2020. 6 No. 5 261 ─ 268
研究報告
(研究プロジェクト)
メダリストへの軌跡
─藤丸真世─
藤 丸 真 世
【経歴】
1998 年 3 月 私立藤村女子高等学校卒業 2002 年 3 月 日本体育大学体育学科卒業 2005 年 4 月 日本体育大学大学院入学 2006 年 4 月〜現在 株式会社 TBS テレビ
2007 年 3 月 日本体育大学大学院体育科学研究科博士前期課程修了 2016 年〜 東京 2020 オリンピック・パラリンピック競技大会
組織員会メディア委員
日本スポーツ振興センター助成審査委員 日本スポーツ協会女性スポーツ委員 2019 年〜 日本オリンピック委員会表彰専門部会委員
【競技歴】
1992 年〜 94 年 JOC ジュニアオリンピック・ソロ優勝(3連覇)
1995 年 アメリカンカップ(ジュニア日本代表) デュエット2位 1995 年〜 1997 年 国民体育大会 東京都代表 デュエット2位
1996 年 世界ジュニア代表(ドイツ)チーム2位 1997 年 ナショナル B 代表(スイス)チーム2位
1998 年 ナショナル B 代表(スイス)デュエット1位・チーム1位 1999 年 ナショナル B 代表(スイス)デュエット2位・チーム2位 2000 年 ナショナル B 代表(ドイツ)デュエット2位・チーム2位 2001 年 世界水泳選手権 (福岡) チーム2位
2002 年 ローマオープン チーム1位 ワールドカップ チーム2位
2003 年 世界水泳選手権(バルセロナ)チームテクニカル1位 チームコンビネーション1位
チームフリー2位
2004 年 アテネオリンピック(ギリシャ)チーム2位
1.競技に出会ったきっかけ
私が一番初めに出会ったスポーツは水泳だっ た.3 歳の時に1歳年上の兄と一緒に習い事の 1 つとしてスイミングスクールへ通うことになっ た.両親はいくつかのスイミングスクールを探し,
自宅から車で 20 分ほどの場所にある当時から世 界レベルの選手を輩出していた国領にあるアクラ ブ調布(当時は金子スイミングスクール)を選ん でくれた.当時,私は兄と同じクラスで,週1回 の 1 時間だけだった.常に1つ上の年齢の子達の 中で泳いでいたが母は私が他の子よりもひと回り 身体も小さいことを心配して,「クラスを下げて ほしい」とお願いしたこともあった.しかし,私 は周囲が「溺れているんじゃないか」と思うほど 長く潜っていたり,兄に負けないくらいの速さで 泳いでいたという.その結果,クラスも変わるこ とはなく,当時の厳しいコーチが上級生たちと分 け隔てなく指導くれた事も相まって,泳ぎが速く なり,達成感を得られるとても楽しい習い事だっ た.
3 歳で始めたスイミングの他に,4 歳からはバ レエ,5 歳からはピアノを習っていた.小学校 2 年の時に,バレエの教室が解散となってしまうこ とになり代わりになる習い事を探していたとこ ろ,たまたまそのタイミングでスイミングスクー ルから「選手コースへのお誘い」という手紙が届 いた.選手コースには,競泳とシンクロナイズド スイミング(現アーティスティックスイミング,
以下シンクロと表記)があり,バレエに代わる女 の子らしい習い事をさせたいという母の勧めもあ り,音楽に合わせて泳ぐ,シンクロに通うことを 決めた.
私はシンクロというスポーツを知らなかったの で,初めて見たときは水の中から足や手が飛び上 がったり,クルクルと回っていたり,今まで見た ことのない世界が広がっていて泳いでいるお姉さ んたちがキラキラしていて,とても格好良いな,
との印象を抱いた.
1984 年のロサンゼルス五輪から採用されたシ ンクロだが,私が習い始めた頃は,メジャーなス ポーツではなかった.それが 1988 年ソウルオリ ンピックで小谷実可子さんがソロで銅メダルを獲 得し,テレビでの大きく取り上げられると,シン クロというスポーツは一気に世の中に認知される 事となった.とはいえ,その後もしばらくはシン クロというスポーツのルールや日本代表がどのく らいの成績を残しているのか,世間一般に理解さ れるには時間がかかったように思う.当然,クラ ブ活動として実施してる学校などはなく,友達か らは「シンクロってなに?」と聞かれることも何 度もあった.そして,私が出場したアテネ五輪ま で日本代表チームはメダルをとり続けた.今では 日本のシンクロは強い!必ずメダルを獲る!と多 くの人が思ってくれている.シンクロを知らない 人は殆どいないといっても過言ではないだろう.
