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大造じいさんとがん」の授業を中心に−

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(1)

「授業展開の指導技術に関する実証的研究」 −「

大造じいさんとがん」の授業を中心に−

著者 上野 ひろ美

雑誌名 奈良教育大学教育工学センター研究報告

巻 13

ページ 83‑99

発行年 1990‑03‑16

その他のタイトル A Study for Pedagogic Tact in Teaching‑Learning Process

URL http://hdl.handle.net/10105/4539

(2)

‑ 「大造じいさんとがん」の授業を中心に‑

上 野 ひろ美 (教育学教室)

A Study for Pedagogic Tact in Teaching‑Learning Process

Abstract

Pedagogic Tact is the very core of teaching act. But for almost teachers, it's not masterd automatically by experience. The author pointed three Teaching strategies to form pedagogic Tact through of some teachings for educational study.

1. to have determinate interpretation based on studies an subject matters 2. to set questionings

3. to find a certain meaning of idea of children and to understand it in context of teaching‑leaning process

Key words ; Pedagogic Tact, Questioning

I.研究課題

教育的タクト(Padagogischer Takt)は教育における「敏感」とか「機才」とかと訳さ れる。 「教える」という働きかけの対象である子どもは自由意思の主体である。したがって教 師によるさまざまな働きかけは、主体である子どもによって選びとられるべく、刻々適切にな されなければならない。 「すばやい判断と決定」としてのタクトは、教育過程全体を貫いて教 師に要求される本質的要件だといえる。il)

このことは、授業における教師の指導のあり方についてもあてはまる。授業において教師は、

子どもたちの意見や解釈をすばやく読み取り、それを刻々に組織し、方向づけていかねばなら ないからである。そして、この授業のなかでの応答的組織力は、授業のなかでの刻々の教材解 釈ともいえるものであり、授業の展開過程の深まり、ひいては授業の質を規定する。

このことはたとえば次のように指摘されている。 「授業展開の力量として教師がめざさねば ならないものは、結局のところ、この授業のなかでの刻々の組織力としてあらわれる教材‑解 釈づくりだといえる。子どもたちが応答する意見や考えを取りあげ、方向づけて返したり、と きには子どものつまずきをひろったり、教師の考え方を提出してゆさぶったりしていく集団的 組織化の過程においてはじめて、子どもたちの思考や表現は鍛えられ、高められていくからで ある。(2)

ところでこのような授業展開の力量‑タクトは、単なる思いっきやひらめきといった偶然的

‑ 83

(3)

要素や才の瞬間的成功に還元されるものではない。展蘭過程の組織化をはかるために、いくつ かそのストラテジーが考えられる。

1.教材解釈の焦点化

その第一はいうまでもなく教材解釈である。が、その教材解釈は作品の解説や、教えねば ならないことの要点の把握にとどまるのではない。ひたすら作者の意図に従おうというので もない。

一旦完成され過去のものとなった作品は、いわば作者から解き放たれて、作者とは距離を もつ。授業者は「作者が何を書きたかったか」を探るよりも、「作品に何が書かれているか」

を読み取ることが必要である。

すなわち教師は作品と自力で対決して作品の世界をつかみとることである。自力での対決 は、ときとして、作品の再発見をもたらす。それは、固定された解釈を忠実に再現するので はなく、現代とのつながりにおいて作品を生き返らせ、「若返らせる」ことになる。

教材解釈をするということは、作品と対決することによって「教えたいもの」を自覚的に 明確にもつことである。教材解釈を「焦点化」するという表現で、そのことを強調したい。

それが、授業展開におけるすぐれたタクトの成立を基礎づけると考えられるからである。

2.発問設定

第二は、第丁で掲げた教師の教材解釈を、子どもたちがみずから学びとり、発見するため の方法的手立てとしての発問設定である。

いわれるように教育における問いは、日常における一般的な問いとは決定的にその性格を 異にしている。日常における問いは、「知らない者」が「知っている者」に問うのが常であ る。したがってその場合、問う者にとっては正しい答を得ることが目的であり、答に至るプ ロセスは問題にされない。

ところが、教育において事情は異なる。なぜなら授業において問うのは「知っている」教 師であり、問われるのは未だ「知らない」子どもだからである。「知っている者」が「知ら ない者」に向かって問いを発することを主たる方法技術として活用する場合、その目的は正 しい答に短絡することではすまない。そこでは思考すること、表現すること、問題解決へ至 るプロセスを子どもたち自身にたどらせることをめざさなければならない。

このことはすなわち、教材解釈として教師が明確にもった「教えたいもの」を、子どもた ちにみずから発見させ奪い取らせることを可能にするような発問をどう設定するか、,という 課題として具体化される。

しかも授業において子どもたちは集団で学んでいる。子どもたちの解釈や思考には個人差 があり、落差がある。子どもたちのさまざまなわかり方から生じる分裂を、授業展開を組織 することによって止揚・統一することを可能にするものとして発問は発動されるのである。

したがって、子どもたちの思考を鍛え表現を呼び起こすためには、教師の問いが子どもた ちの内面にそれとして届くことと、子どもたちの思考・表現が相互に関連しつつ解釈が深め られていくことが要請される。そのためのストラテジーとして、子どもたちが実際の授業の

一 84 −

(4)

