[資料紹介] 続 経済学者の追悼文集(六)
その他のタイトル [Material] Obituaries of Japanese Economists (6)
著者 杉原 四郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 44
号 6
ページ 1213‑1229
発行年 1995‑03‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/13739
資料紹介
続経済学者の追悼文集(六)
杉 原 四 郎
は し が き
本稿では, 10人のエコノミストを氏名の五十音順にとりあげることにしよう。大隈重信 と山川均以外はいずれも大学出で, 出身大学は東大 3名, 東京高商・商大・一橋大学 4 名,京大1名である。このうち,上田辰之助と大隅重信と大河内一男と矢内原忠雄の4人 は,これまでに一度とりあげたことがある。資料はほとんど雑誌の追悼号で,単行本や小 冊子はーニにとどまる。
I
(1) 上田辰之助 (1892‑1956)
私は本誌第44巻第3号 (1994年8月)に掲載した「続経済学者の追悼文集四』において 上田辰之助の追悼文集を「如水会々報」と『英語青年』の二誌によって紹介したが,今回 はこれとは別のつぎの二誌によって補足しておく。
『一橋論叢』(‑橋大学一橋学会編集,日本評論新社発行)第37巻第5号, 1952年5 月1日。
この号は上田辰之助追悼号と銘うったわけではないが,全ベージ (166ページ)をあげ て追悼号の内容となっている。巻頭に上田の1955年11月3日の遺影,巻末に年譜(桶舎典 男編)と著作目録(桶舎典男・阿部志郎編)をおき,その間につぎの7人の論説がおさめ
られている。
故上田辰之助名誉教授 上田辰之助博士を儲ふ
大塚金之助 斉藤 勇 福田・上田両教授の聖トーマス研究五百旗頭真次郎 回教社会の近代化と経済倫理 板 垣 与 一
19世紀イギリス思想史の若干問題ー一功利主義への対決の一系譜ー一木村正身 ジェイムズ・ミルのカースト観 桶 舎 典 男
1214 闊西大學「癌清論集」第44巻第6号 (1995年3月)
J.A. ホプソン研究一ー「帝国主義論」をめぐる一試論一磯部浩一
見られるように本号は追悼文集というよりは追悼論文集に近い。 7篇のうち巻頭の二つ はしかし追悼文の色彩が濃いものである。大塚は,私がさきに紹介した 2誌をはじめ「一 橋新聞」 1957年1月20日号など各種の新聞・雑誌に発表された追悼文(とくに市河三喜の それ)を引用しつつ, 故人の経済思想史上の業績の一端を, 「遺産管理人の手にある上田 教授のなまの原稿」を引用しながら紹介している。斉藤勇(「上田辰之助博士を憶ふ」)
は, 3~以上もつき合ってきたこの「機智に富み,考へ方が早く,聰明で,敏捷に物が言 へ」て,人を「ひやかしたりからかったりすることが好きであり上手」な人との友交関係 をたのしげに語っている。そして「上田さんは現実主義に徹底しようとした理想主義者で あった」とむすんでいる。学術論文風の五篇のうち, 五百旗頭真次郎(「福田・上田両教 授の聖トーマス研究」)は, 福田徳三と上田辰之助のトーマス・アクイナス, とくにその 所有権論に関する研究をくわしく吟味して, 「要するに福田・上田両教授の聖トーマス研 究に対しては充分敬意を表するが,自然法その他の点に於てまだまだ未完の点のあること
を認めざるを得ない」という。他の4篇のなかで板垣与ーと木村正身とが上田辰之助の業 績に若干言及するのみで,それ以外の 2篇には上田の名は全く現れない。
「晨光」(一橋大学上田ゼミ機関誌)復刊第6号, 1975年9月10日発行, 編集兼発行者 菅原藤也,非売品, 146ページ。巻頭に故人と上田アヤノ夫人の遣影4葉。
1941年に創刊された『晨光」は,「いう所の「竪のゼミ関係」を緊密にし……会員相互 の接触を盛んに」するためのものであるということは, 創刊号の故人の「晨光に寄す」
(本誌に再録)で知られる。また「恩師上田辰之助博士逝いて満1哨三, 先生が精魂の凡て を傾注された一橋学園創設百年記念祭を迎えようとする本年,上田ゼミ機関誌「晨光」の 復刊をみること」の次第については,本誌の巻頭に大平正芳(当時大蔵大臣)の書いた「「晨 光」復刊にあたりて」にのべられている。
内容はつぎの三つよりなる。 (1)「晨光」の第 1号以降に書いた故人の文章と故上田アヤ ノをいたんだ文章2篇を収録したもの, (2)辱知各位と同期生・門下生が書いた「回想の上 田辰之助博士」, (3)「上田先生御遺稿要約解説」三篇。
『晨光」創刊号に故人は「昭和16年明治節の晨光を浴びて」つぎのように書いてい る。
「吉祥寺の茅屋—聖トーマスを記念するため多瑞書屋と呼ぶ—の玄関は諸君のため 常に開け放っている。何時でも御来訪あれ。偶々わたしがいなくとも家内はいる。実質的 にはゼミナールの一部分たる彼女は欣然お迎へするであらう」。
