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「社会主義的必要生産物および剰余生産物の生産の 法則」について

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「社会主義的必要生産物および剰余生産物の生産の 法則」について

その他のタイトル Law of Socialist Necessary Product and Surplus Product

著者 長砂 實

雑誌名 關西大學商學論集

巻 13

号 4‑5

ページ 529‑548

発行年 1968‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021247

(2)

(529) 217 

「社会主義的必要生産物および剰余 生産物の生産の法則」について

長 砂

は し が き

近年,ソ連邦において,社会・共産主義社会における必要生産物と剰余生 産物の生産および分配の問題が,社会・共産主義経済学の重要なテーマとし て登場している。これには,実践的背景がある。その1つは,ソ連共産党第 21回大会 (1959年)から重視されだした「社会的消費フォンド」の経済学的 本性の解明の必要であり,もう 1つは,経済改革の体系のなかで重要な位置 をしめる「利潤」の本性の解明の必要である。

これには,さらに,社会・共産主義経済学の体系化の発展という背景があ る。すなわち,このテーマほ,『経済学教科書』(1954年初版, 1962年増補改訂 4版)的な社会・共産主義経済学の体系ではとくべつの意義をもたないが,

『経済学教程』(1963年,エヌ・ツァゴーロフ編)やヤ・クロンロード『社会 主義経済学の諸法則』(1966年)のような体系では現実に重要な位置をしめて いる。また,われわれが主張しているような,社会・共産主義経済学の端緒

(1) 

的範疇にかんする「社会的生産物」説の観点からすれば,このテーマほとく べつに重要な意義をもたざるをえない。

なぜなら,直接に社会的な生産物と非本来的商品との統一物である「社会 主義的生産物」が,社会主義のもっとも一般的な活動交換の生産関係を体現

(2) 

している範疇であることの解明から出発し,ついで,直接に社会的な純生産 (1) 拙論「社会・共産主義経済学の端緒的範疇について」,『関西大学商学論集』第

12巻第3号参照。

(2) 拙論「『社会主義的商品生産』および『社会主義的価値法則』の二重性につい (1)(2)」,『関西大学商学論集』第13巻第1, 2号,参照。

(3)

物と非本来的な「総収入」 (Roheinkommen) との統一物である「社会主義 的純生産物」が,社会主義の基本的生産関係を体現している範疇であること

(3) 

の解明にすすみ,さらに,直接に社会的な必要生産物および剰余生産物と非 本来的な必要生産物価値および剰余生産物価値との統一としての「社会主義 的必要生産物および剰余生産物」が,社会主義の直接的生産過程の,より具 体的な,より派生的な生産関係を体現する範疇であることの解明にすすむこ とほ,論理的に避けられないからである。このような社会主義的必要生産物 および剰余生産物の本性の解明に依拠することによってのみ,社会主義的生 産物とその構成諸部分が,その運動の生産,分配,交換,消費の各段階で,

およびその全体としての再生産過程で,いかに社会・共産主義的生産関係を 表現するか,いいかえれば,いかなる経済的形態規定性をうけとるかを,経 済学的に追求することが可能になるであろう。

このような問題意識のもとに,資本主義的生産様式の否定である共産主義 的生産様式の第1段階としての社会主義のもとでの,必要生産物と剰余生産 物の生産の諸関係=本質をあきらかにしようとするのが,本稿の課題であ る。ソ連邦の諸論者の見解にふれながらも,われわれの独自の見解が展開さ れるであろう。

1 特 有 範 疇 と し て の 必 要 生 産 物 お よ び 剰余生産物とその共通的「基礎」

必要生産物と剰余生産物が,あらゆる搾取社会で,それに同有な敵対的生 産関係を表現する特有な経済学的範疇であることは,疑問の余地がない。し かし,マルクスは,必要生産物と剰余生産物の存在を,搾取社会に限定しな かった。すなわち,「剰余労働一般ほ,与えられた欲望の程度をこえる労働と してほ,つねに残存せねばならぬ。資本主義制度においてほ……剰余労働ほ ただ敵対的な一形態をとる」(『資本論』,青木文庫,⑬1154ページ)のであり,

「……必要労働および剰余労働から,独自的・資本制的性格をとり去ってみ (3) 拙論「『社会主義の基本的経済法則』論の検討(1), (2)」,『関西大学商学論集』,

9巻第3 6号,参照。

(4)

531) 219  ょ。すると,なお残るのは,これらの形態ではなくて,すべての社会的生産 様式に共通な,これらの形態の基礎だけである」(同上,⑬1234ページ)。

こで「労働」を「生産物」におきかえるならば,つぎのようにいうことがで きる。すなわち,必要生産物と剰余生産物はつねに特定の社会の特有な経済 学的範疇であるが,それらはあらゆる社会に共通な「基礎」をふくんでいる のである。マルクスは,それらの共通的基礎をつぎのように表現した。すな........................ 

