建設中の城下町 城の近くは重臣の屋敷がと り囲み,その外側に町屋と武 家屋敷が計画的に配置される ことが多かった。 新しく造られた堤防 多くの大名は川の治水 工事を行って,城下を洪 水から守ったり,新田を 開発したりしようとした (→教P.73図⑫)。川を城 の守りに利用しているこ とも多い。 湊 水運の便がよいことも近世 の城下町には重要なことだっ た。 肥だめ 大手門(表門) 基礎石垣を作成してい る。攻め込まれることを 想定して,曲がった位置 につくられている。 普請が完成した二の丸 廃城となった山城 中世には平地や丘の城以外 に,山の上を利用した山城も 多数つくられたが,近世には 次第に利用されなくなる。特 に元和期の一国一城令以来, 大半が廃城とされた。 農具 まだ中世と大きな変化がない。 鉄は貴重なので,先端だけ鉄製。 備中鍬など(→教P.114図⑤)が現 れるのは江戸時代に入ってから。 人々の服装 木綿が普及したが,着物を何枚も持 っているということはなく,つぎはぎす るなど,できるだけ長く着れるようにく ふうをしていた。(『町田本 洛中洛外 屛風』『舟木本 洛中洛外屛風』など) 枡を示す役人 秀吉の時代には,枡 改めにより規格が定め られた枡で年貢を量る ようになった。 村絵図 検地によって調べ られた地図が各村ご とにつくられた。 シュラ(修羅) 特に大きな石を運ぶ ときははやし手が上に 乗って景気をつけた。 炊き出し 工事にかり出されている 人々に食事がふるまわれて いる。 土塀づくり 版築で つくっている。 作事(建築工事)中の本丸 天守(→教P.98図①・②・ ⑤)の柱を組み上げている。 地車(荷車) 刀狩 猟師の銃など,実際に はすべての武器がとりあ げられたわけではなかっ たが,こうした布令が出 たことが,人々の意識を 規定した。 物売り(納豆) この時代の商いは, 人々が店に買いに行く形 式ではなく, 物 売 り が 家々をまわって売るとい う形式だった。わらづと に包まれているのが納豆。 石垣のための石を運ぶ人々 (石運びの様子はいずれ も『築城図屛風』→教P.87 図⑤参照) わらを使った細工仕事 わらじ・みの・笠・俵 など日用品から注し 連め 縄 なわ な ど祭具まで様々な用途に 使われた。
近世①〔16世紀〕
(想像図)
イラスト解説 教科書P.86∼87
読み解き解説→別P.16,他のタイムスリップとの比較→別P.16 授業へのつなぎ方→別P.17 このページを使った授業展開例→別P.18 図中①∼⑩の解説→別P.17 門のまわりの石垣づくり 来城者によく見える部 分のため,意図的に大き な石を用いることも多か った。 井戸 生活に欠かせない井戸も, 城の各所に掘られた。 寺の僧侶 寺を対象とした刀狩が 行われている。中世には 寺が強力な武装勢力とな ることも多く戦国武将た ちを悩ませたが,織田・ 豊臣政権によって,軒な み武力をうばわれた。 頭に物を載せて運ぶ女性 湊に近いので,塩や魚 を行商することができる。 頭に載せるのは,力の弱 い女性。男性はまげなど もあり,そうした行動は とらなかった。 死んだ牛を運ぶ様子 皮加工を行う被差別民(か わた)たち 死んだ家畜 の処理を権利として得て いた彼らは,家畜の皮を 加工し,太鼓などへ利用 した。この絵では構図上, 城下町のすぐ近くに描い ている。 畜舎 地域によっては,馬や 牛は家の土間で飼われた。 検地 不定形の田も長方形に 置き換え,出入りが同じ になるようにして計算し た。(検地の様子や用具 は江戸時代の史料『検地 絵 巻 』( 玄 福 寺, →教 P.96図②)や藤沢市文書 館の『丸山家文書』など から推定) 普請(土木工事)中の三の丸 用水路の排水口 小舞(土壁の下地) この後,土を塗り重ねる。 耐火性にすぐれている。 わら葺き屋根 明治の後も民家の屋根 の主流であった。 検地尺 検地のためのものさしを持 つ役人。各地でちがいのあっ たものさしを秀吉が統一した。 (→教P.96図①) 帯刀 いわゆる「二本差し」 はこの時期からみられ た。槍持ちの中間は一 本。(後に木刀になっ た) 菜園 大根やかぶ・青菜な ど,自家用に食材をつ くっていた。 用水路 画面手前の上流で取 水している。 稲架(はさ) 寺内の祠 特に農村では,寺に神 社が併祀されているのが 一般的であった。 ● ③ ● ⑦ ● ④ ● ⑧ ● ② ● ⑩ ● ⑨ ● ① ● ⑤ ● ⑥この図には,新しい城と城下町づくりの様子, それに,近世初期の農村の姿が描かれていま す。まず,上の方三分の一ほどの部分,遠景に 描かれているのが城と城下町づくりです。中世 の城から近世の城への大きな変化の一つが,そ れまでの土塁の城から石垣の城への変化です。 石垣に使われる石にはかなり大きなものがあり ます。そうした巨石をどのように運んだのかを わかりやすく表現しておきました。画面の中央 近く,そりのようなものに巨石をのせて運んで いますが,これは,修しゅ羅らとよばれるものです。 木のそりと思って下さい。石をのせて丸太でこ ろがしていくのです。つぎに,車にのせ,牛に ひかせている絵があります。ただ,そのころの わが国の道路事情はあまり良くなく,大きな石 をのせた車が道にのめりこんで動かなくなって しまうことが多かったようです。それに代わっ て,人が石を釣って運んだり,かついで運んで いました。 石垣の上に建てられつつある建造物にも注目 してください。これは,天守閣をつくっている ところです。織田信長が安土城に「天主」を建 てて以降,豊臣秀吉の大阪城,徳川家康の江戸 城など,豪華な天守閣がつくられるようになり ました。天守閣は籠城のときの最後の拠点とな るよう位置づけられていますが,むしろ,豪華 に築くことで,相手を圧倒させるとともに,そ の権力の象徴としての意味あいの方が強くなっ ています。 城が築かれると,そのまわりに城下町ができ ます。ここでは塀に囲まれた武家屋敷を描きま したが,そのさらに外側に職人や商人が住む町 人町が形成されます。この絵では田になってい るところも,将来,城下町が拡大されれば,城 下町に組みこまれることになるでしょう。 さて,図の下の方三分の二は農村風景です。 中央部分,棹さおをたて縄を張っている様子が見え ますが,これは検地をしている場面を描いてい ます。編笠をかぶり刀を差している武士らしい 人が何人か見えますが,彼らは検地役人です。 戦国大名の時代の検地は,主にその地の領主の 自主申告による差出検地でしたが,秀吉が全国 的に行った太閤検地以後,検地役人が実際にそ の土地に入り,決められた基準で検地を行うよ うになりました。これを丈じょう量りょう検地といっています。 下の方,塀に囲まれた屋敷の中で,武士が百 姓に枡を渡していますが,これは,年貢収納に あたって,「これからはこの枡を使うように」 といっているところです。ものさしをもつ役人 がいますが,度量衡が統一されはじめた光景を 描いています。 ところで,この想像図には,あといくつか注 目される場面が描かれています。一つは,場面 の左端,河原の周辺です。そこには,革づくり を行っている様子が見えます。町とか村の中心 から少し離れた河原を使って,こうした革づく りが行われていました。革づくりに従事する人 を皮かわ多たといいましたが,死んだ牛馬の皮をはい だりすることから,次第に差別されるようにな りました(教P.103のコラム参照)。 二つめは,右端の光景です。これは,寺に対 する刀狩りの様子を描いたものです。豊臣政権 は,有名な「刀狩令」によって,百姓たちから 武器をとりあげましたが,寺社勢力からもとり あげています。それは,中世の大きな寺院が, 比叡山の延暦寺や紀州の根来寺のようにたくさ んの僧兵を擁していたからです。政治権力との かかわりを否定する施策が行われました。 最後にもう一つ,右端の下の場面に注目して 下さい。そこには,魚などを頭にのせたり,天 秤棒に商品をぶらさげて売り歩いている男女が 描かれています。城下町ができあがったような ところには常設店舗がありますが,農村部はま だこうした行商人たちによる売買が中心でし た。上の方には築城にあたる人足たち相手の仮 店舗のようなものも見えます。 (静岡大学教授 小和田哲男)
近世①〔16世紀〕
(想像図)
教科書P.86∼87
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■「近世①」と他のページとの関連・比較■
