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「極大満足説」と功利主義的経済学
松 鳥 此 敦 茂 1 マーシャル(Alfred Marshall,1842 d924)は,『経済学原理』[19]第5篇13 章「正常需要と正常供給の変化の理論・極大満足説との関連」において,「極大 満足説」(doctrine of maximum satisfaction)についてかなり詳細な分析を行 う なっているが,そのなかでこの学説を次のように定義している。 「各々の個人が,その資力を,彼にとって最適であるしかたで支出するように することによって,一般に極大の満足が達成できるという学説。」さらにそれに 3) 続く第15章では,次のようにも述べられている。「消費者の利益に対する適切 1)若干の論者一たとえばE.DurkheimやT. Parsons一によれば,「功利主義」 は原子論的社会観の一類型 「競合するエゴイズムの集合としての社会という観 念」(C.Welch,[38],p.772.)一として促えている。しかし私は本稿においてこ の言葉を,J. Benthamとその後継者たちによって展開された目的論的な規範理論 (道徳理論・立法理論)として使用している。つまりそれは このような社会把握 を前提としっっも一おおよそ次のような特徴をもつものとして定義することができ よう。「(1)個人的福祉が道徳的行為の目的たるべきものである。(2)[幸福計算に さいして]各人は一として評価され,それ以上のものとしては評価されない。(3) 社会的行為の目標は一般的効用を極大化することであるべきである。」(ibid, p. 770, []内は引用者)。私は本稿において,このような意味での「功利主義」と「極大満 足説」とを厳格に区別している。が,このような区別が明確になるのは以下の行論で 論ずるごとく哲学的にはH.Sidgwickの業積を,経済学的にはF. Y. Edgeworthや A.Marshallらの分析をまたねばならないのであって,それ以前の多くの功利主義者 はしばしば「極大満足説」的であったように思われる。(註69)をも参照) 2)A.Marshall[i9],p.474.邦訳215ページ。 3)Ibid.,p.502.邦訳 252−3ページ。な配慮を加えるばあいには,個々人が自らの即時的利益を追求することが,生 産者をして彼らの資本と労働を,また消費者をして彼らの支出を,一般の利益 に最も役立っ方向に導くという,いわゆる『極大満足』の学説……」と。 私がこの論文で論じたいのは,私的利益の追求という 「利己主義」的動機と 一般的利益(社会的厚生)の達成といういわば「利他主義」的な契機との相互連 関に関して,若干の経済学者が抱いた見解を分析し学史的に位置づけることで ある。「極大満足説」 私的利益と一般的利益との連続=調和説 は,その ための格好な出発点となるであろう。 A・マーシャルは「極大満足説」の分析にさいして,『経済的調和』(Les har− monies economlques,1850)の著者バスティア(Frederick Bastiat,1801・一・50)の名 に言及しているが,私は,バスティアのこの書物に少し遅れて(1854年)ドイ ツで刊行された,ゴッセン(Hermann Heinrich Gossen,1810−58)の著作『人間 の交換の諸法則の発展とそれから生ずる人間行為の諸規則』[10] 以下では 『交換の法則』と略記 の分析で本稿を始めたい。というのは,私の知るかぎ りでは, この学説に,限界効用理論に基礎をおく分析的に明確な規定を初めて 与えたのは,ゴッセンのこの書物であるからであり,それゆえに以下の行論で 取り上げられる諸経済学者の見解によって作り出される座標面の 「原点」にそ れはなりうるだろうからである。 春節(II節)では,ゴッセンの「極大満足説」および これとの対比にお いて一いまひとつの「極大満足説」の類型を呈示しているワルラス(L60n Walras,1834・一・1910)の理論との両者を分析する。 皿・IV節では,エッジワース(Francis Ysidro Edgeworth,1844−1924)の功利 主義を,その経済学的基礎づけ,倫理学的正当化の両側面から取り上げ論じた い。エッジワースの功利主義は一マーシャルのばあいと同じく 「極大満 足説」の否定の上に成立している。しかしそれにもかかわらず,「極大満足説」 と「功利主義」とはなおその思想心根を共有しているように思われる。 最終V節では,エッジワースと基本的分析装置(無差別曲線契約曲線)を共 有しつつも,「社会学」の次元において,「極大満足説」と功利主義とを否定し
たパレート(Vilfredo Pareto,1848−1923)を取り上げる。 ll ジェヴォンズ(William Stanley Jevons,1835・一・82)とワルラスは,「限界効用 理論」一限界効用逓減と均衡におけるその均等化の「二大法則」一の定式 の 化におけるプライオリティをゴッセンに与えているが,ジャッフェ(William Jaffe,1898−1980)はゴッセンの分析のうちに,エッジワースに始まる「契約曲 線」(contract curve)論の先駆を認めようとしている。 ゴッセンは「交換の法則』において,まず孤立的個人の合理的経済行動の分 析を通じて,前述の限界効用の「二大法則」を定立し,ついでそれを基礎とし て「交換とその利益」について論じている。ゴッセンは,原書85ページ(英訳 100ページ)で後に検討する社会的厚生極大化のための条件を定式化しているが, ジャッフェがエッジワースへの類似性(先駆)をみるのは,それに先立っ数ペー のジにおけるゴッセンの議論においてである。われわれもジャッフェに従いっっ その理論を追ってみることにしよう。 ゴッセンは二商品を相互に交換し合う二個人からなる 「物々交換」モデルに 基づいて議論を進めている。当初,二商品の交換比率は,これらの財の生産の ために要した投下労働量に応じるものと想定されている。二交換当事者は,こ れらの財が彼にもたらす「最後の分子の価値」(限界効用)が均等となるまで交 換を続けようと欲するであろう。なぜならそれまでは両者とも交換によって利 益=効用の増加を得ることができるからである。 しかし,両者がこの等労働量交換の条件のもとで同時に「極大満足点」に到 達するとは一般には限らない。たとえば,個人1は「極大満足」に達している 二商品の価格で割り引いた限界効用が均等化している一が,個人llは未 だそれに達していない,といった具合に。 4)W.S. Jevons,[15]第二版への序文。 L. Walras[34コ. 5) W.Jaffe, [13] p.523. [i4] part ll. 6 ) W. Jaffe, [13] pp. 523 f. [14] esp. pp. 398 ff.
