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フーコーにおける権力論の転換 : 1976 年 講義の位置づけ

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フーコーにおける権力論の転換 : 1976 年 講義の

位置づけ

著者

北田 了介

雑誌名

関西学院経済学研究

44

ページ

81-108

発行年

2013

URL

http://hdl.handle.net/10236/12276

(2)

フーコーにおける権力論の転換

―1976 年講義の位置づけ―

Michel Foucault on the Theory of Power:

An Analysis of His Lectures in 1975-76

北 田 了 介

  The purpose of this paper is to understand Foucault s theory of power by examining the analysis of the war-model that which he adopted in his lectures at Collège de France in 1975-1976 under the title of Il faut défendre la societé( Society must be Defended ).

  Foucault thought this war-model would make the relationship of forces clear. But this model, contrary to Foucault s intention, was understood to lead to binominal scheme and drew the actual criticism from a scholar on colonial studies: Foucault didn t concern the colonial others .

  From this examination of comparing the analysis of the war-model with that of governmentality and power/resistance relationship in The Will to Knowledge, I want to explore the merits as well as limitations of the war model.

Ryosuke Kitada

JEL:B31

キーワード: 権力、戦争モデル、人種主義 Keywords: power, war model, racism

1. はじめに  ミシェル・フーコーの思想を検討する上で、1976 年はひとつの大きな転換 点とされてきた一方で『性の歴史』の第 1 巻にあたる『知への意志』の刊行 以降、最晩年である 1984 年まで著作が刊行されない「沈黙」の始まりであ るともされる。もちろんこの間のフーコーの仕事がコレージュ・ド・フラン スでの講義を中心に展開され、そこで新たな統治概念の分析が展開されてい

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たことは現在では幅広く論じられており、この期間を「沈黙」や「危機」と 考えるのはいささか浅薄な評価である1)。他方で彼の研究対象ということに目 を転ずれば、1970 年代の主題であった権力論の分析対象が「規律」(discipline) から「生権力」(bio-pouvoir)へと大きく展開していく契機を迎えることが 指摘できる2)。しかしながらこの時期の変化を単に規律権力から生権力へとい う構図でとらえるだけではたして十分だといえるだろうか。何よりも 1997 年以来、コレージュ・ド・フランスで行われた講義録の刊行が続くなか、著 作とは違う形でフーコーの思想形成が確認できるようになったことで、新た なフーコー理解がすすめられている。とりわけここでは 1975̶1976 年度講 義をとりあげることで、1975 年の『監獄の誕生』以来研究されてきた、フー コーの「権力」をめぐるさまざまな議論が大きく転換していくプロセスを確 認していきたい。 2. 1976 年のフーコーをめぐる問い  規律権力分析を中心としたフーコー権力論の特徴は、従来、抑圧的で消極 的なものと考えられてきた「権力」(pouvoir)という概念を、処罰と監視の 系譜学を描き出すことによって、生産的で積極的な概念へと転換させたこと である。  フーコーは 1975 年に刊行された『監獄の誕生』のなかで、近代社会の権 力を、上から人びとを押さえつける大きな力として作用するものではなく、 人びとがもつ潜在的な力を、規律という機能をとおして最大限に発揮させる ような力として理解する。そのため一般に規律という言葉から連想されるよ うに、上官のかけ声ひとつで規則正しく行動する兵士たちの軍隊組織だけで 1)  たとえば著作が刊行されなかった理由として、ドゥフェールは次のような指摘をおこなう。 彼によると、フーコーは映画製作のための融資問題に絡んでガリマール社と 5 年間の独占 契約を結ぶこととなり、そのため『知への意志』刊行以降 5 年間は著作を出版しない決心 をしたという[Defert 1994, p.50 /54 頁]。 2)  1975-1976 年度のコレージュ・ド・フランス講義(以下、1976 年講義)『《社会は防衛しな ければならない》』の最終講義、および『知への意志』最終章で「生権力」という概念が登 場する。

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なく、この権力現象は社会のあらゆる場面にありふれた光景となる。とりわ け規律権力が象徴的に具現化される場として病院・監獄・学校などがフーコー によってとり上げられるのだが、そうした場ではさまざまな近代的な技術が 適用されていく。例えば監視しやすいような物理的空間構成、行動様式を馴 染ませるための厳格な時間配分、そして号令によって即座に反応できる身体 の形成様式などである。  こうした規律空間に求められるのは規範化された身体であり、秩序だって 行動できる身体である。またこうした個別の身体に対して払われるのは、す べてを押さえつける抑圧的な力ではなく、個人がもつ潜在的な能力を発揮さ せるための促す力であった。この場で個人に求められるのは突出した才能で はない。むしろ規格化された身体や、システムに適用可能な能力こそ全体的 な生産性を上昇させるという点から求められる。  ところが『監獄の誕生』で描かれたこのような規律権力分析は、1976 年以 降のフーコーの思想のなかで大きな転換を迎える。すでに 1975 年の『監獄 の誕生』では『知への意志』の冒頭で論じられる権力による性言説の抑制と いう「抑圧仮説」や 1976 年講義で中心的にとり上げられる戦争や戦略への 関心が予告されていたが、そのすべてが検討され続けたわけではない。ある 意味でこの時期に現れたさまざまな思考の痕跡は、逆説的に彼の権力分析が 「袋小路に突き当たり、先に進めなくなった」[Pasquino 1993, p.79]ことを 表しているともいえる。  いずれにせよこの年フーコーは、コレージュ・ド・フランスで自己の権利 の正当性を主張し、主権を奪い合う二つの陣営のあいだに生じる戦争(闘争) の歴史を講義(『《社会は防衛しなければならない》』)することになるのだが、 主権を分析の対象に据えることは、これまで主権から権力概念を理解しよう としなかったフーコーにとって、非常に特異な試みだといえる。ただしこの 戦争(闘争)モデルが、彼の権力論分析において特異な要素を有するとして も、最終的にこの時期のフーコーにとってもっとも重要な権力概念である「生 権力」を導きだすという点においては、これまでのフーコー権力論の展開に ついての理解と矛盾するものではない。

