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雑誌名 国立民族学博物館研究報告

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十九世紀モンゴル史における「回民反乱」 : 歴史 の書き方と「生き方の歴史」のあいだ

著者 楊 海英

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 26

号 3

ページ 473‑507

発行年 2002‑03‑15

URL http://doi.org/10.15021/00004058

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十 九 世 紀 モ ソ ゴル 史 に お け る 「回民 反 乱 」

十 九 世 紀 モ ン ゴル 史 に お け る 「回 民 反 乱 」 歴史 の書 き方 と 「生 き方 の歴史」 のあいだ

英*

The Hui Rebellion in 19th Century Mongolian History:

Focusing on the Comparison between the General and Regional History of China Compiled as a State Project and the Mongolian Chronicles

Yang Haiying

本 論 文 は 「歴 史 」 の 書 き方,「 歴 史 」 の語 り方 を 分 析 し,歴 史 研 究 と人 類 学 的 研 究 との 相 互 接 点 を 探 ろ うとす る もの で あ る。 具 体 的 に は,19世 紀 末 に 発 生 し,中 国 北 西部 と中央 ア ジ ア を舞 台 と して 展 開 した 回 民反 乱 を分 析 対 象 とす る。

回 民 反 乱 に つ い て,現 代 中 国 の 通 史 類 は 「少 数 民 族 に よ る反 清朝 闘 争 」 で あ る と政 治 的 な評 価 を 下 し,回 民 反 乱 軍 に よ る略 奪 や 虐 殺 行 為 に 触 れ て い な い 。 一 方,各 地 の 地 方 史 誌 はr通 史 が 書 こ うと しな か った 回 民 反 乱 軍 に よ る被 害 を記 述 して い る。 また,通 史 や 地 方 史 誌 と対 照 的 な の は モ ン ゴル の年 代 記 で あ る。

口頭 伝 承 の要 素 を 大 い に 帯 び て い る年 代 記 は,モ ソ ゴル軍 の 軍功 を賞 賛 す る た め に 回 民 反乱 を淡 々 と描 い て い る 。上 述 の諸 史 料 を さ らに 回 族側 の捉 え 方 と比 較 す る と,ま った く異 な った,鮮 明 な 「生 き方 の 歴 史 」が 浮 か び 上 が って く る。

歴 史研 究 に お け る 「外部 か らの視 点」 と 「内 な る視 点 」 を検 討 し,人 類 学 的 な 歴 史 研 究 と 「生 き方 の歴 史 」 との共 通 性 を探 求 す る こ とこ そ,過 去 の 出来 事 を 解 明す る手 が か りと な る こ とを 強 調 して お きた い。

In this paper, the way in which "history" is recorded, written or narrated is analysed, thereby exploring the interface between the studies of history and anthropology. Specifically, the discussion is focused on the Hui(M) Rebellion in China, which broke out at the end of the 19th century, spreading over a vast area in the north-east of the nation and Central Asia. State-sponsored publications of history such as Tongshi

静岡大学人文学部,国 立民族学博物館共 同研究員

Key Words : general history, regional history, Mongolian chronicles, the Hui Rebellion. Ordos Mongols

キ ー ワ ー ド:通 史,地 方 史,年 代 記,回 民 反 乱,オ ル ドス ・モン ゴ ル

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国立民族学博物館研究報告26巻3号

(A.. general history) or others define the Hui Rebellion as a "revolt by an ethnic minority, which stood against rule by the Qing dynasty".

They do not in the least touch upon the pillage, atrocities or massacres perpetrated by the insurgent Hui troops. On the other hand, regional history books that were compiled in various localities describe the serious damage caused by the Hui rebel army. Keen attention should be paid to Mongolian chronicles compiled over centuries, in the contents of which we can find a striking contrast to Tongshi or regional history. Those chronicles represent the strong influence of the oral tradition of the Mongols from ancient times. While admiring the gallant fight that the Mongolian army fought against the insurgent troops, the chronicles describe the rise and fall of the Rebellion in a calm and objective man- ner. Furthermore, when the historical materials used in Tongshi or other state-sponsored publications are compared with the records kept by the Hui rebels, light can be shed from an utterly different angle, revealing more diverse facets of the background, to underscore the

"history of people's way of life" incisively . Given these phenomena in history writings, it is recommended that both "external" and "internal

perspectives" be integrated in the study of history. An emphasis should be placed on the importance of understanding the common attributes and nature of the anthropological approach to history on one hand, and the "history of a way of life" on the other. I believe that the exploration of the commonality between the two will open up a new road to lead us to the unequivocal elucidation of the historical incidents that humankind has undergone.

1は じめ に

1.1外 か ら の視 点 一 モ ソ ゴル 史 か それ と も中 国 史 か

1.2内 な る視 点 「歴 史 を 語 る」 とい う認 識

L3中 国 史 化 す る 「地 方史(誌)」

1.4歴 史 を 語 る こ との重 要 性

2民 族 政 策 の理 論 的 背 景 を 成 す 中 国 通 史 a.1「 蒙 ・漢 ・回 各 民 族 の 反 清 闘 争 」 と

して の 回 民 反 乱

2.2地 方 史(誌)が 受 けつ ぐ伝 統 2,3地 方 史(誌)の な か の 「回民 反 乱 」 3現 代 の年 代 記 に お け る歴 史認 識 の表 象

3.1年 代 記 が 誕 生 す る地 域

3.2年 代 記 の 著 者

3,3現 代 の 年 代 記 に 対す る認 識

3.4年 代 記 に お け る 回民 反 乱 の あつ か い

4記 憶 と記 録 の回 民 反 乱 4.1記 憶 の な か の歴 史 4.2宗 教 紛争 を示 唆 す る 記録

5唯 物 主 義 史 観 へ の 挑 戦一 張 承 志 の 「生 き方 の歴 史 」

5.1イ ス ラ ムを 信 ず る 中 国人 の殉 教 史 5,2「 理 想 的 な 中 国 人 」 と 「化 外 の モ ソ

ゴル 人 」

6お わ りに 一 歴 史 研 究 に お け る人 類 学 の 可 能 性

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楊  十九世紀モ ンゴル史 におけ る 「回民反乱」

1  は じめ に

  1949年,ア メ リ カ 人 類 学 者 の 文 化 変 容(culture‑change)論 と 同 化(assimilation)論 の 影 響 を うけ て,ウ ィ ッ トフ ォ ー ゲ ル ら は 遼 王 朝 を 例 に,征 服 王 朝(dynasties  of con‑

quest)理 論 を うち だ した(Wittfogel  and  Feng  1949:1‑35)。 以 来,こ の 理 論 は 日本 の 歴 史 学 界 で さ ま ざ ま な 論 議 を よ ん だ 。 諸 説 の な か で は,モ ソ ゴ ル を 含 む 北 ア ジ ア 諸 民 族 の 歴 史 を 独 自 の も の とす る か,そ れ と も 中 国 史 の 一 部 と す る か が 焦 点 の ひ と つ で あ っ た 。 こ の よ うな 議 論 は 学 界 の み な ら ず,民 族 間 関 係 や 民 族 政 策 と も 関 連 して 現 在 形 で 機 能 して い る 一 面 が あ る 。 本 論 文 で は,従 来 の 主 な 学 説 を 検 討 した うえ でaこ に 対 す る 「内 な る 視 点 」 す な わ ち 歴 史 の 当 事 者 た ち が い か に 過 去 の 出 来 事 を 語 る か を 実 例 で 呈 示 し,歴 史 的 事 件 に 関 す る 人 類 学 的 な ア プ ロ ー チ の 可 能 性 を 探 っ て み た い 。

1.1外 か らの 視 点     モ ソ ゴル 史 か そ れ と も中 国 史 か

  村 上 正 二 は1951年 に 「蒙 古 史 研 究 の動 向」 と題 す る論 文 の な か で,次 の よ うに指 摘 して い る。 「蒙 古史 研究 の 基 本 課 題 」 のひ とつ は,北 方 遊 牧 社 会 が 南 方 の 農 耕 社 会 に 対 して支 配 権 を樹 立 した,い わ ゆ る征 服 王 朝 の 問題 で あ る。 この問 題 を 究 明 す るに は, まず 「遊 牧 とは 何 か 」 とい った北 方 遊 牧 社 会 の 内面 的 な説 明が 必 要 であ る。従 来,「 狩 猟 一 遊 牧 一 農 耕 」 とい う発展 段 階 説 にた つ 人 が 多い が,遊 牧 社 会 や 農 耕 社 会 な ど とい うの は 歴 史 的 発 展 段 階 に照 応 す る生 産 技 術 面 の 差 異 に も とつ く もの では な く,む しろ これ ら全 体 を 包 括す る総 合 概 念 で あ り,い わ ば社 会 類 型 的 概 念 であ る。 ア ジ ア全 体 の 社 会 発 展 の 特 異 性 を説 明 す る に は,類 型 的概 念 の 設 定 が効 果 的 で あ る とい う(村 上 1951:45,46}o