このようなばあい,個人llは個人1に対し価格譲歩を行ない,1.H相互間の 商品交換をさらに押し進める。このようにして,価格譲歩一→商品交換のさら なる継続の過程は,交換当事者の少なくとも一方がそのような過程によって, 効用の一層の増加をもはやはかることができなくなる位置に至るまで継続され る。 「ゴッセンは,このような均衡点は孤立的交換のばあいには不確定(indetermi− nate)であることを認識している。というのも無限に多様な交渉経路(transac− tion paths)が……可能だからである。」「確定的な要素は,すべての最終的交渉 (terminal transactions)がその内部でだけ生じうるような限界のみである。」つ まり,個人1(またはll)が,交換によって,交換をなんら行なわなかったとき に比べて,よくも悪くもならないという条件のもとで,個人ll(または1)が 「極大満足」を達成するような二つの極大点の間では,すべての位置が最終的な 均衡点となりうる。 「ここまでは,[ゴッセンの]議論は,契約曲線に関するエッジワースの理論 わの先取り(anticipation)である。」ただジャッフェも指摘しているように,両者 の類似性はここまでである。ゴッセンは以上のような論理の上にたって,一 「契約曲線」に関する定式化に進むのではなく一(1)「社会的厚生」の極大 化のための条件を求め(2)その条件は,自由競争市場システムの完全な展開 によって保証されることを主張するのである。 第一。孤立的な物々交換においては無数の均衡が可能である。したがって, 達成される均衡点が相違するに応じて,「交換を通じて得られる価値[=厚生] の増加も大いに異なる」。かくして「(総)価値の極大という結果が得られるた の めには交換はいかに調整されるべきか,という問題が生ずる」こととなる。 のゴッセンは,自ら立てたこの問いに対して次のように答える。「交換の後には, 7) W.Jaffe, [13] p.523. 8)H.Gossen,〔10]p.100.とくにことわらないかぎり,引用は英訳による。 なお []内は筆i者。()内は英訳者による。 9)Ibid,,なお記号はゴッセンと同一ではない。
二商品[A.B]のいずれもが,個人1および■の間で一方が他方から受け取る 最終分子が,両者にとって同じ価値量をもたらすように分配されねばならない」 と。 L.ワルラスはこの命題を彼の記号法によりっっ次のように数学的に完式化し の て示している。 ¢ai(qa−da) == ¢a2(da) 一一一一一一一一一一t一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 (1) ¢bi (db) = ¢b2 (qb−db) ここで,qa, qbは,個人1. llが期首にそれぞれ保有するA, B両吟の賦存量, da, d,は個人1.1[間で交換されるA, B財の量を表している。またg6。i(*), φ。2(*)はA財の1.Hに対する「稀少性」(限界効用)函数,φbl(*),φb2(*) はB財の1.Hに対する限界効用函数を,それぞれ示している。 したがって,(1)式はジャッフェがワルラス『純粋経済要論』の英訳にさい う して付した詳細な訳注のなかですでに示しているように,商品賦存量(qa, qb) 所与の条件下で,個人1およびllがA, B両財から得る総効用の集計量をば極大 にするようなda, dbを決定する微分方程式である。 ゴッセンは,二商品,二個人の間で行なわれる物々交換のケースについて立 てた最適交換の条件を,三商品,三個人以上の一般的ばあいに拡張する。すな わち,一般に交換に参加する全個人が享受する効用の総和を極大化するための 必要条件は,全商品の全個人に対する限界効用がすべて均等となる,ことを明 らかにする。 このように考えてくると,ゴッセンは社会的最適性=社会的厚生の基準とし て,功利主義的基準を選んでいたと一応いえそうであるb 10)L.Walras,[37]. p.170.邦訳187ページ。なお「無時間的」理論であるワルラス 体系と違い,ゴッセンの理論体系においては,「時間」という契機は重要な役割を果 たしている。が,当面(本節)の分析においてはこの差異を無視し,つまり「時間」 の契機を捨象して議論を進めてもさしっかえあるまい。 11) W.Jaffe, [13] p.524. 12) H. Gossen, oP. cit,, p. 100.
第二。しかし,彼はこのような規準の実現のために「社会主義的」もしくは 「共産主義的」方策がとられることをはっきりと拒否している。そればかりでな く,功利主義者エッジワースー1皿,IV節で詳論する一が重視することとなる 「同感」(sympathy)の要素が所得分配の決定に介在することもしりぞける。 ゆ 「生産者への報酬の分配の問題で,sympathyの介在を許容してはならない」。 「個人がその貨幣を最良の方法で使い,最高の報酬を彼にもたらすような生産領 域に入りこむことを妨げている障碍が,ひとたび取り除かれるからば」人々は 「創造主」のはからいによって,生産におけるその苦労に応じて稼得し「生涯の ユの 快楽(life pleasure)の極大」.を得ることができる,と。 エッジワースは,1896年にPalgraveの『経済学辞典』の一項目として, ユ ゴッセン論を執筆しているが,そのうちにある次の章句は,上にみてきたゴッ センの見解の,「極大満足説」的性格を的確に描写している。「この功利主義的 分配は,一一 [ゴッセンでは]私的利益と公共的利益とが一致するおかげで実 現されるきらいがあるが,この種の『調和』はバスティアも顔負けのものだ (r交換の法則』(原書)pp. 90 一 100)。真のパラダイスの実現とは,私利の自由な働 きの妨げを取り除くことなのだ。」 ユのし.ワルラスのゴッセン解釈はいささか手のこんだもので,一見するとエッジ ワースによる評価と対立しているかのようにみえる。 ワルラスは,自分やジェボンズによって定式化された物々交換モデルと, ゴッセンが『交換の法則』(原書83・一・85ページ)で与えている物々交換モデルと を対比する。 13) Ibid.,p.116. 14)Ibid.,pp.114−6、 15)F.Y. Edgeworth,[6]p.233.[]内は引用者。 16)ワルラスはゴッセンについて「ジュルナール・デ・ゼコノミスト』所載の論文 (〔34]pp.351・一・74)をはじめ『社会経済学研究」[35]の数箇所でかなり詳細な言及 を行なっている。
「ゴッセン的物々交換」においては「両物々交換者の欲求の総和の絶対的極大 満足が達成されている(la satisfaction des besoins des deux troqueurs pris en− semble est port6e au maximum absolu)」。「それは共産主義的物々交換であっ コ の て,国家の権威によってのみ成立するものと私は確信している。」 ワルラスのこの一見逆説的な評価を理解するために,ワルラスの物々交換モ デルを瞥見しておこう。 商品Aの所有者1と商品Bの所有者Hとの間に成立する交換均衡は,下記の 方程式(2)(3)(4)によって示される。 ipai (qa rda) ¢b, (d,) ¢a2(da) (=m) 一・・一・・一一一・一一・一・一・・一・ (2) ipb2(qb−db) 1 耳朔(P・il) 一・一・一・一一・一・一・・一・一一一・・一・一一・一一・一・一・一・・ @(3) da == db Pb ’”m”’’””’”…m’H’”’’”””…’’’””’””’”’”’”H (4) ここでP。,PbはA, B財の相対価格。他の記号は(1)式におけると同じで ある。 (2)式は,商品A,B間の「限界代替率」が,均衡においては両個人1,llに とって均等の値(m)をとることを示しているが,それは両個人間の「契約曲 線」を表している。(1)式は,(2)式が成立するための十分条件であるから, 「ゴッセン的物々交換」の均衡解は当然(2)式をも満たしている(契約曲線上 にある)。また(3)式は,二商品の価格で割り引かれた限界効用が両個人に対 して均等であることを示しているが,ゴッセン体系がこの条件を満たしている ことは,(1)式の導出過程からも明らかである。しかし,自由競争均衡は,こ れらの「極大満足」の条件だけでなく,一物一価の原則の下での予算制約の条 件(4式)をも同時にみたされなければならない。したがって, 「ゴッセン的 17) L.Walras, [35] p.209.
