32 シンポジウム提題者報告要旨
はじめに
―クーベルタンのオリンピズムと
オリンピック憲章
近代オリンピックは一九世紀末にフランスの教育者で あったピエール ・ ド ・ クーベルタンが 、 古代ギリシアのオ リンピックを復興させるかたちでスポーツの世界大会の開 催案を提示したことに端を発する 。 学校教育においてス ポーツを通して人格の陶冶を目指す着想を若い頃から抱い ていたクーベルタンは 、スポーツは道徳的価値を持ち 、と りわけオリンピックにおいてスポーツを実施することで世 界平和に貢献することができるという 「 オリンピズム」の 理念を抱く 。 生計を得るためのみにスポーツを行うプロ選 手の参加をオリンピックから除外したことと合わせて 、近 代オリンピックの根底には 、 クーベルタンの 「 アマチュア リズム」と呼ばれる精神が流れている 。 しかし 、 クーベル タン自身は 、 単なる世界大会にはない 、 オリンピックのみ が有する特徴を具体的に追究することはなかった。 ク ー ベ ル タ ン の オ リ ン ピ ズ ム を 継 承 す る か た ち で 、 一九二五年に国際オリンピック委員会によって制定された オリンピック憲章では 、 第一項で 「オリンピズムは肉体と 意志と精神のすべての資質を高め 、 バランスよく結合させ〈シンポジウム提題者報告要旨〉
オリンピックは道徳実験室でありうるか?
﹁生き方の哲学﹂としてのオリンピズムの可能性
稲
岡
大
志
る生き方の哲学 ( a philosophy of life )である」とされ 、第 二項として 、「オリンピズムの目的は 、人間の尊厳の保持 に重きを置く平和な社会の推進を目指すために 、人類の調 和のとれた発展にスポーツを役立てることである」と定め ている (1) 。すなわち 、 オリンピズムは 、まず個人の生き方の 哲学としての価値を称揚し、 そ のうえでスポーツによる 「人 類の調和のとれた発展」を提示するのである 。クーベルタ ンのオリンピズムやオリンピックの存在意義はスポーツ哲 学 ・ 倫理学の分野では継続して研究されるテーマの一つだ が、 本 稿 で は 、「 道 徳 実 験 室( moral laborator y )」 と し て 機 能する点にオリンピックの価値を認めるグラハム ・ マク フィの一連の研究に着目し ( McF ee [2004] [2009] [2015] ) 、 その内容と正当性を検討し 、想定される批判に答えること で彼の主張をより強固なものにしたい 。マクフィの主張に 着目する意義は少なくとも二つある 。 第一に 、 スポーツと いう 、一見すると日常的な道徳が通用せず 、 暴力的な行為 や人の裏をかく行為が黙認される 、 あるいは場合によって は称賛されるような特殊な営みが道徳的価値を持つという 主張を筋道立てて提示することを試みている点 。第二に 、 オリンピズムの理想の実現可能性を少しでも高めることに つながる点 。 とりわけ二〇二〇年に開催予定であったが 、 新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて二〇二一年に 延期されることになった次回夏季オリンピック東京大会を めぐるさまざまなドタバタを見るにつけ 、「 もはやオリン ピック自体を開く意味はないのでは」という意見を持つ人 は少なくないだろう 。こうした風潮に本稿は意味のある 「待った」をかけることができる。
一.
