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(1)

【 翻訳】

ACTA PACIS

ヴェス トファー レン講和文書の成立 (一 )

WESTPHALICAE,HI B 1/1,Einleitung I― H3よ り

Translation: Die Entstehung der Urkunden des Westfiilischen Friedens,

in ACTA PACIS WESTPHALICAE, Serie III, Abt. B, Verhandlungsakten, Bd. 1, Die Friedensvertriige mit Frankreich und Schweden.

Teil 1: Urkunden, Einleitung I-II 3, XLI-LV. Bearbeitet von Antje Oschmann. Miinster 1998.

伊 藤 宏 二 Koji ITO

(平 成 18年 10月 2日 受理 )

は じめ に

本稿 は、 ACTA PACIS WESTPHALICAE,Serie IH:Protokolle,Verhandlungsakten,Diarien, Varia.B:VerhЯ ndlungsakten.Band l:Die Friedensvertrage nlit Frankreich und Schweden.Teil l: Urkunden.B6劉Fb.von Aん ヴθ  OSCん れαれれ。 M伽 lster 1998(Zι j″ ι f APW HI B Bd.1/1),

Einleitung I― I13,XLI― LVの 全訳である。訳者は既に、河村貞枝氏を研究代表者 とする科学研究費補 助金による研究成果報告書『 国境をこえる「公共性」の比較史研究』 (研 究課題番号 14310180)、 2006 年 3月 、 58〜 100頁 において、「 ヴェス トファー レン講和文書の成立」 として APW III B Bd.1/1,

Einleitung I― II,XLI― LXXVIIの 翻訳を表 しており、本稿はその訳稿の前半部に若干の修正を施 したも のとなっている。同科研報告書に掲載 した後半部は、同じく修正を加えた上で、翌年本誌に掲載 したい

と思 う。紙幅の都合上、同科研報告書に表 した 【訳者前文】は省略する。

なお、原則的に ( )は 原文表記、 〔   〕は訳者による補足である。

【 翻訳】

I  緒言

1648年 10月 24日 の晩遅 く、 ミュンスター市は大砲による礼砲によって、 フランス (1)及 びスウェーデ ン

(2)と

の講和条約の署名が終わりを迎えたことを、告げ知 らされた。それとともにヴェス トファァレン 講和会議は、改めてクライマックスに達 した。それに先立ち 1648年 1月 16日 に、スペインーネーデルラ ント間の講和条約が封印され (versiegelt)、 1月 30日 に署名されていた。それに続いて (市 庁舎講堂に おける )そ の批准 と誓言の儀式 (feierliche Ratiizierung und Beschworung)が 、 3月 15日 に行わ れた。その 1日 後、その講和条約締結は公衆に知 らされた。 10月 24日 の 4ヵ 月後、 1649年 2月 18日 に、

過 日署名された両条約 〔ミュンスターの講和 (以 下 IPM)及 びオスナブリュックの講和 (以 下 IPO)

のこと〕の批准書が ミュンスターで交換された。それによって和平使節の任務は終わりを迎えた。とい

うのもスペインーフランス間の講和は実現 しなかったからである。会議はまもなく解散されたのであっ

(2)

た。

1648年 10月 24日 に、それぞれ 2部 ずつの IPMと IPOの 文書が作成 された。皇帝の使節、 スウェーデ ン女王 ク リスティーナ及び当時まだ幼少であったフランス王ルイ 14世 の全権使節、並びに帝国等族の全 権 使 節 た ち の 中 か ら選 抜 され た者 が、 自 らの手 で そ れ らの文 書 に署 名 し、 彼 らの指 輪 の 印 (Ringsiegel)を 押印す ることによって、 それ らの文書を承認 したのであった。 これ ら 4部 の交渉人文 書 (Ausfertigungen der Unterhttdlerurkunden)の うち 3部 が今 日まで現存 している。 ここで [本

書 APW  ⅡI B Bd.1/1が ]提 示 している両条約の原文 は、 それ らに加えて、様々な理 由により 1649年 初夏 までに作 られた、それ ら交渉人文書のそれぞれ 4部 ずつの新たな [副 本 ]文 書 にも基づいている。

さらに両条約の原文 は、皇帝、 フランス及びスウェーデ ンの批准書にも挿入 された。 これ ら 8種 の伝承 史料 (Oberlieferung)は 、 ここ 〔 本書〕で同様 に、原文を構成するのに考慮に入れている。それによっ て本書の版 は、現存 している全ての文書の原文を初めて包括 したものとなったのである。

IPM及 び IPOの 文書 と並んで、 その他の 16も の文書が 〔 本書 APW  Ⅱ I B Bd.1/1で 〕示 されてい るが、 とりわけそのうちのい くつかはフランスヘの賠償をめ ぐる状況に由来するものである (3、 それ ら は交渉末期の複雑な経過や、条約へ と含まれた補足を具体的に示 している。

さらに、両条約の批准書が 〔 本書 APW HI B Bd.1/1に 〕添付されている。皇帝、フランス国王及 びスウェーデン王冠と並んで帝国等族が、全体として、条約を締結 した主当事者 (皇 帝、フランス及び スウェーデン )に 条約の受諾を確認するという、義務です らあった彼 らの権利と責任を有 していた。批 准書はさらに、帝国議長 (Reichsdirektorium)の マインツ選帝侯並びにザクセン選帝侯 (福 音主義分 団代表 )に 手渡された。帝国等族の批准に基づき、個々の申し立てをもった帝国等族の誰 しもによって 補足された、 IPMと IPOに 関する 〔 これら〕 2つ の 〔 帝国等族の批准〕文書の版 と並んで、本書 〔 A

PW HI B Bd.1/1〕 は 250以 上 もの現存 している帝国等族の批准書の一覧を提供 しているのである。

I  ヴ ェス トフ ァー レン条約文書 の成立

1 :POの 合意 (1648年 8月 6日 )に 至るまで

条約文書が完全にまとめられ、署名され、最終的に批准された、スウェーデン及びフランスとの講和 条約に関する最終交渉は、 1648年 7月 末から 1649年 2月 の批准書の交換に至るまでの長きにわたつてい る (4に 1648年 8月 6日 のオスナブリュックにおける、スウェーデンとの講和条約についての会議での公 聴会 (kongre31ffentliche Verlesung)が 序幕をな している。その時までは、個別的な問題に関す る一 連の部分協定が存在 していた。スウェーデンペの領土賠償 (IPO第 10条 )並 びにフォアポメルン公領 を放棄 したブランデンブルク選帝侯への補償 (IPO第 11条 )が 、皇帝・ スウェーデン・ ブランデンブ ルク選帝侯の全権使節の間で、 1647年 2月 18日 (5)及 び 19日

(6)に

2つ の協定に規定された後、 1647年 8月 に、それまでに達成されたプファルツの復旧に関する 〔 交渉〕成果が文書にまとめられた く 7、

同年 11月 半ばにそれに続いたのが、会議参列者 (Kongre00ffentlichkeit)に 十分に知 らされていなかったフラ

ンスの領土賠償に関する皇帝―フランス使節間の協定 (8)で ぁった。 1648年 3月 及び4月 にスウェーデン との条約め大部分がようやく最終的に合意に達 した。 これ らの予備協定は後の講和条約の個別条項の本 文を書き表 したものだが、様々な形で文書化されていた。それらは大抵、帝国議長にしてカ トリック等 族 の代理人 としてのマイ ンツ選帝侯の、全権使節 ニ コラウス・ ゲオルク・ ライガース ペルガー

(Nikolaus Georg Raigersperger)並 びに福音主義等族の代弁者に祭 り上げられたザクセンーアルテ

ンブルク (SaChsen̲Altenburg)の 使節ヴォルフガング・ コンラー ト・ トゥームプシルン (Wolfgang

(3)

Konrad Thumbshirn)に よって署名 されていた。い くつかの場合にスウェーデ ン使節 と皇帝使節が関 与 していたが、ある時は個人的に、ある時はその使節書記 とともに、またある時は後者 〔 書記〕が単独 で署名 している例 もみ られる。大抵の場合、 〔 同一の〕 い くつかの文書が作成 され (9ヽ そのうちの一部 が帝国議長のマイ ンツ選帝侯に寄託された。最終的な、いまや帝国等族の代理人たちとも調整 された、

スウェーデ ンペの領土賠償。の、及びブランデンブルク選帝侯 フリー ドリヒ・ ヴィルヘルムのための補償 (IPO第 11条 )CD、 並びにプファルッの復 旧 (IPO第 4条 第 2項 か ら第 19項 )⑫ に関す る合意文書 は、

1648年 3月 18日 及び 19日 に成立 した。同 日、 ヴェルフェン家のための補償 (IPO第 13条 )① 及び 〔 教派 に関す る〕 自律性 の問題 (IPO第 5条 第 30項 か ら第 41項 )° のに関す る一致が得 られた。 その数 日前、

