一五五)

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一八 入海の浜名の橋に波かけて昔をのみぞ恋ひ渡りける(実材母集・三七六) 立ち並ぶ松かげかけて入る潮に浜名の橋を渡る秋風(為家集・同〔文永〕七年潤九月十三夜続五十首太秦・ 五七五) 夕 日 さ す 浜 名 の 橋 を 見 渡 せ ば 入 海 遠 く 潮 ぞ 満 ち 来 る( 隣 女 集・ 巻 二 自 文 永 二 年 至 同 六 年 ・ 雑・ 浜 名 の 橋 に て・ 七四八) うち渡す浜名の橋の秋風に遠方人の袖返る見ゆ(雅顕集・橋本宿にて、人の通るを見侍りて・九二) 明け渡る浜名の橋のはるばると入海遠き松のむら立(嘉言百首・雑・橋・一四八一・俊光) 〔他出〕   夫木抄・秋四・秋風・御集・五四一一。 〔語釈〕   ○浜名橋―遠江国浜名郡(現静岡県浜松市と湖西市に跨がる)の浜名湖湖口に渡した橋。海に繫がる小さな 湖口に架けられた橋であろう。現今切の湖口は中世以後のものとされる。 『三代実録』 (元慶八年 (八八四) 九月一日) に「 遠 江 国 浜 名 橋、 長 五 十 六 丈、 広 一 丈 三 尺、 高 一 丈 六 尺、 貞 観 四 年 修 造、 歴 二廿 余 年 一 既 以 破 壊。 勅 給 二 国 正 税 稲 一 万 二 千 六 百 卌 束 一 改 作 焉。 」 と あ る。 そ の 後 火 災 や 損 壊 や 流 失 を 繰 り 返 し て 幾 度 も 架 け 替 え ら れ た が、 明 応 七年(一四九八)の地震による地形の変化で廃絶されたという。○入海―陸地に入り込んだ海。ここは海と小さな 湖 口 で 結 ば れ た 浜 名 湖 を 言 っ た も の で あ ろ う。 ○ 浜 名 の 橋 ― 遠 江 国 の 歌 枕( → 前 々 項 )。 古 く は「 遠 江 浜 名 の 橋 を う ち 渡 し 行 く 末 遠 く 頼 ま る る か な 」( 延 喜 御 集・ 三 七・ 朱 雀 院 ) や「 潮 満 て る 程 に 行 き 交 ふ 旅 人 や 浜 名 の 橋 と 名 付 け 初 め け ん 」( 拾 遺 集・ 別・ 恒 徳 公 家 の 障 子 に・ 三 四 二・ 兼 盛。 兼 澄 集・ 一 一 三 ) と 詠 ま れ る。 前 者 は 上 句 の 序 詞 中 に「 遠( 江 )」 「 橋 」「 う ち 渡 し 」 か ら「 行 く 末 遠 く 」 を 起 こ す た め に 織 り 込 ま れ た だ け で あ り、 後 者 は 障 子 歌 で 「 浜 名 」 に「 浜 無( し )」 が 掛 か る 趣 向 の 一 首 で し か な い。 「 東 路 の 浜 名 の 橋 の 早 く よ り 深 き 心 は 汲 み て 知 る ら ん 」

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『中書王御詠』注釈稿(四) 一九 ( 海 人 手 古 良 集・ 四 七 ) や「 恋 し く は 浜 名 の 橋 を 出 で て 見 よ 下 行 く 水 に 影 や 見 ゆ る と 」( 古 今 六 帖・ 第 三・ は し・ 一六一〇・作者不記)等も同様である。もちろん類型や趣向も何人かの実見や伝聞を基盤に生成されたことは否定 できないが、歌人の経歴や詞書の記述等からある程度の確度を以て、各歌人の実体験を幾らかでも反映したと考え ら れ る 歌 は、 『 増 基 法 師 集 』 の「 浜 名 の 橋 の も と に て / 人 知 れ ず 浜 名 の 橋 の う ち 渡 し 嘆 き ぞ 渡 る 幾 世 な き 世 を 」 (九三)や、参考に挙げた『能因法師集』の歌あたりが早いか。→補説。○渡る―風が一面に吹き通る意。 「橋」の 縁で渡橋する意が掛かる。 〕  「 浜 名 の 橋 」 を 実 際 に 通 過 実 見 し て 詠 じ た の で あ ろ う が、 縁 語「 渡 る 」 を 用 い る の は 類 型 で あ り、 秋 の 景 趣 は参考の前二首のような先行例が存してもいる。参考の能因詠と北条政村詠は実体験を踏まえていようか。早くか ら架橋されていたので、実際に通過した歌人の詠もなくはないであろうが、やはり鎌倉に武者の府が開かれて以降 の歌に、類型を踏まえながらも実際の景に近いかと思しい叙景歌が増えてくる。類歌に挙げた諸詠はそれで、作者 はいずれも何らかの形で関東に縁故があり京都と鎌倉を往還した経験を有する歌人である。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、浜名橋に達したのは七月十四日 であろう。   歌頭に合点あり。 橋本の宿を暁 立 た つとて 223   立 た ち 迷 まよ ふ 湊 みなと の 霧 きり の 明 あ け 方 かた に松 原 はら 見えて月ぞ 残 のこ れる

