これまで学んだこと,およびやり残したこと
玉 田 巧
今回名誉会員に選ばれて,大変光栄であると同時に深く感謝したい。
40年あまりの学会活動,さまざまな想いが去来するが,貴学会のご依頼に 応じて,今回はこれまでに関心を抱きかつ研究してきたことと,やり残して きたことを中心に拙文を書いてみたいと思う。
そもそもこの学会にお世話になるきっかけは,当初金融論を志していた私 が1960年代半ば一躍脚光を浴びた 新しい金融理論 に強い興味を覚えたこ と。そ し て,J.
G. Gurleyと E. S. Show両 教 授 に よ る Money in the Theory of Finance
(1960) はじめ多くの関連論文を読み進む中で,アメリカにおける金融仲介機関のうち 最大の機関投資家 や わが国投資者の 巨人 などの叙述から着想を得て,修士論文 生命保険会社の金融機能に関 する研究 を書いたことである。また,当時の㈶生命保険文化研究所に紹介 を賜り,同研究所 論集 にそのエッセンスを寄稿させていただき,さらに,
その論文の内容について当時の明治生命保険会社の財務調査部で熱い議論を させていただいたことである。議論の中心は,銀行のみを対象とした従来の 金融引き締め政策について,金融理論的にも政策的にも当時ホットな課題と された 生命保険会社も預金準備制度の規制対象に加えるべし との規制強 化策についてであった。その根拠は,Gurley╱ Show理論の系論ともいう べき,同じく金融仲介機能を担いながら政策効果を減殺する ループホー
/平成21年3月19日原稿受領。
1) 翻訳書については,桜井欣一郎 貨幣と金融 (昭和38年,至誠堂)。以下,
参考のために,必要な項目につき主要な文献のみを脚注に記載する。
ル (抜け道)をふさぐことであったように思われる。
Gurley╱ Show理論は手短にいえば,①金融機関を銀行中心の貨幣的金
融仲介機関とそれ以外の非貨幣的金融仲介機関に二分し,それらはともに 経済内で貸し手の資金を借り手に橋渡しする という同じ間接的金融仲介 機能を果たす。ただし,ただ一つ異なる点は,前者が流動性では勝る貨幣と いう金融負債を発行するのに対し,後者は流動性では劣るも準貨幣(QuasiMoney
)ないし近似貨幣(Near Money)という金融負債を発行すること。
②経済が成長・発展するにつれて,保険会社や住宅金融会社も含む銀行以外 の金融仲介機関もいっそう発展し,それらの発行する多様な間接金融証券類 が実物資産に比して累積的に増大すること(R.
Goldsmithの金融連関比
率=金融資産╱実物資産:FIRの上昇)。その結果,同比率の水準と趨勢い かんがある国の経済成長・発展の一つの重要なメルクマールとなること。③ 銀行を中心とする貨幣的金融仲介機関による現代の名目貨幣は,民間部門の 最終的借り手の発行証券にもとづく内部貨幣(Inside Money)と海外部 門・政府部門の発行証券と金などにもとづく外部貨幣(Outside Money)か ら成り,これらの両貨幣を含む貨幣供給ベースの金融分析があらゆる現代の 金融問題の解明にとって必要不可欠であること,を内容とする。これら3点につき,こと保険会社に関しての現代的意味合いは,①保険会 社の発行する保険証券が準貨幣または近似貨幣かどうかである。この点につ き,少なくとも言えることは,銀行の有期預金と同様に,長期保険証券につ いては流動性はいささか劣るものの,生保証券の契約者貸し付けや解約価額 はそれに相当し,したがって,②先進資本主義国におけるこれまでの保険の 成長率がおおむね経済成長率を上まわっていたことを考慮したとき,保険証 券を含む非貨幣的間接証券の累増は経済発展の重要なメルクマールであると 同時に,経済における人々の消費行動に大きな影響を与える,と考えられる。
残念ながら,このような点を踏まえたマクロ的金融連関分析は私にとって,
当時私の置かれていた研究環境や資料入手の困難さのゆえに,やり残した課 題でもある。また③に関して近年,奇しくも誤った金融工学(技術)の乱用
による多様な金融商品の氾濫が,潜在的および顕在的な債務不履行を通じる 深刻な信用収縮によって世界規模の金融危機を招来し,さらに,いわゆる 負の連鎖 を通じて,1930年代の大恐慌以来いまだ経験したことのない厳 しい世界同時不況をもたらしている。
続いて関心を抱いたのは,アメリカにおける最大規模の金融仲介機関とし ての生命保険会社の資産選択行動の詳細を知悉することであった。折しも,
