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薄 陽 さ す 日 々 1 青 年 記 者 が 見 た 三 重 吉 と 第 二 次 「 赤 い 鳥 」 ー

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薄陽さす日々

1青年記者が見た三重吉と第二次﹁赤い鳥﹂ー

︑はじめに

 一九一八︵大正7︶年七月︑鈴木三重吉が創刊した﹁赤い鳥﹂は︑﹁日本児童文学界に新しい童話童謡時代を築きあ

     げた﹂画期的な児童雑誌と評価される︒同誌は二九︵昭和4︶年三月号をもって一旦休刊ののち︑三一︵同6︶年一

月に復刊され︑以後三六︵同H︶年一〇月の三重吉追悼号まで計一九六冊を発行した︒

 二〇年近くに及ぶ﹁赤い鳥﹂の歴史は︑主宰者である三重吉はもちろんのこと︑彼を助け︑支えた編集助手‖記者た

ちの力で維持されたと言ってよい︒その一人であり︑同誌最後の記者として︑晩年の三重吉と最も近いところで過ごし

たのが森三郎である︒一九一一︵明治44︶年︑愛知県碧海郡刈谷町︵現刈谷市︶に生まれた彼は︑創刊以来の﹁赤い鳥﹂

愛読者であった︒復刊後は童話の投稿家として活躍後︑三二︵昭和7︶年六月に記者として﹁赤い鳥社﹂に迎えられ︑

内弟子として作家修業のかたわら編集に従事した︒入社時の森は二一歳︒駆け出しの青年記者が捉らえた﹁赤い鳥﹂と

三重吉︑および彼をとりまく人々の様子は︑戦後いくつかの論文や随筆にまとめられることになるが︑その一つに﹁鈴

木三重吉研究﹂.︵以下︑本稿では﹁研究﹂と省略︶と題された一連の文章がある︒これは雑誌﹁新文明﹂に五八︵同33︶

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年九月から六〇︵同35︶年九月まで︑正続あわせて二〇回にわたり連載されたもので︑三重吉とその周辺を思い出すま

まに綴った随筆である︒表題等の詳細は末尾の別表を参照されたい︒﹁新文明﹂は︑和木清三郎が小泉信三の後援を得      て五一︵同26︶年九月に創刊した月刊文芸誌で︑七〇︵同45︶年︑和気の死去により終刊するまで︑小泉をはじめと

する慶応義塾関係者が多数参加した︒桑原三郎氏によれば︑五五︵同30︶年から五七︵同32︶年にかけて︑同誌に﹁三

重吉研究ノート﹂を連載していた氏が︑三重吉の長男である鈴木珊吉氏を介して森を知り︑当時の慶応幼稚舎長で和木       ヨ とも親しかった吉田小五郎を通じて連載が実現したものという︒

 記者による﹁赤い鳥﹂回想としては︑同誌の三重吉追悼号︵昭和=年一〇月号︶所収論文を鳴矢として︑野町てい

子﹁﹃赤い鳥﹄と私﹂︑曲豆田三郎﹁﹃赤い鳥﹄の落第記者﹂等を収めた﹃赤い鳥代表作集3・後期﹄︵小峰書店︑同三三年

二月︶︑﹃解説﹁赤い鳥﹂複刻版別冊・2﹄︵日本近代文学館︑同四四年二月︶︑小説の形で発表された小島政二郎﹃眼

中の人﹄︵三田文学出版部︑同一七年=月︶および﹁馳風の眼のやうな﹂︵﹁小説新潮﹂同二九年=月︶などが広く

知られる︒森もまた︑先の﹃赤い鳥代表作集﹄に﹁私の記者時代﹂と題する思い出を執筆しており︑同時代の証言とし

てたびたび引用︑紹介されてきた︒一方︑﹁新文明﹂が同人誌的な色彩の強い雑誌であったためだろうか︑内容の上で﹁私

の記者時代﹂と補完的な関係にある﹁研究﹂の方は存在を知る人さえ少なく︑度々編まれてきた﹁赤い鳥﹂研究文献一      ユ覧にも洩れていることが多い︒

 森は︑三重吉亡きあと︑戦中から戦後にかけて新美南吉︑平塚武二︑坪田譲治らとならんで﹁赤い鳥﹂出身の童話作

家として活躍した︒昭和三〇年代は︑彼が童話から遠ざかり︑代って記者時代の回想的随筆へと推移する時期にあたる︒

加えて﹁研究﹂発表時の彼は︑自身が師事していた頃の三重吉と同世代であった︒いきおい︑文中には青年時代の視点

と︑当時を振り返り︑自らのなかに位置付けようとする執筆時の視点が交錯して︑複雑な陰影を生み出している︒小稿

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では︑いささか資料紹介の側面が強くなるかも知れないが︑﹁研究﹂に寄り添いつつ︑かつての青年記者が捉らえた︑

