街道を歩く
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電子版
─シニア世代の退屈しのぎと 健 康のために─中奥州街道(一)
( 宇都宮ー白河) 中 山 高 安 著は じ め に 五 街 道 の 一 つ で あ る 日 光 街 道 を 歩 い て 宇 都 宮 ま で 行 く と 、 次 に は 奥州街道を歩きたくなっていた。 ﹁ ﹂ 、 ところが日光まで歩き終えて 日光道中 をシリーズに加えると ﹁ ﹂ ﹁ ﹂ 、 表題が 日光街道 でなくて 日光道中 なのは何故かという人や 日 光 街 道 は 一 つ し か な い と 思 っ て い る 人 が 多 い の に 気 づ い て 、 奥 州 へ進む前に幾つかの日光街道を寄り道することにした。 そ の 結 果 、 一 般 的 に 日 光 街 道 と 呼 ば れ て い る 日 光 道 中 の ほ か に 、 日 光 御 成 道 ・ 日 光 西 街 道 ・ 日 光 例 幣 使 街 道 ・ 日 光 脇 往 還 を 歩 い て 、 それらをシリーズに加えることができた。 そ し て 今 年 に な っ て 、 や っ と 日 光 道 中 か ら 分 岐 す る 街 道 へ 進 む こ と に な っ た が 、 そ の 一 つ は 千 住 で 分 か れ る 水 戸 街 道 で あ り 、 も う 一 つは宇都宮で分かれる奥州街道である。 江 戸 か ら 津 軽 半 島 の 三 厩 に 通 じ る 奥 州 街 道 の 中 で 、 江 戸 か ら 白 河 みんま や
ま で は 五 街 道 の 一 つ と し て 幕 府 も 奥 州 道 中 と 呼 ん で い た よ う だ が 、 ここでは本州最北の龍飛岬まで行くため奥州街道︵一︶とした。 こ の シ リ ー ズ で 旧 道 に こ だ わ っ て い る の は 、 そ こ に ど の よ う な 歴 史 が 刻 ま れ 、 今 ど の よ う に な っ て い る か を 知 る た め で 、 そ れ を 伝 え る こ と に よ り 関 心 を 持 つ 人 が 一 人 で も 増 え た ら 嬉 し い こ と で あ る 。 こ こ で 取 り 上 げ る 部 分 は 、 東 北 本 線 の 宇 都 宮 駅 と 氏 家 駅 と 白 坂 駅 と 白 河 駅 以 外 、 鉄 道 の 最 寄 り 駅 か ら 近 い 所 で 三 キ ロ は 離 れ て い る た 、 。 め どのように歩きつなぐかは読者の判断に任せて書くことにする 従 っ て 、 自 分 の 歩 け る 距 離 や そ の と き の 体 調 や 先 行 き の 天 候 を 懸 案 し な が ら 、 各 回 の 終 了 場 所 を 何 処 に し て 、 何 処 に 泊 ま る の か 、 或 い は 帰 宅 す る の か 、 な ど 判 断 す る た め の 情 報 だ け は 提 供 し た い 。 た 、 、 だし この情報は時代と共に変わるため具体的な旅館や電話番号は 出かける計画段階で自治体やNT Tなどで調べて欲しい。 尚 、 江 戸 か ら 宇 都 宮 ま で は シ リ ー ズ ⑥ ﹁ 日 光 道 中 ﹂ に 詳 述 し た の で省略する。
目 次 奥州道中とその里程 七 宇都宮から白沢へ 一二 白沢から氏家へ 三五 氏家から喜連川へ 五一 喜連川から佐久山へ 六八 佐久山から大田原へ 八二 自然との闘いを垣間見る︵閑話︶ 九六 大田原から鍋掛へ 一〇五 鍋掛から芦野へ 一二五 優しい人たちに感謝︵閑話︶ 一四六 芦野から白坂へ 一五五 白坂から白河へ 一七七 終わりに 一九八
奥 州 道 中 と そ の 里 程 奥 州 街 道 は 江 戸 日 本 橋 か ら 本 土 の 最 果 て の 地 へ と 続 く 道 で 、 宇 都 宮 ・ 白 河 ・ 福 島 ・ 仙 台 ・ 盛 岡 ・ 青 森 を 経 て 津 軽 半 島 の 三 厩 ま で 、 百 十 四 次 と も い う か ら 、 中 山 道 の 京 都 ま で 六 十 九 次 と 比 較 し て も 倍 近 くて日本最長の街道である。 そ の 奥 州 街 道 の 中 に 五 街 道 の 一 つ で あ る 奥 州 道 中 が あ り 、 江 戸 日 本 橋 か ら 宇 都 宮 ま で は 日 光 道 中 と 同 じ 道 を 進 み 、 宇 都 宮 で 分 岐 し て 白 沢 ・ 氏 家 ・ 喜 連 川 ・ 佐 久 山 ・ 大 田 原 ・ 鍋 掛 ・ 越 堀 ・ 芦 野 ・ 白 坂 ・ 白河に至る道である。 地 理 的 に は 栃 木 県 と 茨 城 県 と の 県 境 に 並 行 し て 北 上 し 、 那 須 高 原 の 南 東 の 那 須 ヶ 原 を 通 っ て 福 島 県 に 入 る 道 で 、 中 世 に は 北 東 部 は 那 須与一で有名な那須氏の勢力下にあった。 こ の 中 で も 重 要 な 日 光 道 中 と の 分 岐 点 で あ る 宇 都 宮 は 、 五 世 紀 初 め 頃 に 祀 っ た 二 荒 山 ︵ ふ た あ ら や ま ︶ 神 社 が 起 源 と さ れ て い る 。 地 ふ た ら さ ん
名 の 語 源 と し て は 下 野 国 ﹁ 一 の 宮 ﹂ が 訛 っ た と か 、 奥 州 攻 め に 向 か しもつ け なま う 武 将 た ち が 戦 勝 祈 願 し た ﹁ 討 つ の 宮 ﹂ と か 、 諸 説 が あ る ら し い 。 こ の 神 社 が 現 在 の 大 通 り 北 側 の 小 高 い 丘 に 構 え た の は 承 和 五 年 ︵ 八 三八︶で、宇都宮は二荒山神社の門前町として栄えた。 近 世 の 宇 都 宮 宿 は 、 慶 長 七 年 ︵ 一 六 〇 二 ︶ 徳 川 家 康 が 町 人 の 町 屋 敷 に 課 せ ら れ た 貢 租 を 免 除 し 、 そ の 代 わ り 幕 府 の 伝 馬 役 を 課 し た こ とから、商工業が集中する城下町としてスタートした。 そ し て 徳 川 家 康 の 重 臣 本 多 正 信 の 子 で あ る 本 多 正 純 が 、 元 和 五 年 まさの ぶ まさず み ︵ 一 六 一 九 ︶ に 宇 都 宮 城 主 と な っ て 、 宇 都 宮 の 城 下 町 の 整 備 や 日 光 街道の開設や奥州街道の付け替えを行った。 こ れ は 宇 都 宮 が 日 光 山 の 守 護 と 奥 州 警 備 の 拠 点 と し て 要 地 だ っ た た め で 、 明 治 維 新 の 戊 辰 戦 争 で も 宇 都 宮 城 を め ぐ る 攻 防 が 激 し か っ たことからも、この地の重要性が分かる。 そ の 正 純 は 、 日 光 東 照 宮 参 拝 の 徳 川 二 代 将 軍 の 秀 忠 を 城 に 迎 え 入 れ 、 暗 殺 し よ う と し た と 疑 わ れ た 。 し か し 、 こ の 芝 居 に も な っ た い
わ ゆ る ﹁ 釣 天 井 事 件 ﹂ は 事 実 で な い よ う で 、 実 際 は 正 純 が 家 康 時 代 か ら の 大 物 大 名 で あ る が た め に う と ま れ 、 宇 都 宮 城 主 に な っ て 三 年 足らずで出羽へ配流され亡くなった。 本 多 正 純 が 街 道 を 付 け 替 え る ま で の 日 光 街 道 と 奥 州 街 道 の 分 岐 点 は 、 江 戸 の 方 か ら き て 今 の J R 日 光 線 を 越 え 四 百 メ ー ト ル ほ ど 宇 都 宮 寄 り 、 分 岐 点 に は 地 名 に な っ た 不 動 堂 が あ る 不 動 前 で 両 街 道 は 左 。 、 右に分かれていた それを正純は城郭の整備拡充や城下の大改造で 不動前で分岐させずに約二キロ先で分岐するようにした。 ま た 日 光 街 道 と 白 河 ま で の 奥 州 街 道 は 、 万 治 二 年 ︵ 一 六 五 九 ︶ 幕 府 に よ り 道 中 奉 行 が 設 置 さ れ 、 五 街 道 の 官 道 化 に よ っ て そ の 重 要 性 が 高 ま り 、 正 式 に は 日 光 道 中 と 奥 州 道 中 と 呼 ば れ る よ う に な っ た 。 尚、白河以降の奥州街道は勘定奉行の管轄下であった。 そ し て 奥 州 道 中 は 、 こ れ に つ な が る 多 く の 奥 州 の 殿 様 が 参 勤 交 代 の た め に 利 用 し 、 氏 家 以 北 三 十 七 大 名 の 参 勤 や 公 用 の た め 本 陣 や 問 屋が設けられ、他方では商人や旅人が足繁く往来した。
〇 以 降 に は ﹁ 五 海 道 中 細 見 記 ﹂ に 出 て い る 里 程 を 記 載 す る が 、 宇 都 宮 と 白 河 間 の 距 離 は 資 料 に よ っ て 若 干 の 差 異 が あ る 。 手 元 の 資 料 に よ っ て は 二 十 里 二 十 二 町 と い う の も あ り 、 途 中 で 見 か け た 掲 示 に は 二 十 一 里 二 十 六 町 と い う の も あ っ て 、 そ の 中 で も 宇 都 宮 宿 と 白 沢 宿 間の五町︵約五百メートル︶の差が一番大きいようである。 た だ し 、 こ の シ リ ー ズ は 歴 史 書 で は な い た め 余 り 詮 索 は し な い こ と に し て 、 歩 く 人 の 参 考 に し て 貰 う 程 度 の 意 味 合 い で 里 程 を 取 り 上 げ て い る 。 ま た 過 去 に 道 筋 が 変 わ っ て い る 場 合 も あ る と 思 う が 、 余 り か け 離 れ た も の は 取 り 上 げ て い な い 積 も り で あ る 。 尚 、 宿 場 間 の 里程は一里を三・九三キロで換算した。 本 文 中 の 略 図 は ほ ぼ 三 万 分 の 一 に し て 旧 道 は 赤 い 丸 線 で つ な ぎ 、 今 日 歩 け な く な っ て い る 所 は 赤 い 鎖 線 に し て い る 。 ま た 旧 道 の 上 に 国 道 が で き て い る 場 合 は 街 道 と 称 し て い る の も 、 こ の シ リ ー ズ に 共 通する事柄である。