1648年 3月 初旬 に帝国司法 に関する条項 (IPO第 5条 第 53項 か ら第 57項 )が 確定 された C15p。 その後数 週を経て、 3月 24日 と 4月 23日 に、宗教権 に関するその他の条項 (IPO第 5条 第 1項 か ら第 29項 、第 42 項か ら第 52項 ° °、並びに IPO第 7条 。 つ )が 署名 され、広範 に及ぶ条約の中核部分即 ち帝国国制規定条 項が、準備が整 ったのであった。同 じ頃、残 りの恩赦問題° めが処理されたが、それには議論中であった 皇帝の臣民 に関わる恩赦規定 と並んで 一一 控えめに言 って も大部分 は 0‑一 ヘ ッセンの名誉回復が含ま れていた。それによって 1648年 4月 末には、帝国内政の極めて厄介な問題の相当部分が取 り除かれてい たのだった。

スウェーデ ンによって要求 されたスウェーデ ン軍の解散のための帝国による費用の引受け、いわゆる 軍隊への補償 と、両国王によって後押 しされ、同 じ目的のために尽力 していたヘ ッセ ンーカッセルヘの 優遇措置が、依然 として未解決であった。 フランスと議論中の争点 に属するものはく エルザスに在住す る帝国等族の法的地位である。その他 にも、 フランスとスペイ ンの間の合意が達成 されていなかった限 り、スペイ ンのブルグント帝国クライスは、帝国によるレ ランス王 との講和の中に含めてよいものか、

或いは含め られるべきなのかということを決定することが避 けられなか った。スペイ ンーフランス戦争 が継続する限 り、皇帝 と帝国は、それに圧迫 されている帝国等族の救援 に駆 けつけてよいものか、或い はさらに 1555年 の執行令 (そ の後改変 された )に よって、そうす ることを義務付 けられているのだろう か ?フ ランスがそのような権限や義務をあ らゆる手段を講 じて排除 しようとすることは明 らかだった。

皇帝 と帝国はそれ とともに王朝政治 と帝国政治の原理の 〔 間での〕決断を突 きつけられた。北イタリア における諸関係 も依然 として未解決だった。そこではマン トヴァ公 とサヴォア公 との古 くか らの対抗関 係が続いてお り、 そこではフランスが、 シェラスコ (Cherasco)の 諸条約 とその他の諸協定に依拠 し て、比較的大 きな影響力を確保 してきてお り、維持 しようともしていたのだった。

オスナブ リュックに逗留 していた帝国等族使節は大部分がプロテスタントだったが、彼 らがなおもス ウェーデ ン軍への賠償金額 とその 〔 支払い〕方法に関するスウェーデ ンとの複雑で難儀な交渉を行 って いた間に ‑1648年 7月 末にやっと合意に達 し、それによれば 5百 万帝国ターラーが 2年 のうちに同王 へ支払われることとなっている°の一 、スウェーデンとの講和条約 〔文書〕を最終的に起草することが 進め られた 0)。 2週 間足 らずのうちに条約の実行に関するなお も未解決の問題が規定 されたが C22D、 ただ し帝国等族の署名

(か

と条約当事者の範囲 ("に 関する最終的な合意 は達せ られていなか った。批准書の書 式 も本質的には既 に準備 されていた

(か

1648年 8月 6日 午前、皇帝使節 と帝国等族たちの全権使節の大部分が、スウェーデ ンとの講和条約の 字句内容について合意するために、オスナブリュックのスウェーデ ン主席使節ユーハ ン・ ウクセンシェー ナの宿所に姿を現 した。早晩まで続いた会議。 0の 際に、完成草稿 は 3部 (皇 帝使節・ スウェーデン使節・

帝国議長マイ ンツ選帝侯のため )提 示 された。皇帝使節 フォルマーがそれを読み上げ、その際さらに、

若干の変更が加え られた

(わ

。最後にスウェーデ ン使節たちが皇帝使節及び帝国等族の全権使節たちに、

(4)

手元にある草稿が拘束力を持つ とみな し、それ以上変更が加え られることがないと誓言 した C28p。 しか し なが ら彼 ら 〔 スウェーデ ン使節〕 は同盟者たるフランスを顧慮 して、 この時点で署名の準備 はしていな か ったの。 そうはいって も、 3つ の草稿 は近いうちに清書 され、同時に書記によってのみ署名 されるこ とについては、最優先で一致 していた ゛ ° 。 8月 6日 の夜、当事者たちは当然彼 らの草稿を再び自らの手 元 に収めた。 その草稿 は帝国議長 によって公 にされ、 それをもって原本 (forma authentica)と され

た。 1)。

同 日の会議で、皇帝・ スウェーデ ン女王・ 帝国等族のための批准書が準備 され、読み上げ られた。そ れ らも数 日後帝国議長代行 (Reichsdiktatur)に よって公 にされた 。 の。

2 1POの 合意から両講和条約の帝国議長への寄託 (1648年 9月 15〜 16日 )ま

多 くの場所で既 に確実 に間近な もの として期待 されていた IPOの 署名 0)は 、その後数週間経 って も まだ行われなか った。なるほどスラェーデン使節たちは、オスナブ リュックで羊皮紙文書を作成 し、そ れを署名用 に皇帝 と女王 に送 ることを提案 していた。彼 らはまた、そうすることを予定 した羊皮紙文書 の作成 も開始 したのであったα )。

しか しなが らこのようには進行 しなか った。 というの も、 フランス使節 と帝国等族 との間の交渉が行 き詰 まり、結局 セルヴィヤ ンがスウェーデン側 に、その講和の最終的な交渉終結 (Fi対 erung)を 差 し 当たリー度中断す るよう、切 に催促 したか らであった ①。 1648年 7月 以降セルヴィヤ シは、 〔 講和の〕

締結を迫 っている帝国等族 といまだ争われていた問題を取 り決めるため、そ して条約か らスペイ ンを排 除す ることに彼 ら 〔 帝国等族〕の同意を得 るために、オスナブリュックに滞在 していた く わ 。 セルヴィヤ ンと交渉す る全権を独 占的に有 していた 〔 在 ミュンスター〕皇帝使節 は、 〔 オスナブリュックヘ〕交渉 場所を移動す ることを拒否 した。 というのもこのことはハ ンブルクの予備協定 と矛盾 していた し、皇帝 がスペインに対 して顧慮 していたことの支援をオスナブリュックの帝国等族か らほとんど見込めなか っ たので尚更であった C37p。

しか しなが ら帝国等族使節たちはこの 〔 在 ミュンスター皇帝使節の〕異議を無視 し、セルヴィヤ ンと の交渉を精力的に進展 させた。サルヴィウスの協力 とともに様々な点で、 とりわけ 〔 皇帝 と帝国の〕協 力 〔 関係に関す る〕問題において、合意が達せ られた。皇帝 と帝国は、スペイ ンーフランスの対立中や、

その他の同 じ様 な場合 に も帝国成員 に義務付 けられた援助を行わな くて もよいということが規定 され た 0)。 この合意 はスペイ ンを皇帝 と帝国の援助か ら遮断す るもので、完全にフランスの利害の中に置か れていた。

この譲歩 にも関わ らず、帝国等族 は、 フランスヘの領土割譲 と関係す るエルザスの帝国等族 に有利 と なる妥協を達成す ることができなか った。セルヴィヤ ンは、彼 ら 〔 帝国等族〕 によって望まれた、 1647 年 11月 11日 の賠償協定 ― とりわけ後の IPM第 87条 ―― の諸条項の解釈 〔 権〕を認めることを、断固

として拒絶 した。帝国等族には、彼 らの見解を文書 にするという逃げ道 しか残 されていなか った。 こう したことは 1648年 8月 22日 付の書面 C39Dの 中で行われ、その書面 はフランスヘの領土賠償に関する帝国等 族の同意を以下の条件に義務付 けるものであった。即 ち、 エルザスにおける帝国直属者 はフランスの最 高支配権 (supremum dominium)の 樹立 にも関わ らず、彼 らが従来通 りの諸権利を もって帝国に向 かい合 うことを邪魔 されないままである、 と。 この証書の正本をセルヴィヤ ンに手渡す ことは失敗に終 わ った。その結果帝国等族 は直接 フランス王の方を向 き 御 )、 通知書に事情を記録 した

D。

しか しなが ら

このことは、帝国等族側が望んだ権利の留保が政治的に失敗に終わることを妨 げるものではな く、 1649

2月 にセルヴィヤ ンは、 この 〔 帝国等族がフランス王に宛てた〕書面 に自ら抗議を持ち出 していたの

(5)

