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第 Ⅲ 部 総 括 編

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第 Ⅲ 部 総 括 編

1.ナガラ原東貝塚の土器

1.1.大当原式土器からアカジャンガー式土器へ 12スセン営式類似土器

1.3.成川式土器

2.ナガラ原東貝塚の石器と貝製品 2.1.石器石材の供給地

2.2.広田タイプの貝符

2.3.ゴホウラ腕輪消費地の動向 2.4.貝塚後期のゴホウラ腕輪 3.ナガラ原東貝塚人の生業

3.1.貝塚後期人の植物食利用 3.2.ナガラ原東貝塚人の狩猟と漁労 3.3.イノシシと魚の調理法

3.4.貝殻が示す人の動き 3.5.伊江島の伝統的漁労 4.ナガラ原東貝塚の堆積 5.発掘調査の成果

5.1.断続的な居住地

5.2.大当原式土器からアカジャンガー式土器への変化 5.3.古墳時代の貝交易地

5.4.貝塚後期のナガラ原東貝塚

(2)

総 括

総 括

共同研究者による第Ⅱ部の13論文の概要を4テーマにまとめての整理し、第1部の成果と併せてナ ガラ原東貝塚の意味を総括する。

1.ナガラ原東貝塚の土器

本遺跡のV層からⅢ層は、沖縄後期の前半から後半への移行期であり、喪形土器の主要な形状が尖 底を主体とするもの(大当原式土器)からくびれ平底を主体とするもの(アカジャンガー式土器)に 変わる時期に相当する。この変化は、貝塚中期以降継続してきた土器形状の伝統がこれとは異なる一 方向に向かって変化することと、煮沸具の底部形状のもつ調理文化上の意味において、貝塚後期文化 に重要な意味をもつことが予想される。宮城弘樹氏と安座間充氏による論考は、この変化を土器型式 の視点で検討したものである。

1.1.大当原式土器からアカジャンガー式土器へ

両氏は沖縄諸島の貝塚後期に、大当原式段階でありながらアカジャンガー式の特徴を兼ね備える土 器と、アカジャンガー式段階でありながら大当原式の特徴を兼ね備える土器の存在を指摘した。これ に「尖底製作の延長上にある平底土器」の存在を加えて両型式の「中間的土器群」とし、「過渡的段 階の様相」とみた。その上で、ナガラ原東貝塚V層の土器を大当原式の新段階に近いもの、Ⅳ層の土 器を「中間的土器群」、Ⅲ層の土器をアカジャンガー式の段階に対応させた(')。この「中間的土器群」

がV層とⅣ層にも認められることから、「V層ないしⅣ層のある段階で尖底土器群を製作消費してい た集団が平底土器も使用し始めたとみられ、ある段階で尖底土器から平底土器へとシフトさせていっ た」とした。第1部ではこの時期がまさにⅣ層に相当するとし、大当原式からアカジヤンガー式土器 が成立すると認識した。

1.2.スセン常式類似土器

ナガラ原東貝塚のV層で出土したスセン営式類似土器と成川式土器は、遺跡のクロスデーテイング を可能にする需要な土器である。前者について新里貴之氏は、本遺跡出土のⅣ層とV層出土の2片の 土器を検討してこれらがスセン常式と共通することを認めつつも、奄美のスセン常式とは異なる在地 色をもつことからスセン常式類似土器とした。氏は別稿ですでに分類案を示していたスセン営式土器 を改めて分類し、時間的変化を4段階に整理して「ナガラ原東貝塚のⅣ.V層のある段階は、奄美諸 島スセン富式土器の編年の段階Ⅱb(古い方から3番め:木下注)に並行する」とした。沖縄の大当 原式土器にスセン常式土器の属性が部分的に取り入れられた事例が多いとする氏の指摘は、アカジヤ ンガー式に向かって変化を開始する大当原式土器を考える上で示唆に富む。氏はこの現象を「中距離 的な交易に対応する在地集団の文化受容」と「奄美諸島集団の中継的動き」に結びつけており、注目

される。

1.3.成川式土器

中村直子氏はナガラ原東貝塚V層出土の4点の搬入土器について検討し、これらを古墳時代前期か ら中期前半の「東原式の可能性がもっとも高いと考えられる」蕊口縁部とみられるものと、「弥生時 代終末期から古墳時代中期の範鴫のもの」で「成川式土器としてみても、違和感のない質感」をもつ 高坪(?)であることを指摘した。琉球列島の成川式土器は「弥生時代終末期までは壷形土器を中心