宿場名 里程︵キロ数︶ *宇都宮宿より白沢宿 二里二十三町︵十・四︶ しら さわ *白沢宿より氏家宿 一里半︵五・九︶ *氏家宿より喜連川宿 二里四町︵八・三︶ き つ れ が わ *喜連川宿より佐久山宿 二里三十町︵十一・一︶ *佐久山宿より大田原宿 一里二十五町︵六・七︶ 途中に矢木沢宿︵間宿︶ *大田原宿より鍋掛宿 三里三町︵十二・一︶ なべ かけ *鍋掛宿より越堀宿 六町︵〇・七︶ こえ ぼり *越堀宿より芦野宿 二里十一町︵九・一︶ 途中に寺子宿︵間宿︶ *芦野宿より白坂宿 三里五町︵十二・三︶ 途中に板屋宿と寄居宿︵間宿︶ *白坂宿より白河宿 一里三十三町︵七・五︶ 合計二十一里十四町︵八十四・一︶
宇 都 宮 か ら 白 沢 へ ス タ ー ト 地 点 の 日 光 道 中 と 奥 州 道 中 と の 分 岐 点 へ 進 む に は 、 J R か 東 武 宇 都 宮 線 か 何 れ か の 宇 都 宮 駅 で 、 J R か ら は 一 ・ 八 キ ロ ぐ ら いあり、東武線からは五百メートルぐらいある。 宇 都 宮 宿 か ら 白 沢 宿 ま で は 十 キ ロ 強 で 、 白 沢 宿 か ら 次 の 氏 家 宿 ま で は 約 六 キ ロ だ が 、 途 中 の 道 筋 か ら 近 い 鉄 道 の 駅 が な い 。 従 っ て 、 氏 家 ま で 一 挙 に 歩 い て し ま う か 、 苦 し け れ ば 宇 都 宮 か 氏 家 へ バ ス ま たはタクシーを利用する方法である。 〇 江 戸 か ら き た 街 道 は 不 動 堂 が あ る 不 動 前 交 差 点 で 左 へ 進 み 、 約 二 キ ロ 先 の 裁 判 所 で 突 き 当 た り 、 右 へ 進 む と 百 メ ー ト ル 強 先 に 交 差 点 が あ る 。 こ こ に は ﹁ 清 住 町 通 り ﹂ と ﹁ ﹂ 日 光 街 道 と 奥 州 街 道 の 追 分 ① と い う 二 つ の 標 識 が 立 っ て い て 、 左 折 す る 道 が 日 光 道 中 で 、 直 進 する道が奥州道中である。
こ の 辺 り が で 両 街 道 の 分 岐 点 の た め 、 荷 を 運 ぶ 人 馬 が い 宇 都 宮 宿 た 伝 馬 町 で あ る 。 分 岐 点 を 越 え た 奥 州 道 中 の す ぐ 先 左 側 は 本 陣 が あ った所で、道をはさんだ向かい側に貫目改所があったという。 更 に 旧 道 の 左 側 に は ② が 立 っ て い て 、 そ の 先 に も 高 札 場 跡 の 標 識 う一軒の本陣があったという。 宇 都 宮 駅 の 方 向 へ 向 か う と ゆ る い 下 り 坂 で 、 低 い 東 方 か ら 朝 早 く 日 が さ し て く る の で 朝 日 坂 と 呼 ば れ た と い う 。 そ の 空 は ス ッ キ リ 見 え る 電 線 の な い 町 だ が 車 は 多 く 、 T 字 路 が 多 い 昔 か ら の 姿 と 合 体 し た街である。 右 か ら 国 道 四 号 線 が 突 き 当 た っ て き て T 字 路 を 構 成 し 、 そ の 数 十 メ ー ト ル 先 に も ま た T 字 路 が あ る が 、 こ こ を 右 に 覗 く と 東 武 宇 都 宮 線 がある。 宇都宮駅 そ の す ぐ 先 左 側 に あ る は 江 戸 時 代 の 旅 籠 屋 で 、 そ の 先 ホ テ ル 丸 治 に 東 武 グ ラ ン デ ホ テ ル が 終 わ る 辺 り の 右 側 は 、 セ ン タ ー ラ イ ン が 金 網 で 渡 れ な い T 字 路 が あ る 。 そ こ で 次 の 本 町 交 差 点 で 渡 っ て 七 十 メ
ートルほど戻ると、ここには ③が立っている。 張番木戸跡の標識 張 番 木 戸 跡 は 、 奥 州 道 中 か ら 宇 都 宮 城 の 大 手 門 に 向 か う 最 初 の 木 戸で、通行人を監視する役人がいたそうである。 〇 そ の 先 の 釜 川 を 渡 る 所 に 観 光 案 内 図 が 掲 示 し て あ り 、 川 沿 い の 道 史 跡 行 在 所 向 明 館 で な く 次 の 道 を 右 へ 曲 が る 。 す る と 、 す ぐ 左 側 に ④ が 立 っ て い て 、 奥 に 入 る と 広 場 の 片 隅 に 石 を 積 み 上 跡 入 口 の 石 柱 げ碑が立っている。 明 治 天 皇 が 東 北 御 巡 行 の 際 、 豪 商 鈴 木 久 右 衛 門 方 の 向 明 館 を 行 在 所 に し た の は 明 治 九 年 二 十 五 歳 の と き で 、 翌 年 の 日 光 へ の 行 幸 の と き と 、 更 に 明 治 十 四 年 の 奥 州 北 海 道 へ の 御 巡 行 の と き も 行 在 所 と し て、三度にわたり利用された。 二 つ 目 の オ リ オ ン 通 を 左 へ 曲 が り 、 次 の 四 つ 辻 を 直 進 す る の が 旧 道 だ が 、 左 へ 曲 が れ ば 二 荒 山 神 社 が あ り 、 右 へ 曲 が れ ば 赤 い 欄 干 の 御橋と手前に琴平稲荷などが合祀されている。
道 街 跡 た 館 れ 明 ば 向 呼 所 と 在 坂 行 日 跡 朝 史
こ の 御 橋 よ り 更 に 南 側 で 、 ⑤ と 向 き 合 う 位 置 に 宇 都 宮 二 荒 山 神 社 城 が あ っ た 。 元 和 五 年 ︵ 一 六 一 九 ︶ 本 多 正 純 が 城 主 に な り 手 を 加 え た ⑥ も 、 今 は 往 時 を し の ば せ る も の が ほ と ん ど な く 御 本 宇 都 宮 城 跡 丸公園になっている。 逆 に 四 つ 辻 を 左 折 す れ ば 交 差 点 の 手 前 右 側 に 二 荒 山 神 社 摂 社 下 之 宮 が あ り 、 交 差 点 を 越 え た 先 に 赤 い 賽 銭 箱 と 、 そ の 向 こ う に 石 段 が 見えるのは二荒山神社である。 二 荒 山 神 社 摂 社 下 之 宮 は 、 二 荒 山 神 社 の 発 祥 地 で あ る 荒 尾 崎 ︵ 現 在 の 下 之 宮 ︶ に 創 建 さ れ た 神 社 で 、 五 世 紀 初 め 頃 に 下 野 の 国 造 と な った奈良別王が、東国治定の功績高い豊 城 入 彦 命 を御祭神として国 な ら わ け の き み と よきいり ひこのみこ と 社 を こ の 地 に 建 立 、 後 の 承 和 五 年 ︵ 八 三 八 ︶ に 峰 続 き の 臼 ヶ 峰 に 本 社を造営し、発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきた。 二 荒 山 神 社 に は 、 石 段 の 途 中 や 境 内 に 菅 原 神 社 や 女 体 宮 や 十 社 な ど た く さ ん 合 祀 さ れ 、 宇 都 宮 の 名 所 で あ る 明 神 の 井 が 再 興 さ れ て い る 。 こ こ の 社 殿 は 戊 辰 戦 争 の 戦 火 で 焼 失 し た た め 、 現 在 の 拝 殿 ・ 本
殿 は 明 治 十 年 ︵ 一 八 七 七 ︶ に 再 建 さ れ た も の で あ る 。 ま た 境 内 に 前 蕪 村 田 雀 郎 の 句 碑 ﹁ 夢 の 中 古 里 人 は 老 い も せ ず ﹂ と 、 左 側 奥 に ﹁鶏は羽に はつねをうつの宮 柱﹂は正月の歌だろうか。 句碑 とり は みやば しら 〇 オ リ オ ン 通 に 戻 っ て の 掲 示 を 読 ん で か ら 、 直 進 す る 日 野 町 の 説 明 と 突 き 当 た り 、 交 差 点 を 渡 っ て 左 へ 曲 が り 、 す ぐ 次 の 辻 を 右 へ 曲 が ると間もなく右側に ⑦がある。 おしどり塚 日 野 町 は 、 慶 長 三 年 ︵ 一 五 九 八 ︶ 蒲 生 秀 行 が 宇 都 宮 城 主 に な っ た が も う ひ で ゆ き 、 ︵ ︶ とき 蒲生氏の出身地である近江国日野 現・滋賀県蒲生郡日野町 の 商 人 を 東 勝 寺 の 跡 地 に 住 ま わ せ た の が 、 町 名 の 起 こ り と い わ れ て い る 。 こ の 町 は 奥 州 街 道 に 面 し 、 荒 物 屋 ・ 呉 服 屋 ・ 小 間 物 屋 な ど が 軒を並べていた。 お し ど り 塚 は 、 鎌 倉 時 代 に 無 住 法 師 の ﹁ 沙 石 集 ﹂ に よ っ て 紹 介 さ れ た 旧 跡 地 で 、 次 の よ う な 話 し が 伝 え ら れ て い る 。 鎌 倉 時 代 の 頃 、 こ の 付 近 を 流 れ て い た 求 食 川 で 猟 師 が 一 羽 の お し ど り を 射 と め 、 そ あ さ り か わ
社 塚 神 り 山 ど 荒 し 二 お