物々交換」モデル(1式)の均衡解(da, db)が「自由競争市場」の均衡解で もあるためには,それが方程式(4)をも同時にみたさなければならない。が, これは商品A,Bの期首賦存量qa, qbが特定の数量的関係にある特殊なケース を除き,一般には成立しえない(過剰決定になるから)。いいかえれば,ゴッセン 的極大満足一「絶対的極大」満足点は,「自由競争」を通じてではなくて, 「国家の権威」を通じて二商品を二個人の間に一方程式(1)をみたすように 一「分配」(もしくは再分配)することによってのみ成立するものである。つま りゴッセン・モデルにおいては「[二個人によって〕所有されている商品量は, まったく尊重されていない。換言すれば各物々交換者の彼の商品に対する所有 権は無視されているのである」。 ワルラスによれば,自由競争メカニズムに基づく交換は,一物一価の下での 需給均等の条件と両立しうる限度で,全交換当事者に彼らの欲求の最大満足を 保証している。そしてこれのみが,私有財産権と両立しうる一その意味で コ ユの 「絶対的」ではなくて「相対的」(relatif)な一極大である。 以上みてきたところがら,ゴッセンをば「共産主義」的とするワルラスの逆 説的ゴッセン評価の真意が了解しえたであろう。それはゴッセン解釈としては 当をえていない。というのもゴッセンはワルラス同様,土地の国有化を主張し のたけれども私有財産権と自由競争メカニズムを積極的に擁護したからである。 けれどもそれはゴッセン的「極大満足説」のもつ自己矛盾 「功利主義」的 極大原理と,自由放任主義的制度論との矛盾一を初めて明確に指摘した理論 的意義は高く評価してもよいであろう。 市場均衡と両立しうる「極大満足」が「相対的」なものでしかないことの認 識は,ワルラスに止まるものではなく 18)ibid.,[〕内は引用者による。 19) lbid., 209 ff. 361 f. 20)安藤金男[1]を参照。 エッジワース,マーシャル,ヴィクセル
(Knut Wicksell,1851一隻926)らにも存在している。ただこれらの論者における り「相対的極大」の概念とワルラスのそれとは同一ではない。この点に関しては次 節で詳論するが,ここで確認しておきたいことは,ワルラスがそれを客観的事 実として消極的に容認するというよりは,むしろ,この 「相対的極大」原理 一それは彼にあっては「完全競争原理」にはかならなかった一を積極的に 擁護したことである。 というのも,それこそが 「個人主義」的倫理原則一 「条件の平等と地位の不平等」 と最もよく合致するものと彼の目には映った う であろうからである。 それゆえにワルラスはゴッセン的「極大満足説」を否定したけれども,それ とは異なるいま一つの「極大満足説」 「自由競争」原理の絶対二一を呈 示したと私は考えるのである。 皿 私は前節においてエッジワースのゴッセン論から一文を引用した。そこで エッジワースはゴッセンの「極大満足説」の「調和論」的性格を指摘していた が,この論文の終わり近くではこう書いている。「ゴッセンは数理経済学者がと かく陥りやすい一つの誤謬を犯している。つまり,経済学における効用原理か ら,いわば『ヤミ』(illicit process)で行為哲学における功利主義を導き出して いるのだ……」,と。 前節でみたように,ワルラスは,「功利主義的」極大満足原理と全き「私的所 有権」に基づく絶対的自由競争原理との非両立性を論証したうえで,前者を排 21)たとえば,ヴィクセルは市場均衡は「相対的飽和」(relative satiety)の点である が,それは「現存の価格システム」に相対しての(relative) つまりそれを所与 としたときの一「飽和」であるとして,ワルラスを批判している。[39]p. 75,邦 訳184ページ。 22)ワルラスは,現行の市場システムが,国家の介入をまったく不要にするほど「完 全」だとはいっていないし,「自由競争」ですべてがうまくいくとも,決していって いない。L. Walras,[36]を参照せよ。 23)F.Y. Edgeworth,[6]p.233.
し後者を基本的には支持する。これに対してエッジワースは,一方ではワルラ スとは異なった方法においてではあるが両者の非同一性を論証すると同時に, 他方ではワルラスとは反対に「絶対的極大」原理一功利主義原理のための経 済学的基礎をば構築しようとしている。本節と次節においては,エッジワース の主著『数理心理学」[4]に主として依拠しっっ,これらの点を明らかにして いきたい。 「ギリシア文学からの引用が微積分学に踵を接して現れるので,凡俗の読者に は,積分の途上にあるのが,はたしてホーマーの一行なのか数学的抽象物なの の か容易には見分けっかない。」とケインズによって評された『数理心理学』の内 ラ 容を完全に理解することは容易ではない。しかし,本稿のテーマにかかわる次 元でいえば,その主張するところは比較的明瞭である。すなわち (1)合理的経済行動によってもたらされる市場均衡は,終局的には「契約曲 線」上に落着する。(2)しかし,この曲線上のいかなる点に均衡が定まるかを めぐっては,諸個人,諸グループ間には利害の対立がある。(3)その結果極限 的なばあいとしての「完全競争」のケースを除けば,均衡は「不確定」(不安定) となる。(4)均衡を確定的なものとするためにはなんらかの「仲裁」(arb1tra− tion)がなされねばならないが,その一つの,しかし有力な基礎を与えるのは 「功利主義」である。 最後の論点(4)は次節で詳論するとして,以下本節では論点(1)一(3) について少し立ち入って検討し,前節で取り上げた二種目「極大満足説」との 関連を考えてみたい。 (1)「契約曲線」の概念が,無差別曲線とともに,エッジワースの創案にな るものであることは,いまでは比較的よく知られている学史的事実であろう。 24)J.M. Keynes,[16]p. 257.邦訳222ページ。 25)エッジワースの理解には次の書物が大いに参考になった。J. Creedy,〔2]. 26)エッジワース「数理心理学』は150ページほどの小冊子で,全体は次に示す四つの 部分からなっている。(1)方法論的序章 (2)「経済的解析学」(economical cal− culus) (3)「功利主義的解析学」(utilitarian calculus)(4)附録。本稿で取り 上げるのは,主として第二の部分である。
しかしそれが初出した「数理心理学』にまで遡る読者は少ないだろうから,こ れらの概念の数学的処理や図形的表示が,現在のものとかなり異なるものであ ることは,あまり知られていまい。たとえば,タラッシオ(Vincent∫. の Tarascio)やジャッフェがすでに指摘しているように,現在ではエッジワースの 名を冠して用いられる無差別曲線 契約曲線の図形的表示法(「ボックス・ダ イアグラム」)一は,彼自身によっては使われていない。私も本稿ではジャッ フェに倣って,エッジワースによる図形的表示法を用いてみたい。理論的には, 諸財の期首賦存量を明示する現行の表示法のほうが認れているように思われる が,ある概念が初めて登場したときの姿を伝えておくことにも一定の意味はあ るであろうからである。 「契約曲線」は,現在の通常の概説書にみられるごとく,「いかなる方向へ微 少量だけ進もうとも,ρおよびπが同時に増大することはなく,一方が増大すれ ふう ば他方は減少するような」点(x,y)の集合として定義されている。ここでp, πは経済主体AおよびBによってそれぞれ所有されている商品αおよびβのも たらす総効用をそれぞれ表し一・x,yがA, B間におけるα,βの商品取引量を 表示するとすれば いずれもx,yの函数である。エッジワースはそれを次の をの(5)式によって表示している