復刊後の﹁赤い鳥﹂と晩年の三重吉をめぐるいくつかの様相について整理︑検討してみたい︒

二︑淋しさ1孤立する﹁赤い鳥﹂

 あるとき︑ある読者が﹁赤い鳥﹂の購読を中止する旨を手紙で言つてきたが︑その後に﹁赤い鳥﹂の悪口が並べてあ      ママつた︒﹁藤井清水氏のごときよき作曲者を迎へてゐないこと︑主宰者鈴木三重吉氏を態度が創作的でないことー﹂︵中       ママ略︶﹁おれの態度が創作的でない?何を言ひやがる︒森三郎がゐらあ﹂と先は言つて下すつたが︑やはり淋しかつたで

あらうと思はれる︒       ︵﹁田舎鶯﹂66頁︶

 ﹁研究﹂全体を通して浮かび上がる三重吉の一面は︑﹁淋しい﹂という言葉に象徴される︒待合からの帰途︑森の後

ろ姿に挙手の礼をする﹁大きく見開かれた﹂﹁強く悲しげな﹂目︵﹁銘酒﹃あこがれ﹂﹂76頁︶︑酒席で清水良雄にたしな

められて見せた﹁老人のやうな淋しい笑ひ方﹂︵﹁リリアン・ハーヴェーの唄﹂84頁︶︒童話の弟子である木内高音を前に︑

学生時代の思い出を自嘲気味に語る三重吉の態度もまた︑森には﹁淋しさうであつた﹂と映る︵﹁草の花﹂86頁︶︒

 小宮豊隆はコニ重吉のこと﹂と題した追悼文のなかで﹁憎み切るには三重吉は︑あまりに弱かつた︒且つあまりに淋      らねしかつた﹂とその人柄を振り返る︒さらに︑三重吉も自らの心境を表現する際︑たびたび﹁さびしい﹂という言葉を      用いている︒例えば︑一九三一︵昭和6︶年=一月二七日︑小平重紀宛書簡では︑﹁児童のために読物をかいてくれる

作家が殆ゐない﹂ことを嘆いたあと︑﹁赤い鳥﹂の存続をめぐって次のように記している︒

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 私が病気をすれば休刊のほかはありません︒私が死んでしまつたら︑だれが子供のために私のやうな努力をしてくれ

るだらうと考へますと︑とてもさびしい気がします︒いつも︑さびしい気持でゐるので^何故だらうと考へると︑今申

したことが心に浮びます︒

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 ﹁私が病気をすれば﹂﹁私が死んでしまつたら﹂と︑死を予感するかのような言葉が綴られていることに注意したい︒

清水良雄や木内高音︑そして青年記者の森に見せた淋しさは︑若い人々を前にして︑自らの老いに直面せざるを得ない

三重吉の心情の反映ではないだろうか︒酒席で﹁おれが死んだら︑はまに毎月二十円だけやつてね︒本当の二十円でい

いから﹂と冗談まじりに言い︑﹁死人の笑ひのやう﹂な淋しい表情を見せることもあったという︵﹁キリタンポ﹂76頁︶︒

休刊中の一九二九︵昭和4︶年に左大腿骨を折り︑翌三〇︵同5︶年早々には肺炎を病んで﹁アブナく命をとられると

     ハァ ころだつた﹂彼は︑復刊に際して﹁このおもひがけなく寄与された残りの命は︑一とう意味ぶかい仕事に使はなけれ        ぎ ばならないとおもひ﹂と決意を記すのである︒

 しかし︑第二次﹁赤い鳥﹂は︑すでに準備段階から作品不足に悩まされていた︒﹁森林太郎︑泉鏡花︑高浜虚子︑徳

田秋聲︑島崎藤村⁝︵中略︶の諸氏を始め︑現文壇の主要なる作家であり︑又文章家としても現代第一流の名手として

権威ある多数名家の賛同を得﹂︵﹁撞聴繋最初の文学的霧﹂︶ての発行を高らかに謳った創刊時とは異なり復刊

後の同誌に著名な作家の名前はほとんど登場しない︒準備中の構想としては︑文壇作家のほか﹁ひろく文化人を起用執       す 筆してもらおうという﹂方向が確認されたといわれ︑小川未明︑有島生馬︑岸田国士︑宇野浩二︑井伏鱒二︑木村毅︑       ロ 下村千秋︑浜田広介︑大仏次郎などに執筆を依頼したらしい︒しかし実際の誌面には︑復刊第一号に童話﹁王様と靴