シンクロの練習は小学生のときは大体週4回.
その後,チームのレベルが上がる毎に練習量と時 間は増えていった.学校から帰るとすぐに練習道 具を持ち,練習に行く.そんな毎日を送っていた ので,シンクロの練習に行くことは寝る事や食べ ることと同じように,生活の一部となっていった.
また,高校生以下の夏の時期には1年で一番大き な全国大会でもあるジュニアオリンピック(以下,
JO)があり,夏休みは毎日朝 10 時〜 17 時頃ま で練習に励んでいた.その結果,中学1年の時に,
12 歳以下の部で初めてソロ・デュエット・チー ムで優勝するという経験をさせて頂いた.そのと き苦しい練習や合宿があっても,大会で勝つこと で得られる充実感,もっと上手くなりたい,とい う向上心が同時に芽生えていった.
中学は地元の中学へ通っていたが,大会や合宿 で,学校に通えなくなることも多くなってきたた め,高校進学時には,シンクロの競技活動に理解 のあるところを両親と探し,家から通いやすくス ポーツコースのある藤村女子高等学校の推薦入試 を受けた.藤村女子高のスポーツコースには,そ れぞれのスポーツに本気で取り組んでいるクラス
メイトばかりだったので,競技は違えど同じ目標 を向かう事から友人もたくさん出来,非常に恵ま れた高校生活を送る事ができた.高校時代の練習 では,朝 5:30 〜アクラブ調布で朝練が終わると バスを乗り継ぎ吉祥寺にある高校へ,授業が終わ ると,今度は電車とバスを乗り継ぎ向ヶ丘遊園に ある専修大学のプールをお借りして練習.帰宅は 23:00 頃となっていた.毎日ヘトヘトになって 自宅にたどり着くとご飯を食べて,寝ることが やっとだった.そんな日々を送っているとすぐに 2 年になった.今後の進路についてふと考えたと き,身体を動かすことが好きで,生徒指導もして いる体育の先生がとても格好よく感じていたので
「将来は体育の先生になりたい」となんとなく体 育大学への進路も意識していた.
シンクロでは春の時期に日本選手権が開催され る.中学生以上に出場権がある日本選手権は,最 大の目標の大会だった.また同時に日本代表の選 考会も行われる.私は高校1年のときに初めて ジュニアの日本代表に選ばれ,その後の夏の大会 は日本代表チームとして海外で行われる国際大会 へ出場していた.日本代表は全国から選手が選ば れるため,春の日本選手権が終わると,大阪や静 岡のプールで長期の合宿生活が始まる.夏の大会 に出場し終わると,また秋からは各クラブに戻り それぞれ練習することになる.
高校時代に終わりを告げる頃,ぼんやりと思い 描いていた将来体育教員になるという夢と競技活 動を継続するという 2 つの目標を達成するために 私は日本体育大学への進学を目指す事にした.日 体大への進学は学校の成績と,競技の成績の両方 が必要だった.成績はクリアしていたとしても,
日体大の水泳部にはシンクロは無く,まず学校で 受け入れてもらえるのかが非常に不安であった.
加えて入学試験のある日には,文部科学省から国 際親善交流でブラジル・アルゼンチンへの遠征が 決まっていた.試験が受けられないと思い,日体 大への進学は半ば諦めかけていたが,大学側で私 の事情を理解してもらえたことで,別日程で特別
入学試験を受ける事ができた.入学試験ではこん な記憶が残っている.面接官の先生からのこんな 質問があった.「あなたのシンクロでの最終目標 はなんですか?」と.私は迷わず「日本一になる ことです」と答えたが,「日本一ですか?」と怪 訝な顔をされた.(・・・あれ?日本一じゃダメ?)
と思い顔が真っ赤になりドキドキしていると,「世 界一ではなく日本一ですか?」と聞き返された.
私は,日体大は日本で一番という目標ではレベル が低いんだ,世界の頂点を極めたいという志の人 たちしか合格もしないし,通えないんだと思い,
その時ハッとさせられ,もっと上を目指そうと,
心に決めた.そして,この大学で志の高い人たち と学校生活を送りたいと思い大学に入学できるこ とをとても楽しみにしていた.