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に、沖縄本島付近まで搬入されているが、古墳時代以降は著しく減少し、種子島・屋久島でも同様な 動向を示している」という。こうした中で登場した本遺跡の成川式土器の喪と高坪(?)がどういう 意味をもつのか、今後の論点になるだろう。中村氏が食器の組合せにもとづいて提示した南九州食事 作法の復元は非常に興味深く、こうした問いへのヒントになるだろう。論文で示された成川式土器の 器種組成の変遷とミニチュア土器のセットは、今後の土器研究に資するものである。

2.ナガラ原東貝塚の石器 2.1.石器石材の供給地

沖縄の遺跡において石器に用いられている岩石素材のほとんどが転石で、露頭岩石から直接打ち割 られたものは少ないことから、岸本義彦氏は、地質学者の祁谷厚昭氏と共同で本遺跡出土の石器の供 給地を探索した。両氏はこれまで本遺跡から出土したすべての石器と石材について石質を確認し、伊 江島において石器素材を得られる海岸と露頭を調査して両者を対比し、伊江島で確認されるチャート、

石灰岩、粘板岩(頁岩)、砂岩、緑色岩、石英のうち、琉球石灰岩以外のものは石器素材としてほと んど使用されていないことを明らかにした。両氏は伊江島の石材供給地として可能性の高い地域を沖 縄諸島・奄美諸島について具体的な地点を示し、沖縄本島西北部と渡嘉敷島において転石調査を実施 して、本遺跡の石器石材は本部半島ほか沖縄諸島の各地に供給源をもつ可能性の高いことを指摘した。

石器石材についてはこれまでこうした具体的な検討がなされてこなかっただけに、石材が沖縄諸島内 で広域に流通していた可能性の指摘は重要である。石器にかんする基礎的データ集積の必要 性が示さ れたといえよう。

2.2.広田タイプの貝符

ナガラ原東貝塚を特徴づける遺物は、種子島や九州との関係を示す貝符や腕輪等の貝製品である。

貝符は種子島の広田遺跡で標識的な型式と時期的位置づけが示されており、遺跡同士の関係を知る重 要な遺物である。山野ケン陽次郎氏は本遺跡で出土した貝符関連資料を検討し、これらが広田上層タ

イプ3点、広田下層タイプ2点、未成品1点であること、その時期的位置は自らの示した広田遺跡の 年代観ならびに炭素14年代と整合的であるが沖縄諸島の土器編年観と年代的な誤差が認められること を指摘し、年代の誤差については原因と考えられる三つの可能性をあげて、解決にむけた研究の方向

性を示した。広田下層タイプ貝符に関連しておこなった琉球列島における貝符の集成は、今後の貝符 研究に資する貴重な資料といえる。

2.3.ゴホウラ腕輪消費地の動向

ナガラ原東貝塚の各層から出土するゴホウラ加工品は、その背面に打ち欠かれた痕跡を共通に留め ており、これらが腕輪の素材として遺跡にもたらされ何らかの理由で残されたことを示している。中 村友昭氏はこれに対応する貝釧を、その消費地である種子島広田遺跡と九州において比較検討し、貝 釧を通して両者の関係性の変化を明らかにした。氏は前者を古墳非築造域、後者を古墳築造域として 区別し、貝釧の形状からみて4世紀後半から5世紀前半には両者に密接な関係があったが、5世紀後 半から6世紀にはそれぞれが独自の貝釧を作成し始めること、5世紀中頃がその画期であることを指 摘した。さらに沖永良部島で発見された九州向けの腕輪(繁根木型貝釧)未成品の存在から、古墳時 代貝交易において沖縄や奄美地域が画期後の消費地の動向によく対応していた状況を読み取り、6世 紀後半に始まる大量のイモガイ流通にこの対応がどう変化するかが課題だとしている。

2.4.貝塚後期のゴホウラ腕輪

ナガラ原東貝塚v層から貝塚時代後期前半にしばしばみられるゴホウラ腹面貝輪が1点出土してい

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総 括

る。これらはゴホウラ腹面を両側から研磨して板状の輪にする共通 性をもつ。このような貝輪は九州 との貝交易開始以降沖縄に登場するが、これらは系統的に検討されてこなかった。川口陽子氏はこの 類例を琉球列島で集成し、九州の立岩型貝輪や弥生時代終末期の例、紫金山古墳出土貝釧と比較して 以下を指摘した。本遺跡出土例は腕輪の製品の破片である可能性が高いが、九州で消費されているど の型式にも対応しない。この事実は、こうした特徴の貝輪が沖縄地域で独自に作られ、使用されてい た可能性を示唆する。貝交易によって新たに沖縄に伝わった腹面貝輪の伝統が、特徴的な形で在地に 残存したということなのだろうか。

