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大井川と生きる ~水川の人々と親水空間としての大井川~ 加藤佑以子

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大井川と生きる

~水川の人々と親水空間としての大井川~

加藤佑以子 はじめに

1 川の基礎知識と日本の川の特徴 2 大井川の地誌

3 大井川と近世の人々の暮らし 3.1 大井川の交通

3.2 大井川の水害と対応政策 3.3 大井川と産業

4 大井川と開発

4.1 大井川のダム開発の歴史 4.2 ダム開発の影響

4.2.1 中川根全体への影響 4・2.2 水川への影響

4.3 水川の人々のダムへの意識 おわりに

参考文献・HP

はじめに

この論文の目的は、水川の住民にとっての大井川の存在意義、つまり「大井川は、水川 の人々にとってどんな存在だったのか」ということを明らかにする事である。昭和時代か ら現在においての大井川と人々の関係の変遷に焦点をあて、それに伴う大井川を見る目の 変化を考察する。方法としてはインタビュー、現地での文献収集と文献分析によって「大 井川の利用方法の変化」という観点から、こうした問題意識を見ていくことである。

そこで、この論文ではまず以下のように議論をすすめる。まず第1節では人間にとって の川の存在という、川の基礎知識と日本の川の特徴を、第2節では大井川の地誌の概要に ついて取り上げる。第3節では交通・水害と対応政策・大井川文化の産業という大井川独 特の特徴を挙げ、その観点から大井川と近世の人々の暮らしを見る。そして最後では大井 川と開発というテーマを挙げ、ダム開発の概要と開発に付随してくる弊害、および水川に おけるダム開発の影響について述べる。最後にこれらの内容-大井川の利用方法の変化、

つまり大井川と人々の関係の変遷を踏まえた上で、大井川を見る目の変化に注目しながら 水川の人にとっての大井川の位置づけを考察し、私なりの結論を示しておきたい。

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1 川の基礎知識と日本の川の特徴

この節の記述は主に依拠する (板橋作美『川』p553文化人類学辞典 1987、野本寛一p426『川』

日本民俗大辞典 1999、日本の川 坂口・高橋・大森 1995)

人間にとって川とはどんな存在であろうか。この節では「人にとって川とはどんな存在 だったのか」という人と川の関係、そして日本の川の特徴について述べる。

昔の人々にとって川とは人間が生きるための水だ。農耕のための水を供給し、魚その他 の食物を与え、さらに交通路にもなる存在である。人々に絶大な影響を与える存在だった からこそ、川を神聖化したり神格化することが世界に広く見られる。また川の水自体が、

神聖あるいは呪術的な力を持ち、その水によって、物理的にだけでなく宗教的にも汚れを 落とし清めることが出来るとする信仰は日本でも広く見られる。

また、川の中でも、山から海へ流れる川は、2 つの異なる世界を分断する境界であり、

同時に両者を媒介するものとも見なされる。それは川が、村や部落の境界になったり、川 上と川下の人間や物質の交流という実際上の意味だけでなく、仏教で言う三途の川の概念 など、宗教的、また象徴的な意味で、川によって世界が分けられるとする考えである。

次に川の特性とし、人間生活に恵みを与える恵与的側面と害をもたらす阻害的側面の 2 つの面に分ける事が出来る。それを表1にまとめてみる。

この人々の生活レベルから見た川の特性を記した表を見るだけでも、人間の生活の場 が自然の営みの場と重なりあっているという事が分かり、川が人々の生活に絶大な影響 を与えるのが確信できる。人々にとって川とは、自分達の力だけではコントロールの出 来ない、大きな力を持った存在だったのである。

次に日本の川の特徴について述べよう。日本の河川では、多くの河川が短い距離で屈 曲する曲線を示している。曲線の折れ曲がりは地質が変わるところや、河川が盆地と峡 谷をつらぬいて流れる場合に現れる。これは日本が変動帯に位置し、地質の変化が激し く、また局地的な沈降、隆起が活発で地形がモザイク状になっていることを反映してい るのである。日本の川という枠組みの中でも、川の特性は地域ごとに著しく異なるので、