2.日体大での思い出(選手生活の思い出)
その後,私は無事に日体大へ入学ができた.日 体大は部活動単位でクラスが分かれている.先に も書いたように日体大にシンクロは無い.大学で シンクロをしているのは私 1 人.大学生活に不安 と期待がある中,友達ができるかどうかも不安 だった.そこで,入学前にお願いさせていただい たことが 1 つだけある.それは「水泳部の一員に させてもらいたい」ということだ.その希望が通 り,私は水泳部がある健志台では1クラスしかな い女子クラス「Q クラス」になることができた.
しかも担任の小早川先生は水泳部の顧問だったこ ともあり,水泳部の友人,先輩,後輩もたくさん できた.1 クラスしかないため,クラス全員が仲 よくなり他競技の友人も増え充実した楽しい学生 生活を送ることができた.体育の授業は全て専門 の先生が教えてくれるので,バレーボール,バス ケットボール, 柔道や相撲,体操,ゴルフやサッ カーなど,元五輪代表やメダリストの先生たちが 指導してくださるので毎日が最高の学びであっ た.そして水泳部の先生方にはとてもお世話に なった.基本的には外部で活動している私は練習
が休みの時は,自主練がしたいと,水球部の練習 中のプールの端を使わせて頂き,練習をした.当 時清原先生率いる日体大水球部は日本一強く,そ の練習は凄まじい量と質.自主練習をしながら こっそり見ていた私は,その凄まじい練習に「自 分はまだまだ足りない」,と更に練習に励むこと ができた.そして話は変わるが練習以外では,当 時健志台キャンパスの事務局の教学局の方にも大 変お世話になった.日体大では日本代表としての 活動と日本選手権や合宿などで授業に出られない 時には公認欠席を認めてくれる制度があった.学 生は個人で教学局へ行き「公認欠席届」を事務局 の方々に作成して貰うのだが,部活動単位で動く ものについては先生が届け出を出してくれるとの ことで,友人に聞いてもどう申請したらいいのか わからなかった.部活動がない=全部自分で何も かもやらなくてはならないのだ.そこで頼りに なったのが教学局の事務の方だった.私の拙い説 明でも優しく対応してくださり,提出物や申請の 仕方など丁寧に教えてくれた.その後も何か困っ たことがあると,すぐに相談に乗ってくれたり,
とても頼りにさせて頂いた.また,各教科の先生 には,自分がどういった種目で活動しどういう選 手なのか,1 人 1 人説明をして回った.私は,部 がある人たちを羨ましく思うこともあったが, こ の事を一人でやった事は,後の自分の自信につな がったと思っている.1 人 1 人の先生と自分が直 接話すことで, 私の顔と名前を覚えてもらえる きっかけとなった,そしてシンクロという競技に も興味をもってくれた.一度でも話したことがあ る先生は,公欠をもっていく度に,「藤丸!次は どんな大会に行くんだ?頑張れよ!!応援してる からな!」などと非常にフランクに声をかけても らえるようになった.その事は最高に私に力を与 えてくれた.
3.オリンピックでのメダル獲得
2000 年シドニーオリンピック.私は最終選考
会で落選した.大学 2 年の時だった.最終まで残っ たのは 13 名.その中から 9 名が五輪選手として 選ばれた.選考会当日.私は「もしかしたら,い けるかもしれない」という淡い期待と数パーセン トの可能性にかけていた.その気持ちは人一倍練 習した自負もあったし,本番中も「隣の人より私 の方が絶対うまい演技ができた!」という気持ち だった.完璧に泳ぎきったはずの私の結果は 12 位.到底及ばずの落選.なぜ落選したのか…自分 の中であの苦しい合宿から解放された気持ちと,
選ばれなかった悔しさと,本当に悔しかったのだ ろうかという複雑な感情と,明日からどうしたら いいのだろうかという不安で,心はとても混乱し ていた.帰宅すると,家の前で母が出迎えてくれ た.そのときコーチは母に「真世ちゃんは本当に よく頑張ったんです.」と言った.そして私には「少 し休んでまた連絡頂戴ね.」と言った.すでに心 の中が「無」となっていた私は,突然涙が溢れ出 てきて,止まらなくなった.泣きじゃくる私を見 て,母は驚いてこう言った.「オリンピックに行 けるなんて夢にも思っていなかったから,娘がこ んなに泣くなんて.本当に頑張ったんですね」と.
私は初めて自分を追い込み,こんな経験をしたの は初めてだったからか,複雑な悲しみが押し寄せ,
もしかしたら,あと一歩でオリンピック選手にな れたのかと思うと,しばらく立ち直ることができ なかった.