で尚更であったα )。

1648年 9月 半ば、オスナブ リュックに集まった使節たちは、 もはや足 りないものは、 ミュンスターに

〔 残 って〕滞在 していた帝国等族の全権使節たち、そ して とりわけ皇帝使節の同意である、 とい うこと で広範 に一致 した。 〔 オスナブ リュックでの〕交渉成果を最終的に確かなものとし、 ミュンスターで会 議を開いている帝国等族使節並びに皇帝使節に最後通告的に 〔 オスナブ リュックでの交渉成果を反映 し た形での条約の〕受諾を強いるために、オスナブリュックに滞在 していた帝国等族使節 は、 〔 IPM及 び IPOの 〕両条約文書 を公式 に帝国議長 に寄託 し、それによって両条約 (Texte)を 拘束力を持 ったもの として承認す る、 ということを提案 した C43D。 〔 スゥェーデ ン側 との交渉のために元々オスナブ リュック に滞在 していた〕皇帝使節 は、 これを ミュンスターでの講和会議の先例 とみな してはいけないという条 件でのみ、 IPOの 寄託に同意 し、それ とは逆 に、帝国議長への条約文書の引き渡 しによる IPMの 交渉 終結を完全に拒絶 した。その結果 として、 IPO― その本文 は 8月 6日 以降、皇帝使節及びスウェーデ ン使節の間で改めて調整 されていた )一 ―については、両者の書記室を通 じて 2部 が作成 され、差 し当 たり帝国議長のマイ ンツ選帝侯の立会いの下で使節書記によって再度照合された。 1648年 9月 16日 C45p、

両文書 C46)は 〔 在オスナブリュック〕皇帝使節 ランベルクの宿所で、若干名の帝国等族の代表者の参席の

下で、共同で装丁 され、それに引き続 きその包みはサルヴィウス、 ランベルク、マイ ンツ選帝侯の官房 長 (Kanzler)ラ イガースペルガーによって封を施 され、帝国議長に寄託 された。

この会議で 〔 在 オスナブ リュック〕皇帝使節 は IPMの 寄託 に反対 して改めて口頭で抗議 し、 〔 帝国 等族使節のオスナブ リ Lッ クでの〕先走 った如何なる事前の行為をも拒絶 し、オスナブリュックの交渉 成果 に関 して ミュンスターで会議を している帝国等族の同意を要求 したのであった。その上、スウェー デンによって同盟者 と呼ばれたポル トガル国王 はスペイ ン王 フェリペ 4世 と理解 されねばな らない、 と いう彼 らの声明を繰 り返 した。 さらに彼 らは、封をされて帝国議長のマインツ選帝侯に委ね られている 装丁 にあるのと同様 に、 しかるべき書面が彼 らの IPO文 書 に与え られる、 と述べるまでに至 った④。

同様の法的拘束力を持 ちたわけではないが、よリー層政治的な重要性を持 っていたのは、サルヴィウ スが提言 し、彼が間 もな く―一 皇帝使節に公式に知 らせることな く―― 帝国議長に文書で伝えたい くつ

かの留保 C48pで ぁった。 とりわけ彼 は、ヘ ッセ ンーカッセルの軍隊への補償を有利に導 くためにスウェー

デンによる干渉を再開 し④、小規模帝国等族にとって有利 となるようにより多 くの鑑定書 (Attest就 )

を要求 し、 ブレーメン市 に関す る規定のスウェーデ ンの解釈 〔 権〕を確認 させようとした゛ の。その上彼 は、 スウェーデ ン軍への支払 いと給養 に関 して曖昧な点や未解決の問題について言及 した。 IPO本 文 (Text)の 公式な成立 にも関わ らず、それによってスウェーデ ンはあまりにも広範な交渉の余地を残 し たままであった。

フランスとの講和条約の寄託 は、多 くの点がなおも論争中か不明確であったにも関わ らず、前 日 1648 年 9月 15日 の 〔 在オスナブリュック〕皇帝使節の公的な抗議に反 して行われた。

D。

ここで も 2部 の文書

――その 1部 はマイ ンツ選帝侯使節の、 もう1部 はフランス使節の書記室で作成 された一 が装丁され、

セルヴィヤ ンとマイ ンツ選帝侯の官房長が封を施 した C52Do IPM原 文書 は数 日後帝国議長代行を通 じて 公表 された。 )。

3  寄託から講和条約の署名 (1648年 10月 24日 )に 至るまで

その数 日後 に在オスナブリュック諸使節 は、 〔 帝国議長 に〕寄託 された条約文書を 〔 在 ミュンスター

諸使節 に〕承認 させ るために、そのほとんどが ミュンスターヘ赴いた。 9月 21日 、ある帝国等族の代表

者が公式 に帝国議長 に寄託 されていた IPM文 書の 1部 を皇帝使節 に手渡 し、それの同意を最終的に要

(6)

求 した 。

)。

皇帝の宮廷 は、使節の報告書を通 じて心構えはできてお り、既に 9月 半ばに避けがたい運命 を受 け入れていたが 6め 、 もっともそれに応 じた指令 は、担当の 〔 ヴィーン宮廷〕書記局の役人の過失に より、誤 った形で暗号化 された

。それゆえ皇帝使節 は 9月 30日 の急送公文の到着後す ぐに皇帝の譲歩 を帝国等族 に伝えることはできず

6つ

、数 日経 った 10月 5日 及び 6日 にやっと伝えることがで きた (D。

しか しなが ら両条約の署名に至るまでに、改めてほぼ 3週 間経過 した。 というの もセルヴィヤンが、

講和条約の中で要求 されたエルザス、 メッツ、 トゥール、 ヴェルダン並びにピネローロに関する割譲に ついて、差 し当たり準備 されたように帝国 とオース トリア諸大公によってのみな らず、スペインによっ ても、署名行為の際に宣言 されるか知ろうとしたので、 フランスー皇帝間交渉が滞 ったか らであった ゛

9。

これに対 して皇帝使節 は、それを不可能に したスペインーフランス間和平交渉の失敗を持ち出 してきた。

宣言の本文 は、既 に 1647年 11月 のフランス賠償協定の締結時に定め られていた゛ °。皇帝 と帝国等族並び にオース トリア諸大公に要求 された書面に関 しては、期 日厳守の引渡 しが署名時に文書で義務付 けられ ることで、早急に一致 した。スペインに要求 された文書の代案を見出す ことはより困難で、スペイ ン王 がいまやフランスとの講和か ら排除され、あまり講和に乗 り気ではないことは、全ての関与者にとって 明白であった。批准書交換の際にスペイ ンの文書が不成立の場合、帝国等族使節 は、 より効果的な援助 の決議を行 うことを最終的に文書でフランスに約束す る用意があると表明 した。 フランスは、スペイ ン が 〔エルザスを〕公式 に放棄す るまでの間如何 なる場合 も、 占有質 として上 ライ ン地方 の森の 4都 市 (Waldstadta Laufenburg,Rheinfelden,Sackingen,Waldshut)の 占領を維持 し得 た し、講和条約 で予定 されたチロル大公への金銭の支払いを延期することができるとされた。次いでそれに関する保証 が 10月 15日 に文書化 された゛

D。

皇帝使節、 とりわけチロルの利害に責任を感 じていたフォルマーは、 こ の 〔 帝国等族の〕決定に激 しく反発 した ゛ の。

さらに、サヴォワ公に関連する若干の問題がなおも未解決であった。それに相応す る IPMの 諸規定、

中で も後の第 92条 及び第 93条 に関 して、最終的に書式化が合意 に達 したが C63D、 それにサヴォワ使節 は同 意 していなか ったく の。その上両王は、条約締結の署名直後の自軍に関する諸条件をさらに良 くするため に、再度あらゆることを しようとしていた。彼 ら 〔 両王〕 は、ヘ ッセ ンーカッセルに対する賠償金支払 いの義務をより確かなものに しようとし、スウェーデ ン軍解散のために取 り決め られた費用の支払 いを 条文 に記 された以上 に厳密に規定 し、 さらにそれに至 るまでの間、その 〔 スウェーデ ン軍の〕給養を皇 帝 と帝国等族 に押 し付 けようとした。その上スウェーデ ンは、その意向に沿わないか最終的にはっきり

としていない若干の問題 について、帝国議長 による鑑定書の文書化を要求 した。それに基づ き帝国等族 は、帝国議長の公印の下 に新たな執行令を発行 し ①、講和条約 C66pに おいて要求 された賠償金割 り当ての

リス トを作成 し始めた。 〔 スウェーデ ン側か ら〕希望 された鑑定書 のい くつかは承認 された 0。 しか し なが らヘ ッセ ンーカッセルに関 しては、彼 ら 〔 帝国等族〕 は署名の日にや っと、単 に口頭による承諾の み賛同 しただけであったく 6BD。

'最 後 に両王 〔 使節〕 は、 とりわけどんな法的資格 (Legitimation)に 基づいて帝国等族 は条約を署 名 し批准す ることになるのか、 という問いを新 たに投 げかけた。帝国等族 自身の間で この問題 は、 〔 註 (23)で 〕先述の如 く、 1648年 7月 末 と 8月 初頭 に既 にもう検討 されていた。 1648年 10月 半ばに以前の 決定がより厳密に規定 され、 17名 の帝国等族の全権代表が指名 されて、その者たちがその他全ての 〔 等 族〕使節を代表 して署名を行い、彼 らの宮廷の批准書を提出せねばな らないこととされた C69p。 マイ ンツ、