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       ユ直し﹂を発表した宇野浩二のほか︑下村千秋︑井伏鱒二ら数名の名前を見るに過ぎない︒個々の作家に目を転じると︑

約束のみに終わったケースもあるが︑書き上げた作品が三重吉の目に叶わず︑掲載が見送られた例も少なくない︒例え

ば小川未明の場合︑三〇︵昭和5︶年一一月中旬︵推定︶福富高市宛書簡に﹁小川未明君なぞ三四名の人のものが拙く       ゼて︑みんなバネのけた﹂とあり︑森もまた︑﹁文壇の連中は︑どうして童話を書かうとしないのかなあ﹂と不思議がる

三重吉の言葉を振り返る一方で︵﹁赤い鳥をたつねて﹂59頁︶︑﹁復刊の折︑先生は小川未明氏に童話を頼まれたのであ

つたがややイデオロギーの臭ひの感じられるものであつたので︑﹃赤い鳥﹂には出ないでしまつた﹂と書く︵﹁草の花﹂       ニ

85ナ︶︒同じ福富にあてて﹁一月号は十名の作家がすつぼかし︑あんなヘマな内容となる︒﹂と三重吉が書く時︑﹁すつ

ぼかし﹂には二重の意味が潜んでいたと受け取るべきであろう︒

 ﹁イデオロギーの臭ひ﹂の言葉に明らかなように︑すでに隆盛期を過ぎていたものの︑当時はプロレタリア文学運動

の余韻が強く残っていた︒﹁赤い鳥﹂もその例外ではなく︑子どもから届く投稿が予め検閲されていたと言われる︵﹁草

の花﹂85頁︶︒時代はおりしも﹁少年倶楽部﹂に代表される講談社ジャーナリズムの全盛期であり︑児童文学をめぐる       き状況は︑先駆者の栄光に彩られた創刊時と大きく異なっていた︒復刊後の﹁赤い鳥﹂が︑定期購読者を募り︑直接頒

布する会員組織を採用していたことは広く知られる︒既成の書き手たちに絶望した時︑三重吉の目は﹁愛読家﹂と呼ば

れるこの支援者たちに向けられた︒コ人でくたぶれるので十月号十一月号には吉田絃二郎君にかいて貰ひました︒︵中

略︶君も何かかいてくれませんか︒謝礼は安いが︑君のい・ところを出すのを目的にかいて下さい﹂︵昭和九年八月二

五日︑木内高音宛書簡︶︑﹁十一月号︵十月一日発行︶にのせる入選童話がなく困つてゐます︒至急一二篇お送り下さい﹂      へま︵同六年八月一七日︑今井鑑三宛書簡︶等から︑弟子や熱心な投稿家たちへの原稿依頼が日常化していた様子を知る

ことができる︒第二次﹁赤い鳥﹂は︑読者と三重吉との同人誌ないし親睦誌的な雑誌として︑周囲から孤立した状態で

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淑徳国文37

再出発したのである︒

 孤立は︑自らと相容れないものを排除した結果であった︒創刊以来の盟友︑北原白秋もまた︑一九三三︵昭和8︶年      び四月号を最後に﹁赤い鳥﹂を去る︒息子ほど年の離れた森に﹁君だけは俺の味方だ﹂︵﹁リリアン.ハーヴェーの唄﹂

田頁︶と眩いたのは︑この頃であったろうか︒閉鎖的とも言える状況の中︑それでも三重吉は﹁赤い鳥﹂の編集に心を       ロ 砕き︑苦しい経営をやりくりしながら︑発行を維持すべく努力を続けている︒そのひとこまは﹁研究﹂中に︑﹁﹃きみ

