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信念の人,ホルトハウス先生(Lipke B. Holthuis先生追悼文)

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(1)

2008年3月6 日にラ イデンの国立自然史博物 館の甲殻類部 門のキ ュー レー ターのフランソン 氏 (Dr. C. H . J. M. Fransen) か ら メ イ ル が 届 い た。それに は,ホル トハ ウス 先生 (Prof.Lipke B . Holthuis) が病気で, もう 望みがほとんど無い状 態と記されていたのである。 3月8 日にフランソン氏から次のメイルが届い た。

It is with great sadness that 1 have to inform you that Dr. Likpe B. Holthuis, em eritus Curator of the National M useu m of Natural History, Leiden, passed away yesterday. H e was 86. D ue to an infection Prof. Holthuis has been in the hospital for the last few weeks. During the many visits in 出e past w eeks he often remarked that he has had a good life and that he is ready to go, which gives som e consolation.

Prof. Holthuis started working in the m useu m in 1941 and continued until 4 w eeks ago. H e was married to Crustacea.

H e was very disciplin ed an d produ ctive,

leaving an i m mense ouvre of over 600 scientific publications in which he described hundreds of n e w taxa. H e was awarded by the Crustacean Society for Excellence in R esearch and was

信念の人,

ホルトパウスえ

t

山 口 隆 男

honorary m e m b e r of various Societies. A s the curator of Crustacea he builded the crustacean collection to one of the best in the world with regards to decapods. H e collected everything related to Crustacea. One of his greatest passions was his Carcinological Library which holds many rare books and is almost complete with regards to the D ecapoda.

Above all he leaves many many good m emories to all of us w h o have known him.

T he void left by Lipke is immense.

甲殻類の分類学的研究にお いて偉大な業績を残 したホルトハ ウス先生は3月7日に亡くなったの である。先生は1921年4月21日に生まれているの で, 86年と11 ヶ月の人生であった。 フランソン 氏はover 600と業績数を示しているが具体的には 617編である 。先生に献名さ れた甲殻類 は58種も あり,その中には Lipkius holthuisi Yaldw戸1,1960

とLipkebe Holthuisi Chace, 1969の ように先生の 名前そのものと 言 える ものがある 。 617編とは全く驚くべ き数であ る。 フランソン 氏によると,甲殻類専 門誌のCrustaceanaの追悼 号に全業績が紹介される こと になっている 。専門 は十脚甲殻類であるが, シャコ類や等脚類に 関 し た論文もある 。共著を除いた,先生の単独執筆の

(2)

100

ページを越える論文あるいはモノグラフは計

17

編ある。それらの合計ページは

3500

に達してい る。ホルトハウス先生は気配りをする性格であっ た。加えて,問題をうまく整理して,半i J りやすく 書くという天性の特技があった 。そのために ,先 生が書いたモノグラフ類はどれも図が豊富で,読 みやすいように配慮されている 。 先生は信念の人であった 。 目標を達成するため に,自分に関したいろいろな個人的なことを犠牲 にしてしまう人であった 。 しかし,それで、いて 変 人でも奇人でもなく,誰に対しでも │暖かく,親切 であった 。 まれに見る人格者であった 。偉大な業 績をあげた人々の中には人格的に問題がある人が 珍しくないのであるが,先生にはそうした欠点が 全く無かったのである 。 私は最初にシオマネキ類について,その後は シーボルト収集標本類の調査研究で先生に非常な お世話になった 。 日本人の中ではもっとも頻繁に 先生に接していた。そのこともあって馬場敬次会 長から先生の追悼文を書くように依頼された 。残 念なことに, 私は先生の甲殻類の分類学的研究に ついては専 門外で,詳しい解説は できない( それ らについては

Crustaceana

誌の追悼号を見ていた だきたい) 。エピソードの寄せ集めみたいなもの になってしまったがご容赦頂きたい。 植物専攻から甲殻類研究へ転身した 先生はライデン大学を

1940

年に卒業している。 意外なことに ,在学中はもっぱら植物の勉強をし ていたのである 。修士号を得たのは

1941

年であっ た。修士論文はミンダナオ烏の南方に位置して いる

Talaud

諸島と

Molotai

島の植物相に関した ものであった。その島々へ行ったのではなく,調 査記録と標本類がライデンにあったので,種を同 定して書いた ということである 。

160

ページを越 える長大な論文がH.]. Lam との共著論文として

1942

年に刊行 されてい る。

1941

年から先生は国立自然史博物館に出入り するようになった 。 国立自然、史博物館の館長は ボッスマ教授

(H. Boschma

1893-1976

,寄生甲 殻類のフクロムシ類の専門家としても知られる ) であった 。 ライデン大学の動物学の教授でもあっ た。 ボッスマ館長は国立自然史博物館は教育の 場でもあるべきだという信念の持ち主であった 。 ライデン大学の学生達には博物館は解放されて いた 。先生は無給で あったが,標本を 自由に調 べることができる

honourary assistant curator

と いう身分を与えられた。国立自然史博物館には植 物部門は無いので,植物ではなく,動物分類に転 向をしたのである (ただし,先生は完全に植物学 を放棄したので、はなかった。興味,関心はず、っと 持っていた )。 ボッスマ館長はホルトハウス先生 に甲殻類研究者としての優れた素質があることを 見抜いた 。それをなるべく伸ばそうと,研究指導 をし,甲殻類関連の論文を次々に発表させた 。修 士論文の発表に先立つて

