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大伴氏系図復元に関する一試論 利用統計を見る

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全文

(1)

大伴氏系図復元に関する一試論

著者

上村 正裕

著者別名

UEMURA Masahiro

雑誌名

東洋大学大学院紀要

52

ページ

390-369

発行年

2015

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008706/

(2)

はじめに

日本古代の政治史研究は藤原氏を「新制的」 、大伴氏を「旧制的」 という枠組みに当てはめた竹内理三 氏 (( ( の見解、議政官構成の変遷か ら律令国家の展開過程の中で藤原氏以外の氏族が衰退していったと する長山泰孝 氏 (( ( の見解が通説的立場を堅持している。両者の見解は 批判的に継承していくべきものと考えるが、二項対立的図式に基づ いた政治史への理解は修正されるべきであろう。事実、近年敗者の 視 点 (( ( から日本古代史を再検討しようという機運が高まっており、そ れは二項対立図式への反省を起点にしているものである。 筆者は先に橘奈良麻呂の乱をめぐる大伴古麻呂の政治的立場につ いて検討し、彼が光明皇太后の「近臣」であったこと、古麻呂が大 伴氏の安麻呂系非嫡流でありながら遣唐副使や弁官に任用されたこ と に よ り、 そ の 子・ 継 人 か ら 曾 孫 の 善 男 ま で「 貴 族 官 人 の 再 生 産 」 が 果 た さ れ て い た こ と を 指 摘 し た (( ( 。 院 政 期 に は「 家 」 が 成 立 (( ( す る と ともに、議政官への昇進コー ス (( ( および「家職」が設 定 (( ( されることは よく知られているが、奈良時代にも同様の視点を取り入れることが できるのではないかという問題関心から検討した結果である。ただ し、大伴氏の系図復元案を示したものの、紙数の関係により、詳細 な検討は別の機会に譲る旨を付記せざるを得なかった。特に古麻呂 の系譜的位置づけは彼の政治的立場への理解に関わるため、今回そ の実証を中心とした本稿を執筆するに至った次第である。 大伴氏の系図は『続群書類従』第七輯下・系図部所収の「大伴系 図」 「伴氏系図」などが存するものの、信頼に堪うるものではない。 よって、六国史やその他の史料で補うほかないが、安麻呂系、御行 系、吹負系、馬来田系の四つの系統に分かれていたことは異論ない ところであろう。ただし、善男の代まで議政官を輩出する安麻呂系 は比較的系譜関係が判明するものの、御行系はほとんど系譜関係が 不明であるなど、大伴氏の系図復元は一筋縄にはいかない。太田亮 氏 (( ( 以来多くの研究成果が上がっているものの、未だ何人かの系譜関 係については議論の対象となっている。

文学研究科史学専攻博士後期課程2年

 

上村

 

正裕

大伴氏系図復元に関する一試論

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よって、本稿でも完全なる復元は困難であるが、今後の氏族研究 および政治史研究に資するよう、出来うる限りの復元を試みたい。

第一章

 

大伴古麻呂の系譜的位置づけ

本章では別稿の理解にも関わる大伴古麻呂の系譜的位置づけにつ い て 検 討 し た い。 古 麻 呂 に つ い て 太 田 氏 は 家 持 の 子、 安 麻 呂 の 子、 旅人の子の可能性を示唆するにとどめ、系譜関係の確定を避けてい る。 古 麻 呂 の 系 譜 的 位 置 づ け を 考 え る に あ た っ て、 『 万 葉 集 』 巻 四・五六七番左注に 以 前、 天 平 二 年 庚 午 夏 六 月、 帥 大 伴 卿 忽 生 二 脚 一、 疾 二 枕 席 一。 因 レ此馳駅上奏、望請庶弟稲公・ 姪 胡 麻呂 欲 レ遺言 上。勅、 右 兵 庫 助 大 伴 宿 祢 稲 公、 治 部 少 丞 大 伴 宿 祢 胡 麻 呂 両 人、 給 レ 発遣、令 レ卿病 一。 とあり、天平二年に危篤の病となった大伴旅人が「庶弟」の稲公と 「姪」の古麻呂を召喚していることが知られるが、 「姪」には「兄弟 の子」としての用法が一般的であるとして、旅人の兄弟の子、すな わち、安麻呂系・宿奈麻呂の子(もしくは田主の子 ( と解する説が 存す る (( ( 。 一方、 『万葉集』巻四・六四九番左注に 右、坂上郎女者佐保大納言卿之女也。駿河麻呂、此高市大卿之 孫也。両卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題 レ歌送答、相問起 居 一。 とあり、坂上郎女が安麻呂の女、駿河麻呂が高市大卿(御行 ( の孫 で あ る こ と が 知 ら れ る。 そ し て、 「 両 卿 兄 弟 之 家、 女 孫 姑 姪 之 族 」 という表現から駿河麻呂は坂上郎女にとって「従兄弟の子」という こ と に な る た め、 「 姪 」 に 従 兄 弟 の 子 の 用 法 が 存 す る こ と が 判 明 す る。以上の根拠から古麻呂の御行系説が呈示されてい る ((1 ( 。 さ ら に 近 年 鷺 森 浩 幸 氏 は 配 偶 者 の 母 を「 姑 」 と 表 記 す る 事 例 (『続日本紀』和銅七年十一月戊子条 ( がある一方、 「于 レ時押勝之男 三人並任 二参議 一。良継位在 二子姪之下 一、益懐 二忿怨 一 」( 『同』宝亀八年 九月丙寅条 ( の「子姪」が藤原仲麻呂の子および女婿の藤原御楯を 示す可能性があること、坂上大嬢(坂上郎女の女 ( と婚姻関係にあ る 家 持 が 坂 上 郎 女 の「 姪 」( 『 万 葉 集 』 巻 六・ 九 七 九 番 (、 坂 上 二 嬢 ( 同 上 ( と 婚 姻 関 係 に あ る 駿 河 麻 呂 が 同 じ く「 姪 」( 『 万 葉 集 』 巻 四・六四九番 ( であることを援用して、旅人の「姪」と表記される 古麻呂も旅人の女婿であるとの新見解を呈示してい る ((( ( 。 以上を要するに、古麻呂が旅人の「姪」と表記されていることを 如 何 に 理 解 す る か に か か っ て い る と い え よ う。 で は、 『 万 葉 集 』 に お け る 他 の 姪 の 用 例 は ど う な っ て い る の で あ ろ う か。 管 見 の 限 り、 『 万 葉 集 』 に お け る「 姪 」 は 先 に 示 し た 巻 四・ 五 六 七 番 左 注 お よ び 六 四 九 番 左 注 以 外 で は 巻 六・ 九 七 九 題 詞「 大 伴 坂 上 郎 女 与 下 家 持 従 二佐保帰西宅歌一首」のみであり、この場合坂上郎女は大伴 安麻呂の女で家持が旅人の子(安麻呂の孫 ( であるので、ここでの

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臣 意 所 レ欽、 在 二 朝 臣 一。 請 除 二 女 子 一、 所 レ 男 児、 皆 賜 二 朝 臣姓 一。亦復諸姪希望者、同預 二於此矣。 (後略 ( a は孝安天皇が天押帯日子命(孝安天皇の兄 ( の娘である押媛を皇 后とした記事であり、 『古事記』中巻孝安天皇段にも 大 倭 帯 日 子 押 人 命、 坐 二 城 室 之 秋 津 島 宮 一、 治 二 下 一也。 此 天 皇、娶 二姪忍鹿比売命生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子 賦斗邇命。 と、同様の記事が見える。押媛は女性だが、当時「王」の表記に男 女の区別がなかっ た ((1 ( 点を踏まえれば、ここでの姪も兄弟の子である ことに変わりはない。 b では源啓と姪の源直が「親密之契」を結ん でいたことが記されているが、両者の関係は『尊卑分脈』でも裏付 けられ、ここでは兄弟の子としての用法が認められる。 c は正躬王 の上表により一族に平朝臣の賜姓が許された記事であるが、正躬王 との関係を『尊卑分脈』を参考に整理すると次のようになる。 正躬王の息子…住世王、基世王、助世王 正躬王の兄弟… 継世王、家世王、益世王、雄風王( 『文徳実録』 斉衡二年六月癸卯条によれば、万多親王の第四 男とあり、正躬王の兄にあたる ( 正躬王の兄弟の子… 正 行 王 の 子( 高 蹈 王、 高 居 王 (、 雄 風 王 の 子(定相王 ( 雄 風 王 は 斉 衡 二 年( 八 五 五 (、 正 行 王 は 天 安 二 年( 八 五 八 ( に 死 去 「 姪 」 は 兄 弟 の 子 の 用 法 で あ る こ と が 明 ら か で あ る。 た だ し、 こ れ だけでは判断する材料が少なく、他の事例から援用して考える必要 があろう。 次に六国史における姪の用例を見ておきたい。まず、続柄が明ら かである事例を掲出する。 a 『日本書紀』孝安天皇二十六年二月壬寅条 立 二姪押媛皇后 一。〈一云、磯城県主葉江女長媛。一云、十市 県主五十坂彦女五十坂媛也。 〉后生 二大日本根子彦太瓊天皇 一。 b 『三代実録』貞観十一年(八六九 ( 八月二十七日条 従 四 位 上 行 越 前 守 源 朝 臣 啓 卒。 啓 者、 嵯 峨 太 上 天 皇 之 子 也。 ( 中 略 ( 性 崇 二 釋 教 一。 与 二 源 朝 臣 直 一、 有 二 密 之 契 一。  常 相 語 云、 相 共 出 家 入 道。 此 意 未 レ果、 病 発 危 急。 遂 落 髪 為 二 門 一、 未 レ幾而卒。時年卌一。 c 『三代実録』貞観四年(八六二 ( 四月二十日条 勅、参議正四位下行弾正大弼正躬王男散位従五位下住世王、无 位 継 世 王、 基 世 王、 家 世 王、 益 世 王、 助 世 王、 是 世 王、 経 世 王、並世王、尚世王、行世王、保世王、故従四位上正行王男高 蹈 王、 高 居 王、 故 従 四 位 下 雄 風 王 男 定 相 王 等 十 五 人、 賜 二 平 朝 臣 一。 先 レ是、 正 躬 王 抗 レ 曰、 ( 中 略 ( 竊 見、 宗 門 賜 姓 者 多。

