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詩人としての小川未明 ――詩集『あの山越えて』の考察 利用統計を見る

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(1)

詩人としての小川未明 ――詩集『あの山越えて』

の考察

著者

増井 真琴

著者別名

MASUI Makoto

雑誌名

東洋大学大学院紀要

54

ページ

15-30

発行年

2017

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009746/

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はじめに 詩 集『 あ の 山 越 え て 』( 尚 栄 堂、 大 正 三 年 一 月 ) は、 小 川 未 明 が 生 涯 に 著 し た 唯 一 の 詩 集 で あ る。 未 明 を 評 す る に 際 し、 「 小 川 未 明 の 本 質 は ハ ー ン が そ う だ っ た よ う に 詩 人 な の で す 」( 原 子 朗「 ラ フ カディオ・ハーンと未明を語る」 「ネバーランド」平成一八年七月) と い う よ う な、 未 明 の 詩 人 性 0 0 0 に 着 目 し た 本 質 規 定 は 少 な く な い が (注1) 、彼は「本質」以前に、文字通り、詩を紡ぐ詩人であったの だ。 しかるに、未明の詩人としての活動は、従来、必ずしも注目され て き た と は 言 え な い。 例 え ば、 『 あ の 山 越 え て 』 の 先 行 研 究 は、 論 文が一本(畠山兆子「未明文学における「詩」の意味  

『詩集 あ の 山 越 え て 』 と 小 説「 遠 き 響 」 を 中 心 に 」「 梅 花 女 子 大 学 文 学 部 紀 要 」 昭 和 六 〇 年 一 二 月 )、 準 論 文 が 一 本( 若 林 敦「 詩 集『 あ の 山 越えて』  

小説との対応」 「小川未明文学館館報」平成二一年五 月 )( 2) 、 エ ッ セ ー が 一 本( 紅 野 敏 郎「 エ ッ セ イ   未 明 の 詩 集 『 あ の 山 越 え て 』」 『 未 明 ふ る 里 の 百 年 』 昭 和 五 八 年 五 月 ) の、 計 三 点があるのみだ。小埜祐二は、未明の童話作家としての側面に比し て、 「小説家・随想家としての側面は閑却されがちである」 (「概説」 『小川未明Ⅱ   全小説・随筆』日外アソシエーツ、平成二八年六月) と指摘しているけれど、詩人としての側面も、事情は同様である。 そこで本稿では、未明研究史の影のひとつとも言うべき、詩人・ 未明の行状に光を当てるべく、詩集『あの山越えて』の考察を試み たい。具体的には、まず、これまでの先行研究では存外無視されて きた、詩集にまつわる基本的な情報

書誌・同時代評・背景

の 精 査 を 行 う )。 次 に、 本 書 の 詩 篇 と、 そ の 基 と な っ た 明 治 三〇・四〇年代の小説群に、どのような対応関係があるのか、両テ キ ス ト 間 の 異 同 を 比 較 検 討 す る )。 最 後 に、 詩「 淋 し い 暮 方 の歌」の精読を通して、本書所収の詩の内容的特質を押さえる (三 節) 。 明治期の口語自由詩に着目することで、小川未明=童話作家とい

文学研究科日本文学文化専攻博士前期課程修了

 

増井

 

真琴

詩人としての小川未明

 

――詩集『あの山越えて』の考察

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う単一的な図式を相対化する視座を得る

それが本稿の企図する ところだ。 一、詩集『あの山越えて』  

書誌・同時代評・背景 詩を読解するに先立ち、本節では、詩集『あの山越えて』の書誌 および同時代評を確認しておきたい。また、詩集が発行された大正 三年一月前後の、未明の文壇的位置も見定めておく。 『 あ の 山 越 え て 』 の 詩 は 全 部 で 六 九 篇。 出 所 の わ か ら な い 二 篇 を 除き、初出はいずれも、明治三七~四五年の間に集中している (注 3) 。 し た が っ て 本 書 は、 大 正 三 年 の 発 行 で あ り な が ら、 実 質、 明 治三〇・四〇年代の詩業であると見做せよう。 だ が、 こ の 詩 集 の 特 異 な 点 は、 そ の 初 出 が 総 じ て、 完 成 し た 「詩」ではなく、 「小説」に内包されているという点だ。つまり、小 説 の 登 場 人 物 の 吟 唱 す る 詩 歌 や、 小 説 の 地 の 文・ 会 話 が そ の ま ま

あ る い は、 幾 分 か の 修 正 を 加 え ら れ て

、「 詩 」 と し て 収 録 さ れ て い る の で あ る。 若 林 敦 が、 「 私 た ち が〈 近 代 詩 〉 を 読 み 解 く しかたで近づくかぎり、これらの詩の意味はまるでちんぷんかんぷ ん」 (「詩集『あの山越えて』  

小説との対応」 「小川未明文学館 館報」平成二一年五月)と指摘するように、小説という 文 コンテクスト 脈 抜きに、 詩を単体で理解しようとすることは、極めて困難と言ってよい (注 4) 。両者の関係については、次節で詳しく検討する。 同時代評はどうか。管見の範囲では、新聞広告が一点、雑誌の新 刊紹介が二点、文芸評論家の新聞での論及が一点の、計四点が存在 す る。 一 様 に、 先 行 研 究 で は 言 及 さ れ て い な い 論 評 な の で、 以 下、 順を追って引用・検討したい。 まずは、新聞広告である。 未明氏は詩集はただこれ一つだけである。すべて初期時代の彼 の『愁人』や『緑髪』を書いた頃の詩作であつて、悲しい日本 海の色を思はせるやうな、荒れた裾野に淋しく行く白雲を思は せるやうな単純な、素朴な、一種の牧歌である。このきれぎれ の歌の裡にもローマンテックの不思議な霊魂は流れてゐる。北 方の自然を懐かしみ、北方の海の色を愛するやうな人々に、こ の詩集をすすめる。  新聞広告( 「朝日新聞」大正三年一月二一日) これはおそらく、発行元の尚栄堂が書いた広告文だろう。この短い 広告文で、尚栄堂は、未明の詩集が本作しか存在しないこと、第一 創 作 集『 愁 人 』( 隆 文 館、 明 治 四 〇 年 六 月 ) や 第 二 創 作 集『 緑 髪 』 ( 隆 文 館、 明 治 四 〇 年 一 二 月 ) を 著 し た 明 治 期 の 詩 作 で あ る こ と、 未明の郷土である「日本海」や「北方の自然」を喚起させる作風で あることをアピールしている。 もっとも、紅野敏郎が指摘するように、 「尚栄堂という本屋自体、 他にどういう本を出しているのか、あまり馴染みのない名」 (「エッ