  村上 は,北 方 遊 牧 社 会 を 「古 代 的 遊牧 社 会 」 と 「中世 的 遊 牧 社 会 」 とに 二分 して遊 牧 社会 の歴 史 的 変 遷 の過 程 を論 じて い る。 古 代 的 遊 牧 社 会 は 氏 族 共 同 体 を そ の ま ま保 持 して い た がゆ え に非 常 に 脆 弱 で あ った の に対 し,氏 族 を 解 体 し再編 成 を お こな った 中 世 的 遊 牧 社 会 は 強 固 であ った と分 析 して い る(村 上1951:50‑52)。 明 ・清 時 代 に 入 る と,モ ソ ゴルの 遊牧 社 会 は安 定 期,さ らに衰 頽 期 を 迎 え,中 国社 会 に脅 威 を与 え な くな った とい う特徴 を あ げ,清 朝 時 代 の モ ン ゴル史 研 究 の重 要 性 を 強調 して い る(村 上1951:54)。 村 上 は 社 会 とい う言葉 を 国 家 と同 じ意 味 で使 用 して い る よ うで あ る。

遊 牧 国 家 が 中 国 の王 朝 と対 立 してい た と きは 脅威 とな る が,中 国 をそ の内部 に組 み こ んだ と きに は文 化 変 容 が 生 じる とい う理論 で あ る。

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国立民族学博物館研究報告  26巻3号   そ の後,清 朝 時 代 の モ ソ ゴル 史研 究 が どの よ うに 進 展 した か は 別 と して,征 服 王 朝 論 へ の関 心 は 衰 え なか った。 吉 田順 一 は1973年 に,戦 後 日本 の 北 ア ジ ア 史学 界 が 主 要 研 究 課 題 と して きた 征 服 王朝 と北 ア ジア の歴 史 的 発 展 に つ い て,次 の よ うに総 括 して い る。村 上 正 二 ら 日本 の歴 史 研 究 者 は,「 ウ ィ ヅ トフ ォ ー ゲル の理 論 に は 全 くみ られ な か った傾 向,す なわ ち征 服 王朝 を北 ア ジア史 の発 展 過 程 の 中 で と らえ,そ の発 展 の 一 帰 結 と して理 解 す る見 方 を有 す るに 至 った 」 と評 価 して い る(吉 田1973:1)。 田 は また,人 類 学 者 の文 化 変 容論 と同 化論 を 吸収 し適 用 させ た ウ ィ ッ トフ ォ ー'/oルら の理 論 の 妥 当 性 は 日本 の研 究 者 に よ って 深 化 され,異 論 をは さむ 余 地 は な い と主張 す る。 ウ ィ ヅ トフ ォー ゲル は あ くまで も異 民 族支 配 下 の 中 国社 会 の 文 化 変 容 に 注 目 し, 征 服 王 朝 の 出 現 を 北 ア ジ ア の遊 牧 社 会 の 発 展 の 結果 とは 思わ なか った だ ろ うが,日 本 の 研 究 者 は 征 服 王 朝 の 出現 を北 ア ジ ア史 発 展 の うち に位 置 づ け る こ とが で き た とい う。 吉 田は さ らに,最 終 的 に征 服 王 朝 に発 展 して い った と され る遊 牧 社 会 の内 部 構 造 は まだ 未 解 明 で あ る と指 摘 し(吉 田1973:2‑6),一 層 の研 究 の必 要 性 を訴>xて い る。

そ の 後,吉 田 は 戦 前 の 日本 人 に よ る遊 牧 社 会),rY4関す る調 査 を 総 括 しな が ら(吉 2000:57‑69),遊 牧 社 会 の 実 態 研 究 に 積 極 的 に と り くん で い る(吉 田1980:235‑259;

1954:57‑90)0

  で は,満 洲 族 と と もに 清 朝 を 建 てた モ ソ ゴル族 を 近 年 の歴 史 研 究 家 は ど うみ て い る の だ ろ うか 。 この問 題 は 往 々に して,清 朝時 代 の モ ン ゴル族 の歴 史 を 「モ ン ゴル史 」 と して み る か,あ る いは 「中 国 歴 代 王朝 史 の 一環 で あ る清 朝 史の 一部 」 と して位 置 づ け るか とい う問題 とも無 関 係 では な い 。

  グル セ は1930年 代 に 『ア ジ ア遊 牧 民 族 史 』 の な か で,清 朝 の 中 国化 に 注 目 し,中 国 史 と連 動 す る モ ンゴル 史 を 説 明 して い る(グ ル セ1944:826‑827)。 今 日,杉 山正 明 は 清 朝 とモ ン ゴル の 関係 を次 の よ うに 分 析 して い る。清 朝 皇 帝 は 中華 帝 王 と モ ン ゴル の 大 ハ ー ン と して の ふ た つ の顔 を あわ せ もつ 。 清 朝 皇 帝 は チ ンギ ス ・ハ ー ンの 直 系 子

          ウ)Lス

孫 か ら大 元 王 朝 以 来 の 「伝 国 の玉 璽 」 を受 け つ ぐこ とで モ ン ゴル の大 ハ ー ン と して の 立 場 を か ね た 。 清朝 創業 の ころ は も ち ろ ん,清 朝 末 期 の 太平 天 国 の舌し 捻 軍 の乱,ア

ロ ー戦 争 まで ず っ と モ ソ ゴル 軍 の 戦 力 に た よ っ て い た 事 実 を 指 摘 し(杉 山1992:

309‑312),清 朝 の 歴 史 は 最後 まで モ ソ ゴル的 な側 面 を 帯 び て い た と示 唆 して い る。 片 岡は,清 朝 の 新 彊 で の 統 治方 法 に つ い て検 討 した 結 果,征 服 王朝 で あ る清 朝 は,ロ シ アや イ ギ リス な ど の西 欧 列 強 に よ って藩 部 が切 断 され,喪 わ れ る危機 に 陥 った と き, 漢 族(中 国 内 地)を 抱 き こむ か た ち で藩 部 と内地 と の一 体 化 を 意識 せ ざ る を え な くな っ

た と指 摘 して い る(片 岡1991:368‑369)。 この 考 え方 に した が えぽ,清 朝 末 期 の 諸

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楊   十九世紀 モ ンゴル史におけ る 「回民反乱」

藩部 の歴 史 は,外 部 勢 力 と くに 西 欧 列強 の侵 出 に とも な って,総 体 と して の 中 国史 の 一部 に組 み いれ られ る傾 向 が 強 くなった とい え るか も しれ な い。 もち ろ ん1清 朝 の 崩 壊 と と もに独 立 した モ ン ゴル 高 原 の一 部 はむ しろ逆 で あ る。

1.2  内 な る視 点 一 「歴 史 を 語 る」 とい う認 識

  以 上,遊 牧 民 の 歴 史 を北 ア ジ ア史 の発 展 の 結果 とす るか,そ れ と も中 国 史 との 連 動 で 理 解 す るか,諸 説 を紹 介 して きた 。 これ らの概 念 は いず れ も遊 牧 民 自身 が うち だ し た もの で は な く,い わ ぽ外 か ら の視 点 で あ る。 で は,当 事 者 側 の 一 員 で あ るモ ソ ゴル 族 は,こ の 問題 を どの よ うに認 識 して い るの だ ろ うか 。

  13世 紀 以 来,モ ソ ゴル族 は 多 くの 文献 資料 を残 した 。 歴 史 を 語 る,歴 史 を 書 く とい う伝 統 は,モ ン ゴル に 古 くか ら根 づ い て い る(楊1998:3‑4)。 数 多 い年 代 記 の なか で,た と>xぽrモ ソゴル秘 史 』 は 口頭 伝 承 の伝 統 に も とづ き,王 権 天 授 の宇 宙 観1)を 全面 的 に 強調 して い る。16世 紀 以 降 に な る と,チ ンギ ス ・ハ ー ソー 族 の神 話 上 の起 源 を イ ン ドや チ ベ ッ トの 王 家 とむす びつ け る著 作 が 現 わ れ る。 イ ン ドや チ ベ ッ トに聖 な る起 源 を求 め,そ れ を 中 国 の伝 統 の うらに 求 め よ うと しなか った これ らの 歴 史 著 述 は, 異姓 革 命 に よって 受 け つ が れ て ゆ く中 国 の王 権 観 とは 著 し く異 質 で あ る。 モ ンゴル が 後 金 国 ・清 朝 の 支 配 を 受 け 入れ る ま で の歴 史 を 下 限 と した,1b62年 に 書か れ たr蒙 古 源 流 』(Erdeniyin  Tobcr)で さv>h,モ ン ゴル を 中 国 の歴 代 王 朝 の ひ とつ に位 置 づ け よ う とは しなか った 。北 ア ジ ア 固有 の シ ャマ ニ ズ ムの 王 権 天授 の 思想 を チベ ッ ト仏 教 と 結 合 させ る傾 向 は16世 紀 以降 の モ ン ゴル の 年 代 記 の 主流 に な った の であ る。

