要旨 近年,企業の退職年金制度において,企業が年金資産の運用リスクを負わない確定拠出年金制度を導入す る企業が増えている。確定拠出年金は,証券投資の経験や知識の乏しい従業員に運用リスクを負わせること になるため,制度の導入に当たり厚生労働省は企業に投資教育を義務付けている。しかし,アベノミクス以 降の日銀の大規模な金融緩和政策は金融市場に大きな影響を及ぼしており,現在の不十分な投資教育では従 業員に多大の損失を被らせる可能性が生じている。新たに金融市場の動向分析や日銀の金融政策への対応方 法,金融市場の動向に即した運用方法の説明を詳しく投資教育で行う必要がある。 キーワード:確定拠出年金,投資教育,厚生労働省,アベノミクス,金融緩和政策,金融市場
Ⅰ.企業の確定拠出年金制度と投資教育
企業型確定拠出年金制度は,企業が従業員毎に決め られた口座に一定額の掛金を支払い,従業員が積立金 を運用し,運用の結果によって給付額が変動する制度 である。確定拠出年金は,企業が一定額の年金を保証 する確定給付年金と異なり,個人が運用リスクを負う 点に特徴がある。確定拠出年金が平成 13 年に厚生労 働省から認可された理由は,従来の確定給付年金が運 用利回りの低迷により追加費用負担が大きくなり,年 金基金を解散する企業が相次いだことから,費用負担 が少なく中小零細企業にも導入できる年金制度を創設 する必要が生じたからである。また確定拠出年金は個 人の年金資産を株式市場に向かわせ,当時の低迷する 日本の株価対策としても期待されていた。 企業型確定拠出年金は導入企業が増え,企業年金連 合会「企業年金に関する基礎資料 平成 28 年度版」に よれば,平成 28 年 3 月現在,22,574 社,加入者数 548 万人,資産残高 95,662 億円になっている。 企業型確定拠出年金の資産の運用先は,企業年金連 合会の上記資料によれば,平成28年3月現在で元本保 証の預貯金が 35.6%,同じく元本保証の保険商品が 18.8%, 株 式 や 債 券 を 組 み 合 わ せ た バ ラ ン ス 型 が 13.8%,国内株式が 12.5%,外国株式が 6.9% で続いて いる。預貯金と保険商品を合わせると元本保証型が 54.4%と半分を占め,安全資産中心の運用といえる。 しかし,企業では,確定拠出年金は運用利益が期待で きるとして退職金から移行するときに想定利回り (1.5% 〜 2.5%)で割り引いて制度を設計している。そ のため,従業員は想定利回りを超える運用益を出さな いと減額になる。現在のように低金利の定期預金では 想定利回りをカバーできないため,株式や外貨建資産 といったリスク性資産での運用に迫られている。 このように確定拠出年金制度は,投資知識や経験の 乏しい従業員が資産をリスク性商品で運用することか ら,厚生労働省は確定拠出企業年金法第 22 条で事業 主に「加入者等に対し,資産の運用に関する基礎的な 資料提供その他の必要な措置を講ずるよう努めなけれ ばならない」とし,投資教育を努力義務にしている。Ⅱ.厚生労働省が定める投資教育の内容と
投資教育の実施状況
厚生労働省「確定拠出年金制度について」(平成 13 年 8 月 21 日年発第 213 号)によれば,加入時の投資教 育については,運用経験のない人も多いことから「具マイナス金利下における
投資教育の課題
The Journal of Economic Education No.37, September, 2018Issues of training on investment under the negative interest rate policy
NAKAMURA, Kenji