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セ イ   未 明 の 詩 集『 あ の 山 越 え て 』」 小 川 未 明 生 誕 百 年 記 念 事 業 実 行 委 員 会 編『 未 明 ふ る 里 の 百 年 』 昭 和 五 八 年 五 月 ) で は あ る 5) 。 次は、雑誌の新刊紹介。どちらも、匿名のため、書き手は不明だ。 詩集である。可憐な童謡風のものもあれば、しほらしい里謡風 のものもある。其の何れも諄朴なる作者の感情が極めて自然に 流露して、一篇の詩となつたものである。作者は、巻頭に序し て、 「 自 然 に 対 し て 偽 り な い 自 分 の 幼 い 詠 嘆 で あ り、 ま た 思 慕 である」と云つて居る。 現下の文壇に於て最も詩人的要素に富 んだ未明氏 の端的なる感情の流露たる詩を我等の前に示された ことは、未明其の人を知る上に好個の鍵を与へられたやうな気 がする。  「新刊紹介」 (「新潮」大正三年二月) 小川未明氏の詩集である。 未明氏は小説家といふよりも詩人で ある 。曠野のやうに悲しい寂しい人生に立つて、その 曠野のや うに悲しい寂しい人生を歌ふ詩人である 。本集に収められたも の は氏の旧作で あ る。 「け れ ど私に は捨て が た い懐し み を覚え る。 自 然 に 対 し て 偽 り な い 自 分 マ 幼 マ い 詠 嘆 で あ り、 ま た 思 慕 で あ れ ば」と著者は言つて居る。一句一章悉く作者の内心本然の叫び である。暗い淋しい恐ろしい風の吹くやうな夜、之を吟唱すれ ばそぞろに涙の滲み出るを覚える の ママ であらう。  「新刊紹介」 (「文章世界」大正三年三月) 「 新 潮 」 と「 文 章 世 界 」 の 書 評 に 共 通 し て 存 す る の は、 未 明 の 詩 人 性 を 強 調 す る 文 章 で あ る。 す な わ ち、 「 現 下 の 文 壇 に 於 て 最 も 詩 人 的要素に富んだ未明氏」 「未明氏は小説家といふよりも詩人である」 といった評言がそれだ。 これは、未明の文学的感性の鋭さを褒賞する、ある種の 修 レトリック 辞 と考 えてよかろう。同種の言い回しには、例えば、片山伸の「 小川君は 小児の心を失はない詩人である 。私は君が益々本能的に生き、益々 諄 に 生 き る こ と を 切 望 す る も の の 一 人 で あ る 」( 「 序 」『 白 痴 』 文 影 堂書店、大正二年三月)といった人物評がある。 最後は、相馬御風の文芸評論の一節。彼は本書に関する、唯一の 実名評者でもある。 此 の 間 は 本 を 送 つ て く だ す つ て、 有 難 う。 「 あ の 山 越 え て 」 を 読んで居ると、ずつと以前の君を思ひ出すと共に、僕は小供の 頃の自分や越後の自然が思ひ出されて、たまらなく好い気持に なる。そしてあの頃の君や僕と、今の君や僕を思ひ合せて、そ のあまりに違ひ方の烈しいのに自分ながら驚かざるを得ないの だ。でもまだ君の方は僕などに比べると、多分に幼い頃からの 心持を失はないで居る。

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 相馬御風「三月の作品を読んで   五作家に寄する手紙(四) 」  (「読売新聞」大正三年三月一八日) 未明と御風は、新潟の高田中学から早稲田大学へともに進んだ、旧 知 の 間 柄 で あ る。 互 い に「 竹 馬 の 関 係 」( 未 明「 無 責 任 な る 批 評   生 方・ 白 石 両 君 に 」「 読 売 新 聞 」 大 正 二 年 九 月 三 日 )、 「 中 学 校 に 通 つてゐた以来の友人」 (御風「序」 『底の社会へ』岡村書店、大正三 年九月)と認め合うほど仲がよい (注6) 。 その御風が、未明から献本を受けて、綴っているのが右記の一文 で あ る。 御 風 は、 本 書 を 紐 解 く と、 過 去 が 懐 古 さ れ、 「 た ま ら な く 好 い 気 持 に な る 」 一 方、 「 あ の 頃 の 君 や 僕 と、 今 の 君 や 僕 を 思 ひ 合 せて、そのあまりに違ひ方の烈しいのに自分ながら驚かざるを得な い」と、昔日との乖離を痛感している。 加えて未明もまた、本書の序文で「あの時分の思想である。旧作 である。けれど私には捨てがたい懐しみを覚える。自然に対して偽 り な い 自 分 の 幼 な い 詠 嘆 で あ り、 ま た 思 慕 で あ れ ば。 ( 中 略 ) 君 ( 樋 口 斧 太

引 用 者 注 ) が 絵 を か く と こ ろ か ら、 あ の 時 代 を 紀 ママ 念 にするために、君の絵を入れて此の詩集を出すことにした」と書き 記 し て い た の で あ っ た。 「 あ の 頃 」「 あ の 時 分 」「 あ の 時 代 」 が い つ な の か、 具 体 的 に は 明 示 さ れ て い な い け れ ど、 両 者 と も、 『 あ の 山 越えて』の世界と、現在の自分たちの境遇に、ある種の 断絶感 0 0 0 を感 じている様子が窺える。 では、その 断絶 0 0 とは何か。言うまでもなく、それは、詩が紡がれ た「明治」と「大正」という時間の断絶であるだろうし、詩が表象 す る 郷 土「 新 潟 」

こ の 点 に つ い て は、 三 節 で 詳 述 す る

と 「 東 京 」 と い う 距 離 の 断 絶 で も あ る だ ろ う。 そ し て 未 明 は、 こ の 二 つの断絶を経て、この時期、小説家としてのキャリアの転換を行っ ていた。すなわち、本書が発売された大正三年一月前後は、後から 振り返った時、未明が社会主義思想・運動へ接近する 起点 0 0 とも言う べき時期であることが明らかなのである。 ま ず、 文 壇 的 な 史 実 を 述 べ る な ら ば、 大 正 二 年 六 月、 大 杉 栄 は 「 近 代 思 想 」 の「 小 説 三 編 」 で、 未 明 の 小 説「 嘘 」 を 取 り 上 げ、 大 杉 が 未 明 宅 を 訪 れ る な ど、 両 者 の 間 に 交 友 が 生 ま れ た 7) 。 荒 畑 寒 村 も、 同 年 一 二 月 の「 近 代 思 想 」 の 書 評 で「 嘘 」 へ 言 及。 「「嘘」に至つては、その真実と深刻とは、驚くべき力で読者に迫り、 その徹底的にして辛辣鋭利なる批評のメスは、直ちに入つて社会組 織 の 根 底 を 作 せ る 不 正 邪 悪 を 貫 き 抉 つ て 居 る。 ( 中 略 ) 自 分 は 此 の 「 嘘 」 の 一 篇 を 以 て、 今 年 の 文 壇 に 於 け る 傑 作 の 一 だ と 云 ふ に 躊 躇 しない」と激賞する。 さらに同時期、御風は「人間性の為めの戦ひ   『廃墟』を読んで」 (「 読 売 新 聞 」 大 正 二 年 一 一 月 三 〇 日 ) で、 未 明 の 新 刊『 廃 墟 』( 新 潮社、大正二年一〇月)を論じるのだが (注8) 、この書評を機に、 御 風 と 大 杉 の 間 に は、 「 個 人 革 命 」 と「 社 会 革 命 」 の 優 劣 を 論 じ る 論 争 が 巻 き 起 こ っ た 9) 。 未 明 は、 突 如 周 囲 で 勃 発 し た 論 戦 に

