• 検索結果がありません。

英語教育試論

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "英語教育試論"

Copied!
9
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

英語教育試論 一53一

英語教育試論

       /

―英語教育環境の改善について―

小野昭一

AN ESSAY ON ENGLISH EDUCATION 

―How to improve the present English teaching environment―

Shoichi Ono

1 は じ め に

  外国語の学習は,すぐれた異民族,異女化と接触する時に始まる。そして,その時の外国語は,

 進んだ交化や丈物をとり入れ,紹介するための手段として尊重される。この場合の外国語学習は一  方交通的文化受容のための語学であり,自国の精神女化を高めるという実学的性i格を持っている。

 そして,自国と外国の社会や丈化の落差が大きければ大きい程,たとえその語学が読書中心の受身

・的性格しか持たないとしても,あるいは,その学習法がいかに非能率的であっても,批判の対象と  なることはまずない。しかし,読むこと中心の語学は「文法」と結びっき,応々にして語形変化表  の暗記,文法規則の説明,文の解読という所謂交法訳読式教授(学習)に陥ち入り易く,文化受容  という実学的語学から,知的訓練のための語学へと性格を変えていく傾向がある。やぶて,自国の  文化,社会が外国の水準に近ずいたり,あるいは外国と肩を並べることが出来ると感じられる時,

 外国から学ぶものなしとする議論が生声れ,外国語教育の廃止論と結びっいたり,学校教育の語学  は非能率的で役に立たないと批判されたりして,外国語教育のraison d さtreが厳しく問われるこ  とになる。

  具体的には,明治前期の英学が日本の近代化という眼目のもとに実学的性格を持ち続け尊重され  たのに対して,明治後期に至って近代化もかなり進み,国家主義が拍頭してくるにっれて,英語教  育に対する風当りカs強くなっていったことがあげられるe近代化,文化受容のためという眼目を失  った英語教育は,次第に知的訓練,あるいほ受験のための英謡へとなり下っていくe英語教育に対  する批判はその後も続けられ,大正末期の英語排撃論,昭和初期の英語科廃止論,昭和3⑪年代頃か  らの役に立たない英語などの批判はその顕著なものである。このような批判が高まる時にくり返さ  れるのが英語教育の目的論である。ある者は実用的価値をあげ,またある者は教養的価値を説く。

 しかし,実用と教養の意味するものが必ずしも明確でなかったり,学校教育の一環としての英語教

 育の目標と世間一般の期待とがかけ離れていたり,あるいは,話すことが実用で読むことは教養だ

(2)

一54一 S4,立峯斤詣Pi女子短莫月大学観「究紀要  第11集  1974

と割切って考える風潮があったりして,説得力に欠けるきらいがないでもない。

 学校教育の一環としての英語教育は,まず英語ということばを習得させること,そして英語とい

.うことばを通して英語国民を理解し,国際的視野を持った人闘を育てることにあるとしよう。「英語 を通して」というからには英語という生きたことば,っまり英語の聞き話し読み害くことにかなり 習熟していなければならないことになる。話すことを狭義に解して会話英語と軽視したり,読むこ とのみが教養だと限定して論ずることはその意味で受け入れられない。英語に教養と実用の二種類 あるのではなく「英語に習熟すれば,実用にも教養にも役立っというだけのこと」ユ)だからである。

 ことばはrulesとha1〕itsから成っているe.前者は知識として習得され,後者は反復練習によっ て形成される。この両者を自由に駆使し,必要に応じて相手を理解し,自己を表現することができ て初めてことばは学んだと言えるeそれ故もしわが国に語学の技術的な面を軽視し,アカデミズム を尊重する風潮があり,それが日本人の気質から来ている2)とするれば,英語教育は好ましい環境 にあるとは言えないeなぜなら,英語ということばの技術的な面を習得しないでは英語教育の目指 す文化的教養も心の活性化も,あるいは国際的視野を身にっけることもすべて空文化するからであ

る。学校教育の一環としての英語教育は従って英語そのものを学び,英語を通し七何かを学ぶので なければ成立しない。何を学ぶかは国情,時代,あるいは人によっても違ってくる。学問研究,国 際理解,あるいは直接「実用」に役立てるために英語を学ぶ人もあろう。それはそれでよい.大事 なことは,英語学習は英語という生きたことばを学ぶことから始まるということであるe

ll 読むということ

 英語は読めればよいという人がある。また読めるが話せないと言訳する人もいる。確かに読むこ とによって知識を身にっけることは大切である。また話すことほ不得手でも読むことに精通し教養 を身にっけ,すぐれた学問の業績をあげ,日本交化の発展に貢献した人も多い。そして,読むこと ができれば必要に応じて,あるいは環境さえ整えば話せるようになるということも否定はしない。