には童謡は書けないか?﹄と先生が聞かれたことがある︒私は先生の言葉を真面目なものとは受けとらず︑黙つて笑つ

ただけであつた﹂︵﹁烏の櫛﹂25頁︶と記される︒この依頼は実現せず︑白秋との絶縁後︑童話と並ぶ大きな柱であった

童謡は﹁赤い鳥﹂から姿を消す︒そして︑童話︑童謡のほか児童劇や遊戯に関する記事を揃えていた復刊直後の誌面は︑

白秋とその門下生たちが去って後︑急速に平板化していく︒以後︑投稿童話と児童綴方に偏りがちな中で︑絵話の募集

(昭a八年九丹号︶やフランスの児童作口凧の掲載︵同一〇年五月号〜六月号︶︑戦記の採用︵同=年二月号︶や科学

読物の復活︵同一一年五月号〜︶等々︑単調な誌面に変化をつけようとの工夫が続けられている︒

 小宮豊隆は前出﹁三重吉のこと﹂の中で︑淋しさを紛らわそうとすればするほど︑結果としてますます淋しさを増幅

させていく三重吉の性癖を指摘している︒小説の世界からも︑児童文学の潮流からも離れて︑﹁赤い鳥﹂へ熱意を注げ

ば注ぐほど︑三重吉は淋しさを募らせ︑それゆえ唯一のよりどころである﹁赤い鳥﹂へと再び心を傾けていかざるを得

なかったのであろう︒誌上には︑毎号のように誌代払込の督促が掲載されるかたわら︑﹁お話に変化が乏しい点﹂を焦       ロ 慮口︑創刊以来の﹁苦闘﹂を振り返りつつ﹁まだく屈しない勇気をもつてゐます﹂と自らを鼓舞する三重吉の姿を

見出すことができる︒

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三︑なつかしさー﹁赤い鳥﹂の輪

 先生と奥さんとすず子さんとで︑深沢省三氏のところへ遊びにいかれたことがあつたが︑吉祥寺の駅で下りられたと

きは︑浦然たる大雨であつた︒しばらく待合室で雨を見ていられたが︑止みさうにもないので︑そのまま引返してこら

れたのであつたが︑﹁深沢のとこへなんかいかないで︑ここでかうして雨を見てゐりやよかつたのう﹂机の前に坐つて︑

まだ降り続けてゐる庭の雨をガラス戸越しに眺めていられた先生は︑私には懐しいあきらめの浪人であつた︒

       ︵﹁リリアン・ハーヴェーの唄﹂83頁︶

 先生は︑自分で選定された

かしい人であつた︒

﹁自分の味方﹂

 マ   マの三十四人の人たちを︑楯のやうに自分の心にめぐらせて生きられるなつ       ︵﹁狐の笑ひ﹂68頁︶

 広島の幼友達の﹁白色の輪﹂︑小宮豊隆︑森田草平︑野上豊一郎ら漱石門下の﹁紺色の輪﹂︑清水良雄︑鈴木淳︑深沢

省三︑成田為三ら画家や音楽家の﹁赤い色の輪﹂︑白秋︑久保田万太郎︑豊島与志雄︑小川未明など寄稿家たちの﹁緑

色の輪﹂︑小林哲五郎︑藤田孝子ら熱心な支持者の﹁紫色の輪﹂︑小島政二郎︑木内高音︑平塚武二ら弟子たちの﹁褐色

の輪﹂ー1森は︑三重吉ゆかりの人々を︑色の輪になぞらえる︵﹁褐色の輪﹂83頁︶︒外側に対して淋しさを募らせるほ

ど︑親しい人々への思い入れは強まっていったのであろう︒﹁研究﹂は一方で︑﹁﹃これはいい人間だ﹄と思われると︑

その人への好意の線をどこまでも延していつて︑心の楯にまで結びつけてしま﹂う︵﹁狐の笑ひ﹂69頁︶三重吉の︑な

つかしく︑穏やかな表情を描き出している︒青木健作とともに﹁しつかに机の上の植物図鑑をとつて︑つつましい草の

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花などに二人で見入つていられた﹂︵﹁草の花﹂84頁︶様子︑﹁安つぽいカフェー﹂でビールを飲みながら︑猫と戯れる

森を﹁しつかに微笑んで見て﹂いる﹁優しい父﹂の顔︵﹁貸間探し﹂44頁︶︑森が童話﹁笛﹂︵昭和八年二月号︶を書い

た際の︑﹁いいものを書いてくれた﹂との﹁光りでも浴びたやう﹂な喜びよう︵﹁同﹂44〜45頁︶︒そこには︑小島政二       郎の小説﹁睨み合﹂に対して︵﹁人でも変ったか﹂のように﹁微に入り細を極わめ﹂﹁意地の悪いアラ探し﹂をした頃

とは遠く隔たった三重吉の姿がある︒

 ところで﹁赤い鳥﹂では︑一九三二︵昭和7︶年=月号より︑エクトル・マロ原作﹁ルミイ﹂の連載が始まってい       むる︒これは晩年の三重吉が︑﹁原語からの最初の完訳の下地を作るつもり﹂という大きな意欲をもって取組んだ作品で

