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10世紀紅河デルタ開拓試論 [The Red River Delta in the Tenth Century]

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東 南 7ジ7研究 17巻 4号 1980年 3月

桜 井 由 易弓 雄 *

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YumioSAKURAI*

ThisessayisaboutthestateorriceagrlCulture in theRed RiverDeltain thetenthcentury,and isthesecond partor thehistoricalstudyor the recla-ation of thatdelta from thefirstcentury to thenineteenth century,which aimsal:under -standing thecharacteristicsofVietnamesesoci o-economical history in comparison with other SoutheastAsian deltas.

In Part1,the identification of Dtrbrlg I.am,

t

hehomebaseofNg6 QJly昌n,thefirstfounder of aVietnam indepeIldentof China,and Tien Ih andVa Ninh,thedomainsoftheSt'rquan (TwelveLords),with presentplacenames,itis shown thattheeconomicpowerorthoselordsin the tenth century wasbased on rice cultivation onterraceandfoothillareas,which canbetraced back to thefirstreclamation periodofthedelta,

conjectured tobein theDらngSun age・ In Part2,by analysisof thesituation of Ca Phap,the home villageofI弓,C6ng Uan,the 丘rstemperorof I弓,Dynasty,Xieu I,oai,Phong

Chau,andNguy昌nCia,domainsoftheS丘quan,

M 早tI.iさn,and PhtlDai,fiefsofthesonsofI.a Hoan,thefirstemperoroftheEarlyIJeDynasty, Iconclude thattheirinnuence wasfouIlded on the natural leveesalor唱 bigrivers such as the Red River,CanaldesRapides and Canaldes Bambous,which would make them almost the * 京都大学 東南 ア ジア研究 セ ンター ・,The Center rorSoutheastAsiallStudies,Kyoto UI一iverslty

samein characteras thelands and power base ofnative powers,thatisdating from the first reclamation period.

In PaTt3,however,Hang Chau,the home village of the Khdc family, the first native governorsof GiaoChau (North Vietnam)when independentofChina,D6DらngGiang,adomain oftheSllquan,andI〕争iD昌,home villageof

Da Thich,an assassin of Dinh BS Ⅰ,inh,one f

inds thatanew reclamation type appeared on thesmallnaturallevees locatedln the western

floodarea(easierdeHadong)andtheupperdelta with theadoption Offifth-monthricecultivation in these lower-1ying丘elds・

In Part4, in other cases such as Chtrαng DuWng,afiefofDuαng Tham Kha,ausurper ofthe thronefrom theNga family,and Bang Ch昌u,adomainoftheSirquan,a tendencyto penetratesomesandbankareasto plantmulberry or for use as smallnavlgation stationson the Red Riverisshown.

In Part5,IpointOutthatin places at the edgeor the Red RiverDelta,such asHoaI.1J,

thecapitaloftheDinhandI.adynasties,B6 Hai Khau,adomainoftheSirquan,TraHIm ng,a baseof Ph争m Linh C6ng,apatron of ason of

Ng6 quyさn,and H8iH6,a domain of theSir

Ouall,a new typeOr politicalpower had risen during the tenth century・ Theseareaswerenot suitableforricecultivationwithoutdikes. So it

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東南 アジア研究 17巻4号

isverydifhculttoexplaintheexistenceofpowers in theseareasbyagrlCulturalfactorsalone・ One can supposethatmoreimportantto these lords wouldbecontrolornavlgationontheRed River,

Sang Day River and the ThaiBinh-Canaldes Rapidesriversystem・

In conclusion,in the tenth century,the reclamation or the Red River Delta was an extension of a traditional agronomic method introducedintheDらngSo・nage,especiallyinthe TrungDuarea (themiddlepartortheRd River Valley),and somecommercialfactorswereintr o-duced ontothisbase. However,thisconclusion

は じ 序 論 にお いて坪 内良博氏 に よ って述 べ られ るよ うに, ほ とん どの東 南 ア ジア諸 デル タの 本格 的開拓 は最 近世 に属 す る。 しか るに この 中 に あ って, なぜ 紅 河 デル タの みが,通説 に したが えば紀元前後 に遡 る とい う異 常 に古 い 開拓史 を有 す るので あ ろ うか。 それが果 た し て事実 であ るか, また事実 で あれ ば紅 河 デル タのいかな る要 素 が それ を可 能 に したのか。 その分析 は東南 ア ジア諸 国家 にお け るヴ ェ ト ナ ム国家 の特殊性 と関連 し, かつ ヴ ェ トナ ム 社 会 それ 自身 の発 展 を も規定 す る きわ めて重 要 な課題 で あ ろ う。 筆者 は前論 [桜井

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9]

において,漢代 請.県 の位置 を比定 し, その多 くが段丘下位 ・ 残丘周辺 ・沿 河微 高地上 に位 置 す ることを指 摘 し,通説 に反 して,紅 河 デル タの開拓 もそ の初期 にお いては他 の諸 デル タ と同 じ く,農 学 的方法 の適用 に よ る きわ めて 自然 的な開拓 であ ることを示 唆 した。 本論 で は こ うした農学 的適用 に よ るデル タ 開拓 がいか な る時代 まで行 われ たのか, また 前 論執筆後 ,高 谷好一氏 よ り問題提起 のな さ れ た下部 デル タ ・低 湿地 の ご とき農 業不 適地 に も生 ず る諸小権力 をいか に考 えるか, の二 つ の問題 点 を理解 すべ く,

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0世紀 の独立期 の 598

suggests that reclamation methods would be limitd by thegeographicalsihation・So,anew engineering method had to be introduced to reclaim sudlunfavorable areas asbackswamps and tidalcreeks・ Thishappened from thetenth century with the power of new dynasties to mobilizemanpower and the introduction ofthe dikeconstructionmethod newlydeveloped in the Yangtze RiverDelta during the SungDynasty・ Thiscan beregarded asthe丘rstapplication or englneerlng methods to reconstruct the delta geography forrice cultivation・ ThistoplC Will bediscussed in thethird reportofthisseries・

め に 紅 河 デル タを選 ん で,諸史料 を分析 しよ うと す る。 磨 天祐

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)

ヴ ェ トナ ム の 土 豪曲承 裕 (Khdc Thd'aD甘) が 膚末 の 混乱 に 乗 じ て,交

を支 配 す る静 海節度使 に任 じ られ て か ら,

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01

0年 の李氏 の建 国 にいた る過程 につ いては, す でに 山本達 郎氏 [山本

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], 杉本直 治都民 [杉本

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の古典 的 な研究 が あ り, 中国 との関係史 につい ては河原正 博 氏 [河原

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8;1

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9;1

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6

9;1

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],片倉 穣氏 [片倉

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]

に研 究 が あ る。 最近 では Keith Taylor氏 に 唐未 よ り李朝 初期 にか け ての ヴェ トナ ム国民意識 の形成 をめ ぐる研究 が あ る。 [Taylor

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6

]

その 政治過程 につ い ては, もはや筆者 がつ け加 え る何 もの もな

い。

しか しなが ら, これ らの論考 のいずれ もが 中国史料 の限界 か ら,王朝 創建 時の権力者 の 交替, もし くは中国 との外 交 関係 に論述 の主 眼 が置 かれ,本論 で問題 とす るよ うな, ヴ ェ トナ ム民族 の紅 河 デル タ定住 開拓 に関す る研 究 は皆無 とい える。 したが って ここで は政治 的動 向 は これ ら先学 の諸論文 に委 ね, もっぱ ら史料 中 に散 見 す る歴史地名 を種 々の考 証 に よ って

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万分の 1地形図 にお とし, つ いで こ

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桜井 :10世紀紅河 デ/レグ開拓試論 れ を京 大 東 南 ア ジア研 究 セ ン タ ー海 田能 宏 助 教 授 (港 概 排 水 学 ) 貸 与 の1973年 7月 お よ び 同年12月 の衛 星写 真 (Landsat) お よび同 セ ン ター高 谷好 一 教 授 (池 形 学 ) 作 製 の紅 河 デ ル タ地 形 区分 図 に のせ て,

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0世 紀 中期 よ り

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世 紀 に い た るヴ ェ トナ ムの土 着 勢 力 形 成 の舞 台 を確 定 し, 当時 の デル タ開 拓 の 限界 を推 定 しよ う とす る。 な お本 論 ヴ ェ トナ ム語 表 記 中, 時 に声 調 記 号 を逸 して い る もの が あ るの は,1966年 版 ヴ ェ トナ ム5万 分 の 1地 形 図 の表 記 にな らった もの で あ るo Ⅰ 段 丘 下 位 お よ び浅 丘 周 辺 の権 力 前諭 [桜井 1979]で述 べ られ た よ うに, 紀 元 前 後 の デル タ諸県 は標 高2m以 上 の地 域 に分 布 し, この地 で は段 丘 部 下 位 ・残 丘 周 辺 部 ・沿 河微 高 地 (自然 堤 防 な ど) の微 地 形 差 を利 用 した, 作 付 け選 択 に よ る開拓 が な され た と推 定 され るo この作 付 け選 択 の技 法 は現 今 中滞 地 帯 (TrungDu)に残 存 して い る と ころか らみ て, デル タ を囲続 す る高 地 段 丘 地 帯 の農 業 に その始 原 を有 す る こ と は 誤 り な い(, したが って デル タ地 域 と高 地 との接 触 点 に あ た る段 丘 下 位 また は残 丘 周 辺 の起 伏 地 上 村 落 (villagesderelief) の成 立 は デル タ開 拓 の もっ と も初 期 に位 置 す る もの であ ろ う。 本 論 で は まず , こ う した デル タ農 耕 史 にお い て もっ と も古 い歴 史 を有 す る地 椙 の

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0世 紀 に お け るあ らわれ方 をみ てみ るO (A)

林 (Du'b'ngLam) ヴ ェ トナ ム史 上最 初 の 自立 政 権 で あ る曲氏 は3代 曲承 美 (KhdcThd'aM夕)の時 , 後

長 興 元年 (930)南 漢 の 劉輩 に 滅 ぼ され る. その翌 年 末 に は暢 廷垂 (Du'o'ngDinh Nghe) が 起 り1)つ い で 後 習 天 福 2年 (937)牧 公 羨 (Hieu C6ngTi昌n)2) ま た は 矯 公 羨 (Kiるu 1)楊廷垂の出自については 「愛州