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対し、 「思想上の貴族主義者と平民主義者との争ひが起りさうです」 (「 最 近 の 感 想 」「 読 売 新 聞 」 大 正 三 年 一 月 一 八 日 ) と、 ビ ビ ッ ド に 反応している。 思想的には、御風が、先に紹介した文芸評論「三月の作品を読ん で   五作家に寄する手紙(四) 」で、 「虐げられた人々の生活を書く やうになつて居る君の心持にはたしかにこれ迄には見られなかつた 一種の温かみが出て来たやうに思ふ。ダスタエフスキーやゴーリキ ー な ど の 胸 に 燃 え て 居 た 一 種 の ヒ ユ ー マ ニ タ リ ア ニ ズ ム( 人 情 主 義)が、仄ながらに君の攪き乱された胸の中にも芽を吹きかけて来 た の で は な い か。僕は そ こ に最近の君の芸術の一新境 到 ママ を認め た い」 と述べ、社会的弱者を注視するようになった、未明の変化を指摘し ている点にも、注目したい (注 10)。 事実、未明は「貧富の隔絶最も甚しき社会にあつて、吾等は死力 を尽して働いてすら、尚ほ普通の生活をつづけて行くことが困難で ある。日々社会から肉体上にも、精神上にも、深い傷を受けつつあ る」 (「我が実感より」 「時事新報」大正三年一月五~七日)と語り、 持 つ 者 と 持 た ざ る 者 の 絶 望 的 な 格 差 を 嘆 い て い る 11)。 こ の 辺 り の「 近 代 思 想 」 グ ル ー プ と の 接 点 お よ び 下 層 階 級 へ の 憐 情 が、 「 小 川 未 明 な ど も 早 稲 田 派 に し て 比 較 的 早 稲 田 派 其 の 物 に 囚 は れ て 居 ら ぬ 」( X Y Z 「 文 壇 団 体 評 論   早 稲 田 派 を 論 ず( 二 )」 「 新 潮 」 大正三年二月)などと評される背因だろう (注 12)。 明治から大正へかけて、小川未明は 断絶 0 0 を意識せざるを得ないよ うな思想的変貌を、間違いなく遂げていたのである。 二、テキストの異同  

初出(初収)と詩集の間 さて、先に述べた通り、大正期、発行された『あの山越えて』の 詩篇には、その詩を内包する、明治三〇・四〇年代の小説群が存在 するのであった (注 13)。本節では、先行する初出紙・誌(初収本) と詩集の間にどのような差異があるのか、テキストの異同を確認し たい。 この点を突いた先行研究としては、畠山兆子「未明文学における 「 詩 」 の 意 味  

『 詩 集 あ の 山 越 え て 』 と 小 説「 遠 き 響 」 を 中 心 に」 (「梅花女子大学文学部紀要」昭和六〇年一二月)がある。畠山 は、論考で、小説と詩の対応関係を、Ⅰ型「行替えはあるが、小説 の 中 に そ の ま ま の 形 で 含 ま れ て い る も の 」、 Ⅱ 型「 何 箇 所 か に 語 句 の訂正があるもの」 、Ⅲ型「内容的にはほぼ同じだが、移動や省略、 加筆などがあるもの」の三つに類型化し、各型の事例を表のかたち で 引 用・ 紹 介 し た。 こ の 作 業 は、 も ち ろ ん 意 義 深 い 仕 事 な の だ が、 と同時に、何点か、その限界も指摘せざるを得ない。 一つは、各型の定義が曖昧な点である。例えば、Ⅱ型の「何箇所 かに語句の訂正があるもの」と、Ⅲ型の「移動や省略、加筆などが あるもの」の違いは何なのか、今一つはっきりしない。二つは、報 告されている事例が、一類型あたり、わずか一、二に過ぎない点で ある。これでは、全六九篇の中で、各類型が何割程度の比率を占め

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ているのか、全容がわからない。三つは、表で使われている小説の テ キ ス ト が、 『 定 本 小 川 未 明 小 説 全 集 』 第 一 巻( 講 談 社、 昭 和 五 四 年四月)から引かれている点である。畠山は表を作成するにあたっ て、初出の新聞・雑誌はおろか、初収の単行本にもあたっていない 可能性が高い。 そこで本稿では、上記の限界を止揚するべく、以下の対応を取る ことにした。まず、詩の三類型の定義を、次の通り、明確化する。 Ⅰ型   初出(初収)の中に詩の原形をそのまま維持しているも の Ⅱ型   基本的に原形を維持しているが、部分的に、加筆・修正 が見られるもの Ⅲ型   大幅な改稿が見られ、原形を維持していないもの 何のための定義かと言えば、要は、初出紙・誌(初収本)から詩集 へ移行する際の変化の度合いを、測るためのクラス分けである。い ずれの場合も、句読点・括弧・三点リーダーといった言語文字以外 の表記の変更や、誤植、改行、漢字の送り仮名の相違は修正点と見 做さない。 次 に、 各 類 型 が『 あ の 山 越 え て 』 の 中 で 占 め る 比 率 を 知 る べ く、 詩の基となった、すべてのテキストにあたる。ただし、詩「ひまわ り」 (一三) (注 14) は、今に至るも典拠となった作品が定かでない ので、調査対象は「ひまわり」を除く六八篇の初期形態だ。 最後に、テキストの調査に際しては、六八篇中、初出が判明して いる六三篇は初出紙・誌を、初出が判明しているが雑誌を入手でき な い 四 篇

「 暗 愁 」( 一 八 )「 赤 い 旗 」( 二 八 )「 お 江 戸 は 火 事 だ 」 ( 四 四 )「 風 景 」( 五 三 )

と、 初 出 が 不 明 な 一 篇

「 春 の 夜 」 (二〇)

は初収の単行本にあたった。 さて、調査の結果は 表1 のようなものであった。Ⅰ型は、六八篇 中、 「 寂 寥 」( 六 )「 怨 み 」( 一 七 )「 春 の 夜 」( 二 〇 )「 唄 」( 二 三 ) 「唄」 (二四) 「木樵」 (二五) 「人と犬」 (二七) 「古い絵を見て」 (三 七) 「お江戸は火事だ」 (四四)の九篇が当てはまる。全体に占める Ⅰ型の割合は、一三%だ。 Ⅰ型は大きく三つのタイプに分かれる。一つは、小説に登場する 詩歌が、そのまま詩集へ抜粋されているもの(六・二三・二四・二 五・ 二 七・ 三 七 )。 二 つ は、 小 説 の 地 の 文・ 会 話 の 一 節 が 詩 集 へ 抜 き 書 き さ れ て い る も の( 一 七・ 二 〇 )。 三 つ は、 も と も と 単 品 の 童 謡 と し て 発 表 さ れ た も の だ( 四 四 )。 Ⅰ 型 は、 元 来、 小 説 内 部 に お いて、相対的に自律していた詩歌のテキストが目立つ。 Ⅱ 型 は、 「 西 の 空 」( 一 )「 冬 」( 二 )「 木 枯 」( 三 )「 唄 」( 四 )「 曠 野 」( 七 )「 闇 」( 八 )「 夜 」( 九 )「 淋 し い 暮 方 の 歌 」( 一 一 )「 白 雲 」 ( 一 五 )「 暗 愁 」( 一 八 )「 梨 の 花 」( 一 九 )「 幻 影 」( 二 一 )「 街 頭 」 ( 二 二 )「 糸 車 」( 二 六 )「 夕 暮 」( 三 〇 )「 木 立 」( 三 二 )「 天 気 に な れ」 (三四) 「童謡」 (三五) 「水鶏」 (三六) 「星」 (三八) 「菜種の盛