道徳実験室テーゼ
スポーツをめぐってはさまざまなジレンマが起きる 。た とえば 、 サッカーの試合中に 、 自分がしてしまったハンド を審判が見落としたとき 、そのことを自ら申告すべきかど うか 、というような競技中に選手が直面するジレンマや 、 勝利のためであれば薬物の使用は認められるか 、というよ うな競技外で直面するジレンマなど 、多様なジレンマが スポーツをめぐって発生する 。こうしたジレンマの多くは 「フェアプレイ ( fair play )」 や 「 公平な条件でのプレイ ( level playing field )」 といった道徳的な語彙によって表現される 。 そして 、 選手だけでなく 、 実際の競技を鑑賞している観客34 シンポジウム提題者報告要旨 や 、 テレビやインターネットといった各種のメディアを通 して競技に注目する観客もまた 、こうした状況を知ること で、 選手の立場に擬似的に立ち、 「 自分ならどうするか」と 考えることもあるだろう 。 この意味で 、 スポーツには多く の人に道徳的ジレンマを体験ないし疑似体験させる機能が ある 。マクフィはスポーツが持つこうした機能を 「道徳実 験室」と呼び 、これこそがスポーツの内的価値であると主 張する 。 スポーツは道徳実験室として機能するという価値 を持つとする主張 (以下 「 道徳実験室テーゼ」と呼ぶ)は マクフィによって以下のように提示される (2) 。 【道徳実験室テーゼ】もし 、( 一)スポーツが内的価値 を持ち 、 かつ 、( 二)そうした価値が道徳に関わるも のであり 、かつ 、(三)道徳判断は本質的に個別的な ものであり 、かつ 、(四)スポーツは道徳に関する個 別事例を提示することができ 、 かつ 、( 五)そうした 個別事例は 「 フェアプレイ」 「 公平な条件でのプレイ」 といった道徳的メタファーを具現化したものであるな らば 、スポーツは道徳実験室として機能するこ と が で きる。 ( McF ee [2004 137]: 数字は引用者による補足) マクフィは一般化を含意する仕方で道徳実験室テーゼを 定式化しているが 、結論が文字通りスポーツ全般に妥当す るものだとは捉えていない 。 すなわち 、このテーゼが当て はまらないスポーツ種目があることはマクフィ自身も認め ている 。 さらに 、 具体的にどのスポーツが実験室テーゼに 該当するかもマクフィは探求していないが 、唯一彼が候補 として具体的に挙げているのが 、特定の種目や特定の競技 ではなく 、様々な種目の競技が行われるイベントとしての オリンピックなのである。 本稿はマクフィのテーゼをオリンピックに適用する可能 性を問う 。よって 、( 一)から (五)の論点がオリンピッ クに該当することを示すことが少なくとも必要である (十 分でないのは 、以下で検討するようにさらなる条件が必要 であるためである) 。 これらの論点のうち 、以下では 、 と りわけスポーツ倫理学に固有のトピックである ( 一)を検 討する (3) 。そのうえで 、このテーゼがオリンピックに妥当す る根拠を検討する必要がある。
二.
スポーツは内的価値を持ちうるか?
スポーツの価値を論じる際に 、 スポーツが持ちうる価値 を 、 それ以外の手段では達成できない 「 内的価値」とそれ 以外の手段でも達成可能である 「外的価値」 に分けた上で、 前者に相当する価値を同定する議論や 、そうした価値は客 観的かどうかを検討する議論や 、複数の価値の間にヒエラ ルキーはありうるかどうかを考察する議論は 、スポーツ哲 学 ・ 倫理学ではよく論じられる主題の一つである ( R yall [2016 103-10] )。 たとえば、 娯楽性の獲得や健康増進はスポー ツ以外の手段でも達成できるため 、 外的価値に分類するこ とができる 。人格の陶冶や協調性の獲得といった教育的価 値もまた 、スポーツ以外の手段では達成不可能であると断 言することは難しい 。したがって 、スポーツによって得ら れる価値の多くは外的価値に分類されると考えることがで きる。 ではスポーツでしか得られない価値とは何か 。マクフィ は 、 スポーツは 「道徳実験室」としての内的価値を持つと 主張する。 「 フェアプレイ」 や 「公平な条件でのプレイ」 と いった 、日常生活でも用いられる道徳に関連するフレーズ は 、 スポーツとは直接関連しない事柄をめぐる言説でも頻 出である 。 