なかで提出してくるであろうと予想されるもの、すなわち予想される子どもの応答を視野に 入れての発問設定が、展開場面における教師の指導技術を左右すると考えられる。

3.展開過程の組織化

第三は、第一・第二の視点に立った授業構想にもとづく、授業の展開場面におけるタクト の行使である。教師はややもすると、一面的解釈を伝達することでもって授業をおしすすめ てしまう。そうではなくて、子どもの表現、子どもの論理に耳を傾け、それらをわが解釈に 位置づけることである。子どものつぶやきやつまづき、予期しなかった意見を生かすことに

よって、一つの論理を他の論理でもって反論したり吟味を加えることのできるような授業場 面を創出することができる。

子どもの発言や表現をどのように意味づけて集団に返していくか、恩考の緊張や集中、深 化をどうつくりだすかということは、授業本来の課題であり、タクト本来の機能の発揮であ る。

本論は、以上三つの課題を具体的な授業実践に即して検討することを目的としている。

Ⅱ.研究方法

1.研究授業の実施とその分析・検討 2.実践記録の分析・検討

授業はいずれも文芸教材・椋鳩十『大造じいさんとがん』を教材としている。検討対象と した授業実践ならびに実践記録は次のとおりである。いずれも5年生学級で、(2)のみ6年生である。

授業 (1)久宗功子実践

(兵庫県宍粟郡安富商小学校1988年6月30日)(3)

(2)武田常夫実践

(武田常夫著『イメージを育てる文学の授業』国土社1980より)

(3)長野明司実践

(兵庫県宍粟郡安富商小学校19お年6月30日)14)

(4)浦上宣裕実践

(宝塚市立安倉小学校校内研究会1989年9月26日)

(5)岩井隆雄実践

(宝塚市立中山桜台小学校校内研究会1989年10月30日)

(6)その他

一 85 一

(5)

Ⅲ.研究結果と考察 1.場面A

<ねらい>ハヤブサと戦う残雪の姿と、その残雪を見て心を揺さぶられる大道じいさんの心 情を読み取る。

−授業(1)一

重視する表現…「じいさんは、ぐっとじゅうをかたに当て、残雪をねらいました。が、な んと思ったか、ふたたびじゅうを下ろしてしまいました」

授業者の「教えたいもの」…自分の身の危険を顧みず、仲間を救う残雪の頭領としての姿 に接して、じいさんは撃とうとしても撃てなかった。

指導案構想

教 師 の 働 き か け 予 想 され る 子 ど もの 応 答 指 導 上 の 留 意 点

「ふ た た び じ ゅ うを 下 ろ し ・二 回 目 だ か ら

全 員 が 話 し合 い に 参 加 て しま い ま した 」 の ・< ま た して も> 下 ろ した

< ふ た た び > と は ど う い う ・前 は ハ ヤ ブ サ が 来 た 時 に下 ろ し して い る班 を 大 き く評 こ とで し ょ う

で は 、 じ ゅ う を 下 ろ した の

て い る

・ハ ヤ ブサ の た め に が ん の 群 れ が 飛 び 立 っ て 撃 て な か っ た

・残 雪 が 助 け よ う と して い る の は

価 す る

五 班 は活 気 を 欠 く た め 、 は一 回 目 と ど う ちが うの か じい さ ん に 飼 い慣 ら され た お と 励 ま して 全 員 を 話 し合

考 え ま し ょ う りだ

・お と りの が ん を助 け よ う とす る こ と は i 大 造 じ い さ ん に 近 づ く こ と に な る の に 、 か ま わ ず 帰 っ て き た

・命 が け で 戦 って い る 残 雪 を 撃 つ こ と が で き な い

・二 羽 が 争 っ て い て 撃 ち に くい

・一 度 は ね ら った け れ ど 、 や っ ぱ り撃 て な い

い に参 加 さ せ る

一般に、この場面ではしばしば「じいさんはどうして銃を下ろしてしまったのでしょう」

という発問が発せられる。そして子どもたちはややもすると、「おとりのがんを助けてくれ ている残雪の行為に感動したから」と、ここですでに残雪を英雄化して読んでしまい、教師 もまたそこへ子どもたちを追いやることがある。あるいは「ふたたびじゅうを『下ろしてし まいました』を『下ろしました』と比べてみよう」という発問が行使されることも多い。

一 86 一

(6)

さて授業(1)では発問に独自な工夫が試みられた。じいさんは、冷え冷えする銃身を握 りしめ、くちびるをぬらして銃を構えたときにがんの群れが飛び立ったため、「どうしたこ とだ」と一旦銃を下ろしている。そこで今再び銃を下ろしてしまった状況は、先程構えた銃 を下ろした時と「同じか、ちがうか」と限定して問いかける。そして先程とは「ちがうのだ」

ということを明確にしたうえで、「どうちがうのか」という視角でじいさんの心にせまろう としたのである。子どもの読みのつまづきやそれに対する本人の修正をも含めながら、実際 の授業は次のような展開をみた。