募寄一齢艦・・一…・…一一一・一…・(・)
この式は前節における(2)式と対応している。ただエッジワースにおいては ワルラスのばあいとは違って,二商品間の相互依存関係が考慮された式になっ ている。 それは幾何学的には,図1(p. 37)におけるCa Cbとして示される。ただし 27) V,J. Tarascio, [32]. W. Jaffe, [14] part 1. 28) F, Y.Edgeworth, [4] p.21. 29)Ibid.,ただしエッジワースでは偏微分は∂ではなくdで示されている。ここでIOa,1%はA, Bに,彼らがなんらの商品取引も行なわないときに享受す るのと同等な効用水準を与えるような点の軌跡(=無差別曲線)である。 ところで,A, B問に成立する市場均衡は,両者が目的合理的に行動している かぎり,上に述べた契約曲線上に落着するはずである。なぜなら,上記の定義 から明らかなように,契約曲線に到達するまでは,AとBの少なくとも一方は, 他方の効用を減少させることなく自己の効用を増大させることができるはずだ からである。 したがって,「契約曲線は一種の快楽の(相対的)極大[hedonic(relative) maximum]の条件を表している」。ここで「相対的極大」とは,二変量(π, の ρ)のうちのいずれか一方を一定としたさいの,他方の極大のことである。 エッジワースにおける「相対的極大」の概念は,K.ヴィクセルの「相対的飽 和」の概念やA.マーシャルにおける「正常均衡」の概念と対応するものであ り るが,ワルラスの「相対的極大」の概念とは相違している。なぜから,ワルラ スにとってのそれは「完全競争均衡」点にほかならないが,エッジワースに あっては,それは契約曲線上の任意の点でありうるからである。 (2) しかし,「これらの位置は各当事者にとっては,望ましさが逆の順序で ヨ 並んでいる(lie in a reverse order of desirability)」。たとえば孤立的物々交換 者A,Bの間の取引を考えてみよう(図1参照)。両者の取引契約はイの経路を 辿ってCb’に落着するかもしれないし,ロの経路を辿ってCa’に落着するか 30) Ibid.,pp.11,23,142. 31)ヴィクセルについては註21参照。またA.マーシャルもヴィクセルと同趣旨のこ とを述べている。「需要と供給の均衡する位置は,そのような位置が到達されるまで は,両当事者の総満足が増大し,均衡量を越えて行なわれる生産は,買い手と売り手 が個人として自らの利益のために自由に行動するかぎり,永続的には維持できないと いう,限定された意味で極大満足の位置であることは事実である。」しかし,この均 衡点が「言葉の全き意味での(in the full sense of the term)極大満足の位置」 である 「均衡水準を越える生産の増大は,直接的に……両当事者の総満足を減少 させる」一という説(「極大満足説」)は「普遍的に正しいわけではない」。[19]p. 471.邦訳210ページ。 32)F.Y, Edgeworth,[4]p. 55.
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C乱 Ca O X (図1) もしれない。明らかにイの経路はAにとって有利であり,ロの経路はBにとっ て有利である。なぜなら,Aにとっての「望ましさの順序」はCb, Cb’, Ca’, CaでありBにとってはその逆の順序であるから。 このような事情 物々交換者A,B間の利害対立 が,孤立的バーターに おける「均衡解」の「不確定性」(indeterminateness)・不安定性をもたらすこ ととなる。エッジワースが彼の経済学的分析の出発点に孤立的バーターの分析 を据えた理由の一つはまさにこのような事情と深くかかわっている。というの も,「この単純なケースによって不確定な契約・デッドロック・決着のつかない 利害の対立・激化する紛争と掩乱がもつ独特な害悪が明らかにみえてくるので ある。つまりエッジワースは物々交換者A,B間の対立のうちに,生産者と消費 者,雇用者と被雇用者,地主と小作人そしてとりわけ現代社会における独占諸 ロ コ コ あう 組織などのあいだにおける対立の「アナロジー」をみてとったのである。 (3)孤立的バーターの分析を経済分析の出発点に据えた理由の一つは,こ 33) Ibid.,p.29. 34) ノbid.,p.146.のように彼の資本主義観 現代社会観 のうちに求められるが,いま一つ の理由は彼の方法 「再契約」(rec・ntract)の概念に基づく経済均衡の定義 一にかかわっている。マーシャルの『経済学原理』の付録F「物々交換」へ の批判の目的をもって執筆されたイタリア語の論文「経済学の数理理論に関す る考察 とくに,マーシャル原理に関して一」[5]の主要部分の英訳 (On the determinateness of economic equilibrium)を論文集[8]に収めるに さいして新たに付した解説のなかで,「再契約理論」のモデル的特徴に触れて次 のように述べている。 「私がここで確立しようとしている命題は,ニグループの諸個人,たとえば AグループとBグループ,からなりたっている典型的市場で,AグループはB グループによって供給されているβ商品と交換にα商品を提供している。Aグ ループの各人は,Aグループの他のメンバーとは独立に,別々にBグループの メンバーと協定を結ぶ。そしてBグループのメンバーも同様に独立に行動して いる。この取引に適用されている『市場』という言葉は,『正常的』もしくは 『自然的」と対立する意味で理解されるべきではなくて,むしろそのプロセスに はある種の正常性があると考えられる。それは長期と考えられる必要はなくむ しろその逆である。というのは,当事者の性向や状況は一定であり続けると想 定されているからである。しかし協定は何回も更新され変更されると想定され ている。市場が,再契約者のすべてに利益をもたらすようには変更しえないよ うな一組の協定に逢着するまでは,『最終的決着』(final settlement)に達する ことはない。」 つまり彼の方法は,次のように要約されうる。(一)現実の市場均衡を一連の 孤立的バーター均衡のいわば合成を通じて理解する。(二)そのさいバーター均 35)エッジワースはこの論文で,マーシャルが,バーターにおける「不確定性」は両財 の限界効用が可変的であるために生ずるので,一方の財が限界効用一定の財=貨幣で あれば,二財の交換比率は一義的に確定するとしたのに対して,両財の限界効用が可 即吟であると否とにかかわらず,市場が「不完全」であるかぎり交換の(量および比 率)の「不確定性」が存続することを,無差別曲線一契約曲線を用いて論証している。 36)F.Y. Edgeworth,[8]pp.313f.