3.ナガラ原東貝塚人の生業 3.1.貝塚後期人の植物食利用

ナガラ原東貝塚人が生活した当時の伊江島は、照葉樹林で覆われていたと推定され、遺跡で多く出 る食物粉砕具は、植物食の利用が盛んであったことを伝えている。貝塚時代の遺跡における植物遺体 の検出を、フローテーションを通して精力的に進めてきた高宮広土氏は、自らの資料に低湿地遺体を 加えて貝塚時代で検出された植物遺体を整理し、以下を指摘した。9〜10世紀以前の貝塚時代、人々 はもっぱら野生植物の採集によって植物食糧を摂取してきた。具体的には、オキナワウラジロガシ、

ウラジロガシ、ウバメガシ、シイノキ属、マテバシイ属であり、ソテツの利用もあった。これに根茎 類が加わり、一部には水芋栽培が行われていた可能性もあるとした。本遺跡もこうした植物食利用文 化に含まれているといえる。今後コクゾウムシとの関係が注目されるであろう。

3.2.ナガラ原東貝塚人の狩猟と漁労

樋泉岳二氏は本遺跡の脊椎動物遺体の分析結果に基づき、狩猟と漁労活動について時期的変化に注 目した分析を行い、本遺跡における脊椎動物資源の利用は漁労とイノシシ猟を主力としリクガメ類を 捕獲するものであったこと、大当原式期にはイノシシ猟、アカジャンガー式期には魚類利用が相対的 に 活 発 で あ っ た こ と 、 本 遺 跡 で は ブ ダ イ 科 の 比 率 が 他 遺 跡 に 比 べ て と く に 高 く 特 異 で あ る こ と 、 小 型 回遊魚がよく捕猿されていることを指摘した。出土した動物遺体から推測される陸上と海域の環境は、

V〜Ⅲ層において明確な変化が認められないので、遺物にみられる変化の主因は、文化.社会的要因 にあった可能性が高いとした。この指摘は重要である。

3.3.イノシシと魚の調理法

出土する脊椎動物遺体の中には熱をうけて黒や灰色、白色に変色したものがしばしば見られる。石 丸恵利子氏はこのことに注目して、第5次調査時の北l西lグリッドの植物遺体分析用の土壌サンプ ルに含まれていた脊椎動物遺体を対象に分析を行い、被熱骨の出現率が北l西1グリッド全区におい て哨乳類で高く魚類で低いことを数値で示した。さらに骨の被熱部分の観察からリュウキュウイノシ シや魚類は直火の「焼き」による調理ではなく「煮炊き」による調理であった可能性の高いことを述 べ、骨角器の素材として利用価値のある長管骨にみられる被熱痕跡は調理時のものではなく廃棄時の ものであることを指摘した。被熱骨からともすれば単純に焼き魚や焼き肉を連想する私たちに、土器 で煮られる魚や肉をイメージさせる基本的かつ大切な指摘である。

3.4.貝殻が示す人の動き

本遺跡の人々の食料の特色をなすものが貝類である。黒住耐二氏は貝類利用について多方面にわた る指摘をしている。そのなかの3項目について以下にまとめる。

・本遺跡ではI〜V層において合計21点のゴホウラが出土しており、その半数は死殻である。これら はヤドカリの入った死殻が礁斜面から干瀬まで運ばれたところを人々に捕獲されたものとみられ、

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し た が っ て 人 々 は ヤ ド カ リ の あ が る 干 瀬 の ク チ を テ リ ト リ ー と し て 保 持 し て い た 可 能 性 が あ る 。 こ うして採取されたとみられるゴホウラの中でも本遺跡のゴホウラは、一定程度選別された質を保つ。

・有孔貝製品には伊江島での生息が稀な二枚貝製品が存在し、島外との日常レベルにおける関係を示 唆する。本遺跡で検出されたトコブシの一つは大隅諸島方面から持ち込まれた可能性が高く、大隅 地域と沖縄を往来する人々がもたらした「お土産」だった可能性がある。

・土器圧痕として検出された4種の貝類のうち3種は微小個体で、本遺跡の土壌に認められない種で ある。他の1種は伊江島には稀なリュウキュウウミニナである。これらの土器の製作地は本遺跡と は異なる地であった可能性がある。