T   では、一回目と二回目と銃を下ろしたのですが、大造じいさんの気持ちはどうだ ろう。同じだろうか、ちがうだろうか。

C(鎌)一回目は、どうしたことだとおどろいて下ろした。二回目は、残雪をねらって銃 をあてたけれど下ろしたので、一回目と二回目は同じだと思います。

C(尾)一回目と二回目はちがうと恩います。一回目はわくわくうきうきしていたけど、

ハタハタ飛び立ったのでびっくりした。二回目は残雪が来て自分のおとりのがん を助けてくれているから、下ろしたんだと思います。

全然ちがった意見が出てきましたね。みんなは、どう思いますか。班で話し合っ てみましょう。

がんの群れにハヤブサが襲いかかってきたときに「どうしたことだ」「何ごとか」と驚い て銃を下ろした時と、戦う残雪を見て「下ろしてしまった」今とを比べ、早速子どもたちは

「同じだ」「ちがう」という全く逆の読みをだしてきている。授業者はしばし班での話し合 いに委ねるが、このように問いがきわめて限定して提出されたときは、時間をとっての個人 思考をさせたり班話し合いを取り入れる好機である。

数分の話し合いののちの子どもたちの発言は次のように続く。

C(下)一班はみんなまとまって、一回目はどうしたことだと驚いた気持で銃を下ろした けれど、二回目はおとりのがんを助けてくれているので銃を下ろした。だから一 回目と二回目はちがう。

C(川)二班も一回目と二回目はちがう。二回目は撃とうとして撃てなかったんだと思い ます。(略)(おとりの)がんは、もう残雪にとって敵になっているのに助けよ

うとしたから、おじいさんは撃てなかった。

(三、四、五班もはヾ同じ意見)

C(鎌)私は一回目と二回目と同じ気持ちだと言っていたけれど、考えが変わりました。

一回目は驚いて銃を下ろしたけれど、二回目は撃とうとしても撃てなかったんだ と思います。

「同じ」と言っていたC(鎌)が、他の子どもの考えに接して、みずから立ち上がって立 場の修正を表明している。

じいさんが銃を下ろしてしまったのは、「撃とうとして撃てなかった」というのが、ここ での授業者の「薮えたいもの」であった。子どもたちは意外に早く「撃とうとしても撃てな かった」と表現してきたのだが、イメージの把握はどうかといえば、授業者にとってまだこ

ころもとなかった。そこで、

87 一

(7)

T   姓の発表を聞いて言いたいことはありませんか とさらに子どもたちに尋ねる。

C(尾)ぼくは、おとりのがんを助けてくれるからと思ってたんだけれど、後の方を読ん でいたら、「残雪の目には、人間もハヤブサもありませんでした。ただ救わねば ならぬ仲間のすがたがあるだけでした。」と書いてあるところで、今まで残雪を 撃とう撃とうとしていて、そんな戦っているときかて撃とうとしたんだけれど、

今の残雪をすばらしいと思ったんだと恩います。感動したんだから、今までとは 全然ちがうと思います。

C(竹)ぼくも感動したんだと思います。自分は、もし、ぼくが残雪だったら助かったん だからやられているがんは見捨てていくかもわからんけど、残雪は頭領だけあっ て二年前の仲間のがんを自分の命を投げだして助けようとしているから、そん なやつを今おじいさんが撃ったら卑怯だと患うから、撃つのはやめたんだと思い

ます。

C(三)残雪をどろばうとして、大道じいさんを警察にたとえたら、いつも逃げられてば かりいたけど、やっとつかまえられると思ったとき、どろばうがいいことをした ので「その日が来る」(註・国語教材)みたいに心をつつかれたんだと思います。

T   心をつつくというのは、心をうたれたということですか。

C(三)はい。

C(松)きっと一回目は「下ろしました」だと思います。二回目は「下ろしてしまいまし た」だから、狩人の心としては下ろしたくないんだけれども、下ろしてしまった んだと思います。

T   狩人の心としては、うん。

C(尾)はじいさんの目にうつった残雪の姿を作品の叙述から発見し、それを根拠にじい さんの「感動」を読み取っている。この読みは、だから、前に銃を下ろしたのとはちがうの だと、「ちがい」の中味を深めているわけである。C(竹)がそれを受けて「いま撃てば卑 怯なのだ」という。この「卑怯だ」というとらえ方は、作品の最後、大造じいさんが飛び去っ

ていく残雪に呼びかける場面で重要な言葉となる。「何が卑怯なのか」という、後述する問 いに結びっくし、また子どもたちが直感的に読み取る観点でもある。C(竹)はいわば作品 の後ろからイメージを遡らせているのである。「感動している」じいさんにとって今撃つわ けにはいかないのは、「卑怯」に感じられるからだというC(竹)の読みは、C(尾)の発 言を受けて引きだされたイメージの発展である。

C(三)は先の二人とは異なる把握のし方をしている。この子どもは生活に絡めすでに学 んだことに置き換えてイメージ形成をはかろうとしている。生活経験や既知・既習に絡めた わかり方は、子どもの学習の成立にとって不可欠である。子どもの表現それ自体がいかに不 十分であろうと、こうした自己表現をおおいに子どもから引きだすことが求められる。「心 をつつかれる」という表現は、いわば子どもの身から発せられた言葉のようにさえ感じられ る。

このように子どもたちのイメージがひびき合ってC(松)の発言が誘発されることになる。

ー 88 −

(8)

「下ろしました」と「下ろしてしまいました」の比べ読みを、教師の発問を介さずにみずか ら設定し、それを根拠に自己の解釈を堂々と述べた発言である。授業者の「教えたいもの」