賂」

(資治通鑑 277 後唐長興2年) 「愛州」 (新五代史南漢世 家) 「愛州人」 (大越史記外紀全書5 梁 龍徳 3年,唐同光元年,安南志略11五代時僻縮) と あるのみで [山本 1943:74-76], 愛州 (Ai

Chau)すなわち現 タインホア省 (ThanhHoA) と知 りうるのみである。

2)資治通鑑281後背天福2年, 新五代史65南漢 世家,東都事略130,九囲志9劉宏操侍。

C6ngTi昌n)3)ま た は 紹 洪 (Thi今u Hang)4) が起 る。5) この矯 公 羨 は ま た 後 普 天 福

3

年 (938), 愛 州 か ら起 った 呉 権 (Ng6 Quy昌n) に攻 め られ て敗 死 す る。 呉 権 は 螺 城 (Lo乱 Thanh)に都 して王 を 称 し,944年 (後 普 開 運 元 年 ) に没 した。 この呉 権 の 出 自に つ い て大 越 史 記 夕摘 己全 書 5は 姓 呉 , 諸 種 , 唐 林 人 ,世

貴 族 , 父 支 質 本 州 牧 , -・・・.馬 楊 廷 蛮 牙 購 , 建 築 以女 妻 之 , 樺 管 愛 州 。 と して, 本 来 , 唐 林 に勢 力 を もって い た こ と が わ か る。6) 唐 林 に つ い て は,越 史 通 鑑 綱 目 (以 下 , 綱 目 と よ ぶ)前 編4 唐 貞 元 7年 (791)条 註 に 唐 林 。古 社 携 , 菖 史 註 在 福 禄 願 。福 禄 嚇 今 改 福 毒 ,属 山西 省 。考 山西 省 冊 , 福 毒 甘 森 社 ,古 紙唐 林 。 考 山西 省 冊 , 福 音 甘 霧 社 , 3)大越史記夕摘己全書5,越史略1。 4)宋合要蕃夷交蝕,宋史488,文献通考330。 5)この矯公義については越史略1に 「峯州人」 と あるのみで,詳細 を知 りえない。後述の十二位 君中に峯州に拠 る使君 として矯三制 ,渦潮に拠 った矯令公の名がある。いずれ もその拠地 をか な り詳細に比定 しうるが,あるいはこの両者の いずれか と系譜を同じくす るのでは な か ろ う か。 とすれば,前者は沿河微高地上,後者は段 丘部下位 に位置 し,いずれ も伝統的な起伏地上 村落の権力 と考 えられ る。 6)当時の軍団は楊廷垂が養板子三千 をひきいた と いわれ るよ うに (資治通鑑277後唐紀 長興3 年十二月), 擬制養子関係 を基礎 とす る私兵集 団か らな ってお り,当然任地よ りその出身地が 問題 となる。慣子制度については栗原 [1952] 参照。 599

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東南アジア研究 17巻4号 古 竜虎唐林,鴻 興 ・異 種 皆 其 社 人 , 今 有 扉司社 蔦。7) と して , 山西 省 (So'nTRY)福等県 (Phdc Th?)甘 霜 社 (Cam Lam)と して い る。 [山 本 1943:31] この 地 に は 前 呉 王 廟 が 存 在 し, 大 南 一 統 志 山西 省 に よれ ば王 の 没 後 に其 子 の 昌 文 が 本 邑 に立 廟 した とい わ れ る。 呉 権 7) ここでい う 「蓉史註」 とは大越史記全書外紀 5 に 「辛末唐貞元七年春 四月,交州唐林入唐林在両 線 鳩興起兵国府 。」 とあ る唐林福禄説の ことで あろ う。 しか しこの嬬興 (PhtlngHu-ng)の唐 林が呉樺の唐林 と同一であ るか は疑問であ る。 橘興 は中国史料 にみ えない。[後藤 1975:241] これ を唐林 の人 とす るのは,お そら く卑旬 幽雲 集布蓋字祐彰信崇義 大 王 にあ る 「按 趨 公 交 州 記,王姓嬬名興,世鳥居林州夷長」の伝承 に基 づ くもので あろ う。 この唐林州 と 「福禄」 との 関係 は新居書33上地理志にあ る 「福禄州,盾林 郡下。 本福禄郡 。 総革二年 (669)智州刺史謝 法成,招慰生狭,昆明 ・北棟等七千飴落,以故 唐林州地置 。」の 福禄州の 唐林 によ るのであろ う。 この 福禄州 を 綱 目編者 は 山西省福寿県の 旧名福禄県 に 比定 し, 以下 これ に な らってい るが [山本 1943:31;後藤 1975:241],H・ Masperoは この福禄州 をゲ アン (NgheAn)方 面 に比定 してい る。[H・Maspero 1910:550] 新居書でい う智州は旧居書33上地理志醍州 によ れ ば, 武 徳5年 (622)日南郡 の 文谷 ・金寧 の 2県 を析 しておい た州で,後越裳県 とな る。ゲ アン以南であった ことは誤 りない。 したが って 智州刺史謝法成 の征討 した唐林 の地 もこの周 囲 とす るのが正 し く, 現 ソンタイ市 の 西方 4km の Cam I.am社 に 比定す るのは難 しい 。 おそ ら くは本来,ゲ アン近辺の唐林州の 反 乱 を 陳 (Tram)朝 にいた って現 Cam Lam社 に 肥 っ た ものであ ろ う。現 に卑旬 幽惑集 には 「初王既 弟,英東銀赫,衆 以神事之,立廟在都府之西, 陳重興元年,勅封受祐大王 」 とあ って, 「都府 之酉」(現 Cam I.am社 の柁廟であ ろ う)* と 出身地 であ る唐林州 との関係 を示 していない。 *なお畏友高津茂氏 によれば,布蓋大王 (描 興) の両 は甘顧社の ほか に河 内省永噸県 盛光 坊,南定省大安県,野池県,兜安県 の4カ所 にあ るとい う。高津氏は 「都府 之西 」 をこの 河内省の鳩王Jl7fgと考 え られてい るが [高津 1978:44], 永ノ煩県 は 大南一統志河内省建置 沿革 によれば 「在府東六里」であ り, また坊 名 を もつ ところか ら,都 府内 と考 えるのが正 しい。陳朝創把の渇王廟 はや は り甘霧社 の布 蓋大王詞 を指す と考 えるのが正 しか ろ う。 600 一一10-- 10m等 高線 山⊥ ⊥u⊥ 崖 こ こ 集 落 地 図1 甘零社付近 の 出 自 を この PhdcTh9県 Cam Lam社 と して 無 理 が な い。8) 次 に5万 分 の 1地 形 図 で Cam Lam社 を み る.Cam Lまm社 は現 So'nTay市 の 西 方 4.5km の 地 に あ る。 図 1に み る よ うに , こ の 地 は 北 方 3km の地 を 流 れ る 紅 河 とよ く 発 達 した 崖 に よ って 明 瞭 に分 か た れ る, 標 高

1

0m

前 後 の 台 地 上 に 存 在 す る。 幅

1

.

5-2

km の 台 地 の 南 西 縁 に は バ ビ (Bavi)山塊 の 末 端 丘 陵 が 複 雑 に突 起 し, この 小 丘 陵 群 と台 地 面 を画 して ,SangConが北 西 か ら南 東 に 走 って い る。Cam Lam 社 は この S6ngCon に面 した小 丘 陵 上 に位 置 した村 落 で あ る。 Cam Lam社 は19世 紀 の 行 政 区 分 で は甘 煮 盛 総 (Cam CiaTh与nhTang)に属 す る。 甘 煮

盛 総 は 図 1中 央 に み え る溜 め池 周 囲 に分 布 す る台 地 上 の村 落 か らな るが , この う ちでCam Lam 社 と YenMテ (安 美 ) 社 の み が 背 後 の 8)別 に呉氏の墳墓 の地 を興安省 (HtmgYen)仙 侶県 (TienI・G・)とす る伝承 もある.大南一統 志興安省嗣廟 に 「前後呉王詞。在仙侶解。面巳前 後呉王及天策王,在稽落虞。故又称稽落布。呉 王祖墓在此,今其墓常在神前 。」 とあ る。

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桜井 :10世紀紅河 デルタ開拓試論 丘 陵 に属 し, 地 形 上 は む しろ南 方 に隣 接 す る 山地 の仁 里 総 (Nhan Lテ)の村 々 と 同 じ で あ る。9) お そ ら くは こ う した台 地 平 面 に面 し て,Sang Conの水 利 を支 配 す るに足 る丘 陵 斜 面 上 , 段 丘 下 位 の定 着 は前 論 で詳 述 した 中 潜 農 業 の典 型 で あ り, そ の権 力 の発 生 は古 く 紀 元 前 後 期 の雑 将 時 代 に遡 る もの で あ ろ う。 その意 味 で は呉 氏 の権 力 の基 礎 は デル タ開拓 の原 初 的 な型 を代 表 して い る とい え よ う。 こ の権 力 は その ま ま, 十 二 使 君 の ひ と り呉 日慶 (Ng6 Nh争tKhanh)に ひ きつ が れ る。10) 本 論 で は この よ うな ドン ソ ン時 代 に まで遡 りうる定 住 を デル タ第 1期 開拓 とす る。 この うち段丘 部 に よ る もの を よ り原 初 的 な, す な わ ち前 論 で 述 べ た よ うな 中 済 (Trung Du) 農 業 と基 本 的 に 同一 な もの と して み て, 第 1 期A型 とよぶ 。 (B)億遊 (Tien Du)