  歴 史 上 の 出 来事 を体 系 的 に語 る伝 統 が モ ソ ゴル に あ る。 こ の種 の 「語 り」 に は,出 来 事 を個 々に 語 る の で は な く,因 果 関 係 を 明示 して動 的 な社 会 変 化 を構 成 し よ うとい

う認 識 が あ る。13世 紀 以降 に文 字 を もつ よ うに な って か ら,「 語 る」 と い う行 為 が, 年 代 記 を 生 む原 動 力 とも な って い る。 言 い 換 えれ ぽ,当 然,年 代 記 は 「語 り」 の特 徴 を 大 い に 帯 び て い る とい うこ とで あ る。私 は,こ の 「歴 史 を 語 る行 為 」 を 内 な る歴 史 認識 と定 義 した い。 こ の よ うな歴 史 認 識 の あ り方 を うか が い 知 る ため に は,「 歴 史 の 語 り方 」 と年 代 記 の記 述 の 両 方 を検 討 しな けれ ぽ な ら ない 。

1.3  中 国 史 化 す る 「地 方 史(誌)」

  モ ン ゴル 史 を め ぐって,中 国歴 代 王 朝 の 歴 史 の 一部 とみ るか,北 ア ジ ア独 自の 歴 史 とす るか とい う論争 とは別 に,モ ン ゴル 人 自 らの年 代 記 は つね に 中 国史 か ら独 立 した 観 点 で 歴 史 を叙 述 して きた こ とをす で に 呈示 した。 しか し,現 在,モ ンゴル 族 の 一部

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国立民族学博物館研究報告  26巻3号 は中 華 人 民 共和 国 に編 入 され,1自 治 区 と複 数 の 自治 州 ・県 を 形 成 して い る。 中 国 で 新 た に政 府 主 導 で 書 かれ た 「モ ン ゴル 史 」 は,上 述 した年 代 記 の歴 史 観 と大 き く異 な る様 相 を 表 し,か ぎ りな く中 国史 との 連 動 を 強 調 して い る。 新 し く書 か れ た 「モ ン ゴ ル史 」 の 変 質 に よ り,中 国 の歴 史 に対 す る認 識 とモ ソ ゴル の それ との差 異 が 発 生 して い る。

  中 国 に おい て,歴 史 は 王朝 の正 統 性 を示 す もの と して 位 置 づ け られ て い る。 政 権 交 替 の た び に,修 史 作 業 は 新王 朝 の一 大 事 業 とな る。 滅 亡 した前 王朝 の資 料 を新 王 朝 に つ こ うの よい よ うに編 纂 し,い か に正 統 な皇 帝 に な りえた か を 立証 す る。 現 代 中 国 の 場 合 は,社 会 主 義 建 設 の成 果 を修 史作 業 に お い て強 調 し,歴 代 王 朝 と くに前 王朝,前 政 権 よ りも優 れ て い る点 を全 面 的 に うち だ して い る。 社 会 主 義 中 国 の 成 功 に 力 点 を お き,時 の 為政 者 が 自 らの権 力基 盤 を 固 め よ うとす る政 策 も当 然 反 映 され て い る。

  現 代 中 国 に お い て も,修 史 を重 要 視 す る理 念 は何 ら変 化 してい ない 。 そ れ は 以下 ふ た つ の 点 で 確 認 で き よ う。

  まず,中 華 人 民共 和 国 の 成 立 と歩 調 を あわ せ る よ うに,『 中 国通 史簡 編 』 が1949年 に 出版 され た(萢1949)。 そ の後,通 史 の性 格 を もつr中 国 史稿 』 の執 筆 と出版 は 一 貫 して 継 続 され て きた2)(郭他1976)。 前 王 朝 の歴 史 だ け で な く,歴 代 王 朝 交 替 の 流 れ を体 系 化 す る通 史 の編 纂 が 一 王朝 史 の執 筆 よ りは るか に重 要 な意 味 を も って いた こ とは容 易 に理 解 で き よ う。 国 家 レベ ル で の 『中 国通 史 』 の ほ か に,各 少 数 民 族 の場 合 は 『〜 族通 史 』 とい うか た ち を と る こ とが 多 い3)。本 稿 で は,も っば ら 『モ ンゴ ル族 通 史』 を検 討 対 象 とす る。

  も うひ とつ は地 方 史(誌)で あ る。 地 方 史(誌)の 伝 統 は 古 く,そ の編 纂主 旨 は決 して 通 史 と相反 す る も の では ない 。 あ る地 方 に 関す る 史誌 情 報 は,当 然,通 史 よ り詳 し く,通 史 を補 足 す る 内容 も多 く含 まれ る。各 少 数 民 族 地 方 に お い て も例 外 では な い 。 本 稿 で は 内 モ ン ゴル の オ ル ドス地 域 の 歴 史 を と りあ げ る。

  周 知 の とお り,修 史作 業 に一 貫 して 継 承 され て きた の は,『 史記 』 以来 の 「紀 伝 体 」 の体 裁 で あ る。 「本 紀 」,「表 」,「書 」,「世 家 」,「列 伝 」 とい う5つ の部 分 か ら成 る 史 書 の 構 成 は,現 代 の 通史,地 方 史(誌)編 纂 で も維 持 され て い る。 そ の意 味 で,数 千 種 に のぼ る とみ られ る地 方 史(誌)の 編 纂 方 針 や 内 容 構 成 は,大 同 小異 の域 を 超 え て

い なか った 。

  現 代 中 国が 修 史 作 業 を す す め る過 程 で注 目に値 す るの は,言 語 の 問題 で あ る。 多 民 族 国家 の も とで,あ る一 少 数 民 族 の歴 史 を書 く とき,漢 語 以 外 の 言葉 で 書か れ た 資 料 の使 用 方 法 が 問 わ れ る こ とに な る。歴 史 的 に北 狭,西 戎,南 蛮,東 夷 と位 置 づ け られ

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十九世紀 モ ソゴル史におけ る 「回民反乱」

て きた 側 の記 録 は,漢 文 資 料 とは根 本的 に異 な って い る。 漢 文資 料 以 外 の少 数 民 族 語 文 献 が 通 史,地 方 史(誌)編 纂 に活 用 され た 際 の取 捨 選 択 の 基準 が興 味 を ひ く。

  モ ンゴル 族 を 例 に み て み よ う。 現 行 の 『モ ン ゴル 族 通 史』 は,内 モ ン ゴル社 会 科 学 院 歴 史 研 究 所 の 主 導 で,ま ず 漢 語 で 書 か れ,出 版 され た(内 蒙 古 社 会科 学 院 歴 史 所r蒙 古 族 通 史 』 編 写 組[以 下 編 写 組 と略 す]1991)。 そ の 後,1995年 に 同 じ民 族 出版 社 か ら 同 通 史 の モ ン ゴ ル 語 版 が 出 版 さ れ た(ヨb Mongrol‑un  neyigem一  sinjilek uqaran‑u  k iyeleng一 te e‑yin sudulqu rajar‑un<Mongrol d ebterkei te直ke>nayirarulqu doruyilang 1995)。 同 通 史 の執 筆 者 に は,漢 族 とモ ソ ゴル族 の両 方 が 含 まれ て い る4)。

  地 方 史(誌)の 編 纂 も 同様 であ る。 少 な くと も私 はそ れ を 内 モ ソゴル 自治 区,新 彊 ウイ グル 自治 区 で確 認 してい る。1980年代 初 頭 か ら1990年 代 半 ぽ にか け て,地 方史(誌) の編 纂 が 国家 プ ロジ ェク トと して 推進 され て いた 両 自治 区 で,漢 族 の編 纂者 が多 数 の 翻 訳 者 を配 下 に お いて 作 業 を して い る風 景 をみ た こ とが あ る。 翻訳 者 た ち は膨 大 な少 数 民 族 語 資 料 を漢 語 に 訳 す。 翻 訳 され た資 料 は,内 容 的 に 編 纂 方針 に 合致 す る もの の