治水や利水の方法やその技術も、川ごと地域ごとに異なるのは当然であり、それぞれの 川に最も適応した技術を行使してこそ、川との戦いに勝ち、川の恵みに沿することが出 来る。

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表 1 川の恵与的側面と阻害的側面 (『日本民俗大辞典 上・下』1999に基づいて作成)

恵与的側面 阻害的側面

水の供給 水田稲作を中心とした農業用水を川 にもとめ、配水の技術や社会慣行を生 みだした。また生活用水として川の水 を利用する地域もある。他にも布さら し、工業用水としても川の水は利用さ れてきた。

河川氾濫 台風シーズンや梅雨期の洪水・氾濫は 耕地・農作物を荒らし、民家を押し流 し、人命を奪った。各河川ではこれに 対して土目的対応と信仰的対応を重 層的に行ってきた。

流通性 川は道としての機能を持ち、舟運はも とより筏流し、バラ狩と称する木材流 送の道となった。舟運や筏流しは河川 港的なマチを誕生させ、河口部にある 海運と連結する港に力を与えた。

川の遮断性 川は両岸の間の交通・流通を遮断す る。河川を持って行政の境界とする例 は多いが、これは川の持つ遮断性をふ まえたものである。自然環境としての 川の遮断性に対して人が示した流通 の意志が渡船・架橋となった。

河川魚資源 川はサケ・マスなどの回帰・再生の場 となり、河川溯上魚を育んだ。それに 伴い、漁具・漁撈技術が生み出された。

親 水 空 間 と しての水

川を中心とした景観は、日本人の心の 豊かさを養う重要な要素であった。

2 大井川の地誌

この節は主に以下の文献に依拠している(宇多1961、野本1979、日本大百全書『大井川』) ここでは大井川の概要について見ていく。大井川は静岡県中部を南流する川である。赤 石山脈北部の間の岳に源流を持ち、駿河湾に注ぐ河川で、全長160キロメートル、流域面 1280 平方メートルである。島田市から下流には扇状地を形成するが、流域の大部分は 山間地を流れ峡谷と曲流に特色を持つ。年間の降水量も上流部は 3000ミリを超えるため 森林資源に恵まれ、水資源も豊富で戦前からダム開発が行われ、現在大井川水系の 10 所の発電所の最大出力は約60万キロワットとなっている。

大井川の誕生は赤石山脈の隆起が起こった中新世の末期に、共に誕生した。その頃の大 井川は今日の地形とは異なった幼年期の山を流れていたようであり、この時代は今現在よ りも日本列島は巨大であったにも関わらず、大井川の流程は短かったのではないかと想像 されている。それは山の隆起にしたがって速く、激しく、直線的に太平洋へ注いでいたか らである。大井川は地質時代から考えると、隣を流れる天竜川よりずっと若い川のようだ。

大井川の名前の由来はどこから来ているのであろうか。「井」という言葉については、我々 はすぐに堀り井戸を想像するが、古代の井は、湧水を使う「走り井」、流れる水をそのまま

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用いる「流れ井」が多かった。つまり水を得る処が「井処」だったのである。井は水を汲 む場所を示すとともに、水あるいは流れそのものをも意味したのである。「大」は広大さ、

偉大さを褒めたたえる接尾語であり、「大井」とは実に「偉大なる水」「偉大なる流れ」と いう意味であった。大井川は川としてわが国最大のほめことばを持って呼ばれていたので ある。

3 大井川と近世の人々の暮らし 3.1 大井川の交通

この節では、以下の文献に依拠している(宇多 1961、日本大百科全書『大井川』)。大井川の 交通、江戸時代の川越制度から大井川鉄道に至るまでの交通の変遷を述べる。大井川を渡 る東西交通は、古くから徒歩のための渡船や橋の発達は見られず、江戸初期まで「自分越 し」が原則であった。

寛永12(1635)年、参勤交代制が敷かれるようになると、300に近い数の大名小名が1

あるいは半年おきに大勢の供揃いで江戸と国元を往復するようになり、五街道8は目覚まし く発展し、賑わいを見せるようになった。五街道の中でも最も交通量が多く重要視された のは東海道で、大身の大名は西国に多かったため、参勤交代の行列も頻繁に上下した。そ して東海道を通行する参勤交代の長い道中のうちで、最も多額の費用を要したのが「大井 川の川越え」である。