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 フーコーによると生権力とは、個別の身体に狙いを定める規律権力と異な り、人びとの生命(人の生物学的な要素)に働きかけながら全体的な人びと の集まり(人口)の動態に影響を与える権力であるし、またこの生権力を通 したふるまいとしての「生政治」(bio-politique)が大きな関心事となってい く。もちろん「生権力」という権力概念は、同じ年に刊行された『知への意志』 で論じられたものであり、その結論部分において、戦争モデルをとおした権 力分析と、セクシュアリティをめぐる権力分析の連関があきらかにされる。 またこうした権力分析をめぐる展開は、まもなく 1978 年の講義『安全、領土、 人口』で、国家レベルでの「操行」(conduit)をあらわす「統治性」という 研究対象を得ることになった。  ただしここでは 1970 年代後半に行われた統治性分析の手前で立ち止まり、 生権力を導出するプロセスとしての戦争モデルに目を向けてみたい。1976 年 講義で用いられたこのモデルをめぐっては、その異質性のためか、フーコー 思想全体のなかで、はっきりとした位置づけが与えられているとは言えない。  おそらく最も早い時期にこの 1976 年講義に言及したのはパスキーノであ るが、彼は「戦争モデル」の分析をあつかったこの講義を、フーコーの権力 論の展開という位相で位置づけようとはしなかった。パスキーノはフーコー の規律権力論が包括的なレベルでの経済的搾取という問題に対応できないこ とを「不十分」だと考えており、晩年に行われた古典古代の研究の後、フーコー によって近代国家の研究がさらに展開されることに期待を寄せていた3)。ただ しフーコーが検討対象とする「国家的なもの」とは、集権化され統一性をもっ た概念としての国家ではない。彼が国家について分析するというとき、政治 的な道具・手続き・合理性を研究の対象とする。なぜなら国家装置は、微細 で日常的なさまざまな権力メカニズムによって組み上げられていくものだと 考えられているからだ。これは 1978 年から始まる「統治性」の分析でも確 認できる。 3)  パスキーノは、フーコーが「懲罰の歴史」の分析ののち、自らの権力についての分析にあ る種の限界を感じ、1975 年には近代国家の誕生へと結びつけられる政治理論について考察 し始めたと、証言している[Pasquino 1993, p.79]。

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 そうであるなら戦争モデルを通じた権力分析とは、微細な権力メカニズム の過程をたどりながら、包括的な国家装置の変容を確かめる作業でもあるし、 この戦争モデルの分析がそれまでの議論や、あるいはその後の「統治性」分 析および 1980 年代に本格的に論じられる「主体化」をめぐる問いとどのよ うな関係にあるかということは、重要な論点になってくる。前後の議論との 関連から分類すると、戦争モデルをとおした権力分析の位置づけは、それ以 降の分析と切り離されたものと考えるか、あるいは「生権力」という重要な カギ概念をもたらしながら、その後の議論に接続されたものと考えるかとい うことになる4)  例えばドゥフェールは、この戦争モデルをとおした権力分析をコレージュ 講義の開始年である 1970 年以来続けられた系譜学的方法の「最終段階」と して位置づける。ドゥフェールによると、コレージュ講義の初年度以来、フー コーの系譜学的な方法が目指したものは伝統的な「認識」のあり方について の問いを、「知への意志」として描き出そうとしたことにあるという。すな わち認識は主体の権能(faculté)ではなく、「発明/考案(invention)」や「出 来事(événement)」としてとらえねばならないし、それを可能にする「知へ の意志」の形態論こそ分析されねばならないと考えた。そのため出来事とし ての認識の背後にある「知への意志」、具体的には二つの陣営の「衝突や占 有の意志」の系譜を描き出す戦争モデルの分析は、まさに一連の系譜学的研 究の上に位置づけられるべきものだという[Defert 2001, p.60]。ドゥフェー ルのように哲学的な思索に内在的な議論として戦争モデルを位置づけずと も、分析格子として戦争モデルを用いることが規律権力分析からマクロな権 力関係分析への展開としてふさわしいかどうかに疑問を感じ「統治性という より複雑な権力関係の分析モデルに向かうために放棄された」[Revel 2008, p.70]とも考えられる。というのも「衝突や占有の意志」(知への意志)を 4)  この講義を権力論としてではなく、単純に歴史的な概念の変遷をあきらかにした記述とし てとらえる見方もある。例えばグロによると、フーコーはこの講義で、歴史家のさまざま なテクストを読み解きながら、市民的な秩序は戦争関係によって成り立っているというこ とをあきらかにしたのであり、権力論を展開したのではないという[Gros 1996, p.79 /97 頁]。

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描き出すという点では、より具体的な場面を分析対象として求めることは大 きな意味をもつが、後に検討するように、そのやり方は闘争する者同士の主 体性、すなわちぶつかり合うのが何者であるかを明かさねばならないという 困難な問いを招き寄せる。まさに従来とは別のやり方で物事を考えようとす るフーコーの思索のなかに、伝統的な「認識する主体」が紛れ込むことになっ た。  他方で 1976 年講義における戦争モデルをとおした権力関係分析を積極的 に評価し、後の統治̶主体化という問題系における意義をとらえる立場もあ る。アルチエールたちは『監獄の誕生』でなされた規律権力分析のその後の 展開として、生権力を通じた統治性の分析、さらには個人の操行(行為/導 き)(conduit)という概念の導出によって、「国家」という枠組みで「権力」 について考察できるようになったと同時に、個人の水準においても単に規律 の単純な効果としてではなく、自己の主体化という倫理的な主題に規律権力 分析を結びつけることにも貢献したという。とりわけ主体化の議論について は、衝突や敵対関係分析こそ他者に対する自己の、自己に対する自己の配慮 という晩年の問いと大きくかかわると述べる[Artières et al. 2010, p.31]。  本稿ではフーコーが規律権力の枠組みに代わるものとして戦争(闘争)モ デルを提案したにもかかわらず、その後放棄し、統治性分析という新たな権 力理解のための方法を提案したと考える。それはドゥフェールが主張したよ うに、それまでの分析の企図と合致する部分が多いからであるし、またその モデルで描かれる闘争する諸陣営の「真なる言説」の占有というふるまいに 含意される問題点のためである。ここにフーコーが権力分析を進める上で戦 争モデルを放棄せざるをえなかった「限界」がみられる。同時にこの戦争モ デルをとおした権力分析は、アルチエールたちが指摘するように、1980 年 代から本格的に展開されることになる主体化の問いが生み出される契機でも あった。「知への意志」が発揮される場面としての「衝突」の契機をとらえ るフーコーの企図は、これまでのフーコーの思想にとって重要な部分である とともに、主体化の分析においても自己を導き行為を促す瞬間として必要な 要素であり、その点も強調していきたい。

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3. 戦争モデルによる権力分析  規律権力分析とは異なる新たな分析モデルによって、権力関係をあきらか にしようというフーコーの試みは、1976 年に行われたコレージュ・ド・フ ランスでの最初の二回の講義で表明される。まず 1 月 7 日の講義でフーコー は、「全体的な理論」すなわち「科学的言説」と「従属化された知」を切り 分け、そのうえで科学的言説がもつ中心化する権力作用にいかなる反乱が企 てられているのかを検討するという。フーコーはこの企てを「系譜学」と呼び、 さらに今後の講義の目的を「科学的言説の制度、および科学的言説の知と 権力の諸作用に対する、こうした諸々の知の反対、闘争、反乱には、何が賭 けられているのかをはっきりさせ解き明かそうとすること」[Foucault 1997, p.13/ 16 頁]だと宣言する5)。そしてこの関係を端的に表すのが闘争関係にお ける力の作用という場ではないかという。  フーコーが権力関係分析をこうした力の作用のなかに求めたのは、伝統的 に政治思想研究のなかで用いられてきた主権を前提とした議論に限界を感じ たからであった。フーコーによると主権論は絶対権力を基礎づけるのには非 常に有効であるが、17-18 世紀に新しい社会の関係性が生じるところでは、 別の権力メカニズムが機能しているのではないかといい、そこから新たな権 力システムを理解するための分析手法が提案される。 「〔学校装置や教育制度装置などを〕効果的に分析するためには、それらを 全体的な統一体としてとらえたり、また主権の国家的統一性のようなもの から直接導き出すべきではない。それらの装置がどのように作用するのか、 どのように支えあっているのか、どのようにこうした装置が無数の従属 5)  ここでフーコーは従来の彼の分析手法であった考古学と、ここで採用される系譜学の違 いを次のように説明する。「二言で言えば次のようになる。考古学とは、ローカルな言 説態(discursivités)の分析に固有の方法であり、系譜学とは、そのように記述された ローカルな言説態をもとに、そこから解き放たれる脱 - 従属化した諸々の知(les saviors désassujettis)を働かせる戦術(tactique)である、と」[Foucault 1997, p.11-12 /14 頁]。 すなわち系譜学は、単に言説態の変遷を調べるだけでなく、それとともに現れる諸力の作 用も分析の射程に含むものであり、これによってフーコー思想の中心的な課題である「権 力分析」が可能になる。

