【論文】
ベルクソンにおける自由の諸条件
-『意識に直接与えられたものについての試論』第三章を中心に-
西山晃生
はじめに
『意識に直接与えられたものについての試論」(1889,以下『試論』)の第三 章でベルクソンは自由というテーマについて論じている。だが、その記述は 伝統的な自由論に慣れ親しんだものを当惑させずにおかない(1)。自由とは 何であるのかを定義し、その上でわれわれが自由であるか否かを論ずるのが 通常の自由論であるとするならば、彼の議論はそのようなものとはかけ離れ ている。自由は「まさにわれわれが自由であるがために定義不可能である」
(DI165)というのだから。かといって、われわれが自由について何も知る ことができないのかといえば、そうではない。むしろ逆である。たとえば、
章の末尾近くになって彼は次のように断言する。
…自由はひとつの事実であり、確認される諸事実の中でこれ以上に明白 なclairものはない。(DI166)
従って、自由は解明すべきものではない。もしわれわれが自由というもの の姿を見失っているならば、われわれを自由から遠ざける要因をこそ明らか にしなければならない。ベルクソンにとって「自由の問題は誤解から生じた」
(DIl80)ものに過ぎない。われわれは、自らのあり方を正確に理解しない からこそ、自由を否定したり定義したりしなければならないのである。
「試論』とは別のある箇所で、ベルクソンはこう明言する。「自由は完全 に自分自身であること、自らに適う形でenconformiteavecsoiふるまう ことに存する」(M833)。これに従うなら、われわれはみな自由でありうる。
しかし、ひとたび自由を言い表そうとすると、言葉への置き換えという営為 そのものが自由の本義を損ねてしまう。言葉は動いているものを固定化し、
独自のものを共通領域へと移し変えることによって、われわれの自分らしさ
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を歪めてしまうからである。『試論」において彼が形を変えて何度も記述す るのはこのような事態に他ならない。
以上のように自由を理解するなら、自由を論じる際には何よりもその論じ 方そのものに細心の注意を配る必要があることになるだろう。実際のところ、
「試論』第三章の大部分は、誤った問題設定と無理解によって自由というも のが取り逃される仕方を分析し、批判することに費やされる。
しかし、ここでひとつの疑問がわく。自由が「明白な」事実であるという ことと、われわれが実際に自由であることとは関係があるのだろうか。自由 というものを適切な形で理解していないときにも、われわれは実は自由にふ るまっているのだろうか。言い換えれば、自由に関して事実のレベルと理解 のレベルとは別に考えるべきだろうか。「われわれの自由な活動の過程が、
いわばわれわれの知らぬ間に、意識の暗い深みでは持続の全瞬間において継 続されているということ…」(DI187,notel)というような記述に触れる 限りでは、このように解釈して問題ないように-見思える。この引用文に関 しては詳細な検討が必要なのであるが(2)、ここでは事はそう単純ではない ということだけ示しておこう。たとえばベルクソンはこんなことを述べる。
…自己自身を観察し、自らがなすことについて推論することにこの上な く習熟した者にとってさえ、自由な行為は稀である。(DI126)
短い引用であるが、ここには先に提示した解釈を覆す要素が少なくとも二 つ見出される。第一に、自由に関して事実のレベルと理解のレベルとは少な くとも無関係ではない(「さえmeme」という言葉遣いは、通常であれば自 己観察に長けた者はその分だけ自由になる、という事態を示唆する)。第二 に、われわれは常に自由であったりなかったりするのではない(そして自由 であることは圧倒的に少ない)。
本稿において、われわれはこの二つの事態に注目する。ベルクソンに従え ば、自らを理解する仕方はわれわれのあり方と密接にかかわるし、われわれ が自由である(あるいは自由でない)ことにも決定的な仕方で影響する。そ して、われわれは不正確な仕方で自己を理解することを半ば余儀なくされて おり、そのために自由は困難かつ稀なものになる。
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以下、われわれは本稿の記述を次のように進める。第一節ではベルクソン の自由論のアウトラインを提示する。第二節では先述した事実のレベルと理 解のレベルとの関係を論じ、それがベルクソンにおいて決定的な重要`性を持 つことを示す。以上を踏まえて第三節ではいつ、いかなる条件でわれわれは
自由になるのかという問題を論じる。
第一節行為と自由