あった︒﹁研究﹂には︑連載の動機に関連して次のような記述が見られる︒

 ﹁ルミイ︵家なき子︶﹂は先生の死によつて︑遂に完成を見ないでしまつたのであつたが︑これも私が精華書院版の

楠山正雄氏の英訳を持つてきて︑先生に勧めたのであつた︒この方は﹁アルプスの山の少女﹂よりは先生の気に入つて︑

原語から訳されることになつたのであるが︑最初は楠山氏の訳本を机の上に置いていられて︑ときどき比較されてゐた︒

      ︵﹁烏の櫛﹂21頁︶

 引用中の精華書院版とは︑一九二一︵大正10︶年に出版された楠山正雄﹃家の無い児﹄︵世界少年文学名作集17︶で

あろうか︒タイトルを﹁前へ ︵前進︶﹂とする案もあったが︑﹁プロ小説のやうなその題は先生の気に入らず﹂見送られ

たという︵﹁烏の櫛﹂22頁︶︒引用からは︑森が﹁ルミイ﹂の他︑ヨハンナ・スピリ﹁アルプスの山の少女﹂の再話を勧

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めたことがわかる︒持参したのは野上弥生子訳︵精華書院版︶であったというが︑﹁冒頭でハイヂを山の上のお爺さん

の所へ連れていく女と︑途中で道つれになつた女との会話によつて︑ハイヂの身の上を読者に説明する手法の古さが︑

先生にたちまち本を閉ぢさせてしまつた﹂︵﹁同﹂20頁︶とされる︒

 ここには︑﹁何を書くか﹂よりも﹁いかに書くか﹂を重視する三重吉の文学観が端的に現われていよう︒藤尾健剛氏は︑

三重吉の小説に隠喩的手法が多用されている点に着目し︑小説家としての彼の主眼は︑﹁人間や人間の織りなすドラマ﹂

や﹁人間それ自体や人間生活の諸相に対する探究﹂ではなく︑﹁鳥や花のメタファー﹂もしくはそれらが喚起する﹁イ      ヵ メージや情緒﹂を描くことにあったのではないかと指摘している︒この姿勢は︑小説から童話に転じた後も保持された︒

﹁研究﹂には︑﹁今どきおれの小説なんか読む奴はばかだ︒童話の文章の方がずつといいのに︒尤も﹃八の馬鹿﹄なら︑

今でも通用するかもしれないがね﹂︵﹁赤い鳥をたつねて﹂59頁︶という言葉が紹介されており︑森は﹁童話は文章だけ

だ﹂が﹁理論で固めない先生の童話観であつた﹂︵﹁こげた飯﹂83頁︶と位置付ける︒三重吉にとって︑文学とはそのま

ま︑手法や表現をも含めた﹁文章﹂であった︒そして︑童話作家として純然たる創作ではなく︑世界名作や伝承の﹁再

話﹂という形式を選択した結果︑こうした彼の文学観はより純化され︑強固なものになっていったと考えてよい︒

 ところで﹁ルミイ﹂と並んで︑復刊後の三重吉の仕事として評価されるのが︑﹃綴方読本﹄︵中央公論社︑昭和一〇年

一二月︶を集大成とする作文‖綴方指導である︒﹁八月上旬に出発して宮城県の仙台︑石巻︑白石︑新潟県の新潟︑村上︑

村松など・いふところで立て続けに講演をします︒一ケ所で三四時間づ・喋りまくり綴方について噛んでふくめるやう      お に教えてやりますと︑たいていまゐつて会員になります﹂とあるように︑三重吉は読者の獲得と啓蒙を目的として︑

休刊中から各地の小学校で講演会を開いており︑復刊後も︑会員の勧誘は主に講演の席上で行われた︒また︑一九三四

︵昭和9︶年一月の小宮豊隆宛書簡には﹁赤い鳥︑会員六千︒会費滞納五千円︒全三年間に未払のま・やめた奴二千人︑

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       ヨ 金額四千円︒これが九分まで小学校の先生だから驚く﹂とあり︑復刊後の﹁赤い鳥﹂読者︑支援者として︑教師層が

かなりの割合を占めていた様子を推察することができる︒

 ところが︑森の童話作家としての立場が微妙に影響しているのであろうか︒﹁研究﹂に描かれた三重吉の綴方への取

り組みは︑意外に醒めていて驚かされる︒例えば﹁長く書いてやるほど喜ぶ教師のために﹂毎月の選評執筆に苦しむ様

子は︑次のように回想される︒

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 ﹁今度の選評はちつともよくない︒﹃生きをどつてゐます﹄ばつかりで﹂書き終つたそれを私に渡されながら言はれ