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4

4

年 (後 普 開運 元 年 ) 呉 権 が 没 す るや, 外 戚 暢 三 可 (Du'o'ng Tham Kha)が 位 を奪 い, つ い で呉 権 の2子 が これ に か わ る が, 965年 (宋 乾徳 3年 ) 以 降 , 紅 河 デル タは 十 二 便 君 (Sd'Quan)とい わ れ る分 裂 の時 代 に はい る。 この十 二 使 君 の- 将 院 守 捷 (Nguy昌n Tha Tiep)につ い て大 越 史 記 外 紀 全 書4 乾 徳4 年 (966)は 9)同慶御覧地輿誌 山西省福等鯨 ・気候 は 「平常風 雨寒暑輿省富岡。惟仁里瑞願二線,民居並定土 阜連絡, 樟気梢重寒菊:亦早o」 と し て,Phdc Th()県の平地諸村落の気候, 立地条件が デル タ型なのに対 し,NhanI・ナ総 は 丘陵上 に 存 し,山地型であった ことを示 してい る。, 10)大越史記外紀全書5 乾徳 4年 (966)には 「呉 日慶稀呉覧公按摩林。-云接腰水。」としてい る。 ここでは一応唐林説 にしたが う。 ただ し,呉 日慶は後丁部領の女婿 とな り, さら に丁部寵の死後,占城水軍 とともに華間城 を襲 って失敗す るな ど,丁部領の生い立 ち伝説に深 く関係 し,かつ海 を介 して占城 と往来可能な腰 水 (Giao Th丘y)説 も捨て難い。 院 守 捷 構院令公, 嬢 倦 遊 。 と し, 越 史 略 1・十 二 使 君 は 院 令 公 ,名 守 捷 , 嬢 仙 遊 。 とす るの み で あ るが , 綱 目前 編5 宋 太 祖 乾 徳4年 註 は 守 捷 。 一 班 巴安 君 . 身 長 聾 高 , 間者 霞 駿 。 人 柄 富 公 。及 起 兵 稀 院 令 公 , 保 守仙遊 解 , 後 併 武 寧 ,稲 武 寧 王 。何 魔 人 失 詳 。 と して, い さ さか詳 しい伝 を残 して い る。 し か し この典 拠 は不 明 で あ る。 巨元令 公 の拠 った魔 遊 (仙 遊 ) は院 代 行 政 区 画 で い う北 寧 省 義 山府 魔 遊 県 (TienSo'n)の 周 辺 で あ ろ う。 魔 遊 県 は ラ ピ ッ ド河 (CanaldesRapides, Sang Dubng, 天 徳 江 ) 北 岸 の他 の バ ク ニ ン 省 諸県 の地 形 に比 べ て著 しい特 色 を もつ 。 そ れ はバ ク ソ ン (BacSo'n, 北 山) 山塊 が デル タに置 き忘 れ た片 岩 質 の残 丘 が , 多 くこの県 と隣接 す る 桂 陽県 (Qu昌 Du'o'ng)に 集 中 し て い る こ とで あ る。 む しろ これ ら残 丘 の集 合 を中心 に魔 遊県 を区 画 したか の観 が あ る。 同 慶 御 覧 地 輿 誌 北 寧 省 冊 魔 遊 願 ・山 は 月 常 山萱 峯 在 回抱 社 , 萱 名 茶 山。相 博 李 聖 尊 幸 此 , 賜 名 。 韓 面 平 陽, 萱 峯 突 起 高 峻 。 土 石 相 聞 。 山上 有 古 松 数 株 。 山遁 之 東 有 瓦 褐 萱 座 。 大 山 ・永 常 ・古 廟 ・イ天跡 ・重 明 ・ 儀 衛 ・龍 轟 ・

指巨

山 ・隠 江 ・養 蒙 ・東 山等 社 山各 萱 峯 。 克 念 上 社 山萱 峯 。 満 山社 山 武 峯 , 内 宝 峯, 本 省 設 立 山川 壇 。 向上 等 社 山,亦 均 係 土 石 相 聞 。 と して, 各 村 落 が各 1ま た は2の 峯 を有 して い た こ とを示 す 。 図 2に示 す よ うに, 村 落 は 標 高 3-5m の平 面 に吃 立 す る80m 級 の残 丘 の周 囲 に等 高 線 に沿 って分 布 す る。 い わ ゆ

る 「丘 陵周 辺 の 村 落」 (villagesde bordure decolline)で あ る。 した が って 田面 も 比 較 的 高 位 に あ るた め, 北 接 す る諸 県 とちが って 秋 稲 栽 培 が 基 本 で あ る。 同慶 御 覧 地 輿 誌 同 県 ・気 候 は

(6)

東南 アジア研究 17巻4号 tLl川l120m等 高線 ー 集落地 ⊂=トー 池 ・水 路 ■叶H+ト堤 防

0

1,000m 図2 魔道県の東半部 轄 内地 勢 相高 ,夏 田少 而秋 田多 。孟 仲春 則 植 芋 蔓 。 陸 集月別 稼秋 未。狙 冬則 稜。 としてい る。 前 論 で述 べ た ご と く, この残 丘 周 辺 の村 落 は中溝 テ ラス田 にお け る作付 け選 択技 術 が そ の ま ま適 用 しうる利 点 と,住 環境 と しての快 適 さか らお そ らくデル タにお け る開拓 の もっ と も初期 の段 階 か ら定 住 を許 して きたの で あ ろ う。 院守 捷 の勢 力 もこ う した残丘 周辺 に発 達 し た もの と考 えて大 過 あ るまい。 (C)武 寧 (VtiNinh) 十 二使 君 の時代 ,武 寧 を支 配 した もの と し て, ふ た りの名 が知 られ る。 第 1は前述 の綱 目前 編 の伝 承 に よ る院 守捷 で あ り,第2は績 602 資治 通鑑 長編

4

乾徳元年 (963)に ひ かれ る 「武 寧州刺史 楊 曙」 で あ る。 [山本 1943: 46]楊 嘩 (Du'dngHuy) は 他 に 伝 が な くそ の詳細 は不 明 で あ る。 武 寧州 は呉 代 に建 置 き れ, 州韓 に武 寧 山 (Vo'NinhSo'n)を 有 し てい たが ゆ えに, 袈代 まで県 名 と して残 存 し たO現 Qu昌Du'o'ng(桂 陽)県 と VtiGiang (武 江)県 に あた る とい う。11) [H.Maspero 1910:570] 同慶御 覧地 輿誌 北 寧 省桂 陽解併 掃 武江県系・ 山水 は 桂 陽解覧 山起 蹄, 自席遊 解儀衛 社 ,連 至 本 願 雲 畝総 覧 山社 ,大小 該 式拾 参 峯。 前有一 山,似亀形,頭有二孔, 出水不潤。 後有木凡八 栗山。俗号肖岳肝。邪 棟社 山三 峯, 内- 峯有 寺 観 一座 。東 稔社 山五 峯。普頼 社 山一 峯。 山上有寺 観一 座 。慈 峯社 山二 峯.香 藷社 山 一 峯 。武 江解 大社 社 山三 峯。杜 会社 - 峯。 菰米 社 山三 峯 。市棟社 山二 峯。 内- 峯本省 設 立文 廟 。塔 棟社 山一 峯。 山上有原 鎮 土城 遺 跡 。扶 朗社 山二 峯。青 山社 山二 峯。文 峯 社 山一 峯 。 明良社 山四峯。渇翼 社 山一 峯 。 向上諸山均是土山帝石。 として,15社 が1- 4峯 を もつ残丘 周 辺 に そ れ ぞれ依 拠 して い る こ とがわ か る。 この武 寧 州 に拠 った権 力 もまた残丘 周 辺 の村 落 を基 盤 とした と考 えて よか ろ う。 筆 者 は倦 遊 ・武寧 の よ うな残 丘 周 辺 高地 に 依 拠 す る村 落 を第 1期 B型 と分 類 したい。 こ れ はかつ て申溝農 業 で展 開 した作 付 け選 択 の 技 術 が, ほ とん どその ま ま利 用 し うる点 にお い て,A型 の ヴ ァ リエ ー シ ョン と して理 解 で きる。12) ll)ただし,安南志原1山川 , 同 書 2景物によれば 倦遊山は武寧州に含 まれ る。魔遊山はのちの併 跡山 (PhatTich)のことである。 とすれば, 院朝区画でい う魔遊県 もまた武寧州に含まれて いたと考 えるべ きであろう。僧遊 ・武寧を1区 画 と考えれば,魔遊に拠 った院守捷が武寧王を 名のったとす る所伝 も首肯 しうる。 12)残 丘 周 辺 の村 落 につ い て は Gourou [1965: 240],桜井 [1979]に詳 しい。

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桜井 :10世 紀紅河 デル タ開拓試 論 Ⅱ 沿河微高地上の権 力 (Ⅰ) ラン ドサ ッ ト写真 に よ って紅 河 デル タをみ る と,紅 河本 流 ・ラ ピ ッ ド河 ・バ ンプ-河 に 沿 って きわ めて よ く発達 しT;自然堤 防 をみい だす こ とが で きる。 東方 は ラ ピッ ド河 に 沿 って その終 末 Sept Pagodes(PhaL争i)に 達 し, 南方 は 紅 河 に 沿 って Nam D圭nh市 をぬ け沿 岸砂丘 列 とぶ つ か って消 えてい る。 ハ ノ イを東西 にぬ け る その 最大 幅 は 30km に及 び, ラン ドサ ッ ト か ら自然堤 防卓越地域 の面積 を計算 す る と約 2,200km2(22万ha)に達 す る。 この 自然堤 防 こそが中潜 の段丘 地帯 よ りお り き た った 水 田農 耕民 を定 着 させ るいわば デル タ開拓 の コアで あ った こ とは ま ちがいなか ろ う。 前 編 [桜井 1979]で詳説 した漢代

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0児 が ほぼ こ の 自然堤 防上 に分 布す るこ とが これ を証 明す る。 で は,本論 の対 象 で あ る

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0世紀 の紅 河 デル タにお いて はいかな る権力 が, 自然堤 防上 に 拠 ってい ただ ろ うか。 (A)古 法 (CるPhap) 1009年 (寮景 瑞2年 ,栄 大 中祥符2年 ), 前 袈朝 を 某奪 して ヴ ェ トナ ム最初 の 長 期王 朝 を 創 建 した李公 薄 (L≠C6ngUan)の生地 につい て越史略2は 「北 江 古 法人也」 とし,大 越史記 全 書

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もまた 「北 江古 法州 人」とす る。北 江古 法 は綱 目2 梁景瑞2年 注 に は 古 法 .州名 oT 以前 馬吉 覧州 。賓改古 法 ,李升 馬 天徳府。 陳改東 岸願 ,後 裂 因之 。 今 北 寧 東 岸駆 足 。 とあ る。北寧省東 岸県 は旧仏嶺行政 区画 でい うBacNinh省 の D6ngNg争n児 であ る。 同 慶御覧地輿誌北 寧省冊東岸塀 ・名勝 をみ ると 李八帝 陵在亭 傍社 林分 。地形似 蓮花 ,該社 啓名苗 法 ,係 李朝湯休之 呂。今八 位廟字現 存在比。 とあ る。 ここでい う亭 傍社 は ハ ノイ 東 北 東 約 15km, バ クニ ン市 との ほぼ 中間 にあ る DinhBang社 で あ る。DinhBang社 の社 外 の地 には李朝 歴代 の山陵群 が あ り, い まなお 故老 は陵 を指定 す るこ とが で き る と い う。