バイエルン (バ イエル ン公 としての選帝侯マクシミリアンの同使節 は帝国諸侯 として も署名 しようとし

た )、 ブランデ ンブルクの 3選 帝侯の代理人が指名 されたが、 ザクセ ン選帝侯の代理人については、彼

がまだ講和条約に署名す る許可を得ていなか ったので、選択権が留保 された。聖界諸侯か らは バ ンベル

(7)

クとヴュルツブルクが予定 されており、世俗諸侯の一団か らはオース トリア、ザクセ ンーアルテ ンブル ク (そ の使節両名 とともに

)、

ブランデ ンブルクークルムバ ッハ及 びブラウンシュヴテイクー リューネ ブルク (同 じく2名 の使節 とともに )が 代理 とされた。小規模帝国等族か らは、 ヴェッテラウのグラー フ協議会 (Wetterauer Grafenkollegium)の 代理人、 さらに帝国都市 シュ トラスブルク、 レーゲ ンス ブルク、 リューベ ック及びニュル ンベルクの代理人それぞれ 1名 が予定 されていた。全ての帝国等族が 例外な く条約 に拘束 されることになるにもかかわらず、その他の帝国等族 は署名 と批准か ら免除された。

スウェーデ ン使節 とセルヴィヤンはこの規定に満足せず、彼 ら 〔 両王使節〕 は、 自身 〔 の立場〕に匹 敵 し、その者が条約の当事者 となり得 るような、 1名 の帝国の全権代表を要求 した。 この要求 は国制法 上ほとんど実現不可能であった。 というの も、講和会議における任務の最初に帝国議長に預 けられた⑭

)

帝国等族使節たちの全権委任状 は、対外的な帝国全体の代理権にまで及んでいなか ったか らである。最

終的に、 10月 13日 の帝国決議を文書化 したものをスウェーデン使節 とセルヴィヤ ンに手渡 し、 この決議

と広範 に表現が一致する章句を両条約の末尾 に条約文 として挿入す ることで一致 したのであった。

D。

交渉が大詰めを迎えているこの間に既に条約の最終的な締結が準備 されていた。 10月 半ば以降、帝国 議長 に寄託 されていた IPO原 本 は、改めて、そ して恐 らく数度 にわたって、両使節書記の臨席の下で 照合 され、その際、欠陥があったり校正が加え られた全紙 (B6gen)は 交換 された②。 1648年 10月 24日 の直前に IPO原 本 2部 は最終的に署名の準備が整い、ある製本業者 によって製本 され、多彩な色の紐 を織 り込んで、ついに封が施 されて、再 び帝国議長 に寄託 されたのだった 0)。 IPM原 本の清書 は、 フ ランスと皇帝の書記局の監督下で同様に準備中であった

(り

。帝国等族の批准書のための書式及び皇帝、

フランス、スウェーデンのそれ らの もやっと最終的に確定 された。帝国等族 〔 使節〕 は、 フランスの批 准書が ラテン語ではな くフランス語で作成 されると聞いた時に、彼 らの多数 は不信感を示 したが、 これ については何の障害 もな く準備が進め られた。そこまでいけば署名のための準備 は全て整 っていた。条 約それ自体が抗議や異議申 し立てに対 してあ らか じめ備えていたのだった

(り

原註

(1)以 後 Instrumentum Pacis Monasteriensis(IPM)と して表記。

(2)以 後 Instrumentum Pacis Osnabrugensis(IPO)と して表記。

(3)こ れ

│ら

が両条約の一方 と明白に関係付けられている場合、 ここでそれ らを IPM及 び IPOの 「副 次文書」 (Nebenurkunde)と 呼 び、 そ うで ない場合 は、 それ らを「 補記録」 (ergttzende

Dokumente)と 呼ぶ こととする。 「 副次文書」 という用語 は ι んθ tt Lttα ″な Die Lehre von den v61kerrechtlichen Vertragsurkunden. Stuttgart, Berlin, Leipzig 1924, S. 220‑232か ら 借用 した ものであるが、ただ しそこでは次のような意味で用い られている。つまり、その拘束力 が全ての条約当事者 によって承認されていないというような文書 もそれに数え られているのであ る。 これか ら以下 に言及 はされるが活字化されていないそれ以外の両条約の副次文書 は、 APW

IH B 2即 ち IPMと IPOの 交渉文書のところで刊行 されるであろう。

(4)1648年 10月 24日 に至 るまでの交渉過程 の詳細 な描写 は、 Djcλ

ttα

れ耽 Frjれ Der Westttische Frieden.  〕 √ inster 1959。  7. Auflage hrsg. von Konrad Kepgeno Minster 1998, S. 470‑493;

RItpp″ ち κα rSι θ L Die kaiserliche Politik auf dem Westfalische FriedenskOngre3(1643‑

1648)。

(Schriftenreihe der Vereinigung zur Erforschung der Neueren Geschichte 10)

Mmster 1979, S.330‑358。 次 い で 、  RttL Kο ん記こ  Die Westttischen

(8)

Friedensverhandlungeno Cberblick und Hauptprobleme. In: BuSmann, Klaus/SChilling, Heinz(Hrsg。 ):1648‑Krieg und Frieden in Europa.Textband l:Politik,Religion,Recht und Gesellschaft. Mmchen 1998(Zjι

.′

Repgen, Friedensverhandlungen).さ らに、   署名 か

ら 1649年 2月 の批准書 の交換 に至 る時期 に関 しては、以下を参照。 Oscん 脇αん LA■ た Der Niirnberger Exekutionstag 1649‑1650. Das Ende des Drei3ittahrigen Krieges in

Deutschland。 (Schriftenreihe der Vereinigung zur Erforschung der Neueren Geschichte 17)Minster 1991,S.85‑94,101¨ 166.AP7 11 C 4 bettbeitet von Kohl,Wilhelm,Mttster 1994,S.XXI― LIV。

(5)ヴ ェス トファー レンで公刊 されなか ったその協定 は 2部 作成され、 1部 ずつスウェーデ ン側及び 皇帝側の使節書記 によって署名 された (vgl.,ス P7J」 AaS.522Z.15‑18;AP7 JI C a S.

264Z.1‑6.)。 これ ら両文書 はもはや伝え られていない。皇帝及びスウェーデ ンの公文書 にお ける謄本については、 〔 皇帝側〕ス P7frA a S.524Z。 2‑5;〔 スウェーデ ン側〕 AP7 fr C a

S.264Z.26‑27,Textt Sυ θ rgas  ι rα λι αι θ r屁 ″ ″ 脇れαれαθ  ttcgι ο r力 脇ι θ  αんル℃ α 乃 めκんαθ んαれα

Jjれ

ga几 じ こ Dθ ι θ tt I.Л ttJ/trゴ 多」 6イ ∂.Hrsgo von Carl H」 lendorffo Stockholm 1915

(Zjι .rsT 6.1),hier,s.152‑159〔 参照〕。 IPOの 締結を越えたところで皇帝を義務付 け、独 自 の証書を もって皇帝 に承認 された秘密条項が、 その協定 に含まれている。 Tettte:MPW fJI B

Bα 。 」 /1]Nr.n25 und 21.

(6)こ の皇帝―ブランデ ンブルク間協定の文書 はもはや伝え られていない。皇帝の公文書 における謄 本 について は AP力 frA a S.552Z.34‑39;Tex憤 ″りθ rれ ,」 oん αんれ Gο ι t/rjθ α   υοん ,Acta

Pacis Westphalicae publica oder Westphaische Friedens― Handlungen und Geschichte.

Erster Theil  ―  Sechster Theil. Hannover:  」ohann Christoph Ludolph Schulte, Johann Adolph Gercken 1734‑1736. N]D Osnabnck 1969, hier, Thei1 4, S. 328f.