この結果に初めて自分はシンクロを「やめる?」
ということが頭をよぎった.だが,すでに生活の 一部になっていたシンクロを今やめる勇気はな い.けれども今は泳ぎたくない,水をみたくない,
何もしたくない…と思う日が続いた.次の目標も みえずコーチに「もう水を見たくないので,しば らく練習を休ませてください」と伝えると,それ きり全く練習に行かなくなった.人生で初めて,
最も何もしないダラダラとした日々を過ごしてい た.ある日,コーチから来年 2 月に韓国で行われ る東アジア選手権のソロに選ばれた,と連絡が あった.しかしすっかりやる気を失っていた私は,
やる気を取り戻せないまま,それを目標にし,な んとなく練習を再開し,なんとなく形にして試合 へ出場してしまった.もちろん結果は出ない.ア ジアでは敵なしの日本のはずが,このとき私は日 本代表 3 位という結果にしてしまったのだ.申し 訳ないと思った.
その夏,シドニーオリンピックが始まり,私は 部屋で一人,シンクロを見ていた.長い間,一緒 に合宿や練習をした先輩やチームメイトがテレビ の向こうで,もの凄い緊張感の中,メダル獲得の ために必死に泳いでいた.素晴らしい息のぴった りとあった演技に世界中が感動し拍手をしてい た.結果はロシアに次いで 2 位.これまで日本が 獲得したことのないメダルの色だった.テレビ画 面を通して見ていた私は,複雑な感情に胸が押し つぶされそうになった.演技には感動して涙がで た.そして私はこのまま本当にシンクロを辞める のか….そのときだった.五輪に出場したジュニ ア時代から日本代表チームとしてずっと一緒だっ た親友,大阪のラサスイミングスクールに所属(現 在はパシオスイミングスクール)の巽樹理から電 話があった.私はその電話で泣きながら,おめで とうと伝えた.このときの電話は私の人生を変え ることになった.
「真世,次のオリンピックに私は真世と行きた いねん.次は一緒に泳ごうや!オリンピックは今 までとは違って本当に大変やけど….でも,もし これで引退したらきっと私も後悔する,次のオリ ンピックがきっと最後になると思う.もし引退す るとしても最後に一緒に泳いで引退したいねん.」
と.この時,私は「一体何をしているんだろう,
早く本気にならないと!」とこの半年の自分に恥 ずかしくなり,同時に身体からエネルギーが湧い てくるのを感じた.樹理の言葉が本当に素直に嬉 しかった.樹理は関西,私は東京で中学 1 年のジュ ニアオリンピックでメダル争いをしたときからの 戦友だった.そして高校 1 年の時,ドイツのジュ ニアワールドの日本代表に選ばれたのも同時だっ た.そこからはほぼ毎年ジュニア代表合宿で一緒
になり悪ガキ 3 人と呼ばれたほど,常に一緒だっ た.このとき私は 21 歳.約 9 年間も一緒に代表 として戦ってきた大親友だった.言葉にならない 思いが込み上げてきて,次は樹理と一緒に泳ぎた い! オリンピックにでたい!と改めて思い本気 で練習を再開することにした.
オリンピックを目標とし,それに向けて次の日 本代表選手選考会で 1 位通過を目標に練習を再開 した私は,このまま前と同じ練習をしただけでは 何も変わらないと思い,人一倍練習することを決 めた.そしてまずは 自分の肉体改造からはじめ ようと考えた.私はそもそも身体が硬い,まずは そこを何とかしたいと思った, 思いついた最大の 結果は足の筋を切る,ということだった.なぜそ う考えたのかというと,他のクラブの選手から昔 聞いた話があったからだ.足を台と台の上に開く,
そして上からコーチが押すと筋が切れて柔らかく なった,という話を聞いていたからである.もち ろん今までも厳しい柔軟をしてきたが,それでは 足りないと感じたからこそそこに行き着いた.し かし,残念ながら私は硬すぎて台の上に足をおい てもバウンドするほど,筋が頑丈だった.「仕方 ない,手術して切ろう」と決めた.しかし手術に 関しては母には理解を得たものの,私のコーチは 反対だった.手術でまずは切れないし,切ったら 練習ができない,と言われたからだ.そこで,方 法を変えた.私はコーチの紹介で新体操のクラブ に通うことにした.静岡にある水鳥体操館.ここ で新体操の子供達と混じって柔軟を受けた.(こ の時は知らなかったが,同じアテネオリンピック に出場した,体操の金メダリスト水鳥寿思さんの お母様がコーチだった.)次に行ったのは,どん な動きにも対応できるような身体を作るため,
P N F ( P r o p r i o c e p t i v e N e u r o m u s c u l a r Facilitation) に通うようにコーチに指示された.