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化・・・から始まって幾つかの包括的戦略(stratégies globales)を規定し ているものなのかを理解すべきである」[Foucault 1997, p.39 / 47 頁、〔 〕 内引用者]。  すなわち局所的な戦術(tactiques)を横断しつつ、包括的な戦略(stratégies) を分析すること、これが重要である。そこでこの局所的な戦術が繰り広げら れる支配関係を分析するために採用されたのが戦争関係モデルを通した分析 であった。  とはいえこのモデルに沿って分析をおこなうとしても、フーコーが戦争関 係こそ主権論を脱した「理想的な」権力関係のありかを示すものだと考えた わけではない。戦争による抑圧という形式は、彼によって「大幅な変更を 加えられる必要がある」 [Foucault 1997, p.18 / 21 頁] ものと述べられるよう に、きわめて試論的な要素があった。ただ少なくともこの時点でのフーコー は、主権論をもとに権力をとらえるやり方(契約 - 圧制)ではなく、政治を 含むあらゆる関係を闘争関係とし、そこから権力をとらえようというやり方 (戦争 - 抑圧)こそ、新たな権力概念を導き出すために必要な検証であると 考えていたようである。  では具体的な分析はどのように行われたのか。まず戦争モデルの分析にお いて強調されるのは、17 世紀に登場する「歴史的−政治的言説」と呼ばれる 言説様式である。フーコーによるとこの歴史的 - 政治的言説は、まずイング ランドで 1630 年代に市民層からなされる要求の言説としてあらわれ、つい で 50 年後のフランスで貴族の側から王に対抗する言説として出てきた。フー コーによるとこの言説は社会のあらゆる場面で戦争関係が作動しているとい う観念のもと描き出される。そのためこの言説を語る主体は法学者や哲学者 のように中立的ではなく、必然的に一方の側に立つことになる。すなわち主 体によって語られる「真理」とは、「戦いにおける自らの位置を起点に、自 分が追い求めている勝利から起算して、語る主体の生存のぎりぎりの限界で のみ披露されるような真理」であり、「均衡を破り不均衡を強め最終的には 二つの陣営のうちの一方の勝利に加担する」[Foucault 1997, p.45-46 / 55 頁]

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効果をもつ。フーコーはまさにこの瞬間に、「強者」が発する「正史」に対 立する「対抗史」の出現をとらえようという。  この「対抗史」がもつ機能は、単に権力への批判にとどまらず、それ自体 も権力を要求する。この権力批判と権力要求は必然的に人びとを二項的な対 立関係に絡め取ることになった。例えば「サクソン人」に自らの源泉をみる 議会派の人びとは、「ノルマンの末裔」であるジェイムズ一世への対抗言説 をつむぎだすことで自己の権力の正統性を主張しようとするし、その正統性 を紡ぐ言説によって主体を立ち上げる。つまり主権形態や権力関係は「一方 の他方への支配関係の無限定の─そして無限定的に歴史的な─運動とし て…分析されねばならない」と考えられ始めたのだ。  またその後、この歴史的 - 政治的言説はフランスにおいて、ブーランヴィ リエの議論のなかで取り上げられるという。ブーランヴィリエの営為は、貴 族による王と行政組織に対する対抗知という形で提示され、そこで強調され る知の形式が「歴史」であった。歴史を取り上げるためには、貴族を押さえ つける法的な知の背後に存在していた「忘れ去られた諸説と貴族が王のため に流した血をよみがえらせることが重要である」[Foucault 1997, p.114 / 132 頁]。これは単に権力の側とは異なる知が提示されるにとどまらない。それ まで歴史がもっていた、権力が己自身について語る物語としての機能を、こ の運動は解体することになる。その意味においてフーコーは歴史には新しい 二重のシュジェ(sujet)が現れるという。一つは新しい語る主体という意 味でのシュジェであり、もう一つは語られる物語の主題という意味でのシュ ジェである。つまりこれまでの歴史とは別の誰かが歴史を語り始めるとい うこと、またその歴史陳述においては「国家の下にあって、法をあまねく貫 き、諸々の制度よりも古く深いところにある何かの有為転変(péripéties)」 [Foucault 1997, p.117 / 134 頁]が語られることになる。それをフーコーは、 当時の語彙で「民族」(nation)と示されるものだという。つまりここでい う民族とは、歴史物語のなかで語る者であると同時に、歴史物語の語りのな かで構成されていく民族概念そのものを指す。  このときブーランヴィリエによって描かれる歴史は、貴族にとっての自己

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意識を回復する作業として規定される。そしてこのブーランヴィリエの営為 によっていくつかのことが歴史記述のなかで一般的なものとなる。まず人々 は自由と平等な状態に置かれているという自然法的な考え方に代わって、諸 民族は闘争や暴力による不平等な関係に置かれているという一般化を行う。 さらにそこから軍事制度によって社会が分節化可能であるという見方を提示 したことであり、最後に弱者から強者へ、また強者から弱者へどのように移 行していったかが歴史記述において問題とされた。フーコーは、彼のこのよ うな作法が戦争を歴史記述の基点とし、「歴史的 - 政治的領域」というよう な社会を理解するための解読枠組みを創出したと考え、そこから権力の相対 的性質を読み取ろうとする。  ところがその後、ブーランヴィリエによる歴史的 - 政治的言説は、貴族の みならず誰でも使用できる一般的な言説上の武器となることで、この対抗知 という性格が奪われた言説も登場するという。たとえばシエイエスは、これ により国家の全体化機能を担う存在としての第三身分の立場を強調する。こ こではもはや民族は他の集団との対決的な関係で描かれるのではなく、現在 の国家がどのように実現されているのかということに基づいて一つの民族/ 国民概念として規定されるようになる。すなわちいかに第三身分が農業や商 業や手工業の担い手として国家を機能させているか、また「軍隊、教会、行政、 司法を動かしているのはだれなのか」[Foucault 1997, p.197 / 220 頁]とい うことが重要になってくる。その意味でフーコーは、いまや闘争の賭け金は 支配ではなく国家になるという。  フーコーによるとその後、歴史的 - 政治的言説によって語られた複数の人 種の闘争は二つの方向へと分化することになる。一方は諸階級の闘争の言説 へ、他方は生物学的な人種主義へと展開していく。とりわけ生物学的な人種 主義はナチズムの人種主義政策に象徴される 20 世紀の国家人種主義へと接 続され、そこから生権力という、フーコーにとって新たな権力理解を引き出 すことになる。  このように戦争モデルによる分析は、いわば諸力の拮抗とそれぞれの時代 の言説態がどのように作用するかを通じて権力関係を明らかにし、さらにそ