[TyVanHbaXuatBan-HaBac 1973:75] また村 の 東 方 には 抗仏戦争期 まで D昌nLテ BatDさ (李八帝廟) と い う 陳朝創建 の廟 が あ り,1955年 12月 には ホーチ ミン も参拝 し てい る。[Ty V益n H6a XuatBan・Ha Bac 1973:76] 5万 分 の 1地形 図 で DinhBang社 をみ ると, ラ ピ ッ ド河 の 産 んだ 5m 前後 の 自然堤 防上 に立地 す る。 しか しこの一 帯 の微 高地 は ラ ピ ッ ド河南岸 と異 な り, ラ ピ ッ ド河 の たびたび 図3 亭傍社付近

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東南 ア ジア研究 17巻 4号 の 氾 濫 に よ り, 微 妙 な 凹 凸 が亥ほ れ て い る。 た と えば Dinh Bang社 は 同慶 御 覧 地 輿 誌 囲 北 寧 省 東 岸 願 をみ る と, 蒲 湘 江 の北 岸 に沿 った村 と な って い る。 滞 湘 江 は 前 論 [桜 井 1979]に も述 べ た よ うに, ラ ピ ッ ド河 の 旧 河 床 が と こ ろ ど こ ろ浬 塞 した もの で , 5万 分 の 1地 形 図 で は 図3に み るよ うに わ ず か に D争i Dinh(大 庭 ) 社 とPhuChan(扶 珍 ) 社 を結 ぶ 線 , また TrungQuan(沖 館 ) 社 地 方 に三 日月 湖 を残 す の み とな って ,DinhBang社 で は その水 路 を失 って い る。 図 3が示 す よ うに この 滞 湘 旧 江 の もた ら した微 妙 か つ 複 雑 な起 伏 は 同慶 御 覧 地 輿 誌 北 寧 省 斬 東 岸 願 ・名 勝 に 「地 形 似 蓮 花 」 と称 され , ま た民 俗 で は 「巨 大 な 蜘 妹」 (ConnhenKh6ng 18) [Ty V且n H6aXuatBan-HaBac]とよ ばれ る。 か よ うな微 妙 な高 低 差 を もちノ か つ 水 の便 の 良 妙 な デ ル タ微 高 地 は お そ ら く稲 作 に は最 良 の環 境 で あ ろ う。 同 書 東 岸 解 ・物 産 は 「全 轄 夏 禾 少 , 秋 禾 多 」 と して, ラ ピ ッ ド北 岸 の 大 部 を 占 め る夏 相 とは異 な り, 秋 稲 栽 培 が 中 心 で あ った こ とを示 して い る。 ま た 「収 穫 後 雑 檀 芋 豊 瓜 読 , 沿 江 洲 土 間 植 桑 寮 。」 と して 19世 紀 段 階 で は二 毛 作 が す す ん で い た こ とが わ か る。13) した が って定 着 もか な り早 期 に 開 始 され た と推 定 され る。 前 3世 紀 ご ろの 萄 安 陽 王 の古 蹟 と して, ま た Phang Nguyen文 化 よ り現 在 に い た る各 層 遣 物 を 出土 す る複 合 遺 蹟 と して有 名 な 古 螺

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aLoa)は Dinh Bang社 の 西 北 7km の 同 じ く自然 堤 防 上 に あ る。14)ま た漢 代 郡 治 が置 か れ た 龍 編 城 は 新 説 で は 現 Yen Phong(安 豊 ) 県 の Tieu So'nに比 定 され る。 [D亭ng 1975:73]Tieu 13)特 に DinhBang社 は滞湘旧江の南側に山林 を もつため,懐 山 (-惟 山,HoaiScm)とい う薬 物 を特産 としてい た。 (同慶御覧地輿誌北寧省 東岸牌 ・物産 「惟亭傍社林分産懐 山,避年例有 進貢。」京大薬学部の 新 田あや氏の 御教示 によ れば,懐 山はナガイモの一種で強精剤 として用 い られ るとい う) 604 So'nは李 公 泡 の母 指 氏 が 神 人 と交 わ り李 公 藷 を産 ん だ こ とで有 名 な 蕉 山寺 の あ る蕉 山社 の こ とで , Dinh Bangか ら東 北 東 に 8km ほ ど離 れ た低 小 な残 丘 上 の 村 で あ る。 Dinh Bang社 の 考 古 学 的発 掘 の 報 告 を い 14)呉権 は939年 (晋天福4年)都 を螺城 に定め る。 螺城 を 萄安陽王の古螺 CaⅠ.oaと 同 じとすれ ば, これ もすでに前論 [桜井 1979]で述べ た ごとく, 自然堤防上の開拓第 1期 に属す る定住 地 であ る。 大越史記全書 外紀5は 十二使君 の -将呉 呂煩 (Ng6Xuo・ngXi)が 「乎橋に拠 った」 として い る。大越史記全書の作者呉士連 は この呉 昌職 を呉朝の後継者 としてい る。 し か し 呉 呂低 の 名は越史略 にはな く, かわ って 「院遊突, 名 昌誠, 接王栢」 とす る。 両者が 昌俄 また 昌識 (Xuo・ngThtrc)と名を 同 じくす るところか ら 同一人物 としてよか ろ う。 山本氏は全書の編者 呉士連 (Ng6SiLien)が越史略 と大越史記全 書の共通の典拠 となった繁文休 (Ⅰ.aVanHu・u) の大越史記 を改変 した もの と 疑 ってい る。 [山 本 1943:43] しか しなが ら氏 も指摘す るごと く,緯資治通鑑 長編4 乾徳元年 (963)条 には呉 昌文の死後, 交祉十二州 に大乱が あった とし, その割拠者 の ひ と りに 「参謀呉虞坪」の名 をあげてい る。 (新 五代史65では 「其佐 呂虞坪」宋史488では 「其参 謀呉虞坪」)したが って 呉氏 を名の る勢力が あ り,かつそれが呉政権の中で参謀 (節度使に侍 して軍中機密 を預 る職)に任 じられていた こと がわか る。 また大越史記全書 は呉便君 昌俄の伝 を 「姓呉。 語 呂焼。天策主避難時,要南冊江女所生。南育 王之姪也 。」 として, 後述のごと く呉権 の長子 呉 呂笈 (NgaⅩtrcmgNgap)が南冊江 (Nan Sach Giang)の指令公 (Pham I.inh C8ng) の もとに亡命 した時,土地の女に産 ませた子で あ るとい う伝承 を伝 えてい る。おそら く何 らか の野史が その典拠 とな ってい ると考 えてよか ろ

う。

したが って呉氏の勢力基盤 をついだ勢力 として 呉 昌機かあ るいは呉虞坪 を考 えることがで きよ う。超史略 は院遊突の拠 った地 を王橘 (Vtr(yng Cao)とし,大越史記全書 は平橋 (BinhKiさu) とす るが,綱 目は平橋 について 「未詳虞所」 と してい る。 山本氏は虞坪 はあるい は呉氏の居城 た るCaⅠ.oaに 拠 ったので ないか としてい る が [山本 1943:47], 王楕 または 平橋 もこれ に準 じて考 えることがで きよ う。 とすれば これ もCaⅠ.oaに拠 る 自然堤防上の 勢力 とす るこ とがで きよ う。

(9)

桜井 :10世 紀紅河 デル タ開拓試論 まだ得 ない が, か よ うな地理 的位 置 か ら し て, デル タ開拓 の原 初 か ら定 着 が な され て い た として よか ろ う。 とす れ ば, 李朝 の権 力 は デル タ′開拓 の第 1其射こ属 す る古 い地 域 に依 拠 して い た とす る こ とが で きる。 ただ し, それ が段 丘 ・残 丘 周 辺 の ご と く明確 な たか み に立 地 す るの で は な く,基 本 的 に は低 平 な 自然 堤 防上 の秋 稲 に立 脚 し, 支 流 , 旧河 道 の形 成 し た狭 小 な微 高 地 に定 住 す る意 味 にお い て,第 1期

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型 と して分 別 すべ き もので あ ろ う。 (B)超 類 (Xieu Lo争i) 十 二 使 君 の ひ と り李圭 (L≠Khue) につ い て大 越 史記 全 書 で は 「李 圭 , 栴李朗公。.揚 超 類 。」 とあ る。越 史ノ略 で は 「院 15)郎公 ,名 珪 。 壕 超 類 。」 とあ る。 李圭 の神詞 は 地 誌 の上 で はみ られ ず, その 出身 地 が超 類 県 の い ずれ で あ ったか は不 明 で あ る。 ただ し,超 類 はす で に漢 代 か ら哀 惜 県 の置 かれ た地 で あ り,前 論 [桜 井

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9]

で 述 べ た ご と く, ラ ピ ッ ド河 沿 い に広 く発 達 した 標 高

5m

ほ どの 自然 堤 防上 の県 で あ る。先 の李氏 の拠 った亭 傍社 と 同 じ く, 紅 河 デル タ開拓 の第 1期C型 の定 住 が行 わ れ て い た と して よか ろ う。 (C) 峯州 (Phong Chau) 十 二 使 君 の ひ と り矯 公 苧 (Kiさu C6ng H乏n) につ い て 越 史 略 は 「矯 三 制 . 名公 梓 (H孟n)。接 峯州 。」 と し, 大 越 史 記 全 書 も 「矯 公 竿稀三割, 接 峰州 。」 とす る。前 論 [桜 井

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9]

で述 べ た ご と く, 峯州 は阪 朝 の 山 西 省 一 帯 に拡 が る地 域 で あ るた め, これ だ け で は比 定 しえな い。 大 南 一 統 志 山西 省古 蹟 をみ る と 矯 使 君 廃城 。在 白鶴 願 扶 立 社 .史 記 使 君 矯 公 苧 所 築 。俗 称 馬城 内城 外 , 即 此 0 15)一般に越史略においては李 とい う文字は全て院 に置 きかえられる。 [山本 1943:42] したが って院珪 と李圭は同一人物である。 莞 ≡ 砂 地