Y C, P (OPi=tOCi) C, Ca o (図2) X 衡はマーシャルにおけるごく「一時的均衡」としてではなく,「短期正常均衡」 である。(三)「均衡が達成されるのは,現行の契約が,現在の当事者の同意を ともなう再契約によってしか変更されえず,かっ競争場裡内部における再契約 によっては変更しえない,ばあいである。」 エッジワースの「再契約」理論は経済均衡への「非ワルラス的アプローチ」 の観点から最近関心を集めてきているようだが,まだ周知とまではいえないよ うなので簡単に説明しておこう。 いまAlとB1との最初の契約がC1(図2)であったとする。 C1は契約曲線 dr。 b上の任意の点でありうるが,おそらくC、, C、ではありえないであろう。 C,は明らかに一つの「均衡」である。しかしC1がC、のごく近傍であるばあい, この契約;均衡は,両グループに新メンバーA2, B2が加わることによって破棄 されうる。すなわち,AlはBIとの契約を続行し原点(0)からClに移行する が,A2はB2との契約関係には入らず原点にとどまり,ついでClの位置にある 37)F. Y.Edgeworth,[4]p.31. 38)たとえば,D. A. Walker,[33],根岸隆[23].
Y
.cl 一 一 一 一一 z C, /E / (OP,一gOC,) .一 (OCg一一SOC,) 一 c.N.P 27月置y C, 一 一 Ca oX
(図3) A1とその財を均分する。その結果, A1, A2ともにOCIの中点P,点に移行する。 この点でAl, A2が享受する効用は,0およびClにおけるよりも高いから, C1 はもはや均衡点ではありえない。しかしPl点もまた均衡点ではありえない。依 然として原点にとどまることを余儀無くされているB2が協定に介入することに よって,この状態は破棄されるからである。新たな均衡は全当事者(Al A2Bl B2)が契約曲線上の同一の点C2(図3)に到達するときに成立する。ここでC2 はその点を通るAの無差別曲線がOC2の中点(C>)を通るような点である。こ の契約(C2)は, A. B両グループに新たな,メンバーが加わらないかぎり「再 契約」によって両当事者の効用がともに増大する (減少しない)点に移行する ことはできないから「均衡」点である。 しかしこの均衡C2も新たにメンバーA3, B3が加わることによって同様の論 理(C2→P2→C3)によって新たな均衡C3にとって代わられる。……このような 「再契約」のプロセスは,A, B両グループのメンバーの数が十分に大きくなっ た「完全競争均衡」C、に到達するまで実行されうる。(ちなみにC、はOCnかC、Cbと直交する点で,いかなる再契約によっても両当事者がともにその効用を増大する
ことはありえない点である。図3参照)。「このようにして,二者の孤立的取引から 極限的ケースである完全競争へと徐々に進むことによって」つまりA,B両当事 39) 者の構成員の数が増すにつれて,「契約の不確実性も減じていくことがわかる」。 以上がエッジワース『数理心理学』第二部の基本的内容である。二種の「極 大満足説」に対するエッジワースの立場は明らかであろう。すなわち 第一。「競争均衡」は多数の「相対的極大」点(CiC2……C。)で等しく成立 するのであって,一部門には「絶対的極大」満足点と同一ではない。 第二。「完全競争」均衡点は他の均衡点とちがい「確定的」(安定的)である。 しかしそれが成立するためには,十分に大きい数の交換参加者(と財の可分性) 40) が存在しなければならない。 39)F。Y. Edgeworth,[4]p.42.A1, A2,………A。とB1, B2,……Bnとの契約が契 約曲線上の一点C。において成立しているとき,nが十分に大きければ,この均衡は A・+1・Bn+・の登場によ・ても破棄されることはない・なぜならOP・=冨τOC・は・ このばあいOC。と一致するからである。 40)根岸隆氏は前掲論文において,エッジワースの「極限定理」(「同等定理」一「さ まざまのタイプの交換参加者の数が,いずれも無限に大きいときには,交換参加者が 自由に協定的に行動する交換経済の帰結は,彼らが,プライス・テーカーとして非協 力的に行動する完全競争のワルラス均衡に一致する」 について,この「定理」に とって,交換参加者の数が無限に大きい(十分に大きい)これは,十分条件ではある が必要条件ではないことを論証している。とくに第四節においては,双方独占ないし は孤立交換においても静態均衡においては,「同等定理」が成立するケースがあるこ とを示して,エッジワースが「仲裁の原理」の必要性の根拠としている「孤立交換」 における「不確定性」の存在というテーゼには根拠がないとされている。「必要条件」 でないことを示すには,一つの反証をあげればよいのだから,氏の証明はこれで十分 である。しかし私には,エッジワースが「仲裁の原理」の介入をとくに必要としてい るのは労働市場に対してであり,それに対して氏の反証は有効でないように思われる。 というのは氏のモデルの前提条件の一つ,「初期保有の財は費用をかけることなくい ずれの方向へも期間を越えて移転することが可能である」 (p.130) という条件は, 労働市場で貨幣と交換されるべき労働(レジャー)という用役には通用しえないから である。
第三。さらに,「高度に発展した社会」においては,経済面においては独占的 結合が力を増すが,社会的,政治的諸領域においても,「知性と自由の発展」に ともなって「契約の原理」が「暴力と囚襲への隷従」にとって代わるにつれて, 「広義の契約の全領域に通じて」 「国際および国内政治において,諸国家・ 諸階級・両性間において」一そこでは「完全競争のようなメカニズムが存在 しない」ので「同様の本質的不確定性が支配するようになる」。そこでは「競争 は仲裁によって補完されねばならない。そして利己的(self−interested)契約平 間の仲裁の基礎は,集計的最大総効用(the greatest possible sum−total utility) う である」。 rv 「完全競争メカニズム」の欠如を「補完」し,諸個人・諸グループの利害対立 を調停する「仲裁の原理」(principle of arbitration)をエッジワースは功利主義 的原則のうちに見出す。 彼がこの原則のもとに意味させようとしたのは,通常の「最大幸福原理」を 「少し修正した」もので,契約参加者のいずれもが「その契約によって損失を被 らないという条件のもとで,彼らの享受する厚生の総和を極大にする」ことで の ある。 現代社会においては多くの領域で「不確定性」が支配しているから,この 「仲裁の原理」も多くの領域で発動されねばならないが,エッジワースがとりわ け重視したのは,労使関係の領域と,国家の財政・租税政策の領域であったよ うに思われる。第一の領域で彼の念頭にあったのは,おそらくマーシャル夫妻 の著書『産業の経済学』[18]一この書物がエッジワースに影響を与えたこと 41)F,Y. Edgeworth,[4]pp.51,56. 42)F,Y. EdgewQrth,[8]p.102.「契約参加者のいずれもが,その契約によって損失 を被らない」という条件を(図1)を使って説明しておこう。初期状態をQで表わ す。この点を通る両当事者の無差別曲線1’a,rbが契約曲線CaCbと交わる点を, ca, Cbとする。このとき先の条件をみたす社会的最適点は,曲線ca Cb しの点である, といえよう。