(7)こ の目的に関 して、スウェーデ ン側並びに皇帝側及びフランス側か ら書面が作成 され (し か しそ れ らは完全に一致 しているわけではない

)、

仲介使節キージ (Chigi)と コンタリニ (Contttini) に手渡 された。 スウェーデ ンの使節書記 によって署名 され、 1647年 8月 1日 /11日 の日付が打た れている証書 1部 はコンタ リニが保持 した (ス ウェーデ ン公文書 にお ける謄本 について は、

AP7 JI C a S.536Z.14‑15;Text:Sr a」 ,s.164‑167)。 〔ミュンスター及びオスナブリュッ クの〕 2つ の皇帝使節書記室 (Kattlei)で 作成 され、 その都度書記のガイ ヒ (Geych)と ガイ ル (Gail)に よつて署名された、 1647年 8月 22日 と恐 らく 26日 付の文書 は、互いに本文が異なり、

キージとコンタリニ乃至 コンタ リニのためにのみ指定 されていた (皇 帝の公文書における謄本に ついては、近刊予定の AP7″ C Nr.202 Beilagen B und C,〔 上記史料の本文の〕相違 について もそれを参照。その起草 に関 しては、ο bο れαc Nron.205,208,209)。 最後 に、 フラン ス使節書記 によつて署名 された草案。 これ らの証書 に関 して、バイエル ン選帝侯マクシミリアン によ って認証 が与 え られた謄本 が作 られた (Bの ″お cん FLItpι

ααι

rcん

(Zjι

.′

BHStA

M伽 lchen),Kurbayern Urkunden 1603… 1610)。

(8)1647年 11月 11日 及 び 11月 14日 に使節書記 によって署名 された合意 は 8ヶ 条か ら成 る。第 1〜 2条

は皇帝 ―フランス間 〔 予備条約〕文書 における賠償条項である (IPM第 70条 か ら第 91条 、 ただ

し第 87条 に当たるシュ トラスブル クに関わる補足条項 はまだなか った。註 424を 参照 〔 本稿未収

録〕

)。

第 3項 は、 フランス王国による大公 フェルディナ ン ト ・ カールに対する支払い義務 に関す

る リーブル・ トゥールの ライ ヒスターラーヘの換算率 に関する皇帝の声明で、 IPM第 88条 に相

(9)

応 (本 書 [APW HI B Bd.1/1]Nr.12を 参照

)。

皇帝 によるエルザス方伯の称号の使用 に関す るフランスの声明 (本 書 [APW  I B Bd。 1/1]Nr.11を 参照

)。

5〜 6項 は、皇帝 ―フラン

ス文書における、皇帝・ 帝国によるピネローロの譲渡、エルザスの割譲及びメッツ・ トゥール・

ヴェルダン司教領の割譲証書 (IPM第 70、 72、 73条

)。

第 7〜 8項 は、皇帝 ―フラシス文書にお けるオース トリア大公 によるエルザスに関する割譲証書。 これ ら8つ の文書 は、 ロー トリンゲ ン に関す る協約権 (Konkordatsrecht)が あ るために拒否 していたキ ー ジで はな く   α 等撃れ Salvo iure Sanctae Sedis? E)ie Zessionsbestilnmungen des Westfi狙 ischen FriedenS f世 A/1etz,Toul und Verdun als Konkordatsrechtsproblem.(」 笏ι .f Repgen,Salvo iure。 )」 Lf Fides et lus. Festschrift ftt Georg May zun1 65. Geburtstag hrsgo von Winfried

Aymanns u.ao Regensburg 1991, S.527‑558.π α″   υθ だ現たんι Jjcん ι  jれ : Repgen, DreiSittahriger Krieg und Westfalischer Friede.Studien und Quellen.Hrsgo von Franz Bosbach  und  Christoph  Karnpmann。  (Rechts―   und  St〔 遊 LtSWiSsenschaftliche Veroffentlichungen der Gorres― Gesellschぽ to Neue Folge 81)PaderbOrn,NIttnchen,Wien, anch 1998(Zι .:Repgen,DK und WF。 ),S.562… 596)、 コンタ リニに預けられたが、現存 し ていない。第 1〜

2、

5〜

6、

7〜 8条 の中で言及 されているヴェネティア大使館付書記によっ て認証 を与 え られ た皇 帝使 節 作 成 文書 の謄 本 は、 Arcん α M税 お総″ α A//ajr 島 rα η だ s(zι .f AE Paris),Trdt6s multilat6rauxの 中に残現存 していることが確認 され、

同様 に認証を与え られた第 4項 の中で言及された本文の謄本が、∂

θ rrajcん お cん &ααι sα

rcん

.

助 膨 s―  Io/―   れご   税 ;α αι sα κん  (Zjι .: HHStA Wien), Geheim Osterreichische

Staatsregistr〔 疵 ur(Zjι .:GehStReg),Repertorium N(Zjι .r Rep.N)Ka.96 Fisz.68 unbez.

pars nr.26 unfol.に て 〔 現存が確認 され〕、第 3条 の中で言及 された証書の抄本が HHStA

Wien,Mdnzer Erzkanzlerarch市  (Zι .:MEA),Friedensakten(Zjι .f FrA)Fasz.54a fol.

136.に て確認 され る。 〔 協定〕文書成立 に関す る詳細 は、刊行予定 の 〃 7 frf B 2/7並 びに

■ P″ ff■ 6及 び II B6を 参照。賠償条項の本文 については、Sr a」,s.242‐ 249〔 参照〕。そ れはサルヴィウスによって 1648年 8月 14日 (24日 )に 謄本の形で送付 され、 フランス公使付書記 によって署名 された文書に依拠 しているが、原文注解のマークが付された 2つ の章句 は、 1647年 11月 時点で合意 された草案には含 まれていなか った。

(9)そ れ らが全て現存 していることはまれである。

(10)1648年 3月 8日 (18日 )に 皇帝使節 クラーネ、スウェーデ ン使節サルヴィウス、 ライガースペル ガー、 トゥームプシル ン並びにスウェーデ ンと皇帝の使節書記たちによって署名された 2部 の文 書。″買 S フ 万θ L MEA FrA Fttz.30 Konv.2 unfol.

(11)1648年 3月 8日 (18日 )に ライガースペルガーと トゥームプシル ンによって署名された 1部 の文 書。 Ebθ れごα。

(12)1648年 3月 9日 (19日 )に ライガースペルガーと トゥームプシル ンによって署名された 2部 の文 書。 Ebθ πα c  θ

jれ

θ″θ θ

jん

:Btts″ lMれ cん θ L Kasten schwarz 7316(Mappe Westfalischer Friede)fol.2‑4・

.

(13)1648年 3月 9日 (19日 )に ライガースペルガーと トゥームプシル ンによって署名 された 1部 の文 書。月貿 S 西 L MEA FrA Fasz.30 Konv.2 unfol.

(14)1648年 3月 8日 (18日 )に ライガースペルガーと トゥームプシル ンによって署名 された 1部 の文

書。 Ebθ んαα

.

(10)

(15)1648年 2月 22日 (3月 3日 )付 の、 クラーネ、 サルヴィウス、 ライガースペルガー と トゥームプ シル ンによ って署名 され た 1部 の文書。 Ebθ れαα。実際 は恐 らく1648年 3月 7日 に初 めて署名 さ れた 0々 jarれ aS.499)。 これ らの証書 に関 して は 4部 の文書が作成 されていた と伝 え られて いる。

(16) Text:Sr aゴ ,s.173‑193.

(17)  ル物 rん aS.724f,731;Text:Sr aゴ ′ s.232f.

(18)IPO第 1条 か ら第 3条 、第 4条 第 1項 、同第 20項 か ら第 50項 、同第 56項 か ら第 57項 。 1648年 4

月 21日 (11日 )に ライガースペルガーと トゥームプ シル ンによって署名 された 1部 の文書。

郎 ″ L MEA FrA Fttz.30 Konv.2 unfol。 当時は 4部 の文書が作成 された。つまり、

皇帝使節及びスウェーデ ン使節のためと、帝国議長 とプロテスタン ト等族のためであった (vgl.

den Hinweis Volmtts in AP7 JII C a S.lo50 Z。 23‑29)。

(19)1648年 4月 8日 (3月 29日 )に ライガースペルガーと トゥームプシル ンは IPO第 1条 か ら第 11

条 (Textt Sr aI,s.209ffDと IPO第 15条 第 12項 (eine Ausf.:」 薔お 71iθ れ ,MEA FrA

Fasz.30 Konv.2 unfol。 )に 署名 した。 1648年 4月 24日 (14日 )に 、ヘッセン・ カ ッセルとヘ ッ セ ン・ ダルムシュタッ トとの家門対立 は、家協定 (Textt Sr a」 ,s.213‑224)の 中で、従 って ヴェス トファー レン講和会議の外で規定 された。 この協定に関 して、 ミュンスターの帝国議長 に 文書が一部送付 された (vgl.seinen letzten Abschnittt Sr aI,S.224)が 、その文書 は今 な お所在が確認 されていない。同協定 は参照規定 (IPO第 15条 第 13項 )を 通 じて講和条約 に取 り 込 まれた。

(20)ス ウェーデ ン軍 への補償金額 が決定 したの は 1648年 6月 3日 (13日 )の ことで あ る (Tex憤 滋 j″ ん as.890f)。 支払 い方法に関す る合意 (IPO第 16条 第 8項 か ら第 12項 )は 7月 19日 (29 日 )に 帝国議長代行 (Reichsdiktatur)に よってなされた (Tex七 』 々 tt a S.lo5t dttu AP7 JI C 4 S.613Z.25ff)。 その後間 もな く、ヘ ッセ ン軍への補償に関わっていた等族の こ

とを考えて、彼 らのスウェーデ ン軍への分担金を減 じ、それに応 じて他の等族の分担金を高める ことが決定 された。 この決定 は、 1648年 8月 5日 のことであり、文書に書 き留め られ、帝国議会 の 3つ の部会 のそれぞれ 1名 の代理人 によって署名 された (Ausf.:″ 1疏 θ ,MEA FrA

Fasz.30 Konv.3 unfol.;Tex憤 ル影 rれ aS.173)。 それは講和条約 と同様の効力を持つ もの とされた。

(21)そ の交渉に関 しては、″り

erれ

as.lo2‑119;AP7 rJI c a S.1116‐ 1127.