としての「撃とうとして撃てなかった」は、「銃を下ろした一回目と二回目はどうちがうの か」という発問に始まり、子ども相互のイメージの分化と塁加の過程を経て、「狩人の心と しては下ろしたくないんだけれども、下ろしてしまったんだと思います」というC(松)の 発言に凝縮されていったのである。

「狩人の心として」という部分で、「狩人の心」とは、「生業だからこそ撃ちたい心」なのか、あ るいは誇りとして撃てない「狩人の心」なのかと、解釈の分かれる要素は否めない。が、こ こで問題にする必要は全くないだろう。教室は、じいさんの残雪に対する思いが今までと違っ てきたことを確実に感じとっていると思われた。

2.場面B

<ねらい>残雪の態度に心底心を打たれ、「ただの鳥」にたいしている気がしない大造じい さんの感動を読み取る。

−授業(2)−

重視する表現…<ただの烏>にたいしているような気がしない

授業者の「教えたいもの」…傷つき、もはや逃げられない残雪にじいさんが手をのばした ときのようすをとおして、<ただの烏>でない残雪のイメージ化をはかる。

授業の構想

教師が

T  <ただの鳥>というのは何のことをいっているのですか?

と問えば、

C  ふつうの鳥 C  あたりまえの鳥 で  残雪は?

C  ただの烏ではない……

というように、授業はゆきづまるであろうことが予想された。結果は予想どおりであっ た。そこで、次の問いを発した。

T  大造じいさんは、残雪の堂々とした態度につよく心を打たれて、<ただの鳥>

にたいしているような気がしなかった。その心は?

子どもたちはおおよそ次のように述べている。

・残りの力をふりしぼって、ぐっと長い首を持ち上げた

・じいさんを正面からにらみ付ける

・じたばたしない

・自分の危険を知りながら、大敵にとびかかっていく

・せめて頭領としての威厳を傷つけまいと努力している

しかし、こうしたことは、いわば文章を読めば書いてあることであり、じいさんが心

ー 89 −

(9)

を打たれた残雪のイメージが生き生きと子どもたちの内面に形づくられつつあるとは言 い難い。

そこで<大造じいさんが手をのばしても>という、じいさんの行為に注目することで、<

ただの鳥>にたいしているような気がしないじいさんの心にせまってみようと考える。

授業展開

T

<大道じいさんが手をのばしても>とありますね。手をのばすというのは、どう いうことなのですか?

C   残雪をつかまえようとして‥…・

T   どちらの手をのばしましたか?

C   両手?!

「手をのばす」というじいさんの行為に着目してみたものの、子どもたちのイメージはま だ焦点化されてはいない。が、「どっちの手をさしのばしましたか」という問いに触発され て、「両手をさしのばしたのではないか」という想像にさしかかったところで、授業者は手 応えを予感してよい。そして次の問いで予感は実現される。

T C C C C C C C C

どんなふうにしてのばしましたか?

さあ、おいで、というふうに‥‥‥

ていねいに、やさしく…・‥

えらいやつだ、と思いながら‥=‥

傷ついたところをいためないようにしながら…・‥

だきかかえるような気もちで手をのばした。

……わたしは、おまえの敵ではないよ、という気もちをこめて‥‥‥

敵ながらたいしたやつだなあ…

仲間を助けるために、自分よりも強いハヤブサに向っていった勇気に感心しなが

b‥‥‥

授業者はもう子どもたちに問いかける必要はなかったと述べている。

「一つの文章がもたらすイメージが、子どもの内部で強烈に描き出されたとき、かれらは その鮮明な映像を媒介としながら、つぎつぎとみずからのことばを紡ぎだしはじめるのであっ た。」(5)

さて、子どもたちはじいさんが残雪に寄せる深い思いにひたり始めた。動き始めた子ども の思考や感情に授業者がゆさぶりをかける。

T   このとき、大造じいさんの心に、しめた、これでやっと残雪をつかまえることがで きたぞ、といった心がすこしでもあったろうか。

C(全員) ない!

大造じいさんは、このとき、傷ついた残雪に近づきながら、この鳥が、人間より ももっとすばらしい力と勇気をもったものに見えて、だから、心をこめてだきあ げたんだと思います。しめた、なんていう気は銃をおろしたときからなくなって いたし、このときはもう、えらいやつだなあという尊敬の気持ちでいっぱいだった

90 −

(10)

と思います。

こうして子どもたちは、「ただの鳥にたいしているような気がしない」じいさんの心をつ かみとっていったのである。教師の発問やゆさぶりに恩考と感情とをつき動かされながら、

ぐったりとじいさんの両手にかかえられた残雪のからだのぬくもりや傷のいたいたしさを受 けとめていったといえよう。

ところで大造じいさんの目にうつる残雪の堂々とした姿を浮かびあがらせるために、残雪 とおとりのがんとを「対比させる」やり方がよくなされる。この作品の主題とも関わるので あるが、物語をとおして変わっていくのはじいさんであって、残雪は残雪のままである。世 話を受ける冬の間も、じいさんに飼い慣らされるわけではない。だからこそじいさんは敬意 を払うに至るのである。そこで、この授業においても次のように問うことで、<ただの鳥に たいしているように患えない>じいさんの心にせまろうとする。

T   大造じいさんは、残雪を、まえのようにおとりにしようという気があったろうか?