体的な資産配分が自らできること」と「運用による収 益状況の把握ができること」を主たる目的とした簡単 な事項でよいとされている。そして,加入後に「金融 商品の特徴や運用の実績データ等を活用し,より実践 的,効果的な知識の習得」を図ることになっている。 具体的には,①確定拠出年金制度の具体的内容,②金 融商品の仕組みと特徴,③資産運用の基礎知識,④老 後の生活設計などから構成されているが,資産運用に 必要な知識という点では基礎的なレベルにとどまって いる。しかも,投資教育は事業主にとって努力義務に 過ぎないため,企業年金連合会「2016 年度確定拠出 年金実態調査結果と解説」(2017)によれば,2016 年 度の制度導入時の投資教育の実施率は 100%であるも のの,継続投資教育は 60.9%に留まり,厚生労働省が 定めた投資教育は完全に実施できていない。 厚生労働省がこうした不十分な投資教育でも問題な いと判断している背景には,「長期,分散,積立(継 続)」という単純な 3 つの原則さえ守っていれば,誰 でも金融資産を増やすことができるという極めて楽観 的な投資に対する考え方を持っているからである。 1987 年〜 1916 年までの過去 30 年間の主要 4 資産の平均 運用収益をベンチマーク(国内債券:NOMURA-BPI, 国内株式:TOPIX(配当込み),外国債券:FTSE 世 界国債,外国株式:MSCI-KOKUSAI)で算定すると, 国内債券は 3.47%,国内株式は 2.98%,外国債券は 6.07%,外国株式は 10.67% と安定した収益を示してい る。しかし,過去の実績が今後の資産運用を保証する ものではない。
Ⅲ.近年の金融市場の動向
次に「長期,分散,積立(継続)」の 3 つの投資原 則を守れば,必ず資産運用がうまくいくのか,実際の 金融市場の動向から見てみたい。 1.債券市場 主要先進国の債券市場を 10 年物国債の応募者利回 りの推移(図 1 参照)で見てみると,先進主要国は金 融緩和により国債利回りが歴史的に低下して日本やド イツは 2016 年にはマイナス圏に突入しており,運用 収益が期待できない。最近は,アメリカが金融引き締 めに転じ,各国とも金利上昇の動きもあるため,債券 価格が下落するリスクが拡大しつつあり,当面債券へ の投資は控える方がよいといえる。 2.株式市場 主要国の株価は,図 2 のとおり 1980 年を 100 とする と,2001 年 の IT バ ブ ル 崩 壊,2007 年 の リ ー マ ン 図 1 主要国の 10 年国債応募者利回りの推移 (単位:%) 資料出所:日銀「金融経済統計月報」 10 8 6 4 2 0 -2 1989 1991 1993 1995 1997 1999 2001 2003 2005 2007 2009 2011 2013 2015 日本 アメリカ イギリス ドイツ 図 2 主要国の株価の推移(1980=100) 資料出所:日経平均プロフィル,Bloomberg より算定 日本(日経平均) アメリカ(NYダウ) イギリス(FTSE100) ドイツ(DAX30) 3000 2500 2000 1500 1000 500 0 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 2016ショックの世界的な株価暴落があるものの,右肩上が りで推移しているのに対し,日本の株価は 1990 年以 降,名目 GDP が伸びず(図 3 参照),株価はボックス 圏で低迷している。アベノミクス以降は,GPIF の株 式への資産配分拡大(2014 年)や日銀の ETF 購入拡 大(2013 年)により大きく上昇しているが,官制相 場で市場機能が損なわれているとの批判もある。株式 市場の動向からいえることは,外国市場は長期投資に 向いているが,国内市場は向いていないということで ある。 3.外国為替市場 図 4 でドル円レートとユーロ円レートの推移をみる と,1985 年のプラザ合意によるドル安,1989 年バブ ル崩壊後の海外投資縮小による円高,2000 年以降の 円キャリー取引による円安,2008 年リーマンショッ ク後の円キャリー取引解消による円高,2012 年から のアベノミクス(金融緩和)により円安に大きく変化 していることがわかる。長期的な為替レートの水準を 示す購買力平価と比べてみるとやや円安に振れており (図 5 参照),日銀が金融緩和を終了した場合円高への 動きに注意する必要がある。
Ⅳ.日銀の金融政策が今後金融市場に及ぼ
す影響