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(『 日 本 古 代 人 名 辞 典 』( で 血 縁 関 係 の 裏 付 け は で き な い た め、 措 い ておきたい。 e は橘奈良麻呂の乱の際の光明皇太后詔で右大臣以下 群臣を「吾近姪」と表現しており、岸俊男 氏 ((1 ( はその詔を現代語訳す る中で「甥」としているのみで詳しくは触れていないが、青木洋子 氏 ((1 ( は 右 大 臣 藤 原 豊 成 が 光 明 皇 后 の オ イ で あ る か ら、 『 万 葉 集 』 の 兄 弟 の 子 と し て の 用 法 に 一 致 す る と す る。 し か し、 「 汝〈 多 知 〉 諸 」 の範囲は召し入れられた右大臣以下群臣と思われるので、光明皇太 后と豊成との関係のみで判断するのは性急すぎよう。王権の危機意 識の強さの表れとしてミウチ意識に訴えたとの評 価 ((1 ( も存するが、本 居宣長が『続紀歴朝詔旨解』に議政官の藤原豊成・仲麻呂・永手が 光明皇太后の兄弟の子である点を特記しているように、橘奈良麻呂 (議政官 (、安宿王・黄文王(群臣 ( など事件の中心人物にも光明皇 太后の兄弟の子が多い点は注目される。王権全体に光明子の兄弟の 子が多く存在した背景が想定され、ここでの姪も兄弟の子としての 用法の可能性が高いのではあるまいか。 f は多治比氏から橘奈良麻 呂の乱に荷担した多くの氏人が出たことから、広足が引責のため中 納 言 を 免 職 さ せ ら れ た 記 事 で、 こ こ で は「 諸 姪 」 と あ る が、 『 続 日 本 紀 』 天 平 宝 字 四 年( 七 六 〇 ( 正 月 癸 未 条 の 薨 伝 で は「 勝 宝 九 歳 坐 二子姪党逆 一、而免 レ職帰第。以散位終焉」とあり、 「子姪」とい う表現に置き換えられている。この子姪については先に触れた鷺森 氏のような解釈が成り立つ余地がないわけではないが、他の六国史 の用例からの傍証が欲しいところである。よって、ここでは不特定 (『文徳実録』天安二年七月己巳条 ( しており、 「諸姪希望者、同預 二 於 此 一 」 と の 表 現 は 身 寄 り の な い 姪 を 正 躬 王 が 保 護・ 後 見 し て い た背景が察せられる。いずれにしても、 c の姪が兄弟の子を指して いることは明らかであろう。 次に続柄が不明な事例を見ておきたい。 d 『続日本紀』天平勝宝六年(七五四 ( 閏十月庚戌条 従 五 位 下 秋 篠 王、 男 継 成 王、 姪 濱 名 王、 船 城 王、 愛 智 王 五 人 賜 二丘基真人姓 一。 e 『続日本紀』天平宝字元年 (七五七 ( 七月戊申条 詔 曰( 中 略 ( 詔 畢 更 召 二 右 大 臣 以 下 群 臣 一。 皇 大 后 詔 曰、 汝 〈多知〉諸者吾近姪〈奈利〉 。又竪子卿等者天皇大命以汝〈多知 乎 〉 召 而 屡 詔〈 志 久 〉。 朕 後〈 尓 〉 太 后〈 尓 〉 能 仕 奉〈 利 〉 助 奉〈礼止〉詔〈伎〉 。(後略 ( f 『続日本紀』天平宝字元年八月庚辰条 勅、 中 納 言 多 治 比 真 人 広 足、 年 臨 レ耄、 力 弱 就 レ列。 不 レ 二 諸姪 一、悉為 二賊徒 一。如 レ此之人、何居宰輔 一。宜 下中納言 一、以 二 散位 一 上レ 第焉。 d は兄弟の子としての用法の可能性が高いが、秋篠王の系統は不明

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九日条( 『群書類従』第二輯・神祇部 ( 正暦四年五月廿一日贈 二正一位左大臣 一。(割注略 ( 同閏十月十九 日贈 二太政大臣 一。〈 勅使散位従五位下菅原為理。幹政姪。輔正子 也 。〉 右 拠 二 家 文 草、 後 集、 三 代 実 録、 公 卿 補 任、 菅 原 本 系 帳、 家 記等 一之。 史料 i 『小右記』長元五年(一〇三二 ( 八月二十八日条 ( 前 略 ( 今 日 中 宮 行 二 院 一。〈 院 御 二 大 膳 職 一。〉 外 記 貞 親 云、 中 宮 大 夫 斉 信 卿 可 レ 仰 事 一。 或 云、 実 康 卒 去 云 々。 斉 信 卿 姪 欤。 有 レ 欤。 経 季 云、 今 暁 実 康 卒 去 者。 今 日 不 レ 啓 一 之由、示 二送頭弁許 一。為 レ披露 一、縦雖 レ歩行之人 一、大臣 行歩不 レ六・七町 一。 しかし、右の史料 h ・ i から兄弟の子の用法の対象が未だ男子であ ることが判明する。すなわち、史料 h は菅原道真への贈位贈官に関 する記事で正暦四年閏十月十九日条によれば、道真に太政大臣を贈 官する際の勅使に菅原幹政の姪である為理が任命されており、中宮 藤原威子の上東門院藤原彰子への行啓に関する記事である史料 i で は、藤原斉信の姪である実康の死去により行啓に中宮大夫の斉信が 陪従できない旨が記されている。さらに『小右記』長和三年(一〇 一四 ( 六月十七日条にみえる小除目の記事では 多数の若い世代ぐらいの意味でとっておきたい。 ここまでの整理で姪には兄弟の子、もしくは不特定多数の若い世 代という用法が多く見られることが明らかになった。続いて六国史 以降の史料も視野に入れて検討してみたい。 g 『三代実録』貞観五年(八六三 ( 九月十五日条 右 京 人 主 計 少 允 正 六 位 上 真 野 臣 永 徳、 姪 男 真 野 臣 道 緒 等 賜 二 宿祢 一。大和国山辺郡人上野権少掾正六位上民首広門、右京人大 宰 医 師 正 七 位 上 民 首 方 宗、 木 工 医 師 正 六 位 上 民 首 広 宅 等 賜 二 真野臣 一。永徳広門等之先、出 レ天足彦国押人命也。 g によると、真野臣永徳の「姪男」にあたる人物が道緒であるこ と が わ か る が、 わ ざ わ ざ「 姪 男 」 と 表 記 し て い る こ と か ら す れ ば、 時期が近い b に兄弟の子(オイ ( としての用法があるにしても、姪 の 用 法 は 過 渡 期 的 状 況 を 迎 え て い た こ と が 察 せ ら れ る。 そ の 点 は 「左京人散位従五位下有道王男二人、女二人、姪女一人、賜 二姓清原 真人 一。舍人親王之後也」 (『三代実録』貞観十三年(八七一 ( 八月十 六 日 条 ( の「 姪 女 」 か ら も 理 解 さ れ よ う し、 そ の 後 も『 三 代 実 録 』 元慶五年(八八一 ( 十二月十九日条にみえる「姪男」のように同様 の傾向は続く。 史料 h 『菅家御伝記』正暦四年(九九三 ( 五月二十一日・閏十月十