科学的な資産選択理論の はしり といわれた
H. Markovitz
の 平均ー 分散接近法 (Mean
−Variance Approach) やW. Sharpeの資本資産評
価 モ デ ル(Capital Asset Pricing Model) な ど のPortfolio Selectionに
関する理論が提起され,当時の大型コンピュータ(現在のそれの計算能力や 性能とは全く異なる)による計算技術の進展と相まって,人間の 勘 に頼 るポートフォリオ選択行動に代わる科学的資産選択行動への実用化が叫ばれ た。そこで,将来におけるこれらの理論の援用を視野に入れた上で,アメリ カの生命保険会社の具体的な資産選択行動を,その重要度に応じて債券,抵 当貸付および政府証券などの個別資産について,時系列的にあるいはクロス セクション的に研究した。とりわけ,生保資金の大規模性とその長期安定性 のゆえに,生命保険会社の資産選択行動の際立った特異性として特徴づけら れる,社債市場における私慕発行(Private Placements) による直接引き 受けや不動産抵当市場における抵当貸付(Mortgage)といった,生保金融 固有の特質を考察した。そしてその成果をいくぶん踏まえた形で, 安全第 1原理 (Safety
−First Principle) やよりソフィスティケートされた 機2) Markovitz,H.M.,Portfolio Selection,Cowles Foundation,1959.
3) Sharpe,W.F.,Portfolio Theory and Capital Market,1970,M cGraw Hill.
4) Shapiro,E.and Wolf,C.R.,The Role of Private Placements in Corporate Finance,1972,Harvad Univ. Press.
5) Roy,A.D., Safety‑First Principle and the Holding of Assets, Econometrica,June1952.
会制約モデル (
Chance
−Constrained Model) を用いての理論分析を試み た。だがしかし,当時の電卓による手動計算によっては,これらの理論のモデ ル分析がはたしてどれだけの実践的価値をもったり,現実を説明できたりし たかは,はなはだ心もとないかぎりであった。現代流にいえば,こういった 理論分析に実際の数字を当てはめ,高性能コンピュータを駆使した高度な実 証分析を行ってはじめて,こういった理論の妥当性や正当性は検証できるの ではないか,と考えるからである。
その後私は,著名な保険学者によるアメリカ生命保険会社の金融行動を包 括的に分析した翻訳書,M.
R. Greene
金融機関としての生命保険会社 の出版(生命保険文化研究所 1987) に恵まれた。この書物の訳出により,世界最大の機関投資家と呼ばれるアメリカ生保会社の金融機能について,よ り広く深く学び,かつ保険金融のすべての領域をいちおう網羅的に調べるこ とができた。
ま た,こ れ よ り 少 し 前,神 戸 大 学 の 高 尾 厚 教 授 と の 共 訳 書,R.
L.
Carter
保険経済学序説 (千倉書房 1984) を出版することができた。原 著は,近代保険が誕生したイギリスで出版された保険経済学に関する挑戦的 意義を有する書物である。その中で,著者はイギリスの保険制度の歴史的発 展のプロセスやその市場組織の特徴を詳細に分析したうえで,さらにリスク 処理に係わる複雑難解かつ特殊な保険サービスとその企業経営活動を,正統 派の経済理論を援用することによって,応用保険経済学(Applied Insur-ance Economics
)を展開しようとした。その際本書をあえて訳出しようと した意図は,わが国では標準的な経済学と深く係る本格的な保険経済学の書 物がほとんどないか,あるいは少ないだけでなく, 保険ムラ と揶揄され 6) Stowe,J.D., Life Insurance Company Portfolio Behavior,JRI,Sep. 1978.
7) Greene,M.R.,Life and Health Insurance Companies as Financial Institutions,LOMA.
8) Carter,R.L.,Economics and Insurance,2nd.ed., 1979,PH Press.