るのであつた︒体の調子のよくない折など︑﹁書くには書いたが︑何が何やら分らなくなつちまつた︒君直してくれ﹂

と言はれることもあつて︑私はくすぐつたい思ひにさせられた︒       ︵﹁キリタンポ﹂75頁︶

 三重吉は︑投稿家はもちろん︑文壇の作家たちが寄稿した作品にも加筆添削したことで知られる︒反面︑子どもの綴      お 方には補筆しなかったとされ︑書簡にも自らそう記している︒しかし実際には︑流行歌の﹁野卑な﹂詞など﹁お座へ

出されない部分を削られることはあつた﹂︵﹁田舎鶯﹂63頁︶︒また﹁研究﹂中には︑豊田正子の綴方﹁浪花節﹂︵昭和九

年七月号︶に出てくる﹁登録仲間﹂の意味がわからず困っていた︑との思い出も紹介されている︵﹁褐色の輪﹂85頁︶︒

 これらのエピソードは︑童話における﹁いかに書くか﹂の姿勢が︑綴方指導においても評価の大きな基準として存在

していたことを物語っていよう︒﹁綴方指導者を指導する世界には︑目のあいたものは小生一人なり﹂︵昭和一〇年一二

月三日︑小宮豊隆宛書簡︶︑﹁綴方の世界にはオレよりエライのがゐないのだから心細い﹂︵同年一二月二六日︑井本健

    ハお 作宛書簡︶と自負し︑﹁人間教育主義﹂を標榜した三重吉であるが︑彼の綴方観の中心に揺るぎない位置を占めたのは

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       ハ こやはり﹁文芸的価値﹂であった︒大藤幹夫氏は︑休刊前の︿文学的﹀運動を目指したあり方に対し︑復刊後の﹁赤い鳥﹂       は︿教育的﹀方向が強化されたと位置付ける︒誌上に掲げられた﹁標榜語﹂の違いや再話に対する姿勢の変化など︑

誌面には確かに文学から教育へという方向が見られる︒しかし︑引用から見えてくるのはむしろ︑支援者としての教師       おザたちの存在を充分に意識しながらも︑教育と文学とのはざまで苦慮する文学者としての三重吉の姿であると言えよう︒

四︑おわりに

      ゐべ ﹃綴方読本﹄の出版と前後して︑三重吉の体調は急激に悪化していく︒鈴木はまの回想によれば︑一九三五︵昭和10︶

年末から横臥が困難になり︑明けて四月には大好物であった酒すら口にできなくなって︑疹痛に苦しむ日々が始まって

いる︒ 先生の幸福にも死は迫りつつあつた︒赤い鳥社の庭にご自慢の百合の花1﹁今年ばかり﹂のその花のつぼみが脹れ

る頃から︑先生は縁側の座蒲団にあぐらをかいて︑庭を眺めながら︑奥さんにしつかに肩をさすらせていられることが

多くなつた︒よくいらいらもされたが︑さうした折の先生は︑まだ与へられてゐる楽しみを楽しんで︑安住といふ境地

の人であつた︒       ︵﹁赤い鳥のうた﹂54頁︶

森は﹁私がお世話になつた五年間は︑先生の失意の時代であつた﹂﹁それでも普通の人間の得意以上の失意であるこ

とは言ふまでもない﹂︵﹁赤い鳥のうた﹂53頁︶と振り返る︒一方︑同じく三重吉に師事した坪田譲治は︑昭和改元から       ぬザ﹁赤い鳥﹂の休刊︑復刊をはさんだ一〇年間の児童文学状況を﹁冬の季節﹂と命名している︒経済的な不況と円本の

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普及によって︑大正期に花開いた童話童謡運動は総決算を迫られ︑発表の場を失った作家たちは同人誌に集った︒それ

ら同人誌もまた︑一九三一︵昭和6︶年の満州事変勃発に始まる一五年戦争のベクトルに抗することができないまま︑

姿を消していく︒経済的な困難︑主宰の身体的衰弱︑白秋との絶縁といった厳しい条件を抱えて︑﹁赤い鳥﹂が三重吉

の死まで存続したことは︑半ば奇跡に近い出来事であった︒むろん︑そこには小説家としての出発や﹁赤い鳥﹂創刊時

のような華々しさはない︒けれども︑淋しさとなつかしさとの間を行き来しながら移ろった第二次﹁赤い鳥﹂の時間‖

青年記者が過ごした五年間は︑重苦しい冬の季節にさす薄陽のような︑ほのかな明るさに彩られている︒

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︵1︶西田良子﹁赤い鳥﹂‖﹁日本児童文学大事典﹄第二巻 大日本図書︑一九九三年一〇月︑五一八頁