C(大多数) ない!

T    どうして?

C   がんの頭領だから…

C   おとりにしようとしたって、残雪はそんな鳥じゃないこと分っているから…

T    うん。

このとき、普段めったに口をきかない子が手をあげる

C(道) ただの鳥にたいしているような気がしなかったからだと思います。

T    でも道隆くん、それは手をのばしたときだけとちがう?

C(道) そのときのわたしの気もちは、春になっても、ずっとつづいていたと思います。

T     うん、残雪の方は?

C(道) 残雪の方も、じいさんをぐっとにらみつけたときの気もち、ずっとつづいてい たと思います。

C(通)はそういって席につくのであるが、その姿を見て「よかった」と授業者は思う。

そのとき「先生!」とC(垂)。

C(垂) いま遺隆ちゃんにいわれて気がついたんだけど、おじいさんは、おとりのがん と残雪とでは、介抱が全然ちがっています。

仕かけられたつりぼりにかかり盛んにばたっいたらしいようすを見て、じいさんが子ども のように喜びの声をあげたのは、おとりのがんをつかまえたときである。今じいさんは、自 分が手をのばしてもじたばたしない残雪の姿に強く心を打たれている。子どもたちは、大造

じいさんのそれぞれの烏にたいする異なる姿勢をとおして、二羽のがんのそれぞれの姿を描 いたわけである。<ただの鳥>にこだわり続けて展開された授業は、ここにきて残雪と呼ば れる雄々しいがんのイメージを、子どもたちの内面に拡げ深まっていったといえる。

一 91−

(11)

3.場面C

<ねらい>残雪の頭領らしい勇気と威厳に感動し、北の空へ放ち、いっまでも見守る大造じ いさんの気持ちを読み取る。

一授業(3)一

注目する表現…<ほれぼれとした顔つき>

授業者の「教えたいもの」…<はればれとした顔つき>の内面としての「狩人としての誇 り」

指導案構想

教 師 の 働 きか け 予 想 さ れ る子 ど も の 応 答 指 導 上 の 留 意 点

「お り の ふ た を い っぱ い に 開 ・残 雪 が 出 や す い よ う に 五 班 は活 気 を 欠 くた め 、 け て や り ま  し た 」 の と こ ろ ・も う傷 も治 った か ら 励 ま しな が ら機 会 を 与 で 、 ど ん な こ と が わ か り ます ・飛 ん で み ろ 、飛 べ る は ず だ え る (特 に T 、 H の 動 か

「ほ れ ぼ れ と した 顔 つ き 」 に

・元 気 に な って よ か っ た な

・仲 間 の と ころ へ 帰 っ て い い ぞ

・元 気 に な って 飛 び 立 って よ か っ

き に 留 意 す る )

こめ られ て い る大 道 じい さ ん た 、 うれ しい の 気 持 ち を 考 え よ う

< は れ ば れ > に せ ま る た

・お 前 を 放 して や る こ とに 悔 い は な い

・お 前 は や は りが ん の 頭 領 で い る の が ふ さ わ しい

・野 生 の が ん と して 生 き ろ

・ま た 来 年 も堂 々 と戦 お う め の ゆ さぶ り と して < 見 ・ これ か ら先 も ラ イバ ル だ 。 来 年 送 る> と く 見 守 る > の 比 も必 ず や って こ い よ

ベ 読 み も さ せ た い ・な ん と もす ご い や つ だ な あ

・羽 根 は 大 丈 夫 か な

・自 分 自 身 が こ ん な 気 持 ち に な っ た す が す が しさ

指導案にみられるように授業(3)では、<はればれ>にせまる伏線として、「おりのふ たをいっぱいに」という叙述に注目させようとした。子どもたちの応答は次のようである。

T

C(大)

C(塩)

C(有)

「大造じいさんは、おりのふたをいっぱいにあけてやりました」の<いっぱ い>を、みんなはどう読みますか。

また、がんの群れをつれてやってこいよ。

「ある晴れた春の朝」なんだから、さわやかな気持ちでいっぱいに開けた。

「さあ行け」といっぱいに開けた。

92 −

(12)

C(山) えーと、開ける時に大道じいさんは心をこめて開けてやったと思います。

C(米) 普通よりもいっぱい開けた。

C(榎) 狩人だから、自分で銃で撃って取らんとプライドが許さんから放した。

C(広) もう閲かんくらいに開けてやった。

C(尾) 早く群れのところへ行ってあげなさい。

記録からうかがえるように、子どもたちのなかから「心をこめて開けたのだ」という読み がだされている。「プライドが許さない」という表現もでてくる。しかしながらこれらの子

どもたちの発言は並列されるにとどまり、教師のゆさぶりや追及によって深められることな く、次の場面に進んでしまう。

主発問による展開場面はどうであったか。

T    呼びかけて「はればれとした顔つきで見守っていました」というところ、この

「ほれぼれとした顔つき」の大道じいさんの気持ちは?