マクフィは 、こうした道徳的概念の適用を試さ れる状況がスポーツには頻発し 、さらに 、医療や看護の現 場における道徳的ジレンマのように生死に直接的に関わる ものではないし 、 また 、自分に攻撃を加えようとしている 他人を殺してよいかといった緊急性もないため 、スポーツ の競技は道徳的概念の適用を試すには適格であるという意 味で 「道徳実験室」として機能することができると主張す るのである。 マクフィはスーツのゲーム論を参照して 、スポーツの競 技への参加がルールに従うという性質を持つことを重視す る 。 スポーツを行う選手は 、 勝利という目的を達成するた めに明示的に定められたルールに従うという態度 (「 ゲー ム内的態度」 )を取る 。スーツはゲームとは 「 不必要な障 害を自ら望んで克服しようとする試み」 (スーツ [2015 37] ) であると定義する 。たとえばラグビーにおいてはボールを 前に投げてはいけないというように 、スポーツにおいては 人為的にそうした 「不必要な障害」 が 多く設定されており、 それを主に身体能力を用いて克服することが選手には求め36 シンポジウム提題者報告要旨 られている 。そして 、スポーツに参加する者は 、「不必要 な障害を自ら望んで克服しようとする試み」をあえて行う ことを自らの意思で選択するという意味で 、 スポーツに自 発的に参加しているのである 。 この二つから 、 スポーツの ルールを理解し 、 それに従うのは道徳的義務であることが 帰結するとマクフィは捉える 。 ゆえに 、スポーツへの参加 の同意の内容には 「ルールに従ってプレイする」という規 範に従うこと、が含まれると考えてよいだろう。 マクフィは 、 スポーツが教育的価値を内的に持つために は 、 競技者が外的強制ではなく 、自発的な意思でスポーツ に参加することが必要だとする (これに対しては非自発的 な参加でも教育的価値を実現することは可能であるという 反論が容易に思いつくが 、 この検討は本稿では立ち入らな い) 。それゆえ 、 マクフィはスポーツの価値を 、 選手がス ポーツを行う 「理由」という観点から検討する (4) 。マクフィ は 、ダンシーによる 「動機付け理由」と 「 規範理由」の区 別を独特な仕方で援用して 、スポーツにおける行為が内的 価値を持つ条件を 、スポーツを行う動機付け理由が規範理 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 由でもあり 4 4 4 4 4 、かつ 4 4 、内的理由 4 4 4 4 (つまり外的強制ではなく 、 自分の意志で行っている) であるとき 4 4 4 4 4 、 と す る 。 前 者 は 「 な ぜそれをしたのか」 と 問われて答えるタイプの理由であり、 後者は 「 なぜそれをすべきなのか」と問われて答えるタイ プの理由である 。 マクフィは 、 スポーツに参加する者の多 くが 、金銭や娯楽性や健康増進といった外的価値の獲得を 動機付け理由として持つことは認めつつも 、 そのことが選 手が規範理由を持つことまでをも妨げないとする 。という のも 、ここでの 「理由」とは 、行為主体の内部で起きてい ることを記述する因果的説明ではなく 、ある行為が何故起 こったのかを二つの観点から問うことへの答えに対応して おり 、その問いに適切に答えられるのは当の行為主体に限 らないからである 。スポーツ選手が自覚的に道徳的関心を 規範理由として持たずにスポーツを行うのだとしても 、そ の選手の個々の振る舞いの規範理由として道徳的理由を挙 げることは不可能ではないだろう 。たとえば 、勝利するこ とで周囲からの称賛を浴びたいという動機付け理由でプレ イする選手の競技中の個々の行為の理由に関して 、「 ルー ルにしたがって勝利を目指す」と規範的に解釈することは できるだろう。 スポーツが 、 道徳実験室という機能としての内的価値を 持つことが正当化されるためには 、 スポーツにおける行為
が 、 その機能が発揮されることを規範理由として持つこと が必要である 。 実際の選手の参加理由は多様であるが 、 二 種類の理由の区別と行為主体への理由帰属に関する解釈主 義的立場に基づいて 、 マクフィは道徳実験室テーゼの正当 化を試みているのである。
三.