これは自分の体を自由に思い通りに水中で動ける 筋肉をつけるためだった.肉体の改造に必要な期 間は約 3 ヶ月.私は休むことなく通った.徐々に 自分の身体が変わっていたのが分かった.コーチ
も私の練習の仕方の変化に気づいていた.コーチ が注意したことが,すぐにできるようになってい たのだ.
そして,迎えた代表選考会,今までのトレーニ ングの成果を発揮することができ,目標だった1 位で日本代表に選考された.2000 年冬,私は大 学 3 年になっていた.
初めての日本代表 A としてのデビュー戦は 2001 年の福岡で行われる世界水泳で迎える事と なった.日本で行われる最高の舞台で,先輩方の 築きあげてきた歴史を繋がなくてはならないと,
自分のレベルアップに更に必死だった.練習も厳 しく今までのメンタルでは到底難しく自分自身の 意識も徐々に変わっていった.その年は合宿ばか り続いた.年末年始も返上して静岡のサイクルス ポーツセンターでの合宿.ほぼ家に帰ることはな く約 8 ヶ月間の合宿生活を送った.私はチームの 中でも大役のリフトに上がる選手に選ばれた.し かしその 2 ヶ月ほど前に,「はしか」に罹患して しまった.大阪で合宿中,風邪と診断され高熱が 続いたこともあり帰宅を余儀なくされたものの,
歩くのもやっと,大阪駅まで辿りつけるかどうか も不安だった.1 人フラフラしながら新幹線にの り,何とか東京の自宅まで到着すると,そのまま 倒れるように病院に向かった.そして診断結果は
「はしか」.そのまま入院せざるを得なくなってし まった.今まで練習でやってきたことができなく なってしまう不安と,チームメンバーから外され てしまうのではないかという不安が頭を過った.
なんとか約 2 週間後に練習に合流はできたもの の,やはり出来るようになってきていた,高さを あげる「立ち泳ぎ」や「列並びの感覚」,「リフト の上の感覚」など,筋力や体力や感覚などが無く なっていたのがすぐにわかった.その後,なんと かギリギリ本番には泳げる状態にもっていった が,思わぬ代表デビューでチームメイトとコーチ には本当にとても迷惑をかけてしまった.大会の 結果は,ロシアが 1 位.日本チームは 2 位. 大 会までの経緯は順調とは言えないが,代表デ
ビュー戦でこれまでの歴代代表チームが築き上げ た順位を落とさなかったことには,ほっとした事 が強く記憶に残っている.
アテネオリンピックの日本代表選考会は 2003 年の 12 月に行われた.選考会は審判員の前で規 定の要素が入った演技を 1 人ずつ泳ぐものであっ た,五輪に行けるのは 9 名.私は全体の 5 位で日 本代表に選出されることができた.そして早速,
1 月からグアム合宿が始まった.本番のアテネオ リンピック大会の会場であるプールは屋根の工事 が間に合わず屋外になるという事だった.グアム ではその事を見据え,なるべくアテネの夏に近い 環境での合宿を行うことになった.外のプールは 屋内プールと違い,上を見ると青空が広がってお り,風もある.また小雨が降っていても大会は行 われる.まったくこれまでとは異質な合宿となっ たが,この合宿ではどんな環境下でも本番でベス トな演技ができるよう何度も何度も練習を繰り返 した.基本的な練習時間は,朝 8:00 〜夜 22:
00 まで.日差しが強い日中 14:00 〜 16:00 頃 は陸上トレーニングやミーティング,ランドドリ ル(陸で演技を音楽に合わせる練習のこと)であっ た.このメニューからも分かるように,ここでは 根性も鍛えられた.一番長く練習をし,水から上 がったのは昼食を食べる 15 分〜 20 分.朝 7:00
〜夜 23:00 までのスケジュール.加えて体重管 理や食事管理,朝食前に必ず陸上トレーニングを 30 分.過酷な日々だったが,「オリンピックとい うものはこういうもの」,と信じて歯を食いしばっ て練習をした.来る日も来る日も夜中まで練習と ミーティングをした.完璧な演技をするために.