「辱知各位」(安積得也,大塚金之助,斉藤勇,高谷道男,南原繁, 福原麟太郎, 本位 田祥男)の文章は故人の没後間もなく発表されたものの再録であり, 「同期生並門下生」
(水谷九二吉,斉藤熊三郎,芦沢鵬ー,熊井征太郎,波多野釣ー,高杉幹夫,菅原藤也)
の文章は新稿である。
「フランスにおけるカトリック社会運動史」(解説林省吾),「経済発展における世界観」
(磯部浩一),「蘇格人アダムスミス」(木村正身)の遺稿解説をよむにつけ, 『上田辰之助 著作集」の完結をのぞむ思いが一そう強まる。なお「橋間叢書」第29号(‑橋の学問を考 える会, 1984年)の都築忠七「上田辰之助教授の戦後」は, 「一橋大学学問史』の中での べられた戦前の上田辰之助論の続きとして書かれたもので, 「経済学者というよりもむし ろ社会学者であり社会学者である前に実のところ言語学者であられた」上田の人と学問を 論じたものである。
(2) 大泉行雄 (1901‑1979)
大泉行雄は1925年以来40年以上高松高商・香川大学に在って経済政策・商業政策などを 担当(ただし1942‑45年は在ビルマ),経済学部長・学長をつとめたが, 1964年に退職して 神奈川大学にうつるに際し,『香川大学経済論叢」第37巻第2・3号 (1964年8月)は大 泉行雄博士記念号を発行した。そこには記念写真,年譜,著作目録の他,大泉に捧げる論 説11篇がおさめられている。また山崎怜は同誌第46巻第1号と第2・3号 (1973年4月,
8月)の「旧師業績拾遺」の中で大泉の著作目録を補足した。
大泉は1971年神奈川大学から近畿大学に移り, 1978年に退職, 1979年2月に病没した。
大泉の追悼文は多く香川大学の経済学部の同窓会誌『又信』,『又信東京」や『大阪又信 会報』等にのったので,それらを紹介する。
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又信』第59号, 1979年11月。 木村正身「大泉行雄先生を悼む」故人の経歴をたどりながら研究者,教育者としての業績をのべているが,小樽高商時代 に大熊信行の教えをうけたこと,東京商大時代に上田貞次郎の指導をうけたこと, ドイツ 留学の時ワルター・オイケンの影響をうけたことが大きかったとしている。そして大泉は
「思想的には昭和 8年ごろの転機およびご留学以降は一種の市民的リベラリズムをこえら れることはなかったけれども,この立場を,師上田博士やオイケン教授に従って誠実につ らぬかれた。……先生はなによりも打算を知らぬ若い真摯な魂との出会いを大切にされ,
それをみずからの学問的発想の糧ともされた。又信学園とは,先生にとつては,そのよう
1216 蘭西大學「純清論集」第44巻第6号(1995年3月) な出会いの場なのであった」とのべている。
松本武雄「恩師上阪泰次先生と大泉行雄先生の思い出」(本科一回)は「二年のとき倉 庫論を三年の時商業政策を講ぜられたように記憶している。先生の講義振りは荘重といっ た感じで, 『学問は猶火の見櫓の如し」とは先生の学問に取組まれる時の根本的態度で授 業中屡々耳にした言葉である」と書いている。佐々木清(東京支部)「大泉先生を偲ぶ会」
(第60号, 1881年)は,大泉の一周忌の1980年2月9日に東京でひらかれた会の様子をつ たえている(『又信東京」第21号にものっている)。武智秀幸「折々の便りに大泉先生を偲 ぶ」(本科5回,『有信」第61号, 1982年)は, 30年以上にわたる間で,大泉からもらった 書簡ーー大泉が香川大学を去ってからもたびたびーーを紹介しつつ「権謀術数を嫌はれ恩 義に対しては常にきびしく清潔な」恩師をしのんでいる。大西喜也「ビルマにおける大泉 行雄先生との奇遇」(本科15回,第66号, 1986年11月)は, 1943年3月ごろに日本綿花株 式会社のラングーン支店に勤務していた時,ローヤル湖畔で遇然司政官という軍属で来て いた大泉にあった時のことを書いている。
山崎冷は『又信東京」(第22号, 1982年11月)に「ある日の大泉先生」を,また『大阪 又信会会報」(第20号, 1983年6月)に「大泉先生の17面相」を書いて, 大泉の寛容であ たたかい人柄を紹介している。また山崎は近著「経済学と人間学—一ーアダム・スミスとと もに一ー」(昭和堂, 1994年)の中に, この「ある日の大泉先生」やその他に「財布」や
「エッセイストとしての大泉先生日〜四」などをおさめて,大泉への敬慕の思いをあらわ している。大泉には『個人発見と社会発見』(1933年)や「世にも利口な男の話』(1935年) や『独逸及び独逸人の問題』 (1939年)などのエッセイ集があるが, 山崎はそれらにおさ められたエッセイをとりあげながら,著者が自然と人間と生活とを題材にしてどのような 警世の文章を書いているかをのべている。