スポーツの内的価値は
いかにして発現されるか
マクフィが行為の理由の区別に言及するもう一つの理由 は 、 スポーツが内的価値として道徳的価値を持つとして も 、 実際のスポーツ選手の振る舞いは道徳的とは言えない ことが少なくないという批判に応答するためである ( McF ee [2015 147-8] )。 しかし 、こうした区別はさらなる批判を招 く可能性がある 。 以下では二種類の理由の区別に関して 、 道徳実験室テーゼに対する批判と再反論を合わせて取り上 げる。 批判の一つのパターンとしては 、 スポーツの価値の内的 と外的の区別を疑問視するものがある 。 内的価値と外的価 値の区別自体を否定するのではなく 、マクフィによる区別 の仕方自体を批判するのである 。実際 、 カルバートソンに よる批判はこの路線のものである ( Culber tson [2008] ) 。 彼 は、 「内的価値」 に関するさまざまな倫理学説 (最終目的説、 内在説 、 非道具価値説など)を列挙し 、それらがスポーツ には見出すことができない 、 とする 。 ここではダンシーに よる内的価値の議論を参照した上でカルバートソンが提示 する 「内的属性」と 「 属性を内的に持つこと」を区別する ことからの批判を取り上げる 。たとえば 、「イチロー選手 と同じ新幹線の車両に乗り合わせる」という性質はたしか に ( イチロー本人以外にとってはイチローという他人に依 拠する性質なので)外的性質である 。そして 、イチローと 同じ新幹線に乗り合わせる以外の手段では達成できない価 値がこの性質には含まれているので、 「イチロー選手と同じ 新幹線の車両に乗り合わせる」という性質は内的価値を持 つと言うことができる 。しかし 、イチロー自身は内的価値 を生み出す性質を内的に持つことができるが 、イチロー以 外の人にとっては 、「 イチロー選手と同じ新幹線の車両に 乗り合わせること」は外的に持つことしかできない 。ここ から 、カルバートソンは 、 価値が内的であるとしても 、そ れを外的に持つケースがありうると捉え 、 そのうえで 、 ス38 シンポジウム提題者報告要旨 ポーツの価値はその発現のためには何らかの条件が必要で あり 、そうした条件はスポーツにとっては外的なものであ ることが多いので 、道徳実験室としての機能という価値を スポーツは内的に持ちうるという道徳実験室テーゼの正当 性を導くことはできないと批判するのである。 実際 、カルバートソンの言うように 、外的に保持されて いる特性を発揮して内的価値を生み出すためには 、何らか の条件が必要なケースがほとんどである 。 たとえば 、ある 野球投手がその投手としての能力を発揮できるのは、 (相性 のよさという点で)特定の球場で特定の捕手を相手に投げ るときのみであるとする 。 この条件下でこの投手は価値の ある投球をするだろうし 、 その価値は (この球場と投手以 外では実現できないという意味で)内的であるだろう 。し かし 、投手の能力が発揮されるためには外的な要素である 球場と捕手を必要とする 。 この点を踏まえて 、カルバート ソンは 、 道徳実験室として機能できる媒体はスポーツのみ に限らないため 、 スポーツは実験室としての価値は内的に は持たないとするのである (したがって 、カルバートソン はスポーツが実験室としての価値を外的に持つことまでは 否定しない) 。 マクフィはこの批判に対して、 「内的性質」と「性質を内 的に持つこと」を区別するような仕方で内的価値をさらに 区分けする定義は一律に適用できるものではないと主張す る 。 たとえば 、友情や慈愛といった人間が関わるような価 値については 「内的属性」と 「属性を内的に持つこと」を 区別する必要はないと応じるのである 。そうではなく 、 い ろいろな価値を比べたりすることの方が大事ではないかと 考え 、こういう区別はあくまでも状況に依存するのではな いかと反論する 。 かくして 、マクフィは内的価値を 「 外的 ではない価値」 という仕方で、 消 極的に定義するにとどまっ てしまうのである( McF ee [2009] ) 。 こうした反論は説得力を欠いている 。実際 、 マクフィ自 身も認めるように 、内的価値を 「外的ではない価値」と消 極的に定義するかぎりでは 、道徳実験室テーゼにとって望 ましい 「 外的でない価値」 (たとえば 、 自発的にスポーツ を行ったことで得られた道徳的価値)とそうではない 「外 的ではない価値」 (たとえば 、 他人から強制されてスポー ツをすることで結果的に得られた道徳的価値)を区別する ことができない 。 この区別が付けられないならば 、 道徳実 験室としての機能を他人に強制されるという望ましくない