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二〇 〔通釈〕   橋本の宿を暁に出立するということで 湊の辺り一面に立ち漂う(京へと)出立しても迷うほどの霧、それが明けてゆく夜明け方に、松原が見えてきて (見上げる空には)月が残っていることだ。 〕  入 海 の 湊 の 霧 ぞ 晴 れ や ら ぬ 今 日 は 光 に な り や し ぬ ら ん( 夫 木 抄・ 秋 四・ 霧・ 建 長 四 年 毎 日 一 首 中・ 五三八二・為家) 霧 晴 る る 月 は 明 石 の 湊 風 寒 く 吹 く ら し 千 鳥 し ば 鳴 く( 明 日 香 井 集・ 春 日 社 百 首 元 久 二 年 十 二 月 三 日 於 二 宝 前 一 被 講 七 ケ日参籠之間詠 レ 之 ・冬・六〇三) 〔類歌〕   浪の上に松原見えて清見潟三保の州崎に澄める月影(沙弥蓮愉集・雑・六四二) 潮風に夕霧晴れて三保が崎松原遠く澄める月かな(亀山殿七百首・秋・崎月・三一八・親教) 〔他出〕   続拾遺集・羈旅・浜名の橋を過ぐとてよみ侍りける・六八八。和漢兼作集・秋下・浜名駅眺望・八一四。歌 枕名寄・東海三・遠江・白菅湊・続拾九 ・ 五〇四九。 〔語釈〕   ○橋本の宿―遠江国浜名郡新居(現静岡県湖西市)にあった宿駅。浜名湖と海との間に位置し、鎌倉時代に 栄えて遊女も多くいたが、室町末期には衰微したという。○立ち迷ふ―霧が立って辺り一面に漂っている意。詞書 から、旅人(宗尊)が出立しながらさまよう意が掛かる。○湊―遠江国浜名郡(現静岡県湖西市白須賀)の「白須 賀(白菅) 」(歌詞は「しらすげ」とも)の「湊」 。「橋本の宿」のやや西に位置する。浜名湖西岸の笠子川・坊瀬川 流 域 で 遠 州 灘 に 面 す る。 基 家 に「 松 陰 の 入 海 か け て し ら す げ の 湊 吹 き 越 す 秋 の 潮 風 」( 弘 長 百 首・ 雑・ 海 路・ 六二五・基家。続古今集・雑上・一五六四)の作例がある。なお、承久二年(一二二〇)十月に後鳥羽院の使者と し て 関 東( 鎌 倉 幕 府 ) に 下 向 し た 藤 原 雅 経 は、 そ の 途 次( 「 橋 本 宿 に て 」 の 前 ) に「 し ら す が の 浜 」 を「 高 師 の 山

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『中書王御詠』注釈稿(四) 二一 う ち 下 り て、 し ら す が の 浜 に て / 沖 つ 風 音 も 高 師 の 山 越 え て う ち 寄 す る 波 の し ら す が の 浜 」( 明 日 香 井 集・ 一五二二)と詠じている。○霧の明け方に―「霧の明け」から「明け」を重ねて「明け方に」へ鎖る。 〔補説〕   他出の『続拾遺集』 (及び『和漢兼作集』 )が詞書(詠作場所)を「浜名の橋を過ぐとてよみ侍りける」とす るのは、本家集の前の歌の詞書「浜名の橋を過ぐとて」と錯誤したか、 「湊」の歌詞から意図的に改編したか。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、橋本宿に泊まったのが七月十四 日夜で、そこを立った暁はその夜明け前時分であろう(日付としては十五日の可能性もあるか) 。   歌頭に合点あり。 高師山にて 霧 きり いと 深 ふか か ゝ りしかば 224   霧 きり 深 ふか き 高 たか 師 し の 山 やま の 秋 あき よりも 我 われ ぞ 憂 う き 世 よ に 道 みち 迷 まよ ひぬる 〔通釈〕   高師山で霧がすごく深かったので 霧が深い高師の山道に迷っているこの秋よりも、私はこの憂く辛い世の中で道に迷ってしまったことだ。 〕  雲 の ゐ る 梢 は る か に 霧 こ め て 高 師 の 山 に 鹿 ぞ 鳴 く な る( 新 勅 撰 集・ 秋 下・ 三 〇 三・ 実 朝。 金 槐 集 定 家 所 伝 本・秋・鹿をよめる・二三七) 〔語釈〕   ○高師山―三河と遠江国境、現在の愛知県豊橋市と静岡県湖西市の境の山。○高師の山―三河国の歌枕。高 師 山。 → 前 項。 ○ 道 迷 ひ ぬ る ―( 「 憂 き 世 」 で ) 人 生 の 道 に 迷 っ て し ま っ た の 意。 「 霧 深 き 」「 高 師 の 山 」 か ら 高 師 山の山道に迷っている意が掛かる。