るように,ともすれば保険学関係者間のみにしか通用しない特殊用語(Jar-
gon
)を多用した議論が展開されることが多かったからである。そうした状 況は他の学問分野との交流に困難をきたし,結果として保険学の発展に支障 をきたす,とわれわれは考えたのである。そこでわれわれは,保険現象も社会経済現象のうちの一つと認識して,保 険現象における 一般性 と 特殊性 を意識的に峻別したうえで,保険現 象を現代経済学(ミクロ分析とマクロ分析)の特殊な応用分析対象と理解し,
いわば 学問的共通語 を多用した応用保険経済学の発展に少しでも役立ち たいと考えた。言いかえれば,この種の分析が保険学と経済学一般との間の 相互の橋渡し あるいは 相互の受け入れ構造の発展 (
Orio Giarini
)に 資する,と考えたのである。このような意を体した訳出作業の結果,マクロ 経済分析による保険業それ自体の本質を分析できたり,国民経済的役割を析 出できたりして,これまでの分析にあらたな分析視角を加えることができ た ,と自負する。だが,数学注でうまく導出できた制約条件のもとで,社 会の 安全装置 としての保険制度の経済への新たな導入の国民経済的効果 は,国民所得や資本ストックの増大にヨリ一層寄与することが確認できたが,残念なことに,実証分析を伴わない理論分析のみで,いわゆる 観念の遊 戯 のそしりを免れないかもしれない。これもまた,やり残した課題である。
また,同様な発想から再保険を含む特殊な垂直的リスク分散機構としての 保険市場を取り扱った
Blazenko Model
を利用して,最も合理的なリス ク分散機構としての市場保険制度の存在価値を理論的に析出できたばかりか,さらにすすんで保険制度を運用するための社会的取引コストをもっとも低減 できる保険制度の社会的有用性も確認 で き た。こ の こ と は ま さ に,K.
Arrowのいう 条件付き財 ( Contingent Goods
:特殊なリスク処理サー 9) Cummins,J.D.,An Econometric Modeling of the Life Insurance Sector of the U. S. Economy,1975, Lexington Books. 修 正 拡 張 Cum-minsモデル を用いた比較静学分析は,拙稿 保険制度の国民経済的役割 保険学雑誌 591号(昭和63年)。
10) Blazenko,G., The Economics and Reinsurance,JRI,June1986.
ビス)を経済社会に提供する 保険は,先進国経済にとってかけがえのない ほどの重要な制度である との表現を再確認することにほかならない。し たがって,現代の市場保険とは,すべての経済主体にとってリスク処理の
最後の砦 であると考えるようになった。
その後,偶然の機会を得て,アメリカ・ペンシルバニア州の
University of Pennsylvania
,Warton Schoolでの1年 間 の 海 外 研 修(1992〜93)の
機会に恵まれた。J.
Cummins教授の招聘を得て,Huebner Foundation
はじめ, 保険のメッカ ともいわれる同Schoolで保険学を学ぶことがで
きた。語学上のハンディを克服するため,当初は語学コースに通ったが,保 険学の授業にはとうてい通用せず,苦労した。正直にいえば,他の研究者が 帰国して,外国の研究者とのコミュニケーションを自慢げに語っている姿を 見た時,はたしてそれが本当に真実なのかどうかを疑ったほどである。それ はともかく,後半期間に入って,N.Doherty教授の好意を得て大学院の授
業に参加させてもらった。だが悲しいかな,授業スピードの速さと重要なポ イントのみの解説などのため授業内容は,数学的な表現の一部を除いて,理 解するにはほど遠かったが,高度な内容を短期間で広く深く極めるには,こ うした研究指導態勢は有効だと,あらためて感じた。さらに,同教授との交 わりの中で強く印象を受けたことは,彼の着想の原点を聞き出すことができ た点である。すなわち, あなたのオリジナリティーに富む発想と精緻な理 論化はどのようにして形成されるのか? との問いに対して,彼は, 現実 に生起する現象について,まずもってもっとも重要なエッセンスはなにかを 懸命に摑み,次に自分の持つ理論フレームワークにその本質を組み込んで,その後試行錯誤を何回も繰り返して理論モデルの完成をめざすのだ! と。
この答えは, 理論のための理論 ではなく,現実に根ざした理論構築がこ の経済社会に生起する諸現象を的確に解明でき, 理論なき制度 や 理論 なき政策 の空虚さを指摘したものとして,強烈な感銘を受けたことを私は
11) Arrow,K.J.,The Theory of Risk Bearing,1971,M arkham Publi- shing Company.
思い出す。
以上のような英米流の応用保険経済学を学んだ後,次に高尾厚教授をキャ ップとする関西保険研究会の数人のメンバーの一人として,私は次の三つの 研究会,すなわち,①ドイツ保険学界の重鎮,D.