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史料 l 「宮寺縁起抄」第十二所引「神主次第」 (『石清水文書』五― 一〇二頁 ( 神主次第 従 八 位 下 紀 朝 臣 御 豊 貞 観 十 八 年 八 月 十 三 日 任。 建 立 大 師 甥 也。 件官符延喜格載。 以上から、 g から看取される過渡期的状況は急速な用法変化には つ な が ら な か っ た も の と 思 わ れ る。 『 西 宮 記 』 臨 時 八・ 凶 事 一 所 収 の服紀表に「姪〈又云甥〉 」「姪女」との記載があること、 『新儀式』 第五・臨時下、三等已上親喪服錫紵事に「姪男、姪女三等親也」と の記述があることは布村一夫氏が指摘しているように「親族名称の 日 本 化 」 ((1 ( と い う 流 れ の 中 で 理 解 で き る。 古 記 録 で は『 御 堂 関 白 記 』 長 和 五 年 七 月 十 八 日 条 で 前 掌 侍・ 民 部 を「 伊 与 守( 佐 伯 ( 公 行 姪 」 と 表 現 し て い る ほ か、 『 中 右 記 』 な ど 院 政 期 以 降 の 日 記 で は「 姪 」 をメイとして使用している。ただ、少なくとも、八世紀段階では男 子を対象とした兄弟の子の用法が一般的であったと考えて差し支え ないだろう。 なお、参考までに戸籍における姪の用法について見ておくが、布 村一夫・南部曻両氏の見解を整理すると、御野国戸籍では兄弟姉妹 の女子、下総国戸籍などでは姉妹の女子、山背国計帳では兄弟の男 子で使用されているとい う ((1 ( 。前二者については女子を指しているの 朝 経 伝 二 言 一云、 以 二 長 一 後 一。 信 経〈 信 経 者 前 司 又 〔 之 ヵ〕 姪 也。 又 聟 也 。 内 々 相 構 所 レ 也。 似 二 意 一。 師 長・ 信 経両人殿上人也。 〉可 レ越後者。 とあって、藤原信経が前司である藤原為時の姪および聟であること が分かる。また、具体的な続柄を立証する史料に欠けるものの、皇 慶は「黄門侍郎広相之曾孫、性空法師之姪也」 (『元亨釈書』巻五・ 叡山皇慶の項 ( とあることも参考になろう。 他方、兄弟の子を「甥」と表記する事例も散見される。以下の三 つを挙げておきたい。 史料 j 『日本書紀』欽明三十年(五六九 ( 正月辛卯朔条 詔曰、量 二置田部 一、其来尚矣。年甫十余、脱 レ籍免課者衆。宜 下 遣 二膽津 膽津者、王辰爾之甥也。 〉検 中定白猪田部丁籍 上。 史料 k 『続日本紀』天平勝宝三年(七五一 ( 正月辛亥条 賜 二 五 位 下 大 井 王 奈 良 真 人 姓、 无 位 垂 水 王、 男 三 室 王、 甥 三 影王、日根王、名辺 王 ((1 ( 、无位廬原王、男安曇王、三笠王、対馬 王、物部王、牧野王、孫奈羅王、小倉王、无位猪名部王、男大 湯 坐 王、 堤 王、 菟 原 王、 三 上 王、 野 原 王、 砺 波 王 等 三 嶋 真 人、 无位御船王淡海真人、无位等美王内真人、无位壬生王、岡屋王 美 和 真 人、 无 位 清 水 王、 男 三 狩 王 海 上 真 人、 田 部 王 春 日 真 人、 文成王甘南備真人、平群王、常陸王志紀真人 一。

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の事例は四例であるが、奈良時代以降の国史の傾向と同様に、きわ めて近しい親族(親子・兄弟など ( を対象として蘇生した際に地獄 の 状 況 を 語 っ た り、 遺 言 し た り す る ケ ー ス が 多 い こ と が 判 明 す る。 な お、 「 親 属 」 と い う 表 記 も 存 す る が、 厳 密 な 親 族 範 囲 は 不 明 で あ ったため、今回は事例からは除いた。 国 史 や 説 話 集 以 外 の 事 例 は 如 何 で あ ろ う か。 『 藤 氏 家 伝 』 武 智 麻 呂伝によれば、 至 二 天 平 ( 九 年 七 月 一、 遘 レ 弥 留。 朝 廷 惜 レ之。 其 廿 四 日 皇 后 親 臨、 称 レ 問 レ患。 叙 二 一 位 一、 徙 為 二 大 臣 一。 其 翌 日 薨 二 左 京私第 一。春秋五十有八矣。 とあり、光明皇后が兄の武智麻呂を自ら見舞っていることが記され ている。この記述は『続日本紀』には見えないため、その信憑性を 疑う向きもあろう。ただし、表 (の一条天皇や白河上皇の事例から も明らかなように、天皇などが臣下の病を見舞うということはそれ ほ ど 珍 し い こ と で は な く、 「 武 智 麻 呂 伝 」 後 半 部 分 に つ い て は 生 前 の武智麻呂を知る人が多く、人となりをたたえる逸話を作りがたか ったとする篠川賢氏の指 摘 ((1 ( も踏まえれば、事実としてよいものと思 われる。また、 『扶桑略記』寛平八年(八九六 ( 条所引「善家秘記」 では、失踪した賀陽良藤を兄弟の豊仲・豊陰・豊恒、息子の忠貞ら が捜索するも結局見つからずに途方に暮れるとある。臨終の事例か らは逸れるが、良藤を捜索しているのがきわめて近しい親族であっ たことは注目されよう。その他の事例については表 (を参照された で除外されるが、少なくとも山背国計帳の事例は古麻呂のケースに 当てはまる。要するに奈良時代の戸籍では姪を兄弟(姉妹 ( の子と する用法が一般的であることが知られよう。 以 上、 諸 史 料 に み え る 姪 の 用 法 を 検 討 し て き た が、 『 万 葉 集 』 巻 四・六四九番左注にみられる従兄弟の子の用法は管見の限り見いだ すことができなかった。よって、史料の用法的には従兄弟の子の用 法はイレギュラーであり、兄弟の子の用法が一般的であったという こ と に な ろ う。 た だ、 こ こ で 断 定 す る の は 早 計 で あ る た め、 『 万 葉 集』巻四・五六七番左注にみえる大伴旅人が臨終の際に庶弟の稲君 と姪の古麻呂を召喚した場面の類例を呈示した上で、旅人の事例が 一般化できるのかを検討する。表 (を参照されたい。 表 (は六国史の収録範囲の時期およびそれ以降の時期における臨 終ないし病気の際にどのような親族が召喚、または訪問してきたか をまとめたものである。六国史などの正史だけではなく、説話など も 事 例 と し て 収 集 し た。 た だ し、 親 族 に 該 当 し な い 事 例 は 除 外 し、 事例が豊富だったため、一〇八〇年代までを対象とした。史料ごと に検討してみたい。六国史のうち、奈良時代以前の『日本書紀』で は皇位継承関係で不予状態の天皇が皇太子や有力な皇子を召喚する ケースが多いのに対し、奈良時代以降ではきわめて近しい親族(息 子や兄妹など ( を召喚し、自らの葬儀について遺言するケースがま ま見受けられる。その傾向は薨卒伝の充実との関連も考えられるた め、 『 日 本 霊 異 記 』 な ど 説 話 集 の 検 討 を 行 う 必 要 が あ る。 『 霊 異 記 』

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等五人〈乎〉人告謀反汝等為吾近人 一〈毛〉吾〈乎〉可怨事者 不 所 念。 汝 等〈 乎 〉 皇 朝 者 己 己 太 久 高 治 賜〈 乎 〉 何〈 乎 〉 怨 〈 志 岐 〉 所〈 止 志 氐 加 〉 然 将 為 不 有〈 加 止 奈 母 〉 所 念。 是 以 汝 等 罪 者 免 賜。 今 徃 前 然 莫 為〈 止 〉 宣。 詔 訖 五 人 退 二 南 門 外 一。 稽首謝 レ恩。  (『続日本紀』天平宝字元年七月己酉条 ( 右 の 史 料 の 傍 線 部 に よ れ ば、 光 明 皇 太 后 か ら み て 塩 焼 王 ら 五 人 は 「 近 人 」 で あ る と い う。 別 稿 で 指 摘 し た こ と で あ る が、 古 麻 呂 以 外 の 人 物 は 光 明 子 と の「 近 人 」 と し て の 関 係 を 示 す こ と が 可 能 で あ る。 塩焼王… 天武と藤原五百重(鎌足の女。光明子のオバ。藤原麻 呂の 母 (1( ( ( の間に生まれた新田部親王の子。妻は不破内 親王(聖武と県犬養広刀自の所生 (。      要するに、光明子から見て塩焼王は従兄弟の子。 安宿王・黄文王… 長 屋 王 と 藤 原 不 比 等 女( 光 明 子 の 異 母 姉 妹 ( 所生。長屋王の変後に光明子が両王を庇護。 橘奈良麻呂… 橘諸兄(光明子の異父兄妹 ( と多比能(光明子の 姉妹 ( の子。 ところで、加藤謙吉氏は 荒田井伊美吉乙麻呂 右 人 年 足 之 近 族。 此 起 二 年 八 月 一、 祗 二 於 寺 頭 一。 伏 乞 昭 レ 垂 レ恕。幸々甚々。謹状。不宣。 いが、奈良時代以前・以後ともに限られた親族範囲で召喚がなされ る の は 当 時 の 貴 族・ 庶 民 層 で は 一 つ の 住 居 に「 夫 婦 と 子 供 」( 小 家 族 ( が居 住 (11 ( するという生活様式の特質が関連しているのではあるま いか。要するに、当時の古代社会の親族意識が反映されているもの と考えられるのである。 な お、 表 (か ら 兄 弟 の 子 の 事 例 に 合 致 す る も の を 挙 げ る と 六 例 ( № ((、 ((、 ((、 ((、 ((、 ((( と な る の に 対 し、 従 兄 弟 の 子 の 事 例 に合致するものは皆無であった。養老儀制令五等親条を参考に等親 を付してみたが、四等の従兄弟の子と同等の等親の類例では№ (の みが当てはまる。しかし、皇位継承に対する教誨という点を鑑みる に、有力皇子であるがゆえの召喚と考えた方がよく、例外とするの が妥当であろう。つまり、表 (からも姪の用法において兄弟の子が 一般的である蓋然性はきわめて高いものと断じて差支えないと思わ れる。 以 上 の 検 討 か ら、 古 麻 呂 が 旅 人 の 兄 弟 の 子 で あ る こ と が 明 ら か と なった。また、旅人の兄弟となると、父は宿奈麻呂か田主の可能性 が考えられるが、田主は出仕した形跡が見受けられず、蔭位制の適 用なしに古麻呂が官人として立身していくことは考えにくいことか ら、宿奈麻呂の子と推定しておきたい。 最後に彼と藤原光明子との関係を示す一史料を紹介する。 …( 略 ( 即 日 夕、 内 相 仲 麻 呂 侍 二 在 所 一、 召 二 焼 王、 安 宿 王、 黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂五人 一、伝 二太后詔宣曰、 塩焼