︵2︶庄野誠一﹁和木清三郎﹂‖﹃日本近代文学大事典﹄第三巻講談社︑昭和五二年一一月︑五〇四頁

︵3︶桑原三郎氏のご教示による︒

︵4︶﹁研究﹂を収録している文献一覧に桑原三郎編﹁参考文献﹂‖﹃日本児童文学大系第10巻 鈴木三重吉集﹄︵ほるぷ出版︑昭和

  五三年=月︶がある︵但し︑別表中の﹁楽屋おち﹂のみ未収録︶︒なお︑宮崎芳彦氏は論文﹁鈴木三重吉の仕事−編集者︑出

  版事業家の原像﹂︵﹁白百合児童文化﹂V 一九九四年七月︶の中で﹁研究﹂に触れ︑﹁﹁赤い鳥﹄時代の三重吉についての基礎的

  な総合研究として︑第一に読まれるべき収穫﹂として︑特に﹁実感的な記述﹂である点を高く評価している︒

︵5︶小宮豊隆﹁三重吉のこと﹂11﹁赤い鳥﹂昭和=年一〇月号︑一五六頁

︵6︶﹃鈴木三重吉全集一第六巻︵以下︑﹃全集第六巻﹄と省略︶岩波書店 一九三八年一二月︑五八一ー五八二頁

︵7︶昭和五年四月八日︑井本健作宛書簡11同右︑五五三頁

︵8︶﹁﹁赤い鳥﹄の復刊﹂11﹁赤い鳥﹂昭和六年一月号︑一一〇頁

︵9︶与田準一﹁﹃赤い鳥﹄復刊の頃﹂‖﹁解説﹁赤い鳥﹂複刻版別冊・2﹄ 日本近代文学館︑昭和四四年二月︑一一頁

︵10︶昭和五年九月九日︑木内高音宛書簡11﹁鈴木三重吉全集﹄別巻︵以下︑﹁全集別巻﹄と省略︶岩波書店 一九八二年七月︑二

  五五頁︒および与田準一﹁﹃赤い鳥一復刊の頃﹂︵前掲書︶による︒

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︵H︶井伏鱒二名義の作品として﹁ばかそろひ﹂︵昭和六年六月号︶が︑下村千秋名義では﹁あたまでッかち﹂︵同一〇年二〜四月号︶