Farny
,Versicherunngs- markte,
1961,および②古典的大著D. Farny
,Versicherungsbetrieblehle,
1995,さらに③ドイツ人の保険理論学者R. Eisen
,Die Theorie der Ver- sicherungsvergleich,
1979の翻訳分担 に参加することができた。保険学者 でなく,保険学徒ないし教育労働者を自認する私にとって,これらの研究会 と参加メンバーとの議論は,保険について私の知らない知識を得る絶好の機 会となった。改めて高尾教授はじめ参加メンバーおよび同研究所の主任研究 員の方々に対して,深く感謝するしだいである。そのお陰で私は,保険制度 と保険サービス(商品)の 一般性 と 特殊性 との境界領域がより鮮明 になり,とりわけ不確実性やリスクにかかわる保険制度と保険商品の特異性 をいっそう深く認識できた。この研究会での知見が役にたって,その後私は次のような考え方を持つよ うになった。すなわち,⑴保険業は,同じく金融業界の中にあっても,それ なりの固有の役割を果たさなければならない。すなわち,自由化以後の金融 同質化がいかに進む流れのなかにあっても,効率性のみをひたすら追求して 生き残りをかけるあまり, 本来の確率付き保険商品 から逸脱して 保険 付き金融商品 などに急傾斜しないこと,つまり保険業固有のリスク引き受 け商品を保険業たるものはその中核(コア)業務に据えなければならないこ と,および⑵.以下で述べるように,特に金融自由化以後の近年,保険業を 含む金融業界を取り巻く環境条件の激変の中にあって,保険企業のいくらか はとにかく環境変化に乗り遅れまいとした 過剰適応 のケースが目立ち,
環境への 適正適応 を欠く結果,ひいては企業活動の停滞・不振・破綻を
12) ①D. ファーニ 保険市場論 (1991),②同じくD. ファーニ 保険経営 論 (1994〜99),および③R. アイゼン 保険市場均衡論 (2001),の いずれも生命保険文化研究所刊。
招来するケースが多見されることである。これらの2点は,保険経営それ自 体の課題,つまりガバナンスの問題でもあるが,同時にまた,その背後にあ る保険監督行政の方向性の問題にも関連する。いずれにしても,急激な環境 変化に対して保険企業の経営課題は過大に適応しすぎてもいけないし,また 過小に適応しすぎてもいけない,ということである。具体的には,このよう な環境変化に対して大胆にして無謀にすぎる 悪乗り ないし 超攻めの経 営 や, 乗り遅れ ないし伝統に固執する 守りだけの経営 ではなく,
肝要なのは妥当にして適正な環境適応である。問題は,この 適正 ないし 最適 概念のレベルがどのような理論で確定できるのかである。少なくと も言えることは,既存の経済学の 効用 概念などの諸概念からこの 適 正 概念はおそらく導き出せず,他の学問分野からの成果に待つほかないの ではないか,ということである。
この種の議論は,今日の深刻な不況にも関連して当てはまると思われる。
昨年秋以降,アメリカに端を発した金融危機は世界中の金融制度に波及して,
金融システム全体を崩壊の淵に導き,欧州やわが国の金融制度ももちろんの こと,保険企業も含むアメリカ大手金融グループの大部分も存亡の危機に直 面している。これらは,表面的には住宅バブルの崩壊とサブプライムローン の大量の焦げ付き,および同ローンを巧妙に溶かし込んだ複雑難解な金融商 品や金融損失保証スワップ(CDS=Credit Default Swaps)の乱売など,
アメリカ政策当局の監督規制の失敗がその根底にはあるものの,究極的には 各金融機関の環境適応行動の不適正や失敗が深く係っている。こういった現 象も,激変した環境に対する上述の 過剰反応 ないし 過大適応 の1例 と考えられる。
そればかりか,かつて70年代後半〜80年代初めにかけて,アメリカで準大 手の伝統的生命保険会社2社を含む計6社が経営破綻した事例や,またその 後の行き過ぎた規制緩和の反動後の規制再強化期にも,過剰適応の事例が見 受けられた。すなわち,金融自由化の 光 と 影 といわれるように,ほ とんどの会社は,競争環境の激変のもと効率性の徹底的追求と生き残りをか
けて,(商品面では)ユニバーサル保険の拡販や(資金運用面では)リスキ ーなジャンクボンドに集中投資した結果の破綻であった。当時の金利高騰時 の監督行政の不備もあって(金利規制下の
Disintermediation
といわれるも とでの),こういった企業行動は一見合理的なものに思われた。だがしかし,以上の議論からみるかぎり,こうした行動がはたして適正な環境適応行動で あったのか?。答えは,Noである。環境変化にあまりにもうまく適応しす ぎた(過剰適応の)結果,そのことがかえって失敗を重ねることになった,
といわざるをえない。言いかえれば, 環境適応のパラドックス に陥った,
と私は考えるのである。
最後に行ったのは,H.