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『あの山越えて』 元のテキスト 初出 初出との関係 初収 初収との関係 詩の原形 1 西の空 水車場 「早稲田文学」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 詩歌 2 冬 牧羊者 「東京日日新聞」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 詩歌 3 木枯 水車場 「早稲田文学」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 詩歌 4 唄 幽霊船 「新古文林」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 詩歌 5 白い棺 柩 「早稲田文学」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 6 寂寥 寂寥 「文章世界」 Ⅰ 『北国の鴉より』 Ⅰ 詩歌 7 曠野 寂寥 「文章世界」 Ⅱ 『北国の鴉より』 Ⅱ 地の文・会話 8 闇 闇の歩み 「新潮」 Ⅱ 『闇』 Ⅱ 地の文・会話 9 夜 ※森の暗き夜 「新潮」 Ⅱ 『闇』 Ⅱ 詩歌 10 月琴 寂寥 「文章世界」 Ⅲ 『北国の鴉より』 Ⅲ 地の文・会話 11 淋しい暮方の歌 沈黙 「東京日日新聞」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 詩歌 12 菅笛 鉄片 「新声」 Ⅲ 『北国の鴉より』 Ⅲ 地の文・会話 13 ひまわり (未詳) 14 古巣 燕 「新潮」 Ⅲ 『北国の鴉より』 Ⅲ 地の文・会話 15 白雲 雲の姿 「中央公論」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 地の文・会話 16 水星 空想家 「早稲田文学」 Ⅲ 『愁人』 Ⅲ 地の文・会話 17 怨み 暗愁 「ハガキ文学」 Ⅰ 『愁人』 Ⅰ 地の文・会話 18 暗愁 煎餅売 「女子文芸」 (未見) 『愁人』 Ⅱ 地の文・会話 19 梨の花 暗愁 「ハガキ文学」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 地の文・会話 20 春の夜 寂しみ (未詳) 『愁人』 Ⅰ 地の文・会話 21 幻影 森の妖姫 「東京日日新聞」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 詩歌 22 街頭 出稼人 「趣味」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 地の文・会話 23 唄 人生 「早稲田文学」 Ⅰ 『愁人』 Ⅰ 詩歌 24 唄 暗愁 「ハガキ文学」 Ⅰ 『愁人』 Ⅰ 詩歌 25 木樵 叔母の家 「むさしの」 Ⅰ 『愁人』 Ⅰ 詩歌 26 糸車 盲目 「早稲田学報」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 27 人と犬 柩 「早稲田文学」 Ⅰ 『緑髪』 Ⅰ 詩歌 28 赤い旗 歌の怨 「新古文林」 (未見) 『愁人』 Ⅲ 地の文・会話 29 アイルランド 老宣教師 「太陽」 Ⅲ 『愁人』 Ⅲ 地の文・会話 30 夕暮 老婆 「新声」 Ⅱ 『愁人』 Ⅱ 地の文・会話 31 午後の一時頃 霰に霙 「新小説」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 32 木立 笛の声 「新古文林」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 33 茶売る舗 漂浪児 「新小説」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 34 天気になれ 漂浪児 「新小説」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 詩歌 35 童謡 憧がれ 「新潮」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 詩歌 36 水鶏 水車場 「早稲田文学」 Ⅱ 『水車場』 Ⅱ 詩歌 37 古い絵を見て 盲目 「早稲田学報」 Ⅰ 『緑髪』 Ⅰ 詩歌 38 星 深林 「趣味」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 39 菜種の盛り 深林 「趣味」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 詩歌 40 おもちや店 長二 「読売新聞」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 41 お母さん 遠き響 「新小説」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 42 トツテンカン 遠き響 「新小説」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 43 沙原 日触 「早稲田文学」 Ⅱ 『惑星』 Ⅱ 地の文・会話 44 お江戸は火事だ お江戸は火事だ 「秀才文壇」 (未見) 『赤い船』 Ⅰ 童謡(単品) 45 童謡 童謡 「少年文庫」 Ⅱ 『赤い船』 Ⅰ 童謡(単品) 46 烏金 烏金 「趣味」 Ⅱ 『闇』 Ⅱ 地の文・会話 47 黒い鳥 不思議な鳥 「趣味」 Ⅲ 『闇』 Ⅲ 地の文・会話 48 明日はお天気だ 遠き響 「新小説」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 49 森 森の暗き夜 「新潮」 Ⅲ 『闇』 Ⅲ 地の文・会話 50 景色 森の暗き夜 「新潮」 Ⅱ 『闇』 Ⅰ 地の文・会話 51 霙降る 雪来る前 「新小説」 Ⅱ 『闇』 Ⅰ 詩歌 52 さびしい町の光景 烏金 「趣味」 Ⅲ 『闇』 Ⅲ 地の文・会話 53 風景 悪魔 「新文芸」 (未見) 『闇』 Ⅱ 地の文・会話 54 汽車 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 55 童謡 童謡 「少年文庫」 Ⅱ 『赤い船』 Ⅰ 童謡(単品) 56 童謡 童謡 「少年文庫」 Ⅱ 『赤い船』 Ⅱ 童謡(単品) 57 厭な夕焼 酒肆 「新小説」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 58 海 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅱ 『惑星』 Ⅱ 地の文・会話 59 上州の山 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 60 童謡 童謡 「少年文庫」 Ⅱ 『赤い船』 Ⅱ 童謡(単品) 61 黄色な雲 北の冬 「新小説」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 62 無題 捕はれ人 「文章世界」 Ⅱ 『惑星』 Ⅱ 詩歌 63 妙高山の裾野にて 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅱ 『惑星』 Ⅱ 詩歌 64 解剖室 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 65 ある夜 麗日 「東京毎日新聞」 Ⅲ 『惑星』 Ⅲ 地の文・会話 66 太鼓の音 鬼子母神 「読売新聞」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 67 帰途 鬼子母神 「読売新聞」 Ⅲ 『緑髪』 Ⅲ 地の文・会話 68 草笛の音 鬼子母神 「読売新聞」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 69 あの男 鬼子母神 「読売新聞」 Ⅱ 『緑髪』 Ⅱ 地の文・会話 表1 詩集と初出・初収の対応表 ※「夜」の元の小説は、「夜の喜び」(「早稲田文学」明治44年9月)であると、若林敦のリストには記載されているが、正しくは 「森の暗き夜」(「新潮」明治43年8月)であることが、今回の調査で判明した。