ベルクソンの自由論を概観するにあたって、先程引用した文から出発した い。「自由は完全に自分自身であること、自らに適う形でふるまうことに存 する」。従って、ベルクソンにおいて自由とは行為の自由である。より詳し くは「具体的自我とそれが遂行する行為との間の関係」(DI165)に自由は求 められる。議論はこの「具体的自我」と「関係」のあり方をめぐって展開さ れることになる。
ベルクソンがまず批判するのは意識の「連合主義」的なとらえ方である。
「連合主義」は「自我を精神状態の集合として表象し、その中で最も強いも のが支配的な影響力を振るい、他の諸状態を従えると考える。この説は従っ て、共に存在する精神の諸事象を明瞭に区別する」(DIll9)。ここでは
(1)自我を諸々の精神状態へと細分化し(2)それらの精神状態を、われわ れを行為へ導く「動機」あるいは「力」に仕立て上げる、という二つの操作 がなされている。そして、「勝利は必然的により強いほうにもたらされ続け るだろう」(、1128)ということが明らかなので、「連合主義」は不可避的に 決定論を導くことになる。
意外なことに、大半の行為がこうした動機によって説明されることをベル クソンは認める(DI112)。だが、反例をなすような例外的な状況もある。わ れわれは時として動機が行為の後から付け加えられることを知っている、と いうのである。
綿密に自問すれば分かることだが、決意はすでになされているのに、わ れわれは動機を吟味したり熟考したりすることがある。ほとんど知覚で
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きないような内部の声がささやく。「何を考え続けているのだ。お前は もう結果を知っているし、自分が何をするのかも分かっているではない か。」(、1119)
ここでは行為の観念が先にあり、それに見合うような動機が求められてい る。この場合、先程とは逆に動機のほうが行為から説明されなければならな いことになる。それは、行為が熟慮の末になされるとき、動機もまた変容し 続けているからである。ある心理状態がある行為を引き起こす動機あるいは 力となるためには、その行為をもたらすような何ものかを有していなければ ならない。「なるほど、ひとたび最終的行為がなされたならば、すべての先 行条件にそれ固有の価値を割り振ることができるし、また、これら多様な諸 要素と組み合わせた働きを、諸力の葛藤あるいは複合の形で表象することが できる」(、1143、強調引用者)。従って、行為が終わった後でならば、その 行為の動機となった心理状態を特定することができるだろう。行為をもたら すものが何であるかは、当の行為がなされた後で、そしてその条件において のみ確定する。この議論を受け入れるならば、連合主義的決定論は無意味な ものになる。行為が動機によって決定されているということを、行為がなさ れた後の地点に立って主張するからである。
連合主義的決定論の根本的誤りはしかし、心理状態を動機、あるいは力へ と仕立て上げたことにあるのではない。
…決定論者は、諸々の深刻な情動や魂の深層の状態を力に仕立て上げ るのを控えるときですら、やはりそれらを相互に区別し、こうして自我 についての機械論的な考えに到達する。二つの相反する感情の間でため らい、行ったりきたりし、最後にはどちらか一つを選択する自我を、決 定論者はわれわれに示すだろう。自我とそれを揺さぶる感‘情はこうして、
選択の操作がなされるあいだ常に自分自身と同一であり続けるような、
はっきりと限定された事物と同一視されることになる。しかし、熟慮す るのが常に同じ自我であり、その自我を動かす二つの相反する感情がそ れと同様に変化しないのであれば、決定論者が援用する当のこの因果論 の働きからしても、いかにして自我は決断できるのだろうか。(DI128-9)
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自我をそれぞれ孤立した複数の状態へと細分化するというまさにそのこと 自体によって「連合主義」は熟慮から決断へと至る心の動きを説明できなく なる。熟慮がそれら諸状態の間の相克であるなら、自我の全体としては何一 つ変わっていないことになるだろう。しかし、熟慮とはまさに自我全体の変 容のことを指すのである。
熟慮のすべての瞬間において、自我は変容し、従って、自らを動かす二 つの感情をも変容させる。こうして、相互に浸透しあい、強化しあい、
自然な発展によって自由な行為へと達するであろう諸状態からなるひと つの動的系列が形成される。(DI129)
ここでベルクソンは二者択一へと議論を導いている。自我が孤立した諸状態 から成るのであれば、それらの(力)関係は決まりきったものであるのだか ら、われわれの行為はすでに決定されている。熟慮が真に熟慮であるために は、自我が全体として「動的系列」をなす、つまり変化し続けるのでなけれ ばならないし、その「自然な発展」として行為が「熟しすぎた果実のように そこから落ちる」(DI132)のでなければならない。こうして、具体的自我