江戸時代には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海道屈 指の荒れ川のほかに、関所川でもある難所であった。幕府は防衛政策上、架橋も渡船も禁 じ、大井川の川越制度は西国大名の財政負担を圧迫する政策に役立ったほか、税関のよう な役目も果たしたのである。

元禄 9 (1696)年島田代官野田三郎左衛門のときには、徒歩制度が確立し、川庄屋、川会

所が設けられた。川越しは島田、金谷宿の両岸に配された川越人足によって行われ、肩車 と蓮台越し9があった。賃金は水深によって決まり、常水1025(約75センチメートル) で、それから1尺(約30センチメートル)までの増水には馬だけを歩ませ、2(約60センチメート ル)増となれば人を止め、2尺以上増水して45(約135センチメートル)の水かさになれば 川留となった。しかし地域住民の不便は大きく、上流部のたらい船による往復は見逃され ていたといわれている。

そして川越制度が事実上廃止されたのは慶応3(1867)2月のことである。江戸幕府討伐 のために京都を出発した官軍は、軍司令官西郷隆盛に率いられて3月の初めには大井川に

8 五街道とは江戸中心の交通路であり、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5つの街道を 指す。

9 蓮台には2種類あり、欄干のついたものと平台がある。欄干付き蓮台は、駕籠をそのまま蓮台に乗せ、

駕籠の前後に出ている舁ぎ棒を、白木綿で蓮台へ厳重にくくりつけ、井の字の型にして16人で担ぐもの である。平台は2メートル位の長さの棒に1メートル四方の板を打ち付け、低い手すりが付いているとい う非常に簡単なものである。

10 河水の流量は、河中に目盛した標柱があって水深25寸(約75センチメートル)をもって常水とした。

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達し、たちまち全長1450メートル、幅4メートルの木橋を架設した。これは軍用であり、

一般の通行用には使われなかったが、地元の人々、特に川越関係の人達に与えた影響は大 きかったようである。それをきっかけに長い通船禁止時代が去り、大井川に舟が就航した

のは明治 3 (1870)年のことであった。大井川の川越えは歩行から渡船に移り、便宜は以前

と比較にもならなかった。しかし大井川流域は雨量が多く、大雨のたびに川はかなり増水 し、渡船中止の回数は少なくはなかったようである。その後民間人の要請により、大正

13(1924)年に、ようやく軍事・交通・産業の見地から、東海道の幹線道路には架橋が必要

であるという議が起こった。そして昭和3 (1928)48日に今でいう、大鉄橋が出来上 がった。

川越えから渡船、渡船から架橋まで人々の交通方法は長い年月を経て、時代の政府の政 策や流れに影響され、変遷してきた。昔は大井川を越えるため何日も停泊し、多くのお金 を使った。今では東海道新幹線のこだまが1分でいともせず大井川を越える。

3.2 大井川の水害と対応政策

この節では以下の文献に依拠する(宇多1961、野本1979)。ここでは大井川の洪水記録と水 防について見ていく。水防については大井川の土木的対応として名高い舟形屋敷について 言及し、信仰的対応についてはフィールドワーク調査を行った水川の地域の事例を述べる。

今から1200 年前ほど前の大井川の河口付近は、非常に幅の広い扇状の形をつくってい たと思われる。暴れ川として称されるだけあり堤防が所々に築かれたが、一度大きな出水 があるとたちまち決壊し、沿岸に住む人々に大きな苦しみと悲しみをもたらしていた。明 確に記されている水害の古記録は779年に始まり、明治40(1907)年で終わっている。その 間記録されている大きな洪水は 68 回程あった。大井川流域に生きていた人達は、記録に あらわれてからでも1200 年の間繰り返し襲ってくる洪水に果敢に対抗した。そして明治

47(1914) 7月の豪雨の時にも大井川は殆ど被害を受けなかったことから、明治末期から

大正初期にかけて行われた国に治水事業は大きな効果をもたらしたといえるだろう。

川の阻害的側面の中に河川氾濫という点がある。台風シーズンや梅雨期の洪水・氾濫は 耕地・農作物を荒らし、民家を押し流し、人命を奪った。各河川ではこれに対して土木的 対応と信仰的対応を重層的に行ってきた。