 と﹁旅客飛行機﹂︵同一一年六月号︶がある︒復刊後の小川未明名義の童話は﹁谷間の四十雀﹂︵同一一年一〇月号︶のみ︒

︵12︶﹁全集別巻﹄二六〇頁︑傍線は原文のまま︒

︵13︶昭和六年一月二十日︑福富高市宛書簡H﹁全集第六巻﹂五七三頁

︵14︶例えば菅忠道は﹁昭和期児童文学とその背景﹂︵﹁新選日本児童文学2・昭和編一小峰書店 昭和三四年五月︶のなかで﹁児童

 雑誌は︑昭和改元直後には︑月平均百万の売上部数があった﹂﹁﹁赤い鳥一が︑文化性の高い雑誌だったといっても︑復刊後の固

 定部数は一万︑講談社の雑誌を筆頭とする娯楽雑誌や学習雑誌のこのような圧倒的な発行部数の前には︑無力な存在だったとは

 いえるだろう﹂と述べている︒

︵15︶木内‖﹁全集第六巻一六三〇頁︑今井11﹁全集別巻﹄二七四頁

︵16︶経緯については﹁研究﹂のほか︑北原白秋﹁﹁赤い鳥﹂との絶縁﹂︵﹁全貌一第一輯 一九三三年版 アルス︑昭和八年六月︶︑

 森三郎﹁私の記者時代﹂︵﹁赤い鳥代表作集3・後期﹂︵小峰書店︑同三三年一一月︶等に詳しい︒

︵17︶三重吉の娘すずは︑復刊後は赤字経営が続き︑他の出版の全収入を﹁赤い鳥﹂に注ぎこんでいたと振り返っている︵鈴木すず

  ﹁育母 ハマ﹂終‖﹁鈴木三重吉﹁赤い鳥﹂通信﹂三一号鈴木三重吉赤い鳥の会 平成七年三月︑二頁︶︒また︑昭和七年夏

 には﹁拡勢費﹂と称して︑知己から寄付を募る動きも見られる︵昭和七年九月二二日︑小宮豊隆宛書簡11﹁全集別巻一︑二八九頁︶︒

︵18︶﹁満一周年を迎へて﹂‖﹁赤い鳥﹂昭和七年一月号︑一〇四頁

︵19︶﹁講和通信﹂‖﹁赤い鳥﹂昭和七年=月号︑一〇六頁

︵20︶小島政二郎﹁鈴木三重吉﹂11﹁鴎外荷風万太郎一文芸春秋新社 昭和四〇年九月︑=一一二頁

︵21︶﹁講和通信﹂‖﹁赤い鳥﹂昭和一〇年二月号︑九二頁︒なお︑連載の実現に直接関わりがあるかどうかは不明だが︑昭和六年

 一月号﹁講和通信﹂欄には︑﹁東京・太田雄次郎﹂名で﹁﹁家なき子﹂でも﹁ロビンソン﹄でも︑せめて必読すべき世界的名作だ

 けは先生に模範訳をしていただきたいのです﹂との投稿が掲載されている︒

︵22︶藤尾健剛﹁鈴木三重吉の文学−創作方法についてー﹂11﹁香川大学国文研究﹂第=パ号 平成三年九月︑二一頁

︵23︶昭和五年七月十四日︑室町説子宛書簡‖﹁全集第六巻﹄五六一〜五六二頁

︵24︶昭和九年一月六日︑小宮豊隆宛書簡‖同右︑六二二頁

︵25︶例えば昭和七年十月八日︑征矢兵馬宛書簡には﹁赤い鳥も会費の滞納が多くて︑キユー︿してゐます︒毎号︑一頁として私

13

(14)

淑徳国文37

 の手のはいらない頁はありません︒︵子供の作は別︶中々苦労をいたします﹂とある︵﹃全集第六巻﹄五九八頁︶︒

︵26︶小宮‖﹃全集第六巻﹄六七一頁︑井本11同 六七六頁

︵27︶昭和八年五月二五日︑小田武雄宛書簡‖﹃全集第六巻﹄六〇六頁

︵28︶大藤幹夫﹁鈴木三重吉の童話観﹂11﹁学大国文﹂第二二号 昭和五三年一二月︑四五頁

︵29︶滑川道夫は﹁綴方の人間教育的意義﹂を説く三重吉の態度に﹁文学者としての︑教育性に対する一種のインフェリオリティ・

 コムプレックス﹂を指摘している︵﹁赤い鳥綴方の現代的意義﹂‖﹁作文と教育﹂第三七号 一九五五年六月︑一二頁︶︒

︵30︶鈴木はま﹁発病から﹂11﹁赤い鳥﹂昭和一一年一〇月号︑九八〜一〇〇頁

︵31︶坪田譲治﹁児童文学の早春﹂‖﹁都新聞﹂昭和一一年三月一五日ー一八日

14

︿別表/表題一覧﹀※数字の表記等は現物に従った︒

赤い鳥をたつねて1鈴木三重吉先生の思ひ出1

すみれと竹の子ー鈴木三重吉研究︵n︶1︵著者名﹁森三良﹂

貸間探し︵鈴木三重吉研究︶

銘酒﹁あこがれ﹂︵鈴木三重吉研究 四︶

戻り橋︵鈴木三重吉研究 五︶

墓退治︵鈴木三重吉研究 六︶

こげた飯︵鈴木三重吉研究 七︶

先生と表現︵鈴木三重吉研究 八︶

バカの焼き方︵鈴木三重吉研究 九︶

楽屋おち︵鈴木三重吉研究 一〇︶

リリアン・ハーヴェーの唄︵鈴木三重吉研究 一こ

夢でみた先生の目︵鈴木三重吉研究 一二︶

キリタンポ︵鈴木三重吉研究 完︶

田舎鶯︵続・鈴木三重吉研究 一︶

と誤記︶ 新文明

同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同

第八巻第九号第八巻第一一号第八巻第一二号第九巻第一号第九巻第二号第九巻第三号第九巻第六号第九巻第七号第九巻第八号第九巻第九号第九巻第一〇号第九巻第一一号第九巻第一二号第一〇巻第三号 昭和三三年九月一日    =月一日    一二月一日昭和三四年一月一日     ママ     三月一日     三月一日     六月一日     七月一日     八月一日     九月一日     ママ     九月一日    一一月一日    一二月一日昭和三五年三月一日

(15)

       .

草の花︵続・鈴木三重吉研究 二︶

褐色の輪︵続・鈴木三重吉研究 三︶

犬のふぐり︵続・鈴木三重吉研究 四︶      ママ狐の笑ひ︵続・鈴木三重吉研究 四︶       ママ烏の櫛︵続・鈴木三重吉研究五︶

赤い鳥のうた︵続・鈴木三重吉研究完︶

同同同同同同 第第第第第第

§藷§§§§

九八七六五四ロ  ロ  ロ

   ロ  ロ

     ロ 万写万万万亨

四月一日

五月一日

六月一日七月一日

八月一日九月一日

︵さかい・まさよ/専任講師︶

15

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