C(谷) そこで、じいさんはまた会おうなという心なんだと思います。

C(塚) がんの群れを率いて、沼地に来てほしいという感じ。

C(塩) また堂々と戦おうと言っている。

C(高) 残雪を悲しませたくないから、そんな顔つきをした。

ここで教師は班話し合いを導入する。話し合いを経てだされた子どもたちの読みは、

C(新) また会おう、またこいよという気持ちを含めて「堂々と戦おう」という感じ C(尾) いっまでも頭領でいてほしい

というように、話し合う前に比べ、必ずしも深まったとはいえない内容である。ところがこ のあと一人の子どもが

C(岡) 「ほれぼれとした顔つきで」といったら、無理にした顔じゃない。無理になん かできんと思う。

またC(渡)が

C(渡) 「これでいい。よかった、よかった」

とじいさんの心の内を表現してきた。

C(岡)とC(渡)の発言、「無理にした顔じゃない」「これでいい。よかった、よかっ た」は、実はこの場面の展開の核になりうる発言である。発問によって教師がまだ引きだす ことのできていないじいさんの内面にせまるきっかけが、子どもたちのなかに姿をあらわし てきたのである。授業者の「教えたいもの」としての「狩人の誇り」と、子どもによって

「これでいい」と表現されたじいさんの充足感、自尊との結びっきが、この授業で達成され るかに見えた。

が、残念なことに授業(3)では、この二人の子どもの発言を生かして、じいさんの誇り にまでせまることはできなかった。しかし、教師がねらったものを、子どもたちは探し発見 してくれるのだし、それは恩わぬときに子ども独自の表現でもって提起されてくるのだ、と いうことをわたしたちに教えている。

ー 93

(13)

*     *

一般に物語の最後にあたるこの場面は、作品のヤマ場として位置づけられることが多い。

したがって<おりのふたをいっぱいに>という表現、あるいは飛び去る残雪にじいさんが呼 びかける言葉をもとにして、<ほれぼれとした>じいさんの内面にせまろうとする授業構成 がよくなされる。

試みに、同様の発問を発した他の実践をみてみよう。

ー授業(4)

T

C(平)

C(西)

C(斉)

C(奥)

一授業(2)

T

C   C   C   C

T

C(友)

T

「いっぱいに」というのが、あるのとないのとではどんな違いがあるやろ 大道じいさんの心が入っている。

傷が治ってよかったという喜びの感じがする。

広い世界に思いきり飛んでいっていいよ、という感じ。

特別に残雪にいい気持ちになっている。

<おりのふたをいっぱいに……>とあるね。いっぱいに、ということばのなか に、じいさんのどんな気持ちが読みとれるでしょう。

さあ、行くがよい! という気持ち。

力いっぱいとんで行け! という気持ちで。

元気でいけ。

早く仲間に会えるように……

じいさんは、おりのふたをあけましたね…・=…これは、ゆっくりあけたのでしょ うか、それともさっとあけたのでしょうか?

さっとあけた!

うん。それがどうしてわかる?

C(友) ぼく、なんとなくそんな気がするん‥‥‥

C(松) ぼくも友永くんと同じです。じいさんはこういう日を待っていたんだと患いま す。

T     そう、するとそれまでおりのふたは?

C(松) えさをくれたり、きずの手あてをするために手を入れるときだけしか、あけな かったと思います。

D(友) だから、大造じいさんは待っていたんじゃねん。ふたのあけられる日をじっと 待っていたんじゃねん。だからおりのふたをいっぱいにあけたんじゃねん。

冬の間中残雪を養い、体力をつけてやりながらじいさんはこの一瞬を待っていたにちがい ない。ちからをこめて心をこめてふたを開けるこの一瞬は、ほれぼれしく充実したものであっ たろう。

このように、<おりのふたをいっぱいに開けた>行為から、残雪を見守るじいさんの心の

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<はればれしさ>にせまろうとする授業構想は、わたしたちに一定の成果をもたらしてくれ ている。

他方、それとは異なるせまり方、すなわち冬の間残雪を手厚く手当てしたであろうじいさん に思いを馳せることによって、じいさんのほれぼれしい内面を読みとろうとする試みも実施 された。

一授業(5)−

T  大造じいさんはどんな思いで、世話をしてやったんだろうね。

C  「早く治ればいいな」って感じ。

C  治っても逃さないでそのままだったら、大造じいさんの反則のようになるから、早 く治って元気になったときにやっつけてやりたいなあ、という気持ち。

C  もう一度、戦い直したい。

C  もし、大造じいさんが手当てをしなければ、残雪はハヤブサにやっつけられたこと になるから。

C  ずっと前から残雪をねらっているのに、ハヤブサにとられたのでは、今までのこと が水のあわになる。

この場合の教師の解釈は、残雪に向けたじいさんの「いたわりの気持ち」であり、「また 戦いたい」という意欲である。したがって、解釈としては、じいさんが残雪に再度戦いを挑 むときには条件が対等でなければならないことや、その際のじいさんの心構えが問題にされ

ることになる。その解釈にそって授業(5)ではこののち T  ひきょうなやり方とはどんなやり方のことかな

という発問に引き継がれていく。そして、おとりやわなを用いるのは狩人の常であるが、第 三者であるハヤブサと戦っている残雪に桟から手をだすことが卑怯なやり方なのだ、という 結論にたどりついていく。

「何がひきょうなやり方なのか」を問うことそれ自体は意味あることだろう。しかし、授 業(5)に限らずこの発問を行使した授業をいくつか見てきて、このせまり方は、じいさん

の人格や心構えを問題にはするが、じいさんをしてそうならしめた残雪の雄々しさを浮かび あがらせはしないようである。それは発問のゆえであるというよりも、教材解釈の焦点がじ いさんの人物像にあてられていることから生じている。そのことはたとえば授業(2)が、

前の場面の<ただの烏にたいしているように思えない>余韻でもって、冬の問の世話にせま ることに成功していることからもうかがえる。

<ほれぼれ>としたじいさんの心情にせまろうとする発問にたいして、すでにみたように 授業(3)において

C 無理にした顔じゃない C これでいい

という読みが子どもからだされていた。

授業(4)でも同様の発問が試みられた。

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(15)

T    <ほれぼれとした顔つき>というのはどんな顔つき?