大井川ではダムが建設される前は暴れ川で、下流域の人々と水の戦いは深刻であった。

そんな大井川の名高い土木的対応は、舟型屋敷と舟型集落である。昭和32・35(1957・1960) 年度に大洲中学校郷土研究部が行った調査によると、舟型屋敷は金谷町五和地区に合わせ 75軒もあったようである。舟型屋敷は微高地に造られ、大井川上流部に向かって約50 度の三角をなし、三角の頂点から分かれた2辺に沿って「分かれ川」が引かれている。つ まり水は屋敷の外側を通ることになり、洪水から屋敷を守る備えとともに、分かれ川から 屋敷の両側に開けた低位の水田に水を配ることをも可能にするものである。舟形屋敷が大 井川の洪水から個人の家を守るために工夫されたものであるのに対し、舟型集落は集落を

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守ったものである。

フィールドワークで調査した水川においては、大井川の上中流域にあたるからか、舟型 屋敷・舟型集落といった土木的対応といったものは見られなかった。しかし信仰的対応と しては「阿弥陀堂11」、「愛宕あ た ご地蔵じ ぞ う」といった対応が見られた。

まず阿弥陀堂についてである。本来の名は水川観音堂で、所在地は水川字田黒46番地、

所有者は上長尾の智満寺となっている。棟礼によると、水川村庄屋藤五郎が智満寺住職と 協議した結果、信徒と協力し天文 5 (1536)年に建てられたようである。現在も夏と冬、年 2回お祭りがあり、お供え物をし、地元の人によって般若心経が唱えられるようである。

そういった行事以外でも地元の方は時々拝みにいくようで、部落の神様のような存在であ る。年に何回か拝みに行くというK(60歳代 女性)は「お堂は子供の神様。川でもし子供 が流されたら、阿弥陀堂の前で止めて下さる。水川の子供はこのお陰か、他の地域に比べ て、子供が水死したという話はあまり聞かない」と語る。

次に愛宕地蔵について述べる。鈴木によって記された『山香の荘河根郷 水川村の来し かた』によると、この地蔵尊は明治2(1765)年頃、水難徐火防のため作られた。河川氾濫の 信仰的対応として見られるのは水神信仰、川祭、川除地蔵であるが、愛宕地蔵はそのうち の1つの川除地蔵だったのである。今、愛宕地蔵を管理しているS(70歳代 女性)は「毎 朝お茶を 3 つ出す。夏になると、阿弥陀堂のお祭りと同じ日に祭りをしている。」と話し て下さった。

3.3 大井川と産業

この節では以下の文献に依拠する(宇多1961、野本1979)。ここでは大井川流域における産 業について見ていく。大井川流域は西からも東からも、さまざまな文化がここに流れて定 着した。そして地理的条件と結び付き特色ある、大井川文化を形成した。その大井川文化 の特色として挙げられるものは、茶と木材と電力である。

川根地方は茶の木には最適の条件を持っている地域である12。地質は砂岩の多い丘陵山 地であるにも関わらず、その風土の土性は、礫質土壌で茶の木には適した土質であり、勾 配の急な地勢が多いため、日射の程度が平地ほど激しくなく、かつ雨水が滞留することが ない。夏は雨があり、春秋には露が多いので、茶の香味が自然に育成される。大井川の川 霧は天然の霜除けとなり、茶の木に霜の降りるのを妨げる。大井川と川根の地質という環 境と地元の人々の努力により、世に名高い「川根茶」は生まれたのである。

次に木材について述べる。大井川と木材に関するもっとも古い記録は日本書記の仁徳天 皇の612(374年)の条に記載されている。これにより、この頃からすでに大井川という名 が中央に知られていたこと、また大井川と木材とは古い時代から関係を持っていたという 事が分かる。大井川流域の森林分布は、暖帯、温帯、寒帯にわたっており、大井川の源流