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り」 (三九) 「トツテンカン」 (四二) 「沙原」 (四三) 「童謡」 (四五) 「 烏 金 」( 四 六 )「 景 色 」( 五 〇 )「 霙 降 る 」( 五 一 )「 風 景 」( 五 三 ) 「童謡」 (五五) 「童謡」 (五六) 「海」 (五八) 「童謡」 (六〇) 「無題」 ( 六 二 )「 妙 高 山 の 裾 野 に て 」( 六 三 )「 太 鼓 の 音 」( 六 六 )「 草 笛 の 音 」( 六 八 )「 あ の 男 」( 六 九 ) の 三 七 篇 が 当 て は ま る。 全 体 に 占 め るⅡ型の割合は、五五%だ。 Ⅰ型と同様、Ⅱ型も、小説内の詩歌(一 ・ 二 ・ 三 ・ 四 ・ 九 ・ 一一 ・ 二 一・ 三 四・ 三 五・ 三 六・ 三 九・ 五 一・ 六 二・ 六 三 )、 地 の 文・ 会 話(七・八・一五・一八・一九・二二・二六・三〇・三二・三八・ 四二 ・ 四三 ・ 四六 ・ 五〇 ・ 五三 ・ 五八 ・ 六六 ・ 六八 ・ 六九) 、童謡(四 五・ 五 五・ 五 六・ 六 〇 ) へ 手 を 加 え た、 三 つ の タ イ プ に 分 か れ る。 数 的 に は、 詩 歌・ 童 謡 に 対 し て、 地 の 文・ 会 話 を 詩 化 し た も の が、 やや多い。 では、小説と詩の間には、具体的にどのような変化が生じている のだろうか。詩歌→詩のタイプを、それぞれ比較してみよう。 森の腐れから、孵化した蚊が幾万となく合奏し始めた。 (中略) 而 し て 彼 等 は 歌 つ た。 「 生 温 い 夜 、 少 し 赤 味 と 紫 味 を 帯 だ 夜 の 色。この世界 は 皆、血色に関連する。赤錆の出た、平な、一枚 の鉄板のやうな夜の世界 、 其の色は、断頭台の血に錆びた鉄の 色に似てゐる。残酷な料理をする…… … 吾等は、夜の色を賛美 する。 」  「森の暗き夜」 (「新潮」明治四三年八月) 生温い夜 。/ 赤味と紫味を帯んだ夜の色。 / この世界 が 皆、血 色に関連する。 / 赤錆の出た、 / 平な、一枚の鉄板のやうな / 夜の世界 。/ 其の色は、断頭台の血に錆びた / 鉄の色に似てゐ る。残酷な料理を / する…… 。/ 吾等は、夜の色を賛美する。  「夜」 (『あの山越えて』尚栄堂、大正三年一月) 小 説 の 引 用 箇 所 は、 森 の 中 の 蚊 の 一 群 が、 「 酸 ほお 漿 ずき の や う に 腫 れ 上 る まで生血を吸ひたい」と感じ、一斉に高唱する場面である。 両 者 と も 大 筋 に 相 違 は な い が、 「 少 し 赤 味 と 紫 味 を 帯 だ 」 →「 赤 味 と 紫 味 を 帯 だ 」 と い っ た 副 詞 や、 「 こ の 世 界 は 皆 」 →「 こ の 世 界 が 皆」といった助詞に、若干の違いがある点が確認できよう。また、 あらかじめ断っておいた通り、変化としてはカウントしていないけ れ ど、 句 読 点 の 打 ち 方、 送 り 仮 名 の 振 り 方、 三 点 リ ー ダ ー の 数 も、 微妙に異なる点は注意しておきたい。 Ⅲ 型 は、 「 白 い 棺 」( 五 )「 月 琴 」( 一 〇 )「 菅 笛 」( 一 二 )「 古 巣 」 ( 一 四 )「 水 星 」( 一 六 )「 赤 い 旗 」( 二 八 )「 ア イ ル ラ ン ド 」( 二 九 ) 「 午 後 の 一 時 頃 」( 三 一 )「 茶 売 る 舗 」( 三 三 )「 お も ち や 店 」( 四 〇 ) 「 お 母 さ ん 」( 四 一 )「 黒 い 鳥 」( 四 七 )「 明 日 は お 天 気 だ 」( 四 八 ) 「 森 」( 四 九 )「 さ び し い 町 の 光 景 」( 五 二 )「 汽 車 」( 五 四 )「 厭 な 夕 焼 」( 五 七 )「 上 州 の 山 」( 五 九 )「 黄 色 な 雲 」( 六 一 )「 解 剖 室 」( 六

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四) 「ある夜」 (六五) 「帰途」 (六七)の二二篇が当てはまる。全体 に占める、Ⅲ型の比率は三二%だ。 Ⅰ・Ⅱ型と異なり、Ⅲ型は、そのすべてが、小説内の地の文・会 話を詩へ転化したものである。以下、具体的に見てみよう。 ああ、 彼 れの アイルランドは灰色の空で は なくて、青う澄み渡 つてゐる空であ つたかと自分は始めて思つた。 露けき星の光を 見 れ ば、 彼 の 星 は ア イ ル ラ ン ド の 空 に 輝 い て ゐ る の で あ ら う 。 而して其の先の北の方が曾て書物に聞いたグリーンランドであ らう…… と思ふ。春の青い空を見れば、アイルランドが懐かし い !   自分も一度子供の身となつて、其のやうな緑色の湖水や、 草の繁つてゐる牧場で夢見るやうな心地で長閑の日を暮らして 見たいと思ふ。而して其の度に老宣教師の身の上を思ふのであ る。  「老宣教師」 (「太陽」明治三九年四月) アイルランドは 、 灰色の空でなくて、青う澄み渡つてゐる空で あ /る。/ 露けき星の光を見れば、 / あの星はアイルランドの 空に輝いてゐるのであらうと思ふ。 / 春の青い空を見れば、 / や は り、 ア イ ル ラ ン ド が 懐 し い 。 / 私 に 英 語 を 教 へ て く れ た、 宣教師の産れた国。/なつかしい、アイルランドよ! 「アイルランド」 (『あの山越えて』尚栄堂、大正三年一月) 小説の引用箇所は、かつて「英語学者」になることを夢見たものの、 現在「一個の行商人と落ぶれてしまつた」主人公が、中学生時代敬 慕した、老宣教師の母国・アイルランドへ、空想の翼を拡げる場面 である。ちなみに、この「六十近い、赤ら顔の、背の高い」老宣教 師は、未明が早稲田大学時代に私淑した、ラフカディオ・ハーンを 想起させる人物だ。 前回と同じく、小説と詩の共通する部分に傍線を付したが、逆に 言うと、傍線を付されていない箇所は、両者に直接対応する点がな いテキストである。本書執筆時に、小説を参照しつつ、未明が書き 加えたものであろう。 か く し て、 『 あ の 山 越 え て 』 全 六 九 篇

「 ひ ま わ り 」 を 除 く

の内訳は、Ⅰ型九篇(一三%) 、Ⅱ型三七篇(五五%) 、Ⅲ型二 二 篇( 三 二 %) で あ っ た 1) 。 ま た、 詩 の 形 態 と し て は、 小 説 内 の 詩 歌 が 転 用 さ れ た 作 品 が 二 〇 篇( 三 〇 %) 、 地 の 文・ 会 話 文 を 詩 化 し た 作 品 が 四 三 篇( 六 三 %) 、 も と も と 単 品 の 童 謡 と し て 発 表 された作品が五篇(七%)であった (図2) 。 加えて、本稿で詳述する機会はなかったが、初収本にも隈なくあ たったところ、Ⅰ型においては、総じて初出=初収=詩集の関係が 確 認 で き た 15)。 さ ら に、 Ⅱ 型 に お い て も、 初 収 本 で あ れ ば テ キストの差異がないもの、すなわち、初出 ≠ 初収=詩集の関係を持 つ作品が複数確認された。また依然、初出・初収 ≠ 詩集であっても、 初出に比べ、初収の方が、詩集とのテキストの差異が減じる作品も