ゆは明らかであるといわれている一の第三篇八章が取り扱っている労働争議の 「仲裁調停」の「原則」であったろう。第二の点についてのエッジワースの見 解に関しては稿をあらためて検討するつもりであるが,ここではとりあえず次 の点を指摘しておきたい。限界効用理論の基礎上にザックス(Emil Sax,1845・一 1927)らによって再構築された課税における 「利益説」に対してエッジワース は「能力説」をとり,課税政策の「基準」は功利主義的原則であるべきだと述 べているが,その根拠として彼が指摘したのは次のようなものであった。すな わち,課税原則の決定は一つの「政治的契約」であるが,そこでは「競争」が 欠如しているから「限界効用原理」は適用しえず,それに代わるなんらかの 「仲裁の原理」が必要となる……。 だがいったい何故,功利主義は「仲裁の原理」あるいは「基準」でありうる のか? エッジワースは,同時代ケムブリッジの哲学者シジウィック(Henry Sidgwick, 1838−1900)が倫理学上の主著『倫理学の諸方法』[30]のなかで行なっている 「利己主義」(egoism)と「功利主義」との峻別を高く評価している。シジ ウィックによれば,ベンサム(Jeremy Bentham,1748−1842)やJ. S。ミル(John Stuart Mill,1806・一・1873)の著作では,「私的善」(private good)の追求と「一般 的善」(general good)の追求との間にある矛盾・対立が明瞭には認識されてい ない,という。だがそれなら,本来「利己的」である契約当事者が功利主義的 原則を「仲裁の原理」として何故是認するのか? シジウィックが倫理学のこの二つの方法の相互関係をどのように考えたのか, の検討は本稿の範囲を越えている。私が以下の行論で明らかにしたいのは, エッジワースがシジウィックのこのアイデアを認めっっも一このことは前節 で引用したエッジワースのゴッセン批判からも明らかであろう 「功利主義」 43) J.Creedy, [2] pp.47£ 44) F.Y. Edgeworth, [7], reprinted in [8] p. 102. 45) H.Sidgwick, [31] pp,243, 247. 46)シジウィックの功利主議論については,塩野谷祐一[29]第二部を参照。
の と「利己主義」とのおりあいをどのようにつけたか,である。エッジワースは, 処女作『倫理学の新しい方法と旧い方法』[3]では「進化」(evolution)の力 るのを借りて,シジウィックの議論の「鋭い切先きを殺ごう」とする。「利己主義者 も一般的野を求める欲求を酒養する力と動機とをもちえよう。じっさい,純粋 な功利主義者ほどにではなくても,進化の進むなかで数世代のうちには,純粋 な功利主義者に限りなく近づく程度には[なろう]」,と。 道徳感情の「進化」という思想をエッジワースはそれ以後ももち続けるよう だが,『数理心理学』や「課税の純粋理論」[7]の中では,いわば「契約論」 的な方法で「功利主義の証明」(aproof of utilitarianism)を与えようとしてい る。つまり,彼は「利己主義者」一ヨリ正確にいえば,シジウィックのいう 「彼の幸福あるいは快楽は,彼にとってだけでなく,普遍(Universe)の観点か らも善(Good)である,という命題」を明示的もしくは暗々裡に述べている 「利己主義者」 に,功利主義が利己主義と相容れないものではない,ことを 論証しようとするのである。その説くところを次にみてみることにしよう。 (1) 合理的な契約は,契約曲線上で成立する。 しかし無数に存在しうる契 約の「望ましさ」は,たとえばバーター参加者にとってはお互いに「逆の順序」 で配列されている。これらの契約のいずれを「選ぶかについての明瞭な原則が ないときには,契約当事者が自分の意にそうかたちで意思決定をすることはあ りえないから,契約がある位置となるか,それとも他の点に落着するかは,ほ ぼ同等の確率であると各当事者には思われるかもしれない。だが,実質的には コイン投げ[による選択]以上のものではないプロセスに頼るよりは,[契約曲 線上の]任意の点をうるチャンスを捨てて,確実な一点……つまり功利主義的 ゆ取り決めをその代わりにうることに,両当事者は同意するかもしれない」(「数 理心理学』より)。 (2)「各当事者ができることなら自分の意のままにしたいと願っているのは 47) F. Y.Edgeworth, [3] pp.32 f. 48) H.Sidgwick, [30] p.420, 49) F. Y.Edgeworth, [4] p.55, [ ]内は引用者。
もちろんである。しかし,利己的行為は相互の対立によって(一時的に)休止さ せられるので,もっとデリケートな力である友好感情(amity)一それは経済 人においてさえまったく欠如しているわけではない一が感じられるようにな るかもしれない。さらにまた,各当事者は熟考のすえ次のように考えるかもし れない。すなわち,長期的には種々のケースで[社会の]集計的効用の総和の 極大(maximum sum−total of utility)が個人の効用の極大(maximum individ・ ual utility)に対応しているのだ,と。彼は長期的に[社会の]総厚生のヨリ大 きな部分をうることは期待できない。しかし,分配の全原理 それらは,各 場合に獲得しうる [社会の]集計上総効用のうち,ある場合にはヨリ大きな割 合,他の場合にはヨリ小さな割合を彼に与えるであろう一のうちで集団的効 用(collective utility)が各場合に極大であるべきだという原理が,長期的には 彼に個人的にも最大の効用を与える蓋然性が最も大きいのである。」(「課税の純 粋理論」より)。 クリーディ(John Creedy)や根岸隆氏などがすでに述べているように,ここ に示されているエッジワースの証明は,1950年代以降にハーサーニー(John C. Harsanyi)やヴィックレー(William Vickley)らによって展開された「契約論 的功利主義」もしくは「新功利主義」の先駆である。つまり,合理的経済主体 は,自己の効用を,「不確実性」(uncertainty)の存在するもとで,(1)短期お よび(2)長期において極大化しようとするとき,その目的の実現のための障 碍となる他人との利害衝突の「仲裁の原理」(=社会的厚生函数)として,功利主 義的原則を選ぶことに導かれる。 「新功利主義」(エッジワースの考えも含めて)に対しては種々の疑問や批判がか ラ されうるであろう。しかしここではそれに立ち入る必要はあるまい。以下では ただ次の点だけを確認しておきたい。 エッジワースは前節でみたようにゴッセン的「極大満足説」を否定した。と 50)F.Y. Edgeworth,[8]pp. 102 f.[]内および傍点は引用者 51)J.Creedy,[2],根岸[22,23],松嶋[21]. 52)根岸[22].なお「新功利主義」に対する最も原理的で徹底的な耕判は,J. Rawls によるものであろう。塩野谷[29],松嶋[21]を参照。
