最終講義
小児科医の気くばり
〔東女医大誌 第60巻 第2号頁175∼!80平成2年2月〕 東京女子医科大学 第二病院小児科 クサ カワ草 川
崎洛
(受付 平成元年10月20日) 最初に,この機会を与えていただきました吉岡 理事長あるいは吉岡学長とその他教授会の先生 方,さらには,また私をここまで育てていただき ました東京女子医大,大学そのものに心から御礼 を申し上げます. 私の歩んで来た40年中医師の歴史でございます が,小児科医としまして,いろいろ申し上げたい ことがございます.教室の方には回診のたび,そ の他折にふれて話しましたし,学生さんには,2 週間のうち1日あるいは2日ではございますが, なるべくその機会を通じて私の考えを述べたつも りでございまずけれども,それのおさらいと申し ますか,私が小児科医として気がつきましたこと, こんなことがあるんだぞということを知っておい ていただきたいと思いましたこと,大変おこがま しいと存じますが,その辺を話させていただいて, その責務を果たさせていただきたいと思います. その前に,私がこういうふうな:ことを考えまし た背景,私の歩んでまいりました道を簡単にご紹 介致しまして,それによって後の話に移りたいと 存じます. 私の履歴を申し上げます.昭和24年の12月に東 大の医局に入局致しまして,そして28年の12月ま で丸4年間,それから東京逓信病院に移りまして, さらに6年間おりましたが,河田町に参りました のが昭和35年でございました.42年号で7年間, この河田町で過ごし,さらに尾久に移りまして22 年ということでございます. 私が東大の小児科に入って,小児科医の第一歩 を踏み出しましたころは,まず一番先に心に浮か びますのは食べ物がなかったということでござい ます.1週の内4,5日を夜も大学で過ごしまし た.疫痢を診るためには泊まらないと診ることが できませんし,どっちみち独り者ですから家へ 帰っても仕方がないので,大学でほとんど泊まっ ておりました.軍足にお米を入れて大学へ運んで, そして小さなお鍋でご飯を炊いて,卵一個買って くれば昼ご飯としては御馳走だった時代でござい ました. 何しろその頃のことでございますから,教授室 に行きましても,椅子に座るなどということはと ても思いもよりません.先生の前に直立不動をし ておりまして,何を言われるのも立ったまま聞い ておったものでございます.今の学生さん方なん かは,教授室に入ってきて,でんと座っているの ですが,これは今は当たり前ですけれども,その ころばそういうことは全くできない時代でござい ました. とにかく何も考える暇もなくて,毎日毎日検査 と患者さんの診察に追われていました.それから 入局して2ヵ月もしないうちに,君は乳糖の造血 作用をやれ,ついてはアイソトープが日本に入る から,それについて勉強しろ,科研で講習会があ るからアイソトープの講習会に行ってこい.新人 の本当に入ったぽかりの者がそういう命令を受け まして,アイソトープに手をつけたのも懐しい思 い出でございました. 動物実験は貧血をつくります.しかも栄養貧血Sanji KUSAKAWA〔Department of Pediatrics, Tokyo Women’s Medical College Daini Hospital〕:
Consideration to the patients which are necessary for the pediatrician
ですから,ガラス張りの中にネズミを飼いました. そのころ私の指導をしてもらった中山教授,現在 は東邦大学の名誉教授ですが,その先生から普通 のネズミ箱で飼ったのではだめなんだ,鉄が入る からだめだからガラス張りで飼えということで, ガラス張りの箱を作りまして,三井小岩井牧場, それは高井戸にありましたが,そこから蒸留水で 洗った瓶に直接絞った牛乳を運んでもらいまし て,そして,鉄面之性貧血をつくった覚えがござ います,そんなことをして,実験は真夜中にネズ ミ小屋に行ってネズミを連れてきて,しっぽを 切って血算をやったのが東大時代でございまし た. カテーテルをやり始めましたのもその頃でござ いまして,当時,内科で心臓カテーテルを始めら れました.私が詫摩教授からどうしてもやれと. 徳島大学をやめられた宮尾教授と一緒に心臓カ テーテルを始めたのが,日本で子供では群馬大学 が何例かおやりになった,そのすぐ後でございま した. 東大時代,詫摩先生からは,ノイエスを,何か 新しいことはないのか,教科書に書いてあるだけ のことではしょうがないじゃないか,治療でも何 でも,とにかく何か新しいことを考えろと,常に 言われておりました.