11 阿弥陀堂については、森脇の報告「水川の年中行事」を参照して頂きたい。

12 川根地方とは大井川の中流から上流にかけての総称である。

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地方では、昔から何度も有用な樹木を狙って略奪のような伐採が行われてきた。元禄時代 から大井川流域の樹木は産業となってきた。しかし大井川木材の転機となったのは明治時 代に入ってからであり、この頃から島田に木材業者が急に増加し始めた。なお当時の木材 の取引先はほとんどが東京深町の材木町であったようで、大井川の木材を焼津材と呼び、

おおいに声価があったようである。

茶・木材の産業が大井川の全流域の人々の生活を豊かにし、大井川文化を形成したのは 明らかであろう。そして大井川にとっても、大井川流域の人々にとってもおおきな転機と なり、精神的にも物理的にも人々に影響を与え、今までの大井川文化を変容させた電力に ついては第4節で述べる。

4 大井川と開発

4.1 大井川のダム開発の歴史

この節では以下の文献に依拠する(宇多1961、静岡地理教育委員会1989)。ここでは大井川に おける、戦前の電源開発と戦後の電源開発について述べる。大井川の最初の開発計画は明

39(1906)年日英水力電気株式会社の設立がもくろまれ、伯爵副島道正が発起人になり創

立事務所を開いたことに始まる。当時日本では、電気事業が各地で創立されてからまだ日 が浅く、電力の需要もいたって小規模であったが、将来の需要増大はすでに予見され、そ れには水力電気の開発が最も有効であるということが判明しており、水力開発計画が全国 各地で行われ始めた頃でもあった。

日英水力電気は、東京、横浜へ送電の目的で発起された。しかし明治 43(1910) 12 15日、日英水力電気株式会社の発起人総会は日英水力電気がついに成立をみないで、その 代わりに日英水電株式会社が成立発足した事の報告会であった。なぜこの会社がスタート しなかったのか。その理由として挙げられているのは、土木工事は外国資本商会がこれを 引き受ける、発電用の諸機械は、全部外国資本主側から供給する、という条件が提出され たために紛糾を生じ、ついに解散したといわれている。

次に戦後の電源開発について述べる。第二次世界大戦敗戦直後は、戦災復興、食糧増産 を中心に資源開発、国土保全、工業立地条件の整備が進められた。そして敗戦後5年後の

昭和 25(1950)年に、大井川にとって大きな分岐点のきっかけになる、国土総合開発法が制

定された。この法律により全国総合開発計画が進められたのは昭和 37(1962)年であった。

この 12 年間の間は都道府県や地方の総合開発計画が作られ、実施されていた。昭和

25(1950)年に始まった朝鮮戦争は日本の工業生産を全面的に回復させるほどの特需ブーム

をもたらした。工業生産が回復していくにつれ、エネルギー不足が明らかになっていった。

そこでまず国内で調達可能なエネルギーである石炭と水力発電による、電力の開発が急が れた。特定地域総合開発に指定された河川流域ばかりでなく、容易にダムや発電所が建設 できる河川流域では、全国各地で電源開発が急がれることとなった。大井川流域では特定 地域に指定されなく、徹底的な電源開発のみが行われた。その結果、「河原砂漠」が起こる

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など、多くの異常な事態が起き、弊害をもたらしたのである。

4.2 ダム開発の影響

この節で述べるのは昭和25(1950)年から現在の水力発電の開発ラッシュ時期における、

水川におけるダム開発の影響と人々の意識の変化である。よってここで使う「ダム」とは 何か特定のダム・堰堤を表すものではなく、昭和25(1950)年以降に建てられた複数のダム・

堰堤ということである。

4.2.1 中川根全体への影響

この節では以下の文献に依拠する(静岡地理教育委員会1989)。ここではダム開発によって生 じた様々な中川根の弊害について述べる。中川根町では塩郷堰堤が完成した昭和 36(1961) 年から昭和39(1964)年までの4年間、水害はなかったといわれている。こんなに長期間水 害がなかったのは珍しい事であり、住民はダムによって水害は防がれたという印象を持っ た。しかしそれもつかぬ間のことであり、昭和 39(1964)年以降は、ほとんど毎年のように 水害に見舞われていくようになる。塩郷ダムにより水害は増大した。上流部では洪水が起 き、屋敷が流出・埋没したり、床上・床下浸水が起きるようになった。また道路決壊や、