わち必要生産物一般とは,「直接に生産者およびその扶養者たちによって個人

... 

的に消費されるもの」であり,剰余生産物一般とは,「一般的な社会的欲望を

. . . . . . . . . . .  

充たすために役だつもの」であって,それらを生産する労働部分が,それぞ れ必要労働一般および剰余労働一般である(同上,⑬1235 1236ページ,傍 点ー原文)。

だから,『スターリン論文』(1952年)の命題にしたがって一時ソ連邦で支配 的であったし,現在でも少数の論者が固執している見解,すなわち社会主義

(4) 

にほ純生産物の必要生産物と剰余生産物とへの分割は存在しないとする見解 は,完全に誤っている。それは,第1に,前記のマルクスの命題を無視ある いは軽視したことにおいて誤っている。事実,スターリンは,必要生産物と 剰余生産物を,「資本主義的諸関係に完全に照応している諸概念(諸範疇)」

(邦訳,国民文庫25ページ)と一面的に理解した。それは,第2tこ,マルク スのもうひとつの命題,すなわち「資本制的生産形態が廃絶されれば,労働 日は必要労働に制限されうる」(『資本論』,前出,⑧832ページ,傍点ー原文)

という命題を正しく理解しないで一面的に絶対視したことにおいて誤ってい る。この命題における「必要労働」は,•前記の命題におけるそれとは異なっ

. . .  

て,共産主義構成体における必要労働と剰余労働への労働日の敵対的分割の 止揚をいわんとしたものにほかならない。そのことは,引用文につづく文脈 からあきらかである。

しかし,社会主義にとっての必要生産物と剰余生産物との存在を否定した

(4)  A. BHKeHTbeB, K BOIIpocy  o HeOOXO,ll;l!MOM  H rrpl!ooqHoM rrpoyKTe rrpl!  CO~llaJl!l3Me. Borrp. SKOH., 1960, 10,cTp. 146  151.  M. C. KyKylllKIIH, Ha‑

po,n;HblM,n;oxo <<Jle3T,1965, CTp. 57 65. 

(5)

論者たちも,事実上は,それらの存在を肯定していたことが注目される。ス ターリンは,「労働者とその家族の個人的欲望をすたみために支出される労 働」と「生産の拡大や,教育とか保健とかの発展や国防の組織などのために 社会にわたされる……労働」との区別を認めた(前出,

... 

25 26ページ)。『経 済学教科書』(初版)もそれらを「自分のための労働」,「社会のための労働」

と表現したのである (cTp. 399,傍点ー原文)。 このような把握がどれだけ 正確であるかしま,さしあたって問題ではない。なお,ア・ビケンチェフのよ

うに,必要生産物と剰余生産物とへの純生産物の分割を,消費フォンドと蓄 積フォンドとへの国民所得の分割によって取換えようとするのほ,論外であ

現在では,社会主義にとっての純生産物の必要生産物と剰余生産物への分

(6) 

割の妥当性ほ,一般に承認されている。しかし,このことがただちに,社会

・共産主義のもとでの必要生産物と剰余生産物の本性の正しい理解を保証す るわけではない。真の困難は,社会・共産主義に特有なその経済的形態規定 性を積極的に解明することのなかにある。そして,まさにこの点で,正しい

.見解が確立されているとは必ずしもいえないのである。

2節 必 要 生 産 物 お よ び 剰 余 生 産 物 の 質 的 規 定 性

社会・共産主義の場合も,剰余生産物の質的規定性は必要生産物のそれに 従属する。必要生産物の質的規定性にかんしていえば,現在,ソ連邦では,

(7) 

ゲ・サポフも指摘しているように,大別して3つの見解がある。第1の見解 (5)  A.  B皿 囲TBを批判したものとしては, Borrp.  9KOH.,  1961, 7 (A. 