3.5.伊江島の伝統的漁労

本遺跡から復元される伊江島の貝塚後期の海域環境は、現在と共通する部分が多い。海域と遺物を むすぶ漁労活動の復元には、伊江島に伝わる伝統的漁法の理解が不可欠である。盛本勲氏の調査に よると、伊江島の漁法は網漁、突き漁、毒流し漁を主体とし、釣り漁は盛んではない。漁法の中では 網漁の種類が最も多く、遺跡で多く出土する有孔貝製品に対応する。網漁には時期をきめて訪れるス フ(アイゴの稚魚)やミズン(キビナゴ、ニシン科)専用のものがある。本遺跡でニシン科が集中し て出土した箇所(TTOOB‑2 4)などは後者に近い網漁で捕獲したことを推測させる。本遺跡を特徴 づける多様な小型魚類には小規模な追い込み漁が対応しそうである。遺跡でウツボが出土していると ころをみると、突き漁の存在した可能性は高いが、対応する遺物は不明瞭である。伊江島の周辺には ヤコウガイやサラサバテイなど大型巻貝がことに生息する海域がある。ナガラ原東貝塚の前のサンゴ 礁は毒流し漁の漁場となっているが、往時はサラサバテイが集まっていたのではないだろうか。貝塚 時代の毒流し法について盛本氏は干瀬上で採集されることのある安山岩等の厳石の存在に注目してい る。重要な指摘である。

4.ナガラ原東貝塚の堆積

ナガラ原東貝塚は包含層が間層をはさまずに連続して堆積していることから、各層間の堆積状況は 複雑である。これを松田順一郎氏は次のように説明する。「試料採取地点の堆積物は、すべての層準 にわたって生物擾乱をこうむっており、その初生の構造を残す部分はない。とくにミミズや昆虫など の土壌動物の棲管はほとんど隈なくみとめられる」。このような状況においてマクロスケールの堆積 状況を推定するために、貝殻の出土した向きを、調査時の写真をもとに調べて統計処理をした結果、

貝殻が南北方向と考えられる何らかの営力(媒質)の動きに影響されて堆積・埋没した可能性がひ じょうに高いことが示された。これは堆積状況を復元する一つの試みであるが、このようであれば考 古学上でもつ意味は大きい。遺物の向きも今後は配慮すべきであろう。

5.発掘調査の成果 5.1.断続的な居住地

ナガラ原東貝塚は、大当原式期からアカジヤンガー式期において、人々が一定期間の居住をくり返 すことで形成された生活;htである。本遺跡は交易にかかわる多彩な遺物で特徴づけられる一方で、土 器・石器など日常の基本的道具の多くが島外産であり、具志原貝塚などと比べて小規模である。これ らのことからみて、本遺跡は、島外との交易を含めた何らかの目的のために断続的に営まれた居住地 であった可能性がある(第1部による)。

土器が島外産であるとする第1部の指摘は、土器の貝殻圧痕からこれを島外産とする黒住氏の指摘

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総 括

と整合的である。漁網錘(有孔貝製品)の素材に島外産とみられる貝殻が使われている事実から、こ の地を訪れた人が自分用の漁網を携行して移動していた姿を想像してみたくなる。土器、石器、生業 の具に島外要素が強く、建物が頻繁に建てられている状況は、この地が遊動する人々の集うポイント の一つであったことを推測させる。土器において喪の比率が高く壷の比率が著しく低いことは、こう した状況に無関係ではないように思える。ただこのように考えるためには、本遺跡と同時期で拠点性 の強い遺跡である具志原貝塚との比較研究が不可欠であろう。

5.2.大当原式土器からアカジャンガー式土器への変化

大当原式土器からアカジャンガー式土器への変化は、v層からⅢ層にかけて段階的かつ明確であり、

Ⅳ層がアカジヤンガー式土器の成立期に対応すると理解された。この変化はきわめて連続的であり、

伝統的要素が持続する点で特徴的である。その変化を促した要因として、v層に存在する奄美地域に 特有な型式の土器(スセン富式土器)や、南九州の成川式土器の存在を考慮する必要があるだろう

(第1部による)。

大当原式からアカジャンガーが生まれるという認識について、共同研究者間に考えの差はないが、

これを型式に対応させる場合、大当原式土器に伴うくびれ平底土器と、アカジャンガー式土器に伴う 尖底土器をどう扱うかでは複数の考えがある。第,部では大当原式に伴うくびれ平底土器をも含めて 大当原式の最後の時期の実態とし、アカジャンガー式でも同様に尖底土器を含めてそれと認識したが、