1941

年に先生にとって最 初の論文が世に出た 。それはオラン夕刊が行 った総 合調査として知られる

Snellius Expedition

のシャ コ類に関したものであった 。学位論文は

Snellius

Expedition

のイセエピ類などの甲殻類に関したも のであり ,

1947

年に発表された 。 同じ年に先生 は無脊椎動物部門のキュー レーターに任命され た。給与が貰えるまともな職であった 。節足動物 と軟体動物には専任キューレーターがいたから, それらを除いた動物,つまりカイメン,刺胞,線 皮動物のようなものを担当するということになっ ていた 。 しかし,それは建前で,実際には甲殻類 の研究に専念できたのである 。甲殻部門にはパイ テンダイク (Al

ida M. Buitendijk)

という女性の キューレーターがいたために,無脊椎動物部門の キュー レーターのポストを先生のために活用した のであった 。国立自然、史博物館には甲殻類専門の キューレーターが事実上2 名いることにな った。 思いがけないことに,パイテンダイク女史は癌 に冒されて

1950

年に

47

才で亡くなってしま った。 当然のことであるが,ホル トハウス 先生が後任に 任命された 。ホルトハウス先生は終生ボッスマ館 長を深く尊敬していたが,それは当然であ った。 ボッスマ館長の指導 ・支援がなかったら,おそら く,ホルトハウス先生は植物分類学へと進み,そ の方面で知られた存在になったことであろう 。 ホルトハウス先生は3 つのことに情熱をそそい だ。一つは標本の充実である 。世界各地の標本を 集めるために努力し,それらをきちんと整理した

(3)

のであった 。送ってもらうだけではなく,自分で 各地に採集旅行をしている 。南米のスリナムとか インドネシア各地にも行ったのである 。国立自然 史博物館を訪問する機会があった甲殻類の専門家 は誰でも標本室を見て感銘を受けるのである 。標 本室は空調されていて,設備も良いのであるが, それだけではない。標本類にはきちんとラベルが 入れられ,整理されて,整然と並べられているの に驚かされるのである 。 第 2 は文献の充実化である ,分類学的な研究を きちんと行うためには ,文献が揃っていなければ ならないというのが先生の信念であった。その こ とは誰にも理解できるが,実行となると容易では ない。 しかし,先生は大きな犠牲を払って,可能 な限り達成しようとしたのであった 。先生は「自 分が嫌いな食べ物は二つある 。一 つはオリーブ である 。 もう 一つはピーナッツバターだ」と 言 っ ておられた。オリーブは口に合わなかったみたい でスペインへ行った時に努力したけど駄目だ‘った そうである 。 ピーナッツバターは元来は嫌いでは なかった 。先生はワシン トンのスミソニアン博物 館に滞在して研究をしたことがあった 。先生がい っそこに行かれたのか,具体的な年月日は聞いて いないので,ここに示すことはできない。でも, まだオランダが第二次大戦の戦禍から充分に復興 していなかった頃のことである 。わずかのドルし か入手できず,船で、ニュ ーヨ ークに着いた最初の 日に宿泊費と食事で半分が無くなり,ひどく心細 くなったということであった 。けれども,スミソ ニアン博物館にたどりつくことはできた 。スミソ ニアンからは給与が支払われた 。それで,可能な 限りの耐乏生活をして,なるべくたくさんのドル を残してオランダに持ち帰ることにしたのであっ た。 その頃はドルには偉大な価値があり, 一方 文献類は極めて安かった 。研究に必要な文献を買 い集めるために,先生は毎日パンとピーナッツバ ターだけの生活をしたのである 。あまりにもピー ナッツバターを食べ過ぎて,すっかり嫌になった のだということであった 。先生は自分の生活を犠 牲にして ,文献購入資金を確保したのである 。 第3は論文の執筆であった 。先生は仕事が実に 上手であった 。 どこに問題があるのか,すぐに見 出すことができた 。分類学者としての確かな観察 眼があり ,驚異的な記憶力があったので,論文執 筆が驚くほどに速かった 。加 えて勤勉で、あった 。 先生は典型的な朝型人間であったが,若いときに は午前4時とか