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二二 〔補説〕   羈旅の歌枕詠で「霧」は実景であったとしても、その「霧」中の山道に迷うことの比喩で世間の道に迷って いること、即ち失脚して鎌倉を追われて帰洛することを詠嘆する、述懐性が強い一首である。宗尊は、帰洛して二 年後の「文永五年十月三百首歌」 (羈中)で「忘れめや霧深かりし曙の高師の山の秋〔の〕けしきは」 (竹風抄・巻 二 ・ 四 七 二 ) と 詠 ん で い る。 こ の 歌 は 右 の 一 首 に 比 し て、 失 意 の 帰 洛 か ら 時 が 経 過 し た こ と の 反 映 か 述 懐 性 を 抑 え て い て、 実 見 し た で あ ろ う「 高 師 の 山 」 を 追 憶 の 中 に 叙 し た 感 が あ る が、 も と よ り 一 般 的 な 歌 枕 の 叙 景 歌 で は な く、ある種の感懐を込めてはいよう。西上の折だけではなく、あるいは東下の折の記憶も相俟っているのかもしれ ない。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、高師山に達したのは七月十五日 であろう。 鳴海 潟 かた を 過 す ぐるに、舟のあまた 沖 おき に 浮 う かべるを見て 225   波 なみ の 上 うへ に 漂 たゝよ ふ 舟 ゝね の 浮 う きてのみさすらひ 行 ゆ くや 我 わ が身なるらん 〔通釈〕   鳴海潟を過ぎる時に、舟が沢山沖に浮かんでいるのを見て 波の上に漂う舟が浮いている、そのようにふわふわと浮いて落ち着かないばかりで、さすらい行く我が身である のだろうか。 〔参考〕   水の上に雪は山とも積もりなむ浮きてのみふる人のかひなさ(宇津保物語・菊の宴・四三九・あて宮) はかなしや風に漂ふ波の上に鳰の浮巣のさても世を経る(正治初度百首・鳥・二九五・経家)

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『中書王御詠』注釈稿(四) 二三 浪の上の月の行方に漕ぎ別れ漂ふ舟の世の慣らひかな(俊成卿女集・衛門督の殿への百首・雑・七六) 波の上に漂ふ海の月もまた浮かれゆくとぞ我を見るらん(海道記・四〇・作者) 波の上に浮きて漂ふ水鳥の惜しからぬ身に音のみなくらん(新和歌集・雑下・八五五・源宗景) 水まさる沼の あざさ の浮きてのみあるはあるともなき我が身かな(新撰六帖・第六・あさぎ・二〇四六・家良) 絶 え ず 引 く 網 の 浮 け 縄 浮 き て の み 寄 る 辺 苦 し き 身 の 契 り か な( 続 後 撰 集・ 恋 二 ・ 七 五 六・ 藻 璧 門 院 少 将。 光 明峰寺摂政家歌合・寄網恋・二一八。新三十六人撰 正元二年 ・二三六) さすらふる我が身にしあれば象潟や海人の苫屋にあまたたび寝ぬ(新古今集・羈旅・九七二・藤原顕仲。堀 河百首・雑・旅・一四六六) さ す ら ふ る 身 は 定 め た る 方 も な し 浮 き た る 舟 の 浪 に ま か せ て( 新 古 今 集・ 雑 下・ 一 七 〇 五・ 匡 房。 続 詞 花 集・雑下・八八九。江帥集・雑・蔵人にかはりて・三〇四) 〔類歌〕   冬の池にすむ鳰鳥のうきてのみ世に漂ふや我が身なるらん(柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・ 冬・七六二) 心 ざ す 方 を 問 は ば や 浪 の 上 に 浮 き て 漂 ふ 海 士 の 釣 り 舟( 増 鏡・ 第 十 六   久 米 の さ ら 山・ 一 九 五・ 後 醍 醐 〇 院) 〔語釈〕   ○鳴海潟―尾張国の歌枕。同国愛知郡、現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町辺りの、かつて遠浅の海岸であっ た 所。 「 鳴 海 潟 」 と も。 鳴 海 に は 宿 駅 が 置 か れ た。 ○ 波 の 上 に 漂 ふ 舟 の ―「 浮 き て 」 を 起 こ す 序 だ が、 詞 書 か ら 属 目の叙景でもある。○浮きて―舟が水の上に浮いての意に、不安定に落ち着かないの意が掛かる。 〕  参 考 に 挙 げ た 諸 歌 の い ず れ か に 特 定 は で き な い ま で も、 『 宇 津 保 物 語 』 に 淵 源 が あ る よ う な 鎌 倉 前 期 の「 波

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二四 の 上 」 詠 や 鎌 倉 前 中 期 の「 浮 き て の み 」 詠、 あ る い は『 新 古 今 集 』 に 採 録 さ れ た「 さ す ら ふ る( 我 が ) 身 」 詠 を、 一首に取り併せた詠作と言うことができる。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、鳴海潟を過ぎたのは七月十六日 であろう。 小野宿に 泊 と まりて 226   憂 う き身 世 よ に 色 いろ 変 か はりゆく 浅 あさ 茅 ち 生 ふ の 小 を の 野 の ゝ 仮 かり 寝 ね の 袖 そて の 露 つゆ けさ 〔通釈〕   小野の宿に泊まって 憂 鬱 で 辛 い こ の 身 は こ の 世 の 中 で 様 変 わ り し て ゆ く、 そ の よ う に 色 が 変 わ っ て ゆ く 浅 茅 生 が 生 え た 小 野( の 宿 ) に旅の仮寝をする、私の袖の(流す涙と秋の)露に濡れる湿っぽさよ。 〔参考〕   憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ(源氏物語・花の宴・一〇三・朧月夜) 虫 の 音 も い か に 恨 み て 真 葛 は ふ 小 野 の 浅 茅 の 色 か は り ゆ く( 内 裏 百 番 歌 合 建 保 四 年 ・ 秋・ 一 一 六・ 雅 経。 続 古今集・秋下・四八四。明日香井集・内裏百番歌合 同〔建保〕四年閏六月九日 ・秋・一二五二) 日を経つつ朝けを寒み浅茅生の小野の草葉ぞ色かはり行く(為家集・秋・浅茅 同〔建長〕五九 ・五一七) 見 る ま ま に 色 か は り ゆ く 浅 茅 生 の 小 野 の 芝 生 も 霜 枯 れ に け り( 顕 氏 集・ 将 軍 家 御 歌 合 弘 長 元 年 七 月 七 日 ・ 冬・ 七。宗尊親王百五十番歌合 弘長元年 ・冬・一八三・顕氏、四句「しのの芝生も」 ) 〔他出〕   歌枕名寄・東山部・近江下・小野・六三五九、左注「右詞云、小野の宿に泊まりて侍れば、なべての秋だに