∋ 池 沼 - 集 落 一一10

-

- 10m等 高線 くこ う 崖 十H.十什 堤 防 0 1,000m 」.___・....__.__J 図4 扶 立社付近 とあ る。16) 仮 に この地 を矯 公 竿 の拠 地 と して考 え る。 扶 立 (Pha L争p)社 は 5万 台 の 1地 形 図 で み る と, ソ ン タ イ市 の真 北 ,

8km

に位 置 し, 16)高津茂氏の前掲末刊行論文,および大南一統志 南定省神詞によれば,矯三制を妃 る両は南定省 南晃締合律社 (Hgp I.u冬t)および 同じく柿陽 社 (BaiDu・gng)にあるとい う。 しか し同詞の 伝では,丁部寵 (DinhB¢Ⅰ.inh)に駆逐 きれ た矯公竿が安閑 (柿陽合律社地分)に逃げ, こ の地で自殺したゆえであるとい う。したが って この両社は矯公竿の本拠地 と直接の由来を もつ ものではない。 ちなみに大南一統志の同条には,矯公竿は秦州 ・豪州 ・峯州の3州に拠 ったか ら三制 と称 した とい うが,案州 ・豪州なる地名が北部 ヴェ トナ ムに存在 した とも思われず,かつ他の史料に も みあたらない。後述するよ うに峯州内に も院寛 ・呉 日慶等が近隣の地に播躍 してい る。到底矯 公竿が 3州の雄長であった とは思われない。 し たが って一統志の この記述は誤伝である。 605

(10)

東南 アジア研究 17巻4号 ほぼ標 高 10m の微高地上 に位置す る。 図4 をみ るよ うに,Pha L争p 社 の 南面 は低 地 に な って砂 質 土嚢 と,大小 さま ざまな池 沼列 が み られ る。 さ らに その低 地 の南面 は堤 防 で画 され た 10m ほ どの微高地 が南方 に拡 が り, 紅 河 の河床 と接 してい る。 この池沼列 と砂 地 の低 地 はい うまで もな く, さ して遠 か らざ る 以前 に,紅 河 が この地 を流 れ てい た こ とを示 してい る。 図4の 中央部 に 東 西 に並 ぶ, 宿 池 ,低 地 群 の存 在 は, その流 れ が い く度 もそ の河床 をか えた こ とを想 像 させ る。 したが ってPhもL争p社 もまた紅 河 旧河道 の 残 した沿 河微 高地 上 の村 落 とみ る こ とが で き る。 この地 が漢代 麓冷.県 に あた る こ とか らみ て も [桜 井 1979]第 1期C型 として開拓 さ れ た もの で あ ろ う。 (D)院家 (Nguy昌n Cia) 十 二 使君 の ひ と り院寛 (Nguy昌nKhoan) につ い て大 越 史記全 書 は 「匝元寛 解太平。 壊 三 帯 。」 とし,越史 略 は 「院 太平 。 名 寛 。 一 名 記 。壕匹元家 。」 とす る。 全 書 でい う三帯 (Tam Dai) は院朝 以前 の 永祥府 (VinhTu'b'ngPhも) の旧名 で あ り, 讃史 方 輿紀 要 112には三帯州 の名 が み え る。 越 史 略 の院 家 は 綱 目注 に よ れ ば 院 家 滞 (Nguy昌n CiaLoan) とな り 山名 。輝晋作哲。 山西 省 朋 猫一 名耳 山, 一 名 下 山,在 安 繁願 永姥社。 使 君 院 寛 壕 三 帯 ,治 此。 国名悪 。 ときれ,皇 越 地 興誌 1には 院 家 潜 。在 安 楽永某 社 。十 二使 君 時,院太 平 嬢此 ,其 後 国名 。 とあ る。17)同慶御 覧地 輿誌 山西 省安柴 解 の社 名 をみ る と永慕社 が な く永姥社 が あ るか ら, 院初 の永慕社 が 中期 以降 永姥社 と名 をか えた もの として よか ろ う。 17)院家書轡についてはDinhVanNhat[1977:35] 参照 。 606 院寛 の拠 った永姥 (VinhM今)社 は 5万分 の 1地 形 図 で み ると先 の矯 公 竿 の拠 地 で あ る Ph血L争p村 よ り東 北東 約 9km の地 にあ り, 同 じ く標 高 10m ほ どの紅 河 の残 した 自然堤 防上 に, 明確 な半 月形 をな した集落 とな って い る。 これ もデル タ開拓 の第 1期

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型 に属 す る も の とみ な して よか ろ う。

(E)西扶烈 (Tar PhもLi専t)

十 二使 君 の ひ と り院超 (Nguy昌nXieu) に つ いて越 史 略 は 「院 右 公 (Hu'u Ce・ng), 名 題 , 壕 扶烈 。」 と し, 大 越史記 夕摘己全 書5は 「院 超 稀院右公,壊 西扶 烈

とす る。 この酉 扶 烈 また は扶 烈 につ いて綱月 日三は 西 扶 烈 。地 名 。今 河 内育 池願 西扶 烈社 是 。 と して い る。院超 の古 蹟 につ い ての記録 はな く,記 事 と して は現 在 の ところ これ を信 ず る しか ない。18) 西 扶 烈社 の名 は早 く失 われ た とみ え, 同慶 御 覧地 輿誌 で はただ東 扶 烈 (DbngPhhLi専t) 社 の みが み え る。 D6ng Ph血 Li今t社 は 図 5 にみ るよ うに基 本 的 に は紅 河西 岸 に発達 した 自然 堤 防上 に位 置 し, す で に埋 没 した旧紅 河 支 流 の一 つ金 牛 江 (Rim Ngu'u Giang) の河 岸 に拠 った地 域 で あ る。 デル タ第 1期C型 開 拓 とみ て よか ろ う。 なお図5で は同慶御 覧地輿誌所載 の村落 の 漢 字名 に同定 し うる村 落 を黒 く塗 りつぶ して みた。 白い集 落 と黒 い集 落 を比 較 す る と,盟 が主 と して河川 に沿 った微高 地 上 に分 布 す る の に対 し, 白は その間 のお そ ら く低 湿 地 と思 われ る ところに位 置 す る。 両者 の相 違 お よび 18)ただ し大南一統志興安省神南には 「院便君村, 在東安狩系O 神姓院, 名 超。 十二使君之一也。 操守西扶烈,輿丁戦退陣。-創一馬,化干柿江 分,三 日不朽,顔色如生,人以為神,葬干伊社 浮沙虚,示司杷之。」 とある。 紅河下流の東安県 (DらngAn)に別に両があることはわかるが, この伝承にしたがえば一応勢力範囲とは別 とす ることがで きよう。

(11)

桜井 :10世紀紅河デルタ開拓試論 ∼ I 大藩社 、、、炉 『 C 品軍功頂も 五洞祉 oD eS a ;⊆払 河柳社柳外相 o q b a) 大路杜 ● 延長杜 環腸社 ILT,.叶 Q qh 凸 tto 図 5 東 扶 烈 社 付 近 Gll ﹃ 〟 脱 毛 U h 胤 脚 .nth 607

(12)

東南 ア ジア研究 17巻4号 O

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れ以外 の集 608

(13)

桜井 :10世紀紅河 デ/レク開拓試論 その問題 点 につ い て は, この差 が よ り明 瞭 に あ らわれ る次 節 お よび注19)に お い て詳述 す る。 (F)細 江 (T占Giang) 十 二 使君 の ひ と り呂唐 (Lb'Du'6'ng) につ い て 越 史 略 は 「呂 左 公 (TaCang)O 名 宋 (Quang).接 細 江 。」 と し, 大 越 史 記 外 紀全 書5は 「呂磨 構呂左公。壕 細 江 。」 とす る。 こ の細 江 につ い て綱 目注 は 「古 県系名 , 今 文 江。」 とす る。 大 南一 統 志北 寧 省伺 廟 は 呂使 君Jlf司O文 江,% 奉公社 O姓 呂, 名 唐 。後 呉末 ,称 使 君 。接 細 江今文江,万 民頼 以寧 。 没 後 ,立 両 面巳之 。 と して い る。 高 津氏 の教 示 に よれ ば, 呂使 君 の扉巳廟 は この l県 に しか な い そ う で あ る か ら, この奉 公社 周 辺 を呂唐 の拠 地 と して大過 あ るまい。 現 地 形 図 に は 奉 公 (Phpng Cbng)社 の名 はな い。 しか し,北 城 地 輿誌 (山本達 郎 氏所 蔵写 本 )北 寧 省 文 江 願 奉 公 総 をみ る と,奉 公 六 村 と して