事態を排除することができなくなる 。 さらに 、 マクフィ自 身がスポーツの定義付けはできないとする非本質主義者で あることを考慮しても 、スポーツの価値をめぐる議論の出 発点として内的価値と外的価値を分けるという 、 スポーツ の一般概念を対象とした議論を彼は行っているわけで 、ス ポーツの価値をさらに検討する試みまでも不当であるとい うことはできないだろう 。 内的 ・外的の区別を破棄するに 十分な論拠がなくてはならないが 、 道徳実験室テーゼの正 当性が示せない程度では十分な論拠であるとは言えないは ずである。 以上の議論からは二つの論点を引き出すことができる 。 一つ目は 、ある主体の行為が持つ価値が現実のものとなる ためには 、その主体が持つ性質や能力以外の要素や条件が 必要で 、 また 、そうした条件の役割が重要となる局面があ るということである 。 マクフィは 、人間的価値の場合には そうした要素は不要である 、つまり 、行為主体の自発的な 意思に基づく規範理由による行為はそれだけで内的価値を 持ちうると考えている節があるが 、 カルバートソンは 、行 為主体が置かれた環境や状況もまた価値の発現に際して は重要なこともあると考えるのである 。 二つ目は 、そもそ も道徳実験室としての機能という価値は誰にとっての価値 か 、 という点がマクフィの議論では必ずしも明確になって いないという点である 。確かにマクフィは観客の役割を重 要視するが 、 いかなる点で重要なのかまでは明確にしてい ない 。おそらく 、 スポーツ選手に規範理由を帰属させる役 割を担うものとして観客を位置付けているように思われる が( McF ee [2015 161-4] )、 この曖昧さは道徳実験室テーゼ に言及する論者にもそのまま受け継がれている。 た とえば、 ライオールは 、 スポーツをするにはルールの理解とそれを どう適用するかの判断が必要であることから 、 道徳的規則 の理解と適用の教育に貢献するという意味で道徳実験室 テーゼを理解している ( R yall [2016 169-70] ) 。 仮 に こ う し た理解が正当であるとしても 、このことは道徳実験室とし て機能することがスポーツの内的価値であることまでも示 しているとは言い難いだろう 。「道徳的規則の理解と適用」 はスポーツ以外の手段でも可能だからである。 そこで以下では 、 道徳実験室テーゼにおいてスポーツの 内的価値を発現させたうえで享受するのはオリンピックの 観客であるという立場を提示し、 その正当性を示すことで、 実験室テーゼの補完を試みたい。
40 シンポジウム提題者報告要旨
四.
スポーツの内的価値の
可能化事由としての観客のエトス
マクフィが観客の役割について論じているのは 、選手の 行為の理由を記述する役割を認めるという意味においてで あり 、あくまでもスポーツの道徳的価値は選手が主体とな る行為によって実現されるものであるという議論の構図は 変わらない 。 マクフィもカルバートソンも参照するダン シーによる内的価値の分析の要点の一つは 、内的性質とあ る性質が発現することを可能にする 「 可能化事由 ( enabler ) 」 とを区別することにある 。たとえば 、 あるジョークが面白 いのは 、 その対象が目の前にいるときだとする 。ジョーク の面白さは内的価値であるが 、 その価値の発現のためには ジョークの対象が目の前にいることが必要である 。 この意 味で 、ジョークは面白さという性質を内的に持つが 、その 性質が内的価値として機能するためには 、可能化事由が外 的に必要である。この区別を踏まえると、 ( 個別の種目では なく)スポーツの競技に帰属できる価値として 、道徳実験 室としての機能を位置付けることができる 。マクフィはス ポーツの本質を一般的な仕方で解明することはできないと する非本質主義の立場を採るため 、 スポーツの価値が発現 するための一般的な条件をより具体的に探求することはで きないとしているが 、 マクフィ自身が着目するオリンピッ クに限定して言えば 、 観客の存在をそうした可能化事由と して位置付ける事ができるように思われる。 