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『中書王御詠』注釈稿(四) 二五 も 露 け か り ぬ べ き 旅 寝 の 袖 は ま こ と に し ほ る ば か り な り 云 云。 今 案 云、 浅 茅 生 の 小 野 は 只 野 径 也。 仍 歌 雖 レ 不 レ 載 レ之、今歌は臨其所之故載之了。 」。 〕  ○ 小 野 宿 ― 近 江 国 坂 田 郡( 現 滋 賀 県 彦 根 市 ) の 宿 駅。 鳥 居 本 の 南。 ○ 憂 き 身 世 に ― 原 拠 は 参 考 に 挙 げ た、 『源氏物語』花宴巻の光源氏の誘いかけをかわそうとする朧月夜君歌。 『新古今集』に「憂き身世にながらへばなほ 思 ひ 出 で よ 袂 に 契 る 有 明 の 月 」( 雑 上・ 月 前 述 懐 と い へ る 心 を よ め る・ 一 五 一 三・ 経 通 ) が 収 め ら れ て 以 後、 鎌 倉 期 に 盛 行 す る。 宗 尊 は 帰 洛 後 に も、 「 憂 き 身 世 に 思 は ぬ 外 の 名 取 川 い か に せ ん と か 沈 み 行 く ら ん 」 や「 憂 き 身 世 に 木隠れ果てて逢坂の関の清水のすむとしもなし」 (竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌河・八七。同・巻五・ 〔文 永 九 年 十 一 月 頃 百 番 自 歌 合 〕・ 関・ 九 九 四 ) と 詠 じ て い る。 不 遇 意 識 の 表 し で あ ろ う。 ○ 色 変 は り ゆ く ― 前 句 を 承 け「憂き身世に色変はりゆく」 (憂く辛い自分自身が世間の中で様変わりしてゆく意)から「色変はりゆく浅茅生」 ( 変 色 し て ゆ く 丈 低 い ち が や の 生 え て い る 所 の 意 ) へ 鎖 る。 ○ 小 野 ― こ こ は 近 江 国 の 小 野 の 宿 駅 の 場 所 を 言 う 所 名 だ が、 「 小 野 」 は、 特 定 し 得 な い 野 を 言 う 場 合 が 多 い。 宗 尊 は も し か す る と、 『 源 氏 物 語 』( 手 習 ) の「 比 叡、 坂 本 の 小 野 」( 比 叡 山 麓 の 西 坂 本。 山 城 国 愛 宕 郡 の 大 原・ 八 瀬 一 帯 の 古 名 と い う ) を 連 想 し た か も し れ な い。 後 の「 袖 の 露 け さ 」 の 項 に 挙 げ る「 狩 衣 」 歌 は、 そ の『 源 氏 物 語 』( 手 習 ) の「 秋 の 野 の 露 分 け き た る 狩 衣 葎 茂 れ る 宿 に か こ つ な 」( 七 七 二・ 妹 尼 ) を 本 歌 に 取 っ て い よ う。 こ れ は、 小 野 の 山 里 で、 横 川 の 僧 都 の 妹 尼 に 引 き 取 ら れ た 浮 舟 に、妹尼の亡き娘の婿であった中将が心惹かれ、八月十余日小鷹狩りのついでに三たび来訪するが、応じぬ浮舟に 代わり妹尼が対応し、中将が「松虫の声を尋ねて来つれどもまた荻原の露にまどひぬ」と詠んだのに対する返歌で あ る。 ○ 仮 寝 ― 旅 の 仮 の 宿 り を 言 う。 「 色 変 は り ゆ く 浅 茅 生 の 小 野 の 」 が 有 意 の 序 の よ う に 働 き「 刈 り 根 」 が 掛 か るようにも思われるが、 「浅茅生」も「小野」も、 「刈り根」の縁とするのは伝統的常套ではない。○袖の露けさ―