これは強烈な印象として 残っています. 東京逓信病院に参りまして,一転して専ら臨床 の勉強をさせていただきました.その当時は赤痢 の院内流行がありまして,小児科の赤ちゃんから 発生したものでした.当時は女子医大にも赤痢の 院内流行があって,磯田先生が大変苦労されたこ ともあとで漏れ伺いました.狸紅熱は無数にあり まして,そしてチフスもございました.何しろ幸 いだったのはリューマチ熱をたくさん見ることが できました.新しいところがら古い組織まで,し かも心臓も,いろんなところの典型的な組織が 残っておるリューマチ熱があり,当時逓信病院に おられ,その後本学の病理の教授をされた松本先 生がその組織プレパラートを非常に大事にされ ておりましたけれども,その症例も見ることがで きたのは東京逓信時代でございました. あと結核もたくさん見ました.そして臨床では 私は育児指導というものを始めました.これは東 大時代に先輩の巷野先生から,育児指導というの はこういうふうにするんだと言って,手をとって 教えていただいたおかげでできたのです.今まで 東京逓信病院でされておりませんでした,それを 始めました.婦人科の安井先生から,この患者を 卜うと言っていただいて,そのおかげで生れる前 から参りまして,そして分娩室で赤ちゃんを分娩 したところがら見せていただきました.小児科医 というのは分娩のときから見なけれぽ,その子供 の本当のところはおからないと思います.今日, 新生児を専門にされている方が,こちらの総合母 子センターでも分娩から立ち会っておられるよう ですけれども,リスク・デリバリーの場合は当然 のことであると思います. それから,いろんな家庭があります.私は,で きるだけ往診して,そのお宅を見て,いろんな生 活ぶりを見て,こういうふうな食べ物にしたらい いでしょうとか,こういうふうな育児が必要だろ うと,お風呂のことだとか,いろんなこともよく 往診して指導させていただきました. アメリカのハインッなどの,ベビーフードが輸 入されてまいりましたのが昭和30年過ぎですが, ベビーフードで離乳食をやったらどういうことに なるのかなど,今は学研の社長になっていると思 う方ですが,その当時赤ちゃんでしたから今三十 幾つですが,その坊やを育てますのにベビーフー ドで育てました.私は初めての経験で,ベビーフー ドというのはどういうふうに使ったらよいのかと いうことも勉強させて貰いました.我々庶民は高 くてとても使えませんでしたけれども,そういう ご家庭でしたので,ベビーフードを使いながら離 乳食というもののやり方を覚えました.大変いい 経験をさせていただいたことも思い出します. そのころ東京逓信にはインターンが毎年何人か 参りました.時間があったものですから,インター ンを相手に心電図を見せては,ああでもない,こ うでもない,あるいは小児科の患者さんのところ へ行って,インターン相手に所見をいろいろと 言ったり,まだ若造で,卒業後6,7年くらいの
ころだったんですが,インターンの人の世話を一 生懸命焼きました.そのころインターンをした方 で,今,教授になっている方が大分ありまして, 千葉の整形外科の亡くなられた井上教授もその中 の一人でした.現在,慈恵の前川教授,北療育園 の廿楽先生とか,そのころのインターンの方で小 児科の先生がたくさん出てきましたが,多少お役 に立ったかなと思って自負しております. そういうのが東京逓信時代でございましたが, 河田町に参りました.河田町に参りまして,真っ 先に経験したのが女医さんとの出会いでございま す.私が高等学校時代,一高にただ1人の女性は 看護婦さんでしたが,そのあだながダスでござい ました.ダスと言ってもおわかりになるかどうか, ドイツ語のディは女性で,デルが男性で,ダスは 中性でございます.あだなはダスと言っておりま したが,東大時代にもたくさんの女医さんがおい でになりました.こんなことを言うと大変失礼で すけれども,私は女子医大へ来て初めてディ・エ ルッティンにお目にかかったような気が致しまし た.磯田先生が時々咳払いをなさいますが,それ は部屋へ入って来る前に,女性ぽかりですから, これから入るぞというのを教えるために,まず咳 払いをしてからお部屋に入られたという話も聞い ております.とにかく女性に囲まれて,ああ,こ んなものかなと,どぎまぎした覚えが,つい先日 のように思いますが,29年前のことでございまし た. それから思い出としましてはストライキとか, あるいはドイツへ参りましたこととか,いろいろ ございますが,河田町の歴史は,林先生も48年, 私の倍ぐらい女子医大においでになりますので, またお話があると思いますから省略させていただ きますが,ここで思い出しますのば,私は小児科 におりましたけれども,半分か3分の1は心地の 医局で過ごしたことです.