AreBHHH), Nn 12  (A. <I>eJJ.opoa);  ≪Beer. MfY≫, 1961, Nn 5 (M. OcaJJ.hKO)など の諸論文をみよ。

(6)  たとえぽ,つぎのものをみよ。 IToJJHTH'leCKalI  9KOHOMHll,  Y1Ie6HHK.  rocrro JJHTH3ar, 1958 r.,  crp.  436437,  1962 r.,  crp.  418, IToJJHTHtJecKa 9KOHOMHll COUH8JJH3Ma. BbICIIIalI  IIIKOJJa,  1960 r.,  crp. 603,  IToJJHTecKa9KOHOMHCOUHa JJH3Ma.  COU9KrH3.,  1960 r.,  crp.  371,  Kypc  IIOJJHTH'leCKO 9KOHOMHH. T.  II,  3KOHOMH3T,1963 r.,  crp.  149155. 

(7)  r. CanoB, 06 9KOHOMH'leCKOH rrpHpOJJ.e o6mecTBeHHb!XOHOBrrorpe6JJeH

rrepHOJJ.  pa3BepHyroro CTpOHTeJJbCTBa KOMMYHH3Ma. ≪3KOH. Ha邪比≫,1962, Nn 2,  crp.  1213. 

(6)

は生産の働き手たちのあいだで労働に応じて分配される生産物を必要生産物 とみなすものであって,そのさいには,賃金が必要生産物の事実上唯一の形 態とされる。すなわち,「必要生産物=賃金」説である。第2の見解ほ,労働 カの再生産に必要な生産物を必要生産物とみなすものであって,そのさいに ほ,賃金だけでなく社会的消費フォンドから物質的生産部面の働き手たちが うけとる所得も必要生産物の形態となる。すなわち,「必要生産物=労働力再 生産費」説である。第3の見解は,労働力の再生産だけでなく人間の全面的 発展に必要な生産物を必要生産物とみなすものである。すなわち,「必要生産 物>労働力再生産費」説である。それぞれを検討しよう。

1の見解(=通説)を代表するのは,『経済学教科書』である。それによ れば,必要生産物とは,「生産の働き手たちのあいだで彼らの労働の量と質と に応じて分配されて,働き手とその家族の個人的欲望をみたすのにあてられ る」生産物であり,剰余生産物とほ,「社会的欲望の充足すなわち生産の拡大,

予備の創出,教育や保健の発展,高年令で働けない人びとの扶養,国防の組 織などにあてられる,社会のための生産物」であって,社会的消費フォンド

(8) 

の源泉はすべて剰余生産物である。

だが,このような見解には同意できない。まず,必要生産物(したがって 剰余生産物)の本源的な質的規定性は,労働に応じた分配か応じない分配か というような社会的生産物の分配の段階にもとめるべきではなく,また,個 人的消費か社会的・共同的消費かというようなその消費段階にもとめるべき でなく,まさに,生産の段階にもとめなければならない。そのさいにほ,必 要生産物は純生産物のなかの労働力再生産に必要な部分である,と規定せざ るをえない。じっさいに,社会主義の現実では,生産的労働者の労働力の再 生産は賃金によって保証されているだけではなく社会的消費フォンドにも大 きく依存しており,このことが,資本主義のもとでの必要生産物と社会主義 のもとでのそれとの本質的差異の 1側面を表現しているのである。さらに,

「必要生産物=賃金」説をおしつめていくと,社会的消費フォンドによる消 (8)  TToJJHTecKalI9KOHOMHH, Yqe6HHK. rocnoJJHTH3,1¥8T,  1962 r., CTp. 418, 584  

585. 

(7)

喪の社会的・共同的形態が高度に発展し,欲望に応じた分配が全面的におこ なわれる共産主義社会の段階では,ベ・スハレフスキーやエス・フィグール

(9) 

ノフが正しく批判しているように,「必要労働がほとんど完全に剰余労働に溶 解させられる」あるいは必要生産物が「剰余生産物によって完全に駆逐され る」ことにならざるをえない。これが誤りであることはいうまでもない。な ぜなら,社会・共産主義のもとでの必要生産物と剰余生産物の質的規定性は,

2つの発展段階に共通した要素と相違した要素との統ーで把握されねばなら ないのであって,純生産物の必要部分と剰余部分とへの分割そのものが,社 会主義から共産主義への移行につれてなくなるわけではないからである。