,

亨変 ・呉 ・陶 ・大 ・曲 ・塔 の名 が み え る。 地形 図 にい うThapThon(塔 村 )・

KhucThon (曲 村 )・Dao Thon (陶 村 )・ Ngo Thon(呉 村 ) が これ に あ た る。 この う

ち Ngo Thon と Dao Thonに 寺 廟 が 集 中 して い る こ とか ら, これ ら2村 が 旧奉 行 公 本 村 と考 えて よか ろ う。 この村 の付 近 の地 形 図 よ り,集 落 の 配置 を と りだ した もの が 図6で あ る。 図5と 同 じ く, うち,黒 で塗 りつ ぶ したの は, 同慶 御 覧 地 輿 誌 に の る社 名 と同定 で きた もの で あ る。 この黒 の部分 の分 布 をみ る と,北 は春 闘社 か ら鹸 子社 にい た る線 と, 同 じ く九 皐社 か ら頼 子軍 ・慈 湖 両社 にい た る線 は紅 河 本 流 に南北 に 並行 して走 ってい るo前 者 は現 紅 河本 流 に形 成 した 自然堤 防上 の村 落 で あ り,後 者 は現 紅 河 本 流 の約 6km ほ ど東 方 を走 って い た紅 河 旧河道 の 自然 堤 防上 の村 落 で あ ろ う。 幅広 く 低乎 な大 河川 の 自然堤 防上 の秋 稲 耕 作 に依 拠 し, 旧 河道 のつ く りだ す微 高 地 上 に定 住 す る 形 は その ま ま学 僕 社 と同 じで あ る。 デル タ開 拓 第 1期C型 とみなす こ とが で きよ う。19),20) (G)未 達 (M争tLi昌n)・扶 帯 (PhhDai) 大越 史 記全 書 1 興 統 3年 (991) か ら 廠 天2年 (994)に か けて, 越 史 略 1 天福9 年 (988)か ら麿 天元年 (993)にか けて,時 の皇 帝 袈 桓 (LeHoÅn)が その諸 子 を分 封 し た記 録 が の る。21) この うち第8子 の 中国王 鏡 が乾 陀 未達県 に, また義 児 が扶 帯 郷 に播 据 し て い る。 この未達 .県 につ いて網 目1 興 統 4 年 註 は 未 達 。願 名 。 今 仙 侶願 , 属 興 安 快 州府 。 19) きわめて興味深い ことは,図 6にあらわれた黒 い集落 と白い集落の立地条件の相違である。文 江県は抑斉集謹按 (15C末)では52社を有 し, 官制典例 (16C)49社,洪徳版図 (17C)54社, 国朝条例田制 (18C)11社, 各鎮総社名 備 覧 (19C初)44社 と, 15世紀末よ り19世紀初まで 社数減少はあって もほとんど増加 していない。 [桜井 1975:33-47] したが って19世紀末の同 慶御覧地輿誌に漢字の社名を有す る村落の成立 は大部分15世紀末以前の成立 としてよい。 とす ると, 自然堤防上の微高地のごとき定住条件に す ぐれた地は15世紀までにすでに占拠 きれ,そ れ以後の集住は,図6に明瞭にあらわれ るよ う な低地-の拡大 とい う形 をとってい る。先に別 論 [桜 井 1978]において分析したよ うに15世 紀末に固定 した社の安定性に比べ,社以外の村 落の流散は著 しい ものがある。これ ら立地条件 の相違 こそが,新村の不安定性の根本的な原因 の一つであったと考 えることがで きよ う。 20)後述す るごとく,10世紀デルタにおける権力発 生を農業的立地条件のみで一元的に説明す るこ とはで きない。奉公社は5万分の 1地形図でみ る限 り,農業立地 としてはきわめて有利な条件 を有 してい るかにみえる。 しかしそ の 反 面, 後 述 の ThaiBinh-Htrng Yen-T1才Nhienと紅河本流沿岸沿いに依拠す る 諸権力 との連関を考える時,奉公社の もつ港市 としての意味は無視で きない。事実,官制典例 (校定皇朝官制典例)6の渡場には文江麟奉公社 の名がみえる。 609

(14)

東南 アジア研究 17巻4号 とし, また扶帯 につ い て は

扶 持 。郷 名 。今 扶我 社 ,屠 海 陽永頼 願 。 とす る。 いずれ も現 在 の地 形 図上 か らは姿 を 失 ってい るが, 仙 侶 (Tien La') はバ ンプ -河 (CanaldesBambous,Sang

LuS

c,海 潮 江) 北 岸 の 自然 堤 防上 に成 立 した県 で あ る。扶 載

(

Ph

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Da

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)

は 同慶 御 覧地輿 誌 海 陽省 永頼 願 で み る と, や は りバ ンプ-河北 岸 に あ って扶 膏社 に隣接 してい る。 この扶 蓉

(

PhhC

v'u) 社 は地形 図 に その名 を残 してい る。 これ か ら 扶 載 社 のおお よその位置 を推 定 す る と, これ も同河北 岸 自然堤 防上 の, ま さに デル タの 中 に没 入 せ ん とす る境 に位 置 す る。 大 河川沿 縁 の微高地 上 の村 落 でか つ基 本 的 に は秋 稲 に依 拠 す る とい う点 で,第

1

C

型 と考 え るこ とが で きるが, お そ らく第 1期 の 開発 の歴 史 の 中 で は もっ とも新 しい もの とす るこ とが で きよ う。 この地域 に10世紀 にす で に勢 力 が扶 植 され てい た こ とは, す で に第 1 期

C

型 に よ る苗 代 なが らの 自然 堤 防上 の開拓 が この時 まで完全 に限界 に達 して い た こ とを 示 す もの で あ る。

沿 河微 高 地 上 の権 力 (Ⅱ) 大 河 に垣 按 接 す る白然堤 防上 の大部分 の村 落 は前 論 [桜 井 1979]に詳述 す るよ うに段 丘 下 位 お よび残丘 周辺 と同 じ く確 実 に洪代 諸 県 に遡 りえ, お そ らくは雄 王時代 に まで その 始原 を探 る こ とが で きよ う。 したが って以上 述 べ た諸 権力 の存 在 は, い わ ば その時代 か ら の 自然 的発展 とすべ きで あ る。 む しろ

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0世 紀 の比較 的強 力 な権 力 の大 部分 が こ うした地帯 に集 中す るこ とは,

1

0世 紀 に もの ぼ る中国支 配 時其射こお い て ヴ ェ トナ ムの農業生 産 力 が質 的 に もまた量 的 に も格 別 の発 展 を示 さなか っ た こ とを意 味す る。 しか しなが ら

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0世紀 にお い て は, 同 じ く白 21)同書にしたが えば,これ とのちにふれる扶蘭寒 のほかに①第4子釘は禦轡王 として峰州に,㊤ 第5子鍵は開明王 として藤州に,⑧第7子錐は 定溝王 として五粁江司管城に,④第8子錦は副 王 として杜洞江に,(参第10子鑑は南国王 として 武龍州に,(む第11子錠は行軍王 として北岸古覧 州におらしめたとい う。 この分封の範囲をみると,(参の武龍州 (タイン ホア方面 とい う)を除いて,いずれ も十二使君 の分布 とほぼ類似してい る。帝王を名の り統一 王朝を称 きれ る繁氏にして も,後述するコア ・ エ リアをほとんどで るものでなかったことを示 す といえよう。しかしそのほとんどの地名は現 在伝わ らず,5万分の1に地名がお とせ る の は,わずかに未達 ・扶帯 ・扶蘭案の3例,また 李朝の出生地亭傍を指すと思われる⑥の古覧州 のみである。 610 然 堤 防卓越 地 域 に生 じなが ら,第 1期 とは別 に, その外 縁部 に あ って 後背湿 地 中 に 侵 入 し, あ るい は上部 デル タに割 り込 むい くつ か の勢 力 の成 立 をみ る こ とが で きる。 (A) 洪州 (Hang Chau) 資治 通鑑253 庶 明元年 (880)三 月条 に よ る と, この月 安 南 の地 に軍乱 が起 り,唐 よ り 遣 わ され た節 度使 の 曹表 が本 国 に逃 げか えっ た とい う。 906年 に静 海 軍 節 度使 とな った曲 承裕 (KhdcTh廿aD甘) は この時期 ヴ ェ トナ ム北 部全 域 にお け る政 治 的空 白に乗 じて 自立 をはか った在 地土 豪勢力 で あ った こ とは諸 説 の認 め る とこ ろ で あ る。 [山本 1943:64] しか し諸 史 には 「交 州土 豪」22)とあ るの みで, よ り詳 しい曲氏 の 出身地 を述 べ る中国史料 は ない。 ただ臭 時仕 (Ng6ThiSi) らの編 にな る大 越 史記23)に は 按 野史 , 曲氏 洪州 人 ,世 馬 巨族 。 とあ り [山本 1943:62], また 綱 目前 編5 天祐3年 (906)条 に も同文 が ひかれ て い る。 この記 事 につ いて 山本氏 は 「野 史 」 の 内容 が 22)旧五代史135,宋史488。 23)この書の由来については 陳 [1977:17-22]に 詳 しい。

(15)

桜井 :10世紀紅河デJL,JI開拓試論 不 明 で あ り, その ま ま信 用 す る こ とは で きな い と して い る。 [山本 1943:63]しか し, この伝 承 はか な り古 くか らあ る とみ え, 同慶 御 覧 地 輿 誌 海 陽省 平 江府 錦 江願詞 廟 に ひ く見 聞小 録 に は, 曲 先 世 相 とい う 祖 廟 が 錦 江.負 (Cam Giang)24)の 魯 舎 社 (LるXa)に あ り, この地 は曲氏 の本 貫 地 で あ って, い ま も曲姓 の人 が 多 い と語 られ て い る。[高 津 1978]鈴 江.県 が 李 陳 時 の 洪 州 に含 まれ る こ とは 注

2

4

)

で述 べ るご と く, ほ ぼ誤 りな い 。 また高 津茂 氏 に よれ ば, 曲先 世 福 の よ うな 曲氏 を薪巳る祖 廟 は北 部 ヴ ェ トナ ムで は た だ この 1社 に 限 ら れ る とい う。 [高 捧 1978]ま た 大 南 一 統 志 に よれ ば この社 に は院 村 ・魯 村 ・曲村 とい う 3村 が あ り, 内魯村 に は曲姓 が 多 い とい う。 か よ うに考 えれ ば積 極 的 な反 証 の な い 限

り,

この LaXa社 周 辺 を曲氏 に 関係 す る地 と し て よか ろ う。 さて この

LaXa

は ラ ピ ッ ド河 の南 岸 に発 24)洪州について綱 目前編5 天祐3年註は 「洪州 定吉競,袈馬上洪下洪二府,今乎江寧江二府, 定均屠海陽省。」 としてい る。 大南一統志28海 陽省上は 「陣馬鴻 (-洪)路,又県東海路O 兄 陳太尊紀, 後分馬場州南策諸府路」 として,洪 州の名の起 りを陳代に求めてい る。 しか し越史 略3 李朝治平龍鷹5年 (1209)には反乱 を企 てた花献 (Ph争mDu)が 「奔於娯」 とし,大越 史記全書4 同年正月条は 「献弄洪州」 とし, また 同書 建嘉2年 (1212)二月条 は 「募洪州 民,捕盗」 とす るところか ら,少な くとも李朝 期には設置 されていた と考 えられ る。 洪州が上浜 ・下洪の2府 にわかれたのは纂朝で はな く明代である。讃史方輿紀要112には諒

府 に上浜州が属 し,新安府 に下洪州が属 してい る。天下郡国利病書118をみ ると上洪州に属す る県 として唐濠 ・唐安 ・多錦,下浜州に属す る 児 として島津 ・西岐 ・同利 ・清河の名があげ ら れてい るO膚濠県 は象院南朝の唐豪県 (仏領期 のM亨Hao),唐安は 同 じく唐安県 (同Binh Giang),多錦 は錦江県 (同Cam Giang)にあた る。次 に下浜州の長津は嘉禄県 (同 GiaI.Oc), 酉肢はおそ らく四肢県 (同TtrKす)の 誤 りで あろう。同利は永福.県 (同NinhGiang),活河 は清朽県 (ThanhMien)である。 したが って 洪州巨族 とす ること自体, この伝承が明代 (14 世紀)以前に遡 りうる可能性 を示 してい る。 達 した 自然 堤 防 の束 縁 に位 置 す る。 この地 方 は5万 分 の 1地 形 図 や P.Gourouの 1m