夜は新井教授ですとか, あるいは服部先生ですとか坪井先生ですとか,い ろんな先生方と一緒に寿司を食い,だべっており ました.そのときに心筋をかじってこれないかな と.耳鼻科にしゃもじみたいなあれがあるだろう, ああいうのをカテーテルの先につけたら心筋をか 一177 じってこれないかなという話が出ました.亡くな られましたが,それが今野教授のバイオトームに なって,これはまた世界の一つの模範的な仕事に なりました.東大時代から何か新しいことはない か,何かないだろうかというふうな考え方が,こ んな時にふと生かされて花が咲いたのではないか と思います. OD(オルトスタティック・ディスレギュレー ション),この研究は逓信病院におりましたときに 始まったことです.河田町に参りまして,これか ら後で話されます柴田教授と私が同級でありまし たこともあって,精神科に参りますと千谷先生か らいろんな話を伺いました.ODの話をしていま すと,君,これは朝が悪いのなら何かリズムの問 題があるぞ,デプレッションと関係があるのでは ないかというふうなサゼスチョンをいただきまし た.それまでリズムということも全然存じません でしたが,それからいろんな文献を集め,このOD というものについては,現在の丸田さん,当時白 井先生が仕事をやってくれたのでございますが, その当時,リズムの異常があるということを一応 見つけました.それ以来温めておったのが,最近 やっと少しずつ周りの傍証もできまして,いっか この女子医大学会でしゃべらせていただいた結果 になっております. それから尾久に移りました.尾久に移りまして からは,10こ組歩み,20年の歩みという本もござ いまして,今さら余り申し上げることもございま せんが,当時は尾久というところも本当にまだま. だ田舎でございました.そして患者さんは前垂れ をかけて,げた履きで,西尾久,東尾久という住 所ばかりでした.昼ご飯は外来で,ご飯を炊きな がら,炊き終わった頃に外来が終わる.そんな時 代でしたが,お陰様で村田教授以下たくさんの方 が入っていただきまして,.私もどうやら一人前の 小児科の医者になって,そして仕事らしい仕事も できましたおかげで,先ほどご紹介がありました 小児科学会の会長とか,その他の役職につかせて いただいたと思っております. こういう背景で私が小児科の医者の道を歩んで まいりましたが,その中で気がついたこと,これ
は教科書に書いでございません.ここにも小児科 の大先輩がおいでになりまして,こんなことを申 し上げるのは大変失礼でございますが,幸い学生 さんも来てくれておりますし,あるいは教室の若 い方に,こういうこともあるんだということを少 しは覚えていただきたいと思って,あえて話させ ていただきます. まず最初に,子供を診ますときに,子供には未 来,その先がある.今,赤ちゃんですと,それが 大人になったときに一体何センチの身長になるの か,体重がどうなるのか,これはまた村田先生あ るいは多田羅裕子さんの仕事でございまずけれど も,まず大きさだけでもずっと成長していきます. 子供はどんどん変わっていきます,現在,子供の 診察をしたときに,その子が一体どうなるのだろ うか.これは急性の病気でも,そのときの病気の 扱い方がその子供の心に残り,あるいは母親の心 に残りますと,またそれがその先に影響をいたし ます.子供の場合は常にその先を見ていなけれぽ なりません. こういうことを申し上げると大変失礼ですが, 老人病なんかの場合には先は決まっているわけで す.もう衰えだけしかないわけですが,子供の場 合には,これからどんどん成長,発育していく. そういうことを常に考えて,そして性格,キャラ クターの面でも,キャラクターをつくるのは生活 習慣,そういったことにも関係はありますし,育 て方に関係もございますし,いろんな意味で母親 の指導,先を考えて指導していかなけれぽなりま せん.お陰様で私が赤ちゃんの時に診たのが学校 を卒業し,結婚をして,子供ができて,また来て くれています.このごろ診る患者さんは,そうい う患者さんぽかりがふえてまいりました.こうい うのは小児科医としては冥利に尽きることでござ いますが,孫子の代まで診られる小児科医になっ てほしいと思うわけです. 子供を診察しますときに内科と違いまして順序 はどうでも構いません.泣いて入って来ますとぎ に泣き声も参考になりましょうし,あるいは顔色 その他は当然のことでございます.いきなり泣い て,座って大口をあけていれば,そのときにのど をのぞけば,これば舌圧子も何も入れなくてもの どは見えます.