支流堤防の決壊も起きたようである。

理由としてはダムによる「背水効果」である。背水効果とはダムのために川の上流に変 化が生じ、この影響される上流部を背水といい、川は滑らかに流れようとして、砂礫を堆 積していくことである。この影響により、土砂が積もり、その結果として河川が上昇する。

この河川上昇が浸水を生じさせるのである。また、洪水期は見方を変えて、ダム設置者の 立場で見るならば、資源としての水をしっかりと貯えたい、まさにダムをつくった第一目 的を達成したい時期である。各ダムは皆、危険水位ぎりぎりまで待って放水する。しかも 発電用ダムには、下流への急激な出水をもたらさないため、「遅らせ放流」の規定もない。

各ダムからのぎりぎりの放水は、いわゆる鉄砲水となり、かえって洪水被害を激化させる という現象を生じさせているのである。

4.2.2 水川への影響

私たち静岡大学人文学部社会学科文化人類学コースの3年生がフィールドワーク調査を しに川根本町水川を訪れたのは、平成21(2009)612日のことだった。川根本町に入 ると、まず出迎えてくれたのは、きらめいている水面の大井川と緑々しい山のつらなりだ った。車を降りると空は真っ青に広がり、さわやかな風が緑の茶畑を吹きぬけ、風車がた えまなく緑の山を背景に回っている。これが私の水川の第一印象である。

では水川の人々にとってダム開発前の大井川と水川の風景はどうであったのだろうか。

またその後大井川と風景はどう変化したのだろうかと尋ねると、人により様々な答えが返 ってきた。その変化は大きく2つに分けることが出来る。まず直接的要因としての「大井

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川と水川の風景の変化」、次は間接的要因としての「大井川と水川の風景が変化してしまっ たことによる社会関係・環境の変化」である。

まず直接的要因としての「大井川と水川の風景の変化」として、大井川のすぐ近くに住 A(80歳代 男性)は以下のように語ってくれた。

昔はグミの木が沢山あった。昔の子供の遊び場だったが、大井川の水位があがったこ とにより殆どなくなってしまった。ちょうど子の時期に咲く岩ツツジも 50~60本は あったが、今は数本しか残っていない。一番ショックなことは川霧が変化したことだ。

寒い大量の水が上流から流れ、5 月のあたたかな空気に触れて霧は発生する。しかし 水量が減ったため蒸発してしまい、霧が発生しにくくなった。昔は川霧で向かいの山 が見えなかったくらいだったのに。

実際に川霧が無くなったというのは、尋ねた人々のほとんどが答えてくれたことであっ た。結婚と同時に水川に移ってこられたB(90歳代 女性)は「昔の川霧は濃く、隣の家が 見えなかったこともある。今ではめったにそんなことは起らない」と語ってくれた。

そして静岡県地理教育研究会は書いた『よみがえれ大井川―その変貌と住民―』の中の 中川根の住民の声の中に「川霧がなくなったため、お茶が大変まずくなり、本来の川根茶 の味がなくなり、売れ行きがおちた」といった、川霧が喪失したことによるお茶の品質の 低下について人々が言及している。その理由として住民の1人は「河川に豊かな水があれ ば、水面から立ち上る霧や靄が適度に直射日光を遮り、茶の香味を形成するアミノ酸類や 脂肪酸の急速な分解、消失を防ぐ。」と説いている。また品質の低下の原因として他にも「河 川に水がないため茶の新芽成長期から夏の終期にかけて昼夜の気温差が縮まり、昼間光合 成された炭水化物が夜の激しい呼吸作用のため消費される」という昼夜の温度差も挙げて いる。これは間接的要因としての「大井川と水川の風景が変化してしまったことによる社 会関係・環境の変化」であるといえよう。

確かに川霧がなくなった事と同様に水川の人々の意識の中には昼夜の温度の変化と、そ れによるお茶の品質の低下という概念は共通しているようであった。しかしあるお茶の生 産者の方や一般住民の方に味の低下について尋ねると非常に曖昧である。ある主婦の方に (80歳代 女性)にそのあたりを尋ねると「温度は確かに変わっている。夏がとても暑くなっ た。大井川の水の減量に関係があるか分からないが実感としたはかなりある。川霧が無く なったためお茶の味が変わり売れゆきが落ちたと実際には聞く。しかし味の違いは町民に は殆ど分からないと語る。またB氏は「ずっと飲んでいるからこそ、味の違いは分からな い」とも話す。