(22)条 約の執行に関する和解 〔 文書〕 (IPO第 16条 第 1項 か ら第 20項 )は 、 1648年 7月 17日 (27日 )

及び 18日 (28日 )に 帝国議長代行 に預 けられた (Tex悦 ル物 tt C S Iθ 6‑ゴ θ の。

(23)い わゆる条約の保証 (IPO第 17条 )一 これは同様に 1648年 7月 17日 (27日 )及 18日 (28日

)

に帝国議長代行 に預 けられた (Textt  Д々 rれ aS.lo9ff)・ ――に関する和解の中で、帝国等族 の署名 はこの時に (最 後の段階で )一 括的に扱 うとだけ話題に上 った。方法は 8月 初頭にや っと 帝国諸部会で討議 された。当時は 〔 帝国等族使節の中か ら〕選任 された代表団の構成員が 〔 帝国 の〕代理 として署名 し、彼 らの主君 (Obrigkeiten)に 講和締結の批准を求めるとい うことで一 致 し、後者 〔 批准書の要請〕 はその他の使節 には免除された 0々 rん aS.121,12&1648年 7

25日 (8月 4日 )の オ ス ナ ブ リュ ック に お け る諸 侯 部 会 (Fiirstenrat)の 会 議 、

rん ″ rjれ gお θ ん Sι ααι sα κん  AJι θ ん

b

rg(Zjι .:ThStA Altenburg),Altes Hausarch市 I E 27

fol.5‑lr;1648年 7月 25日 (8月 4日 )の 都市部会 (Stdter就 )の 会議、 AP7二 百 五 a Nr.

(11)

169)6

(24)保 証条項 (IPO第 17条 第 10項 第 11項 )は 条約当事者の同盟者を挙げていた。皇帝使節 は、皇帝 陣営にスペイン王 (rex Catholicus)が 記載 されることを達成 し、スウェーデンがその支持者に ポル トガル王を挙げることを妨げようと試みた。彼 らはこれを実現することが出来なか ったので、

権利の留保で間に合わせた。註 27参 照。

(25)ス ウェーデ ンの批准に関 して、女王 と並んでスウェーデ ン王国参事たちの署名 も求めることが、

す時的に検討 された 0々 tt a S.271l AP7 frr c a s.1129Z。 15‑19)。

(26)こ の会議等に関する記録 は、アルテ ンブルク使節の日記 0々 j″ ん aS.124‑128)、 フォルマー の日記 υIP″ ″ CaS.1127Z.37‑S.1129Z.21)、 皇帝使節書記の議事録 α囲殷敷 脱 θ 力

,

RK FrA Fasz。 92 XVI fol.172‑176)、 1648年 8月 6日 の皇帝使節の報告書 (Konzeptt θ んαα fol.180‑182)、 1648年 7月 31日 (8月 10日 )の スウェーデ ン使節の報告書 (Textt AP7 JI Cイ Nr.324;Sr aゴ ,s.317‑321)、 並びに 口Ъθ αι r 協 Earopα θ醜].劉物αι rj E ropα θ

j〔

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れα  Jθ ttι θ r ttθ jJ[...][ゴ 7‑」 65ゴ ].Bθ α rb.υ o屁 Joん αれん &org Scん Ja″ θ ras.Frcれ り %rι   α脇 ル盈ι

jれ

f」 Иしι ι んαθ じ

s」

惚 brjα れ」 Erbο んゴ 652(Zjι of TE),hier a S.561f,573f;」 Мセ rれ as.119ff.

席次の図面 は、ν bjerれ a nach 120,und Sr aI,s.322(vgl。 ,AP7 JI C 4 S.629Z.19‑

20)、

諸ザクセ ン諸侯領 アイゼナ ッハ・ ゴータ・ ヴァィマール・ ヘーヘルのための使節の文書の 中 の意 匠 を凝 ら した挿 絵 (2肪 rj死 お cん ααι sα

rcん

 Goι んα (Zjι .f ThStA Gotha), Geheimes Archiv Gotha A IIX Nr.12 fol.334L335)。

(27)ポ ル トガル王の記名に関 しては、註 26で 引用 した諸報告書 によれば、 〔この時の〕会議それ自体 では話題 とされていない。皇帝使節 は 1648年 8月 15日 にそれに関す る通知書 (Kopiα 郎 π ん′ RK FrA Fasz.55b1648 1X fol.26)を 帝国議長のマイ ンツ選帝侯に提出 したが、 しか しこの時点ではまだ、スウェーデ ン使節がそれに応 じようとしていなか ったことが分かっている。

彼 らが在 ミュ ンス ター皇帝使節 に宛 てた 1648年 8月 10日 の書簡 を参照せ よ (Ausf.:J″器 И tt RK FrA Fasz.92 XVI fol.186‑186,187)。 マイ ンツ選帝侯のハイル (Heil)帝 国印刷 所 の 半 公 式 版 は、 条 約 原 文 に挿 入 した形 で 、   この ポ ル トガ ル に 関 す る皇 帝 通 知 書 (Protokollnotiz)を 含めている。詳細 は近刊予定の ス P7″ B1/2〔 参照〕 。

(28)そ の合意の有効性が限定的であったことについては、 7ogaみ W″ ι θ tt Der Anteil der beiden Kongre3stttte(Э snabnck und Minster an dem Abschlu3 des Westf:lischen Friedens. In:

Mitteilungen des Vereins ftt Geschichte ind Landeskunde von OsnabJick 63(1948),S.

12‑21.

(29)そ ういうわけで彼 ら 〔 スウェーデン使節〕 は皇帝使節たちに対 してそれに応 じた留保声明書を手 渡 した (Textt Sr aF,s.323)。 文書手渡 しについては、力を j″ れ aS.128。 さらに彼 らはヘ ッ セ ン軍への補償を有利に導 くために、帝国等族の決定を引き止めていた (Textt Sr aI,S:322;

文書引渡 しについては、AP7 fI C 4 S.627Z.32‑34)。 マイ ンツ選帝侯のハイル帝国印刷所の 半公式版 は、両声明書を付録の中に含んでいる。詳細 は近刊予定の AP7″ B1/2〔 参照〕 。 (30)1648年 8月 3日 の皇帝使節の報告書 G圏 徴И  ttθ んRK FrA Fasz。 92 XVI fol.115‐ 118,119‑

119)、 並びに同日サルヴィウスが女王に宛てた書簡 uF7 1Cィ Nr.321)を 参照。

(31)1648年 8月 6日 に読み上 げられた IPOの 本文 は、カセ j″ れ aS:128‑172.皇 帝使節 は同 日謄本を 送 っていた (HZ続 ス Ztt RK FrA Fasz.55b1648 VⅡ I fol.16‑66)。

(32)1648年 8月 7日 に定め られた 3部 の批准書の本文 は、勤りθ tt a S.121‑124.皇 帝使節 はそれ ら

(12)

をす ぐに同様 に皇帝 の宮廷 へ送 った (Kopien:」 田β π jο tt RK FrA Fttz。 55b1648 VIII

fol. 67‑71')。

(33)1648年 8月 12日 付 けの ライ プ ツ ィ ヒで 出版 され た週 刊 新 聞 の記 事 を参 照 (Sι ααι s― じんα

Uttjυ

̀rsjι

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 B″ 脇θ 2/Dθ じι

SCん

θ  Pr sa/orSCん じれ g(Zι .r DPF Bremen), Z 59

1648/140S.1‑2)、 また、サルヴィウスがユルデ ンクロウ (Gyldenklou)に 宛てた 1648年 7月 24 日 (8月 3日 )の 書簡 uF7 11 cィ Nr.320)も 参照。

(34)1648年 7月 31日 (8月 10日 )の サルヴィウスか ら女王へ宛てた書簡 P7fr cィ N,.325,hier S.630)、 1648年 7月 31日 (8月 10日 )の スウェーデ ン使節 による女王宛の報告書 P7Jr cィ

Nr.324,hier 629 Z.3‑9)、 1648年 8月 7日 (17日 )の サルヴィウスか ら女王へ宛てた書簡、

j″ ん as.311も 参照。 この措置については新聞記事で も伝え られていた (DPF 37 Z9

1648/34‑II S.3‑4)。

(35)サ ルヴィウスか ら女王へ宛てた 1648年 8月 14日 (24日 )及 21日 (31日 )の 書簡、ユルデ ンクロ ウに宛てた 1648年 8月 14日 (24日 )の 書簡、ユーハ ン・ ウクセ ンシェーナに宛てた 1648年 8月 18 日 (28日 )の 書簡を参照 (■ P7ff  σ イ Nr.n338,339341,346)。

(36)と りわけセルヴィヤ ンの IPOに 関す る 2つ の声明、即ち 1648年 8月 12日 (2日 )の 陳述並びに 1648年 8月 26日 (16日 )の 陳述 ο 『ル物 tt a S.296‑299,341f)、 及 び前者の書面 に関す る帝国考慮、即ち 1648年 8月 17日 (7日 )の 陳述 aι f ttjθ rれ aS.318‑321)を 参照。中で

もセル ヴ ィヤ ンは、 IPOで 用 い られて い る皇 帝 の称 号 「 常 に ア ウ グス トゥス」 (semper augustus)及 び「 エルザス方伯」 (landgravius Alsati鵠 )の 削除を要求 したが、 しか し第一の 点では最終的に譲歩 した 0々 rれ cS.358‑361)。

(37)Vgl.,R協 ppο rち S.347f.