と行為との関係は以下のような独特な仕方で定式化される。
要するに、われわれが自由であるのは、われわれの行為が自らの人格全 体から発し、人格の全体を表現するとき、行為と人格との間に、芸術作 品と芸術家の間にしばしば見出されるあの定義しがたい類似が存すると きである。(DI129)(3)
第二節自我と自由
自由に対するこのような見方が成立するためには、二つのことが明らかに されているのでなければならない。まず第一に、諸要素が相互浸透し、揮然 一体となって行為へ向かう「人格の全体」と、「連合主義者」が表象するよ うな「心理的諸状態の集合」(DI119)あるいは「数々の意識事象、感覚、
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感`情、観念の寄せ集め」(、1124)としての自我とは、実際に明らかに異なる ということ。第二に、このうち前者こそが「根底的自我」(、196)であり、
後者は「自我の影」(、195)に過ぎないということ(自由は「完全に自分自 身であること」に存するのだから)。
このいずれにも疑問が投げかけられうる。ベルクソンにおいて、意識は
「直接的に覚知されるか空間を解した屈折によって覚知されるかに応じ て」(DI103)あるいは「動的な仕方で」(、1140)とらえられるか「静的な 仕方で」(DI140)とらえられるかに応じて、異なった姿を現す。彼自身が
「抽象化の力強い努力」(DI67)あるいは「分析の果敢な努力」(DI96)と いう言葉で示しているように、こうした区別はもっぱら観察する側の見方の 違いによってなされるのではないか、と問いうる。それぞれの見方は「静態 力学」(DI104)と「動態力学」(DI104)にⅡiiiえられるが、それらの学問に比 すべき客観性を備えているかどうか疑わしい。ベルクソンは全体としての自 我と細分化された自我を区別したが、それは同一の意識状態を異なった仕方 で見たものに過ぎないのかもしれない。もしそうであるならば、結局のとこ ろ、われわれは自らを自由なものと理解するときには自由であり、そうでな いものととらえるときにはそうでない、という無意味な結論に達してしまう。
こうした疑問のすべてが的外れなものであるわけではない。少なくとも、
ベルクソンにおいて、われわれが自由であるのは自らを自由なものとして理 解するときであるというのは間違いではない(この点に関しては後に触れる)。
ただし、その言葉の内実はよく吟味される必要がある。
そもそも意識状態をとらえる(『試論」では「覚知する」という表現がよ く用いられる」)とはどのようなことだろうか。ベルクソンは二つの仕方を 区別するのだが、そのとき異なるのは方法であるよりもむしろ態度である。
われわれがある事態に直面して強い感情一たとえば怒り-を覚えた とする。当の事態が忘れられゆくに従って、この怒りは徐々に収まるかもし れない。あるいは関連する新たな事態が生じてさらに激しいものになるかも しれない。いずれにせよ、何日たっても何週間たってもまったく同じ状態の まま怒りが継続することなど考えられないだろう。怒りに限らず、意識状態 は「生きていて、生きているがゆえに絶えず変化する」(DI147)ものである。
たとえば、「ある感覚は、それが長く引き延ばされるというただそれだけの
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ことによって変容を蒙って、耐え難いものと化す」(DI115)だろう。同じ状 態のままに留まり続けるものがあるとしたら、それは意識状態であるという
よりは事物である。
われわれが意識状態に名前をつけ、相互に区別した形で理解する場合、
われわれがなしているのはまさにこの事物化に他ならない。「感覚や嗜好 は、私がそれらを互いに孤立させて命名するや否や、事物として現れる」
(DI98-9、強調はベルクソン)のである。ここで注目すべきことが二つある。
第一に、こうしていわば細分化された意識状態は、言葉によって多くの人 に理解される形へ翻訳されてしまっているため「各々が社会全体によって 感じられる諸印象の共通要素、それゆえ非人格的な残淳を構成している」
(DI99、強調は引用者)。第二に、それらの状態は「互いに乖離するだけで なく、われわれからも乖離する」(DIlO3)。こうして、意識状態をただ区別 し、名指すというそれだけのことで、それらは自分自身のものではない何 かよそよそしいものになる。われわれはいわば「外部に身を置く観察者」
(DIll3)になってしまうのである。