(3) 大隅重信 (1838‑1922)
私は本誌第40巻第3号 (1990年10月)に大熊重信生誕125年記念に出た「巨人の面影』
(1963年)を紹介したが,大隅重信が病没した直後に彼と関係の深かった四つの月刊雑誌 が追悼号を出しており,それらに多数の文章や記事が掲載されているので,ここでは個別 的な紹介ははぶき,できるだけ網羅的に,どのような人がどのような文章をこれらの雑誌 によせているかを題名と筆名を列記するだけにとどめて紹介することにしたい。とりあげ る雑誌は『早稲田学報』,『文明協会講演集』,『大観』,『後援」の四つである。
『早稲田学報』,早稲田大学校友会, 325・326合併号, 1922年3月10日発行,故総長大
隅侯追悼号,菊版140ページ。編集兼発行人前田多蔵。表題は前総長平沼淑郎執筆。巻頭 に遺影ー葉はじめ佐賀の生家,家族,葬儀,墓誌銘などの写真多数。
弔詞,故総長と本大学(記事)につづいて6名の感想録:がある。「故総長の精神と早稲 田大学」塩沢学長。「故総長を追悼して早稲田大学の前途に及ぶ」高田名誉学長。「博愛の 人」渋沢子爵。「故総長の追懐」坪内博士。「故総長と菅公と楽翁公」市島名誉理事。「故 総長の遺訓」松平伯爵。その後略歴, 発病より甍去まで, 葬儀記事, 早稲田大学の追悼 会,雑録とつづいておわる。
「文明協会講演集』,大日本文明協会,大正11年度, 第1号, 1922年2月25日発行, 1 29ページ。巻頭に諫と遺影ー葉 (1921年5月本会での講演の際), 巻末に連載の「大隅 侯座談日記」あり。大隅侯の遺志(会員諸君に告ぐ), 告別祭詞, 会長大隅侯略歴,国民 喘記,以上。
『文明協会講演集」第2号, 1922年3月。本号は故大隅重信侯弔詞録の特集である。
『文明協会講演集」第3号, 1922年5月15日発行。雑録の中に「大隅重信侯追想録」と
「故大隅侯の追懐」高田早苗の二項目がある。
「大観』,実業之日本社,第5巻第2号(特別号), 1922年2月1日発社大隅侯哀悼号,
発行兼編輯人相馬由也,一円二十銭。
最初の247ページが哀悼号にあてられており, その内容はつぎの通り。巻頭に各時代の 遺影,侯爵邸や遺愛の盆栽などの写真多数。巻頭言「平民的政治家大隅侯の斃去を惜む」
につづき四人の文章がある。「我観大隅侯」三宅雪嶺。「代弁者を失へる日本」徳富蘇峰。
「対支廿一箇条問題と大隅侯」姉崎正治。「大隅侯の事業観」五来素川。つぎに「大隅侯 八面観」という章で,「思想家としての大隅侯」金子馬治,「経済論者としての大隅侯」塩 沢昌貞, ら13人が執筆し, 「大隅侯爵の生涯」という章で, 長崎時代から終焉までを六期 にわけて矢野文雄や島田三郎ら4人が書き, 『早稲田侯の追憶」の章で服部文四郎, 坪谷 善四郎ら38人が短文をよせており,『外人の見たる大隅侯」の章で,外交省顧問T.ベーテ ィー, ロンドンタイムスの]. ペンリングトンら6人が書き,「インテリゲンチャの観た る大隅侯人物評」の章で,大山郁夫,島崎藤村,安部磯雄,高野岩三郎,正宗白鳥,内田 魯庵,生田長江,三浦謹之助ら69人が,最後に「大隅侯逸話」の章に町田忠治,煙山専太 郎,茅原華山ら11人が短文を寄せている。
『後援』(帝国軍人後援会発行)第229号(大正11年2月3日発行)大隅侯爵追悼号は,
巻頭に遺影,国民葬の写真,「大隅侯を悼む」,諫詞,末尾に症状の経過,国民葬記,逸話 の数々をのせ,陸軍大将,海軍大将ら軍人4名,総理大臣高橋是清ら大臣5人,憲政会総
1218 関西大學「継清論集」第44巻第6号(1995年3月)
裁加藤高明ら政治家9名らの追悼文の他,「衷世凱の野望を一蹴」矢野龍渓,「グラッドス トンと隅侯」三宅雪嶺, 「世界的巨国」アドバタイザー社長フライシャー, 「海運業と隅 侯」郵船会社社長伊東光次郎,「正金銀行の大恩人」正金銀行頭取梶原仲治,「文化事業と 東西文明調和論」市島謙吉などが,大隅の多面的なプロフィルを描いている。
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(4) 大河内一男 (1905‑1984)
私はかつて大河内の三周忌に出た「わが師大河内一男」 (1986年)を紹介した(『思想家 の書誌」 1990年)が,今回は没後まもなく刊行された雑誌二種を紹介する。
『経友』東京大学経友会,第101号, 1985年2月,大河内一男先生追悼, 4‑52ページ。
巻頭に遺影ー葉。
編集後記によれば,「本号を「大河内一男先生追悼号」といたします。先生を追l卓する 企画は他にも多くあったかと存じますが,ここでは先生にゆかりの経友諸先輩に特に寄稿