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二六 袖 が 秋 の 露 と 涙 で 濡 れ て 露 っ ぽ い さ ま を 言 う。 こ の 句 の 先 例 に は、 『 永 久 百 首 』 の「 夏 山 の 裾 野 の 草 や 深 か ら ん 分 け来る人の袖の露けさ」 (夏・夏草・一四四・忠房)があるが、これは実際の草の露に濡れた袖の露っぽさを言う。 涙 に 濡 れ た 袖 の 露 っ ぽ さ を 言 う 例 と し て は、 『 続 古 今 集 』 に 東 三 条 院 詮 子 の「 い と ど し く 物 思 ふ 夜 は の 月 影 に 昔 を 恋 ふ る 袖 の 露 け さ 」( 雑 五 ・ 一 五 九 四 ) が 収 め ら れ て い て、 宗 尊 が 学 ん だ 可 能 性 は 高 い か。 な お、 宗 尊 は、 「 憂 き 身 世 に 」 の 歌 句 の 場 合 と 同 様 に、 帰 洛 直 後 に 詠 じ た「 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌 」( 狩 衣 ) で も「 狩 衣 葎 茂 れ る 宿 に き て かこつばかりの袖の露けさ」 (竹風抄・巻一 ・ 一七一)と用いている。 〔補説〕   二~四句は、参考に挙げた宗尊主催歌合の関東祗候の廷臣中最高位の藤原顕氏の歌に倣っていようか。その 顕氏詠はまた、雅経や為家の一首に負っているようにも思われる。それは、他の例にも窺われるように、雅経歌や 指導を受けた為家歌に意を向けていたと思しい宗尊の視野にも入っていたかもしれない。なお、雅経歌は「時雨降 り色かはりゆく浅茅生にあはれなるかな鈴虫の声」 (永久百首・秋・鈴虫・三二六・忠房)を踏まえるか。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、小野宿宿泊は七月十七日であろ うか。 鏡山を見て 227   かくばかり 憂 う き 目 め をや見む 鏡 かゝみ 山 やま 曇 くも らぬ 影 かけ の 世 よ にも 映 うつ らば 〔通釈〕   鏡山を見て これ程憂く辛い目を見ただろうか。もし見る鏡に曇りない姿が映るように、曇りなく明るい我が君後嵯峨院の威

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『中書王御詠』注釈稿(四) 二七 光がこの世の中に反映しているならば。 〔参考〕   天照らす神の恵みは増鏡曇らぬ影を護るなりけり(久安百首・神祇・一三八一・小大進) 〔語釈〕   ○鏡山―近江国の野洲・蒲生両郡の境山。標高三八五メートル。歌枕。北麓に鏡宿がある。○曇らぬ影―曇 り な く 公 正 明 白 な 君 主( 父 帝 後 嵯 峨 院 ) の 威 光 の 意 か。 「 見 む 」「 鏡 山 」「 映 ら ば 」 の 縁 で 鏡 に 映 し て 見 る 曇 り な い 姿 の 意 が 掛 か る。 ○ 鏡 山 ― 近 江 国 の 歌 枕( → 前 の「 鏡 山 」 項 )。 「 見 む 」「 ( 曇 ら ぬ ) 影 」「 映 ら ば 」 の 縁 で 曇 り な い 姿 を 映 し 見 る 鏡 の 意 が 掛 か る。 ○ 映 ら ば ― 君 主 の 威 光 が 反 映 す る な ら ば の 意。 「 見 む 」「 ( 曇 ら ぬ ) 影 」「 鏡( 山 )」 の縁で見る鏡に曇りない姿が映る意が掛かる。 〔補説〕   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、鏡山に達したのは七月十八 日であろう。 野路にて 228   露 つゆ 分 わ くる 野 の ち 路 の 笹 さゝはら 原 憂 う きふしのあはれ 繁 しけ きは 我 わ が 世 よ なりけり 〔通釈〕   野路で 露を分ける野道の笹原の笹も節も繁く、そのように、野路の笹原で辛い旅の臥し寝をする、悲哀が繁く絶え間な いのは、私の人生なのであったな。 〔参考〕   我が宿は野路の笹原かき分けてうち寝る下に絶えぬ白露(秋篠月清集・十題百首・居処・二二八。後京極殿 御自歌合・一七八)

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二八 霰降る野路の笹原臥しわびてさらに都を夢にだに見ず(式子内親王集・ 〔正治初度百首〕 ・冬・二六三。同・ 正 治 百 首 歌 に・ 三 四 八。 続 古 今 集・ 羈 旅・ 正 治 百 首 歌 の 中 に・ 九 〇 七・ 式 子。 正 治 初 度 百 首・ 冬・ 二六五、二句「野路の篠原」 ) 世 の 中 は う き ふ し 繁 し 篠 原 や 旅 に し あ れ ば い も 夢 に 見 ゆ( 新 古 今 集・ 羈 旅・ 九 七 六・ 俊 成。 長 秋 詠 藻・ 〔 堀 河百首題百首〕 ・恋・旅恋・一七八) 〔類歌〕   分けて行く野路の篠原憂きふしのあはれ繁きは我が身なりけり(拾遺風体集・羈旅・都に住み佗びて東へ下 るとて、篠原にて・二五四・良教卿女) 〕  歌 枕 名 寄・ 東 山・ 近 江 下・ 野 路 或 云 野 径 惣 名 也。 不 レ 江 一 一 云 云。 但 為 家 卿 当 名 所 被 レ 、 仍 載 レ 之。惣別共用 レ之歟・六三五二、二句「野路 の し の イ ささ 原」 。 〕  ○ 野 路 ― 近 江 国 栗 太 郡( 現 滋 賀 県 草 津 市 野 路 ) の 所 名。 「 野 路 の 玉 川 」 の 地。 ○ ふ し ―「 臥 し 」 に「 笹( は ら )」 「 よ( 節 )」 の 縁 で「 節 」 が 掛 か る。 ○ 野 路 の 笹 原 ―「 野 路 」 は、 ① 一 般 的 な 野 の 中 の 道 を 言 う 場 合 と、 ② 近 江 国 の 歌 枕( → 前 の「 野 路 」 の 項 ) を 言 う 場 合 と が あ る。 こ こ は 両 者 の 掛 詞。 「 笹 原 」 は 笹 が 群 生 す る 原。 類 辞 の 「 野 路 の 篠 原 」 は、 中 世 に な っ て 現 れ る「 野 路 の 笹 原 」 に 先 行 し、 用 例 も や や 多 い。 「 篠 」 は 小 さ く 細 い 竹 の 総 称 で、 「 篠 原 」 は、 a 一 般 的 な 小 笹 竹( 篠 竹 ) の 原 を 言 う 場 合 と、 b「 野 路 」 の 東 に 位 置 す る 近 江 国 野 洲 郡( 現 滋 賀 県 野 洲 市 野 洲 ) の 宿 駅 名 で 平 宗 盛 父 子 が 斬 ら れ た 所 を 言 う 場 合 が あ る。 従 っ て 例 え ば、 「 野 路 の 篠 原 」 の 比 較 的 早 い 例 で あ る 基 俊 の「 高 円 の 野 路 の 篠 原 末 騒 ぎ 空 や 木 枯 ら し 今 日 吹 き ぬ な り 」( 関 白 内 大 臣 歌 合 保 安 二 年 ・ 野 風・ 一六。新古今集・秋上・三七三)は、大和国の高円山の麓の野中の小笹原である(①a)ことが分明だし、慈円の 「 近 江 路 や 野 路 の 篠 原 夕 行 け ば 志 賀 よ り 返 る さ ざ 浪 の 風 」( 拾 玉 集・ 野・ 四 三 九 四 ) は、 近 江 国 の 歌 枕( 所 名 ) の