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の対立的な構図が解消され一つの「国民なるもの」が構成されていく過程を 描くものだと考えることができる。しかしこの戦争モデルによる分析は、こ の 1976 年の講義以降、継続して検討されることはなかった。こうしたフー コーの分析手法の試行錯誤にこだわることは、この戦争モデルを通した権力 分析の限界とその意義を正確にはかるうえで重要である。では戦争モデルに よるこの権力分析はどのような問題に突き当たることになるのか。ここでは 1976年講義で展開された人種主義問題へのまなざしが国内の主体形成の問 題に限定され、その外にある植民地の人びとの生へと向けられていないと批 判するトマス・ホルトの議論を手がかりに考えていきたい。 4. 植民地主義における主体の問題  トマス・ホルトの議論はフーコーの 1976 年講義がおこなった人種主義の 分析がもつ意味と限界を指摘し、そこからその発展的可能性を提示するもの であった。諸人種の戦争として描かれたフーコーの分析は、いくつかの決定 的な契機を経て、単一の人種(race)、あるいは民族(nation)の生物学的 な差異関係というものに帰着する。これをホルトはある集団のアイデンティ ティが他の集団と対立することによってしか構成されえないという歴史的 -政治的言説をもとにした対立的な関係形態から、生物学的な言説にしたがっ た人種主義的な関係への変化と考える。  ホルトが問題としてとり上げるのは、フーコーが描き出した「アイデンティ ティ形成」の契機において重要な役割を果たす「他者」がヨーロッパ内部の 人間に限定されており、その他の人びと、具体的には植民地の人びとを「他 者」として想定していないという点である。たとえば経済的な観点から奴隷 制度や奴隷貿易がヨーロッパの資本主義にもたらした影響、また政治的には そうした制度やシステムがヨーロッパのブルジョワ階級のアイデンティティ 形成にもたらした影響[Holt 2001, p.84-85]について論じられるべきである し、さらに生物学的要素をもった「人種」言説の出現と結びつけられる生権 力の議論などは、植民地における人種主義に根ざした生命管理(出生率・疾 病率・死亡率の計測や管理)と密接につながるはずである[Holt 2001, p.88]。

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こうした問題がとり上げられなかった理由をホルトは、フーコーが「内なる 他者」同士での関わりだけを問題にし、植民者と被植民者(「植民地の他者」) の関わりについての視点を欠いていたからだと指摘する[Holt 2001, p.83]6)  もちろんこの指摘は、複数の人種の闘争という対立的な社会構成から、あ る人種内における生物学的で一元的な社会構成への移行を断絶と捉えること こそ、1976 年講義におけるフーコーの賭け金であり、その点を強調すべき だと考える論者から批判されることになる7)。また対立する二つの勢力がそれ ぞれに「真なる言説」を対抗させるふるまいがいかに権力関係を構成してい くかという理論的側面を重視する見方からしてもフーコーの議論に則した批 判というわけではない8)  しかしホルトの問題提起が重要なのはその直接的な批判内容というより も、フーコーのこの講義における権力関係を抽出する分析がともなわざるを 得ない「アイデンティティ形成」という側面を明示したことであり、そこに この議論のもつ限界を指摘したことである。  では「アイデンティティ形成」の問題とは何か。1976 年講義でフーコー は権力関係を分析するためには、主体の理論からではなく、「権力関係その ものから、すなわち事実としての、そして効果を生むものとしての支配関係 から出発する」[Foucault 1997, p.38 / 47 頁]ことが重要であるとし、支配 関係を与件とする力と力の場を検討しようとした。この競合する力の関係に おいては、それぞれの陣営は自己に有利になるように真理を語り、用いる。 6)  その他、植民地主義研究の観点から 1975-76 年度の講義を扱ったものとしては、講義録が 刊行される以前の比較的早い時期の研究として[Stoler, 1995]がある。 7)  たとえばホルトの発題を受けた討議のなかで提起されたドゥラクロワの主張[Delacroix 2001, p.97-98]を参照されたい。彼の議論は、現在用いられる人種(race)という概念が、 その初めから人種的な概念であったのではなく、種族(人種)間闘争という形式の変容によっ て、徐々に生物学的な人種が現れたという系譜学をフーコーは描いたのだと主張するもの である。 8)  さらにフーコーは 1 月 21 日の講義のなかで、生物学的な転写によって歴史的 - 生物学的な 人種論が生み出され、それがヨーロッパの植民地政策に繋がる[Foucault 1997, p.52 /62 頁] との指摘をおこなっており、その意味で彼が植民地主義の問題に無関心ではなかったとい うことも可能であろう。

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いわば支配関係・力・真理(の言説)を通して権力関係を見極めるというの がフーコーの狙いであった。まさにこうした試みには、ドゥフェールが指摘 するように、衝突や占有の意志の系譜学を描こうという意図が示されている。 そこでフーコーが用意した舞台こそ戦争(闘争)の場であり、ある勢力と他 の勢力のあいだの、ある人種と他の人種のあいだの闘争関係が、権力関係を 分析するための対象とされる。  しかし戦争モデルを分析するうえで問題なのは、諸力が真理の言説を拮抗 させるうえで想定される語る主体の存在である。たとえば王権に対抗する貴 族ということについていえば、対抗史を語る貴族なる主体が与件として与え られている点である。いわば「われわれ」の人種とそれに敵対する人種とい う対立関係の設定によって、それぞれが真理の言説を語ることで自己のアイ デンティティを補強するという構図が浮かび上がる9)。もちろんこれは語り、 認識する主体を前提とするのではなく、言説の考古学や意志の系譜学を描く ことで権力関係の変遷を浮かび上がらせようというフーコー本来の企図と矛 盾することになる。また明示されずとも言説の「担い手」の設定は、この担 い手が何者であるかという問いを提起し、その者たちとその敵対者という実 体的な関係性に議論が還元されてしまう。もちろんホルトが提起したような 植民者と被植民者の対立的な関係というものも、実体性をともなった主体間 の固定的な関係へと移行してしまい、結局フーコーは植民地における生権力 の問題をどのように考えていたのか、といった批判を呼び込むことになる。 もちろんフーコーは、初期の代表作である『狂気の歴史』以来、現象学的な 事物に意味を与える超越論的な主体のあり方に対して批判をむけてきた。そ のような主体を前提とせずに諸力の関係を描き出すことが彼の思想的な試み であった。その意味でホルトから向けられた問題提起は、フーコーの本意と はかけ離れた点への指摘ではあるだろう。  そのように考えると、1976 年講義で行われた戦争モデルをとおした権力 9)  「語る主体、真理を語る主体、歴史を語る主体、記憶を再発見し忘却を払いのける主体、そ の主体は、自分が語るその全面的な戦いにおいて必然的に一方の側か他方の側に立ってい る。」[Foucault 1997, p.45 /54 頁]