5

時には博物館に出動していたの である 。 しかも , コーヒーブレイク以外には休息 することもなく夕方5時まで研究を継続した 。 先生は生涯独身であ った。結婚をしてしまう と,文献購入資金の確保,また,研究への集中が 困難になると判断されたのであろう 。先生は 1986 年に65才に なり ,国立自然史博物館を 定年退職し た。その後も名誉館員 としてず、っと博物館で仕事 を継続 した 。 自分の後任のキュー レーターとして 着任したのが当時25才の若いフランソン氏であっ た。先生は研究に集中するためには結婚はしな い方が良いとフランソン氏に助言 したということ である 。私はそのことをフランソン氏から直接に 聞いた 。 しかし,その助言 を受け入れることはで きなかった 。 フランソン氏は間もなくフランソン 夫人になる女性と同棲生活をしていたのである 。 「自分たちは 7 年間も 一緒に生活をしていた」と フランソン氏は苦 笑していた 。 オランダでは若 い男女が長い間同棲していて,条件が整ってから 結婚するのはよくあることなのである 。 フランソ 図1 ライデンの国立自然史博物館の甲殻類液浸襟 本室。整理されて,整然と標本が並べられてい る。すべてアルコール標本で,ホルマリンは使 用されていなし、。

(4)

ン氏のメイ ルの中にH e was married to Crustacea とあるのは, フランソン氏の体験も込めら れた 表現のように思われる 。私からすると ,禁欲 的 であった先生の場合には,結婚したと表現する よ りも「甲殻類研究にすべてを捧げてしまった修道 士」と表現するのがより適切と思えるのである。 これは余談になるが,オランダの甲殻類相は驚 くほどに貧弱である 。沿岸は砂の海岸ばかりで¥ 日本みたいな転石,岩礁海岸が無い 。 カニ類は 全部で

40

種くらいしか生息していないので ある。 日本の場合に はアカテガニみたいに陸上で生活を している種も あ り,カニは子供達にも親し まれ, 愛すべき動物になっている 。 オランダではそうで はない。先生から,ハーグ市内で, どういう訳か アメ リカから持ち込まれたワタリガニの類が路上 にいて,警察が出動したという新聞記事を見せて 買ったことがある 。偶然にそのワタリガニを目に した婦人がいて大騒ぎにな った 。何名もの警察官 が恐る恐る近づいてやっと捕獲したのであった 。 先生は「オランダではカニはクモみたいな気味が 悪い動物とされている」と私に教えて下さった 。 気味の悪い動物の甲殻類の研究が専門というの は,オランダでは日本と比較して,はるかに稀少 な存在なのである 。 膨大な業績達成の謎 若い頃の先生には休日は無かった 。 日H霊で あっ ても平日同様に 出勤して仕事をしていた 。 しか し,いくら勤勉でも,それだけではだめである 。 先生は分類学者としての素質に恵まれてい た。 驚くべき記憶力でいろいろな文献が頭の中に整 理された状態で入っていた 。 カードも作成してい たが,それに頼ることはあまりなか った。先生は 若い時に幅広く甲殻類を研究し,多くのことを学 び,それを自分の頭脳に蓄えたのであ った。いろ いろな種の形態的な特色が頭の中に入 っていて , いつでも取り出せたのである 。問題の本質を見つ け出すのが上手で,観察眼があり ,要領が良かっ た。加えて整理が上手で、あった 。整理に関しては 日本人は概してヨーロッパの人と比i絞して下手で ある 。私も先生と接して,整理の大切さはそれな りに理解している 。 しかし, うまく行かないので ある 。整理は仕分けの仕事でもある 。先生はそれ が上手なのであった 。分類の知識が日常生活に生 かされていたので、ある 。先生の机の上はいつも整 然、としていた 。一 時的には文献などが置かれてい ても ,帰宅時には何も無かった 。 さらに ,先生の 場合には,執筆上の無駄が無かった 。下書き は入 念に作成するが,それを整理してタイプすれば論 文は完成したのである 。何回も原稿を 書き直すと か,図を描き直すような必要がまるで、無かった 。 そのために ,予定と仕事が驚くほどに一致してい た。数ヶ月後の行動の予定ができていたので あ る。 どの論文はいつ頃に完成させると決めてい て,ほぼその通りになっていた 。 私は記憶力が乏しいので,論文を執筆する際に は,関連する論文を見つけ出し,参照するのにい つも苦労している 。机の上にはそうしたものがい ろいろと積み重なってし まう 。しかし,先生の場合 には,そうはならなかった。私とは比較にならない 多数の文献を参照していたのに,机の上に別刷や 著書がいろいろと積み重ねられているのを見たこ とは無い。いつの聞にか論文を書き終えて,次の 仕事に取りかか っていた。 まるで魔術であ った。 Crustaceana 誌との関係 ラ イ デ ン に あ る 出 版 社 E .]. Brill は 由 緒 あ る 学 術 出 版 社 と し て 世 界 的 に 知 ら れ て い る 。 Crustaceana はそこから刊行されている甲殻類に 関する世界でもっとも古い専門誌である 。 どの よ うないきさつでCrustaceana 誌が刊行されるよう になったのか,残念な ことに何も聞いていなかっ た。 しかし,先生と密接な関係にあり,刊行,編 集に先生が深く関与していたことは間違いない。 Crustaceana 誌 の 現 在 の 専 任 編 集 者 は Dr. von Vaupel Klein であるが,毎週火曜日に国立自然史 博物館のホルトハウス先生のところに投稿原稿を 携えて現れるのであった 。すると,先生がこれは 終わりましたと , Vaupel Klein 氏 に返却するのであ った。ホルトハウス先生は 主に 学名に関して,投稿原稿を入念にチェックしてお られた 。 もちろん,それだけではなく,いろいろ な指摘もしておられた 。 最近のCrustaceana 誌には先生の名前は無かっ