●「里」…自然に対する人間の世界の広がり 中世①と近世①は共に農村を描いているが,そ こに広がる空間の広さの違いに注目してみたい。 中世①は谷間の狭い平地であった。中世の生産 力は,大きな沖積平野を開拓する力はなかった。 日本の各地に広がる海岸平野は,広大な手つかず の湿地帯として残されていたのである。関東がと くにそうだったように,人々は山と平野の境目や 谷間の水田を開き,里山に結びついた暮らしをし ていた。各地を結ぶ街道は,山裾に沿って進み, 谷間や尾根筋が人々の交流の道であった。人々は それぞれの地域の生活圏を自分たちの小宇宙とし て生活していた。もちろん遍歴漂泊する人々もい たが,その人々もまた自分たちの世界から自由で あったわけでなく,自然の大きな力は人々の行動 を大きく制約していた。 中世後期から畿内を中心に海岸平野の開拓が進 み,その動きは近世初期にかけて日本列島の様々 な地域に広がっていく。東海道は,各地で山裾の 道が旧道として使われなくなり,海岸沿いの新し い道が整備されていった。 この近世①のイラストは,新しい統一権力がど のようにして人々の生活空間を広げていったかを 生き生きと描いている。日本の各地ではじまって いた新しい時代を求めるそれぞれの動きが,畿内 に成立した政治権力を中心にして,新しいつなが りと広がりをつくり出していったのである。 ●人間社会の新しい秩序…「公儀権力」の登場 近世①の人々の権力関係は中世①とどう違うで あろうか。中世①は領主の人格的支配がはっきり わかる。領主が,いい人であるにせよ,強欲な人 であるにせよ,そこには親方(お館)様とよぶ人 格的な支配・隷属の関係があった。それはまた因 果応報の説話にあるように,繁栄することも没落 することもありうる支配者であった。いまは支配 されている民衆もまた,暴力を含めた実力を用い る才覚と運次第で自分が支配する側に回る可能性 があった。言いかえると,人は「法と秩序の支配」 を知らず,運と因果と実力で世の中と自分を変え ることができる状態にあったのである。 近世に入り,その混乱を勝ち抜いた統一権力は, より広い範囲でより高い生産力を発揮できる社会 を要請され,法と身分の秩序を実現させた。 たとえば,近世①の年貢の徴収では中世①のよ うな対面支配による年貢納入はもはやあり得な かった。そこでは,領地の年貢生産高を図面と数 量で正確に掌握し,全国規模で統計をとれる新し い権力機構ができあがる様子が見てとれる。 私的な個人間の争いは,それが農民であれ大名 であれ,刀狩りと惣無事令で停止され,統一権力 によって裁定された。現代にも通じる法の支配の にない手,「公儀権力」がここに登場したのである。 徳川幕府が私的な大名による力の統治だけであっ たなら,また武士が単なる暴力による支配者だっ たなら,江戸時代は長続きせず,その後の近代化 もできなかったであろう。江戸幕府が,先行する 中国,同時期の欧米諸国と並んで公権力と法秩序 を曲がりなりにも体現したからこそ,この時代を 私たちの時代につながる時代として「近世」とよ びうるのである。中世①との比較 教科書(P.52∼53)
●城下町の成立 近世①は新しい城を平野部に築いている。城の 向こうには,廃棄された古い山城が遠望できる。 16世紀後半から17世紀前半にかけて日本全国で中 世の山城が廃棄され,平野部に城下町が形成され た。現在の日本の主要都市の多くが,この城下町 から発展している。 各地の城下町は,その地域に単独で成立したの ではなく,統一権力の土台である大阪や江戸と結 びついていた。それは沿岸航路の舟運と平野部の 街道整備による列島全国ネットワークの形成よっ て可能になった。この時期に沖積平野が開発され たのは,大阪・江戸と結ぶ舟運・街道の便の良い ところに都市をつくる必要があったからである。 このイラストでも,左上方に港と白帆の船が遠望 できる。 「鎖国」によって海外との自由な貿易は断たれ た一方,安定した政治権力のもとで国内交通と経 済は急速に発展していく。それが100年後の近世 ②の江戸の繁栄を生むのである。近世②とのつながり 教科書(P.112∼113)
④統一された ものさし ③年貢枡を受け 取る農民(男) ①天守閣の築城 ②放棄された山城 ⑤町屋 ▲ 導入として,イラストの天守閣築城に注目させ,その 元祖として織田信長の安土城を紹介する。 天守閣をもつはじめての城は,織田信長の安土城であ る。単なる戦闘のための城ではなく,公儀権力,支配の 象徴として,信長以後秀吉の大阪城,家康の江戸城へと 引きつがれた。また,各地の大名もその地の公儀権力の 象徴として天守閣をつくった。 1615年の武家諸法度で一国一城令が確認され,大名領 国内の城は一つに限定され,他の城は破却された(例外, 脱け道はあったが)。寛永期までは天守閣がつくられて いるが,それ以後は天守閣が焼失しても再建されていな い。幕府が安定し,公儀権力の象徴がなくても,公儀権 力が機能するようになったためであろう。 教科書P.94∼95 信長・秀吉による全国統一