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分析は「知への意志」の系譜学の一つの試みであったが、失敗した試みでも あった。その点において、1976 年講義は、それまでの規律権力論から生権 力論をへて、その後の統治性分析へ展開していくなかでのちょっとした「寄 り道」だと考えられる。例えば重田は戦争をめぐる言説を、古来の君主主義 に結びつけられる法権利の言説とも、「近代的」な生権力の言説とも異なる 新しい提案として位置づける。これはその後強調される生権力がもつ積極的 な側面ではなく、その裏側でおびただしい量の殺戮や戦争が繰り返される負 の側面を導きだすための試みであった[重田 2011, 184 頁]。しかしドゥフェー ルも指摘するように、1976 年以前の議論では狂気・疾病・死・戦争という「否 定性」を帯びた言説を頻繁に用いており、むしろそうした要素を削ぎ落と し積極的な概念を展開していくのが 1978 年以降の特徴である[Defert 2001, p.65]。そう考えれば 1976 年の試みはそれ以降の主題との連続性を欠くもの ではある。しかしそれでも断絶とは決していえないのは、戦争モデルにおい て問題だとされていた「衝突や占有への意志」という動的な関わり合いこそ が、その後の主体化の問いへの手がかりを示してくれるからだ10)  そこでつぎに戦争とは異なった主題で諸力が拮抗する場面にせまった『性 の歴史』の第 1 巻『知への意志』の権力/抵抗関係を検討することで、この プロセスがフーコーにとっていかに重要なものであったかを確認しておきた い。 10)  ホルトの問題提起を招いたのは、フーコー自身がそれを否定しつつも、1976 年講義が新 しい「人種主義」歴史記述を行ったと理解されたからである。とくに人種主義という主題 と最終的な「生権力」の接続(さらにナチズムというキーワード)は、さまざまな現在的 議論を刺激することになった。例えばムベンベは、人種主義という言説実践と人びとの生 命にかかわる政治の結びつきには、フーコーの生権力/生政治という概念を超える、「死 にもとづく権力」(necropower)/「死にもとづく政治」(necropolitics)というものが、発 動される現実があるのではないかと指摘する。これはとりわけ今日の法が及ばない場所(ア パルトヘイト下にあった南アフリカや現在のパレスチナ)で展開される「人種」主義的な 政策だと考えられる。すなわち「国家」は、フーコーが指摘したように人びとの生命に生 産的に働きかけるだけでなく、排除すべき「人種」に対しては否定的に働きかけもするこ とが主張される[Mbembe 2008]。

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5. 『知への意志』における権力と抵抗  『知への意志』は、1976 年 1 月 7 日の講義で予告されたが実現しなかった「抑 圧」という概念への批判的検討を通して「性の歴史」を分析するものである。 1976年講義とこの著作をあわせてみると、「『戦争』と『抑圧』という二つ の概念を詳しく検討しなおすべきだ」[Foucault 1997, p.18 / 21 頁]という フーコーの予告がおこなわれたと考えることもできる。著作ではまず「権力 は抑圧的だ」という見方が、社会・政治関係を分析するうえでいかに不適切 であるかが指摘される。一般的な権力理解では、権力とは非常に単調で、否 定的なものだとされる。これは権力を理解するための「モデルが、法の言表 と禁忌の機能のみを中心にして作られた法的なものだからである」[Foucault 1976, p.113/ 111 頁]11)  ところがフーコーによると、18 世紀には法権利の表象には還元できない ような新しい権力メカニズムが浸透する。その権力メカニズムとは、人間の 生命に対して、生きた身体をそなえる人間に対してかかわるものであった [Foucault 1976, p.117 / 116 頁]。またこの権力メカニズムは、ある部分法的 な枠組みで理解できるものだとしても、これまでとはまったく違うものであ る。そのためこうした権力メカニズムを理解するために必要とされるのが、 「もはや法権利をモデルともコードとも見なさないような権力の分析学を打 ち立てる」[Foucault 1976, p.119 / 117 頁]ことであった。そこでこの分析 学の対象としてフーコーによって選ばれたのがセクシュアリティの歴史とい う主題であり、このセクシュアリティの領域こそ権力が法や主権の様式とは 異なる支配権を適用させた部分であることがあきらかにされる。  それではフーコーが語るところの権力とはどのようなものか。彼によると 権力はまず国家の主権や法という一体性を備えた形式ではない。それは「無 11)  例えば[Foucault 1977a]でも権力がなぜ法的であり、否定的な形しかとろうとしないのか、 ということが説明される。フーコーによると王権の成立は複数の封建的権力を調停するも のとして、つまり「戦争を止めさせ、暴力と略奪行為に終止符をうち、闘争と私的な抗争 にノンを通告する権力として登場した」という。そしてこのような王権の形成が受け入れ られることで主権者、法、禁止というものが「権力の表象システムを成立させていく」と される[Foucault 1977a, p.150 /204-205 頁]。

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数の力関係(la multiplicité des rapports de force)」であるが、権力が行使 される領域に内在し、その領域を構成するものだとされる[Foucault 1976, p.121-122 / 119 頁]。無数の力関係である権力はあらゆる場面に遍在するが、 かといって超越的にすべてのものを上から押さえつけるというイメージで はなく、あらゆる瞬間にあらゆる場所で発生するものである。その意味で 権力は固定的でなく、逆に不安的な複数の力の関係として描かれる。いわ ばこれまで語られてきた権力とは、「あらゆる可動性から描かれる全体的作 用(l effet d ensemble)にすぎないし、こうした可動性のそれぞれに寄りか かり、さらにそれらを固定化しようとする連鎖にすぎない」[Foucault 1976, p.123/ 120 頁]。  権力をこのように規定した後、フーコーは「政治とは、他の手段によって 遂行される戦争なのだというべきか」と自問しながら、1976 年のコレージュ 講義で展開された戦争モデルを通しての権力関係分析の可能性に触れる。い わばここで戦争関係を表現するために用いられる戦略・戦術という語彙を通 して、権力関係が説明される。  まず権力とは可動的であるが不平等な諸関係のゲームのなかで行使される ものであるため、局所的な場面でのさまざまな差異の関係、すなわち経済的 な関係、政治的な関係、性の関係、セクシャリテの関係を貫くものだとされ る。ここで権力関係はそれぞれの諸関係に細分化されるだけでなく、その局 所的な場面から包括的な権力の戦略を規定しもする。つまり戦略とはある状 況を全体的に理解させる合理性の形式のことであり、この合理性は超越的に 存在するのではなく、局所的な諸力を働かせる機能としての戦術によって支 えられているとされる。たとえば「生産の機関、家族、限定された集団、諸 制度などのなかで形成され、作動する多様な諸力の関係は、社会全体を貫く 裂け目の広大な効果の支えとして役立っている」[Foucault 1976, p.124 / 122 頁]。そのため権力分析は、権力が国家のような中心からどのように「下方」 へとその力を波及させるのかといった形で行われるのではなく、反対に「下」 から「上」へと向かう上昇的なやり方でおこなわれるべきだとされる。いわ ばここでは大文字の権力ではなく、局所的な権力関係分析の重要性が強調さ