一般の人々に「川霧が無くなったことにより、お茶の品質は低下した」という概念があ るにも関わらず、その人々に味の違いが分からないということは何とも曖昧である。以上 から分かることはその概念は住民の声から出たものではなく、誰かしらによって植えつけ

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られたものではないか、という事である。

また大井川と水川の風景の変化として「河原に草なんてなかった今は花畑が咲いている」

「魚がいなくなった」などという声が多数聞かれた。

次は間接的要因としての「大井川と水川の風景が変化してしまったことによる社会関 係・環境の変化」を述べる。今、大井川を使うことはありますか、と尋ねると水川の人々 は殆ど行かないようである。大井川のそばに住むC(80歳代 女性)は「今大井川には1年 1 回も行かない。孫がお盆にくれば時々行くが、それも最近は水が汚くなっているし、

やめている」と語ってくれた。

大井川は水川の人々にとってどんな存在だったのだろうか。川の恵与的側面の水の供給 という点では、水川の人々は大井川を昔から殆ど使わなかったようだ。お茶の生産者でも あり、大井川の前に住んでいるD氏(80 歳代 女性)は「洗濯や自分たちが飲む水は沢13から 引いていた。大井川は洗濯場として使っていた」と語ってくれた。

水川の人々と大井川の関係として一番当てはまるのが、恵与的側面のうちの親水空間と しての水という点である。子供は遊び場として、大人は洗濯場として、お年寄りの方は憩 いの場として使っていたようである。D氏は「夏はお年寄りが川の大きな石の上に乗って、

世間話をしながら涼んでいた。子供はそこから大井川に飛び込んだりしていた」と語って くれた。女の人は洗濯をしながら井戸端会議をしたりしていたそうで、大井川を通じて地 元の人はお年寄りから子供まで幅広く交流していたようである。

ある方は今の大井川と人々の現状に対して「地元の人と交流する場所がなくなった。(大 井川が変化して)困ったことはない。ただショックだ」と話してくれた。大井川が変化したこ とで、地元の人の関係が希薄になってしまったのではないだろうか。

4.3 水川の人々のダムへの意識

ダムにより大井川と水川の風景が変わってしまった。では水川の人々はダムについてど う考えているのであろうか。住民の方にダムについて話を聞くと、まずほとんどの住民の 方は言葉を濁した。その理由として考えられるのは、大井川の変化が彼らの生活レベルに 影響しなかったからである。彼らにとって大井川は、ほとんどが親水空間として使われた のは上記でも述べた。つまり大井川に、生活に関わってくるような水の供給や河川魚資源 を求めていなかったのである。だからこそ大井川の変化はそこまで彼らに大きな印象を残 さなかったのではないだろうか。子供の頃から大井川で遊んでいたE( 60歳代 男性) 大井川が変化したことに対して「やっぱり生活に関わっていないと、変化はさびしいとし か捉えられない」と話してくれた。

ダムは水川の人々の生活にあまり影響を与えなかったため、住民の方々は大井川が変化 して困ることは殆どなかったようである。では、逆にダムが出来て良かったと感じること はあったのだろうか。そう水川の人々に尋ねると、ほとんど「水害が無くなった」という

13 沢については、小泉の報告「水川に暮らす」を参照して頂きたい。

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意見に一致する。川の目の前に家が建っているF(80歳代 女性)は「昔の水害はすごかっ た。家も流された人がいる」と当時の状況を語ってくれた。

結果として、私が調査したところ、水川では、ダム開発の影響は生活レベルではほとん どみられず、だからこそダム自体についての認識の変化も現れなかったように思う。しか し地元の方々のお話を聞くと、私は水川の「大井川=レクリエーションの場・地元の人々 の交流の場」というものが消えたと感じた。ダム開発によって失われた風景・目に見えな いモノがあるのではないだろうか。