(38)後 IPM第 3条 。帝国等族 は 9月 9日 、 この規定に同意 した 0々

jarん

cs.355f)。

(39)Textt  И P7‐ B Bα .1/1]Nr.6.

(40)1648年 9月 29日 (19日 )の 覚書を もって。Textt  И P7 ffI B Bα 。 ル倒 Nr.7.

(41)Textt EAP7 111 B Bα /1]Nr.7.

(42)Tex七 [AP7‐ B Bα .′ ]Nr.16.

(43)IPOに ついては、 1648年 8月 11日 (21日 )の サル ヴィウスか らウクセ ンシェーナに宛てた書簡 (AP7 fr cイ Nr.335,hier 645 Z.6‑9)、 1648年 8月 14日 (24日 )の サルヴィウスか ら女王 に 宛てた書簡 (APW fr Cイ Nr.338)、 加えて 1648年 8月 27日 の皇帝使節がオスナブ リュックか ら皇帝に宛てた書簡 (Ausf.:」 肇β 71i%RK FrA Fasz.55b1648 VIH fol.155‑157,164) 参照。 IPM及 び帝国等族のイニ シアティヴー般 については、厳 ん as.356‑365並 びに 1648

9月 2日 (12日 )の オスナブ リュック諸侯部会の会議 (劉 し S AJι θ んわし rgP Altes Httsarchiv I E 27 fol.16イ ー 187)を 参照。

(44)校 正を終えた文書の 1部 をオスナブ リュックの皇帝使節 は 1648年 8月 31日 に皇帝の宮廷に送付 し た (Ausfo ihrer Relttion:月 圏 S π L RK FrA Fasz.55b1648 VⅡ I fol.168‑17r,174‐

176,179)。 IPOの この原典は同報告書のそばにはもう置かれていない。

(45)1648年 9月 14日 のオスナブリュック皇帝使節か ら皇帝への書簡 鰯 π L RK FrA Fasz.

55b1648 VIII fol.59‑61',82‑82')、 同 1648年 9月 17日

(abθ

んご%fol.85‑89,90)、   ランベルク

の日記記事 OLP7 JII C 4 S.192Z.2‑5)、 加えて 飛物 tt a S.365,371ff並 びにスウェー

デ ン使節 によって ス トックホル ムに送 られた帝 国等族 の報告書 (Kopic Rjた sarλ ο ι

(Zjι.′

(13)

RA)Sι

ocた

んο Jtt Diplomatica Germanica(Zι

.「

DG)13 fol.903‑903)参 照。寄託 された条 約文書 は両使節書記によっても押印されたというマイエル ンの指摘 0々 tt a S.365)は 、皇 帝使節の報告 と矛盾す る。

(46)上 述の諸報告書 によれば、 この時の行為で IPO文 書が 2部 帝国議長 に寄託 された。その後の、

恐 らく帝国等族側によって書かれた 1648年 10月 8日 (9月 29日 )に 関する交渉報告書 においては 3部 の寄託文書について語 られているが、サルヴィウスはそれ らを検印が済んだ後、マイ ンツ選 帝侯の官房長か ら彼 に手渡 された封か ら取 り出 したとされている (Kopiα  JИ  sι ο θ たん oJ協 ,DG

13 fol.1002‑100ど ,hier 1004;vgl.AP7 JIC 4 S.777Z.37f)。        .

(47)Kopiα 囲 滅 π L RK FrA Fasz.92 XVI fol.377.1648年 9月 16日 の会議では、その上 IPO第 15条 第 13項 に「本講和会議 に提議 されたことによって」 (conventuique huic insinutte)

という語句が付け加え られ、いまや ―― その前 に若干論争が行われた後で 一― 皇帝使節に受 け入 れ られた。

(48)そ れ らにつ いてはス ウェーデ ン使節 によ って編纂 された リス ト (Kopie:郎 π れ RK

FrA Fasz.55b1648 1X fol.93;ス PW frC 4 S.714f,サ ルヴィウスが ウクセ ンシェーナに 宛てた書簡の追伸 として格付けされているのは誤 りである )参 照。それについては、ある 1点 を 中心 に輪を描 いて (恐 らく 10月 初めに実際にそうされた

)、

サルヴィウスの欄外書 き込みのため に用意 された欄 (Textt Sr aゴ ,s.331f)も 参照。

(49)ヘ ッセ ンーカ ッセルの軍隊への補償を有利 に導 くためのスウェーデ ンの留保 (Kopiα 酬 π jο L RK FrA Fasz.55b1648 1X fol.99)。 恐 らくそれ と同 じ頃、 ヘ ッセ ン側 もそれに相応 する内容の文書を発行 している (Kopic  θ bο れαα

,fol。 95)。

(50)ブ レーメ ン市 に関わる皇帝 と帝国議長の鑑定 に対す るスウェーデ ンの草案 (IPO第 10条 第 8項 )

(Kopie:月盟 S 西 れ,RK FrA Fasz.55b1648 1X fbl.97‑97')。

(51)下 プファルッにおけるカ トリックの宗教実践に有利 となるような留保 は争われたままであり、そ れは最終的に、妥協的な言 い回 しで書 き留め られたように 0々 jarn a S.378)、 フランスのそ の後の決定の上に置かれたのであった。上イタリアと関わる後の IPM第 96条 及び第 97条 は、 ま だ議論に決着を見ていなかった

bθ んαQ S.390)。

(52)1648年 9月 11日 (1日

)、

14日 (4日

)、

15日 (5日 )の 原文照合 と封印に関す る帝国等族の報告 書 0々

jarん

aS.358‑361,366‑371)、 1648年 9月 19日 のセル ヴィヤ ンの報告書 (Ausf.:』

Rπ js CP Al1 112 fol.254‑260)、 並びに 1648年 9月 18日 のバイエル ン使節の報告書 (劇 器 協 ん cん θ L Kurbayern Auseres Archiv 3070 fol.29‑39)参 照。寄託 された原文書 は、 B̀cた θ 弓

西 j2/rjθ こ Der Kurfwstenrat.Grund̀苑 ge seiner Entwicklung in der Reichsverfttsung und seine Stellung auf dem Westfalischen Friedenskongre3.(Schriftenreihe der Vereinigung zur Erforschung der Neueren Geschichte 5)Mmster 1973,S.320で 推定 されているよ う に、マイ ンツ選帝侯 によって連署 されていない。

(53) 1648年 9月 22日 (12日 )(Text:ル 物 rれ aS.373‑394)。

(54)フ ォルマーの日記 (■ P7‐ CaS,1137Z.35‑S.1139Z。

22)、

1648年 9月 17日 (27日 )

のサルヴィウスの指摘 OFW fr cィ Nr.370,hier S.697Z.32‑35)、 並びに π aS.580t

rん aS.545f。

(55)Vgl.Dicλ

ttα

ん LS.488f;REtppο rち S.350‑354.

(56)Vgl.Djcλ

ttα

れ LS.489t Unterlagen in 4P7 frr c 2β ,209R und 21lR.こ の皇帝指令文

(14)

書 につ いて は、 トラウ トマ ンス ドル フの秘書 Wilhelm Schr6der(1679年 死亡、 IJgJ.Grbss

Lο ι んαtt Die Geschichte der deutschen Reichshofkanzlei von 1559 bis 1806.(Inventare Osterreichischer sttttlicher Archiveo V. Inventare des Wiener Haus― , Hof― , und Staatsttchivs l)Wien 1933,S.391ff,493)が 責任 を負 ってお り、 彼 はこの時帝国書記局 (Reichskanzlei)の ドイツ査察団の秘書 として活動 していた。彼 はうっか りして トラウ トマ ンス ドル フに通用す る暗号を使用 して しまった。彼が皇帝 に当てた弁明書 を参照 m 西 L

RK FrA Fttz.56d1648X7‑15 fol.74‑75)。

(57)4P″ III C a S.1144Z.28‑31.