しかし読むということはそれ程簡単なことではない筈であるeまた生きたことばに関する限り,読

めるが話せないというのは,一種の変則であると言ってよい。しかも一概に読むといっても「直読直

解」から暗号解読式な読み方までいろいろある。黙読に限定して考え七も,心理学的には読むこと

は話すことより複雑な伝達過程をもってレ・る。3)また情報理論から見れば,話しことばにな文字記

号には表われないredundancy(余剰性) がある。4)交字で表わされる限り例えば an Engliもh

teacher あるいは 工did not go there because工was afraid〜 は意味が曖昧であるが,話され

れば明確になるのも余剰性のせいである。5)アメリカの高校生がShakespeareの劇の中でも比較

的やさしく,彼等には適当だと考えられているfulius Caesablをテキストで読んだ時,大して興味

も関心も寄せな旗ったのに,もっとむずfJSしいShakespeareの劇を実際に見せたら理解も深まり

楽しんだというのもこの余剰性のためである。6)勿論これには俳優のしぐさや表情,情景などの助

けもあろうが・それと同時に文字には表われない音声上の種々の信号が理解を助けていることを見

(3)

英語教育試論 一55−一

のがすわけにはいかない。換言すれば,読んで理解するためには,文字記号には表われないこれら の信号(音調,強勢,休止など)を正しく補う力が読み手に備わっていなければならないというこ とになる。書きことばでも文豚や句読点などによって女意を正確に把握することは勿論できるが,

書きことばは,話しことば程十分な余剰性が与えられているとは言い難い。英語の理解力は発表面 の習得によって高まる7)というのも,このことと関係淋あるのであるe

 厳密に言えば,同一言語を用いる入の間でも正しく理解することはむずかしい。8)まして違った 言語を持ち,異なうた自然,社会,文化の中で育った入達を理解することは容易なこと.ではない。一 我々は外国語を本当に読み理解したっもりでいても,無意識のうちにそれらを母国語の構造や交化 のcontextに置き換えて解釈していることがよくある。例えば,英語の fforeigner がr外国人」

にあたるからといって,アメリカ入をforeignerと呼んだら思わぬ誤解を受けることになる。9)こ のように単語一っにもdenotationとconnotationがあり,・もっ大げさに言えばovert cultureと covert cultureが附随している。外国語を読み,理解するということは,平素意識していない covert cultUreに気づくことである。結局外国語を学ぶということは,母国語という尺度でしかも のをみなかった人が,母国語とは違った言語的,文化的尺度で我々を取りまく世界を見ることがで       ノ

きるようになることであるe外国語を学ぶ窮極の意義も実はここにあると言ってよい。

 読むということはむずかしいことである。従って,辞書を片手にregressionをくり返しながら一 時欄に数頁という遅い速度で,暗号解読式に意味内容をさぐりあてるのは読むうちには入らない。

英語の基礎的知識や能力を身にっけるための精読は勿論必要である。しか英語を通して英語国畏を 理解し,読書の楽しさを味わうことは,暗号解読式読み方では得られない。また,幅広い教養を身 にっけるためには精読だけでは不十分であり10)速読とextensive readingも必要である。速読に 関して言えば,外国語を自由に読むためには2万前後の語彙が必要だとも言われる。11)しかし,2 万語という数は実は大変な数である。特に日本語と英語のように語系統が違い,文化的背景も異な る場合はなお更である。本当に読むためには,音韻,形態,統語にっいての知識は勿論のこと,文 化的知識も豊富に持っていなければならないとなると,容易なことではない。教養としての読みを 重視するあまり,ことばとしての技術面を軽視し,読むことを急ぐのは,その意味で好ましいとは

言えない。12)

皿 英語教育環境について

 ことばは聞き話すにしろ,読み書くにしろ,そこに聴覚像が介在していることを指摘したのは Palmer13、である。概念が浮んだらすぐ聴覚像を思い出し,聴覚像が浮んだら概念を想起するよう にならなければ,ことばは学んだとは言えない。概念と聴覚像の結びっきをこのように強固なもの にするためには,実際の場面での練習が必要である。そのためにも,またそのような練習が無意味 で械械的にならないようにするためにも,英語教育の環境を整備してやらなければならない。