C(山) いいことをしたなという顔 C     うれしい気持ち

C(西) いつまでも見守っている

C(山本)何も考えないで残雪だけを見ている

子どもたちは満たされたじいさんの内面にせまりつつあった。

C     じいさんは気持がいいんだ C     はりあいを感じている

C    猟師としてのやりがいだ      一授業(6)−

というように、この問いに触発されて子どもたちのイメージはじいさんの自尊へとぐんぐん 突き進んでいく。

飛び去っていく残雪に呼びかけるじいさんの言葉を手がかりにした発問も多く試みた。じ いさんが<ほれぼれとした顔つき>をしているその気持ちを想像する直接の手がかりは、こ こでの呼びかけの言葉であるから、試みは当然だろう。

−授業(4)−

T    「おうい」ということばもあるし「おれたち」ということばもある。この二つ の言妻からどんなことがわかるか。

C(近) <おれたちは>というところから、残雪を烏だと思っていない。

C(斉) 今まではくたかが鳥>と思ってきたけど、残雪が飛ぶ時にはライバルのように 思っている。

C(乎) <おうい>というところから、もう遠くへ行っているよう。

C(奥) <おうい>というところから、人間にたいして話しかけている。

C(有) <たかが烏>から<がんの英雄>というまでに心が変わっている。

一授業(3)−

C    <堂々と>といったら、残雪のことを何か人のように感じとって、人と人とが 戦うよう

−授業(2)−

C    おじいさんはうれしくていい気持ちで、残雪に向かって、自分のいいたい気持 ちを言っている。

<英雄><えらぶつ><ひきょうなやり方><おれたち><堂々たる態度>といった表現 がちりばめられたじいさんのせりふである。仲間を救うために敢然と戦う残雪の仲間思い

と、頭領らしい堂々たる態度に感動した大造じいさんは、残雪への思いがすっかり変わって しまう。そのことをこのせりふからとらえさせているのである。

ー 96 一

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Ⅳ.まとめ

1.数材解釈を焦点化して発問化する

「教えたいもの」を明確にもつと繰り返し述べてきた。教師が教材解釈をもたずに授業に挑 むはずがないという批判を受けそうである。

が、授業実践の事実はさほど簡単ではない。教材解釈の名のもとに作品の解釈や要点の説明 で終る場合が少なくないのである。本論で扱った共同研究実践においても、作品の全文に詳細 な注釈を付し(それ自体多大な意欲とエネルギーを要するのだが)、それでもって教材解釈と 見徹す傾向が根強く存在している。問題は、作品に付した注釈があくまで記述としての注釈に とどまり、授業展開のタクトの行使に生かされていない点にある。授業者が作品の何に、どこ にこだわるかによって、授業展開と子どもの思考の質は大きく異なってくる。またそのこだわ

りが発間として具体化されることになる。

授業(1)、授業(2)にそのことが顕著である。授業(1)で、人間もハヤブサも区別な く救わねばならない仲間のためにのみ行動する残雪の姿を見てじいさんが銃を下ろしてしまっ たのは、「撃つに撃てなかったから」というのが、授業者の解釈であった。じいさんにとって 考え抜いた末の結果なのではなくて、あまりに思いがけない光景に出くわして、「思わず」

「銃を下ろしてしまった」、「撃てない」状況の緊迫感がその背景に感じとられている。そして このように解釈することで、じいさんの残雪にたいする見方の変化が浮かび上がってくる。じ いさんはある日突然心を入れ変えたのでもなければ、人格者として登場したのでもない。残雪 との戦いのなかで変わっていくのである。

こうした把握を子どもたちに発見させるために、「一回目と二回目と、(銃を下ろしたとき の)じいさんの気持ちは同じだろうか、ちがうだろうか」という発問が設定されたのである。

授業(2)では、同じことがいっそう鮮やかにあらわれている。<ただの鳥にたいしている ような気がしない>じいさんの心が行動としてあらわれているところを探しだし、<手をのば した>場面に限定して発問化しているのである。さらに、おとりのがんと対比させて残雪の雄々 しさにせまろうとするなど、「教えたいもの」は一貫して焦点化されている。

このようにみてくると作品のヤマ場が必ずしも一連の授業のヤマ場になるのではないことに 気づかされる。当初、じいさんが残雪を放つ場面を作品の最大のヤマ場ととらえていた授業

(2)の授業者が、傷ついた残雪にじいさんが手をのばす場面でヤマ場を創りだしているので ある。そしてヤマ場での読みの高揚を余韻として保ちながら、残雪をおりから放つときのじい さんの思いに心を馳せ、じいさんは「この目を待っていたのだ」という読みを子どもから引き だすことに成功しているのである。