の 首 を 切 り 、 身 体 だ け を 持 ち 帰 っ た 。 翌 日 、 同 じ 場 所 で う ず く ま っ て い る 雌 の お し ど り を 射 る と 、 そ の 翼 の 下 に は 昨 日 の お し ど り の 首 が し っ か り と 抱 き か か え ら れ て い た 。 猟 師 は 鳥 の も つ 愛 情 に 深 く 心 をうたれ、今までの殺生を悔い、石塔を建て供養したという。 大 通 り 二 丁 目 の 道 を 進 む と 左 側 に ニ ュ ー イ タ ヤ ホ テ ル が あ り 、 ホ テ ル に 沿 っ て 左 へ 曲 が る 。 上 河 原 郵 便 局 の 前 で 交 差 点 を 渡 っ て 直 進 す る の が 旧 道 だ が 、 右 折 し て の 前 を 通 り 、 宮 の 橋 を 渡 れ ば J 宝 蔵 寺 R である。 宇都宮駅 宝 蔵 寺 は 、 寺 伝 に よ れ ば 天 安 元 年 ︵ 八 五 七 ︶ 慈 覚 大 師 円 仁 の 草 創 と い う 。 境 内 に あ る 石 棺 や 梵 鐘 が 県 指 定 文 化 財 で 、 鐘 は 宇 都 宮 貞 綱 が奉納したもので宇都宮城下の時の鐘として使用された。 交 差 点 を 右 折 せ ず 直 進 し た 旧 道 に は 、 す ぐ 前 方 に ⑧ が 見 え 妙 正 寺 て き て 、 そ の 前 の 道 を 左 へ 進 む と が あ り 、 右 の 車 道 沿 い に は 清 厳 寺 が 掲 示 し て あ り 、 次 の よ う な 内 容 が 上 河 原 通 り ︵ 奥 州 街 道 ︶ の 歴 史 書いてある。
こ の 上 河 原 通 は 、 江 戸 時 代 に 江 戸 と 陸 奥 国 を 結 ぶ 奥 州 街 道 の 一 部 む つ 。 、 だった 陸奥国へ至る道は古くからあっ て中世には奥大道と呼ばれ おくお おみち 源 頼 朝 が 奥 州 藤 原 氏 を 攻 め る と き に も 通 っ た と い わ れ る 。 江 戸 時 代 に は 本 多 正 純 に よ り 街 道 の 付 け 替 え の 結 果 、 伝 馬 町 で 日 光 街 道 と 分 か れ 現 在 の 市 街 地 を 貫 く 形 に な り 、 正 式 に は 奥 州 街 道 ︵ 奥 州 道 中 ︶ と呼ばれるようになり、奥州諸藩の参勤交代でにぎわった。 清 厳 寺 は 、 寺 伝 に よ れ ば 建 保 三 年 ︵ 一 二 一 五 ︶ 宇 都 宮 頼 綱 が 念 仏 堂 を 建 立 し た の が 始 ま り と い う 。 こ こ に あ る 国 指 定 重 要 文 化 財 の 鉄 塔 婆 は 、 鎌 倉 時 代 の 正 和 元 年 ︵ 一 三 一 二 ︶ に 宇 都 宮 八 代 城 主 貞 綱 が 亡 き 母 の 十 三 回 忌 の 供 養 の た め に 建 立 し た 。 こ れ は 我 が 国 最 古 で 、 か つ 唯 一 の 鋳 鉄 製 の 大 塔 婆 で あ る 。 ま た 本 尊 の 木 造 阿 弥 陀 如 来 坐 像 は 鎌 倉 時 代 の 様 式 を 伝 え て い て 、 元 々 は 京 都 の 知 恩 院 に あ っ た も の である。ここには大きな子育地蔵尊がある。 〇 妙 正 寺 の 脇 を 進 む と す ぐ 左 側 に 三 峰 神 社 が あ り 、 こ の 社 の 中 に は
尊 蔵 地 育 子 の 寺 寺 正 厳 妙 清
が二つある。 五輪塔 こ の 五 輪 塔 は 、 文 治 五 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ 源 頼 朝 が 奥 州 の 藤 原 氏 一 族 を 攻 め た と き 、 祈 願 成 就 の お 礼 の 生 贄 と し て 二 荒 山 神 社 に 献 納 さ れ た樋爪氏の墓と伝えられている。 そ の 先 で を 幸 橋 で 渡 っ て 右 へ 道 な り に 進 む と 、 前 方 に 近 代 的 田 川 な 大 き な ホ テ ル の 前 に 立 派 な 店 蔵 が 現 れ る 。 こ れ は ⑨ 旧 篠 原 家 住 宅 で、ここから左折して真っ直ぐ進むのが旧道である。 篠 原 家 は 奥 州 街 道 口 の 豪 商 で 、 江 戸 時 代 か ら 第 二 次 世 界 大 戦 ま で は 醤 油 製 造 業 や 肥 料 商 を 営 ん で い た 。 明 治 二 十 八 年 ︵ 一 八 九 五 ︶ に 建 て ら れ た こ の 店 蔵 は 、 店 舗 と 住 宅 部 分 を 一 体 化 し た 蔵 造 り に な っ て い る 。 住 宅 の 一 階 部 分 の 両 側 に は 厚 さ 約 八 セ ン チ の 大 谷 石 が 貼 っ 、 、 てあり 帳場の奥には約四十五センチ角のケヤキの大黒柱があって こ れ が 二 階 の 大 広 間 の 床 柱 を 兼 ね て 棟 木 ま で 伸 び て い る 。 ま た 石 蔵 三棟のうち最も古いのは嘉永四 年︵一八五一︶のものである。 次 の 今 泉 町 交 差 点 で も 直 進 す る の が 旧 道 だ が 、 左 折 し て 県 庁 通 を
百 数 十 メ ー ト ル 進 む と ⑩ が あ っ て 、 山 門 を く ぐ り 本 堂 へ 向 か 興 禅 寺 う左側に宇都宮貞綱・公綱の墓がある。 宇 都 宮 貞 綱 ︵ 一 二 六 四 ー 一 三 一 六 ︶ は 八 代 目 宇 都 宮 城 主 で 、 弘 安 四 年 ︵ 一 二 八 一 ︶ 元 軍 の 襲 来 の と き 十 六 歳 で 大 将 軍 と し て 九 州 に 出 陣した。晩年は出家して法号を興 禅寺とし、これを寺名とした。 宇 都 宮 公 綱 ︵ 一 三 〇 二 ー 一 三 五 六 ︶ は 貞 綱 の 次 男 で 九 代 目 城 主 と な り 、 鎌 倉 時 代 か ら 南 北 朝 の 動 乱 期 に か け て 活 躍 し た 武 将 で あ る 。 楠 木 正 成 と の 戦 い は 宇 都 宮 氏 を 中 心 と し た 東 国 武 士 の 武 勇 を 示 す も のとして名高い。 〇 。 今泉郵便局の前を通り四つ辻を越えると右側に ⑪がある 八坂神社 八坂神社は 康平六年 一〇六三 当時の宇都宮城主藤原宗円 宇 、 ︵ ︶ ︵ 都 宮 氏 の 祖 ︶ が 宇 都 宮 に 築 城 、 そ の 鬼 門 除 と し て 奥 州 街 道 の 出 入 口 に あ た る 今 泉 の 地 に 神 明 宮 を 創 建 し た の が 始 ま り で 、 明 治 四 十 三 年 博労町の八坂神社と合祀して改称した。
墓 の 綱 公 ・ 綱 貞 宮 宅 都 住 宇 家 の 原 寺 篠 禅 旧 興
そ の ま ま 直 進 す る と 角 に 交 番 が あ る 二 股 に 達 し 、 右 へ 分 岐 す る 道 を 見 な が ら 、 東 北 新 幹 線 の 下 を く ぐ る 。 そ の 八 百 メ ー ト ル ほ ど 先 に 竹林町交差点がある。 竹 林 町 交 差 点 を 越 え る と 、 左 側 に 現 れ る 立 派 な 長 屋 門 は ⑫ 岩 淵 家 で 、 そ こ か ら 先 に は 同 じ 名 字 ら し い 立 派 な 家 が 並 ん で い る 。 そ の 先 左 側 に は が あ り 、 こ の 辺 り に も 岩 淵 と い う 名 字 が 多 く 、 と き 宝 蓮 院 どき増淵という名字の家もある。 ⑬ を 左 に 見 な が ら 次 の 信 号 に は 、 右 角 に 県 民 共 済 の 豊 郷 南 小 学 校 新 し い 建 物 が 建 っ て い る 。 そ の 建 物 よ り 手 前 の 道 を 右 折 し て 、 三 百 メ ー ト ル ほ ど 進 め ば 左 側 に 白 山 神 社 が あ る 。 白 山 神 社 の 裏 側 に あ る 竹や松林の中に、半分削られた小丘が ⑭である。 根来塚跡 ね ご ろ 根 来 塚 は 別 名 千 人 塚 と 呼 ば れ 、 元 和 七 年 ︵ 一 六 二 一 ︶ 宇 都 宮 城 主 本 多 正 純 は 、 幕 府 か ら 差 し 向 け ら れ た 根 来 組 同 心 百 人 衆 に 城 普 請 を 命 じ た が 、 一 同 が 従 わ な か っ た の で 全 員 を 処 刑 し た 場 所 で あ る 。 こ の 根 来 衆 は 秀 忠 が 日 光 参 拝 に 先 立 っ て 差 し 向 け た 鉄 砲 組 だ と も い わ
れ 、 こ の 辺 り の 事 情 が 釣 天 井 事 件 の 物 語 に 利 用 さ れ た ら し い 。 昔 は 首 塚 と 胴 塚 と 馬 塚 が 作 ら れ た と い う が 、 今 は そ の う ち の 胴 塚 だ け だ といわれる。 次 の 交 差 点 辺 り は 松 並 木 が あ っ た ら し い が 、 そ の 名 残 の よ う に 今 は 一 本 だ け 残 っ て い る 。 そ の 交 差 点 を 右 へ 曲 が り 居 酒 屋 の 脇 へ 入 る 、 、 と ちょうど栃木銀行の斜め裏辺り に地蔵堂囲碁将棋クラブがあり こ の 建 物 の 中 に ⑮ が あ る 。 こ の 建 物 の 裏 に も 表 に も 地 蔵 や 首 切 地 蔵 石 仏 な ど が 幾 つ も あ る の は 、 こ こ が 宇 都 宮 藩 の 処 刑 場 だ っ た た め ら しい。 〇 そ の 先 左 側 に は 宇 都 宮 製 紙 の 工 場 が あ っ た と い う が 、 今 は フ ァ ー ス ト フ ー ド や 量 販 店 な ど が 並 ん で い る 。 工 場 が あ っ た 時 代 に は 並 木 があったように書いてあるが、今 は何もなくなっている。 そ の 先 左 側 の ⑯ の 前 に は 、 桜 な ど の 巨 木 が 何 本 宇 都 宮 化 成 工 業 ㈱ か残っているのは並木の名残だろうか。
蔵 地 切 首 の 中 の ブ ラ ク 棋 家 将 淵 碁 岩 囲