2の見解すなわち「必要生産物=労働力再生産費」説の代表的な論者は,

エル・カラゲードフとカ・トローネフである。カラゲードフによれば,「社会 主義のもとでの必要生産物は,労働力の再生産のために利用されて,物質的 生産の働き手たちの個人的所得という形態も,また彼らの欲望の共同充足の フォンドという形態をもとる,社会的生産物の一部分である。それに照応し

(10) 

て,剰余生産物の概念が精確化される」。 また, トローネフは,社会主義の もとでの必要生産物が「必要生産物I」あるいは「『個人的(HHJ1.HBHJ1.yaJIb HbIH)』 必要生産物」と「必要生産物II」あるいは「『社会的 (COUHaJJH3Hpo‑

BaHHblli)』必要生産物」とから成り,それによって社会主義段階の人間労働

(11) 

力が再生産されることを論じた。われわれは,このような見解に原則的に同 意する。しかし,若干,附言しなければならない。

もともと,特有な経済学的範疇としての必要生産物も,また,その共通的 (9)  B. CyxapeacK雌, 3apa6oTH IIJJaTaH o6ruecTBeHHble  q>OH仄hiIIOTpe6JJeHHll. 

Borrp. aKoH.,  1961,婦 8,CTp. 42, C. 如rypHOB. 3apa60THall IIJJaTa  H ITO'beM MaTepnaJJbHOro 6JJarOCOTOl!Hllll TPYllIUHXCllB CCCP. CouaKrn3., 1960 r.,  crp. 73.  (10)  P. r. KapareOB,TipH6bIJlb B CHCTeMe 9KOHOMecKHXKarerop COUHaJJH3Ma.

KMb!CJJb,1964 r.,  CTp. 44, H Tip

o6 JJeMbl IIOJIHTHqecKOll  9KOHOMHH counaJJH3Ma.  roCI10JIHTH3aT,1960 r.,  CTp. 69. 

(11)  K. TI. TpoH,3KOHOMeceOCHOBhlHHaMHKHpeaJJbHb!XOXOOB Tpy‑

llIUHXCH rrpH  COUHaJJH3Me.  113 MfY, 1966  r.,  cTp.  5 31, 59 66,  MeTO ,,KanHTaJJa" H BOIIpoChl  IIOJIHTHCKOH 9KOHOMHH COaJIH3Ma.113 MrY,1968  r.,  CTp.  122  127. 

(8)

基礎としての必要生産物一般も,労働力再生産と不可分である。そのことは,

. . . .  

「可変資本は,労働者が彼の自己維持および再生産に要する•そして彼があ

. . .  

らゆる社会的生産体制のもとで常にみずから再生産せねばならぬ•生活手段 の元本または労働元本の特殊的な歴史的現象形態にすぎない」(『資本論』,前 出,④887 888ページ,傍点ー原文),というマルクスの命題からも知られる。

したがって,社会・共産主義のもとでの必要生産物の特有な経済的形態規定 性は,それが労働力再生産の枠といかにかかわりあうか,という点にではな く,それによって再生産される労働力そのものの特有な経済的形態規定性に もとめるべきであろう。 「人間の身体すなわち生きた人的存在のうちに実存 して彼が何らかの種類の使用価値を生産するたびに運用する,肉体的および 精神的な諸能力の総計」(同上, R315ページ)と規定される労働カ一般は,

社会・共産主義のもとでも実在する。そして,いうまでもなく,社会・共産 主義のもとでの労働力は商品ではない。だが,それはなお,消極的な規定に すぎない。マルクスが「個人的諸労働力を自覚的に一つの社会的労働力とし て支出する」(同上,①181ページ)社会として社会・共産主義社会を特徴づ けたことから,われわれは,積極的に,社会・共産主義のもとでの労働力を,

. . . . . . .  

直接に社会的な労働力と規定できるし,規定しなければならない。一般にソ 連邦では,労働力範疇の積極的規定はほとんどおこなわれない。例外をなす のはベ・コルナャーコフとカ・トローネフであって,コルニャーコフは「社 会主義と共産主義のもとでの特有な経済的関係一社会による労働力の領有

. . . . . . . .  