をお願いしたものとともに, 前号で予定してお願した投稿をもって編集しました」とあ る。 12篇のうち11篇の文章は,昭和16年3月卒の尾崎重毅から,昭和29年(新制)卒の大 堀末雄まで,東大経済学部の卒業年次順にならんでいる(最後の大塚斌「前号のお詫びと 訂正」一ー『経友」第100号にのった「大河内一男先生と経友会」の記事の訂正一ーだけ は例外)。多くの人は大河内ゼミの出身者で, 故人の教育者としての面影をこもごも語っ ている。
氏原正治郎の「弔辞」は1984年8月24日の告別式に門下生を代表して語られたもの,故 人と門下生との関係は「先生の寛容と自由と他愛の精神のもとに集まった大河内塾の塾長 と塾生の関係のように思われ」るとある。隅谷三喜男は故人のドイツ書講読の講義には出 席したが単位はとらず,ゼミ生でもなかったが,それは「何か事件を生じた場合,先生に は迷惑をお掛けしてはならないと考え,公的な関係は持たないよ・うに心掛けた」からであ ったとのべ,研究の上で, また鞍山製鉄所への就職の上でも, とくに世話になったこと など, 「私事に亘ることのみ記し」ている。故人の業績等について隅谷は日本学士院での
「追悼の辞」でのべている。田添京二は1981年秋にクモ膜下出血で倒れたときわざわざ福 島まできた故人に見舞ってもらったことや,それが見舞うこともできぬ急逝で故人と永別 しなければならなかった口惜しさを書いている。この文章は田添のエッセー集「虫の居ど ころ」(八朔社, 1991年)に入っているが,そこには『大河内一男集』(労働旬報社)の第 五巻月報に書いた「思い出すままに」 (1961年)と,経済学史学会「年報」第22号 (1984
年1月)に書いた「大河内一男先生の御逝去を悼む」との二つもおさめられている。『年 報」での文章で田添は,故人の学風は「どこか柔軟で,いつもなんかしらのゆとりと遊び を感じさせるものがあった。……(これは)多趣味の江戸っ子教養人としての御日常とも 一詠相通ずるものがあろう」とのべている。
朱昭文「大河内先生と中国」は,故人が1939年に台湾を訪問して以来,中国に対する関 心を深くもつようになり,たびたびの訪中で両国の経済学の交流につとめ, 198綺三の秋に は5度目の訪中が予定されていたことをのべている。また白井泰四郎「大河内先生との 旅」は, 1993年8月7日に軽井沢で肺炎にかかった故人が急拠お茶の水杏雲堂病院に入院 する時に,急病で倒れた夫人に代って車に同乗した時の三時間半のことがくわしく書かれ ている。その翌々日の午後3時に白井は大河内の訃報をきくのだが,いろいろな事情が重 なって.こうした結果になったことについて白井は「すべて廻り合わせが悪かったとしか いいようがない」とのべている。なお戸塚秀夫の「教育者大河内先生を偲ぶ」は, 『労働 史研究」(論創社,第2号)からの転載である。
「労働史研究」第 2号, 1985年1月,論創社,特集「大河内一男ー一その人と学問
ー」, p.54‑92.
執筆者12人のうち, 8人は社会政策関係の, 4人は経済学史・社会思想史関係の人々で ある。
平田冨太郎(「大河内一男先生の追慕」)は,社会政策の「本質論争」は不毛・非生産的 なものでは決してなく, 「社会政策の内容である賃労働自体の問題が問題とされなかった という「疑問」と「不満」を契機として賃労働の経済学である「労働経済学」が生まれる にいたった事情を考える場合には,大河内理論を中心として展開された社会政策の「本質 論争」の学問的意義はきわめて大きなものがあった」といい, 桜林誠(「故大河内一男博 士と産業報国会」)は,大河内の産報理論は,「一定の量的発展が反対物への質的転化をも たらすという弁証法の産報への優れた適用である」として,その優れた点と同時にその問 題点を列挙する。最後に「問題点の一部は私自身から直接申しあげたが御返事を頂けなか った」とのべている。また大陽寺順一(「星霜を経たドイツ社会政策思想史の視座」)は,
大河内の処女作「独逸社会政策思想史」の問題点として, (1)研究を187碑こ代初期から始め ていること, (2)講壇社会主義以外の諸思潮を閑却していること, (3)本書で高評価されてい る学派についても現在の研究水準からみて再検討を要する点が見られるの 3点をあげ,具 体的に種々の疑問点を提示している。故人に師事した徳永重良.戸塚秀夫,松尾洋,塩田 庄兵衛.西村諮通も社会政策・労働運動史学者として,また教育者としての大河内の思い 135
1220 閥西大學「鰹清論集」第44巻第6号(1995年3月) 出を語っている。
小林昇(「大河内一男先生とわが国の経済学史研究」)は, 「学史の学者としての先生の 御仕事」を年代順につぎのようにあげてその意義をのべている。『独逸社会政策思想史』,
『スミスとリスト』,東大での経済学史の講座担当,アダム・スミスの会,経済学史学会,