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少なくなかった (注 16)。 し て み れ ば、 小 川 未 明 は 本 書 の 詩 を 織 り 成 す に あ た っ て、 初 出 紙・誌ではなく、初収本を参照して、複写・改稿していたものと推 量するのが、妥当であろう (注 17)。 三、 「淋しい暮方の歌」  

冬の叙景詩 残 さ れ た 課 題 は、 詩 を 具 体 的 に 読 み 解 く こ と で あ る。 本 節 で は、 「淋しい暮方の歌」 (一一)の精読を行い、もって、 『あの山越えて』 という詩集の持つ特性を考えたい。まずは、詩の全文を引用してお く。 寒 い 風 が 吹 き や、 枯 葦 の 葉 が そ よ そ よ と 鳴 り、 / 灰 色 の 空 が、 暮れるとすれば、/里の小川のちよろちよろ水に、一つ星の影 がさす。/しぎ一羽、飛んで行く/向うの山を見ると寂しさう だ。/野にも、森にも、雪ふりつもり、/夕飯を焚く麓の里に は、薄青い煙が上る。/町の鳥屋へ獲物を売つて、/塩買うて、 米買うて、我が家へ戻る。/ 嬶 かか や、子供が 嘸 さぞ 待つてゐやう。/ 犬の遠吠 幽 かす かに、/雪は凍つて石のやう。 この詩はもともと、小説「沈黙」 (「東京日日新聞」明治三九年三月 一 九 日 ) に 内 包 さ れ て い た テ キ ス ト で あ り、 先 の 三 区 分 で 言 う と、 Ⅱ型に あ て は ま る。 「小川の し よ ろ し よ ろ水」が、 「 ち よ ろ ち よ ろ水」 Ⅰ型 13% Ⅱ型 55% Ⅲ型 32% 図1 Ⅰ〜Ⅲ型の⽐率 詩歌 30% 地の⽂・ 会話⽂ 63% 童謡 7% 図2 詩の原形の内訳 13% Ⅱ型 55% Ⅲ型 32% 図1 Ⅰ〜Ⅲ型の⽐率 詩歌 30% 地の⽂・ 会話⽂ 63% 童謡 7% 図2 詩の原形の内訳

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に変化した以外は、全文初出・初収の通り。したがって本作は、詩 集発行の約八年前、明治三九年三月頃

未明弱冠二四歳頃

の 作品と見做してよい一品だろう。 詩 の 原 形 は 詩 歌 だ っ た。 「 雪 の 降 る 晩 方、 一 人 の 寂 し さ う な 乞 食 が( 中 略 ) 銭 を 請 た か る 願 為 に 」「 厳 い か め 然 し い 或 る 家 の 前 」 で 詠 じ た、 物 乞 いの歌である。だが、 「琴の音」とともに奏でられたこの歌は、 「貴 族や、金持や、都の人達が曾て聞いたこともない素朴な歌」であり、 こ の 邸 宅 の 婦 人・ 富 子 を し て、 「 覚 え ず 涙 を 落 」 と さ せ る ほ ど、 感 銘 を 与 え た。 結 果、 富 子

な い し 富 子 の 家 の 者

は、 「 幾 いく 何 ばく か の銭」を乞食へ喜捨することになる。 詩の内容は、冬の叙景詩と言ってよかろう。それも都会ではない、 田 舎 の 冬 で あ る。 各 所 に 点 綴 さ れ て い る、 雪 に 関 連 す る 語 句( 「 灰 色の空」 「野にも、森にも、雪ふりつもり」 「雪は凍つて石のやう」 ) や、里 ・ 山 ・ 野 ・ 森といった字句( 「里の小川」 「麓の里」 「向うの山」 「野にも、森にも、雪ふりつもり」 )からは、十分に近代化されてい ない、雪国のイメージが喚起される。 翻って、降雪は詩の世界だけではなかった。乞食が琴を掻き鳴ら し、富子が感涙する小説の世界でも、雪は降りしきっているのであ った。 翻々と、さも面白さうに軽く手を拍つて、接吻をしたり、囁い たり、狂ひつ、舞ひつ、見上ぐれば茫々たる天の原から下界の 方 を 志 し て 真 白 な 雪 が 漲 り 落 ち る の で あ る。 ( 中 略 ) あ あ、 若 し雪に目があつたならば、どんな気持で下界の様を見下すであ らう。雪は屹度物哀れに下界の夢の領土を見下すに相違ないと 思ふ。自分(語り手

引用者注)も雪の身となつて暫時たり とも 熱 ねっ 鬧 とう の下界を清浄な塵のない天国から、清らかな、恵み深 い心を以て眺めたいものである。  「沈黙」 (「東京日日新聞」明治三九年三月一九日) ただし、詩の世界と異なり、富子は地方の住人ではない。富子の夫

三 年 間 の ド イ ツ 留 学 を 命 ぜ ら れ た 哲 学 研 究 者

は、 「 今 夜 は 雪も降るのに……横浜へ行つて未だ帰つて来ないのである」とある から、富子夫婦は、大学にほど近い都市の住人であろう。雪が見下 ろす「 熱 ねっ 鬧 とう の下界」という表現からも、その点は推量できる。 し て み れ ば、 「 淋 し い 暮 方 の 歌 」 と は、 雪 降 る 都 会 で 奏 で ら れ た 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 雪降る田舎の歌 0 0 0 0 0 0 0 なのであり、都市住民たる富子は、この都市と地方 の二重構造の中で、乞食の「素朴な歌」の持つある種の郷土性に感 応し、落涙したと考えられよう。 そして、筆者の考えでは、本詩に象徴されるこのような雪国の郷 土性の中にこそ、詩集『あの山越えて』の特徴はある。一節で紹介 した通り、未明と同郷の相馬御風は、本詩集を捉え、 「「あの山越え て」を読んで居ると、ずつと以前の君を思ひ出すと共に、僕は小供 の頃の自分や越後の自然が思ひ出されて、たまらなく好い気持にな

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る 」( 「 三 月 の 作 品 を 読 ん で   五 作 家 に 寄 す る 手 紙( 四 )」 「 読 売 新 聞」大正三年三月一八日)と感嘆していたのであった。 何 故、 「 小 供 の 頃 の 自 分 や 越 後 の 自 然 が 思 ひ 出 さ れ 」 る の か と 言 えば、それは未明の詩句に、鋭く郷里を喚起させる力が宿っている か ら に 他 な ら な い。 例 え ば、 未 明 が 詩 の 二 行 目 で 使 っ た「 灰 色 の 空」という言葉は、御風にとって、越後の「陰鬱な自然」以外の何 物でもなかった。 北国