みが 選 択 され る と漢 族 の執 筆 者 た ち が主 張 してい た5)。

  漢 語 で書 か れ た 通 史,地 方 史(誌)が 出版 され,党,政 治,軍 な ど各 関係 機 関 の評 価,審 査 を うけ て,肯 定 的 な評 価 が得 られ た 時 点 で 少 数 民 族言 語 に訳 され る。 少 数 民 族 言 語 に 還 元 され て も,依 拠 した文 書 資 料 の背 景 説 明 もな く,資 料 本 来 の性 質 を じゅ うぶ ん復 元 して い る とは 限 らな い。 また,そ の 内 容 に 少 数 民族 側 が賛 同 しなか った 場 合,少 数 民 族 言語 へ の翻 訳 は 足 踏 み 状 態 に 陥 る。 内 モ ン ゴル 自治 区,新 彊 ウイ グル 自 治 区 で,モ ン ゴル語 や ウイ グル語 あ る いは カザ フ語 に訳 され た地 方 史(誌)が 少 な い

のは,そ の 実態 の表 れ とい}xよ う6)。

1.4 歴 史 を語 る こ との重 要 性

  国 家 プ ロ ジ ェ ク トと してのr〜 族 通 史 』 や 少数 民 族 地 区 の地 方 史(誌)は,中 国 と い う国 家 の た め に あ る。 これ に 対 し,少 数民 族 が書 く歴 史,語 る歴 史 は,必 ず し も中 国 とい う国家 の正 統 性 を 意 識 して い な い 。

  私 は 今 まで の調 査 で,少 数 民 族 の 人 た ち が 「歴 史 」 だ と認 識 して い る過 去 の 出来 事 を彼 ら 自身 に語 らせ る と同 時 に,年 代記 の書 き方 に も注 目して きた。 私 の調 査 が 現 在 の少 数 民 族 を対 象 に して い る 以 上,少 数 民 族 側 の歴 史認 識 も現在 形 で あ る こ とは い う ま で もな い。 過 去 の 「事実 」 を対 象 と して い る以 上,厳 密 に は現 在 の人 々 も完 全 な 経 験 者 で は な か ろ う。 た だ し,歴 史 的,社 会 的 な連 続 性 を 有す る た め,当 該 社 会 の 現 在

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                                    国立民族学博物館研究報告  26巻3号 の成 員 も,自 らを 当事 者 だ と位 置 づ け てい る。 そ の た めr本 稿 は,当 該 社 会 にお け る 現 在 の成 員 を 当事 者 と見 な し,彼 らの歴 史 的 認 識 に した が って,19世 紀 末 モ ソ ゴル 史

の一 側 面 を整 理 しよ うとす る もの であ る。

  19世 紀 初 頭 か ら20世 紀 の50年 代 にか け て の歴 史 展 開 に つ い て は数 多 くの資 料 が 残 っ て お り,歴 史 学 の 先行 研 究 も蓄 積 され て い る。私 が ア プ ロー チ しよ うと して い るのは, 過 去 の事 実 を 「科 学 的,客 観 的」 に復 元 しよ うとす る もの で は な い。 む しろ,モ ンゴ ル人 が いか に過 去 を 語 るか に 関心 が あ る。 過 去 の 出 来 事 の設 定,語 りの あ り方 そ の も の に注 目 した い。

  で は,歴 史 あ る いは 過 去 の 出来 事 の語 りに注 目す る意 義 は 何 で あ ろ うか。

  歴 史学 者 の成 田龍 一 は 近著 の な か で次 の よ うに指 摘 して い る。歴 史 とは 国 民 国家 を 創 りだ し支 え て い く うえ で 重 要 な 装置 で あ った 。 戦 後 の 日本 の 歴 史 学 は,た と>xば 教 育 の 現場 で使 用 され る歴 史 教 科 書 な どは,出 来 事 の復 元 を 歴 史 の 本 質 と して き た。 そ の後,構 成 主 義 の研 究 者 た ちは,出 来 事 は解 釈 に よっ て相 貌 を 異 に す る と し,「 歴 史 」 もそ もそ も 「解 釈 」 で あ る とい う観 点 に 立 っ た(成 田2001:7‑8)。 私 は,出 来 事 の 復 元 の み で は 当時 を生 きた 人 々の 精神 性 の 実態 に接 近 で きな い の で は な い か とい う疑 問 を 感 じて い る。 構 成 主 義 者 が 主 張 す る 「歴 史 は解 釈 だ 」 と い う議 論 も,民 族誌 を解 釈 だ とす る説 と同 じ くr首 肯 で きな い部 分 が あ る。 そ のた め,今 一 度 原 点 に も ど り, 当 事 者 た ち が い か に過 去 の 出来 事 を選 び,設 定 し,そ の うrxで 語 るか に 注 視 した い。

つ ま り,語 り方 を 呈示 す る こ とで,当 事 者 の精 神 性 に近 づ きた い ので あ る。

  19世 紀 の モ ソ ゴル とい って も,全 モ ソゴル を対 象 とす る こ とは 困 難 で あ る。 こ こで は 主 と して 内 モ ソ ゴル西 部 の オ ル ドス地 域 お よび そ の周 辺 に焦 点 を あ て る。 オ ル ドス 地 域 で の 出 来 事 は,決 して 中 国が 主 張 す る よ うな 「地 方 史 」 レベ ルで 解 決 で き る問題 で は な い 。 そ れ らは清 王 朝 史 の具 体 的 な 一一部 分 で あ り,ひ い ては 東 ア ジ ア全 体 の 国 際 情 勢 と も連動 して い る。 本 稿 で は,そ れ らの 典型 的 な事 例 の ひ とつ と して,多 民 族 ・ 多 宗 教 を 巻 き こん だ 「回民 反 乱 」 を と りあ げ る。

2  民族政策の理論 的背景を成す 中国通史

  以 上 の背 景 を うけ て,本 章 で はrモ ンゴル 族通 史 』 と内 モ ン ゴル の地 方 史(誌)の 記 述 を 紹 介 す る。 これ らの作 品 が 「回民 反 乱 」 に つ い て いか に記 述 してい るか を 概 観 す る。

  こ こ で まず 私 自身 の立 場 を示 して お く必 要 が あ ろ う。 同治 年 間 の清 朝 に 対 す る回 民

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楊  十九世紀モンゴル史における 「回民反乱」

の 武 装 闘 争 に つ い て,漢 文 史 料 では 「叛 乱」 や 「回乱 」 な どと表 現 す る こ とが 多 い。

中 華 人 民 共 和 国 に な って か らは,反 王 朝 的 な 立 場 か ら 「叛 乱 」 を 「起 義(蜂 起)」 と 改 め て い る。 私 は 「乱 」 とい う表 現 は どち らか とい えぽ 為 政 者 側 か らの表 現 で は な い か と思 う。 しか し,詳 し くは 後 述 に ゆ だ ね る が,回 族 出身 の 張 承 志 が そ の 日本 語 著 作 の な か で 「回 民反 乱 」 と して い る ため(張1993a;1993b),本 論 文 もそ れ を 踏 襲 す る。

2.1「 蒙 ・漢 ・回 各 民 族 の 反 清 闘 争 」 と して の 回 民 反 乱

  同 治 年 間(1862‑1874)に 発 生 した 回 民 反 乱 は,や が て清 朝 の西 北各 省 を 巻 き こむ よ うに な る。 『モ ン ゴル 族通 史 』 で は 同 じ少 数 民 族 で あ る 回民 が反 乱 へ と追 い こ まれ て い った原 因 につ いて は 一 切 触 れ て い な い。 この こ とは,清 朝 時 代 に モ ソ ゴル族 は 支 配 者 集 団 「満 洲 ・モ ンゴル 」 の一 員 で あ った とい う特 殊 な 政 治 的 背 景 と無 関 係 では な か ろ う。 ひ い ては,宗 教 上 の要 素 もあ るか も しれ な い 。 お そ ら く上 述 の政 治 的,宗 教 的 な 要素 か ら,rモ ソ ゴル族 通 史 』 は 「太 平 天 国 の革 命 が 失 敗 した の ち,回 族 蜂 起 の 影 響 の も と,モ ソ ゴル,漢 族,回 族 が一 致 団 結 して十 数年 に わ た って反 清 闘 争 を く り 広 げ た 」 と して い る(編 写 組1991:1051)。 しか し,rモ ソ ゴル 族 通 史 』 の この よ う