(IIpHCBOee)」を論じ, トローネフは「社会主義化された (couHaJIH3Hpo‑

(12) 

B8HH碑)労働力」を論じた。要するに,このような直接に社会的な労働力の 再生産に必要な生産物こそが,社会・共産主義のもとでの直接に社会的な必 要生産物であり,それを上まわって生産される純生産物部分が直接に社会的 な剰余生産物である。だが,これはなお,社会主義のもとでのそれらの経済 的形態規定性のひとつの,しかし規定的な,主要な側面にすぎない。この側

(12)  HOTOpbIX KaTeropX IlOJIHTH'lecKH SKOHOM coaJIMa..SIpocJiaBJib,

1960 r., crp. 101104 (B.11. KopKOB),K. n. TpoH四,9KOHOq釦 皿eOCHOBhl…, 

CTp. 30. 

(9)

面ほ社会主義と共産主義に共通しており,社会主義の特質はそれがまだ未成 熟である,という点にある。

社会主義のもとでの労働力したがって必要生産物は,「旧社会の母斑」に関 連して,もうひとつの,補足的な,従属的な経済的形態規定性をもたざるを えない。問題ほ,社会主義のもとでの労働力が,「分業への個人の奴隷的従 属」の残存を基礎にした「不平等な個人の天分と,したがってまた不平等な

. . . . . . . . . .  

給付能力」(マルクス)から,相対的な個人的孤立性をもたざるをえない,と いう点にある。これは,さらに,一定の相対的な経済的孤立性をもった非本 来的な商品生産者としての企業によって個人的労働力が「雇傭」され,その 企業から賃金を支払われる,ということによって強められる。この点で注目 されるのほ,「個人的」必要生産物と「社会的」必要生産物との区別にかんす るトローネフの見解である。彼によれぼ,「個人的」必要生産物とほ,「直接的 にほ社会全体のための労働,そして間接的にほ,他の働き手の労働とほ量的 に区別される労働としての,働き手自身のための労働」がつくりだす生産物 であり,「社会的」必要生産物とは,「個人としての働き手の再生産にふりむけ られるとはいえ,その労働を支出した当人の再生産にではなく,すべての働 き手,社会全体の再生産にふりむけられる労働支出」がつくりだす生産物で

(13) 

ある。彼によれば,この「個人的」必要生産物あるいは「必要生産物I」が 労働に応じた分配の,また商品生産が存在するもとでの賃金の生産的基礎で あり,「社会的」必要生産物あるいほ「必要生産物Il」が,労働力の再生産に 入りこむかぎりでの社会的消費フォンドの生産的基礎である。そして,共産 主義社会の高い段階でほ,必要生産物のこれらふたつの形態の区別は消失す

このような見解には,なお検討の余地があるとはいえ,その積極的な意義 を認めないわけにはいかない。なぜなら,第1tこ,社会・共産主義のもとで の必要生産物を「個人的」必要生産物に限定し,「社会的」必要生産物を剰余 生産物のなかに組入れて理解しているいままでの通説の欠陥を,社会主義の (13)  K. n. TpoHMeTO/1. ,KarrHTaJia'CTp. 122 123, 9KOHOM ec1rneOCHOBbl

CTp. 2131, 5966. 

(10)

もとでの労働力の経済的形態規定性の特質を積極的に追求するなかで,克服 しているからである。第 2tこ,高度な共産主義と区別される社会主義段階に 固有な必要生産物の特質を,「個人的」必要生産物と「社会的」必要生産物と のふたつの構成要素・部分においてとらえることによって,さらにすすんで,

直接的生産過程における純生産物の必要生産物と剰余生産物とへの分割と,

分配過程における総収入の「自分のための生産物」と「社会のための生産 物」とへの第1次的分割とを,統一的にとらえることが可能になるからであ る。すなわち,「自分のための生産物」とほ「個人的」必要生産物の分配形態 であり,「社会のための生産物」とは,「社会的J必要生産物と剰余生産物との 分配形態である。第 3tこ,この見解の長所ほ,賃金と社会的消費フォンドと いう異なった分配形態の独自の生産的基礎をあきらかにしている点にある。

社会的消費フォンドは,剰余生産物だけを唯一の源泉にしているのではなく,

「社会的」必要生産物をもその源泉としているのである。

このように,社会主義段階の労働力の補足的な性格である相対的な個人的 孤立性は主として「個人的」必要生産物に表現され,その直接に社会的な性 格は主として「社会的」必要生産物に表現される。そして,社会主義の共産 主義への成長転化の過程で,一方では労働力の相対的な個人的孤立性が消滅 していき,他方ではその直接に社会的な性格が成熟していくことによって,