 ことばは本質的にはspeechであり,教養のためにしろ,実用のためにしろ,外国語学習はこと

(4)

・・HH+

T6一 県立新潟女子短期大学研究紀要 第工蝶 1974

ばそのものを学ぶことから始めなければならないとくり返してきた。そして,そのためには英語教 育環境の整備を急がねばならないことは,あらためて言うまでもない。今までも英語教育環境の改 善整備の必要性は何度か叫ばれてきた。昭稲2年Z2月の東京高等師範学校の「中等学校外国語教育 に関する意見書草案」と昭和35年12月の英語教育改善協議会の「中学校および高等学校における英 語教育の改善にっいての答申」はその代表的なものだと言うてよい。東京高師の意見書草案14)によ れば,「中等学校における外国語教育の目的は主として基礎の力を養うにある。」そして, 「言語 が発表者(話し手書き手)と了解者(聴き手読み手)との対立を必要とする以上その教授において 教師と坐徒との対立による十分の練習を行なう必要がある」ということから, 「外国語学習のばじ めから少くとも毎日一回の教授時聞(少くも40分)を要する」こと,1学級当りの生徒数も20人が 限度で「25人以上はすでに多きに傾いた数」であること, 「口と耳とに訴える練習を等閑にせぬこ

と」,r頻繁に使用される平易且っ重要な材料を犠牲にしていたずらに困難な語句文法形式を注入 し知識を不消化ならしめる弊に陥らぬよう注意すべきこと」などのほか,いくっかのすぐれた意見 を述べている。また英譜教育改善協議会の答申15)によると「英語教育の目的なり意義は,国際的視 野に立つ広い心をもった入聞を形成するとともに,英語の理解力を養い,特に英語による表現力 を獲得させることにある」として,英語の教材,教員養成,現職教育にっいて答申し,更に付帯意 見として高校・大学の入学試験の改善にっいて触れている。これらの意見や答申は,英語教育の実 をあげるためには,教育環境を改善することが必要であることを説いたものとして高く評価さるべ きであるが,現実には,それらが十分生かされているとは言い難い。これらの改善点は,その多く fOS・教師の力の及ぼざるところにあり・政治的解昧に待たなければならないだけに問題は大きい。

以下英語教育の発展を望みつっ英語教育を取りまく環境の問題点と,その改善策にっいて私見をの べることにする。

 1.語学は積み重ね学習であり,初めが肝心である。目を輝がせて英語の授業を待ち望む中学生 が一年もすると英語を嫌い,学習意欲を失うのはなぜだろうか。英語という初めて習う教科に対す

る撞れ,薪しい世界への好奇心,そしてnative speakerと話せるようになりたいという素朴な望 みを叶えてやるだけの環境や条件が整っていないからではなかろうか。読むことを重視する余り,

英語の技術面の習得が不十分のまま知識偏重に傾きがちだからではなかろうか。英語教育界には,

話したり書いたりする自己表i現を軽視する風潮があって,aura1−ora1の重要性を唱えることができ

にくい環境になってはいないだろうカ㌔i6)技術面の指導が,ややもすると械械的になりがちである

ことに反発して,up・to・date grammar translation methodといわれるcognitive code4earn ing

theoryのみが強調されることはないだろうか。言語の実際的使用を重視することは,知的学習を無

視することではない。また無意昧なことをペラペラ話すことでもなく,生徒を日英両語のbilingua1

に仕立て上げることでもない.ことばの本質から考えて,そして外国語学習の効率からいって,少

くとも初期の段階ではaural・oralを重視し, ことばの技術面を習慣1として.身にっけさせることが

先決だという考えカf)堂々と述べられる環境を作ることが第一である。

(5)

英  語  教  育  試  論

一一

T7一  2. 次に考えられるのは,教師にっいての問題である。生徒にことばとしての英語を習得させる ためには,教師自身がその能力を身にっけていなければならない。アメiリカでもソ連でもaural−

oralの重要性に着目し,教員養成や現職教育に力を入れているのもそのためであり,アメリカの TESLの強化,教師の資質を高めるための努力,17)ソ連の「外国語学習の改善について」の決定1a)