第Ⅱ部で示された考えは、両者間に「中間的土器群」を設定し、上下両型式の純粋 性を評価するもの である。そしてその時間を短く見積もる(2)。

議論の中で宮城・安座間両氏が注目した「尖底製作の延長上にある平底土器」の存在は重要である。

尖底土器の製作技術が平底土器の製作をどのように受け入れていったかが、この問題を解く鍵になる のではないだろうか。

大当原式からアカジャンガー式への変化は、大当原式土器とスセン富式の接触によって促進された と考えられるので、その変化の追究が今後重要になるだろう。この変化は北からの接触によって生じ ている可能性が高い。北から南にむかう空間と時間の傾斜を含みながら〈ぴれ平底土器が蕊の大半を 占めるようになるのが、アカジャンガー式土器期の実態であったとは考えられないだろか。

5.3.古墳時代の貝交易地

v層からⅢ層において、スイショウガイ科貝類の粗加工品や貝符、オオツタノハ製品、鉄製刀子、

南九州や奄美との関係を示す土器が認められ、伊江島が貝殻の提供を介して種子島や南九州と継続的 に関わっていたことが理解された。遺物をみる限り、伊江島と種子島の関係は直接的であるのに対し、

九州との関係は間接的である(第1部による)。

古墳時代併行期、琉球列島産大型巻貝を消費したのは種子島と九州である。中村友昭氏は二つの地 域の消費が分かれるのは5世紀中頃であり、沖縄や奄美地域がその後も消費地の動向によく対応して いたと指摘している。貝殻供給と九州への供給が貝殻採取地でどのように区別されていたのかは難し い問題であるが、良質な資料が増加しているため、新たな視点で鮪分けされてゆくであろう。中村直 子氏が指摘するように、弥生時代終末期以降貝交易によって沖縄にもたらされる南九州や種子島の土 器は激減しており、交易品が土器をコンテナにするものではなくなっていたことを示唆する。鉄器は その有力な候補である。

ゴホウラは礁斜面に生息しているためその捕獲は容易でない。黒住氏が指摘するように、貝殻の提 供には、おそらく干瀬のクチを丹念に歩いてヤドカリのはいったゴホウラを捕獲する人々がいたのだ ろう。黒住氏は潜水による捕獲行為はなかったとするが、ナガラ原東貝塚では礁斜面の下部に生息す

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るサラサバテイが多く出土していることから、ゴホウラヘの積極的捕獲行為がなされた可能性も、今 しばらくは残しておきたい。

5.4.貝塚後期のナガラ原東貝塚

①ナガラ原東貝塚は、貝塚時代後期中頃の5世紀から7世紀前半における50年から200年の期間、沖 縄地域の複数の地域の人々がこの地を訪れ、一定期間の居住をくり返したことで形成された比較的 小規模な遺跡である。

②人々はイモガイ科やスイショウガイ科貝類を採取し加工して、種子島地域と密接な関係を保ち、

一方で南九州地域とも経済的関係をもっていたとみられる。

③この間、人々の日常生活では煮沸容器が尖底を主体とする大当原式土器から<ぴれ平底を主体と するアカジャンガー式土器に変化した。土器形状の変化はきわめて連続的かつ自律的であり、奄美 地域との接触によって促進されたとみられる。人々の生活はこの変化と併行して植物食への比重を 高め、狩猟より漁労への比重を高め、網漁にも変化が見られたが、生業の基本的スタイルに変化は なく、自然環境にも目立った変化は認められていない。

両氏は、Ⅲ層で出土する尖底土器の多くを撹乱による混在とみなしている。

(1)両氏は、Ⅲ層で出土する尖底土器の多くを撹乱によ (2)「長く見積もっても十年」としている(本書245頁)。

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(木下尚子)

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編集後記

むずかしい遺跡を掘ったものだ、というのが率直な思いである。層が乱れなくほぼ水平に堆積し、

包含される主要な土器は貝塚後期後半である、という見通しで調査を始めたが、堆積状況の判断に終 悩まされた。包含層間に白砂の間層があったらどれほどよかっただろう。それだけに調査では出土 状況に注意し、層を何度も確認して出土位置の記録をとった。年度ごとのフィールドマスター(学生 隊長)は、この意図を汲んでよく頑張ってくれた。