Macmillan and M
.Christphersの 生命保険
業の戦略的課題 (2002 旧生命保険文化研究所) の全訳作業であった。同 原典は,1980年代後半〜90年代前半期にかけてのイギリス金融業界における,いわゆる 金融の自由化 と金融サービス法制定以後のイギリス保険業界の 苦境と変革をあぶり出し,さらに21世紀の保険業を展望した戦略的保険経営 論である。この種の書物を単独で訳出したことは,言い表しえない苦労があ ったものの,これまでに知りえなかった,まったく新しい知識と分析視角を 得る絶好の機会を持つことができた。
以上のように,私は当保険学会での多くの先輩・同僚・後輩,そして旧生 命保険文化研究所などのメンバーの皆様のご教示とご支援に恵まれて,単独 ではとうていなしえない研究活動を行うことができた。この点で,私はこれ らの人々に対して心から御礼を申し上げたい。ただ心残りは,次の3つの研 究課題をやり残したことである。その1つ目は,わが国保険業の将来展望に とって重要な要因である超少子高齢化社会と人口減少社会の到来を見据えた 課題である。その課題とは,徐々に進む経済成長率の鈍化とそれに伴う所得 水準や資産蓄積水準の伸び率の低下がわが国の生命保険と損害保険の両業界 に今後いかなる影響を与えるのか。とりわけ,両業界を支えるフローとして
13) M acmillan,H.and Christopher,M.,Strategic Issues in the Life Assurance Industries,1997,Butterworth Heinemann.
の全般的経済活動水準(GDPなど)やストックとしての保有資産水準(国 富など)の将来見通しがいかなる推移を示すのか,そしてそれらの要因がた だでさえ低いわが国の人びとのリスク感応度(Rink Attitude)にいかなる 影響を与えるのかが懸念される。2つ目は,人びとの長期にわたる生活設計 問題に関する理論分析である。すなわち,人々はまずその資源を消費と貯蓄 とに分割し,そして将来生活保障のためにその貯蓄資源を公的保障と私的保 障とにいかに最適配分するのか,さらにその私的保障のための資源を保険や 年金とそれ以外の資産とにいかに最適配分するのか,という3段階にわたる 長期的な生涯ポートフォリオ選択の理論分析の取っかかりをやり残したこと である。これら一連の理論分析は,経済学以外の学問分野での理論成果を巧 みに取り込んだ協働研究に待つほかない。いずれにしても,これら2つの問 題は,簡単に解決できる課題では決してないが,常に必要にして,必ず取り 組まねばならない喫緊の課題でもある。3つ目は,広く 倫理観の欠如 と 訳される モラルハザード (
Moral Hazard
)に関する研究である。この 概念は本来,不確実性に支配されるこの経済社会で,リスクに係る 情報の 不完全性 や 情報の偏在 を前提とした 保険学 や リスク学 に始ま る用語である。この概念こそ,官民にわたる近年の保険金の不払い問題はじ め,社会で生起するほとんどすべての不祥事や不条理な事件をきわめて明快 に説明できる 学問的共通語 である。このキーワードを用いて, 不確実 性の経済学 や 情報の経済学 の成果を取り入れた幅広い新たな学際的理 論分析もまた新しい学問的フロンティアであり,やり残した課題でもある。だが,理論分析は往々にして 机上の空論 や 観念の遊戯 に陥りやす い。したがって,理論分析はそれ自体 自己満足 的空論であってはならず,
つねに現実との緊張関係に根ざした議論でなければならないことに再び注意 を喚起したい。 事例は原理に具体性を与え,原理は事例に一般性を与える
(
Instances give concreteness to principles; principles provide general- ity to instances
)(H.M. Markovitz
,op. cit
.,p
.53)からである。(筆者は元大阪商業大学経済学部教授)