もその現われとみてよい。1961年のソ連邦閣僚会議の上記の決定は,au・ra1・oral重視ということか ら,語学教育計画を再編成し,大学卒業者には外国語を実際に使用できる能力を要求し,藷学教員 養成大学の演習は1クラス7入から10人にし,講義の大半は外国語で行なうこと,また拳員の再教 育では不適格者の転職を含む厳しい態度を打ち出し,実行に移している二西ドイッでは「英語教師 になるために在学中教育実習の仕上げとして一定期間イギリスでの生活経験を要求」19)していると いう。CarroUの追跡調査によれば「言語運用能力は,その外国語が話されている国へ,たとえ短 期間でも行ってくると大いに増大する」20)ということからも,英語教師や将来英語教師を志す学生 を英米で研修させる必要がある。そこまでは無i理だとしても,大学でのnative speakerによる訓 練を強化するとか,県あるいは地区単位に研修セソターを設けて,現職教育にあたり,3ケ月から

1年位のsabbatical leaveを大幅に与えて言語運用能力の改善を計る努力は必要である。

 3. 距離の物理的圧殺,国際化の進行,国家間の相互依存度の高まりなどから,これからの英語 教育が受動英語から能動英語へと転操をせまられている2Z)とすれば,教師の資質を高めるだけで なく,教師の負担も軽減してやらねばならない。多人数の生徒を相手に多くの授業時数を持ち,し かも英語以外の教科まで教える中学校の教師に,言語活動重視を要求するのは苛酷であろうe前記,

東京高師の意見書でも「教師と生徒との対立によって十分の練習を行なう」ためにはどうしてもク ラスの入数を20人以下におさえるべきだと言っている。このことはアメリカのASTPやEL工の例・

あるいは25人以上のクラスは2っに分けることを実施しているソ連や他の国々の例22)を持ち出すま でもない。アジア地域英語教育専門家会議でも「クラスのsizeを小さくすること」を第t義とし ている。as)Horneの実験では,望隼しいclass sizeは5入から9人となっている。盟,教育機器の 発達によって,LL, VTR,アナライザーなどが利用され,教育効果をあげる試みがなされているこ

と自体は結構なことであり,大いに奨励されてよいが,英語教育本来の姿から言えば,有能な教師 が少人数の生徒を相手に指導を加え,教師と生徒のinteractionの度合を密にし,補助として教育 機器を十分に活用することの方が望ましい。多人数のクラスをLLその他の教育機器を利用して個 別化を計ったり,能力別指導によって教育効果を高めようとするのは・いわばmakeshift ltこすぎ

ない。

 4.週当りの英語時数も英語教育環境の重要な問題であるe申学校の新指導要領の実施に伴な い,従来の学習活動が言語活動に変わったことは,言語の実際的使用という点からは好ましいことだ

としても,標準時数が3時聞になったことは問題である。文部省の指導書によれば「言語活動とは,

言語を聞いたり,話したり,読んだり,:書いたりなど・言語を総合的に理解したり表現したりする

活動をさすものである。したがって,英語の学習指導の過程において,音声の練習をさせたり,文

(6)

一58一 県立新潟女子短期大学研究紀要 第11集 工974

 型の練習をさせたりする『ともあろうが・このよう嬬語の一面にっいての練習は膚諦動の中  に含めていない。これに対して,言語活動は,音声や文型なども含めて,総合的に行わをるもので  あり・言語の実際の使用にっながるものである。」25)とすれば,言語活動とは少くとも今までの学  習活動より総合的でしかも高度な言語の実際的使用を目指しているといってよい。 このような言語  活動を週3時間の標準時間で行なわせようとするところに問題があるaなるほど週3時間は標準時  数で,弾力的な運用ができることになってはいるが,現実には他教科との関連で週4時聞確保する  ことも容易ではない。既に静岡県や福井県のように文字通り週3時闇という所もあり,東京都でさ  え,週3.5時間あるいは3時欄の学稼が僅かながらふえる傾向にあるという。 時間数からだけ言  えぱ・中学校の3工5時間・商校(英語B)の425時間を合わせれば,Carro11が外国語の4技能を  かなり十分に習得させることができるとした500時間26)を大幅に上廻っている。しかし技能面の習  得,言語活動の重視という点からみれば,集中性の薄い週3時間は好ましい時数ではない。英語の  基礎を養う中学校ではむしろ集中訓練ができるような配慮をすべきで, 「長期間の薄手の教育より  も短期間の集中教育の長所が認められている」27)というアジア地域英語教育専門家会議の見解は,