な見 方 と共 通 す る よ うな認 識 を現 在 の モ ン ゴル 側 か らは 確 認 で き な い。

  回民 反 乱 軍 が オル ドス地 域 に 闊入 して きた 時 期 を 『モ ン ゴル族 通 史 』 は1867(同 6)年 と してい る。 馬 化 龍 と い う指 導 者 の 率 い る回 民 反 乱 軍 が 黄 河 を 渡 って オ ル ドス に入 り,東 部 の 包 頭 に 近 づ こ う と した と き,「 モ ンゴ ル族 人 民 の熱 烈 な支 持 」 を うけ た と して い る。 い わ ゆ る 「モ ン ゴル ・回 族 人 民 が 団 結 して反 清 闘争 を お しす す め た 」 の もこ の ときか らは じま った とされ て い る(編 写 組1991:1053)。 『モ ン ゴル族 通 史 』 は いか な る資 料 を 用 い て 「モ ン ゴル族 人 民 の 熱 烈 な 支 持 」 が あ った こ とを 裏 づ け て い るか は 明示 して い な い 。

  「熱 烈 な支 持 」 とは逆 に,清 軍 と=オル ドス のモ ソ ゴル軍 が合 同 で 回民 反 乱 軍 を鎮 圧 した と い う清 代 の 資料 は数 え きれ な いほ どあ る。 通 史 もそれ らの資 料 を 引 用 し,鎮 圧 の経 緯 も簡 略 的 に 示 され て い る。 回民 反 乱 軍 の虐 殺,略 奪 行 為 につ いて は ま った く言 及 してい ない が,オ ル ドス地 域 と隣 接 す る ア ラ シ ャ ソ ・モ ン ゴル族 の王 府 や 寺 院 が 回 民 反 乱 軍 に焼 き討 ち され た こ とは 述 べ て い る(編 写 組1991:1053)。

  回 民反 乱軍 の一 部 は そ の後,東 トル キ ス タ ンを 通 って ロシ ア領 中 央 ア ジ アに 入 り, 今 日 ドン ガ ン と呼 ぼれ る集 団 を 形 成 す るに 至 った。 国 内 に多 数 の イ ス ラ ム教徒 を抱 え

る現 代 中 国 に と って,19世 紀 末 の 回 民 反 乱 を慎 重 に あつ か うこ とが い や お うな く要 求 され て い る。 回民 反 乱 に よ って 発 生 した さ ま ざま な政 治 問 題 が,現 実 味 を帯 び て存 在

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国立民族学博物館研究報告  26巻3号 す る。 社 会 主 義 史 観 の立 場 か ら,回 民反 乱 を 「起 義(蜂 起)」 と積 極 的 に 肯 定 す る だ け で は 不 十 分 で あ ろ う。 現 在 の 民族 間 関 係 を 処 理 す る うえ で,「 起 義 」 以 上 に 「各 民 族 が 団 結 して反 清 闘争 を お こ な った 」 とい う別 の側 面 を創 造 しな け れ ぽ な らな い。 そ う した 政 治 的意 図 を反 映 させ た 具 体 策 の ひ とつ はrモ ソゴ ル族 通 史 』 の編 纂方 針 か ら も確認 で き よ う。 現 代 中 国は,回 民 反 乱,太 平 天 国 の乱 な どを反 清 闘 争 と して あ つ か うと きは,清 朝 を悪 者 に した て る。 モ ン ゴル 高 原 の諸 部 族 が 清 朝 か ら独 立 して い く経 緯 を 書 くと きは,清 朝 を祖 国 に格 上 げ す る。 そ の と き どき の政 治 政 策 に よ って 清朝 評 価 も変 わ る。 この よ うな状 況 か らみ れ ば,通 史 は 国 家政 策 を裏 づ け る根 拠 で,国 家政 策 を 正 統 化 させ るた め に あ る よ うにみ え る。

2.2  地 方 史(誌)が 受 け つ ぐ伝 統

  以 上,rモ ン ゴル族 通 史』 の性 質 を 回 民反 乱 に 対 す る描 写,位 置 づ け を とお して み て きた が,次 に 各 地 で編 纂 され た地 方 史(誌)に 視 点 を 変 え た い。 こ こ では 内蒙 古 自 治 区 イ ケ ジ ョー盟(オ ル ドス)の 地 方 史(誌),rイ ケ ジ ョー盟 誌 』 とrオ トク旗 誌 』 を と りあ げ る。盟 は 内蒙 古 自治 区 の下 位 行 政 組 織 で,ひ とつ の 盟 は 複数 の旗 か ら成 る。

現 代 イ ケ ジ ョー盟 は7つ の旗 とひ とつ の 市 か ら成 って い た7)(楊1991:457)。1980年 代 初 期 か ら修 史 作 業 が は じ ま り,1994年 に2冊 のrイ ケ ジ ョー盟 誌 』が 出版 され た(伊 克 昭 盟 地 方誌 編纂 委 員 会[以 下 「地 方 誌 」 と略 す]1994)。 まず,そ の構 成 は 以 下 の

よ うに な って い る。

第一冊 綜述 大事記

巻一   区域沿革 巻二   管轄区域 巻三   歴史紀要 巻四  民族 巻五   人 口

巻六   自然環境要素

  第二冊 巻七   自然資源 巻八   自然災害 巻九   自然環境 の質量 巻十  畜牧 業

巻十一 墾務(草 原開墾) 巻十二 農業

巻十三 林業 巻十四 水利潅潮i

  上 記 の な か で,「 大 事 記 」 は3万5千 年 前 の 「河 套 人 」 の 活 動 か ら は じ ま り,1988 年12月 を 終 幕 と し て い る(地 方 誌1994:19‑176)。 本 稿 が テ ー マ に し て い る 回 民 反 乱 も こ の 「大 事 記 」 の な か に 含 ま れ て い る 。

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楊  十九世紀モンゴル史における 「回民反乱」

  『イ ケ ジ ョー盟 誌 』 は 凡 例 の な か で,「 述 」,「記 」,「誌 」,「図」,「表 」,「伝 」,「録 」 な ど,7つ の体 裁 を と った とい う(地 方 誌1994:4)。 これ は 暗 に 司馬 遷 の 『史 記 』 の 伝 統 を踏 襲 して い る こ とを 示 す もの で あ ろ う。 誌 に は,当 時 の 地 域 最 高 責任 者 で あ る共 産 党 書 記 が 序 を寄 せ て い る。 それ に よ る と,rイ ケ ジ ョー盟誌 』 は 改 革 開 放 と社 会 主 義近 代化 建 設 の も とで 誕 生 した,オ ル ドス地 域 有 史 以 来 は じめ て の 「通 史 」 で あ る と位 置 づ け て い る(地 方 誌1994:1)。 修 誌 に あ た って は,唯 物 主 義 的弁 証 法 と歴 史 唯 物 主 義 の観 点 で 分 析 した 点 を 強 調 して い る(地 方 誌1994:2)。 史 誌 を 書 く 目的 は,政 策 決定 や 愛 国主 義 教 育 の た め に基 礎 的 資 料 と 「郷 土 教 材 」 を 提 供 す る こ とに あ る と明 言 して い る(地 方 誌1994:2)。 歴 史 上 の人 物 に 対 して は 論 評 を 加 え な い と い う(地 方 誌1994:4)が,実 際 は 共産 党 に抵 抗 した 人 び とを 「敵 」,「偽 」 と表 現 し(地 方誌1994:99),イ デ オ ロギ ーの 色 彩 が きわ め て濃 厚 で あ る。

2.3  地 方 史(誌)の な か の 「回 民 反 乱 」

  『イ ケ ジ ョー盟 誌 』 にお け る回 民 反乱 に つ い て の記 述 は少 な くと も表 現 上 は 客観 的 で あ る とい え よ う。 漢 籍 に あふ れ る蔑称 や差 別 的 な表 現 は採 用 され て お らず,も っぱ ら 「回民 」,「回衆 」,「回軍 」 に 統一 され て い る。 以下 で は,『 イ ケ ジ ョー盟誌 』 の 「 事 記 」 の 流 れ に そ って,オ ル ドス地 域 に お け る回 民反 乱 の経 過 を 整 理 して み よ う。

  陳 西,甘 粛 の 回民 が北 上 し,難 民 に扮 して綬 遠,帰 化(現 フ フ ホ ト市)に 流 入 しは じめ た の は,1862(同 治 元)年 閏8月 の こ とで あ る。 そ の後10月 に オル ドス 西部 の要 塞 で あ る花 馬池 が包 囲 され,清 朝 は オル ドス,ウ ラー ンチ ャブ盟 の モ ソゴル 兵 に黄 河 の 沿 岸警 備 を命 じる。 ま も な く隣 接 す る寧 夏 省 の 回民 も陳 西 ・甘 粛 回 民 に 呼 応 し,ア ラ シ ャ ン ・モ ン ゴル も危 険 に さ ら され る。 清 朝 は モ ン ゴル軍 に対 して,内 地 の 官 軍 と