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れているといえよう。そこで『知への意志』においてフーコーに採用された のがセクシャリテという領域であった。とはいえこれは単純に「下」(局所 的な戦術)から「上」(全体的な戦略)へと一方向的な規定作用をもつので もない。フーコーによると、一方でこの効果は「局所的な対立を貫き、そし て結びつける全般的な力線を形成する」が、反対に形成された全体的な戦略 は「局地的対立に働きかけ、再分配し、列に整え、均質化し、系の調整をし、 収斂させる」。いわば底辺での固有の働きと全体的戦略は相互的に効果を還 流させあう。  またフーコーには「権力があるところには抵抗がある」という有名な命題 がある。この命題が意味するのは、抵抗も権力同様に、諸力が働く場の外部 に存在するものではないし、権力と異質な原理でもないということである。 たとえばある者がなにがしかの行為を誰かに力づくでさせる場合、力を加え られた者はその力の「大きさ」に応じた抵抗を行う。加えられた圧力が非常 に強力なものであれば、それに対する抵抗は当初大きくなるが、抵抗が不可 能だと感じられると次第に小さくなっていく。これは力を加える側も同じで ある。抵抗が大きくなれば、それを押さえつけるようにさらに強力な圧力を 加えていく。つまり権力と抵抗は分割されたものではなく、両者の相関関係 によって規定されるものである。その意味でフーコーは、「抵抗とは権力の 関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込ま れている」[Foucault 1976, p.127 / 124 頁]と述べる。  また抵抗も権力と同じく「社会的な成層と個人的な単位を貫通し」、全体 的な戦略を形成しようとする。つまり権力関係は、権力/抵抗関係としてだ けでなく、包括的戦略に貫かれたものとして分析せねばならない。  この議論を 1976 年講義でおこなわれた力の関係の分析と照らし合わせて みると、そこで検討される歴史言説の分析は、局所的な二つの力が拮抗する 場面に、権力発生の契機をとらえるものと理解することができる。またこの 二つの力は、少なくとも歴史的 - 政治的言説が支配的な場面では、科学的言 説や科学的言説の制度をもつ優位な者と、それに対抗する劣位な者の関係で あり、劣位な者は「従属化された知」を用いて科学的言説に対抗するという

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形式で描き出されている[Foucault 1997, p.13 / 16 頁]。つまりここでは従 属化された知がいかにして不均衡な力の関係に入り込み、その関係性を変化 させていくのかということが分析される。その意味で戦争関係を通した分析 手続きとは、フーコーが定義したい権力関係の形態というだけでなく、「権 力があるところに抵抗が存在する」という彼の命題を実証するための一つの やり方でもあると理解できる。また包括的戦略は 1976 年講義で論じられた 人種闘争の歴史から人種主義や国家人種主義へと展開されていく「知への意 志」に対応するものと考えられる。  しかし問題はすでに述べたように従属化された知を作動させるために表象 された語る主体の存在である。ここで設定される諸人種や諸民族は、貴族で あれ第三身分であれ、その既存の主体の枠組みが前提とされるがゆえにあく までも抵抗する側という安定的なアイデンティティをもつものとして描き出 される。そしてここにホルトの批判の入り込む余地が生じる。抵抗者として 形成されたヨーロッパの市民は、その植民地政策や植民地の人々をとおして どのような自己形成をおこなったのか、と問われる余地がそこには生まれる。 6. 統治性分析における操行と反操行  1976 年講義で述べられた科学的言説およびその制度と「従属化された知」 の関係は、『知への意志』において権力と抵抗という形で表明され、またそ れらがそれぞれ戦術を駆使し戦略に影響を与えるとされている。では戦争モ デルが放棄された以上、その後この権力/抵抗という関係性の原理は、どの ように展開されるのだろう。フーコーは 1978 年に行ったコレージュ講義、『安 全・領土・人口』のなかで、この新たな権力関係を展開させる。フーコーは まずこの講義で、司牧制や人間たちの統治が人間の操行とともに、いかにさ まざまな反操行を引き起こしたかを明らかにしながら、これと同じようなこ とが国家をめぐる問題にも存在することを指摘しようという。いうなればこ れまで意識的に回避してきた「国家」という審級へ議論をひろげることであ り、局所的な権力関係と巨大権力のあいだのつながりを明らかにしようとい うものである。ただし 1976 年講義で展開された真理言説の奪い合いの力学

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を通じた権力関係論が無意識のうちに抱えていた「前提としての実体的な主 体」は、上手く回避されていくことになる。  とりわけ国家についての議論は統治性という枠組みからその歴史的変遷が 叙述され、そこで発生する操行と反操行(導きと反 - 導き)の力学を明らか にすることで、新たな権力理解の枠組みを提示する。  1978 年 2 月 8 日の講義でフーコーは、「統治性」という「あいまいな」領 域を分析した理由を従来の権力理解のやり方からの方法的な移動として説明 する。すなわちまず制度を中心に権力を理解することからの移動であり、具 体的にはロベール・カステルの精神医学制度についての方法[Castel 1976] に依拠する12)。たとえば精神医学の系譜を描き出すためには、精神医学という 制度がどのように精神医学的な秩序を具現化し、強化していくのかという点 に目を向けねばならないし、そのためには個別の制度の背後にどのような権 力テクノロジーが機能しているのかを見出す必要がある。第二の方法的移動 は機能性を中心に思考することからの移動である。たとえばあらかじめ監獄 がどのような機能をもつのかと考察すること、あるいは実際にどのような機 能が実現し、どのような機能が失敗に終わったのかを検証することによって、 監獄の内的な視点から監獄の歴史を描くことはできる。しかしフーコーによ ると、場合によっては監獄がもつ機能の失敗にさえ依拠する戦略や戦術があ る。そのため機能本位的な分析ではなく、外部的な戦略や戦術の視点に立っ て監獄を包括的にとらえる必要があるという。第三はこれまでの既存の分析 対象からの移動である。つまり新たな分析対象を設定することによって、「真 理」の領域が権力テクノロジーによって構成されていくプロセスをあきらか にすることができる。たとえば規律という視点を取ることによって、非行や セクシャリテについてのありふれた理解を回避することが可能になる。こう した規律分析で行われた従来の枠組みから外に出るやり方を、国家につい ても探求しようというのが統治性を分析するための目的であった[Foucault 2004a, p.124/ 148 頁]。 12)  「制度としての病院を理解するためには精神医学的秩序という外的・一般的なものを出発 点にしなければならない」[Foucault 2004a, p.121 /145 頁]