ことばとしての外騨教龍視という観点かbすれば当然のことである.知白勺訓練だけなら週3時  間でもやれないことはないeしかし従来よりも需度で総合的な言語活動を目指す必要性を認めなが

ら騰を轍するのは理解に苦しむところである.週何翻灘当かにっいて齢白懐づけを求め  られると答に窮するが,厳しい言語適性テストを実施し10人以下の少入数で週17時間,6〜9ケ月

・集中訓練を行なったASTPの外国語教授は例外としても,先にあげた東京高師の意見書にあるよ  うに・できれば週5時間・少くとも4時間は確保したいものである。45名前後の多入数のクラスを

週3時間で教えることと,言語活動重視ということは,どう考えても結びっきそうもない。

  5・日本の英語教育を論ずる時いっも問題}こなるのが入学試験特に大学入試である.入学試験 はいわば「生殺与奪の権を握っている」28)といってよいほど与える影響弄駄きい.高校の英語鞘が 大学入試の対症療法的色彩を強めていると批難する前に,大学入試の方法を再検討する必要があろ

うaイギリスでもλ試が外国語教育に悪影響を与えているとして,Hallidayは次のように述べてい

る・The「e rem・ili・th・perenni・1 P・。b1・皿。f th・way・in・whi・ht・aching且・influ・nced,9,nerally

for the worse・by the examination sy11abus.29)そしてその結果外国語は一般に・・examinaモion

subject 拷えられ・しかも入誹℃激法と訳謙偏し,諦の実際白勺使用の問題撫視しているた

め・申等教育の外国語は入試に合格することに向けられている3。)と指摘している。このことは残念

ながらそのまま躰の場飢もあてはまりそうである・このよう神態を憂慮して,日本では・969

年に大学薙鮪学会が「蝉入轍善の基葡見解」を撒しているが,・・)その中で①,eading

にっいては英女和訳のみにかたよらず,種々の設問の形式を工夫し,内容理解力,敏速な理解力を

測定するための艦テストを臓ること,②W・itingにっいては撤英訳のみにかたよらず,真

に勲の基礎的徽力を測定するための種々の踊を工夫すること,③h・a・ingと、peakingに

ついては語学教育における音畑唖要性にかんがみ,h・a}ing testの実施}幣力し,、p,aking

(7)

英     言吾      ・教     育     試      言禧了

一59一 にっいては単にpaper te8tによる間接的方法でなく,口頭で直接発表させる方法で努力すること,

などの点をあげ,しかもこれらは現実的に即時改善できる点32)(下線筆者)だとしている。現状で は③を全面的に即時実行に移すことは困難だと思うが・基本的にはこの方向に向って努力すべきで あろう。音声面にっいて現状を眺めると,hearingまたはdictationのいずれかを出題している大 学は1971年度,1972年度とも僅かに10数ケ校にすぎず33)音声面のペーパーテストすら実施しない大 学(学部)が1971年度,1972年度とも調査対象の士を占め, 34)しかも音声面のテストを行なった大 学(学部)も大部分が発音記号やアクセソトに関する出題であったということは何を物語るのであ ろうか。音声面のテストをペーパーで行なうことは,確かに信頼性,妥当性の点で問題はあるがジ いずれにしても音声面軽視と受け取られてもいたし方あるまい。Oral productionのテストは早急 には無理だとして・も,aural comprehensionのテストだけは加えたいものである。s5)

 大学入試は選抜試験であるから大学独自の出題方法があるのは当然である。しかし高校教育をゆ がめないためにも,高校の教育内容を考慮したachievement testの色彩も加味していかなければ ならない。「我々は余りに高校における英語教育の現状にっいて無知でありすぎる。現状を知らな いまま,無神経に難語を含む問題を出題しすぎている」36)という反省は生かされなければならない。

IV お わ、り に

 以上英語教育を取りまく環境にっいて二三私見をのべてきたが,母国語の習得が自然な環境の下 で,無意識に行なわれるものとすれば,学校教育の一環どしての英語教育は不自然な環境の中で,