債券市場,株式市場,外国為替市場に影響を与える 図 3 主要国の名目 GDP の推移(1980=100)資料出所:IMF. International Financial Statistics より算定 1000 800 600 400 200 0 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 日本 アメリカ イギリス ドイツ 図 4 ドル円レート,ユーロ円レートの推移 (単位:円) 資料出所:日銀「金融経済統計月報」 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 2016 300 200 100 0 ドル円レート ユーロ円レート 図 5 ドル円レートと購買力平価との関係 (単位:円) 資料出所:購買力平価(企業物価,消費者物価,輸出物価)は国際通貨研究所(www.iima.or.jp)の pppdata。 300 250 200 150 100 50 0 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 2016 ドル円レート 購買力平価(企業物価) 購買力平価(消費者物価) 購買力平価(輸出物価) 購買力平価(OECD)
要因はいろいろあるが,これまでみてきたように,近 年もっとも影響を与えているのが日銀の金融緩和政策 である。日銀の目標どおり物価上昇率が 2% になり, 金融緩和政策が終了すると,金利は 2.5%程度に急反 転し,満期償還まで 7 年の国債の場合で約 16% も価格 が下落することが予想され,債券市場への影響は非常 に大きい。 物価上昇率 2%の目標が達成できない場合,欧米の 中央銀行が利上げと資産圧縮に進んでも日銀は当分の 間,金融緩和を継続するとみられているが,国債や ETF の購入には限界があるため,最終的には出口戦 略(資産購入の減額→満期償還分の再投資→利上げ→ 再投資縮減・停止→満期償還落ちによるバランスシー ト縮小)に向かわざるを得ない。その過程は長く,急 激な金利の上昇や株価の下落など混乱が起こる恐れが ある。また,長期金利の低位抑圧が財政規律を弛緩さ せ,財政健全化のメドが立たなくなれば,国債の金利 が 5%を超えて上昇するリスクがあると言われてい る1)。 このように日銀の金融政策が金融市場に与える影響 が強まり,その動向次第で金融市場がどう動くかわか らない中で,年金資産の運用は長期に分散投資すれば うまくいくとする現行の投資教育には問題がある。
Ⅴ.確定拠出年金制度の投資教育の問題点
現在行われている投資教育の第 1 の問題点は,リス ク性資産への投資を増やすことが投資教育の目的の 1 つになっていることである。本来の投資教育の目的は 「適切な資産運用を行うことができるだけの情報・知 識」の取得を図ることにあるが,日本の確定拠出年金 制度の導入理由の 1 つが株価対策であったため,安全 な元本保証商品(貯金,保険)から債券,株式等の投 資信託へ年金資産を移動させることが教育の目的に なっている。 2 つ目の問題点は,現行の投資教育は長期・分散投 資さえすれば放っておいても確実に資産が増えるとい う安易な楽観論に立っているが,現在の金融市場は難 しい投資環境にあり,長期・分散投資といってもどこ に投資するのか判断が難しい。個々の金融市場の実情 に合った投資方法を丁寧に指導する必要がある。確定 拠出年金施行規則第 23 条で事業主の禁止行為として 「加入者等に対して,特定の運用方法について指図を 行うこと,又は行わないことを勧めること」が定めら れているが,加入者に対する投資教育の場合について は,禁止行為に該当しないとされている。 3 つ目の問題点は,下方変動リスクへの対応の弱さ である。想定利回りを超える運用収益を目指すことや 老後に備えて資産を増やす必要性からリスク性資産へ の投資の必要性が強調され,資産を守るリスク管理の 発想が弱くなっている。特に退職年金は退職後の生活 の柱の 1 つであり,余裕資金でないので,下方リスク への対応方法をきちんと指導する必要がある。これま でアベノミクスへの期待から株式市場は好調に推移し ており,過去の運用実績だけをみるとリスクが見えに くくなっている。 4 つ目の問題点は,金融機関に頼らない中立的立場 での投資教育の実施である。確定拠出年金の導入企業 は多くの場合自前で投資教育を実施できるスタッフが いないため,独自に教育ができず,金融機関まかせに なることが多い。そうすると金融機関に有利な教育が 行われることになる。Ⅵ.投資教育の見直し