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酉条 ( である点から説明がなされてき た (11 ( 。しかし、右の検討から従 来 の 先 行 研 究 の 理 解 よ り 一 歩 進 め て、 よ り 直 接 的 な 関 係 が「 近 人 」 の語から読み取れるものと考えておきたい。 以上、迂遠な検討に終始したが、大伴古麻呂は安麻呂系宿奈麻呂 の子であり、光明子の近族であることが明らかとなった。章を改め て、大伴氏の他の氏人の系譜的位置づけについて検討を行いたい。

第二章

 

八・九世紀における大伴氏の系譜的位置づけ

第一節   八世紀の大伴氏 本節では大伴古麻呂以外で系譜関係について議論になっている人 物を中心に、先行研究に触れつつ八世紀における大伴氏の系図復元 の作業を行いたい。 ①道足 道 足 に つ い て は、 『 続 日 本 紀 』 延 暦 元 年 二 月 丙 辰 条 に「 参 議 従 三 位中宮大夫兼衛門督大伴宿祢伯麻呂薨。祖馬来田贈内大紫。父道足 平 城 朝 参 議 正 四 位 下 」 と 馬 来 田 の 子 と さ れ て い る 一 方 で、 『 公 卿 補 任』天平元年条に「大納言安麿一男」とあるように安麻呂の子とす る 異 説 も 存 す る (11 ( 。 諸 先 学 は 史 料 の 信 憑 性 を 鑑 み、 概 ね『 続 日 本 紀 』  天平十七年四月廿六日安都年足謹状 と あ る「 天 平 十 七 年 四 月 二 十 六 日 付 安 都 年 足 書 状 」( 正 倉 院 丹 裹 文 書、 『 大 日 本 古 文 書 』 二 五 ― 一 二 四 頁 ( を 挙 げ た 上 で、 阿 刀 氏 と 東 漢( 荒 田 井 ( 氏 は 別 族 で あ る か ら、 「 近 族 」 と は こ の 場 合、 婚 族 の 意にとることができるとす る (11 ( 。加藤氏の指摘を参照しつつ、先に整 理した光明子と塩焼王らの関係を眺めてみると、婚姻関係を通して 結ばれた一定程度近い関係であることが判明する。その知見から光 明子と大伴古麻呂の関係を考えるに、婚姻関係を介した何らかの近 い関係を有していたものと推測される。 右の推定に合致しうる実例は藤原麻呂と大伴坂上郎女の婚姻関係 (『万葉集』巻四・五二八左注 ( であろう。先の検討で古麻呂は宿奈 麻呂の子との結論を得たが、そうすると古麻呂からみて坂上郎女は オバ(父の兄妹 ( であり、血縁関係のない継母となる。オバないし 継 母 と 一 時 期 関 係 を 持 っ て い た 藤 原 麻 呂 は 光 明 子 の 兄 妹 で あ る か ら、その点から光明子が古麻呂を「近人」と称した背景を説明する ことが可能になるのではなかろうか。従来右に掲げた光明皇太后詔 は古麻呂以外の四人と光明子の関係のみが強調され、光明子と古麻 呂の関係については等閑に付されてきた感があった。例えば、倉本 一宏 氏 (11 ( は「近人」を「近親」と解し、光明子がミウチ意識に訴えた とし、また、光明皇太后が右大臣藤原豊成以下の群臣を召して詔し た 中 で、 「 大 伴 宿 祢 等〈 波 〉 吾 族〈 尓 母 〉 在 」 と 評 し た 点 に つ い て は、 大 伴 古 慈 斐 の 妻 が 藤 原 不 比 等 女( 『 続 日 本 紀 』 宝 亀 八 年 八 月 丁

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②駿河麻呂 駿 河 麻 呂 に つ い て は、 『 公 卿 補 任 』 宝 亀 六 年 条 に「 頭 書 云、 国 史 不 レ 母 一 と あ り、 『 続 日 本 紀 』 に お け る 駿 河 麻 呂 の 卒 去 記 事 ( 宝 亀 七 年 七 月 壬 辰 条 ( に も 系 譜 へ の 言 及 が な い。 た だ し、 先 に 紹 介 し た よ う に、 『 万 葉 集 』 巻 四・ 六 四 九 番 左 注 で は 駿 河 麻 呂 が 高 市 大卿の孫とされている。高市大卿は御行のこととされており、父の 比定は困難であるものの、駿河麻呂が御行系である可能性が想起さ れ る。 そ れ に 対 し て、 『 続 群 書 類 従 』 所 収「 伴 氏 系 図 」 で は 道 足 の 子との異説も存するが、史料的根拠から今日では御行系説が有力と なっている。特に異論はないため、本稿でも御行の孫とし、父は不 明としておく。 ③兄麻呂・御依・潔足 兄 麻 呂 に つ い て は、 長 徳 の 子( 『 続 群 書 類 従 』 所 収「 大 伴 系 図 」( と あ る 以 外 は 特 に 史 料 に お け る 記 述 は な い。 『 公 卿 補 任 』 天 平 勝 宝 八歳条に「或本。天平宝字二年謀反」とあり、兄麻呂が何らかの政 治事件に関与したことが知られ、それにより明確な系譜記事が失わ れた可能性がある。ただし、仮に「天平宝字二年」が元年の誤記で 橘 奈 良 麻 呂 の 乱 へ の 関 与 を 想 定 し た と し て も、 『 続 日 本 紀 』 に 詳 細 な記述が見られる橘奈良麻呂の乱関係の記事で彼の名前が見いだせ の記述を支持しているが、尾山篤二郎氏は『万葉集』巻五・八一〇 〜八一二番に見える大伴旅人から藤原房前への琴の贈答は房前長男 の 鳥 養 と 道 足 の 女 子 の 結 婚( 『 尊 卑 分 脈 』 第 一 篇・ 二 九 〜 三 〇 頁 ( を祝ったものと解した上で、安麻呂が道足を猶子としたとの説を呈 示してい る (11 ( 。尾山氏の見解は新婚の意を含む『文選』巻十五の古詩 十九首中の九「再再孤生竹」を根拠とするが、その他の裏付けがな く、にわかに従いがたい。 ただし、なぜ『公卿補任』のような異説が存するのかについては 考 え る 糸 口 が あ る。 『 公 卿 補 任 』 の 成 立 年 代 に つ い て は 応 和 年 間 ( 九 六 一 〜 九 六 四 ( か ら 長 徳 元 年( 九 九 五 ( 以 前 の お お よ そ 十 世 紀 と の 見 解 が 示 さ れ て い る が (11 ( 、 十 世 紀 は 家 が 未 成 立 と は い え、 「 氏 長 者」という氏上とは異なる表記が史料上散見される。氏長者は官位 第 一 の 者 が 任 ぜ ら れ る が (11 ( 、 た と え ば 当 時 冬 嗣 ― 長 良 ― 基 経( 『 大 鏡 』( と い う 藤 原 氏 の 嫡 流 意 識 を 重 視 す る 面 と 冬 嗣 ― 良 房 ― 基 経 (『 尊 卑 分 脈 』( と い う 氏 長 者 の 移 動 に 重 き を 置 く 面 が 混 在 し て い た も の と 思 わ れ る。 す な わ ち、 『 公 卿 補 任 』 に み ら れ る 道 足 を 安 麻 呂 の子とする異説は大伴旅人の次に道足が参議となった点に後世の氏 長者観を援用したことにより生じる後世の誤認であると考えられる のではなかろうか。よって、本稿では『続日本紀』の記述に信を置 き、道足を馬来田の子と断定しておきたい。