わけても越後の自然は、驚くべく単調な、そして陰鬱 な自然である。春は花が咲き、夏は空晴れて野は緑に、秋は他 の国々と同じく紅葉を以て鮮やかに色どられるには違ひないが、 さう云ふ色彩の鮮明な期間は、一年のうちでもほんの僅かの間 で 半 年 以 上 は 単 調 な 灰 色 を 以 て 蔽 わ れ た 自 然 で あ る。 ( 中 略 ) 毎年十月から翌年の四月までの間は、殆んど毎日のやうに重た い、 灰色の空 が北越の平野を蔽ふ。  相馬御風「小川未明論」 (「早稲田文学」明治四五年一月) 乞食の歌う「灰色の空」が、どこの土地の空であるか、詩や小説に は一言も明示されていない。しかし、にもかかわらず、それが豪雪 をもたらす「越後の空」であること

少なくとも、越後を基底に していること

は、御風にとって自明の事実なのであった。 もちろん、このような北越を想起させる詩は、 「淋しい暮方の歌」 にとどまらない。詩集『あの山越えて』には、明治三〇・四〇年代 の初期小説において、二〇代の未明が繰り返し描出していた越後の 自然が、存分に表象されていた。 例えば、小説「寂寥」 (「文章世界」明治四四年一月)は、越後を 思わせる雪国の猟師・瀧吉が主人公の三人称小説だけれど、この小 説 か ら 編 み 出 さ れ た 三 篇 の 詩

「 寂 寥 」( 六 )「 曠 野 」( 七 )「 月 琴」 (一〇)

には、いずれも「雪」 「白」という字句が多用され て い る。 あ る い は、 「 妙 高 山 の 裾 野 に て 」( 六 三 ) で は、 「 妙 高 山 」 という越後のローカルな地名が、そのまま詩材化されている。詩集 発 売 元 の 尚 栄 堂 が、 「 北 方 の 自 然 を 懐 か し み、 北 方 の 海 の 色 を 愛 す るやうな人々に、この詩集をすすめる」 (「朝日新聞」大正三年一月 二一日)といった、詩集と「北方の自然」を直結させる広告文をた めらいもなく打つことができたのは、おそらくそのためだ。 そして、一節で紹介した序文や書評に露見している通り、大正三 年、三十路を過ぎた東京暮らしの小川未明と相馬御風は、その郷土 性に、二律背反的な懐旧と断絶を感じていたに違いないのである。 おわりに 以 上、 本 稿 で は、 小 川 未 明 が 生 涯 に 著 し た 唯 一 の 詩 集 で あ る、 『あの山越えて』 (尚栄堂、大正三年一月)の検証を行った (注 18)。 未明=童話作家という通念が先行してか、これまで本詩集の研究は、 必ずしも進展しているとは言い難い状況にあったからである。

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検 証 の 結 果、 明 ら か に な っ た の は、 本 書 の 六 九 の 詩 篇 と 明 治 三 〇・ 四 〇 年 代 に 書 か れ た 初 出( 初 収 ) の 小 説 と の 間 に は、 無 改 稿 ( Ⅰ 型 )・ 部 分 改 稿( Ⅱ 型 )・ 全 面 改 稿( Ⅲ 型 ) の 三 つ の テ キ ス ト 改 変の型が存すること、本書の詩句には、未明の郷土である越後(新 潟)の自然が存分に表象されていることである。マイナーな版元な がら、版は最低、五版を重ねており、売れ行きは上々だったようだ。 現在、小平霊園に眠る未明の墓碑には「詩筆百篇憂国情」との碑 文が、郷里・春日山の父母の慰霊碑には「故山永に父母を埋めてわ が詩魂日本海の波とならん」との碑文が、それぞれ自署で刻まれて いる。童話を主戦場とする散文作家でありながら、自身の文学活動、 な い し は 文 学 精 神 を、 「 詩 筆 」 や「 詩 魂 」 と 形 容 し て い る 点 に、 詩 という表現形式への一方ならぬ愛念が看取されよう。 そして実際、漢詩や口語自由詩を紡ぐ詩人として、小川未明は明 治年間を生きていたのである。 1   例えば、戦後、未明が芸術院会員へ選ばれた際の新聞記事には、 次 の よ う な 記 述 が あ る。 「 初 め の う ち の 夢 見 る よ う な ロ マ ン テ ィ シ ズムから、徐々に社会主義的な正義感が表面に現れて来たが、昭和 十年ごろになると更に生活童話とでもいえるリアリズムへ移ってい った。しかしその底に流れているものは常に温いヒューマニズムで あ り、 そ の 意 味 で は 本 質 的 に は 詩 人 で あ る 」( 「 時 の 人   小 川 未 明 」 「毎日新聞」昭和二八年一一月一五日) 2   若 林 敦 の 文 章 は、 小 川 未 明 文 学 館 の 館 報 へ 寄 稿 さ れ た も の で、 「 そ れ に し て も、 未 明 の 詩 に は、 こ れ ま で お 目 に か か っ た こ と が な い よ な ぁ …」 「 こ り ゃ、 小 唄 だ よ ね 」 等、 文 体 は 一 部 エ ッ セ ー 風 で ある。が、収録されている詩と小説の対応リストには、十分な学術 的価値が認められるため、本稿では「準論文」と区分した。 3   初出紙・誌の判別に関しては、 注2 の若林敦のリストに負うと ころが大きい。謝して、お断りしておきたい。ただし、若林が「未 詳」としている作品の初出が、その後刊行された、小埜祐二編『小 川 未 明 Ⅱ   全 小 説・ 随 筆 』( 日 外 ア ソ シ エ ー ツ、 平 成 二 八 年 六 月 ) で判明した例も、三件あった。 4   こ の よ う な 読 み 手 側 の 制 約 に も か か わ ら ず、 『 あ の 山 越 え て 』 は順調に版を重ねていた。畠山兆子は、大正七年一〇月時点で、本 書 の 奥 付 が 五 版 へ 到 達 し て い た と し、 「 発 行 部 数 に も よ る が、 毎 年 増刷されており、結構売れていたと予想される」 (「未明文学におけ る「詩」の意味  

『詩集あの山越えて』と小説「遠き響」を中 心 に 」「 梅 花 女 子 大 学 文 学 部 紀 要 」 昭 和 六 〇 年 一 二 月 ) と 指 摘 し て いる。 5   ち な み に、 『 あ の 山 越 え て 』 と 一 緒 に 掲 載 さ れ て い る 尚 栄 堂 の 新 聞 広 告 に は、 吉 田 俊 男『 英 語 前 置 詞 用 法 正 解 』、 小 林 鶯 里『 現 代 紀 行 文 』、 高 野 弦 月『 美 文 の 花 』『 若 き 人 々 の 美 文 的 書 翰 文 』『 名 家 名文』がある。いずれも実際、尚栄堂から出版されている書物であ