こういうふうなことは当たり前の 診断学でございまずけれども,子供と仲良くなら なけれぽ診察はできません.子供と仲良くなるた めには,視線の高さとしては低い方がいいわけで す.私は背が低いから子供が大変仲良くなってく れるのかもしれません. 子供の世界を知らないと子供はなついてきてく れません.歌を覚えるのも一つだと思います.私 は,よく泣いている子供に童謡を歌い始めますと, 途端に泣きやんで,そして歌を歌いながら診察す ることもありますし,このごろは聴診器に赤ちゃ んの顔をぶら下げております.そうしますと盛ん 坊は喜んで,その顔をいじりながら診察を受けて くれます.そのためには子供の歌も知らなければ なりません.そういう暇はなかなかないかもしれ ませんけれども,テレビの“こんなこいるかな?” とか,やだもんシリーズとか,そうかと思えばド ラえもんだとか,パーマンだとか,オバQだとか いうふうな漫画のことも少しは知っていなきゃい けませんし,お入形を持っていれば,聖闘士星矢 だとか,そういう子供の話題を知っている必要は あります.これもやはり三文の得だと思います. 私ぱ医局の人にいつも言うんですが,デパート に買い物に行ったら,必ず育児用品のところをの ぞいて来なさいよと.育児用品はどんなものを 売っているか,どんなおもちゃがあるのか,子供 の世界というものを必ず知っていなけれぽ子供の 指導はできないわけです. 次に,医者をやっておりますと,つい怒りたく なることは幾らでもあります.自分の言っている 薬を途中で患者は勝手にやめたり,来いという日 に来なかったり,昼間ちっとも来ないで夜だけ来 る.南島に対して怒りたくなって,のどまで出る ことは幾らでもあります.しかし,医師である以 上は感情を出してはならないと私は思っていま す.怒るのはいつでも結構ですけれども,顔まで 怒っちゃいけないんだ,笑いながら物を言え,そ のかわり皮肉を言っても結構です.幾ら強い言葉 を言っても,顔で笑っていれば患者さんはそれほ どこたえていません.
それと同時に,論理的に怒るのもいいんですが, どこか1ヵ所逃げ道を作っておいてやりませんと 患者さんは逃げ場がなくなります.ぎゅうぎゅう やっつけて,どこか出どころがなけれぽ患者さん としてはまいってしまうわけです.それでは困る ので,例えば薬を飲まないなんていう患老さんに 怒っておいて,最後に「でも,やっぱり薬という のは嫌な味だもんな」だとか「薬というのは忘れ るよね」とか一言ちょっと言ってやれぽ,そうい う言葉が患者さんの逃げ道になる. あるいはおむつのことなんかでも,例えば3歳 の子供が来て「まだおむつをしているのか,何と いう育て方をしているんだ」と言いたくなります. ですけれども,正常であれぽ,また普通の家庭で あれぽ「うちの孫も実は2歳10ヵ月でとれたのよ」 と言ってやりますと一これはお孫さんがいない と,そういうことを言えないかもしれませんが, 「うちの子供も遅かったのよ」でもいいと思いま す.何かそういった逃げ道,そういうところをつ くってやって初めて患者さんとの結び付きができ てくるのだと私は思っております. さらに,おばあちゃんがついて来た時というの を取り上げたいと思います.子供の診察には必ず お父さん,お母さん,おじいちゃん,おばあちゃ ん,あるいぱ姉さんがあったり,いろんな人が付 いて来ます.一体どんな人が付いて来ているのか ということをまず見極めなけれぽ物が言えませ ん.ご主人の方のおばあちゃんが来られたときに, いろんなしつけだとか,育児のことですとか,うっ かり母親を叱りますと,それこそ横でおばあちゃ んが鼻を膨らませて得意のように「ほれ,見てみ なさい,私の言うとおりでしょう」と.これは嫁 姑問題をたちまち起こしてしまう.そのおばあ ちゃんが母親のお母さんでしたら,少々のことを 言ってもすぐ和解ができるわけです.だから,どっ ちのおばあちゃんかなということも考えなければ ならないと思います. このごろは年輩の方のお子様がありまして,高 齢出産なんでしょうか,うっかりおばあちゃんと いう言葉を使って叱られることがありますが,ど うかなと思ったときは知らんぷりして「お父さん 一179 幾つ,お母さん幾つ」と年を聞くのは当然ですか ら,「四十幾つです」と言われると,ああ,これは お母さんか,おばあちゃんじゃないんだなと思う こともあるわけです.その辺のところは,いろん なちょっとしたことからわかると思います. 後で問診ということも言うんですが,とにかく 患者さんといろんな取っかかりをつくる.私は, 関西弁をしゃべる人がいたら,すぐこちらも大阪 弁で返します.