        ジャサク

協 力 して 鎮 圧 に か か る よ う命 じ る が,一 部 の 旗 札 薩 克(王)は 病 気 を 理 由 に 積 極 的 で は な か っ た(地 方 誌1994:68‑69)。

  オ ル ドス7旗 の な か で,ウ ー シ ソ旗 と ジ ュ ソ ガ ル 旗 は 長 城 を は さ ん で 陳 西 省 と接 し て い た 。 こ の よ うな 地 理 的 な 環 境 の た め,両 旗 は ま っ さ き に 回 民 反 乱 軍 の 侵 入 を うけ た 。 『イ ケ ジ ョ ー盟 誌 』 も こ の 両 旗 の 札 薩 克(王)で あ っ た バ ダ ラ ホ(Badaraqu)王

と ジ ャ ナ ガ ル デ ィ(YJanarardi)王 の 各 地 で の 力 戦 を 記 し て い る 。1870(同 治9)年 6月 に,ウ ー シ ソ旗 の 管 帯 チ ョ ロ ソ ドル ジ(Cilorondorji)が トー リ ム寺(Totorim‑un S ‑e)で 陳 西 ・甘 粛 回 軍 を 攻 め,戦 死 し た と述 べ て い る(地 方 誌1994:69‑71)。 ル ドス へ の 回 民 反 乱 軍 の 侵 攻 も 大 体 こ の 時 点 で 終 息 す る 。 清 朝 と 回 民 蜂 起 軍 が 数 年 間 に わ た っ て 交 戦 を く りひ ろ げ た た め,ナ ル ドス 各 旗 は 多 大 な 損 害 を こ うむ り,田 畑 の

d83

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        国立民族学博物館研究報告  26巻3号 荒 廃 も回 復不 可 能 に陥 った と して い る(地 方 誌1994:71)。

  イ ケ ジ ョー盟 の下 位 行 政 組 織 の ひ とつ で あ る オ トク旗 政 府 が 編 纂 した 『オ トク旗 誌』

を み て み よ う。 オ トク旗 は オ ル ドス 地域 の北 西 に位 置 し,黄 河 を 西 に渡 れ ば寧 夏 回 民 地 域 に 入 る。 そ の ため,同 治 年 間 で は た び た び 回民 反 乱 軍 の侵 入 に さ ら され た。

  『オ トク旗 誌 』 は,リ西 ・甘 粛 回 民 が オ トク旗 に入 った 時 期 を1867(同 治6)年 して い る。 花 馬池,興 武 営,安 定 量,紅 山墾 な ど数 ヵ所 か ら なだ れ こん だ 回 民反 乱 軍 は 「牧 民 の 家畜 を数 千 頭 を略 奪 」 した とい う。 翌1868年 春,長 城 の 防 備 が 失 われ,馬 化 龍 の率 い る蜂 起 軍 が オ トク旗 に 入 る。 馬 化 龍軍 に よる 「略 奪 」,「殺 り く」 は3年 間

に及 ぶ 。 旗 の ほ とん どの地 域 が 回 民 反 乱 軍 に 焼 き討 ち に され た た め,オ トク旗 ジ ャサ ク(王)は 印璽 を携 え て外 地 へ 避 難 して い る8)(那托 克 旗誌 編 纂 委 員 会1993:13)。

  『オ トク旗 誌 』 は,『 イ ケ ジ ョー盟 誌 』 と同 じよ うに 「大 事 記 」 の なか で 回民 反 乱 を あつ か っ て い る。表 現 上 は 「起 義 軍 」(蜂 起 軍)と い う現 代 中 国で 固 定 化 した言 葉 を使 っ て い るが,「 起 義 軍 」 に よる略 奪,虐 殺 行 為 を 隠 そ うと して い な い。 一 般 的 に 通 史 の類 にお いて 農 民 「起 義 軍 」 を正 義 の 軍 隊 と して 描 く中 国 で は,そ の別 の側 面 を と りあげ る こ とは稀 で あ った 。通 史 類 は 中 央政 権 が残 した 資 料 を使 用 す る傾 向 が強 い 。 これ に対 し地 方 史(誌)はJ旗 や 盟 な ど地 方 棺 案 館 所 蔵 の 資料 に立 脚 し,口 碑 も参 照 す る。 この よ うに,依 拠 した資 料 の違 いか ら記 述 上 の 差 異 が生 まれ て い る。 記 述 上 の 差 異 は こまか い点 にお い て,往 々に して通 史 の 観 点 と方 針 の虚 をつ い て い る こ と も否 定 で き な い。

3現 代 の年代記 におけ る歴 史認識 の表象

  モ ン ゴル族 の一 部 が 中 国 に統 合 され て も,民 間 か ら年 代 記 が誕 生 す る とい う伝 統 は 変わ って い な い。 本 章 で は,現 代 の年 代 記 と現 在 を 生 き る人 々が どの よ うに 回民 反 乱 を叙 述 して い るか を例 示 す る。

3.1年 代 記 が 誕 生 す る地 域

  イ ケ ジ ョー 盟7旗 の ひ と つ,ウ ー シ ン 旗 は い ま だ に 地 方 史(誌)を 出版 し て い な い 。 ウ ー シ ソ旗 か ら は 数 多 くの 「文 史 資 料 」 や 「史 誌 資 料 」 が モ ン ゴ ル 語,漢 語 の 両 方 で

「内 部 資 料 」 と し て 公 開 さ れ て い る 。 ま た,『 ウ ー シ ソ旗 民 族 誌 』(U in  gosirun‑u d en一 emdeglel)の よ う な 地 方 史(誌)的 性 格 を も つ 資 料 も 謄 写 版 印 刷 で 出 版 さ れ て い る(Danis  1990)。 rウ ー シ ソ旗 誌 』 は 決 し て 執 筆 が 遅 れ た わ け で は な い 。 中

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十 九世 紀 モ ンゴル 史 に お け る 「回 民反 乱」

華 人 民 共 和 国 が 成 立 し て か ら1年 後,1950年 に や っ と共 産 党 政 権 が ウ ー シ ン旗 に 成 立 す る と い う政 治 的 背 景 が,ウ ー シ ン旗 の 歴 史 を よ り複 雑 に し て い る の で は な か ろ うか 。

オ ル ドス ・モ ン ゴ ル 人 は 古 くか ら歴 史 を 書 く こ と に 熱 心 で あ っ た 。1662年 に 書 か れ た 著 名 な 年 代 記r蒙 古 源 流 』 も モ ン ゴ ル が 後 金 国 に 征 服 さ れ つ つ あ る 時 期 に 誕 生 した も の で あ る(Mostaert1956)。 オ ル ドス に は 政 治 的 な 激 動 期 に 年 代 記 が 生 ま れ る と い う伝 統 が あ る 。 近 年 の 一 例 と して,チ ャ ガ ン ド ン(Carandung)の 著 した 『ウ ー シ ン 旗 の 歴 史 』(ワ inte eyintuga埇を あ げ る こ とが で き よ う。

チ ャ ガ ソ ドン の 『ウ ー シ ソ旗 の 歴 史 』 は,1982年5月 に ウ ー一シ ン 旗 モ ン ゴ ル 語 文 弁 公 室 か ら 謄 写 版 印 刷 で 出 版 さ れ た 。 総 数500部 が 印 刷 さ れ,オ ル ドス 西 部 で は 広 く流 布 し て い る 。 民 間 で は す で に そ の 手 写 本 も 現 れ て い る 。 な ぜ チ ャ ガ ン ドン の 著 作 が こ れ ほ ど 広 ま る の か 。 そ れ は チ ャ ガ ン ドン とい う人 物 が ウ ー シ ソ旗 の 近 代 史 に 深 くか か わ っ て い た か ら で あ る 。

3.2年 代 記 の著 者

私 が オ ル ドス で 調 査 を お こ な っ て い た と き,「 チ ャ ガ ン ド ン に イ ン タ ヴ ュ ー し な さ い 」 と何 回 も い わ れ た 。 今 や 故 人 と な った が,「 チ ャ ガ ン ド ソ な ら あ な た の 質 問 に 答 え られ る 」 と今 で も み ん な 口 を そ ろ え て い う。 「な ぜ チ ャ ガ ン ドン な の か 」 と 聞 く と,

「ウ ー シ ン旗 の 近 代 史 は 彼 が つ く っ た よ う な もの だ 」 と ま で 表 現 す る 人 も い た 。

『オ ル ドス ・モ ン ゴ ル 族 賢 人 百 人 伝 』(Ordul‑unラ σγπηmerged一 tobci)に チ ャ ガ ソ ド ソ の 略 伝 が あ る 。 以 下 で は,こ の 略 伝 に そ っ て そ の 人 物 像 を 整 理 す る 。