学生たちによる出土遺物の記録は膨大である。ただ年度ごとの報告書では、それらが効果的に示さ れないこともあるため、本書ではこれらをすべて編集しなおすことにした。手作業で取りあげをおこ なった第5次調査までの記録と光波測距儀を使用した第6次調査以降のものと併せる作業は、しかし、

前者について遺物台帳の番号を図面と併せてゆく果てしない作業を経なければならず途方にくれた。

谷直子さんが「手伝いましょうか」と声をかけてくれなかったら、図46〜62は存在せず、したがっ て貝層の形成についての分析もできず、本書の価値は半減していただろう。

同じ遺跡と8年付き合って、遺跡は簡単にはわからないということ、再調査がとても大事であるこ とを身をもって体験した。遺跡から教えられたこと、反省させられたことは多い。今後の教育と研究 に生かしてゆきたいと思う。

最後に、ナガラ原東貝塚調査の契機をつくってくださった安里嗣淳氏(沖縄県教育庁文化課当 時)と岸本義彦氏(同前)にあらためて感謝したい。また発掘調査を支えてくださった沖縄県教育庁 文化課、沖縄県立埋蔵文化財センター、伊江村教育委員会、阿良区公民館、川平区公民館の各機関お よび関係各位、発掘調査に参加したすべての学生と卒業生、シモダ印刷の塚本勝巳氏と中川さとみさ んに感謝申し上げる。

以下に、本書作成作業に尽力してくださった谷さんの文章を掲げて編集作業を終えたい。

(木下尚子)

私がナガラ原東貝塚のフィールドマスターだったのは1999年で、ナガラ原東貝塚としては2次調査 である。第1次調査で遺跡の広がりや包含層の深さが判明し、これから面的な発掘調査を開始すると いう年であった。広げた調査区からは、シヤコガイをはじめとする大型貝が一面に出土し、貝塚の廃 棄パターンを探る方法のひとつとして、シャコガイの合弁作業を始めた。うまくいかなければ、来年 はやらなくてもいいやという、軽い気持ちで始めたような気がする。しかし、私の知らないところで 合弁作業は続き、8次に亘る調査の記録がとられた。担当の学生たちは増える一方のシャコガイを合 わせてはため息をついていたに違いない。

そして私は、第2次調査から13年ぶりに、ナガラ原東貝塚の本報告作成のため、編集作業に携るこ ととなった。第1次調査から5次調査までは手作業で図面が作成されており、第6次調査から第8次 調査は光波測距儀によるデジタルデータが存在するため、私は第1次調査から第5次調査までの図面

をデジタル化する作業を担った。

作業の過程で私は、当時精一杯やったと思っていた調査の不備を恥じた。北l西l調査区以外では 人工遺物の図面が作成されていなかったのである。また時間の経過とともに、製図したものが行方不 明になっていたり、台帳の記述の意味が分からなかったり、途中でグリッドの呼び名が交錯していた

−389−

(9)

術や研究が進んだ未来にも活用できるように記録保存するという鉄則を守っていれば防げたし、発掘 は遺跡の破壊に他ならないという気持ちを持っていれば防げたように思う。反省しきりである。

しかし作業の途中、懐かしい名前を見ては当時を思い出し、日誌を読んでは調査時の楽しい光景が 浮かび、図面やトレースなど一つ一つの記録からは当時の学生の熱意と努力に頭が下がる思いがした。

また、フィールドマスターに考えさせて調査をさせ、年次報告を作らせるという作業は、指導してく ださった先生方にとっては、時に根気と我慢を伴うものであっただろう。けれどもこれらの作業を通

して成長し、文化財行政や研究の道に進んでいった学生の多さや、考古学から離れても、学んだこと を人生に活かしている卒業生達を思うと、ナガラ原東貝塚は、多くの学生を育ててくれたのだと思う。

今回の作業を通して、継続して行った調査の結果、ナガラ原東貝塚がどのような性格で、どのよう な考古学的価値のある遺跡かをあらためて考えた。南島研究においては貝塚時代後期の食生活や居住 のあり方、尖底から平底へという土器の変化過程にも一石を投じる遺跡であり、貝符や南九州の土器 など他地域との交流を示す遺跡である。そして熊本大学考古学研究室にとっては、歴代フィールドマ スターをはじめ、学生たちを、時に翻弄しつつ大きく成長させてくれたかけがえのない遺跡であり、

思い出とともに語り継がれることであろう。

(谷直子)

−390−

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