こ の シ リ ー ズ ﹁ 街 道 を 歩 く ﹂ を 始 め て か ら 感 じ る こ と の 一 つ に 、 第 二 次 産 業 が 残 っ て い る 所 に は 未 だ 並 木 も 残 っ て い る も の の 、 第 三 次産業などに代わると並木もなくなることが多いようである。 国 道 一 一 九 号 線 を 越 え る と 並 木 の 名 残 の よ う な 大 樹 が あ り 、 こ の 後 も 車 道 と 歩 道 と の 間 に 疎 水 が 勢 い よ く 流 れ 、 植 え 込 み が 続 い て い る の で 車 の 喧 噪 か ら 救 わ れ る 。 右 側 に は 鮎 屋 が あ っ て 水 流 の 音 が 聞 こえるから、いけすで鮎を飼っているのだろう。 左 側 に ジ ャ パ ン 建 機 と い う 会 社 が あ る 前 後 の 民 家 の 入 口 に 、 馬 頭 尊や馬頭観世音や馬力神の石碑が立っている。 小 林 清 次 郎 翁 海 道 町 交 差 点 を 過 ぎ 、 パ ー ラ ー マ ド ン ナ の 先 左 側 に ⑰があり、この碑には次のように書いてある。 感恩報徳の碑 小 林 清 次 郎 翁 は 寛 政 十 一 年 ︵ 一 七 九 九 ︶ に 生 ま れ 、 海 道 新 田 の 小 林 家 に 養 子 と な っ た 。 安 政 年 間 ︵ 一 八 五 四 ー 五 九 ︶ 海 道 新 田 に 水 路 を 開 き 、 自 ら 水 田 開 拓 に つ と め 終 生 農 業 に 精 励 し て 、 海 道 新 田 の た めに大きな貢献をし、八十三歳で他界したとある。
そ の 先 に も パ チ ン コ 屋 が あ っ て 並 木 が 始 ま る が 、 こ の 並 木 の 裏 側 が歩道になっている。 〇 並 木 は 桜 ・ カ エ デ ・ イ チ ョ ウ ・ 杉 な ど が 混 在 し て い る か ら 、 春 も 秋 も き れ い だ ろ う 。 そ の 途 中 に 新 し い 石 柱 が 立 っ て い る が 、 海 道 端 霊 園 と あ る か ら 霊 園 入 口 の 道 標 だ ろ う 。 そ し て 並 木 が 切 れ る と 交 差 点で、右角にコンビニがあり、左側に下野典礼がある。 そ の 先 の バ ス 停 に 稚 児 坂 と あ り 、 旧 道 の 前 方 を 見 る と 上 り 坂 に な っ て い る か ら 、 こ れ が だ ろ う 。 こ の 坂 の 途 中 に は 昭 和 四 十 八 稚 児 坂 年 の ⑱ が 立 っ て い る 。 こ の 辺 り を 東 へ 一 ・ 八 キ ロ 上 水 道 完 成 記 念 碑 も入った中岡本の根古屋の地に岡本城跡がある。 岡本城跡は、玉 生︵岡本とも呼ぶ︶信 濃守富高が十五世紀に築城 たま にゅう し た も の で 、 宇 都 宮 氏 の 支 城 と な り 、 慶 長 二 年 ︵ 一 五 九 七 ︶ 宇 都 宮 氏滅亡と共に廃城となった。 旧 道 は 王 子 板 紙 ㈱ 日 光 工 場 の 前 を 通 り 、 た ん た ん と 平 坦 な 道 を 進
む 途 中 に 河 内 霊 園 の 石 柱 が あ る 。 左 へ 分 岐 す る 道 と の 角 に あ る 江 戸 政 は 寿 司 屋 だ ろ う か 、 新 し い が 趣 の あ る 建 物 を 見 な が ら 直 進 す る 。 や が て 右 側 に 河 内 町 役 場 が あ る バ ス 停 の 屋 根 の 下 で 一 休 み す る 。 そ こ か ら カ ー ブ し な が ら 下 り 坂 に な り 、 左 側 に 少 し 欠 け た 大 き な 勝 善 神 を 見 る と 、 そ の 向 か い 側 に ⑲ が あ る 。 石 段 を 上 る と 白 沢 地 蔵 堂 境内奥には伊沢家景の子供の墓がある。 白 沢 地 蔵 堂 は 、 建 久 年 間 ︵ 一 一 九 〇 ー 九 八 ︶ 源 頼 朝 の 命 を 受 け 、 伊 沢 家 景 が 奥 羽 総 奉 行 と し て 鎌 倉 よ り 東 北 へ 向 か う 途 中 、 白 沢 稚 児 坂 で 子 供 が 病 気 に な り 亡 く な っ た 。 そ の 子 を こ の 地 に 葬 り 地 蔵 堂 と 石塔を建てた。 す ぐ 左 側 に ⑳ が あ り 、 右 側 に は が あ っ や げ ん 坂 江 戸 時 代 の ト イ レ て 、 こ こ に は 白 沢 小 学 校 の 生 徒 が 書 い た ﹁ え ど じ だ い の こ ろ つ か っ ていたトイレです。みなさん見て ください﹂が掲示してある。 や げ ん 坂 は 、 漢 方 の 薬 種 を く だ く 舟 形 器 具 ︵ 薬 研 ︶ に 坂 の 形 が 似 や げ ん て い る と こ ろ か ら 、 や げ ん 坂 と 呼 ば れ る よ う に な っ た と 伝 え ら れ て
道 旧 の り 堂 辺 蔵 町 地 道 沢 海 白
。 ︵ ︶ 、 いる 慶長十四年 一六〇九 白沢宿として町割ができる以前から こ こ に は 街 道 の 道 し る べ と し て 夫 婦 の 大 き な 榎 が あ っ た 由 緒 あ る 場 所である。 そ の す ぐ 先 左 側 に あ る 漬 物 屋 の は 江 戸 時 代 か ら 醤 油 屋 で 、 水 戸 屋 この辺りから だろう。 白沢宿 〇 十 六 世 紀 以 前 の 白 沢 は 農 家 ば か り だ っ た が 、 関 ヶ 原 の 序 曲 と な っ た 徳 川 家 康 の 上 杉 攻 め で 、 徳 川 軍 が 鬼 怒 川 を 渡 る と き 、 そ の 案 内 役 を か っ て 出 た の が 白 沢 村 庄 屋 の 宇 加 地 家 と 上 岡 本 村 庄 屋 の 福 田 家 だ っ た 。 そ の 功 績 が 認 め ら れ 、 戦 い の 後 に 両 村 共 同 で 白 沢 宿 と い う 名 で 往 還 宿 を 構 成 す る こ と が 許 さ れ た 。 慶 長 十 四 年 ︵ 一 六 〇 九 ︶ に は 町 割 が 完 成 し 、 両 家 は 御 用 を つ と め る 問 屋 と な っ た が 、 天 保 十 四 年 ︵ 一 八 四 三 ︶ に は 本 陣 一 ・ 脇 本 陣 一 ・ 旅 籠 屋 十 三 軒 を 数 え て い た 。 昔 の 白 沢 宿 は 鬼 怒 川 鮎 と 白 沢 ゴ ボ ウ が 名 産 で 、 多 く の 旅 人 が 四 季 を通じてゴボウ汁を賞味したと資料にはある。
白 沢 か ら 氏 家 へ 白 沢 宿 か ら 氏 家 宿 ま で は 一 里 半 と い う か ら 約 六 キ ロ だ が 、 本 数 は 少ないもののバスは走っているようである。 〇 漬 物 屋 の 水 戸 屋 の 前 を 通 っ て 白 沢 宿 に 入 る と 、 沿 道 の 各 家 に は 屋 号を表示して、家並みの保存に努力しているようである。 間 も な く 白 沢 宿 交 差 点 で 突 き 当 た り 左 へ 曲 が る が 、 こ の 曲 が る 手 前左側の福田家が脇本陣だったと資料には書いてある。 交 差 点 を 左 折 す る と 旧 道 は 真 っ 直 ぐ 伸 び て 、 両 側 に 疎 水 が 流 れ て い る が 昔 は 中 央 に あ っ た そ う で あ る 。 こ の 左 側 に は 小 さ な 水 車 が 何 基 か 回 っ て い て 、 こ の 疎 水 は ガ ー ド レ ー ル の 代 わ り に も な っ て い る ようで、旧道でも数少ない光景は風情を感じる。 白 髭 神 社 白 沢 交 差 点 を 左 折 す る と 、 す ぐ 左 側 に 現 れ る 石 の 鳥 居 は で、参道が奥へと伸びている。
更 に 警 察 署 の 先 左 側 に 大 き な 門 柱 が あ り 、 こ の ① は 本 陣 宇 加 地 家 だったそうである。 こ こ に 掲 示 し て あ る 奥 州 道 中 の 里 程 は 拙 著 と 少 し 違 う よ う だ が 、 。 違う里程が出てくるのは何時ものこ となので気にしないことにする 、 、 、 尚 数年前の資料では ここに郵便局があったように書いてあるが 今はこの先の町はずれに移転している。 そ の 先 左 側 に は ② が あ り 、 こ こ の 釈 迦 如 来 の 絵 は 県 指 定 文 明 星 院 化財である。 旧 道 は 突 き 当 た っ て 右 へ カ ー ブ す る が 、 そ の 突 き 当 た り に 沢 姫 の 井 上 銘 柄 を 持 つ 酒 造 所 が あ り 、 こ こ は 明 治 元 年 ︵ 一 八 六 八 ︶ 創 業 の ③である。 清吉商店 こ の 酒 造 所 の 前 に は 経 力 稲 荷 大 明 神 が あ り 、 こ の 辺 り で 宿 場 は 終 わ る の だ ろ う 。 す ぐ に 道 は 二 股 に な り 、 左 の 角 に 郵 便 局 が あ る 所 を 左でなく右へ進むのが旧道である。 を 渡 る と 間 も な く 五 叉 路 に な り 、 こ の 左 側 の 広 場 に 大 き 九 郷 半 川
道 旧 の 家 宿 地 沢 加 白 宇
な ④ が 立 っ て い る が 、 こ の 広 場 は バ ス の 停 留 所 に な っ て い 開 田 の 碑 て、それを左側に見ながら土手の方へ直進する。 を 西 鬼 怒 川 橋 で 渡 り 直 進 す る が 、 江 戸 時 代 初 期 の 奥 州 街 西 鬼 怒 川 道は右へ曲がって、鬼怒川の少し下流を渡ったらしい。 〇 鬼 怒 川 に 出 て 北 へ 約 三 百 メ ー ト ル 進 む と 、 三 本 杉 跡 と 伝 え ら れ る 場所に一里塚があったというが、今は何もない。 そ の 先 辺 り に 河 原 へ 出 る 道 が あ り 、 鬼 怒 川 の 渡 し 跡 と い う ⑤ 道 標 が あ っ て 、 左 が 氏 家 宿 ・ 右 が 白 沢 宿 と あ る か ら 鬼 怒 川 の 渡 し 場 が あ っ た 所 だ ろ う 。 た だ 鬼 怒 川 を 渡 る た め 船 を 利 用 す る の は 三 月 一 日 よ 、 。 り十月末日までで 冬の渇水期は仮橋をかけて通行していたという 今 は そ の 五 百 メ ー ト ル ほ ど 上 流 ま で 歩 き 、 阿 久 津 大 橋 で を 鬼 怒 川 渡 ら ざ る を 得 な い 。 橋 の 上 か ら 渡 し が あ っ た と 思 わ れ る 辺 り を 見 る と 、 今 日 は 歩 い て 渡 れ る ほ ど 浅 く 見 え る が 、 流 れ の 側 ま で い け ば 意 外に深いのだろう。