必要生産物のこのような分割の必然性ほしだいに消滅し,それは単一の性格 と形態をもつようになるであろう。また,そのことによって,「自分のための 生産物」と「社会のための生産物」との区別も消滅していくであろう。だが,

純生産物の必要生産物と剰余生産物とへの分割の必然性はけっして消滅せず,

それらの分配諸形態もこの本源的区別に直接に照応したものとなるであろう。

たとえば,欲望に応じて分配されるのは,このような必要生産物なのである。

そして,もうひとつ指摘しておく必要があるのほ,このような発展過程が,

同時に,必要生産物と剰余生産物とがともにその非本来的な価値的形態を消 失していく過程でもあるであろう,ということである。

3の見解,すなわち「必要生産物>労働力再生産費」説は,ェス・フィグ ールノフとエム・オサチコによって代表される。フィグールノフしま,社会主

(11)

義のもとでの労働力再生産の意義を重視し,「社会主義のもとでの実質賃金ほ,

勤労者の必要生産物の補埴形態のひとつにすぎないのであって,量的に労働 力再生産費に安全にひとしいわけではない」,と主張しながらも,「社会主義生 産の働き手たちの必要生産物の使命そのものは,労働力支出補填の枠をはる かにでるものである。社会主義社会にとっては,生産の利益の観点からその 充足が必要である欲望だけでなく,人間そのものの完成という任務からでて

(14) 

くる,たえず増大する他のあらゆる欲望も重要である」,と述べている。オサ

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

チコもまた,「共産主義社会での個人的欲望のための生産物とは,人間の肉体

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

的および精神的能力の発揮と全面的発展のための生産物である (傍点ー原

(15) 

文)」,と必要生産物を定義しているが,そのさい,「必要生産物=労働力再生 産費」説を拒否している。その論拠らしきものは,つぎのふたつである。ひ とつは,「労働力の再生産とは労働にたいする肉体的および精神的能力の回復 を意味する」が,それは,「生産者たちの肉体的および精神的能力の維持,発 展および全面的利用」よりも狭い,ということであり,もうひとつは,共産 主義社会の必要労働時間は,敵対的な搾取社会におけるとはちがって,「労働 カの再生産のために必要な生産物をつくりだすだけでなく」,「社会の同権の 成員としての各生産者の肉体的および精神的能力の全面的発展と発揮のため

(16) 

に必要な生産物をつくりだす」ということである。

われわれは,このような見解には同意できない。人間労働力の再生産•発 展を人間そのものの再生産•発展と対立させることは誤りであろう。オサチ コの第 1の論拠についていえば,人間の全能力の維持および発展と労働能力 の回復および発展とは機械的にきりはなすことができず,前者なくしては後 者はない。第2の論拠も成立しない。なぜなう,敵対社会と非敵対社会との 区別ほ,必要生産物が労働力再生産の枠に限られるかそれともその枠を越え るかにあるのではなく,再生産される労働力そのものとそれを保証する必要

(14)  C. rypHOB,PeaJibH sapaOOTHanJiaTa,CTp.45 47. 

(15)  M. IT. Oca.llbKO, f1pOH3BO.llCTBO H pacnpe.llee Heo6xo.llHMOro  H npH6aBO‑

oronpo.llyKTa B KOMMYHHCTH'leCKOM oomecTBe. 113.llMfY, 1967 r.,  cTp.  17.  (16)  TaM me, cTp.  17 18, 21 22. 

(12)

生産物の社会的性格および発展水準の差異にこそあるからである。われわれ は,「人間労働力は人間のすべての肉体的および精神的能力の総体であり……

社会主義のもとでのその再生産ほ,社会的人間の再生産を維持するすべての

(17) 

富をそのなかにふくんでいる」というトローネフの主張に同意せざるをえな しo

なお,この第3の見解における必要生産物の質的規定性の把握の不明確ほ,

必然的に必要生産物の量的規定性をも正しくしめしえないことにつながる,

ということをオサチコについてみよう。彼ほ, JI=且ー0(JI―「個人的欲望 のための生産物」,且一「生産者の労働が体化された生産物」,0‑「社会的欲 望のための生産物」)という範式によって,社会・共産主義的生産の「目的」