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ことで結論を留保しておきたい。 ④その他 右の議論とは別に、橘清友(奈良麻呂の子 ( の母について新見解 が呈示された。吉川敏子氏は『伊呂波字類抄』无の部、梅宮の項で 橘 清 友 の 母 が「 伴 邑 等 女 」 と さ れ て い る こ と に 着 目 し、 「 等 」 の 字 の 崩 し か ら「 邑 治 麻 呂 」 の 署 名( 「 越 前 国 正 税 帳 」『 大 日 本 古 文 書 』 巻 一・ 四 三 九 頁 ( を 残 し て い る 祖 父 麻 呂 に 比 定 し て い る (11 ( 。 要 す る に、橘奈良麻呂と大伴祖父麻呂の女に婚姻関係があり、転じて奈良 麻呂と古慈斐は義理の兄弟ということにな る (11 ( 。その妥当性について は 他 の 史 料 で 右 の 婚 姻 関 係 を 示 す も の は な く、 『 公 卿 補 任 』 の 奈 良 時代の部分で は藤原氏以外の母の記述が な い こ と が通 例 (11 ( で あ る た め、 その実証は難しい。ただし、吉川氏の指摘は新たな知見として注目 されよう。 最後に家持の近親について言及しておきたい。 史料 m 『万葉集』巻二十・四二九八〜四三〇〇番 (天平勝宝 ( 六年正月四日氏人等賀 二集于少納言大伴宿祢家 持之宅 一宴飲歌三首 霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く 右一首左兵衛督大伴宿祢千室 年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも ないのは不審である。ともあれ、彼の系譜的位置づけの確定には至 っていないのが現状である。 ただし、内・外階コー ス (11 ( から類推した先行研究も存する。すなわ ち、天平三年(七三一 ( に兄麻呂が従五位下となっているが、当時 の大伴氏には内・外階コースが混在しており、吹負系・馬来田系が 外階コースであるため、残る安麻呂系・御行系は内階コースと想定 され る (11 ( 。以上の事実から、兄麻呂は御行系であるとの見解が支配的 であ る (1( ( 。本稿では遺憾ながら実証する材料がないため今後の課題と し、先行研究に従って御行系としておきたい。 兄麻呂との関係が想定されるのは次の世代の人物と思われる御依 と潔足である。御依は『続群書類従』所収「伴氏系図」では御行の 子とされている。一方、潔足は『続群書類従』所収「大伴系図」で は 兄 麻 呂 の 子 と さ れ て い る が、 『 公 卿 補 任 』 延 暦 九 年 条 に も 同 様 の 表 記 が あ る。 潔 足 の 場 合、 『 公 卿 補 任 』 の 尻 付 の 内 容 に 諸 氏 族 の 功 臣家伝に基づく六国史との重複がみられることを踏まえれば、やや 信憑性に欠ける面がないわけではないが、一定程度信を置くことが 可能である。一方、御依の場合、明らかに御行の子の世代というよ り は 孫 の 世 代 と い う べ き 時 代 に 活 動 が 窺 わ れ、 何 よ り も「 伴 氏 系 図」のみでは史料的根拠に欠けると言わざるを得ない。 よって、本稿では御依・駿河麻呂・潔足がおおよそ同じ世代の人 物と見なした上で、潔足の父が兄麻呂であるとの『公卿補任』の表 記を念頭に入れつつも、慎重を期して三者を御行系で父不明という

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ところであ る (11 ( 。 し か し、 史 料 m に つ い て は「 禁 三 月 往 来 行 二 賀 之 礼 一。 如 有 二 犯 者 一、 依 二 御 原 朝 庭 制 一、 决 二 之 一。 但 聴 レ 父 兄 及 氏 上 者 一 (『 続 日 本 紀 』 文 武 元 年 閏 十 二 月 庚 申 条 (、 「 諸 氏 長 等 或 不 レ 事 一 恣集 二己族 一。自今以後不 レ更然 一 」( 『類聚三代格』巻十九、天平勝 宝九年六月九日勅 ( などのように氏上のもとに氏人が参集している 背景を考慮する必要があ り (11 ( 、家持との個人的関係のみで説明するこ とはできない。氏上が氏全体を結集する氏長者と同等な存在であっ たかどうかについては別途検討したいが、少なくとも当時の嫡流で あ る安麻呂系を統合す る存在で あった こ と は間違い な い と思わ れ る。 よって、史料 m に登場する大伴氏の氏人は具体的な関係こそ不明で あるものの、安麻呂系傍系の人物であり、家持の近親であると想定 しておきたい。 第二節   九世紀における大伴氏 本節では九世紀における大伴氏の系譜関係について検討していき たい。前節と同様に、先行研究で議論になっている部分が中心とな る。ま ず、一番議論と なって い る の は善男の近親に つ い て で あ ろ う。 すなわち、善男が活躍した九世紀中葉ごろに名前が類似した伴氏が 存在する。一人は伴龍男であり、もう一人は河男である。特に前者 に つ い て は当時の良吏を論じ る際に た び た び挙げ ら れ る人物で あ る。 右一首民部少丞大伴宿祢村上 霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとそ思ふ 右一首左京少進大伴宿祢池主 史料 m によれば、天平勝宝六年正月に少納言大伴家持の邸宅に氏人 らが集まってきて宴会を催しているが、名前が残っているのが大伴 千 室・ 村 上・ 池 主 の 三 人 で あ っ た。 大 伴 千 室 は 史 料 m 以 外 に 見 え ず、 左 兵 衛 督 の 官 職 か ら し て 五 位 以 上 と い う こ と 以 外 は 不 明 で あ る (11 ( 。 一 方、 村 上 と 池 主 に つ い て は 多 少 の 手 が か り が 存 す る。 村 上 は 『万葉集』巻一九・四二六三番に 櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて 右件歌、伝誦大伴宿祢村上同清継等是也。 とあるように、天平勝宝四年閏三月に大伴古麻呂入唐の餞別の宴会 が大伴古慈斐邸で行われた時に詠まれた四二六三番を「伝誦」して いる。誰に「伝誦」したかが問題であるが、巻一九は大伴家持の歌 日記的性格が濃 厚 (11 ( とされているので、対象は家持であろう。すなわ ち、古麻呂の餞別の宴会に家持は参加していないものと想定される ことを踏まえると、家持不在の宴会で詠まれた歌を村上が伝えたと いうことになる。その点から、少なくとも家持と村上の親近性をう かがい知ることができるのではなかろうか。池主は家持の越中守赴 任時代に越中掾として家持の下僚であったが、しばしば家持と歌の やりとりを行っており、その親密さが先学によって指摘されている

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の善男だった可能性を指摘している。また、角田文衛 氏 (11 ( は九世紀段 階より、藤原良房・良相などのように通字の萌芽が認められるとし て、龍男が重い処分を免れたのは当時廟堂で台頭してきた伴善男と 兄弟であったからではないかとの説を呈示した。 確かに通字の萌芽的形態が看取されることは角田氏の述べている 通りであり、系図復元の一つの手法として視野に入れる必要はあろ う。 た だ し、 善 男 は 史 料 n ・ o の 時 点 で 参 議 に な っ て い た も の の、 まだ権力中枢者との関係構築は不十分であった。私見では伴善男は 藤原順子の中宮大夫および皇太后宮大夫を務めることで同母兄弟の 良 相 と も 関 係 を 深 め て い き、 そ れ が 応 天 門 の 変 の 発 生 要 因 と み る が (1( ( 、少なくとも龍男の赦免云々については龍男の兄弟であるという 点まで想定しなくても説明は可能であると思われる。当該期の伴宿 祢氏は伴直氏などを改賜姓によって同族に取り込む氏族再編を実施 してお り (11 ( 、たとえ同じウヂ名であったとしても伴宿祢氏と流れを同 じくするか否かについては、慎重な検討を要する。善男と龍男が何 らかの個人的関係を結んでいたことは否定できないが、善男と龍男 の間には官位の差が顕著であり、そもそも伴氏の主流に近い存在で あったかどうかも怪しい。ここで想起されるのは、応天門の変の関 係者が処分された際にみえる伴秋実や清縄が「善男之従」 (『三代実 録』貞観八年九月二十二日条 ( となった紀豊城と併記されているこ とから善男の僕従と思われる点であり、同様に龍男も位置づける余 地があろう。佐伯有清氏は伴龍男・河男が兄弟であったと考えられ 史料 n 『続日本後紀』嘉祥二年(八四九 ( 閏十二月庚午条 先 レ是、 紀 伊 守 従 五 位 下 伴 宿 祢 龍 男、 与 二 造 紀 宿 祢 高 継 一 レ 愜。 於 レ 不 レ 意 一。 輙 発 レ 捕 二 継 并 党 与 人 等 一。 仍 可 二 申 一状、 官 符 下 知 已 畢。 而 今 日 掾 林 朝 臣 並 人 馳 来 申 云、 守 龍 男 分 二 従 僕 一、 各 帯 二 仗 一、 暗 中 放 レ鏑、 威 二 衆 庶 一。 或 被 レ 囲 一、日夜叨呼、或東西奔走、中途流離。並人諌曰、百姓有 二 レ 過 者 一、 雖 レ 官 一、 須 下 傍 吏 一、 任 レ 勘 決 上。 而 躬 捕 二 人 一、 事 乖 二 情 一。 龍 男 固 拒 不 レ聴。 仍 脱 レ 入 レ 者。 又 高 継 所 レ 之 国 符 稱、 国 造 紀 宿 祢 高 継 犯 罪 之 替、 擬 二 紀 宿 祢 福 雄 一者。 勅、 国造者、非 二国司解却之色 一。而輙解 二却之 一、推 二量意况 一、稍渉 二 臣 一。宜 下釐務 一、任 レ法勘奏 上。 史料 o 『三代実録』貞観元年(八五九 ( 十二月二十七日条 太政官論奏言、前越後守従五位上伴宿祢龍男令 下二 従者公弥侯広 野 等 一、 毆 中 書 生 物 部 稲 吉 上。 前 者 稲 吉 向 二 政 官 一、 告 三 守 龍 男 犯 二 官 物 一。 故 殺 之 状 下 二 部 省 一、 令 レ 男 罪 一、 省 稱 レ 赦 一。直従 二放免 一。(後略 ( 史料 n ・ o によれば、伴龍男がたびたび赴任先で問題を起こしてい ることが知られるが、二度ともそれほど重い処分がくだされていな いことから、佐伯有清 氏 (11 ( は朝廷に強力な支援者がおり、それが近親