略 伝 は まず 「チ ャ ガ ソ ドソ は モ ン ゴ ル 語r漢 語,チ ベ ッ ト語 に 精 通 し,1940年 代 に ウ ー シ ン旗 で 名 を 馳 せ た 文 人,軍 事 家 で あ る 」 と評 して い る 。 氏 は1911(宣 統3)年 の 陰 暦6月16日 に ウ ー シ ン 旗 西 部 の ウ ス ソ チ ャ イ ダ ム と い う地 に 住 む 名 門 ガ タ ギ ソ部 (Qataginobor)の 牧 民 家 に 生 ま れ る(Qasbiligtul987:72)。 ガ タ ギ ン 部 は チ ン ギ ス ・ ハ ー ン ー 族 と 共 通 す る 神 話 上 の 祖 先 を 有 し,い わ ゆ る 「優 越 ク ラ ソ 」 に 属 す る (Qurbabaγatur1992)。 こ の よ う な 出 自 を も つ チ ャ ガ ン ド ソ は 幼 少 の こ ろ に 母 親 を 失 い,親 戚 の 者 に 師 事 し て 読 み 書 き を 覚 え る。1935年,24才 の と き に 青 海 省 の グ ソ ブ ン 寺 へ 赴 き,九 世 パ ン チ ェ ソ ・ ラ マ に 追 随 し,パ ン チ ェ ン行 蔽 漢 蔵 語 文 研 究 社 に 入 り, チ ベ ッ ト語 と 漢 語 の 研 究 を は じ め る 。 青 海 省 か ら 故 郷 内 モ ン ゴル に 帰 っ た の は1939年 の こ とで あ る(Qasbiligtu1987:73)。

チ ャ ガ ソ ド ン は 「新 学 」 を 求 め て 青 海 省 や チ ベ ッ トへ 行 っ た と さ れ て い る(Qas‑

biligtu1987:73)が,そ れ だ け で は な い よ うで あ る。1930年 代 前 半,内 モ ソ ゴ ル の ス

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国立民族 学博物 館研究報告26巻3号 ニ ト右 旗 の 王 a徳 王 こ とデ ム チ ュ ク ドン ロブを 指 導 者 とす る 「モ ンゴル 自治 運動 」 が 活 発 化 して い た 。1933年7月 に 徳 王 が ベ ー ル ン ・ス メ(百 霊 廟)で 自 治 政 府 を 樹 立 し た と き,九 世 パ ソ チ ェ ソ ・ラ マ も こ の 地 に と ど ま り(札 奇 欺 欽1985:63),宗 教 的 な 影 響 力 を 発 揮 し て い た 。 民 間 で は,チ ャ ガ ソ ド ソ は こ の 時 期 に パ ソ チ ェ ソ ・ラ マ9)に つ い て 青 海 省 へ 行 っ た と伝 え られ て い る 。 こ の こ と か ら,若 き 日 の チ ャ ガ ン ドン は 徳 王 の 「モ ン ゴ ル 自 治 運 動 」 に 共 鳴 して い た に ち が い な い 。

略 伝 に よ る と,チ ャ ガ ン ド ソは1942年 に 「赤 党 運 動 」 の 疑 い で オ ル ドス に 駐 屯 して い た 国 民 党 の 陳 長 捷 の 部 隊 に 逮 捕 さ れ た こ と が あ る と い う。 そ の 後1944年 か ら1949年 ま で ウ ー シ ソ旗 の モ ン ゴ ル 軍 を 指 揮 し,最 後 は 共 産 党 陣 営 に 帰 順 し た と し て い る (Qasbiligtu1987:73)。 し か し,実 際 に は チ ャ ガ ソ ド ソは 「国 民 党 ウ ー シ ン旗 党 務 書 記 」 を 長 く務 め た こ と が あ り,共 産 党 陣 営 へ の 「帰 順 」 も決 し て 平 坦 な 道 で は な か っ た こ と を,1940年 代 を 生 き た 人 び と が 証 言 し て い る。

共 産 党 時 代,チ ヤ ガ ソ ド ン は1952年 か ら フ フ ホ ト市 に あ る 「内 蒙 古 語 文 研 究 所 」 に 勤 め て い た が,1961年 に 職 を 解 か れ て ウ ー シ ソ旗 に も ど る 。1982年 に ウ ー シ ソ旗 政 治 協 商 委 員 会 に 入 り,執 筆 活 動 を は じめ る 。 『ウ ー シ ン 旗 の 歴 史 』 も そ の 成 果 の 一 部 で

あ り}ナ ル ドス の 歴 史 研 究 に 大 き く貢 献 して い る(Qasbiligtu1987:73‑74)。

略 伝 が 出 版 され た と き,チ ャ ガ ソ ドソ は ま だ 健 在 で あ っ た 。 あ る 情 報 に よ る と,彼 は1991年 に 病 気 で こ の 世 を 去 った とい う。 私 は つ い に こ の 著 名 な 年 代 史 作 家 に 会 う こ

と が で き な か っ た 。

3.3現 代 の年 代 記 に対 す る認 識

以 下 に と りあ げ るチ ャガ ン ドンのrウ ー シ ン旗 の歴 史 』 は,1982年 に 公 開 され た も ので あ る。 チ ャガ ン ドンが 生 前 に 勤 め て い た ウ ー シ ソ旗 政 治 協 商 委 員 会 の複 数 の委 員 に よ る と,1982年 に公 開 され た も のは,決 して チ ャガ ン ドンが 書 いた 原 稿 そ の もの で は な い 。検 閲 を経 て,修 正 を 加 え られ た もの で あ る とい う。 ナ リジ ナル 手 稿 は 公 開 さ れ る こ とは な い との説 明 を うけ た 。 現 在 公 開 され て い る 『ウー シ ソ旗 の 歴 史 』 を ど う 評 価 す るか,多 くの人 に意 見 を 求 め た 。 彼 らに よる と,チ ャガ ン ドンは 決 して親 共産 党 的 な 人物 で は なか った 。 ウー シ ソ旗 が 中 国 共産 党 に統 合 され てい く過 程 で,チ ャガ ン ドンの と った行 動 を彼 自身 の著 作 か らは 確 認 で きな い。 そ の点 で きわ め て不 完全 な もの で あ る との見 方 が 強 い。 人 々は チ ャガ ン ドソ 自身 が経 験 した 数 々の 事 件 の真 相 解 明 を 期待 して い たが,彼 の作 品 で は そ れ が ま った く触 れ られ て いな いか ら,謎 の多 い 人 物 との評 価 が い まだ に変 わ らな い 。

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十 九 世 紀 モ ンゴル 史 に お け る 「回 民反 乱 」

rウ ー シ ソ旗 の歴 史 』 は,オ ル ドス ・モ ソ ゴル族 が 後 金 国の 統 治 を 認 め た1635年 か らは じま り,共 産 党 に対 す る反 乱 が 鎮圧 され た1950年 春 で巻 を 終.xて い る。文 中 に は 社 会 主 義 史 観者 が好 ん で使 う 「封 建 的 」 や 「搾 取 」 な ど とい った 階 級 論 的 表 現 もみ ら れ るが,チ ャ ガ ソ ドソは決 して社 会 主 義 者 で は な い。 原 稿 を公 開 す るた め に,そ の よ うに 書 か ざ るを え な か った のか,修 正 され て そ うな った のか は,確 か め よ うが な い 。

3.4年 代 記 に お け る 回 民 反 乱 の あ つ か い方

チ ャガ ソ ドソは,回 民 反 乱 に つ い て特 別 に章 や 節 を設 け る こ と もな く,「 ウ ー シ ン 旗 に おけ る歴 代 軍 事 制度 」 の な か で言 及 して い る。 回 民反 乱 そ の もの を詳 述 す るの で は な く,モ ンゴル 族 の軍 功 を賛 え る のが 目的 の よ うで あ る。 以下,チ ャガ ソ ドソの 記 述 にそ っ て回 民 反 乱 の オ ル ドス地 域 へ の波 及 を 整 理 す る。

こ こで まず 重 要 な用 語 を説 明す る必 要 が あ ろ う。チ ャガ ン ドンは,回 民 を 「ホ トソ」

(gotung)と 呼 び,回 民 反 乱 軍 を 指 す 言 葉 と して は 民 間 で 定 着 して い る 「ム ー ・ホ ラ ガイ」(manuqularai)を 使 って い る(Carandung1982:85‑86)。 「ホ トソ」 とは,イ ス ラ ム教 を 信 じる定 住 農 耕 民 に対 す る遊 牧 民 側 か らの 古 い 呼 称 で,「 ム ー ・ホ ラ ガ イ」