ン タの デル タ標 高 図 をみ て も, い ず れ も 2-3m の きわ め て低 平 な地 形 を 示 す に す ぎ な い 。 図7は この地 方 の5万 分 の 1地 形 図 よ り 集 落 配 置 の み を と りだ して 図示 した もの で あ るが, これ をみ る と当該 地 域 の集 落 は点 線 で 示 され る よ うな, 明確 な列 状 分 布 を示 して い る こ とが わ か るし〕 これ は この地 方 の 開拓 が 旧 ラ ピ ッ ド河支 流 の つ く りだ した残 存 沿 河微 高 地 上 の集 落 が基 本 で あ った こ とを 示 し て い る。 ラ ピ ッ ド河 お よ び紅 河 本 流 の つ く りた す 大 自然 堤 防 の縁 辺 に お い て は, こ う した小 微 高 地 上 に集 落 を構 え

,旧

河床 低 地 に お い て農 耕 を営 むの が基 本 的 な形 で あ った ろ う。 現 今 この地 域 は北 方 を ラ ピ ッ ド河 南岸 ,酉 方 を紅 河 本 流東岸,両 方 をバ ン プ-河 北 岸 の 第 1級 堤 防 に囲 ま れ る Moycn Delta(中位 デル タ) の

北 隅 に位 置 す る。 し た が っ て い わ ば この地 域 全 体 が一 つ の大 輪 中 を形 成 す るわ けで あ;L工, しか し この輪 中 は他 の大 輪 申 (ハ ドン地 方 ・タ イ ビ ン地 方 ) と異 な り, 完 全 な 閉塞 輪 中 で は な く東 方 だ けは タ イ ビ ン

に沿 って, 断 続 2級 堤 防 に よ って開 放 され て い る。[U.N.EconomicCommission 1966: 15;Agal・d 1935:Fig.5]これ は タ イ ビ ン河 東 南 方 に拡 が るい わ ゆ る タ イ ビ ン河 デル タ (DeltaduSGngThaiBinh)が ほ とん ど 1m 未 満 の感 湖 胃 か らな って い るた め, 雨 期 の増 水 が ほ とん どな く,東 方 か ら当 該地 域 - の 出 水 の脅 威 が な い た め で あ る. い わ ば地 形 全 体 が築 拾 堤25)を形 成 して い るの で あ る。 この よ うに全 体 が東 南 方 に ゆ るや か に傾 斜 25)高谷好一氏 (池形学)の教示 によれば,平安中 期よ り鎌倉末期までの木曽川 デルタの開拓に打 いては,上流側だけに矧 UJ-をつ くり,下流側 を 開いた築捨堤あるいは尻無 し堤 とよばれ る馬蹄 形の輪中が 用い られた とい う

[小

1970: 199;中野 1936:119-121] 611

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東南 7 ジ7研 究 17巻4早 専 も ー= - -・ -i , ・J ・-肴 l -■ ●

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集落立地 線 ● 図7 魯 し底 部 が開放 され てい る大輪 中 で は,輪 中の 最 大 問題 で あ る決 漬 時, また は豪雨 時 の排水 が, ハ ドン ・バ クニ ンの氾 濫原 地帯 に比 較 し て容 易 に行 われ, この た め居 住 空 間 さえ確保 されれ ば,雨季 の秋 稲 栽 培 も可 能 であ る。 た だ し,乾 季 (冬季 ) におい て は雨季 の残 存水 が利 用 で きず, か つ低 デル タ (タイ ビン河 デ ル タ), また は 微 高 地 の 河 畔 側 とちが って潮 水 が上 昇 させ る水 位 を利 用 す る こ とが で きな い。 したが って この地域 を乾季 の ラン ドサ ッ トでみ る と西北 隅 の ラ ピ ッ ド ・紅 河本 流 の沿 河微 高地

(

- 自然 堤 防卓 越 地域 ) が濃 密 な植 生 を示 す の に対 し,東 南部 は タイ ビン河 にい た るまで貧 弱 な植 生 を示 して い る。 これ は乾 季 に夏 稲 栽 培 が行 われ難 い こ とを示 す。 堤 防 が完整 され ない時期 に お いて, この地 の秋 稲 一 期 作 を可 能 にす るの は,第 1に先述 の定 住 を可 能 な らしめ る微高 地 の 存 在 で あ り,第2に紅 河本 流 ・ラ ピ ッ ド河 の溢水 が オ 612 舎 社 付 近 -バ ーバ ンク した際 の水勢 を減 殺 し,東 南 方 に排 出す るに足 る 高地列 の 存 在 で あ る。 Lる Xaの依 拠 す る 残 存 旧河床 自然 堤 防 は ま さに この条件 を二 つ なが らに具 備 した と い え よ う。 その意 味 で図 7の示 す馬 蹄形 は大築 捨堤 輪 中 の中 の小築 拾堤 の役割 を 自然 的 に果 た し た こ とを推 測 させ る。 漠代 よ り定住 を許 した ラ ピッ ド南岸 の沿 河

微 高地 (義臣要

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上集 落 が, よ り低部 の デル タに進 出す る上 で, か か る地形 は開拓前 線基 地 と して もっ と もす ぐ れ た もので あ った ろ う。 か よ うに排水 条件 のす ぐれ た上部 デル タの 秋 稲栽 培 に依 拠 し,大 河川支 流 ・旧河道 の形 成 した微 高地 上 に定 住 し, かつ この微 高 地 の 馬 蹄形 状 に よ り,雨季 溢水 の水 勢 をそ ぎ秋 稲 の成長 を保 護 す る とい う開拓型 は上 部 デル タ - の侵 入 とい う点 で ドン ソン文化 -漢代 諸県 の立地 とは, 明確 に分 別 され る。 いわ ば第2

(17)

桜井 :10世紀紅河 デル タ開拓試論 期A型 開拓 と考 え る こ とが で きよ う。 そ して10世 紀早 々に この地 に曲氏 の土豪 権 力 が確 立 した こ とは, こ うした第 2段 階 の デ ル タ開拓 が,す で に この時代 まで に一 定 に進 捗 して い た こ とを示 す もの で あ る。

(B)

扶 蘭案

(

Ph

tlLanTr争i) 先 に みた とお り,大越 史記全 書 に は袈桓 の 諸子 分封 の記録 が あ る。 その うち興統3年 に 「皇 第六 子 折, 馬 禦北王 ,居 扶 蘭案 。」 と あ る。 この扶 蘭案 に つ い て 綱 目1 興 統4年 (992)条 註 は 扶 蘭 。英 名。今 扶衛社 。屡海 陽唐 哀 願 。 とす る。 扶 衛社

(

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V専)は 現 今 の5万 分 の 1地 形図 に はみ あた らない。 しか し, 同慶 御 覧地輿誌 海願 省 唐哀願 には扶衛 総 の名 が あ り, この総 に属 す る社 名 は多 く現 今 地 形 図 の 中 にみいだす こ とが で きる。 したが って この 扶衛総 の近 辺 が扶 蘭 案 と考 えて よか ろ う。 こ の

Ph

もⅤ今総 は先 の

LaXa

社 の南方

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km に位置 す る。 この地帯 は ラ ピ ッ ド河沿 いの た か みか ら, バ ンヴ-河 に流入 す る無 数 の小 河 川 が微 高 地 を え ぐった小 さな崖 を つ く り だ す。高 谷好 一氏 の地形 区分 図12で みれ ば,上 部 デル タに くいい った 自然堤 防 が ま さに消滅 せ ん とす る ところに位 置 す る。第 2期A型 の 開拓 の前 線 とい うべ きで あ ろ う。 (C)杜 洞 江 (DaD6ngGiang)

二使 君 の ひ と り杜 景碩 (DaCanhTh争C) につ い て, 大越 史記 全書 は 「杜 景碩 ,稀杜景 公, 接杜洞江 。」 とし,越 史 略 は 「杜景 公, 名 景項 ,嫁杜 洞 。」とす る。 績 資清適 鑑 長 編44 で い う 「牙 賂杜景 碩」, 宋合要蕃 夷交 鮎 で い う 「楊 景碩」 に はか な らない

[山本 1943: 46]26) 杜 洞江 につ い て綱 目註 は 葦 原 自青威 嚇檀 園社 大 滞, 歴 生 果 郁 李等 社 ,屈 曲至 上福 解上供社 ,合 干鋭 江。呉 仕 史 註今 青威 嚇保 陀郷 ,有 使 君城 故

,- 云 鋭 江 ,一名 杜 洞 江。誤 。 とす る。 山本達 郎 氏 は この記 載 を紹 介 したの ち,現 在 の地 図 で は その河道 は明 らか でな い と してい る。 [山本 1943:45] しか し同慶 御 覧 地 輿 誌 国吉威 願 をみ る と,相 責 ・相場 2 社 の間 に は じま り,壇 園社 ・保 陀社 ・生薬社 ・郁 李社 な どをぬ け,鋭 江 (SらngNhue)に 並行 して河村 で土 中 に没 す る輪 中河 が示 され てい る。 また地 形 図 を み る と D6ngHoang か ら CaoBo にい た る列村 と, 同 じ く CaoBo と DanVien(壇周 )社 の列村 の 間 には じま り, BinhDaの北 をぬ けて HaThon (河村 ) で SangNhueの旧河道 に合 流 す る小水路 の 存 在 に よ って その跡 を探 す こ とが で きる。 この杜 洞 江 の杜景 頓 の拠地 につい て大南一 統 志河 内省占 蹟 は 杜便 君 廃城 ,在 青威 ,史記 使君 杜景 碩嬢杜 洞江 ,今 保 陀社 ,是城 虻 尚存 。 と して い るO この保 陀社 に 山本氏 は Ng6Vi Li昌n の説 をひい て [山本 1943:45,88]27) 保 陀社 を現 KテThay村 に あて てい る。 しか し同慶 御 覧地輿 誌 お よび 同園 では KナThay 村 (洪 水社 ) と保 陀杜 は明 らか に別 の社 で あ り,両社 は道 路 で明確 に画 され て い る。 お そ ら く位 置か らすれ ば,K夕Thayの南方 1km に あた るBinhDa(お そ ら く平 陀-BinhD去) が 旧保 陀社 にあた るの で はなか ろ うか。 26)綱 目前編5 乾繭 3年によれば, この杜景頓は 越史略のい う,呉昌文が乾繭 3年,太平唐院2 村を攻めた時,楊三雷か ら配下につけられた楊 杜二使の うちの杜使であるとい う。この伝承が 正 しい とす ると,呉権 または楊三苛の権力は, 杜洞江の豪族である杜景硯のごとき地方豪族の 軍事力のゆるい連合に拠 って成立 していたこと を示して興味深い。筆者は別論に記すように, この国家構造は少な くとも陳初まではつづ くと 考 えている。 27)山本氏はこの 考 証 を Ng6 ViI.i喜n. 1928. Nomenclaturede∫commuTZe∫duTonkin.221よ り