観客の存在はスポーツの中と外をつなぐ結節点のような ものである 。 観客が存在しなくとも試合は成立する 。 その 意味で観客はスポーツの外にある 。 しかし 、 観客の応援行 為が選手を鼓舞して競技の展開に影響を与えるケースや 、 観客の一部が人種差別的内容を含む意思表明を行ったこと への制裁として無観客試合が行われた二〇一四年のいわゆ る 「 浦和レッズ差別横断幕事件」 のようなケースもある (大 峰 [2019 87-95] )。 この意味では観客の行為はスポーツの競 技に影響を与えることもあるため 、 観客はスポーツの中に ある 。確かに 、道徳実験室としてスポーツを鑑賞する態度 は 、 試合中の選手と自分を 「 仮想的に (ヴァーチャルに) 一体化させ」 (川谷 [2005 184] )て、 勝 利は(競技中では唯 一の)ポジティブな価値であるという価値観を共有するこ とで試合を鑑賞するという態度とは異なるものである 。 道徳実験室に参加する観客は特定のチームや選手の勝敗には 関心を持たないだろうし 、美しいプレイや卓越したプレイ を見ることにもさほど興味はないだろう 。 その代わり 、 正 義やフェアネスといった道徳的概念をどう適用させるか 、 言い換えると、 競 技者と自分を仮想的に一体化させた上で、 そういった状況で自分ならどう振る舞うかを 、道徳的に望 ましい振る舞いとはなにかという観点から考える 。 この意 味で 、道徳実験室としてスポーツを鑑賞する営みは 、通常 のスポーツ鑑賞とはかけ離れた営みでもある 。勝敗に重き を置く観客 、 選手が美しいパフォーマンスを見せてくれる という美的価値に重きを置く観客 、道徳的概念のあらわれ に重きを置く観客 、と 、スポーツ鑑賞にはさまざまなスタ イルがある 。 それぞれの関心に基づく観客が可能化事由と なって 、 スポーツの価値を発現していくが 、 道徳的価値に 関しては道徳実験室への参加者が発現の条件となるのであ る。 しかし 、観客によるスポーツの鑑賞の動機付け理由はさ まざまであっても 、道徳的概念の適用に関心を置く鑑賞 態度と競技の結果に関心を置く態度との間には密接なつ ながりがある 。 以下はこのことを 、「 道徳実験室としての スポーツの内部で練り上げられた道徳的概念をスポーツ外 にて適用することは可能か」という道徳的概念の転移可能 性( transferability )の観点から検討する 。スポーツにおい て起きている道徳的問題は 、 スポーツ外での道徳が通用し ない特殊性をスポーツが持つことに由来している (川谷 [2014] )。 また 、スポーツの競技においては 、選手は 「勝利 を目指して行為すること」がよいことであるというスポー ツ内道徳にコミットしている。したがって、 観客が、 スポー ツが持つ道徳実験室としての価値を発現させたうえで 、い わば 「実験成果」をスポーツ外に持ち帰ることができると 主張するためには、 ス ポーツ内道徳とスポーツ外道徳の 「 緊 張関係」について検討することが必要である。 スポーツの試合における選手の行為を道徳的に評価する 基準がスポーツ内道徳に由来するケースは少なくない 。た とえば 、 サッカーの試合で 、自分のチームの選手からパス を受け取った選手がボールを自チームのゴールに蹴り込む 行為は 、 勝利の追求というスポーツ内道徳に反した行為で あるゆえに 、 よい行為とは言えない 。他方で 、スポーツの ルールによって定められる禁止行為には 、 サッカーのオフ サイドのように 、 ゴール前での 「待ち伏せ」を認めてしま
42 シンポジウム提題者報告要旨 うと能力差が勝敗に反映されにくいために禁止されている ものや 、 相手選手に生命の危険を与えるという意味で禁止 されているものもある 。たとえば 、 ラグビーでタックルが 認められて顔面へのパンチが認められていないのは選手に 致命的な負傷を与える可能性が高いためである。 すなわち、 現実にスポーツのルールはスポーツ外の道徳を参照する仕 方で形成されているのである 。 このことから直ちにスポー ツ内道徳とスポーツ外道徳の連続性を導くことはできない としても 、少なくとも両者が乖離しているということは認 められないだろう。 