(5)

た。 しかし,先生は亡くなる直前まで実質的に 編集者の一人で, もっとも権威ある校閲者であっ た。

Von Vaupel

Kl

ein

氏は先生を尊敬し,深く信 頼していた 。先生は自らの論文の執筆だけではな く,こうした地味な,手間と時聞がかかる仕事を 日常的に行っていたのである 。先生は投稿原稿は なるべく掲載するという主義であった 。大幅な書 き直しとか修正が必要であっても,駄目だと没に するのは好ましくないと言っていた 。 しかし,一 方では著者名が増えることを嫌っていた 。最近 は論文の著者が数名になっていることは珍しく ない。5 名くらいならともかく, 8名とか10名と いうようなものもある 。そのようなことに先生は 批判的であ った 。そして「新種の命名の場合には 著者の数は制限しなければならない。最大限3名 で,それ以上は絶対に認めてはいけない」と 言 っ ていた 。従って,

Crustaceana

誌の場合には新種 の記載が含まれる論文の著者の数は3名までで, それを越える場合には論文の受理ができないこと になっている 。 個人生活は実に質素であ った 先生は必要な文献の購入にはお金を惜しまない 人であった 。生物研究社から 刊行されている「海 洋と生物」という雑誌を最近の先生は購読してい た。林健一氏のエビ類に関した連載があるためで ある 。図があり,学名が示されている 。 日本語は 読めないけど,自分にはどうしても必要なのだと のことであ った 。数年前までは私がコピーを送っ たり , ライデンに行くときに届けたりしていた が,先生はオランダの書庖に依頼して購読するこ とにした。かなり高い購読料になっていたはずで あるが,金額は問題ではなかった 。 しかし,自分の生活は実に質素であった 。夏 以外の季節には毎日スーツ姿で博物館に来ていた が,スーツは何着持っておられたのであろうか。 2 着か 3 着ではな かったかと思うのである 。寒く なると古い何年も着たオーバー姿で、あった 。私の 知る限り,いつも同じ物を着ていたのである 。論 文の下書 きを書くときは白い新しい紙ではなく ,

C rustaceana

誌 の 校 正 刷 り の よ う な も の を 綴 じ て,裏側にボールペンで丹念に記入していた 。そ れを後日に清書したのである 。 食べる物は質素であった。先生は昼食を自分 の部屋で短時間で済ませていたが,自宅から持参 したリンゴとかパンであ った 。先生は自分では調 理は一切しなかった 。 コーヒーはインスタントで あった 。私がライデンでシーボルト標本の調査を 始めた頃はライデンにはスーパーマーケ ッ トはま だ、無かった 。個人商庖ばかりであった 。その当時 は,行商で生活費を得ている戦争未亡人から自分 の飲むインスタントコーヒーを買うことに先生は 決めていたのである 。 オランダの人々の食生活は概して質素で、ある が,先生の場合は極端であった 。けれども,先生 は人をもてなす時にはお金を惜しまなか った 。先 生は好んで人をレストランに招待した 。かつてミ シュランの 一つ星を貰ったことがあるフランス料 理屈のラ・クローシュ (La

Cloche)

が行きつけ のレストランであ った 。 ライデンの最高級レスト ランである 。 ラ・クローシュと聞けば, [ " あそこ はサービスが素晴らしく, 味も良いが,極めて 高 いところ」とライデン市民の誰もが云うところで ある 。先生はそこにしか人を招待しないのであっ た。 レストランにと っても 上得意客であ った。 先生には指定席砲があった。入口近くの窓側の丸い テーブルで,先生が座る場所も決まっていたので ある 。そのテーブルは3名あるいは4名用であっ た。人数が多いと奥の細長いデーブルが提供され ることになっていた 。先生はタバコはもちろんの こと,おj酉も飲まない人であった 。飲めないので はなく,飲まないのであった 。招待客が遠慮しな いようにと,ラ・クローシュでは例外的に飲まれ たのである 。 先生は極めて禁欲的な人であったが,宗教に ついてどういうお考えだったのか,私には判ら ない。教会には行 ってはいなかったと思うので ある 。宗教の影響で禁欲的になっていたのではな く, 自分の信念でそうしていたのだと思う 。 趣味は甲殻類ク ッス・のコレクシ ョン 先生は陶器や金属あるいは木工品のエピ,カ ニのようなものを集めていた 。私もいろいろと 差し上げている 。 甲殻類の図柄があるネクタイと

(6)