『経済思想史』,『国富論」の邦訳。水田洋(「本と人のおもいで」)は, 自分のよんだ大河 内の著作について,長野駅やグラーズゴウで出会った故人について回想している。五島茂
(「大河内一男学兄のみたまに」)は追悼歌16首をしるしている。その中の一首, 「わが孤 りとなりてよりしげく夏ごとに食事に招きたまひしと知る」。須藤壬章(「大河内一男先生 とアダム・スミスの会」)は, 故人が初代会長矢内原忠雄がなくなったあとをついでアダ ム・スミスの会の会長を23年近くつとめたことを語っている。なお, 『大原社会問題研究 所雑誌」の1995年1月号に塩田圧兵衛「門下生から見た大河内一男先生―‑1942 1984年 ー 」 (1)がのった。 1994年7月の講演に加筆したものである。
当時発表された追悼文には栗田健の「山詠の谷間で」(「労働法律旬報」 205号, 1984年 10月10日)などがあるが,ここでは最後に「アダム・スミスの会会報」第51号 (1985年4 月)にのった文章を紹介しておく,大道安次郎「大河内一男さんの人柄を偲んで」がそれ である。それには1964年3月17日に京大楽友会館でひらかれたスミスの会第113回例会の ときの二人の写真がのっているが,故人はスミスの会に出席することをたのしみにしてい たらしく,会長になってからはとくに,どんなに忙しい時でも出席し,関西で開かれる例 会にも顔を出していた。大道は, 「それにしても大河内さんほど「スミスの味」をよく味 わった人も少ないであろう。しかも「公平な観察者」として楽しく味わっていた。だから こそスミスの会の「初期イギリス経済学古典選集」完結記念講演会……の開会の辞に,大 河内さんとしては珍しく激しい口調で,いわゆる「先進国病」を批評されたり,また「続 アダム・スミスの味」(東大出版会)の会長としての『はしがき」で,『手のよごれない労 働」のみを求め,また「消費は美徳なり」とする最近のわが国の一部に見られる風潮に警 告されているのも,スミスの精神を最もよく理解され,またご自身がその体現者であった
こそといえよう」とのべている。
私は故人の遺著「社会思想史」の増訂版 (1985年)の書評を「書斎の窓」(有斐閣,
1985年6月号)に書いたが,その中で, 故人を追憶しつつ, 「もし著者によって本書の最 終章「 2つの世界ー自由社会と共産主義」が書き上げられていたら,多分その中にもミ ルがマルクスとならんで登場したのではなかろうか」とのべた(杉原「読書颯々』, 177ペ ージ)。
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続経済学者の追悼文集因(杉原)
(5)大塚金之助 (1892‑1977)
『如水会会報』 1977年7月,「故大塚金之助名誉教授を偲ぶ」 pp.24‑38.
最初に1977年6月4日に千日谷会堂で開かれた「大塚金之助先生にお別れする会」の概 況がしるされ,大塚の略歴抄(大正3年に神戸高商卒業以来の)がのっている。追悼文を 寄せたのは,「大塚金之助先生の最後」,栂井義雄;「大塚先生と書物」,細谷新治;ドイツ 国立図書館へ寄贈の「大塚文庫」,良知力;「思い出の断片」,浦田誠視の4人である。良知 は1975年3月にベルリンのウンター・デン・リンデンのドイツ国立図書館で大塚と会った 時のことを書いている。大塚は母校ベルリン大学図書館に和書1万2千冊におよぶ蔵害を 寄贈したのだった。大塚は洋書は母校一橋大学の図書館に寄贈した。 2万数千冊に及ぶこ の二つの大塚文庫のことを細谷新治も書いているが,細谷は『窓』第23・24号(ナウカ社,
1977年12月)によりくわしく「大塚金之助先生と書物」のことを語っている。そこで大塚 が読書に関するエッセイをまとめるつもりで構想していた自著「書物日記, 1933‑45年)』 の内容がくわしく紹介されている。また細谷は『経済資料研究」 13号(経済資料協議会,
197岬 1月)に「大塚金之助先生とビブリオグラフィー」を書き,大塚が編集した多くの 書誌32点を紹介している。
私がかつて紹介した(「歌人経済学者」, 杉原『読書燈籠』未来社, 1982年所収)よう に,大塚は歌人としても有名で,『人民』(新評論, 1979年)という歌集があるが,歌人大 塚をしのぶ文章としてつぎの二つがある。米田利治「大塚金之助」,『末来」未来短歌会,
315号, 1978年5月,森川平八「二人の大先輩をうしなう」,『赤旗』 1977年5月31日。 大塚が没して3年後の1980年5月から『大塚金之助著作集」全10巻が(岩波書店)刊行 されはじめ, 1981年11月で完結した。都築忠七はじめ当時一橋大学のスタッフだった大塚 の門下生4名が編集に当たり,附録の月報には一橋での大塚の同僚や友人・後輩が追憶記 を執筆した。その中から二三あげると,「福田先生と大塚先生」山田雄三(月報2);「大塚 先生と北大経済学部」,新川士郎(4),「三田の大塚先生」飯田裕康(7);「大塚,上田(辰),