以上のような問題点を改善するためにどうすればよ いか。第 1 にカリキュラムに「金融市場の動向分析」 を追加することである。資産の運用にあたり各金融市 場はどのような要因で動くのか,現在どのような状況 にあるのか,今後の見通しはどうなるのか理解させる ことが重要である。 第 2 に「日銀の金融政策への対応方法」も追加する。 アベノミクス以降,日銀の金融政策が金融市場に与え る影響は極めて大きくなっており,日銀の出口戦略の 方向性や今後予想される金融市場への影響,その対応 方法について説明する必要がある。 第 3 に「金融市場の動向に即した投資方法」を詳し く説明する必要がある。具体的には,まず,国内債券 への投資は一時中止する。現行の投資教育では,投資 対象には必ず国内債券を安定資産として組み入れてい るが,金利が反転したときに大きな損失を被る可能性 があり,信託報酬を除くとマイナス運用にしかならな いので,一時中止し,元本保証の預貯金・保険に資産 を移し替える。次に,国内株式は短期で運用する2)。 長期投資はアメリカのような右肩上がりの株式市場に は適しているが,日本の株式市場は 8 千円から 2 万円 のボックス圏で動いているので,長期に放ったらかし にしていたのではキャピタルゲインを獲得できない。 日本の個人投資家は逆張り(上げ相場で売却して利益 を確定し,下げ相場で安値の株を買う)で売買を繰り返して収益を上げている。また長期投資は主に経済成 長が期待できる外国市場で行い,積立(継続)投資に 拘らず,難しい時期には安全資産に移し,投資を休む ことも必要である。 筆者が勤める株式会社四電工では従業員が確定拠出 年金制度の運用で金融市場の変動により多大の損失を 被らないように必要な投資教育を充実させたいと考え ているが,確定拠出年金の運営を委託する金融機関と 相談してもなかなか実施にこぎつけるのは難しい。そ れはまだ多くの企業のニーズになっていないため,一 部の企業だけを対象に実施できないからである。その ため,筆者が社内講師として厚生労働省が定めた投資 教育のカリキュラムを見直し,今後実施する方向で準 備を進めている。表 1 に筆者が実施する予定の投資教 育の構成を示し,厚生労働省が定める投資教育の内容 と対比しておく。 註 1) 早川英男(2016)pp.227-229 2) 国内株式を短期的に売買するといっても投資経験のない 年金加入者がいきなり新聞,雑誌で得られた知識だけで 投資をするのは博打をするようなものでリスクが大きい。 プロのファンドマネジャーや個人投資家は景気の動向や 企業業績の見通しなどを予測するファンダメンタル分析 と過去の市場データーからローソク足や移動平均線など を使って市場心理の動きを予測するテクニカル分析を組 み合わせて実際の売買を行っている。企業の投資教育で そこまでの専門的な知識を教えることは難しいが,数年 単位の市場の大きな動きを見逃さなければ損失は避けら れる。 参考文献 [1] 大槻奈那,松川忠『本当にわかる債券と金利』日本実業 出版社,2017 年 [2] 尾河眞樹『本当にわかる為替相場』日本実業出版社, 2017 年 [3] 翁邦雄『金利と経済』ダイヤモンド社,2017 年 [4] 土屋敦子『本当にわかる株式相場』日本実業出版社, 2017 年 [5] 早川英男『金融政策の誤解』慶應義塾大学出版会,2016 年 [6] みずほファイナンシャルグループ確定拠出年金研究会 『企業のための確定拠出年金』東洋経済新報社,2007 年 [7] 三井住友信託銀行マーケット事業『第 6 版投資家のため の金融マーケット予測ハンドブック』NHK 出版,2016 年 厚生労働省が定める投資教育の内容 筆者が実施予定している投資教育の構成 1.確定拠出年金の具体的内容 1.当社の確定拠出年金制度 2.金融商品の仕組みと特徴 2.運用金融商品の説明 3.資産運用の基礎知識 3.資産運用の基本的な考え方 (リスクとリターン,長期投資・分散投資の考え方など) 4.金融市場を動かす要因と近年の動向 4.老後の生活設計 5.日銀の金融政策と金融市場への影響 6.今後予想される金融市場の動向とその対策 7.老後の生活設計 表 1 投資教育の見直し案