かお茶碗のようなものを持って行って大層喜ばれ た。高価なものではなく,安いものであっても少 しも構わないのであった 。いろいろな種類が手に はいると嬉しいのであった 。故小田原利光先生も そうしたコレクションをお持ちであった 。エピ, カニをあしらったものはヨーロッパに比較して東 洋がはるかに豊富であり,陶磁器に関しては特に そうであった 。小田原コレクションに含まれる青 磁や白磁の良品のようなものはホルトハウスコ レ クションには少ない。 けれども , ホル トハウス先 生のコレクションも 内容は実に豊かであった。ポ スターとかチラシのような物も先生は入念に集め たのである 。先生は日本に滞在している時にもそ のような物を見つけ出し,集めていた。 日本には イセエビとかズワイガニの絵がある包み紙,ポス ターのようなものは,その気にな って探すといろ いろとある 。先生の目に留まると,コレクション の仲間に加えられるのであった 。 当然、の ことであ るが,先生は切手にも大きな │刻心があ った。 2000 年と2005年に大森信氏との共著で甲殻類に関した 切手の本が刊行されている 。 先生の場合,甲殻類に関した自然史関連の本も 収集の対象になっていた 。 自分の研究に直接に 関 係しなくても,甲殻類に関した絵とか記述がある 古い本を購入したのである 。私は手描きの魚類写 生図集を見せて貰ったことがある 。数は多くはな いが,甲殻類の絵も含まれていた 。そうなると先 生のコレクションの対象になるのであった。先生 はこの写生図集を売るとしたら10万ギルダー (700 万円に相当) の価格になると 言っ ていた。古書籍 商がそうした価格を示したらしし、。先生が入手し た時の価格はもちろんはるかに安かったと思われ る。10万ギルダーの価格が示されても,先生が手 放すことはなかった 。先生は自分の蔵書を売るよ うなことは全くしなかった 。現在はその写生図集 は国立自然史博物館の図書室に所蔵されている 。 古い自然史関連の本や写生図の中の甲殻類は何な のか, その同定は先生の楽しい仕事になった。成 果が論文とか著書になって発表 されたものもある 。 甲殻類以外のことには無関心かと云うとそう でもなかった。 自然史関係のことにはとにかく 詳しかった 。鳥は先生の好きな動物で,知識も差是 富で あった 。 オランダ生まれの偉大な顕微鏡観察 者- のレーウェンフックとか絶j威した鳥のドードー について , うかつに質問をすると,先生の長いお 話を聞かされることになってしまうのであ った。 先生は通常は判りやすい英語で話して下さったの であるが,そういう場合は早口になり,私にはほ とんど聞き取れないのであった 。 なお,先生は国 際動物命名規約における権威であ ったから,意外 な仕事もしている 。その一つがマッコウクジラの

neotype

の指定であった 。( タイプが失われてし まった場合に,日JIの標本を新規にタイプとして選 定することがある 。その選ばれた標本を

neotype

と言 う。) 私はどうしてそのようなことをしたの か,直接先生にお聞きしたが,それはどうしても 必要であるから,あえて行 ったということであっ た。先生の蔵書には動物生態学に関したものもい ろいろとある 。 ライデン大学の学生の時に動物行 動学の研究で1973年にノーベル賞を授与されたチ ンベルヘン

(N. Tinbergen)

から教わったこと は 先生の白慢であった 。 自分の使命をわきまえてい たからもっぱら甲殻類の分類学的研究に専念して いたが,興味の対象は広かった 。 リンネなどに関 した書誌学的知識も実に豊富であ った。 図2 ホルトハウス先生の甲殻類グッズの一部。 皿,湯飲み などの陶磁器,金工品,木工品,竹 細工,ガラ ス細工,パンフレy 卜,甲殻類の絵 が含ま れる古い書籍, 切手 などさまざまであっ た。それらを 収集 し, 整理す るのは 先生の大き な楽しみであった。最上段左のモクス ガニ の置 物は馬場敬次氏の寄贈品。

(7)

先生とシーボルトとのかかわり 甲殻類の専門家のホルトハウス先生は 一 方で はシーボルトに関した研究者でもあ った 。それに は理由があ った 。 シーボル トは 日本でタカアシガ ニを含むいろいろな甲殻類の標本を入手した 。 オ ランダに戻ると,ファウナ ・ヤ ボニカ (日本動物 誌) の刊行をしたのである 。5 巻で構成されてい るファウナ ・ヤポニカには甲殻類編が含まれてい る。執筆したのはデ ・ハーンであ った。デ ・ハー ンは実に優れた研究者で,的確な分類を行い, 甲殻類編は甲殻類研究史上の最重要文献の一つ に なったのである 。 シーボル ト収集の標本類はライ デンの国立自然史博物館の甲殻類部門では特に古 く,基本的な標本になっている 。先生はデ ・ハー ンを尊敬していた 。 さらに先生が関心を深めたの は,博物館に伝わる誰が描いたのか不明の日本人 画家による53枚の美しい甲殻類写生画であった 。 物事を徹底的に進めるのが先生の信念である 。 先生は調査を深めて ,その甲殻類写生画は川原慶 賀という出島出入りの絵師の作品であることを突 き止めた 。発注したのはシーボルト自身ではない が, シーボルトの後継者として出島で動植物標本 の採集を継続したビ‘ユルガーであった 。先生は慶 賀の絵を長崎にも持ってきて,研究者に見て貰っ ている 。長崎市に働きかけたが,本の刊行には消 極的であった 。 ホル トハウス先生は酒井恒先生と は極めて親しかった。幸いにも ,酒井恒先生は文 部省からの資金を獲得するのに成功 した 。他にも 資金の提供をしてくれるところがあった 。酒井先 生との共著として ,53枚の絵が全てカラー図版と して含まれる豪華本が