それに対して、こうした区別を一切差し控えるとき、われわれは自らの意 識状態を対象化できないだろう。というのも、区別をしないということは全 体としてとらえるということであり、全体としてとらえるとき、観察し、理 解しようとする働きもその一部になるからである。そのときわれわれは「当 の意識状態を感得する」(DI140)という仕方でのみ、ある意識状態を知るこ とになるだろう。「直接的」かつ「動的」な覚知とはこのようなものに他な らない。名状しがたく、「限りなく移るいやすく、表現しがたい」(DI96)
意識状態を自らのものとして感じ取ることこそ「自我が自分自身へ立ち返る」
(DIl23)ことである。
だが、こうした意識状態の分析は、それ自体で完結する話ではない。誰も
「純粋に個体的な生を生きる」(DI102)ことなど叶わない、つまり意識の 内面に沈潜することなどできないのだから、実際にわれわれが生活し、行動 する場面に置き直す必要がある。
ここでわれわれは前節の冒頭に立ち戻る。ベルクソンによれば大半の行 為は動機によって説明できるのであった。そして、動機によって行為を説明 しようとするとき、われわれは単になしてしまった行為の原因を言い当てよ
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うとしているのではなく、その動機に導かれた自動機械としてふるまおうと しているのである。そして、そうするのは特定の意識状態と特定の行為との 恒常的な結びつきを確立したほうが日常生活において好都合であるからに他 ならない。自分では意志的に選び取ったと思っている行為においてさえ、事 情は同じである。
行為は、私の人格がそれに関与せずとも、印象に後続して生じる。ここ では私は意識ある自動機械である。それも、自動機械であることがまっ たくの得策であるがゆえにそうなのである。お分かりになるだろうが、
われわれの日常的活動の大半はこのように遂行されており、また、記憶 の中である種の感覚、感情、観念が固化されたおかげで、外部からの印 象は、意識的で知性的でさえあるにもかかわらず、多くの面で反射行為 に類似した運動をわれわれの側に喚起することになるのだ。(DI127、
強調は引用者)
これに対して、自我がその全体としてとらえられるとき、つまり「自我が 自己自身へと立ち返る」とき、行為はもはや特定の動機によって説明され えない。あるいはわれわれは「動機と呼び習わされたものに反して選択す る」(DI128)。それは、人格の全体が動機になっているからに他ならない。
こうした行為を自由な行為と呼べるのは、「われわれの自我のみがその行為 の親権を要求できるはずだから」(DIl30)である。このとき、自我は自らが 自由であることをよく分かっている。
自我はそれが直接確証することについては無謬であって、そのような自 我は自分が自由であると感じ、自分は自由であると宣言する。(DI137)
この言葉だけを見れば、(本節の前半で述べたように)ベルクソンにおい て、われわれは自らを自由だと理解するときに自由であるということになろ う。事実のレベル(自由であること)と理解のレベル(自らを自由なものと とらえること)は一致している。ただし、それは後者が前者の不可分な要素 をなしており、自らが最も自分らしくふるまっていることを何の媒介も経ず
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に経験しているという意味に他ならない。
第三節状況と自由
だが、ここで新たな問題が生じる。われわれは一体いつ自由に行為するの か。言い換えるなら、いつ人格の全体でもって行為に向かうのか。少なくと も、常にではない。日常生活の大半の場面において、われわれは「自動機械 であることがまったく得策であるがゆえに」自動機械としてふるまう、とい うのだから。多くの場合、われわれは自由でないし、自由である必要すらな い。本稿の冒頭でも確認したように、ベルクソンにとって自由とは稀なもの であり、大多数の人は「真の自由を知ることなく死ぬ」(DI125)。それは、
「…たとえ自己のうちに立ち戻ろうと意志するたびにわれわれが自由である としても、そのように意志することがわれわれには稀にしか起こらないから である」(DI180)。
自動機械でいることが「得策である」のは、決まりきった、変化のない状 況においてである。つまり、以前の状況と重ね合わせることができ、類似し ているとみなしても差し支えない場合である。一方、例外的な重要’性を有す るような「重々しい状況circonstancessolennelles」(DI128)において 自由が問題になる。なぜなら、そのような状況にはそれまでの特定の経験に よっては対応できない以上、人格の全体を総動員することが求められるから である。