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 この統治性という枠組みを分析するためにフーコーの対象領域となるの が、司牧的な統治の世界からポリス(内政)を統治の基礎とする国家理性へ の変遷であり、さらにそこから市場経済を中心とする「市民社会」(société civile)への変遷である。  たとえば国家理性の特徴は、それまでの司牧的な統治の世界が有していた 最終的な帝国へと向かう時間概念(終末論)やいずれ一つの帝国へと溶け込 むだろうという空間概念(最終的な単一性)ではなく、開かれた時間性やそ れぞれの国家が一つの単位をなす他国との競合関係であった。そのためこの 新しい統治的合理性における真の問題は、単に自国を保守することではなく、 自国と他の国々との力関係そのものを保守し、維持し、発展させることにあ るとされる。  そのうえでこの新たな統治理性の装置として西欧社会でつくり出された のが、外交 - 軍事装置とポリス装置であり、フーコーはこの両者の緊密な関 係を指摘する。外交 - 軍事装置は他国との力関係を維持するために、すなわ ちヨーロッパ全体の均衡を確保するために必要な装置であり、ポリス装置 はヨーロッパの均衡が達成されるために不可欠な各国の国力増強に努める [Foucault 2004a, p.322 / 390 頁]。  こうした均衡と国力増強(均衡を維持するための国力増強)という国家理 性の特徴においてみられるのが、ポリス装置と「一般に重商主義という見出 しのもとでおこなわれた理論や統治実践」[Foucault 2004a, p.345 / 419 頁] の結びつきであった。フーコーは重商主義をヨーロッパの競争関係において 諸国家が国力増強のために必要とした技術や生産のことであるといい、通商 政策を通して国力の増強をはかるものだという。一般に重商主義と呼ばれる 政策態度は、できるだけ多くの人口を有し、できるだけ低い賃金で安価に商 品を生産することで、優越した対外競争力を通して、できるだけ多くの金を 確保するというものである。また増大した財貨が国力増強に必要な軍事力を 可能にするという意味でも、国家理性にとって必要な道具として重要な役割 を担うことになった。  ところが食糧難や食糧政策をめぐる重農主義的な議論が、この重商主義を

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主要な道具とするポリス国家への批判を強める。とりわけポリスがもつ統制 化というやり方に大きな変化をもたらす。ポリス国家においては、主権者の 意思や国家理性の合理化が事物を柔軟に変動させることができた。いわばポ リスに特徴的な統制化とは個別の規律装置が領土全体に一般化したものだと 考えられる。ところがエコノミストたちの見解では事物は統制によって柔軟 になりはしない。たとえば穀物不足により穀物が高価であるとき、統制によ り価格上昇を妨害しようとすれば、誰も利益があがらないため、自分の穀物 を売ろうとはしないだろう。国外の穀物供給者も自己の利益があがらないた め穀物の供給を控えることになる。要するに行政当局が相場を下げようとす ると、供給不足により相場はさらに悪化し価格が上昇してしまう。フーコー によるとこの分析が含意するのは、いまやポリス的統制が効果をもたない という認識である。すなわち望ましい形に統制することではなく、「事物自 体の流れを出発点とし、その流れに応じてなされる調整」[Foucault 2004a, p.352/ 426 頁]が新たな認識枠組みの特徴となる13)。  このエコノミストによって認識された新たな統治的合理性には、人間どう しの関係性に内在する何かしらの自然性がうかがえる。そしてこの自然性を 内包した社会こそ、エコノミストによって分析対象とされ、そこから国家に 対抗する「市民社会と呼ばれるもの」[Foucault 2004a, p.357 / 432 頁]の出 現が確認できるようになる14)  たとえばフーコーはこの市民社会の出現を国家に対する一つの反操行の形 式と考える。いわば経済的真理というものによって国家の制約を乗り越える、 新たな統治性の形式が社会という形であらわれるという。とはいえこの反操 行の形式はそれまでの国家理性を基礎とする統治性の形式と完全に断絶する 13)  ここで論じられる統治の合理性を分析対象とするやり方は、「公共活動」の分析を扱っ たラボリエとラスクムの研究によっても確認される。彼らによると、エコノミー・ポリ ティークに関わる公共的な活動は、統治の合理性がいかに変容していくかを確認するうえ で非常に重要であり、さらにその合理性の働きをみていくことで、「国家の本質やイデオ ロギー、そしてその正当性」がもはや問われるべき主題でなくなるという。[Laborier et Lascoumes 2005, p.46] 14)  「市民社会」については、翌年度の最終講義(1979 年 4 月 4 日)[Foucault 2004b]でさら に論じられる。

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ものでも矛盾するものでもない。  「近代的統治性と相関して発展した反操行はつまるところ、当の統治性 と同じ要素を目標としていたということです。18 世紀なかばから、まさ に国家理性やこの国家理性の根本要求を拒否することを本質的目標とす る、さまざまな反操行が展開されることになるけれども、その反操行が依 拠することになったのは、国家理性がすでにお話したいくつかの変容に よって最終的に出現させることになった当のものだったということであ る」[Foucault 2004a, p.363 / 438 頁]。  フーコーによって描かれる反操行は操行(国家理性)の切り離すことので きない裏面であるといえる。またこの操行 - 反操行関係の相互還流性につい ては、反操行という語が選ばれた理由を説明する際にも触れられている。何 よりもフーコーは人びとを導くという権力形式への「反乱」を示すために「反 操行」という言葉を選択した。なぜなら表現したい概念の意味としては「反 体制」(dissidence)という言い方に近いのだが、その言葉がもつ実体化する 作用を考えて、あくまでも「操行(導き)」という語の対抗的な概念でしか ない「反操行(対抗導き)」という言葉を選択することが適切だと考えたか らである[Foucault 2004a, p.205 / 248 頁]。もちろんここで慎重に避けられ た「反体制」という語から引き出される実体化とは反体制派(dissident)と いう主体を設定することになりかねない。必然的にそこには抑圧する者と抑 圧される者という二元的な「抑圧仮説」へと再び回帰し、主権論的な権力理 解へと立ち戻ることになる危険性をはらむ。たいして「反操行(対抗導き)」 とはどのように導かれないかという、あくまでも導き(操行)を打ち消す意 味でしかない言い方であり、そこに「操行」と「反操行」という二つの作用 の決して切り離せない関係を見ようとするフーコーの態度がうかがえるし、 さらにこの点にこそ 1976 年講義が抱えていた二項的な対立図式との明確な 違いが指摘できるだろう。また操行 - 反操行という力学によって、すなわち 統治の合理性という力学によって「権力関係」をあきらかにしようという分