大 橋 を 渡 り す ぐ 左 折 し て 、 二 百 メ ー ト ル ほ ど い く と の 阿 久 津 河 岸 あ く つ が し ⑥ で 、 神 社 の 前 の 常 夜 灯 は 台 座 に ﹁ 右 江 戸 道 左 奥 州 道 船 魂 神 社 ふな たま ﹂ 、 ︵ ︶ 此方河岸道 とあるから道標を兼ねたもので 弘化二年 一八四五 の建立である。 阿 久 津 河 岸 は 奥 州 街 道 の 鬼 怒 川 渡 河 点 に あ た り 、 最 上 流 に 位 置 す る と い う 地 の 利 を 得 て 、 慶 長 以 来 明 治 の 中 期 ま で 水 陸 交 通 の 要 地 と し て 三 百 年 の 繁 栄 を 続 け た 。 徳 川 家 康 が 江 戸 城 に 入 っ た 当 初 は 、 領 地 で あ る 関 八 州 諸 国 か ら の 建 築 用 材 や 食 料 の 輸 送 は も っ ぱ ら 川 船 に よっていた。 幕 府 が 開 か れ 参 勤 制 が 布 か れ る と 、 東 奥 の 糧 穀 や 物 産 な ど は 阿 久 津 ま で 陸 送 さ れ 、 こ こ か ら 川 船 で 江 戸 に 送 ら れ る よ う に な り 、 更 に 商 用 の 荷 駄 も 旅 人 も 利 用 す る よ う に な っ た 。 鬼 怒 川 を 下 る 船 は 茨 城 県 の 久 保 田 河 岸 ま で が 一 日 の 仕 事 で 、 一 泊 し た 翌 日 は 真 岡 木 綿 で 作 も お か も め ん っ た 白 帆 を 立 て 風 の 力 で さ か の ぼ り 、 二 日 が か り で 阿 久 津 河 岸 ま で 。 、 。 戻ってきたという 尚 久保田河岸からは大型船に積み替えていた
標 社 道 神 の 魂 跡 船 し の 渡 岸 の 河 川 津 怒 久 鬼 阿
船 魂 神 社 は 、 船 頭 た ち が 水 上 安 全 の 守 護 神 と し て 、 河 岸 場 に 祀 っ た の が 船 の み た ま ・ 船 玉 ︵ 魂 ︶ 大 明 神 で あ る 。 境 内 は 船 の 形 を 模 し て作られたとかで、 舳 の位置に神殿が建てられ、一般の神社とは趣 へさき 、 ︵ ︶ 。 を異にしているが これは天明三年 一七八三 に造られたという 〇 阿 久 津 大 橋 を 渡 り 直 進 す る と 上 阿 久 津 交 差 点 で 、 奥 に 赤 い 鳥 居 が 並ぶ ⑦があり、ここには がある。 与作稲荷神社 上阿久津の宝 篋 印 塔 ほ うきょう いんとう 与 作 稲 荷 神 社 は 、 遠 い 昔 に は 勝 山 城 地 の 一 隅 に 祀 ら れ て い た と い わ れ 、 い つ の 頃 か 洪 水 に よ り 稲 荷 神 社 の 小 祠 は 流 さ れ 、 三 本 杉 の 根 本 に 留 ま り 、 後 に こ こ に 祀 ら れ た と い わ れ る 。 村 人 や 奥 州 街 道 を 旅 す る 人 や 鬼 怒 川 に 船 を 操 る 船 人 た ち が 、 こ の 稲 荷 を 詣 で る よ う に な る と 様 々 な 霊 験 が 現 れ 、 奇 瑞 が 起 こ っ た と い わ れ 、 爆 発 的 な 稲 荷 信 き ず い 仰が起こった。 上 阿 久 津 の 宝 篋 印 塔 は 、 正 徳 五 年 ︵ 一 七 一 五 ︶ に 境 内 に 建 立 さ れ た 。 宝 篋 印 塔 は 基 礎 ・ 塔 身 ・ 笠 ・ 相 輪 か ら 構 成 さ れ て い る 。 こ の 基
礎 に は 千 余 個 の 河 原 石 か ら な る 一 字 一 石 の 大 日 経 一 品 が 敷 き 詰 め ら れ 、 中 央 塔 身 に は 舎 利 箱 、 蓮 華 石 及 び 宝 篋 印 陀 羅 尼 経 一 巻 そ の ほ か が内蔵されて、塔そのものが本尊仏・大日如来とされている。 高 上 阿 久 津 簡 易 郵 便 局 の 前 を 通 り 、 三 百 メ ー ト ル も い く と 右 側 に ⑧がある。 尾神社 そ の 先 の 勝 山 交 差 点 を 越 え た 右 側 に 森 が あ り 、 そ こ に 二 基 の 石 の 灯 籠 が 立 っ て い る の は ⑨ の 入 口 で 、 こ の 地 蔵 は そ う め ん 地 将 軍 地 蔵 。 。 蔵とも呼ばれている 今日は老夫婦が草取りなど手入れをしている 将 軍 地 蔵 は 、 源 義 家 が 奥 州 に 進 軍 し た と き 鬼 怒 川 釜 ヶ 淵 の 悪 蛇 の た め 進 め ず 、 宗 円 法 師 の 祈 り で 将 軍 地 蔵 が 出 現 し て 悪 蛇 を 退 散 さ せ た た め 、 勝 山 城 を 守 護 す る 寺 院 と し て 堂 原 に 将 軍 山 地 蔵 院 満 願 寺 を 。 。 建てた 満願寺は戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き討ちにあった そ う め ん 地 蔵 と 呼 ば れ る の は 、 満 願 寺 の 僧 た ち が 日 光 山 の 修 験 者 た ち の そ う め ん 責 め に 遭 っ た と き 、 こ の 地 蔵 が 現 れ て 、 そ う め ん を 全 部 平 ら げ て く れ た と い う 伝 説 で あ る 。 ま た 奥 州 街 道 の 旅 人 や 商 人
た ち が 道 中 安 全 に 御 利 益 が あ る の で 有 名 に な り 、 秋 田 ・ 会 津 の 商 人 たちから奉納された石灯籠などが残されている。 〇 右 側 の で 旧 道 が 削 ら れ て 、 今 は セ ン タ ー の 月 星 関 東 流 通 セ ン タ ー 、 前を通り過ぎると左側のミュージアム 氏家と勝山城跡の標識が現れ その前から右へ細道を進むのが旧道である。 昌 玖 寺 ミ ュ ー ジ ア ム 左 側 に は ⑩ が あ り 、 奥 に は 町 の 歴 史 が 分 か る と 、 向 か い の 低 地 に は 長 屋 門 な ど 古 い 建 物 が 移 築 さ れ て い る 。 氏 家 その奥の鬼怒川沿いには ⑪がある。 勝山城跡 昌 玖 寺 は 、 勝 山 に あ っ た 天 台 修 験 寺 で 氏 家 氏 の 祈 願 寺 と さ れ て い た 。 慶 長 二 年 ︵ 一 五 九 七 ︶ 勝 山 城 廃 城 後 に 氏 家 宿 古 町 に 移 り 、 江 戸 、 。 時代には羽黒修験道場となり 山伏たちの加持祈祷などが行われた か じ き と う 勝 山 城 は 鬼 怒 川 の 段 丘 面 を 天 然 の 要 害 と し た 崖 端 城 で 、 建 久 年 中 ︵ 一 一 九 〇 ー 九 九 ︶ 氏 家 公 頼 に よ り 築 か れ 、 慶 長 二 年 ︵ 一 五 九 七 ︶ 宇都宮氏の命運と共にして廃城になった。
塔 印 篋 宝 の 口 社 入 神 の 荷 蔵 稲 地 作 軍 与 将
こ の 月 星 セ ン タ ー の 敷 地 が 切 れ た 所 か ら 右 へ 入 る と 、 左 へ カ ー ブ す る の が 今 の 道 だ が 、 カ ー ブ し て か ら 振 り 返 る と 、 直 進 し て い た 旧 道が月星センターの敷地の中に消えているのが想像できる。 国 道 四 号 線 を 越 え 、 熱 帯 魚 の 日 本 ビ ル メ ン の 前 を 通 り 、 田 ん ぼ の 中 の 道 を 進 む 。 左 側 に ⑫ の 道 標 が あ り 、 そ こ に 入 っ て み お 伊 勢 の 森 ると説明が掲示してある。 お 伊 勢 の 森 神 明 宮 は 、 旧 奥 州 街 道 を 少 し 離 れ た 所 に 四 角 四 面 に 石 を 積 ん だ 石 塚 が あ り 、 そ の 中 に 伊 勢 神 宮 の 内 宮 ・ 外 宮 そ の ほ か の 末 社 を 勧 請 し た も の が 祀 ら れ て い る 。 辺 り 一 面 が 森 と な っ て い た こ と か ら 、 俗 に お 伊 勢 の 森 と 呼 ば れ た が 、 街 道 脇 と い う だ け に 伊 勢 詣 な どへ旅に出る人を見送り、帰る人を迎える場所だったのだろう。 東 北 本 線 を で 渡 っ て 直 進 す る と 、 間 も な く 右 か ら 旧 奥 州 街 道 踏 切 く る 車 の 多 い 道 と 合 流 し て 左 折 す る 。 こ こ は 奥 州 街 道 と 大 谷 街 道 と の分岐点で、 と ⑬が立っている。 奥州街道道標石 馬頭観世音 奥州街道道標石は享保元年 一七一六 以前の設立で 正面に 右 ︵ ︶ 、 ﹁
江 戸 道 ﹂ 左 横 面 に ﹁ 左 水 戸 か さ ま 下 た て 下 つ ま ﹂ と あ る 。 馬 頭 観 世 音 の 碑 は 幕 府 下 野 の 名 筆 家 、 喜 連 川 藩 ゆ か り の 小 山 霞 外 の 書 で 天 保 九 年 ︵ 一 八 三 八 ︶ の 設 立 で あ る 。 こ こ は 氏 家 宿 の 南 端 で 木 戸 番所が設けられていた。 〇 道 標 か ら 三 百 メ ー ト ル 強 も い く と 氏 家 交 差 点 で 、 こ の 右 角 に は 黒 須病院がある。この辺りから が始まったのだろう。 氏家宿 伝 馬 町 ・ 本 町 ・ 仲 町 と 続 く が 、 脇 本 陣 や 本 陣 が 何 処 に あ っ た の か 分 か ら な い 。 手 元 の 資 料 で は 、 氏 家 交 差 点 の 先 の 平 石 家 が 本 陣 跡 ら し い が 、 何 度 も 火 災 に 遭 い 昔 の 面 影 は な い 。 ま た 本 陣 の 斜 め 向 か い 辺りの伝馬屋という屋号の家が脇本陣だったといわれる。 先 へ 進 む と 右 側 に ⑭ が あ り 、 そ の 先 左 側 寛 方 ・ タ ゴ ー ル 平 和 公 園 に ⑮ の 石 柱 と 参 道 が あ り 、 す ぐ 氏 家 駅 入 口 交 差 点 で 左 へ 曲 が 西 導 寺 れば東北本線 である。 氏家駅 寛方・タゴール平和公園については ここに生まれた荒井寛方 一 、 ︵