大泉先生」木村正身;「歌集「朝あけ」の刊行」利田正男(9)。なおこの著作集の内容見本 は遺影5葉と略年譜の他,増田四郎, 杉原四郎, 千田是也, 長洲ーニ, の推蒋文(私の
「抵抗としての集書と珠玉の文章」は前掲『読書燈籠」に収録)と佐々弘雄, 伊藤整, 久 保田正文の大塚論が掲載されている。また1981年5月から大塚ゼミ(‑橋,慶応,明治学 院)出身者による「大塚会会報』が発行されはじめ,そこにも毎号大塚に関する文章や記 事がのっている。たとえば「マーシャル「経済学原理」の翻訳権のいきさつ」, 話し手安 居喜造,きき手佐野文網(第1号);「大塚金之助先生・兼常清佐先生」小松雄一郎(第2
1222 隅西大學「経演論集』第44巻第6号(1995年3月)
号, 1982年5月)などで,私も会報第15号 (1989年12月)に「河上肇と大塚金之助」を書 いている(杉原『読書流紋」未来社, 1995年所収)。
都築忠七は『大塚金之助教授と解放思想史」 (1980年3月,一橋の学問を考える会)で
「大塚教授の人間像」, 「大塚教授の思想的展開—マルキシズムヘの道ー一」, 「大塚教 授の受難 (1933年の投獄で)とその解放思想一ー第三の道(レジスタンスの道)の選択 ー」を展開している。とくに都築が力を入れてのべているのは最後の章で, 1933年の大 塚の「転向」について自分は川崎巳三郎の解釈とは「いく分ニュアンスを異にしてい」る とのべ,大塚が第二審において提出した「上申書」をくわしく検討し,大塚は転向をせま る当局に対し, それを肯定も否定もしない「第三の道, 抵抗の道」をえらんだとしてい る。そして「抵抗と解放の思想史,エマンシペーションの思想史は, 1933年のあの聴取書 と上申書を背最にして生まれた」と結んでいる。この「エマンシペーション」という言 葉は,山田雄三が著作集『月報』第2号 (1980年7月)にのせた前掲の文章の中でつかっ た言葉である。この一文は,福田と大塚との師弟関係をのべたものとしても注目される。
(6) 杉本栄一 (1901‑1952)
「一橋論叢」第29巻第5号, 1953年5月1日
巻頭に遣影ー葉。つぎの二つの杉本論と,年譜•著作目録とがのっている。
大塚金之助「杉本栄一君の死―‑1952年10月5日,一橋大学大学葬で,ー友人として述 べた追悼の言葉の手稿ー一」
大塚は(1)「友人杉本君」で,故人が福田徳三ゼミの送別コンパに「福田先生のカバン持 ちとして同伴した」時,元気余って二段の階級から転がり落ちたのが故人だったこと,故 人が過労をおして著述活動をつづけているのに3月以来警告を与えていたのに, 9月12日 に電話で話したのが最後となったと書き, (2)「人間杉本君」で, 1952年7月11日づけの大 塚あての故人の手紙や「未婚の一女性」の故人への手紙を引用して故人の「人間性を示し たい」としており, (3)「原子エネルギ一時代の社会科学者」では, 「物理学の勉強にも着 手していた」故人は「みずから意識して原子エネルギー研究時代の社会科学者であった」
とのべている。
山田雄三「杉本経済学の課題」。
山田は杉本の経済学は三つの時期を経て展開されたとして, (1)均衡に対して「不均衡」
を考えた時期 (1933‑1936年), (2)自由に対して「統制」を考えた時期 (1940‑1943年), (3)調和に対して「矛盾」を考えた時期 (1946年以降)をあげ,「近代理論もマルクス経済
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学も広く見渡して,真剣に自己の途を切り開こうとしたところに杉本経済学の特色があ」
るとしている。
巻末に種瀬茂編「杉本栄ー教授年譜」と真実一男。浅野栄一共編「杉本栄ー教授著作目 録」がある。なお真実一男は長崎大学経済学部雑誌「扶揺』 (97, 1953年2月)に「杉本 先生を想う」を書き,その中で「宮崎義一君や(経済学新体系「失業』の折込みパンフ
「経済学新体系月報V1』)高島(善哉)さんも(『一橋新聞』, 1952年10月30日号)いって いるように,先生の基本的立場は,疑いもなくマルクスであった」とのべている。また種 瀬茂は「経済思想』追憶版(青木書店, 1986年)の第4編三に「杉本栄ー教授の経済思 想」(『一橋大学学問史』,一橋大学, 1986年)を, I講演・挨拶・式辞などの中に「杉本 栄一先生著『近代経済学の解明』のなりたち」(一橋の学問を考える会「橋問叢書』 27, 1984年)を書いている。
伊東光晴は杉本栄一『近代経済学の解明