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析は、力の保持者として主体を安易に描くことも回避したといえる。 7. 戦争モデルの意義  戦争モデルにおいて位置づけられる「真なる」歴史言説を語る者と、それ に対抗して「われわれ」の歴史を語る者との間で繰り広げられる諸人種間の 闘争関係は、力と力の関係としての権力関係を表したものであった。フーコー が 1976 年講義で戦争モデルとして権力関係を表そうとしたのは権力と抵抗 を法権利の形式とは別の形で描き出そうとしたことから生じたともいえる。 すなわち主権の法的形式ではなく、闘争という戦略的形式によって権力関係 を理解することができるのではないかと考えたからであった。『知への意志』 では権力と抵抗という言葉を使いながらも、この戦争モデルによって引き出 された戦略的実践としての諸力の関係として権力関係を整理しようとする。 しかし 1976 年講義にはこの『知への意志』にみられたような権力/抵抗関 係についての繊細な取り扱いはみられない。そこでは「戦争」という側面を 強調するあまり、「真理」の語り手を登場させることになった。具体的な「真 なる言説」の語り手(語る主体)の登場によって、この戦争モデルがさらに 植民地主義にまで敷衍され、そこで宗主国における市民層と植民地の住人の あいだの闘争関係が問われることになる。そうなれば「人種」という概念の 意味も、今日用いられるようなより実体をともなった形式で用いられること になる。もちろん「人種(種族)」(race)という概念は、関係をもつある陣 営と他の陣営を弁別させるために導入される言説実践であり、実体化とはこ の弁別作業の結果として生み出されたものにすぎない。しかしながらこの弁 別の瞬間を両陣営の「真なる言説」の占有過程から見ていこうとするフーコー の議論においては、生み出されるべき「主体」が「語る主体」として前提と されるような撞着に行き着くのだ。  またこの戦争関係にもとづくモデルは歴史の駆動因としての役割が求めら れる。たとえばブーランヴィリエが王や行政組織に対する対抗知を紡ぎ出す ことで、「人種(種族)」(race)としての自己認識から「民族」(nation)な る自己認識を生み出す過程や、シエイエスがこの「民族/国民」概念から第

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三身分の優位性を語るにいたった過程に動学的な要素があらわされている。 つまり 1976 年講義でフーコーがおこなった工夫は、歴史の動かす力として 戦争モデルを導入したことであり、これによって権力/抵抗関係だけでは説 明しきれない部分を説明しようとしたことが理解できる。ところが 1976 年 講義では対立図式によって論じ始めた諸人種間の闘争モデルはその展開のな かで一元的な生物学的「人種主義」へとたどり着く。もちろん一元化される ことで、このモデルがもつ「動かす力」は失われることになり、それに代わ る新たな分析格子が必要とされた。  6 節であきらかにしたように、まさに統治性分析における操行 - 反操行関 係は、戦争モデルで企図された歴史を動かす力という役割を引き受けること になる。国家理性を中心とした統治の合理性から、「経済的真理」をもとに した新たな統治の合理性への移行は、一つの反操行の形式としてフーコーに よって描き出されていく。また操行 - 反操行関係は戦争モデルで二項的な関 係ととらえかねない具体的な「真理」の語り手についての問題も解消する。 すなわちいまやより反二項対立的なものとして強調された操行 - 反操行関係 によって、フーコーは戦争モデルの分析において残されていた問題に答えよ うとする。 ※  それでは 1976 年講義でなされた戦争関係の図式を通して権力と知の関係 性を検討するという作業に積極的な意義は認められないのだろうか。最後に 1977年に発表された「汚辱に塗れた人々の生」という論考で描かれる権力 と従属化された知の関係を通して戦争分析の意義を検討してみよう。  「汚辱に塗れた人々の生」はさまざまな無名の人々の閉じ込めの古文書記 録を集めた叢書の序文をなすものであり、フーコーによると国立図書館で発 見した 18 世紀初頭の「収監請願文書」の衝撃から、この論考および論集の 計画が始められたという。当初、彼が目指したのは、いかなる制度や政治実 践がそれらのテクストに反映しているかを探ることであった。ところがこの

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当初の思惑は困難にぶつかる。「〔彼をその仕事へと動機づけた最初の〕強度 は、分析的理由づけの領域にはまったく相応しくないという危険があったの だから、そしてまた、私の言説では、しかるべくそれらの強度を支えること ができなかったから」[Foucault 1977c, p.238 / 316 頁 ,〔 〕内引用者]。その ため彼が意図したのは、元のまま文書を提示することであった。  この仕事でフーコーが扱おうとする主人公たちは「何の痕跡も残さず消 え去っていくことを運命づけられた他の無数の人々に属する者たちである」 [Foucault 1977c, p.240 / 319 頁]。ではなぜ彼らの存在がフーコーに現前した のか。その理由を彼らの生と権力との邂逅に求める。何よりも彼らの生の熾 烈さがわれわれに届けられるためには言説化されねばならない。言説化され るには、彼らの生がとどまり続ける闇から彼らを引き離す別の光が必要とな る。それが「権力という光」だとフーコーはいう。  「…権力との衝突がなければ、おそらくそれらの束の間の軌跡を呼び起 こす如何なる言葉も書かれることはなかったに違いない。彼らの生を狙 い、追跡し、ほんの一瞬に過ぎないにしても、その呻き声や卑小なざわめ きに注意を差し向けた権力、そして彼らの生に引っかき傷の一撃を記した 権力、それこそが、私たちに残されたいくつかの言葉を励起したのである」 [Foucault 1997c, p.240-241 / 319 頁]。  もちろん無名の人々の生をそれ自体としてとらえることなど不可能であ る。それが可能なのは、それらの生が権力との接触によって、言説化される ことによってのみつかまえることが出来る。たとえばこのテクストにおいて 無名の者たちの生は、裁判というまさに権力が発動される現場において、権 力によってとらえられ、司法文書として記録に残されることにより、われわ れに現前することになる。そこからフーコーは社会の特性を分析するうえで 必要なことを以下のようにみる。「結局のところ、私たちの社会の根本的な 特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、あるいはそれに抗する 戦いという形を取るということではないだろうか。生のもっとも緊迫した点

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とは、…それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、あるいは その罠から逃れようとするその一点である」[Foucault 1977c, p.241 / 320 頁]。 つまり 1976 年講義の主題に沿っていえば、権力と従属化された知が衝突す る瞬間を、すなわち「戦争」の瞬間をとらえることこそ、従属化された者の 生の熾烈さを輝かせるものだと説明するものにほかならない。  実際的な場面において力の関係は不均衡の上に成立している。そこから フーコーが関係の不均衡に、権力と知が動きだす現場をとらえようとしたこ とは当然であった。実際、権力の包括的な戦略(統治的合理性)をとらえ返 すためにはこの不均衡を利用し、逆にこの不均衡に自覚的であることが必要 となる。しかも従属化された知が、「権力という光」のもとはじめて明らか にされるという点を考えれば、戦争・闘争・衝突という場面をとらえようと する企図は間違いではない。そこから別の対向真理を提示するためではな く、「新たな戦略を可能にする」ために、「諸々の価値と諸々の真理の反転」 [Foucault 1977b, p.265 / 357 頁]の重要性が語られる。すなわち一方のあり 方が他方のあり方に内在的に関わっていると考えることは、「対立的」な支 配関係が不均衡であるがゆえに、きわめて倫理的な問いを含んだものである ことを教えてくれる。またこの権力関係の構図にあらわれる倫理的な問いの 存在は、晩年にフーコーが論じた「パレーシア」の問題系、すなわち非対称 的な関係における相対的な弱者が勇気をもって真理を語ることによって、わ ずかながらも主体形成のあり方に力を及ぼしていこうという主題に接続され ていく。 参考文献

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参照

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