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う。その理由については様々あるものと察せられるが、淳和天皇の 即位後に急速に昇進したことを踏まえれば、淳和天皇の乳 母 (11 ( を輩出 し た系統に属し て い た か ら で は な い か と憶測し て お き た い。た だ し、 乳母がその氏の有力系統出身であるとは必ずしも限らないので、真 臣が当時参議を務めていた安麻呂系国道と近い血縁関係を有してい たかは後考に俟ちたい。なお、真臣には藤原常嗣の妻となった女が おり、葛覧を産んでい る (11 ( 。 以上述べてきたように真臣の系統については不明とせざるを得な いが、当時の伴氏の動向を理解する上で欠かせない女性が伴全刀自 と友子である。全刀自は『日本後紀』弘仁三年(八一二 ( 五月庚申 条に従五位下に叙されたことがみえるが、彼女の地位については今 少し考える手がかりがある。 史 料 q 『 類 聚 符 宣 抄 』 第 六 外 記 職 掌( 外 記 代 (、 弘 仁 七 年 四 月 十 七 日宣 太政官史生已上、就 レ務聴入自殿階下 一。 弘仁七年四月十七日。在 二陣例 一。〈掌侍伴宿祢伝宣〉 右にみえる掌侍伴宿祢が誰を指すのかは明らかではないが、当時の 掌侍の位階相当がおおよそ従五 位 (11 ( であったことからかなり絞り込め るものと考えられる。そこで当時従五位下であった大伴氏の女性官 人について調べてみると、全刀自以外には見いだしがたく、史料 q の掌侍伴宿祢は伴全刀自である蓋然性が高いことが判明する。 一方、伴友子は系統不明の長村の女であり、南家の藤原三守の妻 なくもないが推測の域を出ないとする一方で、かなり近い血縁関係 にあったことを思わせるとしている が (11 ( 、本稿では僕従説の可能性を 呈示しておきたい。 次に時期はさかのぼるが、伴真臣の系譜関係について触れておき たい。 史料 p 『類聚国史』六六薨卒、天長九年(八三二 ( 五月乙卯条 右兵衛督従四位下伴宿祢真臣卒。従五位下名鳥第九子也。天長 □ 年 至 □ □。 弘 仁 十 四 年 授 二 五 位 下 一、 拝 二 馬 助 一、 遷 二 兵 衛 権 佐 一、 兼 二 張 守 一。 天 長 □ 年 除 二 少 弁 左 衛 門 権 佐 一。 七 年 叙 二 五 位 下 一、 俄 叙 二 四 位 下 一、 累 遷 二 兵 衛 督 一。 忽 得 二 病 一。 卒 二 宅 一。時年卌九。 史料 p によれば、真臣は名鳥の第九子だとされているが、名鳥な る 人 物 は 他 に 見 え な い。 宝 賀 寿 男 氏 は 名 鳥 を 馬 来 田 系 の 伯 麻 呂 の 子、名鳥の子である真臣を承和の変で処罰された伴健岑の父と推定 し て い る が (11 ( 、確た る根拠を示し て お ら ず、首肯し が た い も の が あ る。 史料 p 以外に真臣の経歴を抽出すると、天長五年(八二八 ( 正月に 従五位上に昇叙し( 『類聚国史』巻九九叙位、同年正月甲子条 (、従 四位下に昇ったのは『類聚国史』九九叙位、天長八年(八三一 ( 十 月庚午条にみえる。主に武官の経歴が濃厚であるが、四十歳代であ りながら天長年間に急速な昇進を果たしていることは注目に値しよ

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おわりに

本稿は別稿で呈示した大伴古麻呂が安麻呂系非嫡流でありながら 遣唐副使や弁官に任用されたことで、息子の継人から曾孫の善男ま で「貴族官人の再生産」が果たされたとの知見を補強すべく、大伴 古麻呂の系譜的位置づけを中心に大伴氏の系図復元を試みたもので ある。屋上屋を架すことを恐れるが、奈良時代の氏族および政治史 を官職の面から検討する手法は有効であるものと思われ、その前提 と な る 系 図 復 元 が 重 要 で あ る 点 を 強 調 し て 擱 筆 す る こ と に し た い。 姉妹編とも言うべき別稿とともに諸賢のご叱正を請う次第である。 ( ((竹 内 理 三「 八 世 紀 に お け る 大 伴 的 と 藤 原 的 」( 『 律 令 制 と 貴 族 政 権 』 第Ⅰ部、御茶の水書房、一九五七年、初出一九五二年 (。 ( ((長 山 泰 孝「 古 代 貴 族 の 終 焉 」( 『 古 代 国 家 と 王 権 』 吉 川 弘 文 館、 一 九 九二年、初出一九八一年 (。 ( ((例 え ば、 荒 木 敏 夫『 古 代 日 本 の 勝 者 と 敗 者 』( 吉 川 弘 文 館、 二 〇 一 四年 ( など。 ( ((拙 稿「 大 伴 古 麻 呂 と 奈 良 時 代 政 治 史 の 展 開 」( 『 古 代 文 化 』 六 七 ― 二、二〇一五年 (。 ( ((服 藤 早 苗「 平 安 時 代 の 氏 ― 家 と 女 性 」( 『 家 成 立 史 の 研 究 』 校 倉 書 房、 一 九 九 一 年 (、 高 橋 秀 樹「 貴 族 層 に お け る 中 世 的「 家 」 の 成 立 と な っ た 人 物 で あ る( 『 公 卿 補 任 』 貞 観 十 四 年 条、 藤 原 仲 縁 尻 付 (。 藤原三守は延暦寺別当を伴国道とともに務め、三守・国道は天台伝 法の人とされるなど、両者の関係は深かったものと思われ る (11 ( 。そし て、藤原三守の兄姉にあたる美都子は藤原冬嗣の妻で良房・良相・ 順 子 の 母 に あ た り、 三 守 の 女 は 小 野 篁 の 妻 に な っ て い る か ら( 『 帝 王 編 年 記 』 仁 寿 二 年 一 二 月 二 二 日 条 (、 藤 原 三 守 ― 伴 善 男・ 小 野 篁 という関係が生じることになり、それが善愷訴訟事件において善男 と篁が歩調を合わせて正躬王や伴成益を失脚させる素地の形成につ ながった可能性が高い。さらに、先に述べた藤原順子を介した藤原 良相―伴善男の関係は三守と国道の関係形成の時点からの歴史的帰 結と見なすことができるのではあるまいか。 ま た、 伴 善 男 の 台 頭 に も 友 子 の 存 在 を 無 視 す る こ と は で き な い。 三守と友子の婚姻は所生子・仲統が弘仁十年(八一九 ( 生まれであ ることがわかるか ら (11 ( 、それ以前と考えられる。三守は承和七年(八 四〇 ( に亡くなるが( 『続日本後紀』同年七月庚辰条 (、友子はその 後も健在であり、承和十二年(八四五 ( に従五位上から正五位下に 昇叙し、その翌年には典膳となってい る (11 ( 。友子の前の世代の人物と して全刀自がおり、国道の昇進に寄与したものと考えられるが、善 男にまで続く伴氏の台頭の背景には「女性の力」が欠かせなかった ことを強調しておきたい。