1970

年に刊行された。

iPh.

F. von Siebold and Fauna Japonica - A history of early]apanese zoology,シーボルトと日本動物誌, 一日本動物学の繋明j と題された本である 。刊行 後かなりの年数が経過しているが, シーボルトに ついての研究上で極めて重要である 。慶賀の絵だ けではなく,シーボルトの動物学上の貢献に 関し た総合的解説が含 まれている 。たまに古書のカタ ログに出ることがあるが,高価である 。猶井恒先 生もシーボルトに関心がとても深かった 。講談社 からファウナ ・ヤ ボニカの復刻版が

1975

年に刊行 された時には解説者代表であったし,ライデンに も行 っている 。 私は

1985

年からシーボル ト収 集の動物 ・植物 の標本類の調査研究を行っている 。 すでに22年 が経過し, 23年目になっているが, まだ完了に は至 って いない。成果の報告はようやく半分を 終えたという段階である 。私がシーボルトについ ての調査研究をするようになったのは,ホルトハ ウス先生に影響されたためである 。先生のシーボ ルト収集襟本に関したいろいろなお話があまりに も面白 く,興味深いものであったので,調査して みたくな ったのであった。次に述べる ように,先 生は 「講演は大嫌い」と繰り返し云っていた 。 し かし,会話は実に楽しく,人を惹きつける魅力に 溢れていた 。先生は責任感が強かったから,講演 を依頼されるとどうしても入念に調べなければな らず,多くの時間を取られることになったと思わ れる 。それで,大嫌いと云っていたのではないだ ろうか。会話の場合には準備をする必要が無かっ た。即興で構わないので なめらかに楽しく話を 展開することができたので、ある 。 私は

1979

年にシオマネキ類の標本を調べるた めにライデンに行 った 。 先生の努力で,シオマ ネキ類のコレクションはヨーロッパでもっとも 優れたものになっていた 。

65

種について巨大ハサ

PHF.uo"slEBOLEaMB I

F

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ACADIMIC P A . " 0 ' 図3 ホルトハウス先生が潜井恒先生と共著 で

1970

年に刊行したシーボルトの日本動物学上 の貢献に関する著書。現在でも評価が極めて 高い大著である 。}II原慶賀筆の美麗な甲殻類写 生図がカラー で複製紹介 されて いる 。左にアサ ヒガニの絵がある表紙,右にガザミの絵がある ページを示している 。

(8)

ミの左右性を調べることができて,自分の研究を 大きく前進させることができた 。先生は実に親切 であった 。標本調査には2 0 R 聞 を要したが,終了 して,明日ライデンを去るという日が来た 。その 日に,見せたい物があると,いろいろなシーボル ト収集の標本を紹介して下さった 。私はシーボル トの伝記は読んでいたし 多少の知識は持ってい た。 しかし,動物の標本の実際については何も知 らなかった。先生にシーボル トに関した酒井先生 との共著の本まであることなど, もちろん知ら な かった 。1983年に先生は来日されたが,わざわざ 私の勤務先の熊本大学の合津臨海実験所にまで足 を伸ばして下さった ( その時には鈴木博先生もご 一緒であった )。 私はシーボルトについての話を 再び聞くことができ ,一層興味をそそられたので ある 。思いついて科研費の海外調査を申請してみ ることにした 。それが採択されたので, 1985年か ら調査を開始したのであった 。現在の私は退職し ているので,全くの個 人的調査になってし まった が, きちんとした成果報告書を 刊行して責任を果 たしたいと思って頑張っている 。 名誉と講演をするのが嫌いであ った 先生は1953年に国際動物命名規約委員会の委員 になっている 。 まだ33才という若さであ った。そ して1964年から1977年 ま で 副 会 長 を 勤 め た。 な お,1965年から1972年までは会長代行にもなっ て いる 。会 長 が 選 出されて 間もなく亡くなっ たの で,先生が代行をしたのであった 。 しかし,それ にしてはあまりにも期間が長すぎる 。「どうし て 8年近くも 代行だったのか, 実質的に は会長では なかったのか」と先生に直接伺ったところ,