逆に授業(5)が、冬の問にじいさんが残雪にはどこしたであろう手厚い世話をイメージし、

最後の場面の呼びかけのなかの「ひきょうなまね」の中味にせまろうとして、じいさんの正義 感に収束していった展開が対照的であった。残雪をとおしてじいさんが変化していくという視 点ではなく、じいさんの人物像にのみせまろうとしたところにその原因がある。このこともま た、教師の教材解釈としての「教えたいもの」がどこに焦点化されていたかということから生 じた結果なのである。授業展開にあらわれる事実のこの違いが、教材解釈の焦点化がタクトの

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行使を左右するという問題の所在を物語っている。

2.教師の「きり返し」「ゆさぶり」の活用

教師が問い、子どもが答える。読めば誰もが気づくようなことを、何の共感も感動も伴わな いままに次々と子どもが発言してくる。その単調な流れのなかで、授業が深まらない焦燥を抱 くのは、決して限られた教師だけではないだろう。

常識的、表面的な読みで終らないためには、展開場面における教師のきり返しやゆさぶりが 不可欠となる。

T このとき大道じいさんの心に、しめた、これでやっと残雪をつかまえることができたぞ、

といった心が少しでもあったろうか

T <いっぱいに>というのがあるのとないのとでは、どんなちがいがあるやろ

といったきり返しがそれにあたる。子どもの思考に緊張と集中、そして分裂をも生みだし、授 業者の「教えたいもの」への発見へと子どもたちを追いこむことができる。

また、発問にたいする応答としてだされてくる子どもたちの読みを相互に関連づけたり対比 させて、集団に返すことが、授業展開を紺織する有効なストラテジーとなる。

3.子どもの解釈を意味づけて作品の構造にせまる

本論で扱った研究授業では構想した発間にたいし、子どもからの応答予想をおこなっていた。

展開場面における組織化を容易にするためである。

もとより、応答予想に先取りされているもの、いないものを含めて、授業者がその場でどう 対応するかによって子どもたちの思考の質は決まる。授業が「生き物」と称され、二度と同 じ場面の再現ができないのは、授業がその場での子どもたちの発想を取りこみながら、子ど もとともにつくりだす営みだからである。とすれば異体的な授業の事実に即して子どもたち の発言を組織することが、クラスという集団のいわば共同作業としての理解に寄与すること になる。

C(道) ただの鳥にたいしているような気がしなかったからだと思います

という子どもの発言は一授業(2)−、教科書の叙述を再現しただけの、一見つまずきとも思 える内容であった。しかし授業者はその発言の背後に子どもの思いを感じとり(より正確には、

期待して)、反撃にでる。

T でも道隆くん、それは手をのばしたときだけとちがう?

はたして子どもは、じいさんが残雪に敬意を払って手をのばしたときの気持ち、残雪が雄々 しい野性のままに冬を越したことを、自分の言葉で表現してのけるのである。しかもこの子の 発言が、他の子どもによる「おとりのがんとの対比」の発見を誘発Lといく。授業者がもし単

なるつまずきとして片付けていれば、あり得なかった授業展開の事実といえよう。

逆に子どもの解釈を生かす余地を残したままに終った発言もある一授業(3)−。

C(岡) 無理にした顔じゃない C(渡) これでいい

がその例である。自分自身充実しているじいさんの内面の晴れやかさは、授業者がもっとも教

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(18)

えたかった「狩人としての誇り」である。「また会おう」「また戦おう」といった通り一遍の 読みが続くなかであるからこそ、これらの発言に積極的意味を付与して取りあげることによっ て、子どもたちの思考が新たな生気を帯びたであろうことは間違いない。

しかも授業(3)の指導案には、<はればれとした顔つき>をしているじいさんの面持ちは、

「自分自身がこんな気持ちになったすがすがしさ」ゆえだという、子どもの応答予想が含まれ ていた。C(岡)やC(渡)のつぶやきは、唐突にだされてきたのではなくて、実は、授業者 の発問に内包されていたのである。授業展開のタクトを行使するために構想したはずの指導案 が、タクトの行使に結びつききらなかったわけである。(6)

いずれにせよ、授業のなかで表明される子どもの表現にたいして、意味を付与し、その解釈 でもって作品の構造にせまるという視点を授業者が有したとき、授業展開のタクトはいっそう 強力に発揮されることになる。

(注)

(1)前田博「教育的タクト」(大阪市立大学文学会『人文研究』第8巻第2号)1957はか参照。

なお教育的タクトについては上野ひろ美「保育実践における教育的タクトの形成」(奈良 教育大学教育研究学内特別研究報告書1987)において、指導案構想と関連させて若干言及

している。

(2)吉本均「授業展開の力量とは何か」『授業研究』1982年6月号 明治図書。

(3)この授業は公開研究授業として実施されたので、指導案ならびに授業記録が安富繭小学校

『実践記録・明倫』第9号(1988)に収録されている。

(4)同上

(5)武田常夫『イメージを育てる文学の授業』国土社198015〜16ページ。

(6)上野ひろ美「授業展開における子どもの発言の組織化を考える」(奈良教育大学教育研究 学内特別報告書「教育実習改善のための基礎的研究」1989)参照。

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参照

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