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( (((岸俊男『藤原仲麻呂』 (吉川弘文館、一九六九年 ( 二〇七頁。 ( (((青 木 洋 子 「 甥 姪 覚 書 ― 宇 津 保 物 語 小 攷 」( 『 目 白 国 文 』 三 、 一 九 六 四 年 (。 ( (((倉本一宏『奈良朝の政変劇』 (吉川弘文館、一九九八年 ( 一二九頁。 ( (((『 日 本 古 代 人 名 辞 典 』 に よ れ ば、 名 辺 王 を 大 井 王 の 甥 と す る が、 文 脈上垂水王の甥とするのが妥当か。 ( (((布 村 一 夫「 「 正 倉 院 籍 帳 」 に お け る 親 族 名 称 」( 『 正 倉 院 籍 帳 の 研 究 』 刀水書房、一九九四年、初出一九五七年 (。 ( (((布 村 註( (((前 掲 論 文、 南 部 曻「 親 族 呼 称 の 考 察 」( 『 日 本 古 代 戸 籍 の 研究』吉川弘文館、一九九二年、初出一九七三年 (。 ( (((篠 川 賢「 武 智 麻 呂 伝 の 史 料 性 に つ い て 」( 篠 川 賢・ 増 尾 伸 一 郎 編 『藤氏家伝を読む』吉川弘文館、二〇一一年 (。 ( (0(栗 原 弘「 『 日 本 霊 異 記 』 に お け る 婚 姻 形 態 」( 『 平 安 前 期 の 家 族 と 親 族』校倉書房、二〇〇八年、初出一九九六年 (。 ( (((『尊卑分脈』第二篇・五四二頁。 ( (((加 藤 謙 吉「 日 本 の 遣 唐 留 学 生 と 渡 来 人 」( 『 専 修 大 学 東 ア ジ ア 世 界 史 研究センター年報』一、二〇〇八年 (。 ( (((倉本註 ( (((前掲書、一二九〜一三二頁。 ( (((金 子 武 雄『 続 日 本 紀 宣 命 講 』( 高 科 書 店、 一 九 八 九 年、 初 版 一 九 四 一年 ( 一九二頁。 ( (((『 続 群 書 類 従 』 所 収「 大 伴 系 図 」「 伴 氏 系 図 」 に も 安 麻 呂 の 子 と あ る。 と展開」 (『日本中世の家と親族』吉川弘文館、一九九六年 (。 ( ((笹 山 晴 生「 平 安 前 期 の 左 右 近 衛 府 に 関 す る 考 察 」( 『 日 本 古 代 衛 府 制 度 の 研 究 』 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 八 五 年、 初 出 一 九 六 二 年 (、 玉 井 力「 道 長 時 代 の 蔵 人 に 関 す る 覚 書 」( 『 平 安 時 代 の 貴 族 と 天 皇 』 岩 波 書店、二〇〇〇年、初出一九七八年 (。 ( ((佐 藤 進 一『 日 本 の 中 世 国 家 』( 岩 波 書 店、 一 九 八 三 年 ( 第 一 章 第 三 節。 ( ((太 田 亮『 古 代 姓 氏 家 系 大 辞 典 』 第 一 巻( 角 川 書 店、 一 九 六 三 年 ( 一 二二九〜一二三五頁。 ( ((尾 山 篤 二 郎『 大 伴 家 持 の 研 究 』( 平 凡 社、 一 九 五 六 年 ( 二 二 頁、 川 口 常 孝 『 大伴家持 』( 桜楓社 、 一 九 七 六 年 ( 一 三 頁 、 鐘 江 宏 之 「 大伴 古 麻 呂 と 藤 原 仲 麻 呂 」( 『 学 習 院 大 学 文 学 部 研 究 年 報 』 五 一、 二 〇 〇 四年 (。 ( (0(溝 口 睦 子『 古 代 氏 族 の 系 譜 』( 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 七 年 ( 四 四 頁。 高 島 正 人『 奈 良 時 代 諸 氏 族 の 研 究 』( 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 三 年 ( 六 九 二 頁 お よ び 宝 賀 寿 男『 古 代 氏 族 系 譜 集 成 』 中( 古 代 氏 族 研 究 会、 一 九 八 六 年 ( 八 三 二 頁 も 御 行 系 説 の 立 場 を 採 っ て い る が、 両 者 は 『万葉集』を引用しておらず、論拠も弱いものになっている。 ( (((鷺 森 浩 幸「 奈 良 時 代・ 平 安 時 代 初 期 の 大 伴 氏 」( 『 帝 塚 山 大 学 人 文 学 部紀要』三一、二〇一二年 (。 ( (((東 野 治 之「 長 屋 王 家 木 簡 の 文 体 と 用 語 」( 『 長 屋 王 家 木 簡 の 研 究 』 塙 書房、一九九六年、初出一九九一年 (。

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れている。なお、二条大路木簡の削屑に千室の名がみえる。 ( (((『 万 葉 集 』 巻 一 七 〜 二 十 は 大 伴 家 持 の 歌 日 誌 と し て、 彼 の 主 体 的 な 編 纂 を 想 定 す る の が 一 般 的 な 見 方 で あ る。 そ の 点 に つ い て は 鉄 野 昌 弘「 大 伴 家 持 論( 前 期 ( ―「 歌 日 誌 」 の 編 纂 を 中 心 に ―」 (『 大 伴 家 持「歌日誌」論考』塙書房、二〇〇七年、初出二〇〇二年 (。 ( (((米 沢 康「 大 伴 家 持 と 大 伴 池 主 」( 『 北 陸 古 代 の 政 治 と 社 会 』 法 政 大 学 出版局、一九八九年、初出一九八六年 (。 ( (((小 野 寺 静 子「 大 伴 池 主 ―「 氏 族 の 人 等 」 を め ぐ っ て ―」 (『 北 海 学 園 大学人文論集』三八、二〇〇八年 (。 ( (((佐伯有清『伴善男』 (吉川弘文館、一九七〇年 ( 四六頁。 ( (0(角 田 文 衛「 参 議 伴 保 平 ― 残 照 の 大 伴 氏 ―」 (『 王 朝 の 映 像 』 東 京 堂 出 版、一九七〇年 (。 ( (((仁 藤 智 子「 応 天 門 の 変 と『 伴 大 納 言 絵 巻 』 ― 記 録 と 記 憶 の 間 ―」 (『国士舘史学』一九、二〇一五年 ( も同様の指摘をしている。 ( (((大 判 事・ 明 法 博 士 を 歴 任 し た 伴 良 田 連 宗( 『 文 徳 実 録 』 斉 衡 二 年 正 月 己 酉 条 (、 藤 原 良 房 の 家 人 で あ っ た 伴 大 田 宿 祢 常 雄( 『 三 代 実 録 』 貞 観 三 年 八 月 十 九 日 条 (、 讃 岐 国 多 度 郡 を 本 貫 と す る 佐 伯 直 氏 (『同』貞観三年十一月十一日条 ( など。 ( (((佐伯註 ( (((前掲書、四五〜四七頁。 ( (((宝賀註 ( (0(前掲書、八二〇頁。 ( (((淳 和 天 皇 は 即 位 以 前 に 大 伴 親 王 と 号 し て い た。 皇 親 の 名 が 乳 母 の 出 身氏族に由来することが一般的なのは周知の事実である。 ( (((尾 山 註( ((前 掲 書、 三 〇 一 頁。 な お、 当 該 歌 が 詠 ま れ た 背 景 に つ い て は、 増 尾 伸 一 郎「 〈 君 が 手 馴 れ の 琴 〉 考 」( 『 万 葉 歌 人 と 中 国 思 想 』 吉 川 弘 文 館、 一 九 九 七 年、 初 出 一 九 九 一 年 ( に よ っ て 詳 細 な 検 討 が なされている。 ( (((土 田 直 鎮「 公 卿 補 任 の 成 立 」( 『 奈 良 平 安 時 代 史 研 究 』 吉 川 弘 文 館、 一 九 九 二 年、 初 出 一 九 五 五 年 (、 美 川 圭「 公 卿 補 任 」( 皆 川 完 一・ 山 本信吉編『国史大系書目解題』下、吉川弘文館、二〇〇一年 (。 ( (((竹 内 理 三「 氏 長 者 」( 『 律 令 制 と 貴 族 政 権 』 第 Ⅱ 部、 御 茶 の 水 書 房、 一九五八年、初出一九五四年 (。 ( (((内・ 外 階 コ ー ス に つ い て は 野 村 忠 夫「 内・ 外 位 制 と 内・ 外 階 制 」 (『律令官人制の研究』吉川弘文館、一九六七年 (。 ( (0(鷺 森 註( (((前 掲 論 文 は 御 行 系 は 御 行 の 氏 上 就 任 に よ り、 「 本 宗 家 」 となったとする。 ( (((高 島 註( (0(前 掲 書、 六 九 二 頁。 西 野 悠 紀 子「 八 世 紀 官 僚 貴 族 の 氏 ― そ の 内 部 構 造 に ふ れ て ―」 ( 岸 俊 男 教 授 退 官 記 念 会 編『 日 本 政 治 社 会 史 研 究 』 中、 塙 書 房、 一 九 八 四 年 ( は 内 階 コ ー ス で あ る こ と を 論 拠としつつも、安麻呂系である可能性を併記している。 ( (((吉川敏子『氏と家の古代史』 (塙書房、二〇一三年 ( 一一八〜九頁。 ( (((な お、 吉 川 註( (((前 掲 書( 一 一 九 頁 ( は こ の 点 か ら 古 慈 斐 が 橘 奈 良 麻呂の乱に連坐した背景を説明している。 ( (((土田註( ((( 前掲論文。 ( (((『 令 義 解 』 官 位 令 従 五 位 条 に よ れ ば、 左 右 兵 衛 督 は 従 五 位 相 当 と さ