意識的に行なわれることになる。Nativismによれば,幼児は生得的に言語を習得する能力を備え ており,その能力が,ある言語にさらされることによって,しかもそれだけで活生化し,その言語 を母国語として習得する。そして12,3才頃までに知能や練習量などとは関係なくlingUistic adult に成長すると言われている。37)換言すれば,幼児が母国語を習得するのに必要にして十分な条件は 唐浮lcient exposure to the use of a language ということである。ところが・このようなすく れた生得能力も成人するにっれて劣え)一たとえ英語が日常用いられている国で生活したとしても 英語のnative speakerと同じになることはむずかしい。このことは幼児には必要且っ十分条件で あったe歯posu.re to the use of a languageも中学生には必要ではあっても・そ1 vだけで英語を 習得することはむずかしいことを意味する。しかもこの必要条件すら学校教育の枠内で満たしてや

ることは不可能であるeしかし,中学生には幼児≧は較べものにならないすぐれた知能・知識経 験,記憶力,思考力などがあり,その上母国語を習得している強味(時には干渉を起こすという弱 味にもなるが)もある。外国語の学習はexposure to the use of the target language・ rule inter−

nalization, habit formation, actual use of the Ianguage in actual situationsのどれ一っを欠い ても十分とは言えない。このような条件を満たすためには,まず英語教育の環境の整備改善から着 手する必要がある。そうでない限り英語は examination subject としてほ重視されても・実用 にも教養にも役に立たず,読むことすら満足にできない状態が続くことは必至である。一番恐れる

(8)

一60一 県立新潟女子短期大学研究紀要 第11集 1974

のは,このままでは,いっか再び英語教育が厳しくそのraison d 6treを問われることになりはし まいかということである。

   注

 1)中島文雄「ユ972年度日本英語教育改善懇談会報告書」 (1973),P.15.

 2)中島文雄Langttage Laboratorpt(語学ラボラトリー学会,1973, Voユ.11), P. i.

 3)語学教育研究所編「外国語教授法」 (開拓社,1943),P,44, P. 50.

 4)C・C・F「ies,・F70ttfedatiens Fo i  EngJisb Teaching(研究社,1961), p,377.

 5)O. Jespersen(Essentials of Engtish Gramtnar, p,299)はこの文はintonatio1によって意味が2逓りあること   を指摘する。またR. Quirl9, et aL(A Gramma{ of Centeniporary English,§7.51)はfocusの問題として扱って   いる。

 6) H・A・Gleason, Jr,, Language−A Base for the Liberal Arts in The翫⑫θげEngiish, ed, NCTE (Illilois:

  NCTE,1967),pp,36−38.

 7) O. JeSperSe皿,、Elow to Teach a Foreign Langttage(L,OndOn:GeOrge Allen&Unwin】Ltd,1904), p.188, 工f by a   recePtive co凪mand of a foreign Ianguage is皿eant the ability to u且derstand it, and by a pf od2tctive com皿and,

  the power to express oneself in the language, then工a皿fully convinced that anyone who皿erely concerns him・

  self with the receptive side of it injures hims巳1f and acquires far less ability to understand it than if he had   fro皿the very begi皿11i旦g also ai皿ed at a productive command of theユanguage.

 8)Margaret M. Bryant, Madern English and its」Heritage、2nd.(New York: Macmillan,1962),p. 352. No two   persons have ev6r learned the same word under exactly the sa皿e circu皿s亡ances;−therefore each word has a   sPecial coエ1text for each inClividual. Communication at best is a compromise, for each p巳rson talks o咀亡of his   own private world:his experiences,皿iemories, and impressio皿s.

 9)西山千「誤解と理解」 (サイマル出版会),P.58.

10)A.W. Frisby, Teaching English(成美堂,ユ961), P.217.

11)小川芳男編「英語教授法辞典」 (三省堂,工964),P.621・

12)M.A. K, HaUiday, et al., Tlte Lingteistic Sciences and Langttageヱ初訪動8(Blooming ton:1ndiana Un1v. press,

 工964);P.256. _practical ability皿ust inevitably precede literary apPreciation of works in a for巳ign language.

 The attempt t。 intr。duce f。reign literatlire t。 a learner bef。re he has suMcient .c。㎜and。f the language in  which it is writte且frequently leads to irustration, boredom and antipathy on his part, so that there is皿uoh  to be lost and littie to be gai且ed by bri㎞ging the cultural task too far forward in time,

13)語学教育研究所編「英語教授法事典」(開拓社,1962),p.327, p.335,.