八 七 八 ー 一 九 四 五 ︶ が 仏 画 を 志 し 、 ノ ー ベ ル 文 学 賞 を 受 賞 し た イ ン ド の 詩 聖 タ ゴ ー ル の 知 遇 を 受 け 、 日 本 画 の 教 授 と し て 渡 印 し て 日 印 文 化 交 流 の 架 け 橋 に な っ た 。 法 隆 寺 金 堂 壁 画 の 模 写 に 従 事 し て い る 、 。 途中で急死し 遺族により膨大な資料や遺品が氏家町に寄贈された 西 導 寺 は 、 建 久 二 年 ︵ 一 一 九 一 ︶ 氏 家 氏 の 始 祖 氏 家 公 頼 が 建 立 し た と 伝 え ら れ る 古 刹 で 、 氏 家 家 の 菩 提 寺 だ っ た 。 現 本 堂 は 天 明 四 年 ︵ 一 七 八 四 ︶ に 完 成 し た も の で あ る 。 こ こ の 宝 冠 釈 迦 如 来 坐 像 は 南 北 朝 か ら 室 町 時 代 初 頭 頃 の も の で 、 町 内 に 現 存 す る 木 造 の 仏 像 で は 最 も 古 い 。 ま た 弥 勒 堂 は 延 宝 元 年 ︵ 一 六 七 三 ︶ に 堂 宇 を 建 立 し た こ とに始まる。境内の奥には五輪塔がある。 氏 家 駅 に 向 か っ て 進 む と 左 側 に 西 導 寺 の 駐 車 場 が あ り 、 そ の 次 の 石 造 地 蔵 菩 路 地 を 左 へ 曲 が る と 、 蔦 地 蔵 と か 定 家 地 蔵 と か 呼 ば れ る ⑯がある。 薩坐像 石 造 地 蔵 菩 薩 坐 像 は 、 高 さ 一 ・ 三 メ ー ト ル の 安 山 岩 に 台 座 ま で 丸 彫 り し た 中 世 期 の 石 仏 で あ る 。 昔 は こ の 地 蔵 に 蔦 が 絡 み つ い て い た
る 点 れ 岐 ば 分 呼 の も と と 道 蔵 街 地 谷 家 大 定 と も 道 と 街 蔵 州 地 奥 蔦
こ と か ら 蔦 地 蔵 と も 呼 ば れ 、 藤 原 定 家 の 七 周 忌 に 定 家 の 面 影 を 写 し て造立したと伝えられて定家地蔵とも呼ばれる。 〇 氏 家 宿 は 、 慶 長 二 年 ︵ 一 五 九 七 ︶ 宇 都 宮 氏 の 没 落 に 伴 い 、 勝 山 城 廃 城 で 禄 を 失 っ た 旧 臣 た ち の 一 部 で あ る 三 十 六 人 衆 が 住 み 着 き 、 阿 久 津 河 岸 を 控 え る 宿 場 と し て 町 並 み が 開 か れ た 。 奥 州 街 道 が 整 備 さ れ て か ら 、 会 津 西 街 道 ︵ 氏 家 ー 大 宮 ー 高 徳 ー 大 内 ー 会 津 若 松 ︶ や 会 津 中 街 道 ︵ 氏 家 ー 三 斗 小 屋 ー 会 津 若 松 ︶ や 原 方 街 道 ︵ 氏 家 ー 高 久 ー 白 河 ︶ と も 接 続 す る 重 要 な 分 岐 点 に な っ た 。 そ の た め に 宿 場 も 繁 栄 して、江戸からは常磐津の師匠や 俳人たちが移り住んだという。 氏 家 宿 は 東 北 本 線 氏 家 駅 に 近 い の で 、 宿 が な け れ ば J R で 宇 都 宮 ま で 戻 れ ば 泊 ま れ る 目 途 が あ る た め 、 全 く 調 査 も し な い で 出 か け て き た 。 現 実 に は 駅 の 側 に 旅 館 が あ り 、 六 階 建 て の 清 水 荘 が 目 に つ い て 訪 ね る と 、 素 泊 ま り で 六 千 円 の ツ イ ン の 部 屋 が 空 い て い た 。 こ の 向 か い に は ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト が あ る か ら 素 泊 ま り で も 問 題 な い 。
氏 家 か ら 喜 連 川 へ 氏 家 宿 か ら 喜 連 川 宿 ま で の 里 程 は 二 里 四 町 と い う か ら 八 キ ロ ぐ ら いだろう。また喜連川までの途中で鉄道に近い場所はない。 〇 氏 家 駅 入 口 交 差 点 で 左 折 し て 駅 へ 向 か わ ず に 、 直 進 す る と 右 側 に 光 明 寺 不 動 明 王 ① が あ り 、 山 門 を く ぐ る と 真 っ 正 面 の 岩 上 に 青 銅 の が目を怒らせ両牙を咬んでいる。 坐像 不 動 明 王 と は 、 大 日 如 来 が 一 切 の 悪 魔 を 降 伏 さ せ る た め 、 内 に 慈 悲 の 誓 願 を 秘 め つ つ 、 外 に 憤 怒 の 相 を 現 し た も の で 、 右 手 に 煩 悩 を 断つ宝剣を持ち、左手に魔を縛する索を持つ。 こ の 不 動 明 王 坐 像 は 、 享 保 八 年 ︵ 一 七 二 三 ︶ の 五 十 里 洪 水 や 大 火 な ど 相 次 ぐ 災 難 に 、 氏 家 宿 の 安 穏 を 願 っ て 光 明 寺 住 職 が 造 立 を 決 意 し 宝 暦 九 年 ︵ 一 七 五 九 ︶ 鋳 造 さ れ た 。 高 さ 約 三 メ ー ト ル の 巨 大 な 本 像は各部を鋳造して接続したもので県指定文化財である。
そ の す ぐ 先 は 上 町 交 差 点 で 、 こ こ を 右 折 す る の が 旧 道 だ が 、 直 進 してもう少し氏家の町中を歩くことにする。 〇 間 も な く 二 股 が 現 れ て 、 そ の 右 側 が 氏 家 町 役 場 で あ る 。 そ の 二 股 を左へ進むのが で、右へ進むのが である。 会津西街道 会津中街道 会 津 西 街 道 の 左 側 に ② が あ り 、 こ こ を 曲 が る と 氏 家 小 学 校 妙 福 寺 、 。 の校庭だが ここは氏家一族の居城だった ③と伝えられる 増淵城跡 更 に 会 津 西 街 道 を 進 む と 左 側 に 大 き な 石 蔵 が 見 え て く る が 、 こ れ 。 。 は ④である この辺りは手塚という 名字が多いようである 仙禽酒造 せ んきん 仙 禽 酒 造 は 、 江 戸 時 代 後 期 の 文 化 三 年 ︵ 一 八 〇 六 ︶ に 創 業 し 、 県 内 最 古 の 歴 史 が あ る 。 日 光 連 山 を 源 と す る 鬼 怒 川 の 良 質 な 伏 流 水 と 良 質 の 米 で 造 っ た 麗 酒 せ ん き ん の 蔵 元 で あ る 。 仙 禽 酒 造 と は 仙 境 に 住む鶴の別称で、長寿と幸福を届 けると言い伝えられている。 更 に 進 む と 会 津 西 街 道 の 突 き 当 た り に 見 え る の が ⑤ で 、 今 宮 神 社 こ こ か ら 道 は 右 と 左 へ 分 か れ る が 、 右 の 道 は 会 津 中 街 道 に つ な が り
像 社 坐 神 王 宮 明 今 動 の 不 道 の 街 寺 西 明 津 光 会
国道四号線に合流し、左の道は会津西街道である。 今 宮 神 社 は 、 康 平 三 年 ︵ 一 〇 六 〇 ︶ 氏 家 町 南 端 に 創 建 さ れ 、 西 安 二 年 ︵ 一 三 〇 〇 ︶ 氏 家 氏 に よ り 現 在 地 に 遷 宮 と 大 造 営 さ れ た も の で あ る 。 現 在 の 楼 門 は 文 化 十 一 年 ︵ 一 八 一 一 ︶ の も の だ が 、 当 地 方 で 江 戸 時 代 期 の 楼 門 は こ れ だ け で あ る 。 こ こ に は ケ ヤ キ の 一 枚 板 に 谷 文 晁の門弟・文海が描いた極彩色密 画﹁四季農耕図﹂の大絵馬が奉 ぶん ち ょ う 納 さ れ て い る 。 こ れ は 天 保 の 飢 饉 が 長 期 化 し 、 困 窮 に 陥 っ た 難 民 が あ ふ れ て 悲 惨 だ っ た た め 、 そ の 未 曾 有 な 大 飢 饉 体 験 を 後 世 に 伝 え よ うとするものである。 ま た 上 町 交 差 点 ま で 戻 る 手 前 で 西 の 方 へ 曲 が り 、 税 務 署 の 脇 を 北 へ進むと ⑥である。 八坂神社 八 坂 神 社 は 、 か つ て は 城 跡 の 弁 天 山 に あ り 、 牛 頭 天 王 を 祭 神 と し ご ず て ん の う ﹁ ﹂ 。 、 お天王様 と呼ばれた 牛頭天王とはイン ド祇園精舎の守護神で 京 都 の 祇 園 社 ︵ 八 坂 神 社 ︶ に 祀 っ た こ と に 始 ま り 各 地 に 広 ま っ て 、 氏家には安永三年︵一七七四︶に勧請された。