そして本番のアテネオリンピックは,シンクロ チームは早めにアテネ入りした.日本代表監督の 井村先生は開会式に必ず選手を出席させるという 方針だった.開会式に出席することで,自分たち がこれからどんな試合に出場するのか,自分で感 じて欲しいということだった.私たちは開会式で その空気を感じたあと,一度選手村を離れ現地の 別の場所で合宿をし,再度選手村に入った.会場
では練習時間が長く取れないためだった.
アテネでは先に試合を終えた柔道の野村忠宏選 手の金メダル に始まり,谷亮子さんや,競泳の 北島康介さんなどの金メダルラッシュとなってい た.女子レスリング選手団と同じ棟に住んでいた 私たちは,「この流れにのるんだ」と意気込んで いた.本番には当時選手団団長の井上康生さんも 応援に駆けつけてくれたり,会場もチケットが手 に入らないほどで満席だった.世界中からロシア と日本との戦いと思われていたこともあり,日本 の演技前の会場の声援はもの凄いものだった,私 は声援があればあるほど力が湧いてくる.本番は まずは落ち着き,演技中は先生の注意を 1 つ 1 つ 思い出し,あとは全力で泳ぐこと,泳ぎ切った時 に私の足は溺れかけてしまうほど全力を出した.
結果はチーム 2 位.ロシアチームには負けてし まったが,「これが今のあんたたちの実力」と先 生に言われた.日本の結果は良かったとも悪かっ たとも言えないが,私たちがあの時あの場所で出 せる力は精一杯だった.だからあれが結果なのだ.
もちろんこの結果に悔いは全くない.むしろ私と 一緒に泳いでくれた当時のチームメイトやチーム を支えてくれた全ての人に感謝したい.
4.その後の人生
25 歳で五輪に出場したが,その後の人生は何 も考えていなかった.それまでシンクロが全てで 考える時間も隙もなかったと思う.五輪が終わっ た直後に母は私をどこかに就職させなければと 思っていたようだ.シンクロしか知らない私は,
就職試験なんてもちろんどうしたらいいかわから ない.
母は私に「テレビの仕事とかはどうかしら?」
と薦めてきた.メダリストとなったこともあり,
テレビに出ることも多々あったが母はタレントに なることは許さなかった.そこで母はテレビに出 たいならテレビ局の仕事をしたらいいのでは?と 私に勧めたのだ.テレビの仕事は過酷だとはなん
となくわかっていたが,今まで私たちのことを取 材してくれていたテレビの人を思い出した.そし て色んなスポーツ選手の真の姿を取材してみた い,と思った.早速,各局のテレビ局をネットで 調べた,ところが私の年齢はすでに 25 歳.すで に年齢制限でどこも難しいことを知った.しかし 私が第一希望だった TBS は 26 歳入社までエント リーシートを受け付けていた.慌ててエントリー シートを送り就職試験を受けることができた,そ して縁あって現在は TBS テレビに在籍をしてい る.同時期日体大の小早川ゆり先生から大学院を 勧めて頂き大学院の試験も受け,大学院にも通っ た.
オリンピックを終えてから休むことなく.大学 院へ通い,TBS へ入社.スポーツ局へ配属され,
また別の意味の過酷な日々を送った.結婚もして 子供 2 人に恵まれた.そして,13 年間スポーツ 局へいたが,現在は異動して別の部署で働いてい る.スポーツ選手が会社員になることは本当に甘 くない.しかしスポーツで学んだことも生かせる ことは沢山ある.また,現在はスポーツイベント や講演会に呼んで頂けることも増えた.ここでは シンクロの楽しさ,スポーツを通して学んだこと なども伝えている.
自分が培ってきたものは決して無駄なことはな かった.今後は次世代の子供たちの力にもなりた い,そして多くの人にシンクロを知ってもらいた い,私が今できる大事な役割だと思っている.
5.後輩に一言
私は大学に部活として存在する競技を行ってい なかったので,学校生活とシンクロの環境が分か れていた.学校生活が楽しく過ごせていたことが,
厳しい競技生活を続けられた一つの要因だったと 思っています.
しかし,部活動であっても,スポーツでは,何 か楽しいことが少しでもあれば前向きに続けてい られるものだと思っています.
私の競技生活の最後の 1 年,オリンピックの年 には流石に辛い事の方が多かったですが,その辛 い記憶はコーチやチームメイトと共に獲得したメ ダルの重さを実感し頑張って良かったと感じま す.結果だけでなくそこに至るまで悔いのないよ
うに生きる事が今の人生にも繋がっていると思い ます.
「今」が頑張りどきだと思ったら,そこは歯を 食いしばって頑張って欲しいと思います.試練は 乗り越えられる人にしか与えられないのです.