とは 直訳 す れ ば 「悪 い盗 賊 」 とい う意 味 で あ る。

モ ン ゴル で は清 朝 の支 配 下 に 入 って 以来,旗 や ソム とい った 軍 事 組織 に編 入 され た とは い え,本 当 の意 味 で の武 装 は 許 され て い なか った 。 ウー シ ソ旗 に お い て 真 の軍 隊 が 登 場 した の は,「 ム ー ・ホ ラガ イ」(回 民反 乱 軍)の 侵 入 か ら草 原 と牧 民 を 守 るた め に組 織 され た チ ョロ ソ ドル ジ将 軍 を 指 揮 者 とす る500人 の軍 隊 が 最 初 で あ る とい う。

民 間 で は 「チ ョロ ン ドル ジ将 軍 の500人 」 と して親 し まれ て い る(Caγandung1982:

85)0

清 朝 末 期 に は 各 地 で反 乱 が あ いつ いだ 。 そ の うち の 指導 者 の ひ と りが 甘 粛 金 積 塗 の ポ トン(回 民)人 の 馬 化 龍 で あ ったlo)。馬 化 龍 は1867(同 治6)年 ころ に兵 を東 の 北 京 に進 あ,清 朝 転 覆 を狙 って い た。 途 中 オル ドス 地 域 の北 部,バ ラ ・ホ ト(今 の石 噴 山)あ た りで 馬 化 龍 が 死 ぬ と,そ の軍 の多 くは盗 賊 化 して ナ ル ドス地 域 に侵 入 して き た。 殺 人 と略 奪 を く り返 す 「ム ー ・ホ ラガ イ」 を 率 い てい た の は 田 没手 とい う頭 目で あ った。 田没 手 の部 衆 は チ ベ ッ ト仏 教 の寺 院 を破 壊 し,牧 民 の 天 幕 に放 火 した だ け で な く,幼 児 を含 む 人 び とを 大 量 に 虐殺 し,家 畜 は1頭 残 らず 略 奪 した 。 オ ル ドス地 域 を5〜6年 間 にわ た って 騒 が せ た 田没 手 の部 衆 は 西 の オ トク旗 か ら侵 入 し,ウ ー シ ン 旗 を 通 って東 へ 進 も うと して い た 。黄 河 を東 へ 渡 らせ て は 行 け な い との命 令 を受 けた オ ル ドス 各旗 は,懸 命 に 阻 止 作 戦 を試 み た。 なか で も と くに 「チ ョ ロソ ドル ジ将 軍 の

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      国立民族学博物館研究報告  26巻3号 500人 」 の 軍 隊 は 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 を 追 っ て 各 地 で 転 戦 し た(Carandung  1982:

86‑87)。 チ ャ ガ ソ ド ソ は 最 初 か ら 回 民 反 乱 軍 を 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 と 呼 ん で い る わ け で は な い 。指 導 者 が 死 去 し,統 率 が 利 か な くな っ た 段 階 の 反 乱 軍 を 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 と し て い る 。 そ の 点,こ の 年 代 記 作 家 は き わ め て 冷 静 な 態 度 を と っ て い る 。

  チ ャ ガ ソ ドソ は こ こ で2人 の 人 物 の 最 期 を 詳 し く述 べ て い る 。 回 民 反 乱 軍 の 頭 目 田 没 手 と 「500人 軍 」 の 指 揮 者 チ ョ ロ ソ ドル ジ 将 軍 で あ る。

  田 没 手 と 呼 ば れ る 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 の 本 名 は 誰 も 知 ら な い 。 以 前 に も 一 度 反 乱 を 起 こ した こ と が あ り,清 軍 に つ か ま っ て 北 京 に 送 ら れ た 。 武 器 を と る ま い と い う決 意 を 示 そ う と して 自 ら の 親 指 を 切 断 して 二 度 と 反 乱 しな い と誓 い,解 放 さ れ た 。 そ れ 以 来 漢 語 で 「没 手 」(指 な し)と 呼 ぼ れ る よ うに な っ た 。 田 は 苗 字 で あ る 。 田 没 手 の 部 衆 は 最 後 に ウ ー シ ソ旗 西 部 の トー リム 寺(写 真1,2)で チ ョ ロ ン ドル ジ 将 軍 た ち に 包 囲 さ れ た 。 弓 を 引 け な い 田 没 手 は 鞭 で 矢 を 叩 き お と す 非 凡 な 才 能 を も っ て い た 。 両 足 に 負 傷 し て 歩 け な くな っ た 田 没 手 は 沙 丘 の 上 に 座 っ て 矢 を 鞭 で 叩 き お と し て い た が,結 局,槍 の 名 人 ジ ダ ン ・ポ ロ に 刺 さ れ て 死 ん だ11)。 親 指 の な い そ の 腕 は 切 り と ら れ,ウ ー シ ン 旗 の 西 協 理 タ イ ジ で あ った バ ラ ジ ュル 公 に 渡 され た 。 パ ラ ジ ュ ル 公 は そ れ を 清 朝 皇 帝 に 献 上 した(Carandung  1982:87)。

  年 代 記 作 家 だ け が 敵 将 の 最 期 を と りあ げ て い る わ け で は な い 。 オ ル ドス ・モ ン ゴ ル 人 は 今 で も 田 没 手 の こ と を 覚 え て い る 。 田 没 手 ら の 略 奪,殺 り く行 為 を 非 難 す る よ り

写 真1  ト ー リ ム 寺 の 外 観

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十 九 世 紀 モ ン ゴル 史 に お け る 「回民 反 乱 」

写 真2  ト ー リ ム 寺 の 内 部

も,敵 将 の 勇 猛 な 最 期 を 賞 賛 す る 。 「彼 もバ ー トル(英 雄)だ っ た 」 と い う人 が 多 い 。   田 没 手 の 部 衆 が 平 定 さ れ た 後,他 の 反 乱 軍 が オ ト ク旗 か ら ウ ー シ ン 旗 に 侵 入 し て,

トー リ ム 寺12)を 占 領 し居 座 っ た 。 チ ョ ロ ン ドル ジ 将 軍 は 再 び モ ソ ゴ ル 軍 を 指 揮 し て 戦 っ た 。 双 方 と も 武 器 は 弓 矢 と 刀 が 中 心 で,ほ ん の わ ず か な 火 縄 銃 も あ っ た(図1)。

「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 側 は 歩 行 で,モ ソ ゴ ル 軍 側 は 騎 馬 で あ っ た た め,圧 倒 的 に モ ン ゴ ル 軍 が 優 勢 に 立 っ て い た 。 戦 い の 日 は 雨 で1火 縄 銃 は 使 え な か っ た 。 敵 陣 に 攻 め こ ん だ チ ョ ロ ソ ドル ジ 将 軍 は 寺 院 内 に 潜 ん で い た 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 に 銃 で 撃 た れ て 落 馬 す る 。 寺 院 内 の 銃 は 雨 に 濡 れ る こ と な く,威 力 を 発 揮 した 。 そ れ で も チ ョ ロ ン ドル ジ 将 軍 は ウ マ に 飛 び 乗 ろ う と し た が,長 い 弁 髪 が 鐙 に か ら ん で し ま い,そ の す き に

「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」 に 殺 さ れ る(Caγandung  1982:  ..)。 別 の 民 間 伝 承 に よ る と, 田 没 手 の 部 衆 に は オ トク旗 出 身 の モ ソ ゴ ル 人 女 性 が 加 わ っ て い た と い う。 名 前 は 不 明 で,「 オ トク 娘 」(Otor  Ke en)と 呼 ば れ て い た 。 チ ョ ロ ン ドル ジ 将 軍 を 打 っ た の も 彼 女 だ っ た と い う。 真 相 は 謎 に 満 ち て い る が,こ れ を 根 拠 に 「モ ソ ゴ ル と 回 族 が 団 結

して 反 清 闘 争 を し た 」 とい う見 方 は モ ソ ゴ ル 側 に は な い 。 た だ し,モ ン ゴ ル 人 女 性 が モ ン ゴ ル の 英 雄iを殺 害 した と い う語 りの 設 定 は,英 雄 の 悲 劇 的 な 最 期 を 一 層 鮮 明 に し て い る こ とは 明 らか で あ る 。

  チ ョ ロ ン ドル ジ 将 軍 の 死 後,セ ジ ェ ブ(Sejeb)と い う 人 物 が 「500人 の モ ソ ゴ ル 兵 」 を 率 い た 。 セ ジ ヱ ブ ら の 奮 戦 に よ っ て,1873(同 治12)年 に や っ と 「ム ー ・ホ ラ ガ イ 」

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