いうのは,諸経済主体の個人的効用の極大化行動は,たとえそれらが合理的か っ合法的なものであっても,ただちには つまり 「国家の権威」などによっ て媒介されることなしには 社会的総効用の極大をもたらしはしないからで ある(「極大満足説」と「功利主義」の相違)。 しかしながら,エッジワースにおけ る「功利主義」も,「極大満足説」とまったく断絶しているわけではない。「功 利主義」は「極大満足説」との間にはなお次のような同一性をもち続けている ように思われる。すなわち,第一,諸個人の行為の「合理性」の想定。第二, らの 「個人的合理性」と「社会的合理性」の基本的連続一同一性。第三,第二の点と 関連して諸個人間の「利害の基本的同一性」の想定。これらの諸特徴 私の 考えでは,「功利主義」に不可欠な諸特徴(属性)一のもつ意味は,次回にお ける分析を通じてヨリ明らかになるであろう。
V
エッジワースが「相対的極大」とよんだものは,パレートによっては「社会 にとってのオフェリミテの極大」(Maximum d’opherimit6 pour une co1− lectivit6)となづけられている。『経済学講義』[24]にこの概念が登場したとき から,経済的効用 パレートによってそれは「オフェリミテ」とよばれてい る の個人間比較は明示的に拒否されている。が,そこでの規定はなお基数 的効用概念に基づくものであり,「結果的にはピグーと同じく貨幣であらわされ めう た国民所得の極大」の条件にほかならなかった。しかし「経済学提要』[25]で は,この概念は,明確に「序数的」に基礎づけられ,現在「パレート最適」と よびならわされているものへと発展させられている。パレートが功利主義を受 53)「合理性」という言葉は,本稿においては一貫して「目的合理性」の意味で使われ ている。 54)T.Parsons,[28]. ch.4.なおこの章句はこの章のタイトル「アルフレッド・マー シャル」が示しているように,マーシャルに関して述べられたものである。 55)V.Pareto,[24]§721,n.2など。 56)熊谷尚夫[17]p.33.回しないことは一見して明らかであるように思われる。けだし,効用の可測性 と効用の個人間比較の可能性の二条件は功利主義的幸福計算が成立しうるため の必要条件だからである。 しかしエッジワース自身が述べているように,効用の個人間比較の可能性は 経済学的分析にとどまるかぎり不要であって,それは,「道徳的解析学」(moral claculus)にすすむさいにあらたに要求される「いま一つの条件」にすぎない。 さらにいえば効用の可測性という (第一の)条件も,「経済的解析学」の範囲に とどまるかぎり,エッジワース自身にとってもなしで済ませたはずのもので あった。だから,パレートが功利主義をしりぞけているとすれば 事実そう なのだが その根拠は純粋経済学的方法論議の範囲を越えたところに求めら れねばなるまい。 じっさいパレートが否定しようとしたのは経済的効用一オフェリミテー の個人間比較であって,効用一般の個人間比較の可能性ではない。「社会学」は, 諸個人の「異質的」効用を「同質化」するため,経済学におけるとは異種の方 法を必要としている。「社会学はそれを探しそしてそれを見出している。」パ レートはそれを「社会にとっての効用の極大」の方法とよんでいる。 たとえばある個人がいて「彼の同胞が,だれも犠牲にされることなく,可能 な最大の幸福をえられるように行動しようと決心する」としよう(註42参照)。 彼は心のなかで他人の効用を想像し(se figurer),それらにある係数をかけてそ れに自分の効用を加え,それを極大にしょうとする。これはエッジワースが 「混合様式の功利主義」(mixed mode of utilitarianism)とよんだものと同一の ものである。つまり諸個人の「客観的で異質的」な諸効用は,ある個人の心の うえで「主観的で同質的」な量に変えられ,評価づけのウエイトを乗じられた うえで集計され極大化の対象とされる。このような心的プロセスは他の個人に ついても考えることができる。つまりこの社会の構成員がn人であるとすれば, 57) F. Y.Edgeworth, [4] p.7. 58)V,Pareto,[26]([27]§2128.・n. しおよび§2131,n,1.として採録。) 59) F. Y. Edgeworth, [4] p. 16.
n人の異質的効用にかえて,全部でn個の,同質化一評価一極大化の異質的プ ロセスが登場することとなる。このn個の異質的プロセスに同質化のための 「係数」一政府による諸個人の評価づけ一を乗じて加算し,得られた量を極 ラ 大にするような政策が実行される。 この「社会にとっての効用の極大」のプロセスを「社会にとってのオフェリ ミテの極大」と対比してみよう。後者は,「適切に分配が行なわれている」ある いは「一定の分配の規則が採用されている」という仮定のもとで,エッジワー スの意味での「相対的極大」を決定する論理である。だから,それはいわば没 評価的で配分的(allocative)合理性を示すものである。これに対して,前者は 二重の意味で評価的一つまり諸個人による相互の評価と政府による諸個人の 評価を前提にする一プロセスであって,富と権力との「適正な分配」のため のプロセス 配分的合理性とともに分配的 (distributive)合理性をも示すも の一エッジワースのいわゆる 「仲裁の原理」のヨリー般的な定式化一だと みることもできよう。 しかしながら,両者の類似性は,表見的なものでしかない。というのも,パ レートにとっては,「仲裁の原理」としての「社会にとっての効用の極大」の論 理は,「理論的」で「仮設的」なものにしか過ぎず,けっして「現実的」なもの う ではありえない。すなわち,この分析においては,諸個人および公共当局は, あたかもともに「論理的」(;「目的合理的」)に行動すると仮定されているが, 彼らの現実の行動は「非論理的」であり,またそうでしかありえないはずであ る。なぜなら人間社会が理性的原理によってのみ領導される社会でありうるた めには,「論理・実験的な推論」一経験的で合理的な推論 「をもちいて社 60)V.Pareto,[27]§2131,n. Lパレートはここで「社会にとっての効用の極大」を 次式で示している(記号は若干修IEしている)。 M,δU,一トMi(SU2十……M,δUi十… …MnδUη=0 (6) ここでδUは第i個人の効用の変分(variation)ル区fΣα{βノ(ただしα{は第ブ個人 ノ の第乞個人の効用に対する評価係数,βノは政府による第ブ個人の評価係数)。 61)V.Pareto,[24] H. p. 93,〔25]p. 617. 62)V.Pareto,[27] §2131.