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『中書王御詠』注釈稿(四) 二九 「 野 路 」( に 一 般 的 な 野 中 の 道 の 意 が 掛 か る か ) の 東 の 宿 駅「 篠 原 」( ② b ) で あ る こ と が 分 明 で あ る け れ ど、 こ の よ う に「 高 円 の 」 や「 近 江 路 や 」 と い う 限 定 が な く、 そ も そ も 弁 別 不 能 な 場 合 が 少 な く な い。 「 野 路 の 笹 原 」 に つ いては、 「笹原」は特定の土地や所名とは結び付いていないので一般的な意味だけだが、 「篠原」と「笹原」は実態 と し て 不 分 明 で あ り、 か つ「 さ さ は ら 」 に「 篠 原 」 を 宛 て る こ と も あ る の で、 「 野 路 の 笹 原 」 と「 野 路 の 篠 原 」 の 区 別 も 実 は さ ほ ど 容 易 で は な い。 「 野 路 の 笹 原 」 の 早 い 例 で あ る 参 考 に 挙 げ た 良 経 と 式 子 の 両 首 は、 旅 の 宿 り と し ての近江国の「野路」の笹が生える原(②a)を言っていようか。式子の一首は右に記したように、 「野路の笹原」 と「野路の篠原」の識別が容易ではない。鎌倉幕府執権北条泰時の「近づけば野路の笹原あらはれてまだ末霞む二 村 の 山 」( 続 古 今 集・ 羈 旅・ 旅 の み ち に て よ め る・ 八 六 五。 雲 葉 集・ 羈 旅・ 九 七 二 ) は、 尾 張 国 山 田 郡( 現 愛 知 県 豊 明 市 沓 掛 町 ) の「 二 村 の 山 」 を「 末 」 に 見 る の で、 東 下 す る 途 次 の「 野 路 の 笹 原 」( ② a ) で あ ろ う。 こ こ は、 逆に西上する途次の「野路の笹原」である。○繁き―「笹(原) 」が密生してその竹の「ふし(節) 」数が多いこと と、 「 あ は れ 」 が 絶 え 間 な く 頻 り で あ る こ と が 重 な る。 ○ 我 が 世 ―「 世 」 に「 笹( 原 )」 「 ふ し( 節 )」 の 縁 で「 節 よ 」 が掛かる。 〔補説〕   帰洛後二、 三ヶ月経った「文永三年十月五百首歌」 (野)の「憂ききふしもまた思ひ出になりにけり野路の笹 生の秋の仮庵」 (竹風抄・巻一 ・ 七九)は、直接この歌を思い起こして詠じたものであろう。   類歌に挙げた良教女詠は、該歌に酷似する。元仁二元年(一二二四)生(宗尊より十八歳年長)の藤原良教の女 は、宗尊よりは年少であろうか。偶合か、宗尊詠に倣った結果かは即断し得ない。   当時の京都・鎌倉往還の旅程に照らせば、鎌倉を七月八日に出立しているので、野路に達したのは七月十九日で あろう。