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る。 6   未 明 の 著 書『 北 国 の 鴉 よ り 』( 岡 村 盛 花 堂、 大 正 元 年 一 一 月 ) の 巻 頭 に は、 「 少 年 時 代 よ り の 学 友 相 馬 昌 治 君 に 献 ず 」 と の 献 辞 が あり、この一文からも、二人の親交の深さは窺い知れる。中村星湖 は、 「 殊 に 最 近 に 於 て、 混 沌 た る 君 の 思 想 に 灯 を 掲 げ た 人 は 相 馬 君 であらうと思ふ。よく喧嘩もするやうであるが、これ位ゐ美くしい 友 情 は 我 文 壇 稀 れ に 見 る 所 で あ る 」( 中 村 星 湖・ 岩 野 泡 鳴・ 徳 田 秋 声 他「 小 川 未 明 論 」「 新 潮 」 大 正 三 年 一 〇 月 ) と 述 べ、 両 者 に 介 在 する「美くしい友情」を指摘している。 7   未明と大杉の接点については、拙稿「小川未明の知識人批判  

「童話作家宣言」の真意をめぐって」 (「社会文学」平成二八年 八月)で論じた。 8   御 風 は『 廃 墟 』 に つ い て、 「 人 間 性 の 為 め の 新 し い 戦 ひ を 常 に 吾 々 に 向 つ て 求 め て 居 る、 苦 し い 訴 へ の 声 」「 物 質 力 の 暴 圧 力 の 為 に 極 度 に 虐 げ ら れ つ つ あ る 哀 な 人 間 の 叫 び 声 」 が 聞 こ え る 点 が、 「 私 の 心 を 動 か す 所 以 」 で あ る と、 高 評 価 を 下 し て い る。 ま た、 青 頭巾は、 「未明の『廃墟』 」( 「新潮」大正三年一月)で、 「「廃墟」一 篇は暗鬱な情調で貫かれてゐる。十一篇のどの篇を見ても、病気と か 生 活 難 と か 此 生 存 の 苦 痛 を 描 い た も の な ら ぬ は 無 い 」「 ど の 篇 に も、社会組織の不完全を憤る弱者の叫びといふやうなところがある。 彼を現実に触れてゐないなどとは今は何人も云ひはしまい」と語り、 本書の基底には「社会組織の不完全を憤る弱者の叫び」が流露して いる旨、指摘している。 9   御 風 と 大 杉 の 論 争 に つ い て は、 拙 稿「 転 向 者・ 小 川 未 明( 上 )

階 級 闘 争 か ら 八 紘 一 宇 へ 」( 「 日 本 文 学 文 化 」 平 成 二 八 年 二 月 ) で論じた。 10   凌宵花「小川未明氏の平生」 (「文章世界」大正三年三月)によ れば、当時未明は、 「下層社会の人々の生活」を観察するべく、 「神 楽 坂 や 江 戸 川、 山 吹 町 の 貧 民 窟 」 を「 毎 夜 の や う に 」 散 歩 し た り、 「 労 働 者 や、 若 く は 卑 し い 女 な ど か ら、 人 生 の 何 物 か の 刺 激 を 受 け や う と 思 つ て 」、 浅 草 の「 バ ア 」 へ 出 入 り し て い た ら し い。 未 明 は 「 彼 等 の 言 葉 こ そ 本 当 に 人 生 の 真 を 語 つ て 居 る と 思 ふ 」 と 主 張 し て いたそうだ。 11   やや時代は下るが、この嘆きについて、中村狐月は「未明氏の 創作が、常に新時代の傾向を有つて描かれるにかかはらず、其思想 の主張に他を実行に導く権威のないのは、未明氏の其ういふことは、 単に窮迫せるもの、貧しいものが今日の如な状態に在るのは適当に 待遇されて居ないと言ふのに止つて居るからである。其等の人々の 待遇せられて居る状態が正しくないならば、如何いふ待遇にしなけ ればならぬか、其れを実行するのには如何に為なければならぬとい ふことは、一度も明かにされて居ない」 (「小川未明論」 「文章世界」 大正四年九月)と述べ、貧困を批判しても、それを解決する具体的 なビジョンを示すことのできない未明の限界を指摘している。 12   この時期、未明は、自身がいわゆる「早稲田派」と見做される

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こ と に つ い て、 「 党 を 作 り、 派 を 作 つ て ゐ る 如 く 言 は れ る の は 迷 惑 で あ る 」( 「 無 責 任 な る 批 評   生 方・ 白 石 両 君 に 」「 読 売 新 聞 」 大 正 二年九月三日)と述べ、露骨に迷惑がっている。また、文壇内の学 閥に つ い て も、 「由来文芸上に党と か派と か が出来る も の と し た な ら、 それは早稲田とか赤門とか三田とかいふ学校出身で分けられるべき ものでない。寧ろ各自の芸術に対する主義の上からであらう」と語 り、批判的な姿勢を示している。 13   本稿における「小説」の分類は、原則として、小埜祐二の書誌 本『 小 川 未 明 Ⅱ   全 小 説・ 随 筆 』( 日 外 ア ソ シ エ ー ツ、 平 成 二 八 年 六月)の「作品ジャンル」欄に準じる。 14   「ひまわり」以下、括弧内の詩の番号は、詩集掲載順に付した。 適宜、 表1 を参照されたい。 15   本 文 で 断 っ て い る 通 り、 「 春 の 夜 」( 二 〇 )「 お 江 戸 は 火 事 だ 」 ( 四 四 ) に 関 し て は、 初 出 誌 が 不 明・ 入 手 不 能 だ っ た た め、 初 め か ら初収本にあたっている。 16   「 夜 」( 九 )「 菅 笛 」( 一 二 )「 童 謡 」( 三 五 )「 星 」( 三 八 )「 森 」 (四九)等。 17   初収本を参照したとする根拠には、戦後の新聞記事「書斎めぐ り   作家・小川未明氏」 (「毎日新聞」昭和二八年一一月二三日)の 存在もある。この記事によると、未明は昔から割合すぐ、書籍を捨 て る タ イ プ だ っ た よ う だ( 「 小 川 さ ん は む か し か ら 本 を た く わ え な い習慣だという話なので後の本だなに目をやりながらそれに触れる と「ここにある本はほとんど寄贈されたものばかりで今でも読むと すぐ処分するよ」という」 )。とすると、未明が既に単行本化された 初出紙・誌を、いつまでも手元に残しておいた可能性は低いと考え られよう。 18   なお、 『新体詩抄』 (明治一五年八月)以来の日本近代詩史にお いて、本詩集がどのような位置を占めているのか、文学史的考察を 加えるべく、四節「日本近代詩史上の位置  

口語自由詩運動の 傍系」も用意したが、紙幅の都合上、全面的に割愛せざるを得なか った。別稿を期したい。

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Mimei Ogawa as a poet:

A study of “Anoyama-Koete”

MASUI, Makoto

“Anoyama-Koete” is a poetry anthology which Mimei Ogawa wrote in 1914. And, in his life, he has never published any other books of poems. That is to say, this anthology is the only work on poetry of all his lifetime.

However, until now, Mimei as a poet has not gotten much attention. Because, he is generally considered to be a fairy tale writer or a novelist. In fact, it is true that there are few previous studies on the rare anthology.

Therefore, this paper aims to reveal Mimei's achievement in the field of poetry by exploring “Anoyama-Koete”. I would like to show his poems are closely related to novels which he wrote in the Meiji era and Echigo area (Niigata Prefecture) where he grew up.

参照

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