会が達成すべき目的が何であるかを示さねばならない」。しかし,そのような 「目的が何であるか」を示すことはできない。というのは「われわれが論理・実 験的な推論によって解決しようと思う問題のデータが欠けている」からであり, さらに「種々の個人が,自分および他人にとって何がよいことであるかについ てもっている概念は本質的に異質的であって,それを単一のものに還元する手 の だてはない」からである。 私は前節の最終部分で,エッジワースの功利主義が,(1)諸個人の個別的合 理性,(2)それを基礎とした社会的合理性,(3)両合理性の媒介項としての 「利害の基本的同一性」,の想定という三つの特徴を「極大満足説」と共有して いることを述べた。これとの対比でパレート体系を特徴づければ(D諸個人 は経済的には,概ね「論理的」であると想定されるが,全体としての社会的行 為は「非論理的」な性格を帯びている。(2)「経済システム」は経済主体のいわ ば「ミクロ的合理性」によって基礎づけられているが,全体としての「社会シ ステム」の合理性はそれから生ずるものでは決してなく,それとは非連続な 「社会の効用の極大」といった論理の下に表現されている。(3)このような二元 的状況の根拠はっきっめれば諸個人間の 「本質的異質性」という事実のうちに ラ 求めることができる。 ロ コ パレートは,経済学においては形式的にはなお「極大満足説」的であるが, 「社会学」においては「極大満足説」および「功利主義」の両者を否定している。 パレートは「一般社会学概論』[27]§§1486−1491でベンサム功利主義へ の批判的注釈を試みているが,このくだりの最終節におかれた次の章句は,本 63)Ibid.,§2143.なお詳しくは,松嶋[20ユpp. 257 ff.参照。 64)エッジワース(およびマーシャル)とパレートの間にあるこの相違は,両者の国家 観一「仲裁の原理」の担い手の性格についての認識 の相違をも帰結している。 つまり,前者にとってそれは「中立的」なものと映じたのに対して,後者にとっては 国家は統治エリート;支配階級の利害関心を基本的には代弁するものとして捉えられ ている。(松嶋[20]皿一ニー4参照。) 65)純粋経済学においては,パレートはワルラス的極大満足説を基本的には越えていな い。cf. K. Wicksell,[39]pp. 82 f.邦訳 194−5ページ。[40コpp. 167 ff.
稿のこれまでの考察と重ねて読まれるとききわめて示唆的なものとなろう。「ベ ンサムが直面した困難は主として次の二つのものである。(1)彼は,すべての 行為が論理的であると主張する。かくして彼は現実の圏外に出てしまう。とい うのも,現実においては,多くの行為は,彼の主張とは反対に非論理的だから である。(2),彼は論理的には両立しえない二つの原理一利己的原理と利他的 ロ の 原理とを,論理的におりあわせようとする。」 私は本稿でゴッセン,ワルラス,エッジワース,パレートの所説を極大満足 感および功利主義とに対する関係という見地から眺めてきた。われわれはそこ に,一方では科学的認識における「進歩」の契機を認めることができるかもし れない。また他方で,われわれはそこに経済学史における「段階と類型」の問 題を見出すこともできよう。つまり,ゴッセンやワルラスによる「極大満足説」 つの主張とエッジワース,マーシャル,ヴィクセル,パレートによるその否定, エッジワースやマーシャルによる功利主義の受容とパレートによるその拒否は, たしかに論理の問題であるが,われわれはそこに,資本主義における「矛盾の 深化」の反映や,イギリス対大陸という思想史的対立の契機を見出すことも可 ラ 能であろう。 66)V,Pareto,[27]§1491.なお強調は引用者。 67)マーシャルは註31で引用した文章に引き続き (1)貨幣の限界効用の階級間での 非同等性(2)規模に関する収穫逓増(費用逓減)のケースがある,を根拠として 「極大満足説」を批判している。(A.Marshall[19]pp. 471 ff.邦訳 220ページ以 下。またK:.ヴイクセルも同様の見解を述べている。K. Wicksell,[39]1−5,[40] p.144.菱山泉氏はこの問題に関して多くの機会に論じておられる。たとえば [12] 参照。 68)「極大満足説」に関する学史的検討を完成させるためには,財政理論における新た な「利益説」 「公共財」「公共選択」の理論についても検討しなければなるまい。 (私見によれば,それは国家の経済的機能をも内生変数として包摂した新たな「極大 満足説」にほかならない。)
本稿にはなお書かれるべき一章が残されている。それはケインズに関する考 69) 察である。パレートは「社会学」において極大満足説と功利主義とを否定しよ 70) うとしたが,ケインズは私の考えでは,それらを認識論および経済学の次元で 否定したからである。が,この点の検討はもはや本稿の範囲をはるかに越えて いる。他日を期したい。 1989年3月16日 参考文献 (1)安藤金男 「ゴッセン経済学の政策的課題」「経済科学』vol.35.no.4.1988.(水野 正一教授退官記念号) (2) Creedy, J, Edgeworth and the Development of Neoclassical Economics., Oxford 1986, (3) Edgeworth, F. Y., New and old Methods of Ethics, Oxford, 1877. (4) 一 Mathematical Psychics, London, 1881. (5) 一 “Osservazioni sulla teoria matematica dell’economia politica, con riguardo speciale ai Principi di economia di Alfred Marshall” Giornale degli Economist, 1891. (6) . “Gossen, Herman Heinrich”, Dictionai y of Political Economy, ed, by R. H. 1. Palgrave, London, 1896. vol.,2. (7) 一 “The Pure Theory of Taxation”, Economic Journal, 1897 (re− printed in(8)) (8) 一 Papers Relating to Political Economy, vol., 2, LondoB, 1925 (9)福岡正夫,早坂忠,根岸町『ケインズと現代』税務経理協会 1983年。 69)私は註1)において功利主義の一応の定義を示しておいた。しかし,以上の考察を ふまえて考えるとき,この定義には次の二つの条件が新たに付加されるべきことが明 らかとなろう。 (1)これはエッジワース流にいえば「純粋な」功利主義であっ て,「不純な」 あるいは 「混合様式」の功利主義一一諸個人の効用の加重的集計量 (あるいは平均)の極大化 もまた広義の功利主義とよんでもよかろう。が,(2) 前IV節の末尾でエッジワースの功利主義に関連して指摘した三つの特徴 (p 46)を 欠くなら,それがたとえ諸個人の効用のなんらかの集計量の極大を目指していても, それは「功利主義」とはよばれるべきでない。 70)この点に関しては菱山[11]などを参照。なお,福岡他[9]pp.251−85はこの 点に関連する種々の論点,対立する諸見解を有益である。
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