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三〇 会坂の関を 越 こ ゆとて 229   逢 あふさか 坂 の 嵐 あらし の 風 かせ に 関 せき 越 こ えてさすらふる身の 行 ゆ く ゑ 方 知 し らずも 〔通釈〕   逢坂の関を越えるということで 逢坂の山を吹く激しい風の中で関を越えて、流浪するこの身の行方は何とも分からないな。 〔本歌〕   逢坂の嵐の風は寒けれど行方知らねばわびつつぞ寝る(古今集・雑下・九八八・読人不知) 〔参考〕   逢坂の関路の嵐秋更けて月にぞ雲は行方知られぬ(為家一夜百首・秋・関月・四五) さすらふる心に身をも任せずは清見が関の月も見ましや(建保名所百首・秋・清見関・五〇六・行意。雲葉 集・秋中・五五九。新三十六人撰 正元二年 ・一八〇) ながむれば虚しき空を浮雲のさすらへ果てむ行方知らずも(明日香井集・春日社百首 元 久 二 年 十 二 月 三 日 於 二 宝 前 一 被 講 七 ケ 日 参 籠 之 間 詠 レ 之 ・雑・是身如雲・六一六) 〕  逢 坂 や 嵐 の 風 に 時 雨 し て 行 方 知 ら ず も 暮 る る 秋 か な( 竹 風 抄・ 巻 五・ 〔 文 永 八 年 七 月 内 裏 千 五 百 番 歌 合 百 首 歌・秋・八八三) 〕  ○ 会 坂 の 関 ―「 逢 坂 の 関 」「 相 坂 の 関 」 等 と も 書 く。 山 城・ 近 江 国 境 の 逢 坂 山( 現 滋 賀 県 大 津 市 ) に 置 か れ た 関。 京 都 へ の 出 入 口 で 東 国 と 結 ぶ 関。 ○ 逢 坂 ― 近 江 国 の 歌 枕。 → 前 項。 ○ 行 方 知 ら ず も ― 原 拠 は「 も の の ふ の 八 十 宇 治 川 の 網 代 木 に い ざ よ ふ 浪 の 行 方 知 ら ず も 」( 新 古 今 集・ 雑 中・ 一 六 五 〇・ 人 麿。 万 葉 集・ 巻 三・ 雑 歌・ 二六四) 。宗尊もこれを意識しなかったことはないであろう。

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『中書王御詠』注釈稿(四) 三一 〕  こ れ か ら 逢 坂 の 関 を 越 え て 京 都 に 戻 る の で あ る か ら、 実 際 の 旅 と し て は、 「 さ す ら ふ る 身 の 行 方 し ら ず も 」 は そ ぐ わ な い。 こ の 下 句 は、 本 来 生 誕 の 地 で あ る け れ ど、 十 一 歳 か ら 二 十 五 歳 ま で の 十 五 年 間 を 関 東 に 過 ご し て 久々の京洛に待ち受ける、あるいは予測し得ない事態にさらされるかもしれない自己の境遇を比喩で言ったもので あろう。   七月二十日の子刻に入京しているので、逢坂の関を越えたのは、その直前であろう。 (会坂の関を越ゆとて) 230   偽 いつは りの 世 よ に 逢 あふさか 坂 の 岩 いは 清 し 水 みつ 清 きよ き心ぞ 木 こ 隠 かく れにける 〔通釈〕 (逢坂の関を越えるということで) ( 私 は 今 ) 嘘 偽 り の 世 の 中 に 遇 っ て い て、 こ の 逢 坂 の 関 の 岩 清 水 の 清 ら か な 流 れ が 木 隠 れ て い る、 そ の よ う に 清 らかな人の心は隠れて見えなくなってしまったことだ。 〔本歌〕   君が世に逢坂山の石清水木隠れたりと思ひけるかな(古今集・雑体・一〇〇四・忠岑) 〔参考〕   逢坂の関に流るる岩清水言はで心に思ひこそすれ(古今集・恋一 ・ 五三七・読人不知) 〔類歌〕   木隠れぬ世に逢坂の石清水仰ぐ影なる名をも頼まむ(後十輪院内府集・雑・元和・相坂関・一五三三) 〕  ○ 偽 り の 世 に 逢 坂 の ―「 偽 り の 世 に 遇 ふ 」 か ら「 あ ふ 」 を 掛 詞 に「 逢 坂 の 」( → 前 歌 ) へ 鎖 る。 ○ 石 清 水 ― ( 逢 坂 の 関 の ) 岩 間 か ら 流 れ 出 る 清 ら か な 水。 「 清 き 」 を 起 こ す 有 意 の 序 の よ う に 働 く。 ○ 木 隠 れ ―「 逢 坂 の 岩 清 水」が木の陰に隠れて見えないことの比喩で、 「清き心」が隠れて見えないことを言う。

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三二 旅歌とて 231   忘 わす れめや 鳥 とり の 初 はつ 音 ね に 立 た ち 別 わか れなく な 〳〵 く 出 い でし 故 ふるさと 郷 の 空 そら 〔通釈〕   旅の歌ということで 忘れようか、決して忘れはしない。鶏が鳴く朝の初音とともに立ち別れ、泣く泣く出たあの故郷の空を。 〔参考〕   言問へよ思ひおきつの浜千鳥なくなく出でし跡の月影(新古今集・羈旅・九三四・定家) 〔出典〕   文永三年十月五百首歌・鶏。 〔他出〕   竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・鶏・二三〇。 〕  ○ 忘 れ め や ― 宗 尊 好 み の 句。 『 柳 葉 集 』 に 二 首( 七 九 一、 八 一 二 )、 『 中 書 王 御 詠 』 に 二 首( 231= 竹 風 抄・ 二三〇、 234=竹風抄・五九) 、『竹風抄』に七首(四五、五九=中書王御詠・ 234、六三、二三一=中書王御詠・ 230、 四 七 二、 七 〇 一、 八 六 一 ) 見 え る。 ○ 故 郷 ― 鎌 倉 を 言 う か。 し か し、 京 都 に も 解 さ れ る。 → 補 説、 「『 竹 風 和 歌 抄 』 注釈稿(一) 」(本紀要四八、平二三・一)の 22補説。 〔補説〕   参考の定家詠は、 「君を思ひ興津の浜に鳴く鶴のたづね来ればぞありとだに聞く」 (古今集・雑上・九一四・ 忠 房 ) を 本 歌 に、 『 伊 勢 物 語 』 の「 名 に し 負 は ば い ざ 言 問 は む 都 鳥 我 が 思 ふ 人 は あ り や な し や と 」( 九 段・ 男 ) と 「 月 や あ ら ぬ 春 や 昔 の 春 な ら ぬ 我 が 身 一 つ は も と の 身 に し て / と よ み て、 夜 の ほ の ぼ の と 明 く る に、 泣 く 泣 く 帰 り に け り 」( 四 段 ) を も 踏 ま え た 作 と 考 え る。 従 っ て、 こ の「 お き つ 」( 「 置 き つ 」 と の 掛 詞 ) は、 本 歌 の 詞 書「 貫 之 が和泉の国に侍りける時に」を踏まえた和泉国の歌枕ではなく、昔男(業平)の東下りを念頭に置いた駿河国のそ れ と 見 る。 宗 尊 が 定 家 詠 を そ の よ う に 解 し て い た と す れ ば、 「 故 郷 の 空 」 は、 京 都 の 空 を 言 っ た も の と い う こ と に