14)東京高等師範学校意見書草案は黒田娩著「英語教授法論考」(金子・書房,1950),PP, 25 4−259にある。以下引  用はそれによる。      、

15)英語i教育改善協議会の答申はr高等学校学習指導要領解説ク個語編J(開隆堂,1961),PP.ユ50一ユ53にある。

 以下引用はそれよる。

16)原沢正喜 WhaVs wrong with English in Japan,,「英語教育」(大修館,1970, VoL XIX, No, 3), P.35.

17)Joseph Miche1, Foreign Langttage Teach ing(London: Macmilla且, 1967), pp.280・−284.

18) JG, Garrard, The Teaching of Fo爬ign Languages in the Soviet U且ion, i14U, VoL XLVI, Feb.、1962, No.2,

 PP 71−74;鈴木史朗「ソビエトの英語教育」(開隆堂,「英語教育」,1973, Vol・ 25, Nos・5−8)

19)星山三郎「外国の英語教育」 (筑摩書房, 「言語生活」,1973,No.256), P・ 33.

20)松山正男「アメリカにおける外国語テストの現状j(研究社,「講座英語教育工学」第5巻),P.139による。

21)国弘正雄「英語の話しかた」(サイマル出版会,1970),PP.50−67.

22)Garrard, op, cit., pr 72.;星山≡三郎「世界における外国語教育」 (ELEC r英語展望」 1973, No.42),P.53.

(9)

英    言吾   教   育    試    言禽 一61−一

23)高橋源次「アジア地域英語教育専門家会議」(ELEC「英語展望」 1972, No・36), P.58.

 24) K.肱Horne, Optimum Class Size tor lntensive Language instruction, 躍工必1970, VoL LIV, P 195・

25)  中学校キ旨導書ク{ト国言吾編 (昌目1肇…堂, 1970), p.22.

,26)John B. Carroll, What Next in English Language Teaching in Japan? (大修館「英語教育」197⑪, VoL       r

  XVIII, Nα11), p. 26. With about 500 hours of good, we11−organized instruction, it shoUld be possible for the   average Japalle5e st賦dent to lear]ユto handle English wi亡h reasonable facility and con丘dence in speaking,

  Iistening, reading, and wまiting.工have arrived at this figure of 500 hours through studies of Americans   learning various languages七hat are different fro皿English as Japanese is・

27)高橋源次、eP,慮, P、 56.

 28) 「1972年度日本英語教育改善懇談会報告害」P・ 167・      ・

 29) Halliday, et aL, op, Cit,, P.269.

 30) lbid,, P.270,

 31)大学英語教育学会編「1971年度大学入試英語問題の検討」(開拓社,1971)pp. i・iL

 32)  lbid., (1971年度), p. i.

 33)lbid.,(1971年度)). P・2;(工972年度), P・ 4・

 34)lbid.,(1971年度), p. 71;(1972年度), p. 65.

 35)田島博「語学ラボラトリーの計画と運営」(教育工学社,1968),P・9によると「Co皿prehensi⑪nの問題,す   なわち聞いてその全体の意味を理解する問題の成績がよいものは英語全体の成績もまたよいという傾向がはっき T  り認められる」という。

 36) 「1972年度大学入試問題の検討」p,6.

 37)拙稿 Language Acquisition Theories and Second・Language Teaching (県立新潟女子短期大学研究紀要1

  1972年第9集)参照。

参照

関連したドキュメント

新聞や「読書サークル」であったと指摘する。このこ

工夫点(3) 英語が使えない学校英語と言われないよう

割合 30% 40% 30% 授業参加態度

割合 30% 40% 30% 授業参加態度

ことである。この読解力とは、単なる英文解釈の能力ではない。言葉を通して状況や現実

ウ 「聞く」 「読む」態度と能力の関係をみてみると、 「聞くこと」 「読むこと」に対して積極 的な態度で臨んでいる生徒は、 「聞く」

○本を読んでもわからない。 従ってここで身につけたい新出表現は「たら,なら,ば」である。この条件文の使い方をより確 実にするためには,以上の既習事項が使いこなせていることが必要である。それは文法として押さ えるのでなく,会話で進める。しかもそれはピボット式管理方略ではない。すなわち,教師中心の

何故, 「英文を書くこと」という用語を用い,