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上(岩波文庫, 1981年)の解説で,杉本が外 国留学中にコルシュやレオンティエフと交友したことや,未完におわった本書の「下巻の ための構想」(手稿)を紹介している。私は種瀬茂がつくった杉本の詳細な年譜をよんで,彼が東大理学部数学科へ進む事を望 んでいたが家庭の事情で東京高商に進んだこと,東京商大予科生の時,学科目改正要求運 動に参加,数学科目増設に尽力したこと,東京商大生のとき福田徳三のプロゼミでMarx
のDasKapital, Bd. Iを読んだこと,東京震災の羅災者の職業調査に福田穂三の指導で 活躍したこと,一橋会本科学術部の中のS・P・S(社会思想の会)の創設に尽力,これが 開いた労働学校に参加したこと,卒業論文「資本増殖の無限性に関する若干研究_主と してマルクスの学説に就て一ー」を書いたこと,また1929‑1932年の留学中にベルリンで 数学を勉強したこと,ワーゲマンの景気論やボルトキーヴィッツの統計学の講義を聴いた こと,キールでは世界経済交易研究所,フランクフルトでは社会研究所で学んだことなど に注目した。
直
(7)船山信一 (1907‑1994)
「季報唯物論研究』,第13巻1・2合併号(第49・50合併号)編集発行人大阪唯物論研究 会哲学部会,発行199峠三8月20日,追悼・船山信―,64128ページ。
冒頭に遺影ー葉と編集部のまえがきがあり,船山が唯物論研究会創立以来の大先輩であ り,大阪哲学校創立以来の顧問,季報『唯物論研究』の執筆者でもあったこと,この号の
1224 闊西大學「親清論集」第44巻第6号 (1995年3月) 編集上みちよ夫人にいろいろ世話になったことがのべられている。
はじめに船山謙次(弟)の「兄信一の思い出」と船山達郎(甥)の「父からの叔父信一 の話』の二人の遣族の文章がある。前者は故人の「漁村記」 (1943年, 水産社)をとりあ げ,戦争中に公刊された本書は「今日から見ても貴重な労作・調査ではなかったか」と書 いている。後者には叔父をうたった短歌がある。「人違ひされたることの語りぐさ宇野重 吉は亡き叔父に似つ」。石堂清倫「田辺元氏の相談」は, 田辺から船山の生活を配慮して
「中央公論」などの雑誌に執筆ができるよう頼まれた次第を書いている。水田洋「五十五 年前の執筆依頼」は, 『一樹新聞」への執筆を学生として依頼にいったことや, その頃
「観念論から唯物論へ」(大畑書店)を読んだ記憶をのべている。清水正徳「フィロソフィ アの道」は, 1946年宮城県水産業会ではじめて,箕下信ーが東洋大学に講演に来たときに 会って以来大学でしばしば,また清水が神戸大に船山が立命館にきてからはもっとしばし ぱ会う機会があったこと,船山の還暦記念論集を企画して実現しえなかったことなどを書 いている。西川富雄と岩井忠態は立命館大学文学部での同僚としての思い出を語ってい る。山本晴義「船山さんの問題提起」は,山本が代表の大阪唯物論研究会・哲学部会に故 人が「夫人の影の力もあって全面的にご協力いただいたこと」や,船山が「天皇制下にお ける哲学者たちの転向」というインタビューの中で「なぜ国民が天皇制の下についていっ たのか,そのことを考える方が天皇制を考えるということではないか」とのべたことにつ いて, 「知的・道徳的ヘゲモニー」の奪還のための長期的な粘り強い「陣地戦」の重要性 などを述べている。鈴木正は「大衆的現実にたいする「如実知見」をもつ可能性からいえ ば,三木清や船山さんは左翼と花森安治の中間にいたの.ではないか」と注目すべき発言を している。酒井道子,梅川邦夫,藤田友治,服部健二などは立命館時代の船山から教えを うけた思い出を語る。膝穎「船山信一先生と中国」は,船山と中国哲学界との交流や立命 館大学の「船山文庫」にある膨大な中文の雑誌のことを紹介している。木村四行「永田広 志と船山信一」は故人の永田文庫へのなみなみならぬ協力を語る。最後の稲岡義朗「それ でも「転向』について」は,船山の転向について「戦時下の日本のマルクス主義・共産主 義運動の教条主義的・セクト主義的な限界を考えるならば,そこからの脱却,つまり自立 としての「転向」(「党」から見れば脱落だろうが)の側面を見落してはならない」と書い ている。
私は船山の近代日本哲学史研究や, とくにその河上肇研究に関心をもち,文通がはじま って『河上肇の哲学』 (1987年)や遺著「ひとすじの道』(三一書房, 1994年)などをおく っていただいた。私は「ひとすじの道』を,河上肇記念会『会報」 47号 (1994年9月)で
紹介し,船山の「転向」の問題にもふれている。
なお『季報唯物論研究』 (46・47合併号, 1993年11月)には, 「資料・船山信一獄中書 簡」がのっており,船山から井上みちょあての書簡18通が紹介されていて,藤田友治が解 説を書いている。
(8) 舞出長五郎 (1891‑1964)
『経友』(東京大学経友クラブ)第33・34合併号, 1964年10月。舞出長五郎先生追悼特 集。 pp.4‑93, 巻頭に遺影4枚。