〇 さ て 上 町 交 差 点 か ら 東 へ 進 む と 、 百 メ ー ト ル ほ ど 先 で 左 へ 進 む 道 は で、旧道の方は五行川を五行橋と思案橋で越える。 原方街道 左 側 の 多 角 形 の 屋 根 が 見 え て く る の は 氏 家 体 育 館 だ ろ う か 、 そ の 屋 根 が 見 え て 間 も な く 左 側 に ⑦ が あ る 。 更 に 進 む と 左 側 に 立 薬 王 寺 派 な 家 が あ る が 今 回 は 工 事 中 で 、 そ の 先 に は ⑧ の 長 屋 門 に 驚 瀧 澤 家 かされる。 薬 王 寺 は 応 永 三 十 一 年 ︵ 一 四 二 四 ︶ 開 創 さ れ 、 観 無 量 寿 経 曼 荼 羅 や 大 日 如 来 坐 像 が 保 存 さ れ て い る 。 現 本 堂 は 文 政 八 年 ︵ 一 八 二 五 ︶ に改装されたものである。 瀧 澤 家 の 住 宅 は 旧 奥 州 街 道 に 面 し て 、 伝 統 的 な 板 塀 を め ぐ ら し 堂 々 た る 長 屋 門 を 開 く な ど 、 屋 敷 構 え は 今 な お 旧 家 の 面 影 を 留 め て い る 。 瀧 澤 家 は 、 明 治 に な っ て 紡 績 な ど の 事 業 で 財 を な し た 旧 家 で あ り 、 明 治 期 の 当 主 だ っ た 瀧 澤 喜 平 治 は 貴 族 院 議 員 に な り 、 那 須 野 が 原 の 開 拓 に も 尽 力 し た 。 明 治 二 十 五 年 ︵ 一 八 九 二 ︶ に 氏 家 町 で 行 わ
れた陸軍大演習では明治天皇御休息所に充てられた。 そ の 先 左 側 に 石 の 鳥 居 と ⑨ の 石 柱 が あ り 、 三 ー 四 百 メ ー ト 八 幡 宮 ル ほ ど 奥 に 神 社 が あ る 。 左 か ら く る 道 が ぶ つ か る T 字 路 の 左 角 に 、 十 九 夜 塔 ・ 二 十 三 夜 塔 ・ 二 十 六 夜 塔 な ど の ⑩ が あ り 、 そ の 五 石 塔 群 ー六十メートル先左側に石仏など二基がある。 ス ポ ー ツ プ ラ ザ や J A の 前 を 通 り 、 桜 町 交 差 点 で 右 か ら く る 国 道 二 九 三 号 線 と 合 流 す る と 、 す ぐ 次 の 氏 家 総 合 公 園 入 口 交 差 点 を 左 へ 進めば総合公園がある。 上 野 交 差 点 で 右 は 文 挾 と い う 道 標 が あ る 。 こ れ が 日 光 例 幣 使 街 道 の 手 前 で J R 文 挾 駅 が あ っ た 文 挾 町 な ら 、 何 か 方 向 が 違 う よ う に 感 じたが、調べてみると文挾町と文挾とは違う場所である。 〇 左 手 に 火 の 見 櫓 が あ り 、 そ の 手 前 で 右 へ 数 メ ー ト ル 入 る と 馬 頭 観 世 音 や 勝 善 神 な ど 三 基 が あ る 。 並 木 と い う バ ス 停 が あ る の は 、 並 木 が昔はあったのだろうか。
群 塔 石 の 先 の 家 宮 澤 幡 瀧 八
左 右 が 田 ん ぼ に は さ ま れ た 道 が 続 き 、 歩 道 の 脇 を 流 れ る 用 水 は 男 性的な激しさはなく、少しゆるやかな女性的な感じである。 や が て 街 道 の 右 側 に ⑪ の 掲 示 が あ り 、 民 家 の 中 を 指 し 示 一 里 塚 跡 し て い る 。 こ れ は 街 道 沿 い の 坂 本 氏 の 邸 内 で 、 小 高 い 塚 と 掲 示 板 は 塀外から見ることができる。 奥 州 街 道 の 一 里 塚 は 、 氏 家 地 内 に 堂 原 地 蔵 堂 南 側 と 狭 間 田 の 二 ヶ は さ ま だ 所 に あ っ た が 、 堂 原 の も の は 明 治 時 代 以 降 に 消 滅 し た 。 こ の 狭 間 田 の 一 里 塚 も 北 側 は 破 壊 さ れ 、 南 側 だ け が 現 存 し て い る が 、 奥 州 街 道 の一里塚は現存例が少ない。 一 里 塚 か ら 百 メ ー ト ル ぐ ら い 先 に 松 山 交 差 点 が あ り 、 こ の 角 に は 、 。 琴平神社 ⑫があり 向かい側にも社のような蔵のようなものがある 更 に 進 む と 国 道 二 九 三 号 線 は 右 へ カ ー ブ し て い き 、 旧 道 の 方 は 直 進 し て い く 。 そ の カ ー ブ す る 右 角 に ⑬ が あ り 、 明 治 時 二 体 の 大 黒 天 代の水準点という説明書きがある。 、 ︵ ︶ この二体の大黒天のうち左側の古い方には 明治九年 一八七六
に 東 京 ー 塩 釜 間 の 水 準 測 定 を 実 施 し た と き 、 水 準 点 と し て 利 用 し た 印 が あ る 。 こ の 辺 り は 水 田 で 不 朽 物 が 大 黒 天 以 外 に 見 当 た ら な か っ たため、これを利用して印を刻んだという。 〇 意 外 に 車 が 多 い 国 道 と 分 か れ て 旧 道 を 進 む と 、 前 方 の 田 ん ぼ の 中 に 左 か ら 右 へ ゆ る く 傾 斜 し た 樋 の よ う な も の が 見 え る 。 近 づ く と 道 路 脇 の コ ン ク リ ー ト の 建 物 か ら 水 が 溢 れ 出 し て 、 そ の 水 が 樋 の よ う に見えた水路を通じて田んぼに配水されている。 こ れ も 街 道 歩 き を 始 め て か ら 改 め て 感 じ る こ と だ が 、 過 去 に 多 く の 人 た ち が 水 を コ ン ト ロ ー ル す る こ と に 苦 労 し 、 水 の な い 所 に 水 を 引 い て 田 畑 を 作 り 、 増 水 に よ る 被 害 を な く す た め 治 水 に 腐 心 し て き たことである。 そ の す ぐ 先 右 手 を 望 む と 石 の 鳥 居 が 見 え て 、 畑 の 中 の 細 道 を 進 む と ⑭がある。 智賀津神社 ち か つ 智 賀 津 神 社 は 日 光 山 大 明 神 と の 関 係 が 深 い 神 で 、 日 光 道 中 の 中 徳
次 郎 に も 立 派 な も の が あ っ た の を 思 い 出 す 。 こ の 狭 間 田 か ら 弥 五 郎 坂 の 辺 り 一 帯 の 原 野 が 開 拓 さ れ 、 狭 間 田 新 田 村 が で き た の は 寛 永 十 六 年 ︵ 一 六 三 九 ︶ の こ と で 、 開 拓 者 は 板 戸 村 ︵ 現 宇 都 宮 市 ︶ か ら 移 い た ど 住 し た 人 た ち で あ る こ と か ら 、 ふ る 里 の 智 賀 津 神 社 を 喜 連 川 丘 陵 に 祀ったといわれる。 旧 道 に 戻 る と 左 側 の 民 家 の 切 れ 目 に 大 き な ⑮ が あ り 、 そ の 勝 善 神 数 十 メ ー ト ル 先 に 二 十 三 夜 塔 ほ か 石 仏 が あ り 、 そ の 向 か い に は 奥 州 街道の道標が立っている。 弥 五 郎 坂 早 乙 女 坂 古 こ の 辺 り は 上 り 坂 で と 呼 ば れ 、 す ぐ 右 側 に は ⑯とあり、階段を上れば社殿と詳しい掲示が立っている。 戦場跡 早 乙 女 坂 古 戦 場 跡 は 、 下 野 の 北 部 と 中 央 部 の 接 点 で 幾 度 か 攻 防 が 繰 り 返 さ れ た 。 特 に 天 文 十 八 年 ︵ 一 五 四 九 ︶ 南 の 宇 都 宮 氏 と 北 の 喜 連 川 城 主 塩 谷 氏 と の 合 戦 場 に な り 、 宇 都 宮 軍 の 大 将 尚 綱 が 喜 連 川 方 ひ さつな の 助 っ 人 で あ る 鮎 ヶ 瀬 弥 五 郎 に 射 殺 さ れ 、 喜 連 川 城 下 の 危 機 が 救 わ あ ゆ が せ れ た た め 、 喜 連 川 の 領 民 は 感 謝 の 気 持 ち を 込 め て 早 乙 女 坂 を 弥 五 郎
殿 天 社 黒 の 大 跡 た 場 っ 戦 な 古 と 坂 点 女 準 乙 水 早
坂 と 呼 ぶ よ う に な っ た 。 小 さ な 社 殿 内 に 古 い 五 輪 塔 と 馬 頭 観 世 音 と 二 十 三 夜 塔 と 念 仏 供 養 塔 が あ り 、 五 輪 塔 は 宇 都 宮 尚 綱 の も の と い わ れている。 〇 弥 五 郎 坂 を 上 る 途 中 に は 、 左 側 に キ リ ン ビ ー ル の 研 究 所 が あ り 、 右 側 に ⑰ が あ っ て 、 そ の 先 右 側 に ニ ッ カ ウ ヰ ス キ ー も あ 早 乙 女 温 泉 る。 左 側 の セ ブ ン ハ ン ド レ ッ ド ク ラ ブ へ の 上 り 坂 を 見 な が ら 、 旧 道 は 下 り に 入 っ て い る 。 間 も な く 右 側 の 山 道 の 上 り 口 に 車 止 め が 立 て ら れ 、 旧 奥 州 道 中 の 道 標 が 立 っ て い て 、 も う 一 方 の 下 り 道 の 方 が 通 行 できる旧道である。 、 、 旧奥州道中とある上り坂の方を進んでみると 舗装してあったり カ ー ブ に は 大 き な ミ ラ ー が あ る か ら 、 車 道 と し て 使 わ れ て き た の だ ろう。ただ、途中には倒木 や夏草が邪魔をしている。 他 方 の 下 り 坂 の 奥 州 道 中 に は 、 右 へ カ ー ブ す る 角 に ﹁ 坂 を 下 り て
左右に藪あり栗おつる﹂の ⑱がある。 碧悟桐句碑 へ き ご と う 河 東 碧 悟 桐 は 正 岡 子 規 門 下 の 秀 才 で あ り 、 俳 句 会 で 活 躍 し た 人 で 知 ら れ る 。 こ の 句 は 弥 五 郎 坂 を 越 え 、 喜 連 川 を 一 望 に 荒 川 の 清 流 を 眼下にする大桜の下に一休みしたときの作である。 句 碑 の 前 を 通 り 右 へ ゆ る く 下 る 杉 並 木 は 旧 道 ら し い 趣 が あ る 。 や 、 、 がて左からくる道と合流して その先のT字路で左右に分かれるが ここから左へ進むのが旧道である。 た だ T 字 路 を 右 へ 上 れ ば 、 す ぐ 左 側 に 愛 宕 山 神 社 が あ り 、 丸 太 で 作 っ た ダ ム を 見 な が ら 進 む と 二 股 に な っ て い る 。 左 の 道 は 高 塩 家 墓 入口とあり、右の道は旧奥州道中に続いているらしい。 さ て T 字 路 で 左 へ 旧 道 は 直 進 す る が 、 す ぐ 途 中 の 火 の 見 櫓 の 下 に 、 、 、 道標があり ここから右へ曲がり 左へ曲がり右へ曲がって直進し へ出るのもよいだろう。 早乙女の桜並木 直 進 し た 旧 道 は 荒 川 へ 向 か い 、 小 さ な 交 通 安 全 の 地 蔵 を 見 な が ら 、 、 突き当たって右へ曲がる角に 樹齢百三十年というシダレザクラと