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( (((『 尊 卑 分 脈 』 第 一 編・ 三 〇 頁。 常 嗣 の 弟・ 常 永 の 妻 と な り 是 法・ 維 邦 を 産 ん だ と の 記 載 も 存 す る が、 兄 弟 で 妻 を 同 じ く し た と は 考 え が たく、本稿では常嗣の妻としておきたい。 ( (((須 田 春 子『 平 安 時 代 後 宮 及 び 女 司 の 研 究 』( 千 代 田 書 房、 一 九 八 二 年 五 月 ( 一 一 九 頁、 伊 集 院 葉 子・ 義 江 明 子・ Joan R.Piggott 「 日 本 令 に み る ジ ェ ン ダ ー ― そ の( (( 後 宮 職 員 令( 上 ( ―」 (『 専 修 史 学』五五、二〇一三年 (。 ( (((佐伯註 ( (((前掲書、二五頁。 ( (((『 公 卿 補 任 』 貞 観 十 七 年 条 に 五 十 七 歳 で 死 去 し た こ と が 見 え、 逆 算 して算出した。 ( (0(『 続 日 本 後 紀 』 承 和 十 二 年( 八 四 五 ( 正 月 乙 卯 条、 同 十 三 年 五 月 丁 卯条。

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表1 臨終・病気の際に召喚される親族範囲 № 召喚者 被召喚者 親等 典拠 備考 ( 玄風大師 普建・普成(子) ( 『扶桑』欽明(0年(((()(/((条所引「雙林寺実録」 仏事の教命。 ( 欽明天皇 皇太子(子) ( 『書紀』欽明((年(((()(月戊辰朔壬辰条 新羅打倒を遺詔。 ( 大部屋栖野古 妻子 (・( 『霊異記』上巻・第(話 欽明((年(((()。蘇生時に冥界の話。 ( 推古天皇 田村皇子・山背大兄皇子(兄弟の孫) ( 『書紀』舒明即位前紀 皇位継承への姿勢を教誨。 ( 天智天皇 大海人皇子(兄弟) ( 『書紀』天智(0年(((()(0月庚辰条 後事を託そうとする。 ( 藤原不比等 親族ヵ ― 『補任』養老(年条 火葬について遺教。 ( 藤原武智麻呂 光明皇后(兄妹) ( 『家伝』武智麻呂伝 天平(年(((()。臨終により邸宅に行幸。 ( 粟田朝臣の女 女の妋(兄) ( 『霊異記』上巻・第((話 聖武期。夫について遺言。 ( 信厳禅師の子 信厳の妻(男子の母) ( 『霊異記』中巻・第(話 臨終の男子に乳を飲ませる。 (0 摂津国東生郡撫凹村の家長 妻子 (・( 『霊異記』中巻・第(話 火葬についての遺言。 (( 桓武天皇 五百枝王(姉妹の子) ( 『後紀』大同元年((0()(月己卯条 病が重くなり、召喚。翌日、本位に復す。 (( 嵯峨太上天皇 仁明天皇(子) ( 『続後紀』承和(年(((()(月庚戌朔・癸丑条 不予による朝覲行幸。 (( 小野篁 篁の諸子 ( 『文実』仁寿(年(((()((月癸未条 葬儀について遺言。 (( 藤原良相 良相の諸子 ( 『三実』貞観(年(((()(0/(0条 葬儀について遺言。 (( 菅原是善 菅原道真(子) ( 『菅家文草』巻((「吉祥院法華会願文」(((0) (0月悔過について遺戒。 (( 光孝天皇 定省親王(子) ( 『要略』巻(0・阿衡事所引「宇多天皇日記」 仁和(年(((()ヵ。定省の輔弼を託す。 (( 賀陽豊仲、豊陰、豊恒(兄弟)、忠貞(子) (・( 『扶桑』寛平(年(((()条所引「善家秘記」 賀陽良藤を捜索。 (( 三善清行 浄蔵(子) ( 『扶桑』延喜((年(((()(0/((、((/(条 浄蔵の加持祈祷により、清行蘇生。 (( 源頎子 藤原忠平(夫) ( 『貞信』延喜(0年(((0)(/((、延長(年(((()(/((、((/((条 看病により出仕せずor退出。 (0 醍醐太上天皇 朱雀天皇(子) ( 『吏部』延長(年(((0)(/((条 (つの遺戒を示す。 (( 醍醐太上天皇 代明親王・重明親王(子) ( 『吏部』延長(年(((0)(/((条 (つの遺詔を告げる。 (( 藤原穏子 忠平(兄妹) ( 『 貞 信 』 天 慶 ( 年(((()((/(、 同 ( 年 (/((、(/((条 病を見舞う。 (( 藤原寛子 重明親王(夫) ( 『吏部』天慶(年(((()(/((条 病の知らせにより内裏より退出。 (( 朱雀太上天皇 加賀命婦(乳母) ― 『吏部』天暦(年(((()(/((条 (/((。重病の上皇のもとに参る。 (( 藤原実資 懐平(兄弟) ( 『小右記』永延元年(((()(/(、(/((条 重病の実資を見舞う。 (( 藤原実資 公任(従兄弟) ( 『小右記』永延元年(((()(/((条 重病の実資を見舞う。 (( 藤原頼忠 実資(弟の子) ( 『小右記』永祚元年(((()(/((、(/((条 病状を問うに仁王経読経の命あり。危篤により馳参するも死去。 (( 室町殿 実資(夫) ( 『小右記』永祚元年(((()(/((条 危篤により馳参。 (( 藤原永年 実資(母の異母姉妹の子) ( 『小右記』永祚元年(((()((/(条 危篤の知らせを聞き、馳参・会話。 (0 藤原公任 実資(従兄弟) ( 『 小 右 記 』 正 暦(年(((()(/(、 万 寿 元 年((0(()((/(0条 面会し病状を問う。 (( 藤原詮子 道長(兄妹) ( 『権記』長徳(年(((()(/(条 病が危急のため、馳参。 (( 藤原詮子 一条天皇(子) ( 『権記』長徳(年(((()(/((条 病を受けて、東三条院に行幸。 (( 藤原行成の子 行成室(母) ( 『権記』長徳(年(((()(0/((条 夭折した子を看取る。 (( 藤原行成室 行成(夫) ( 『 権 記 』 長 徳(年(((()((/((条、 長 保(年((00()(0/((条 病により馳参。出産した室を看病。母子ともに死去。 (( 藤原行成室 成房(行成の従兄弟) ( 『権記』長徳(年(((()((/((条 病の知らせにより、内から罷出。 (( 藤原成房 行成(従兄弟) ( 『権記』長保元年(((()(/(、同(年(/(0、同(年(/((条        病により馳参。 (( 藤原行成 正光(祖父の兄弟の子) ( 『権記』長保元年(((()(/(条 行成の蔵人頭辞任について問う。 (( 行成の小児 行成(父) ( 『 権 記 』 長 保 元 年(((()((/(、 同(年((/((、寛弘元年((00()閏(/((条 病により、退出。 (( 藤原兼家女 道長(兄妹) ( 『権記』長保(年((00()(/((条 尼になったのを受けて、道長が訪う。 (0 居貞親王 道長(母の兄弟) ( 『権記』長保(年((00()(/(条、同(年(/(条 病により東宮に参る。 (( 藤原彰子 道長(父) ( 『権記』長保(年((00()(/((、『御堂』寛弘元年((00()(/((、同(年(0/(、同(年(/(0、長 和元年((0(()(/(、(/((、(/(条 病により参入。 (( 藤原成房室・乳母 行成(成房の従兄弟) ( 『権記』長保(年((00()(/(条 成房出家を受けて、室らを訪う。 (( 為尊親王 冷泉上皇(父) ( 『権記』長保(年((00()(/(条 病が重く出家することを告げる。 (( 為尊親王 道長(母の兄弟) ( 『権記』長保(年((00()(/(条 病のため出家したのを受けて、参る。 (( 藤原永頼 実資(姉妹の子) ( 『小右記』寛弘(年((00()(/((条 面会の際、出家の意向を述べる。 (( 源倫子 道長(夫) ( 『権記』寛弘(年((00()(/((条 病のため、土御門殿に渡る。 (( 敦道親王 道長(オジ) ( 『権記』寛弘(年((00()(0/(条 危篤により参上するも、まもなく死去。 (( 藤原寛子 道長(父) ( 『御堂』寛弘(年((00()(/(条 病を見舞う。 (( 敦成親王 道長(祖父) ( 『御堂』長和(年((0(()(/(0条 敦成親王の病を受けて、馳参。 (0 禎子内親王 道長(祖父) ( 『御堂』長和(年((0(()(/((条 内親王の病を受けて、大内に参る。

参照

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