また 、スポーツの鑑賞者がどういった関心でスポーツを 鑑賞するかという観点からも転移可能性は肯定できると思 われる 。 すでに述べたように 、 スポーツ鑑賞上の関心はさ まざまである 。しかし 、多くの鑑賞者は 、競技の結果がも たらされる過程をも楽しむはずである 。さらに 、そうした 過程を鑑賞者は道徳的観点から鑑賞していることも否定で きないだろう 。 実際 、ドーピングや八百長といった不正行 為によって勝利したチームや選手が 、いったんは賞賛され た後で不正が発覚した場合 、厳しく非難されることが多い のは 、スポーツの競技がスポーツ外的道徳の観点から捉え られている証拠でもある 。 こうした鑑賞姿勢がメジャーな ものとなっていることは 、 スポーツ内道徳とスポーツ外道 徳がまったくの別物ではなく 、連続していることを間接的 に示していると考えられる 。すなわち 、 スポーツのルール にはそれを基礎付けるより根底的なものがあり 、それはス ポーツ外で通用している道徳とつながっていると予想でき る (この段落と一つ前の段落は 、スポーツ内道徳とスポー ツ外道徳の関係についてのマンフォードの整理に依拠して いる( Mumfor d [2012 ch.9] ) ) 。 スポーツの形式的ルールを基礎付けるものを 「具体的な 状況下でゲームの形式的ルールをどのように適用すべき かを決定する慣習」 ( D’Agostino [1981 7] )である 「エトス ( ethos )」 して提起したのはダゴスティーノである 。 ここで はより広く 、ルールとして明示化されてはいないが 、選手 や指導者の間で共有されている慣習やスポーツの内在的目 的を指すものとして捉える (川谷 [2004 76] )。 たとえば、 サッ カーの試合中にある選手が怪我をした場合 、 相手チームの 選手はボールを意図的にフィールドの外に蹴り 、治療のた めの時間を稼ぎ 、 その後で怪我をした選手のチームは 、ス ローインをしてゲームを再開する際 、治療時間を与えても
らったお礼として相手チームに向けてボールをスローする という習慣がある 。 こうした行為は 、 スポーツにおいて望 ましいとされるたぐいの行為であり 、「 マナー 」 と捉える こともできるだろう 。 スポーツにおけるエトスには 、 勝敗 の決定というスポーツ内在的目的を達成するために選手が 守るべき暗黙の了解が含まれているのである 。また 、 エト スは同じ試合でプレイする選手全員によって共有されてい るとは限らない 。 たとえば 、チームの勝敗よりも個人の成 績を優先してプレイする選手は 、「 勝利の追求」を求めて プレイする選手とは異なるエトスにしたがっているものと みなすことができる。 さて 、選手や審判だけではなく 、観客にもエトスがある のではないだろうか 。確かに 、観客による鑑賞にはスポー ツのルールに相当するものはない 。 しかし 、 特定の選手の 応援にはこうした掛け声を出したほうがよい 、 といった ファンの間で共有されている緩やかな慣習は存在する 。 ま た 、 スポーツの勝敗のみが観客の主要な関心ではないこと や、 不正行為を行った選手がファンから非難されることや、 スポーツ選手に競技外でも道徳的な言動を行うことを求め るファンが少なくないことは 、 スポーツの観客の間に鑑賞 習慣としてのエトスが存在することを示しているように思 われる 。 スポーツ倫理学において観客研究は一つの主題で あるが ( Mumfor d [2012] や Jones [2015] など) 、 スポーツ の道徳的価値の発現をもたらす可能化事由として 、観客の エトスを位置付けることができるように思われる 。 すなわ ち 、 スポーツに道徳的価値があるとするならば 、 それは 、 選手が動機付け理由として規範理由を自発的に持ち 、 フェ アプレイを行うことで 、多くの観客にとっての徳のロール モデルとして機能することによってではなく ( cf. Mumfor d [2012 99-109] )、スポーツを鑑賞する観客が、個々の選手に 注目だけではなく 、道徳的概念が問われる状況を通して 、 道徳的振る舞いを身に付けることによる、 と 捉えたい。 個 々 の選手に徳のロールモデルとしての役割を求めるのではな く 、 個々の行為に着目し 、そこから道徳について学ぶ観客 の鑑賞態度こそがエトスとしてスポーツの道徳的価値の可 能化事由となるのである (5) 。
五.