I

確 かにそうである 。でも,私は会長という肩書きが 欲しくなかった。そのために,代行ということに させて貰ったのだj という返事であった 。先生は 通常の人なら喜ぶような肩書きとか名誉を好んで いなかった 。 オランダの勲章を授与されたこ とが あったが,先生としては当然のことである が,辞 退したいと 申 し出たのであ った。 しかし ,認めら れなか った。授与式のためにわざわざハーグに行 かねばならなくなったと嘆いていた 。勲章のよう なものには全く無関心で,有難迷惑なのであった。 しかし,先生は教授という肩書きだけは例外的 に受 け入れていた 。私は先生を Prof. Holthuis と H乎ぶことにしていたし ,国立自然史博物館の人々 もそうしていた 。 最初に紹介したフランソン氏 からのメイルには最初は Dr. Likpe B. Holthuis と あるが,その後は Prof.Holthuis になっている 。 けれども,先生は実際には大 学教授的な活動は していなかった 。先生はアメリカのフロリダ大学 の教授になったのであり,ライデン大学では無 か った。 フロリダ大学から「学生の指導をして 欲しい。講義の義務は無い 。その代わり給与も無 い」という条件で教授になることを要望されたの であった 。学生の指導 といっても,それは論文を 添削する程度のことであった。講義はしないし, 会議にも出ないのであるから ,全くの名前だけの 図4 1 9 8 6年の来日時のスナ ップ。小田原利光先 生と安原健允氏のお世話で 10 月21 日に伊豆半 島の戸田港へ行った。アカザ工ビ漁の副産物と してタカアシガニ,イガクリガこなども漁獲さ れていた。小田原先生と一緒にそうしたものが 入った容器をのぞいているところ 。

(9)

織である 。でも,先生のような偉大な 学者を D r.

Holthuis

と呼ぶの は周囲の人々も物足りない。誰 もが,

Prof.

Holthuis

と呼 ぶようになり,先生も それを受け入れていたのであった 。 講演をするのが何よりも嫌いな先生が生涯で講 義なり講演をした回数はおそらく 5 回く らいた、っ たのではないだろうか。 そのうちの

2

回は日本 でしたのであった 。第1 回は先生が高知大学 を酒 井恒先生 と訪問した時であった 。酒井恒先生の通 訳であ った。先生はその時はあまり不愉快で、はな か ったみたいで自分が話をした時間と比較して 酒井先生ははるかに長い時間喋 っていたと面白そ うに話をされた。酒井恒先生は通訳の合間に自分 なりの解説を付け加えていたのであろう 。第

2

回 目は1986年の法政大 学 のシーボルト国際シンポ ジウムでの講演であ った。 これは私が御願いし たのである 。私は科研費を得て先生を日本に招月号 した 。その条件としてシーボルトに関した研究活 図5 同じく1986年来日時のスナ ップ。熊本にも 来訪 して, 熊本大学図書館に保管され てい る細 川家伝来の動植物の図譜類を調べた。甲殻類を 扱った美麗な 図諸もある 。ノコギリガザ ミの絵 があるペ ージを 見てい ると ころ 。 動の 実績がどうしても必要であった 。先生を説得 して,嫌な講演をして頂いたのであった 。先生に は苦痛であ ったかも知れないが,実際にはまとも な, しっかりしたお話であった 。 シンポジウムが終了してから,日本各地を案内 し, 日本の甲殻類研究者 (武田正倫,村岡健作, 鈴木博,小田原利光,安原健允,林健一, 諸喜 田茂充,馬場敬次, 三宅貞祥,浜野龍夫,酒井勝 司,今福道夫,大森信の各氏,先生方) に会 い, お世話して頂いた 。故酒井恒先生のお 纂 にもお参 りした 。東大の三崎の臨海実験所も訪問したがそ の際に団勝磨先生,重井陸夫氏にも会 っている 。 1986年以降に先生には日本に来訪する機会は無 かった。私は毎年の甲殻類学会大会時のスナ ップ 写真 を送ることにしていた 。 自然史博物館の変化 先生にと って残念だ、ったに違いないのは,国立 自然史博物館の研究環境が次第に悪くな っていた ことであ った。先生の現役の時には国立自然史博 物館は 実 に素晴らしい状態にあった 。先生の研究 室は3階にあ ったが,天井は高く,面積は広く, 快適そのものであった 。先生は窓際にある

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個 の机を甲殻類の観察時に使用し,入口近くにある 大テーブルを 書 き物,調べ物に用いていた 。蔵省」 類は窓側を除く 三方の壁 に沿 ってぎ っ しりと収容 されていた 。雑誌類は廊下に並べた棚に収められ ていた 。広い廊下は棚を多数置いても窮屈になる こともなか ったのである 。必要な文献は即座に取 り出すことができた。1986年に先生は退官 された が,名誉館員 として研究室 をそのまま継続して使 用することができた。先生の隣の部屋 は空き部屋 であ ったので,後任のキューレーターのフランソ ン氏はその部屋 を使用することにな った。素晴ら しい状態は新館の完成と移転に伴って 一変した 。 国立 自然史博物館には展示棟は無かった 。研究棟 だけが完成して,展示棟は計画 だけに終わ ってい たのである 。その状態がず、っと続いていたが,展 示棟がある新館建築の計画が浮上してきた 。困っ たことに行政主導で計画は進められ,キュ ー レー ターの要望 はほとんど取り上げられなか った。 ラ イデン中央駅の西方に1994年に完成した新館はー