そうすると,患者さんはほっとし たような顔をして,向こうも平気で大阪弁でしゃ べってくれます.うちに入院した患者さんが福島 の奥の方で,そのおばあちゃんが付いていました が,どうも元気がない.ところが,婦長が幸い山 形でして,ずうずう弁でそのおばあちゃんと話し 初めたところが,途端にそのおばあちゃんが元気 になった.そして,おばあちゃんが元気になると 子供も元気になります.そういった言葉使いとい うのも非常に大切な問題で,医者はある程度イン テリゲンチャなんですから,できるならぽその土 地その土地の,そしてその患者さんに合わせた言 葉を使う.敬語の問題もそうだと思います.敬語 を使う患者さんには敬語を使わなきゃいけません し,言葉遣いというのが非常に大切だと思ってお ります. 手術を受ける患者さん,これは皆さん余り気が ついていらっしゃらないと思いますので,あえて こんなことを掲げてみました.と申しますのは, 外科の先生は手術に夢中でございますから,当然 手術中に外へ出てくるなんてことはできません. 私共は外科にお送りして手術を見に行くわけで す.そうしますと,途中で出ることは幾らでもで ぎます.患者さんを手術室に送り込んだ家族とい うものは,今どんなことをやっているのだろうか という心配は大変なものです.私は途中で抜け出 しまして,今こういうところまで行っているよ, ここまで行って大丈夫ですよ.そうすると,その 患者さんの家族は本当にほっとした顔をします. うまくいっているときは,それはいいんです.と ころが,まずいときは本当に困ります.手術です からうまくいかない場合もあり,非常に困ります. そういう時に術者と,どうしょう,先生,まあ適
当に言っておいて下さいよということで,予告を することもあります.その辺,術者とちゃんとよ く通じていないとまずいことにな:りまずけれど も.これは小児科の方がちょっとした心配りをす れば,患者さんはどれだけ喜ぶか.手術が済んだ 後でも,外科へ送り込んだ以上は,やつぽりこち らから見に行くのが当然のことだと思います. 最後に問診というのを挙げました.実は,この 問診学という言葉は,学長先生の弟様の順天堂の 吉岡昭正教授,もうお亡くなりになりましたが, その先生がお使いになっていた言葉でございま す.問診学という本を出される予定だったと伺っ ておりまずけれども.現在,医学教育学会では面 接診断ということを言っているわけですが,これ は学生さんにしょっちゅう言っていますので,こ のごろの学生さんは知ってくれていると思います けれども,診断学でもって問診ということがある から,聞けばいいんだ,問う診察だということで は決してないと思うんですね.患者さんはいろん な心配を持って来ているわけです.まず最初に命 の心配もあるでしょう.そして,どのくらいかか るのか,後遺症はどうなのだろう,その前に一体 どんな検査をするのだろうか.そして,ある程度 落ち着きFますと,どのくらい日数がかかって,ど のくらいお金がかかるのだろうか.ヒストリーを とって,いろんな患者さんから話を聞いた以上は, 診察をすれぽ,今お聞きしたところではこういう ことが考えられます,こんな病気で,こんな検査 をしなきゃいけないでしょう,このぐらい日数は かかるでしょう,費用もこの位かかるでしょうと いうことを話してあげなけれぽなりません. こういうことを申し上げてはなんですけれど も,患者さんが病院に一体どのくらい払って帰る のか,毎日の診察代が一体どのくらいなのか,入 院料がどのくらいなのか,ちゃんと知っていらっ しゃるお医者さんがどの位あるでしょうか.大学 の先生方は割にそういうところは無関心だと思い ます.患者さんはお金を払うおけですから,うち の医局の先生方なんかは,この検査は高いからや めましたと,患者さんのことをよく思ってくれて いることもたくさんありまずけれども,そんな費 用の点までも考える.診察した以上は,そういう ところまでも言わなきゃいけないんだというふう に私は思うわけです. まだまだ申し上げたいこともたくさんあるので すが,大変おこがましいと思いましたが,この月 末に1冊の本に致しました.同じ「小児科医の気 くばり」という題の本でございます.もし読んで やろうとお思いになることがありましたら小児科 の医局にご連絡いただければ,少し刷り増したの で余分があると思いますので,お申し越し下され ば差し上げたいと思います.大変勝手なことを述 べさせていただきました.これも女子医大の皆様 方に大変温かく見守っていただいて,そして励ま していただいて今日を迎えることがでぎたお陰だ と思います.本当にありがとうございました.(平 成元年3月11日) 一180一