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『中書王御詠』注釈稿(四) 三三 な ろ う か。 拙 稿「 『 新 古 今 集 』 羈 旅 歌 二 首 試 解 ―「 言 問 へ よ 」 と「 宿 問 は ば 」 ― 」( 『 国 文 鶴 見 』 四 三、 平 二 一・ 三 ) 参 照。 文 永 三 年( 一 二 六 六 ) 七 月 八 日 に、 京 都 へ 向 け て 鎌 倉 を 出 発 し た 朝 を 思 い 起 こ し た 感 懐 か と 思 し い。 し か し ま た、 建長四年(一二五二)三月十九日に、鎌倉へと京都を立った朝のことを遠く思い出した感懐と解されなくもない。 (旅歌とて) 232   旅 たび 衣 ころも 袖 そて も 涙 なみた にそぼちつ つ ゝ いくしの の ゝ めの 露 つゆ 払 はら ふらん 〔通釈〕 (旅の歌ということで) 旅衣の袖も涙に濡れそぼちながら進んで行き、一体幾つの明け方の露を払うのだろうか。 〔参考〕   心から花の雫にそほちつつうくひずとのみ鳥の鳴くらむ(古今集・物名・うぐひす・四二二・敏行) 〔出典〕   文永三年十月五百首歌・曙。 〔他出〕   竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・曙・四一、結句「露払ひけん」 。 〕  ○ そ ぼ ち つ つ い く し の し の め の ―「 そ ぼ ち つ つ 行 く 」 か ら、 「 い く 」 を 掛 詞 に、 「 幾 し の の め の 」 へ 鎖 る。 「しののめ」は、夜明け方の空が白む頃。 〕  文 永 三 年( 一 二 六 六 ) 七 月 八 日 に 出 立 し 二 十 日 に 入 京 し た 帰 洛 の 旅 の 途 次 の 感 懐 か と 思 し い。 結 句 が、 『 竹 風 抄 』 所 収 の「 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌 」 で は「 露 払 ひ け ん 」、 文 永 四 年( 一 二 六 一 ) 十 一 月 前 後 に 成 立 と 推 定 さ れ る( → 135) こ の『 中 書 王 御 詠 』 で は「 露 払 ふ ら ん 」 で あ る。 「 露 払 ひ け ん 」 は、 帰 洛 三 ヶ 月 後 の 文 永 三 年 十 月 に こ の旅を思い起こした体なのであろう。 「露払ふらん」は、 『中書王御詠』が旅中の詠草からそのまま採録したか(従

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三四 ってその詠草を「文永三年十月五百首歌」に形を変えて流用したか) 、「文永三年十月五百首歌」の一首を、 212~ 230 の帰洛途次の各所に於ける詠作に続けて配する過程で、その当時・当地の心情に即する形に改めたか、単純な誤写 によるか等の何れかであろう。前歌と同様にしかし、建長四年(一二五二)三月十九日に京都を出発し四月一日に 鎌倉に下着した旅のことを遠く思い出した感懐と解されなくもない。 (旅歌とて) 233   篠 しのはら 原 や 袖 そて 折 お り 返 かへ しさ 寝 ね し夜の 有 ありあけかた 明方 の月は 忘 わす れず 〔通釈〕 (旅の歌ということで) 篠原よ、袖を折り返して寝た夜の、有明頃の月は忘れることはない。 〔参考〕   世の中は憂きふし繁し篠原や旅にしにあれば妹夢に見ゆ(新古今集・羈旅・九七六・俊成。長秋詠藻・堀河 院御時百首題を述懐によせて読みける歌、保延六、 七年の頃の事にや・恋・旅恋一七八) 白妙の袖折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる(万葉集・巻十二・正述心緒・二九三七・作者未詳) 印南野の浅茅押しなみさ寝し夜のけ長くしあれば家し偲ぶる(五代集歌枕・野・いなみの・七二一・赤人。 万 葉 集・ 巻 六・ 雑 歌・ 九 四 〇・ 赤 人、 三・ 四 句「 さ 寝 る 夜 の け 長 く あ れ ば 」〔 三 句 を「 さ 寝 し 夜 の 」 と す るのは類聚古集・神田本・細井本、広瀬本は「サネシヨノ」の「ネシ」を見消ちして左傍に「ヌル」右傍 に「或メル」 〕。古今六帖・第二・ざふのの・一一六一、初句「いなびのの」結句「妹をこそ思へ」 ) 年も経ぬ長月の夜の月影の有明方の空を恋ひつつ(後拾遺集・恋一・六一四・源則成)

参照

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