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見した ところでは立派で、ある 。 しかし ,内部は複 雑で,実に不便な構造に なっている 。 展示部門に 大きな面積を取 られたために, 研究 室は狭くなった 。先生の場合は,与えられた部屋 は以前の

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分の

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の面積になり, しかも日光が入 らない,人工照明だけのものであった 。先生は自 分の文献の全てを国立自然史博物館に寄贈した 。 先生は自分の没後にそうすることを決めていた 。 一つだけ条件を付けていた 。「苦労して集 めたの であるから ,分散させないでほしい」とい うもの であった。 しかし ,与えられた研究室はあ まりに も狭かった 。そのために繰り上げて寄贈した ので ある 。新館附属の図書室の3階に文献類はまとめ て収容された 。複雑な建物であるために,先生の 研究室から図書室の3階に行くのはひどく面倒で あった 。高齢になり,前立腺癌の後遺症,腰痛に 苦しんでいた先生には辛い往復になった 。それで も,先生はほぼ毎日 ,そこに行って,自分が寄贈 した文献類の整理を行 っていたのである 。標本類 は

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階建ての搭状の標本庫に収容された 。完全空 調で,消火設備も整い, 設備はとても良いのであ るが,床面積が以前の 70パーセントしかなく ,大 型の動物の標本類の収容にはいろいろと問題が生 じている 。 ドアをいくつも開けないと標本室にた どり着けないので,標本を気軽に持ち出して調べ るのは困難になってしまった 。 2007年 に お 目 に 掛 か っ た と き , 先 生 に 与 え られていた部屋が 二 人 の 研 究 者 の 共 同 使 用に な っ た こ と を 知 っ た。 狭 か っ た 部 屋 が さ ら に 手 狭 に な っ た の で あ る 。 自然史博物館は 研 究 施 設 と い う よ り も お 役 所 に な っ て き て い た 。 行 政 の 発 言 力が増大し フランソン氏にして も会議で時間を取られることが年々多くなっ た。 先生はボッスマ館長時代を懐かしがり, 現在の状態を慨嘆した。「ボッスマ館長は会議 に時間を浪費するのは愚かであると云って,自 分の責任で何もかも決断 し,推進した 。何が重 要なのか, それを理解 していた 。現在の博物館 では館長らの行政側の人達は自分たちの責任逃 ればかり考えており , 自然史博物館存在の意義 をまるで理解していない

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と先生は批判した 。 私は,先生に「現在の博物館における先生に対 する処遇は先生の偉大な業績を考えると酷すぎる のではないか」と云った。先生は自分もそう思う と賛同された 。 日本で は自然史関 連の研究者はい ろいろと不利 な条件下に置かれている 。甲殻類に 関した分類学や生態学が今後どうなるのか不安で ある 。 オランダでも自然史関連の研究には国はひ どく冷淡になり,研究上の困難が増大している 。 ライデンの国立自然史博物館では甲殻類はと もかく ,烏 p甫乳類のコレクシヨンは極めて豊 富で,絶滅種の標本もいろいろと含まれている 。 世界的に極めて貴重なのである 。 しかし,キュー レーターが退官すると,後任が任命されないた め,どちらも現在はキューレーター不在になって しまった 。国立自然、史博物館とアムステルダム大 学の動物学博物館が統合されるという話がある 。 そうなれば,人員と予算の一層の削減が進められ ることであろう 。 私はこれまでに合計

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回 ライデンに行ってい るが,毎回先生に 何度も会 っていた 。私がシー ボル トに関した調査研究を 長期間継続し,ライデ ンに多数回行ったのはホ ルトハ ウス先生に会うと いう楽しみがあったからであった 。最後にお目に 掛かったのは2007年 8 月10 日であったが,とても お元気であった 。耳が遠いこともなく,足取りも しっかりしていた 。先生自身も自分の仕事に意欲 的であ った 。それだけに ,実に残念である 。 最初に示している先生のお写真は, 8月10日に お別れするl侍に,先生のご了解を得て先生の研究 室内で撮影したものである 。 しかし ,姿は消えてしまっても,多くの業績の 中に先生は生きている 。先生が書いたモノグラフ 類はいずれもわかりやすく,使いやすく ,便利な ように工夫されている 。多くの新種,新属を記載 しており, Holthuis の名前は甲殻類研究が続く限 り,生き続ける はずである 。先生は甲殻類関係の 文献の収集に全力を注いだ。その成果が国立自然 史博物館の図書室に残 され,公開 されている 。古 い文献類が豊富に含 まれてい るのが特色である 。 日本の研究者もライデンに行く機会があれば,そ れらの貴重な文献類を活用できるのである 。 ( 熊本大学 ・合津マリンステーション )

参照

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