近世①〔16世紀〕
(想像図)を使ってこんなことができる
別P.15で紹介する使い方の他に,図の各部分から通史の授業でこのように活用できます。 また,イラストの①∼⑩は別P.15の中で位置を示しています。 ▲ 導入として,年貢枡を指し,何をやっているのか考え させる。できれば実物の1升枡・1升びんを見せるとよい。 これは「京枡」を使うようにと農民に指示を出してい るところである。それまで全国各地で独自の枡が使われ ていたが,豊臣秀吉は京枡を全国で使うよう命令した。 統一権力の成立に伴い,当時国内最大の市場である京都 で使われ,一番普及していた商業枡を採用したのである。 1升しょうは枡ますが4寸9分(約14.867㎝)平方,深さ2寸7分(約 8.181㎝)である。容積約1,808㎤になる。江戸幕府も枡 座をつくって1669年に当時の京枡のみを公定枡に指定 し,明治政府もこれを引き継いだ。現在の1升もこの大 きさである。尺貫法・貨幣とあわせ,この時期にこうし た度量衡の統一が行われている。1升は1,803.91㎤で, 現在も使われている1升瓶と同じである。 教科書P.96∼97 秀吉の政策による近世の幕あけ ▲ 導入として,城下町の町割り・皮革を扱う人々をイラ ストで探させ,人々の身分がどう表れているかに注目さ せる。 近世初期の城下町の建設では,どの大名も領国経営を 意欲的にきちんとした都市計画から着手した。多くの城 下町が直交した道路を持ち,武家屋敷と町人屋敷が整然 と分けられた。広い屋敷地と築地塀をもったのが武家屋 教科書P.102∼103 身分制度のもとでのくらし⑦ 飼っている牛馬 ・チャボ 裏に引き込む女 幼い子ども ⑧検地の様子を 聞く一家 ⑨作業をする農民 ⑩農民の子ども ⑥ 皮をなめす人々 ─ 6 ─ ─ 6 ─ ▲ 展開として,農民のくらしをイラストから調べ, 農民の身分制度と生活の様子を説明し理解させる。 家に築地があること,牛馬を飼っていることなどから, イラストの農民はこの村を代表する村役人クラスの本百 姓と考えられる。 これが中世ならば,この農民が土豪として武士的な生 活をしていた場合(地侍・国人などと呼ばれる),仕官 し農民身分を捨て城下町に住むという選択肢もあった。 枡を受け取っているということは,そうせずに農民身分 を選んだということである。 おそらく,彼は村役人クラスの有力な農民として,地 域の信望を集めながら日々の農業と村役人としての役割 をこなしていったことだろう。 秩序だち,全国的なつながりをもつ封建制=江戸幕藩 体制は,年貢の徴収や村の中の様々な事件の処理,人心 の掌握などをこのような村役人クラスに任せることで成 立していた。検地帳に基づく年貢の皆済は,村役人の高 度な簿記・計算能力,年貢割付の際の本百姓同士の連帯 と村役人への信頼があってはじめて可能である。 また,この村役人を含む一般の本百姓は,検地で本百 姓に登録された以上,子孫に至るまでずっとこの土地を 耕し,年貢を皆済し,家を存続させていくことが勤めと なる。「孫兵衛」という家は,孫兵衛が年を取れば彼は 隠居し息子が孫兵衛の名をつぐ。個人ではなく家と土地 の存続こそが最大の目的になるのである。家の存続とい う至上価値の前で,男性は世間に対して家を代表し相続 のにない手となる一方,女性は子を産む性として男に従 う役割を押しつけられ,固定されていったのである。 このしくみと価値観は,いまを生きる私たちにも,意 識の深層で大きな影響を与えているのではないだろうか。 教科書P.102∼103 身分制度のもとでのくらし 敷であり,城の周囲に配置される。町屋敷は敷地は狭い が職能別に居住区が分けられ,合理的に配置された。イ ラストでは死んだ牛馬を扱う皮革業の人々が,河畔に集 住している。このことは,やがて「けがれ」意識に基づ く差別意識を,民衆の内部で固定化させていくことにな っていく。このように,イラストからはカースト制度同 様,身分が分業と結びつき,前近代の秩序を形成し,身 分差別として固定されていったことが理解できる。