結論
-道徳競技場から道徳実験室へ
以上の検討を踏まえたうえで 、 オリンピックに特化した44 シンポジウム提題者報告要旨 実験室テーゼを以下に提示する。 【オリンピック版道徳実験室テーゼ】もし 、( 一)オリ ンピックが内的価値を持ち、 ( 二)そうした価値が道徳 に関わるものであり、 ( 三)道徳判断は本質的に個別的 なものであり 、(四)オリンピックは道徳に関する個 別事例を提示することができ 、( 五)そうした個別事 例は 「フェアプレイ」 「公平プレイ」といった道徳的 メタファーを具現化したものであり 、( 六)特定の鑑 賞のエトスを身に付けた観客が鑑賞するならば 、 オリ ンピックは道徳実験室として機能することができる。 クーベルタンは 、 スポーツという競争を通じて 、若者が 身体的にも精神的にも成長できることを期待して 、「道徳 競技場 ( moral gymnasium )」 としてスポーツを位置付けた ( 阿 部 [2009 229] )。 しかし、 ス ポーツに適度に取り組むことに よって身体的に成長できることはあっても 、 クーベルタン の意図するように道徳的に 「立派な人間」になることがで きるとは限らない 。むしろ 、スポーツに道徳的価値がある とするならば 、その価値は選手のみによってではなく 、 道 徳的ジレンマが起きている状況を観察する鑑賞者の鑑賞態 度によってこそ発現されるものだろう 。 オリンピックはさ まざまなメディアで報道され 、日常的にはスポーツに興味 を持たない人たちでも熱心に鑑賞する世界大会でもある 。 この意味でオリンピックとは 、他の世界大会とは異なる仕 方で人々の関心を呼び起こすイベントである 。仮にオリン ピックの内的価値を発揮させることでオリンピズムの思想 を(部分的にも)実現させることを目指すならば、 観客が、 過度に個人の選手に着目するのではなく 、 あくまでも行為 や判断に焦点を絞って 「 自分ならどうするか」と熟考する 機会を設けることがオリンピックにとっては重要だろう (6) 。 こうした意味で 、 オリンピズムは 「生き方の哲学」の実践 となる可能性を持っていると考えられる。 註 ︵1 ︶ オリンピック憲章は国際オリンピック委員会の総会にお いて定期的に改定されている。最新版は二〇一九年度版で ある。憲章の原文と日本語訳は日本オリンピック委員会の ウェブサイトで閲覧可能 。 https://www .joc.or .jp/olympism/ char ter/ (最終アクセス二〇二〇年一月八日)
︵2 ︶ スポーツの機能を価値や道徳に関する「実験室」という 語で表現する着想はパリーに遡る( Pa rr y [1986] ) 。 ︵3 ︶ ︵二︶ に関してマクフィは 「 個人間に帰属される価値は おおむね道徳的である」と指摘するにとどまっていたが ( McF ee [2004 138] )、後に 、スポーツの内的価値は規範 理由に基づくとき道徳的価値になるとする ( McF ee [2015 146-7] )。 しかし 、 マクフィが提示しているのは 「 どうい う条件でスポーツの内的価値が道徳的であるか」 で あって、 実際にその条件が満たされるかどうかとは区別しなくては ならない。マクフィ自身は道徳実験室としての機能が内的 かつ道徳的価値の具体例とであることを指摘することで (二)は正当化されるとみなしていると思われるが 、当然 ながらこれは論点先取である。 したがって、 道徳実験室テー ゼを保持するためには 、論点先取に陥らない仕方で ( 二) を正当化するか、 テーゼの定式化自体を修正するしかない。 (三)は道徳判断をめぐる個別主義であり 、それ自体とし てはスポーツに関わるものではない 。(四)と ( 五)につ いては該当する具体例を挙げることができる。 ︵4 ︶ スポーツを行う理由は 、「 特定の種目に参加する理由」 や「競技中に特定の動作をする理由」など細分化すること ができる 。マクフィはこうした区別を考慮していないが 、 議論としては前者を念頭においていると考えてよいと思わ れる。 ︵5 ︶ こうしたエトスを習得させる試みはすでに実行されてい る。二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピック競技大 会組織委員会は、オリンピック教育として、オリンピック を通して多様性や国際性といったことがらを学ぶプログラ ムを開発している。そのうち、オリンピックの教育的価値 の学習方法としての教材で、国際オリンピック委員会の公 認を受けている 「 オリンピック価値教育の基礎 ( O VEP ) 」 は 、「フェア ・プレイの規則に従って行動する」や 「 難し い選択をする」といった単元を含んでいる 。 教材は以下 で 入 手 可 能 。 https://education.tok yo2020.or g/jp/teach/texts/ ovep/ (最終アクセス二〇二〇年一月八日) ︵6 ︶ この意味で 、 マンフォードが道徳実験室を思考実験の 入門的位置付けとして捉えているのは適切ではないだろう ( Mumfor d [2012 96] ) 。 文献 L eon Culber
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