(18) 

と必要生産物の量的規定性とをしめそうとしている。しかし,これにほ同意 できない。第1~こ,必要生産物ではなくて純生産物の生産こそが,社会・共 産主義的生産の「目的」である。それは,もし範式でしめせぼ,屯1=B汀ー

<PB7ー純生産物, Bn―総生産物, <PBー補填フォンド)となるであろう。

これは,社会・共産主義の基本的経済法則を表現している。第2に,オサチ コの範式は,たしかに一定の量的相互関係をしめしてはいるが,必要生産物 の独自の量的規定性をまったくしめしていない。それは,とりわけ剰余生産 物の大きさによって受動的に決定されるもの,とみなされている。しかし,

これは誤りである。社会・共産主義のもとでも,必要生産物の大きさは,労 働力の再生産の必要によって客観的に決定され,それにしたがって,剰余生 産物の大きさが決定されるのである。すなわち,オサチコの範式を用いるな らば,真の関係は且=JJ+Oも あ る い ほ 引1=H汀+nn(引7一純生産物,

Hn―必要生産物, nn—剰余生産物)という範式で表現されるべきである。

これは,前述の基本的経済法則そのものとほ区別される,独自な,社会・共 産主義の経済法則である。したがって,この限りでは,われわれは,オサチ コによって見当ちがいの批判をくわえられているヤ・クロンロードのつぎの

(17)  K. TpoHeB, 3KOHOMHqecKHe OCHOBbl,CTp. 1012. 

(18)  M.  IT.  OcabKO, ITpOH3B0.ll:CTBO  1:1pacrrpe胆 皿 皿e CTp. 2732.' MeTO ,,KarrHTaJia" •・・, CTp. 105117. 

(13)

命題は正しい,と考える。 「社会主義的必要労働の支出と必要生産物の生産 の法則比たんにそれぞれの必然性そのものを規定するのではない。それは,

生産力の状態と社会・経済的諸条件とにしたがって歴史的に形成され発展し

. . .  

ている,生産参加者たちの直接的欲望をみたすのに十分なような一定量の必

. . .  

要労働の支出,およびそれに照応した一定量の必要生産物の生産の不可避性

(19) 

を規定する(傍点ー原文)」。

だが,「必要生産物=労働力再生産費」説の立場にたつわれわれの,必要生 産物したがって剰余生産物の量的規定性にかんする考察は,次節でとりあげ よう。

3 必要生産物および剰余生産物の量的規定性

すでに指摘したように,純生産物と必要生産物および剰余生産物の量的相 互関係ほ, lffl=Hn+nnで表現される。本節では,まず,この範式におけ Hfl(必要生産物),の大きさを,また,その結果として nn(剰余生産 物)の大きさをも規定する客観的諸要因を考察しなければならない。また,

Hn  nn 

純生産物,必要生産物および剰余生産物の量的規定性は,ーーあるいは一一qn  qn  としても表現される。したがって,このような「必要生産物率」および「剰 余生産物率」の発展傾向が考察されねばならない。さらに,必要生産物自体 については,社会主義段階における「個人的」必要生産物と「社会的」必要 生産物との量的相互関係の発展傾向が考察される必要がある。これらの考察 ほともに,社会全体の観点からなされる。

必要生産物(したがって剰余生産物)の大きさを規定する客観的要因とし ては,つぎの3つを指摘できるであろう。

1に,必要生産物の大きさは,基本的に,物質的生産部面に従事する働 き手たちの数および彼らの労働力および欲望充足の発展水準によって規定さ れる。純生産物は物質的生産部面の働き手たちによってのみ生産され,彼ら の総労働力の再生産はその純生産物の一部分である必要生産物によっておこ

(19)

. 只

A.KpoHpO3aKOHhIIlOJIHTH'iecKoll: SKOHOM皿 COUHa3Ma.≪MhICJlb≫, 1966  r., CTp. 417. 

(14)

なわれる。これにたいして,不生産的部面の働き手はいかなる純生産物も生 産せず,彼らの「労働力」の再生産は,物質的生産部面で生産された純生産 物(ただちに剰余生産物とはいえない)によっておこなわれる。だから,こ の点でほ,物質的生産部面の働き手にかぎらず非物質的生産部面の働き手も

(20) 

必要生産物を生産する,と主張するベ・ラキッキーにわれわれは同意できな

1,o 

2tこ,必要生産物の大きさは,物質的生産の働き手たちが扶養する家族 の数とその消費水準によっても規定される。必要生産物には,働き手自身の・

ための生活手段のほかに,その家族のための生活手段もふくまれる。これほ,

. . .  