その回りに ⑲が大小たくさん立っている。 勝善神 早 乙 女 の 桜 並 木 は 御 嶽 神 社 か ら 喜 連 川 の 入 口 ま で 、 全 長 六 百 メ ー ト ル に ソ メ イ ヨ シ ノ 約 百 三 十 本 が 植 え ら れ 、 先 ほ ど 二 体 の 大 黒 様 の 所 で 分 か れ た 国 道 二 九 三 号 線 か ら は 、 喜 連 川 の 街 中 へ 入 る 表 玄 関 と も い え る 。 こ れ は 栃 木 県 の 景 勝 百 選 に 選 ば れ て い る が 、 今 の 時 期 は 桜の下に植えられたアジサイが美しい。 沿 い の 旧 道 と 桜 並 木 が 合 流 し て 連 城 橋 で 渡 る が 、 こ の 橋 の 南 荒 川 東 隅 に あ る の が 寛 延 元 年 ︵ 一 七 四 八 ︶ の ⑳ で ﹁ 右 江 戸 道 左 道 標 、 下妻道﹂とあり、ここからが である。 喜連川宿 〇 足 利 尊 氏 は 京 都 に 幕 府 を 開 く と 共 に 、 次 男 基 氏 に 関 東 十 ヶ 国 を 与 え 、 鎌 倉 を 拠 点 と し て 鎌 倉 府 を 開 か せ た 。 鎌 倉 府 の 長 官 は 鎌 倉 公 方 く ぼ う ︵ 関 東 公 方 ︶ と 呼 ば れ 、 関 東 管 領 上 杉 氏 に 補 佐 さ れ 関 東 の 政 務 を 主 導 し た が 、 四 代 持 氏 は 将 軍 義 教 と 対 立 し 、 管 領 上 杉 憲 実 に も 離 反 さ もちう じ よしの り のりざ ね れ、永享十一年︵一四三九︶鎌倉公方家は滅亡した。
道 旧 の 前 碑 手 句 宿 桐 川 悟 連 碧 喜
そ の 後 、 関 東 諸 将 の 要 望 に よ り 持 氏 の 子 成 氏 が 鎌 倉 公 方 と し て 復 しげう じ 活 し た が 、 上 杉 氏 の 支 持 を 失 い 、 古 河 に 移 り 古 河 公 方 と 称 さ れ た 。 しかし古河公方も百二十八年間続いたものの断絶した。 一 方 、 古 河 公 方 二 代 政 氏 の 次 男 義 明 は 小 弓 公 方 と 称 し た が 討 ち 死 し 、 安 房 館 山 の 里 見 氏 に 保 護 さ れ た 三 男 国 王 丸 は 成 人 し て 頼 純 と な より ずみ り 、 そ の 娘 の 嶋 子 は 喜 連 川 塩 谷 氏 の 十 七 代 惟 久 に 嫁 い だ 。 天 正 十 八 こ れひさ 年 ︵ 一 五 九 〇 ︶ 豊 臣 秀 吉 の 小 田 原 城 攻 略 に 際 し 、 惟 久 は 応 じ ず に 出 奔 し た た め 喜 連 川 塩 谷 氏 は 滅 亡 し た 。 好 色 家 の 秀 吉 は 美 人 の 嶋 子 の 願 い を 受 け て 古 河 公 方 を 再 興 さ せ 、 嶋 子 の 弟 国 朝 に 譲 る こ と を 認 め た が 、 朝 鮮 出 兵 で 急 死 し た た め 弟 頼 氏 が つ い だ 。 そ の 頼 氏 は 喜 連 川 に居館を定めた。 徳 川 の 代 に な る と 足 利 氏 の 同 族 新 田 氏 の 末 え い と 称 し た 家 康 は 、 喜 連 川 藩 を 重 視 し て 古 河 公 方 の 格 式 を 与 え 、 参 勤 交 代 の 義 務 を 免 除 という優遇処置を与えた。
喜 連 川 か ら 佐 久 山 へ 喜 連 川 宿 か ら 佐 久 山 宿 ま で は 二 里 三 十 町 と い う か ら 十 一 キ ロ 強 あ る だ ろ う 。 従 っ て 、 氏 家 宿 か ら 喜 連 川 宿 を 経 て 佐 久 山 宿 ま で は 約 二 十 キ ロ と い う こ と に な る か ら 、 一 挙 に 歩 け な い 人 は 喜 連 川 で 一 泊 す るのか、ほかに何か講じる必要があるだろう。 〇 御 菓 連 城 橋 を 渡 っ た 左 角 に 温 泉 ま ん じ ゅ う の 看 板 が 目 に つ い て 、 ① に 入 っ て 饅 頭 を 食 べ る 。 女 将 の 暖 か い 人 柄 に 触 れ 、 子 処 た な か や 第 十 八 回 全 日 本 菓 子 博 で 金 賞 を 受 賞 し た と い う ﹁ 狐 も な か ﹂ を 自 宅 に 送 っ て 貰 う 。 昔 は 喜 連 川 を 狐 川 と 呼 ん で い た そ う だ か ら 、 そ れ が 最中の名前になったのだろうかなどと想像する。 そ の 先 で 左 へ 曲 が り 、 荒 川 と 並 行 し て 西 へ 六 百 メ ー ト ル も 進 め ば ② で 、 こ こ の 元 湯 に は 何 軒 か 旅 館 が あ る ら し く 、 ま た 宿 喜 連 川 温 泉 場にも旅館があるらしい。
養 泉 寺 次 の 本 町 交 差 点 を 右 へ 三 百 メ ー ト ル ほ ど 進 む と 、 左 側 奥 に ③があり、車道へ出た所に赤い鳥居と社がある。 養 泉 寺 の 創 建 は 正 保 元 年 ︵ 一 六 四 四 ︶ で 、 本 堂 は 宝 永 ・ 明 治 の 年 に 三 回 の 火 災 に 遭 い 焼 失 し 、 明 治 四 十 年 ︵ 一 九 〇 七 ︶ に 再 建 し た 。 本 町 交 差 点 を 越 え る と す ぐ 右 側 に ④ の 石 柱 が あ り 、 こ の 寺 龍 光 寺 に は 足 利 家 歴 代 の 墓 所 が あ る 。 こ の 菩 提 所 は 白 木 の 門 扉 で 守 ら れ 、 一般の人は勝手に入れないようになっている。 龍光寺の創立は 足利尊氏で東勝寺と号していたが 慶長六年 一 、 、 ︵ 六 〇 一 ︶ 足 利 頼 純 ︵ 嶋 子 ・ 国 朝 ・ 頼 氏 の 父 ︶ が 逝 去 し て 戒 名 の 龍 光 院 に 因 み 改 称 し 、 歴 代 の 藩 主 御 台 所 嫡 子 な ど の 墓 所 と な り 、 昭 和 二 十八年に龍光寺となった。 〇 旧 道 か ら 次 を 左 へ 入 れ ば 奥 は 武 家 屋 敷 だ っ た 地 域 で 、 建 物 は 新 し い も の に 変 わ っ て い る が 、 門 構 え や 板 塀 な ど 城 下 町 の 面 影 を 残 し て い る 。 そ の 前 に は ⑤ が 流 れ て い て 、 泳 い で い る 大 き な 鯉 は 人 御 用 堀
墓 の 代 歴 家 利 足 の 寺 堀 光 用 龍 御
が 近 づ く と 集 ま っ て く る 。 こ の 御 用 堀 は 防 火 ・ 灌 漑 ・ 飲 料 水 に 役 立 てるため十代藩主が造らせたものである。 更 に 次 を 左 へ 入 っ た 奥 に ⑥ が あ り 、 数 段 を 上 る と 広 場 喜 連 川 神 社 の よ う な 所 に 社 が あ り 、 そ の 向 か い の 石 段 を 上 る と 社 殿 が あ る 。 社 殿から南へ石段を下りると御用堀に出る。 喜 連 川 神 社 は 永 禄 六 年 ︵ 一 五 六 三 ︶ 塩 谷 兵 部 大 輔 ・ 源 惟 朝 が 尾 張 国 津 島 牛 頭 天 王 宮 の 分 霊 を 勧 請 し た も の で 、 塩 谷 ・ 喜 連 川 氏 が 代 々 崇敬してきた。 喜 連 川 神 社 の 隣 に は 瓦 屋 根 に 金 の シ ャ チ ホ コ を の せ た が あ 大 手 門 喜 連 り 、 中 に 入 る と 右 奥 に 町 役 場 が あ っ て 、 西 の 山 の お 丸 山 公 園 は ⑦である。 川城跡 尚 、 お 丸 公 園 の 山 頂 に は 喜 連 川 ス カ イ タ ワ ー と い う 地 上 四 十 メ ー ト ル の 展 望 台 が あ り 、 シ ャ ト ル エ レ ベ ー タ ー が つ い て い る た め 、 短 時 間 で 市 街 地 を 一 望 で き る 。 ま た 、 こ こ に は 日 帰 り 温 泉 や 民 宿 も あ るらしい。
喜 連 川 城 は 、 文 治 二 年 ︵ 一 一 八 六 ︶ に 塩 谷 惟 広 が こ の 地 に 築 城 し た も の で あ る 。 そ の 後 、 古 河 公 方 の 末 え い 足 利 国 朝 を 初 代 と し 、 弟 の 頼 氏 の 代 に な っ て 現 在 の 町 役 場 の 位 置 に 館 が 建 て ら れ た 。 し か し 館は明治九年︵一八七六︶に焼失し、門は平成三年に復活した。 大 手 門 か ら 旧 道 に 出 て く る と 左 角 は 旧 家 ら し い 面 影 が あ り 、 こ の 右 側 辺 り に 旅 籠 や 脇 本 陣 が あ っ た ら し い 。 尚 、 大 手 門 か ら 旧 道 を 越 え 直 進 し た 所 に ⑧ が あ り 、 こ こ に は 喜 連 川 町 指 定 文 化 財 の 弘 慈 光 寺 法大師坐像がある。 〇 呉 服 屋 左 側 の 佐 野 病 院 の 前 を 通 り 、 次 の 交 差 点 の 右 向 か い に あ る は 、 商 家 と し て 二 百 五 十 年 以 上 経 つ ら し く 、 隣 に 立 派 な 建 物 さ さ や の笹沼家が並んでいる。 そ の 先 右 側 に ⑨ が あ り 、 そ こ か ら 左 へ カ ー ブ し て ゆ る く 上 東 漸 寺 る と 、 右 側 の 立 派 な 家 は 高 塩 家 で あ る 。 こ の 名 字 は 宿 場 に 入 る 前 の 旧奥州道中で見た墓地と同じものである。