ひくが,筆者は未見。

(18)

東南 アジア研究 17巻4号 この杜 洞 江 の地 は 紅 河 と S6ngDayに は さまれ た, いわ ゆ る ハ ドン輪 中 (Casierde Hadong), あ るい は高谷好一氏 の地形 区分 で い う west且oodplain(西氾 濫原 )に属 す る。 紅 河本 流 の右岸 に形 成 され た 巨大 な 自然 堤 防 に北辺 お よび東 辺 を画 され,一 方 S6ngD孟Y の左 岸 の 自然堤 防 に西辺 を 塞 が れ , さ らに S6ngPhもLテ (フ- リー河) の 自然堤 防 に南 辺 を閉 じ られ た この 巨大 な 四辺形 は,近 世 の 1級 堤 防 に よ る大輪 中化 を待 つ まで もな く, それ 自身 自然 の閉塞 低地 を形成 してい る。 こ の た め,先 の洪州 の大輪 中 とは らが って,一 度紅 河 の水位 が オ ーバ -バ ンク した場 合 , そ の水 量 をはかす排 出 口 を もたない。 た とえば 1915年 , ハ ドン省 HaaiDd'C 府 の H争 Tri 総 にあ る LienM争C の堤 防が決壊 した 際 に は400億 m3 と推 計 され る巨大 な水 量 が, こ のハ ドン輪 中内 に流入 し,冠 水 面積 は10万3 干 ha,輪 中南部 では水高 は実 に標 高 6m の 線 に まで達 した とい う。 [Gourou 1936:87] 同慶 御 覧地 輿誌 河 内省 山明願 ・物 産 では 避年 夏秋 雨 水横 溢 ,人 獲 魚利 ,拾 萱 ・拾 式 月 ,低 田末

滅 。 として, 冬 にい た って もなお低地 米 田 では水 が ひけない こ とを示 して い る。 この さまは ラ ン ドサ ッ ト写真 の1975年12月29日に乾季 冠 水 地 域 が明確 に写 しだ され てい る。 本 来 , か よ うな氾 濫原 地帯 にお い て は雨季 の水位 高 の た めに低地 にお け る秋 稲 の栽 培 は 不 可能 で あ る。 しか しな が らこの地 には杜 洞 江 ・鋭 江 (SangNhue) の よ うな紅 河氾 濫 の 置 き忘 れ た小 支 流 が メア ンダー を く り か え し, その各 々が低小 な 自然 堤 防 を形 成 してい る。 もとよ りそれ は SangDayの よ うな 主 要 河川 の産 みだ した 自然 堤 防が 8- 10m の 高 度 を有 す るの に対 し,小 河川 間 の それ はわ ず か に 3m 前後 と,低地 に対 して 1m の高 位 差 しか もたな い。 したが って19世 紀 以 降 の 地 誌 ・地 図 に よれ ば この地域 で はわず か な高 614 地 上 の秋 稲 栽 培 と,低地 での夏 稲栽 培地 帯 と が複雑 な モザ イクをな して い る。 同慶 御 覧地輿誌 河 内省育 威 嚇 ・物産 は 上 育成 ・左 育成 ・桐 陽 ・勝 覧 ・保 陀 ・戟 眉 方 申 ・水 甘等 絶 , 夏 田少 , 秋 田多 。 間樹 土 績 ・芋 ・宣 。大定 ・洞 究 ・貝渓 ・約程 等 経 ,秋 田少,夏 田多 。 とあ って,総 ご とに作付 け選 択 が な され た こ とを示 してい る。 これ を同慶 御 覧地 輿誌 囲 , 5万分 の 1地 形 図 にのせ る と, お お むね前 者 の 「夏 田少,釈 田多」 の諸総 は喝江 (SangDay)・鋭 江 ・杜 洞 江 の 自然堤 防上 に分 布 し,後者 の諸 総 は小 河川 間 の低地 に位 置 す るこ とが わか る。28) 図8は旧保 陀社 と思 わ れ る Binh Da (辛 陀)社 一帯 の村 落 を黒 く塗 って,杜 洞 江 ・鋭 図8 杜洞江付近 28)ただし無堤防の時代においては,雨季の採水地 帯は著 しく拡が り, したがって秋稲地帯の分布 は現在よ り狭小であったろう。同慶御覧地輿誌 育威陳 ・物産によれば,杜洞江に面 した諸総は 「夏田少,秋田多」であるが,大越史記全書2 天成5年 (1032)夏四月条には 「帝,宰杜洞江●●● 信郷,耕籍田。農人献夏田禾一重九穂,詔改其●●● 田日麿天。」 とある。 これによれば,11世紀で は皇帝の農業祭杷用の田である籍田です ら,夏 田であったことになる。

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桜井 :10世紀紅河 デル タ開拓試論 江 との関係 を示 した ものであ るが, この形 態 は先 の洪州魯舎社付近 と同 じ く, み ご とな馬 蹄形 をな してい る。無堤 防の時代,紅河 の暴 溢 に よ り,商流す る水量 を減勢 させ,かつ南 方 の低 地 に排水 させ るために この微高地形 は きわ めて有効 に作用 したであ ろ う。 以上 の ご とく,杜洞江 もまた洪州 魯会社 と 同 じ くデル タ開拓 の第2期 に あた り,大 河川 沿辺 の 自然堤 防 よ り,小河川 もし くは旧河道 自然堤 防 を利用 しての低地へ の降下段階 と考 えることがで きる。ただ その対象 とな る低地 が,先 の魯舎社 の よ うな上部 デル タの比較 的 水 は けの よい地 とちが って,雨季冠 水 のため に秋稲耕作 が困難 な後背低地 であ った。 この ため, この地帯 での開拓 は, かつ て中溝農業 にお いて低 湿地耕作 に開発 され た夏稲栽 培 に よ らな けれ ばな らなか った。 したが って この 型 は作付 け選択 -農学 的適応 の延長 上 に位置 す る と考 え られノよ う。 この意 味で この型 は先 の第2期 A型 と分 別 し,第 2期 B型 として整 理 すべ きで虜'ろ う。 (D)大境 (D争iDe) 太平10年 (979)十 月, ヴェ トナ ム 最 初 の 統一者丁部領 (Dinh JうらLinh) は筆 問の城 中で祇候 内人 の杜樺 (DるThich) な る も の に殺 され る。 この杜樺 について,綱 目1 同 年条 註 は 「天本大更人 」 としてい る。大堤社 は同慶御覧地輿誌南定省務本願 によれ ば安距 総 に属 す る。 地形 図 でみ ると,現 Nam D享nll 省市 の 南西 5km に あ り, 南 定 河 (Sang Nan DinhGiang) の支流 S6ngVinhGiang のつ くる低小 な 自然堤 防上 の村落 であ る。 こ の村 の南 にはすでに沿岸砂丘列 の最奥部 がせ ま ってい る。 起伏地上村落 の最 南 とい うべ き で あ ろ う。 この村落 の西方 5km に拡 が る顕 磨 (HiるnKhanh)総 は別論 で述 べ るよ うに, 李朝期鷹豊 (O'ng phong)行宮 が 置 かれ 籍 田が営 まれ た地 であ る。 もし綱 目の伝承 を信 ず るな ら, この大堤社 も第2期B型 として, 当時開拓前線 の ま さに 尖端 に位置 してい た とみ るこ とがで きよ う。 Ⅳ 自然堤防 +砂洲 (A)章 陽 (Chu'o'ngDu'o'ng) 告 開運元年 (944)呉権 が 投 す るや, その 后楊氏 の 兄弟 であ る 楊三軍 (Du'o'ngTham Kha)が慕位 して乎 王 を名 の った。 この暢三

の出 白について史料 は何 も語 らないが, た だ大越史記外紀全 書5は楊三苛 が漠乾祐3年 (950), 呉権 の 2子 に敗 れて 退位 したの ち, 食 邑 を賜 わ った 地 として 「今章 陽渡是也 。」 としてい る。 この章 陽渡 について綱 目前編 7註 には 章 陽。 渡名。今河 内省上福解毒 陽社 。 とし,大南一統 志河 内省古 蹟 には 章 陽古波 ,在上福願 。史夕帽己呉 昌文所賜楊 三寄食 邑地是。輿興安東安朗子社相対 。 とあ り, ハ ノイ省 Thu'∂ngTin (常信 )府 の Chu'o'ngDu'o'ng社 で あ る とされ る。 この地 が 出身地 でない まで も,楊氏 の勢力 と何 らか のつなが りが あ った こ とは誤 りない。 この章 陽社 (同慶御覧地輿誌 で は 彰 陽 社 Chu'o'ngDu'o'ng) の位置 は きわめ て 興 味 深 い。彰 陽社 の立地 は先 の束扶烈社 の 南 南 東 9km の, 同 じく紅 河西岸 に発達 した 自然堤 防上 の 村 落 であ る。 地形 図 を み る と こ の Chu'o'ngDu'o'ng社 の 周 囲 に は Ky Duong・ Thu Duong・ChuongLoc な どの 村落 が北 か

ら南 に列状 に分布 してい る。 これ は同慶御覧 地輿誌 河 内省 常信府 上福解彰徳 総捌社 にの る 岐陽 ・惟 陽 ・彰禄 の各社 にあた る。 いずれ も 彰 または陽 を共有 す るこ と,地域 が きわ めて 近接 してい ること, また

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世紀 にいた って も 一 つの総 を形成 してい る点か らみてかつ ての 615

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