労働力の再生産しかも拡大再生産の必然性から説明されうる。そして,その 家族の扶養が,働き手の個人的所得によるかそれとも社会的消費フォンドに よるか,両者の割合はどうか,ということほ,いささかも事態の本質を変え ない。

第3tこ,必要生産物は,物質的生産部面の働き手たちの労働力の再生産の 不可欠の構成要素をなす,多様な物質的および文化的サービス—医療,・教 育,文化・芸術など一の「生産」費によって規定されるところが大きい。

逆にいえば,物質的生産部面の働き手たちほ,そのようなサービスの「生 産」費を必要生産物の一部として生産するのである。それは,労働力の再生 産が単に財貨の消費によってだけでなく,物質的および文化的サービスの消 費によってもおこなわれることの当然の帰結である。このサービス「生産」

費には,それを「生産」する不生産的部面の働き手の「労働力」再生産費の ほかに,それに要する物質的支出がふくまれる。これは,マルクスのつぎの 周知の命題に合致する。すなわち,「わたしが……教師のサーヴィスを買うと すれば,……この修業費は,わたしの生計費とまったく同じように,わたし の労働能力の生産費に属する」のであり,また,「医師や教師の労働は,直接 にほ,その支払の元本を創造しない―といっても,彼等の労働は,総じて あらゆる価値を創造する元本の生産費,すなわち労働能力の生産費には入り (20)  6. B. P TCK06mecTB四 四eq>OHbl noTpJI皿 皿 k皿 8KOHOMecKall

Karerop皿. MbICJib,1966 r.,  CTp., 5277. 

(15)

(21)  こむ」のである。

(22) 

したがって,マルクスが『ゴータ綱領批判』のなかで述べた共同消費の諸

. . . . . . . . . . . . .  

フォンドのなかで,「生産にぞくさない一般行政費」ー一今日ではこれに国防

. . . . . . . . . . . . . .  

費を加えねばならない―ゃ「労働不能者等のためのフォンド」は必要生産

. . . . . . . . . . . . .  

物を構成しないが,「学校や衛生設備のような,いろいろな欲求を共同でみた

. . . . . . . . . .  

すのにあてられる部分」はあきらかに必要生産物を構成するのである。その ようなサービスがその消費者にとって有料であるか無料であるかは,事態の 本質を変えない。だから,不生産的部面がすぺて剰余生産物によってまかな われるわけではない。不生産的部面における物質的支出と働き手たちの所得 のかなりの部分は,それが提供するサービスが物質的生産の働き手たちの労 働力の再生産に入りこむかぎりは,必要生産物の構成要素であり,不生産的 部面の残りの部分が剰余生産物によってまかなわれる。社会的消費フォンド の源泉がすべて剰余生産物であるかのような見解(『経済学教科書』)も,ま た,社会的消費フォンドの源泉がすべて必要生産物であるとする見解(ベ・

ラキッキー)も,ともに誤りである。

必要生産物が以上の3つの主要な要因によって決定されるとすれば,剰余 生産物の量的規定性は,純生産物からこの必要生産物を控除したものにほか

. . . . . . . .  

ならない。それにほ,具体的には,消費フォンドのうち「生産にぞくさない 一般行政費」と国防費.および文字通りの(というのほ,子供の養育費や教 育費,および高令者にたいする年金などは必要生産物にぞくするから)「労 働不能者等のためのフォンド」,さらに蓄積・予備・保険フォンドがぞくする。

このようにして,社会・共産主義のもとでは必要生産物がその範囲を拡大す るとはいえ,純生産物の必要生産物と剰余生産物とへの分割と,総収入の消 費フォンドと蓄積フォンドとへの分割とは,けっして合致しないことが知ら れる。

(21)  K・マルクス『剰余価値学説史』,邦訳,青木書店版, 第1分冊, 231,  593   594の各ページ。

(22)  K・マルクス『ゴータ綱領批判』,邦訳,『マルクス・エンゲルス2巻選集』大 月書店,第214 15ページ,傍点ー原文。

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