(58)皇 帝使節 は皇帝の同意をまず始 めに選帝侯使節 に (10月 5日

)、

翌 日 (10月 6日 )全 ての帝国等

族使節 に伝えた OP7 rfr C a s。 1146Z.7‑10;APW‐ C4S.194Z.13‑25)。 その会議 それ自体 については、Maθ tt a s.570‑574.

(59)後 IPM第 78条 参照。その中では帝国の割譲宣言 に関 してのみ、確かな期 日が言及 されている。

その交渉については、 vgll  π  a S.589ft』 j″ CS.575f,584ft Dj硫 脇αんん ,S.490.

(60)註 8参 照。

(61)Textt MP7 Jff B Bι ″鯛 Nr.8。 その文書 は 1648年 10月 24日 にセルヴィヤ ンに手渡 された。

(62)Vgl.4P7JJI C a S l153 Z.21‑S.1154Z。 17.

(63)Vglo Magrん as.576,57驚 И PW rfr c a S.1143Z。 2f。 後の第 79条 に記述 された ピネロー ロの割譲の範囲 も、後の第 93条 の最終的な約款 (サ ヴォワに関する表現「保持 される」のように ut dictus Sabaudiae― manutenettur)も 問題 となっていた。後者 は交渉人記録の現存す る 2 部の文書 によって証明されているように、会議末期 に始めて条約 に挿入 された。

(64)そ ういうわけでサヴォワ使節は署名の日に抗議 していた (s.AP7 ffr C 1/1,s.413)。 その上 1649年 2月 に彼 〔 サヴォワ使節〕は、第 79条 で記述されたピネローロの割譲は、都市 とそれ以前 の諸条約で規定された都市周辺地域 (pertinenti震 〔 従物〕 )に のみ関係すると、確認させよう とした。皇帝使節は 1649年 3月 26日 にそのような鑑定書 (Kopic副 И ο L RK FrA Fasz。

92 XIX nr.2486b)を 与えたが (AP7″ Cas.1246Z.1lf)、 セルヴィヤンはそれを拒否 している (セ ルヴィヤンがブリエンヌに宛てた 1649年 3月 2日 の 書簡 Ausf.:BjbJjoι ル

g

θ  αθ

J■ ssθ ttb″ θれαι jο れα Jθ (Zjι .r AssNtt Paris)279 fol.321‑323,hier 321‑321kフ ランスの鑑 定書に対するサヴォワの草案は、ス E Parjs CP All 125 fol.326‑326.)。 それと関連 した留保 がサヴォアの批准書へ挿入された (Text in[APW JfI B Bα .′ ]Nr.4)。

(65)Tex七 [〃7 ffI B弘 ′ ]N■ 27.

(66)IPO第 16条 第 9項 。

(67)問 題 は4つ の文書に関わっていた。即ち、 1)ピ ルモント領の利益を図ったヴァルデックの諸伯 のための鑑定書、 1648年 10月 8日 付 け (Textt Lれ な JOん α屁ん Cん rお ι

L Das Teutsche Reichs=Archiv[...].Band I― XXⅣ .Leipzig:Friedrich L田 ■ ckisch Erben 1710‑1722.(5:Ii 15)(Zjι .:Liinig,TRA),X1/1,S.388tル 物 rん CS.610角 Kopie:RA Stocλ ん oJ脇 ,DG 13

fol.1093‑10930,d就 。 1648X18/28)、 2)ヴ ァイセンブルク、 シュパイヤー、オスナブリュッ クのための特例規定 (extracutus protocolli)と い ‐

う形をとった鑑定書、 1648年 10月 8日 付け (Text:″ bjο rん aS.611;Kopie:RA Sめ cた んο J脇 ,DG 13 fol.1094‑1094')、 3)ブ レーメン市 の法的地位に関わる鑑定書、 1648年 10月 15日 付け (Ausf.:M Sι

ocた

ん oJ残 o五 ginaltrakttter

Tyskland I.Tyska riket N6.8F)、 1648年 10月 21日 付 けのケ レライ・ マルシュ (Kellerei

(15)

Malsch)の 利益を図 った両バーデ ン家のための特例規定 の形を とった鑑定書、 (Tex仕 ]々 rれ

aS.610;Kopie:ん 4&ocた んο

J脇

,DG 13 fol.1095)。 これ ら4つ の鑑定書 はスウェーデ ン使 節 に 1648年 10月 25日 に手渡 された 0々 tt a S.623)。

(68)Vgl.ル 化 rれ aS.616ff.

(69)1648年 10月 13日 (3日 )の 帝国決議、後に招かれることになったザクセン選帝侯使節 ロイバーは、

そ こにはまだ名前を挙げ られていない。 Tex悦 [AP7 JII B Bこ 1/1]Nr.26。 国制法上の背景 については、 Djθ λ ttα んん ,S.490f(こ こでは 17名 ない し (ロ イバーを含めると )18名 の代わりに 15名 の代表者が言及 されているが、 それは誤解である )。 Bθ

ttθ

tt S.320f.交 渉 については、

rん aS.583f,590f,606.

(70)全 ての帝国等族 の全権委任状が現存 しているわけで はない。 〔それ らの うちの〕大部分 は今 日 邸 νl π れ ,MEA FrA Fasz.6 Konv.32に 存在 している。 それ以外 には、鵬 Wjο L

MEA CorrA Fasz。 9 unfol.及 び そ の他 若 干 につ い て は、 同 L硯 殷敷 И θ ]MEA,

Correspondenzakten(Zι .f CorrA)Fttz.7b Konv.4に 存在 している。 2つ の全権委任状 は 史料集 G 慟ス И θ れ,Allgemeine Urkundenreihe(Zjι .f AUR))に 収録 されている。

(71)IPM第 120条 及び IPO第 17条 第 12項 。

(72)帝 国議長代行に寄託 された 2部 (な い し3部 、註 46を 見 よ )の IPO原 本 は諸交渉中に使用 され、

実効性を持たされた (aktualisiert)(vgl.4P7111 C a S.1147Z.27f)。 そういうわけでそ れ らはますます修正や削除や下線が加え られていた。それにもかかわ らず俄かに署名の儀式にこ れ らの文書を 〔 そのまま〕使用することが考え られた (1648年 10月 9日 の皇帝使節の報告書を参 照、 Konzept:EE税 ス W%L RK FrA Fasz.92 XVI fol.5501555t,556)。   このことはサルヴィ

ウスの抗議で失敗 に終わった (1648年 9月 29日 (10月 9日 )及 10月 1日 (11日 )の 〔 宰相〕 ウ クセ ンシェーナ及 び女王 に宛てた彼の書簡参照、 AP7 1 Cイ Nr.n382,384)。 10月 半ば以降 文書 は何度 も校正を加え られたが (s.AP7 JII C 4 S.196Z.29‑3Q AP7 ffσ  4 S.734Z。

12‑14)、 新聞です らそのことを報 じていた CDPF助 協θ Z91648/42 App.S.4 und 1648/43 Appi s.2‑3)。

(73)1648年 10月 24日 の ランベルクの クル ツ (Kurz)へ の報告書 にそのよ うにある (eigho Ausf.:

囲 π tt RK FrA Fasz.Konv.C fol.36‑3σ

)。

この時点で、皇帝側の IPO原 本 に書名 欄の第 1頁 として トラウ トマンス ドルフの署名が施 された全紙が挿入 されたが、それについて後 にランベルクが報告 し 0[P7ffr C 4 s.248Z。 17‑21)、 署名式典の際に帝国等族の側か ら認 められた 0々 rん aS.621)。 ところでコンタリニは、 トラウ トマンス ドルフの 〔ミュンスター か らヴィーンヘ戻 る〕出立後間 もないうちに既に、   トラウ トマ ンス ドルフは講和条約を締結 した という栄誉 に関与 したためこれ 〔 自分の署名を残 した全紙〕を後 に残 してい くのだ、 と講和会議 で口にしていたと、統領 (シ ニ ョーレ )に 報告 していた (1647年 7月 19日 、 Pr市 晟 registerkopiα BjbJjoι θ cα ル Lrcjα れα (Zι

.「

Marcinna Venedig),It.dassis VH codex MXCVⅡ I(collazione 8148)fol. 250'‑252', hier 251)。        ̀

(74)9月 15日 に寄託 された 2部 IPM原 本のうちの一方 は、 きっとまだ帝国議長の手元 に存在 して お り、 もう一方 は 1648年 9月 21日 に皇帝使節に手渡 された。セルヴィヤ ンは彼の書記室で新版を 作成 させ、それは寄託 されていた文書 と照合 されて GИ &ocた ん oJtt DG 13 fol.1016‑1016:)、

恐 らくは帝国議長 にも寄託 されたであろう。皇帝使節 も同様 に原本を一部清書 させたが (ein

Hinweis動 物 jο tt a S.574)、 しか しそれに関 して詳細な報告 は現存 していない。 この皇帝の原

参照

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