編集後記にいう, 「経済学部のいわゆる4長老のお一人である舞出長五郎先生は, 去る 7月15日に二宮のご自宅で逝去されました。その舞出先生をしのぶ経済学部主催の追悼会 が9月19日に法文経28番教室で行なわれ,鈴木学部長,木村(健)教授,大河内総長,大 内名誉教授の講演がありました。……本号はそれらの講演を中心とし,巻頭を舞出先生ご 自身が語られる『経済学部30年の想い出』で飾り,さらに舞出先生に近しい方々の想い出 を集めて,追悼特集号として編集しました」。
巻頭に「経済学部30年の想い出」舞出長五郎がある。はじめに編者の「これは昭和24 年,経済学部30周年を記念しておこなわれた座談会における舞出先生のお話しを中心にま
とめたものである。まとめるにあたっては脇村義太郎名誉教授の校閲を経た。鈴木鴻一郎 誌」ということばがある。座談会の出席者は舞出の他上野道輔,大内兵衛,矢内原忠雄,
脇村義太郎,山田盛太郎,有沢広巳の6名で,舞出が学部長として処理にあたった平賀粛 学のことが中心に論義され,最後に舞出自身の欧州留学の回顧談がのっている。
追悼文は,鈴木鴻一郎,木村健康,大河内一男,大内兵衛(以上4人は9月19日の追悼 会での話),有沢広巳,安倍能成,三谷隆信(旧制一高の同期生),岸本誠二郎,隅谷三喜 男,内田忠寿の10人である。なお『経友lJ36号 (1965年8月)に横山正彦「舞出長五郎先 生の想い出」がのっている。
私には座談会の中で舞出が,学生時代吉野作造から社会主義の学説・運動史をきいて経 済学説史に興味をもつようになり,研究生になって高野岩三郎のすすめでロードベルッス
をまとめて欧州に留学,そこで櫛田民蔵と本を買うために「ー諸になって歩いた。それで 学説史をやるためにマルクスもやらなければならぬという気になった……しかし僕のマル クス研究はつねに学説史研究者としてであり,それ以外に出なかった」とのべているのが 注目された。
舞出の追悼文の中で,何人かが彼の『理論経済学概要』 (1943年)にふれている。鈴木
1226 閥西大學『純清論集」第44巻第6号 (1995年3月)
は当時の情勢を考えれば「この本からマルクス経済学の基調がむしろ却けられているの も,或いは止むを得なかったのではないかとも考えられます」といい,大河内一男は「こ の「理論経済学概要」の中で舞出先生が立っておられる理論的な立場と,昭和12年の「経 済学史概要」の中でその底流として舞出先生がその上にどっかりと腰を据えていらした立 場とは,必ずしも同じものではないように私ども当時これを読んだ者の印象としては残っ ております」とのべ,その印象についてさらに舞出が労働価値説に対し「相当批判的ない しは消極的な態度(で)……例えば資本の生産性というものが労働価値説ではついに解け ない。そこに労働価値説というものの限界」があるとしている点に注目し「顧みて暗い気 持を覆いえない」とかいている。横山正彦も舞出が, 1942年9月号の「経済学論集」に 書いた「理論経済学の若千問題ーーとくに価値論および利潤論について一ー」を読んだ時 の,また翌年出た『理論経済学概要」を読んだ時の, さらに1948年に同書の改訂版(「価 値論や利潤論は戦時中のものとすこしも変わっていなかった」)を読んだ時の「がっかり
した」気持を告白している。
舞出が1942・43年の頃に労働価値説に対する批判点をあえて提出したのは,多年の理論 的研究の検討のうえでのことなのか,それとも当局の圧迫に対する対応策として書かれた ものなのであろうか。後者の点が当時の舞出の心理の中に全然なかったとはいえないにし ても,前者の裏づけがすこしもなくて1942年の論文がかかれたとは信じにくい。あの論文 は今でも十分慎重な吟味を必要とするのではないかと思われる。
(9) 矢内原忠雄 (1893‑1961)
『経友」第20・21合併号, 1962年3月, 矢内原忠雄先生追悼特集, p. 1‑29. 巻頭に遺 影ー葉。
最初に矢内原忠雄「思い出」がある。「本篇は脇村義太郎先生の委嘱により,『経済学部 30年』と題する座談会速記録のうちから矢内原先生の発言を中心に編集したものである。
各節の分け方,各節の題名など,もとより編者のものである一鈴木鴻一郎記」とある。
(1)新渡戸先生のこと, (2)法科大学の学生のころ, (3)研究生活に入っての三節からなる。終 りの方で矢内原は「経済学の研究は……大内君との討論,鏃論あるいは僕が質問して教え てもらった,それがすべてなんです」といっている。つぎに1961年12月27日の葬儀のとき によまれた大内兵衛と楊井克巳との弔辞がおさめられている。大内は42年間の交友を回顧 し,学者として,教育者としての矢内原の「偉大さはもとよりその業績にあるが,その業 績はその魂の偉大さによるものである」し, 「それは彼の信仰からきたもの」であって,