しかし、こうした状況に直面することは自由な行為の必要条件であって十 分条件ではない。というのも、「われわれはより深刻な状況においてもしば しば目らの自由を放棄するし、人格の全体がいわば振動すべきであるのに、
惰性と無気力mollesseのために、この同じ局所的過程が遂行されるままに してしまう」(DIl27)からである。
そもそも、いま直面している状況が重大なものなのかどうか、行為を行う 前に知ることなどできない。「…最も取るに足らない出来事でさえ、ひと つの経歴のうちでは重要性を持っており、たとえ重要性を持たないとして も、その出来事を無意味だと判断できるのは、最終的な行為との関連にお いてのみであり、そして、仮説によって最終的な行為はまだ与えられてい
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ない」(、1141)のである。
しかし、こうしたベルクソンの立場を確認した後で、われわれは結局問い に戻ってしまう。自由な行為が稀であるなら、その稀な瞬間はいつ訪れるの か。重大な状況は、全人格を伴った行為をわれわれに求める。ただし、求め るのみである。では全人格を伴った行為へとわれわれを導くものは何か。決 定的な答えは与えられない。われわれがいつ自由であるかをあらかじめ定め るような原理がもし存在したら、当の自由そのものが損なわれてしまうだろ う。従って、ベルクソンの自由論から読み取りうる結論として、以下のよう に述べるにとどめておこう。状況の重大さに対し、それに見合った深刻さで もって答えるとき、われわれは自由なのである、と。
結論
これまでの議論をまとめておこう。ベルクソンにおいて自由とは行為の 自由に他ならない。行為を説明するとき、自我を諸々の精神状態に細分化 し、動機に仕立て上げると決定論へ導かれてしまう。それに対して人格の 全体から行為が発せられるとき、われわれは自由である(第一節)。自我 が全体として理解されることと実際に自我が全体として作用することとは 等しい。従って、われわれは自由に行為するとき、その当事者として自ら の自由を直接知る(第二節)。だが、われわれは日常のほぼすべての場面 で自動機械としてふるまう。自由な行為がなされるのは(1)重大な状況に 直面し(2)その際に全人格をもってその局面に立ち向かうことができる場 合のみである(第三節)。
最後の点について少しだけ付け加えておきたい。われわれはベルクソンの 自由論のうちに、状況に対する適切な仕方での呼応というテーマを見て取っ た。これは、知覚論から宗教論に至るまで、後のベルクソン哲学にとって重 要な意味を持つ「呼びかけと応答」という問題系へと直結するだろう。こう した観点から「試論』とその他の著作との関係を見直すこともできるだろう が、その点に関してはまた稿を改めて論じたい。
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ベルクソンのからの引用は著作の略語と頁数によって指示する。
DI:比saisz1r上sdbmピesimmjdiates先JacoノフscieノフCe,Quadrige/PUF,1889=
2007(合田正人、平井靖史訳『意識に直接与えられたものについての試論」、
ちくま学芸文庫、2002)
M:雌Ia"9℃SPressUniversitairesdeFrance,1972(『論稿集』)
(1)なお、本稿でも-部引用したが、ベルクソンは、アンドレ・ラランドが編集した 哲学事典[Lalandel926=2002]の「自由」の項目へ記事を寄せており、そこで「試 論』の議論を伝統的な自由論のうちに位置づけようとしている。この記事は現在 彼の『論稿集』においても読むことができる(M833)。
(2)たとえばBouanicheはこの引用文中に含まれる「自由な活動activit61ibre」
という語と「自由な行為」との差異に注目する[Bouaniche,2011]。しかし、本稿 でこの点に踏み込むことはできない。
(3)「定義しがたい類似」に関しては[西山2013]に解釈を示しておいた。参照され たい。
文献
Bouaniche,Arnaud.[2011],《Lirel'比saialalumierederactelibre》
in[WormsetRiquier2011]
Lalande,Andr6.[1926=2002]化caMaZr罰etechノブi9Ueet皿Zi9UedbIaphimsqphie Quadrige/PUF
Worms,Fr6d6ricetRiquierCalnille(dir).[2011],LireβmgmノZPUF
西山晃生[2013]「ベルクソンにおける自由の諸問題」慶應義塾大学倫理学研究会
『エテイカ』第6号,91-105頁
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