おわりに

人類文明史の歴史観のひとつである世界 4 大文明14は、全て川のそばで起こった。日本 の縄文時代や弥生時代の人々も川のそばに住んでいた。静岡大学のすぐ近くにある、水田 遺構で有名な登呂遺跡は川にあまりにも近かったため、洪水で埋まってしまった。昔から 川は生活に密接し、人々に精神的にも物理的にも多大な影響を与えてきたのだ。このテー マを挙げた時はこんなにも川というものが重要で壮大だとは思わなかった。

この調査をしていると度々感じていたのだが、大井川はこの地域の様々な事象に関係し てくる。例えばお茶、観光、茶摘み歌、林業、彼らの生活レベルに至るまで大井川は無意 識的に彼らの根底に息づいていた。『大井川 その歴史と開発』という本の中で宇多がこう 述べている。「大井川流域は西からも東からも、さまざまな文化がここに流れて定着した。

そして地理的条件と結び付き特色ある、大井川文化を形成したのである。」まさにこの水川 での調査は大井川文化に触れるものであった。

大井川はその存在があまりにも大きいため、いつも外部の大きな力によって動かされて いる。水の供給はダム開発に使われ、流通性は船運、大井川木材流送の道に使われ、産業 の要となっている。けれども水川の地域に限って言えば、人々と大井川の関係は複雑では ない。彼らにとって大井川は、親水空間だったのだ。それは大井川で泳いだり、魚を釣っ たりする子供達の遊び場であったり、夏は涼みの場所として使われる。つまり地元の人達 が交流する場所だったのである。

しかしその親水空間は、現在はもう失われている。水川の人々は年に数えられる程度し か大井川には行かない。ダム開発によって大井川の水が減ったからである。グミの木や岩 ツツジは減り、背水効果により水面が上昇したことで、お年寄りの憩いの場であり、子供 の飛び込み台として親しんだ大きな石は埋もれてしまった。親水空間として魅力の無くな った大井川に人々は訪れなくなり、子供は夏に大井川ではなく、プールに泳ぎに行くよう になった。

ダム開発によって水川の人々には、生活を脅かすほどの弊害は起こらなかった。また水

14 歴史上、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明という、4つの大文明が最初に起 こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。四大河文明とも言う。

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川においては、ダム開発による川の整備により、水害が減ったという意見もある。だから こそ、彼らの意識として大井川の変化は「寂しい」としか捉えられないのである。大井川 の変化は、水川の風景の変化と、人と川の関係の変化、地元の人々の関係の変化を促した。

その変化は、水川の人々の生活に弊害を与えなかったという点からみれば、小さいかもし れない。しかしそこには確実に、目立って見えはしないが、失われたものがあると、私は 言いたい。

流れていく時間と取り巻く環境の変化により、水川の住民にとって大井川の位置づけは 大きく変遷している。つまり人々の「大井川」を見る目は確実に変化してきているという ことだ。外的要因にせよ内的要因にせよ、大井川は変化させられてきた。人々の思いが、

国の思いが、時代が大井川を変えてきたのである。そして現在の大井川になり、現在の大 井川は人々の思いの形ともいえるだろう。

謝辞

本報告書を書くにあたり、フィールドワークにご協力をして下さった水川の方々に心か ら感謝したします。快くお話をして下さって本当にありがとうございました。また報告書 のご指導をして頂いた先生方、心の支えになってくれたコースの皆にも、同じく最大限の 感謝を捧げたいと思います。

参考文献 板橋作美

1987「川」『文化人類学辞典』石川栄吉 弘文堂 宇多弘道(識)

1961 『大井川 その歴史と開発』 中部電力株式会社 坂口豊、高橋裕、大森博雄

1995 『日本の川』 岩波書店 静岡地理教育委員会

1989『よみがえれ大井川―その変貌と住民―』今古書院 鈴木貢

『山香の荘河根郷 水川村の来しかた』 (有)ナカムラ 野本寛一

1979 『大井川 ―その風土と文化―』静岡新聞社

野本寛一

1999 「川」『日本民俗大辞典 上・下』福田アジオ 川弘文館 参考 HP

日本大百科全書「大井川」 http://www.jkn21.com/body/display (2009/05/25 現在)

表 1  川の恵与的側面と阻害的側面  (『日本民俗大辞典  上・下』1999 に基づいて作成) 恵与的側面  阻害的側面  水の供給  水田稲作を中心とした農業用水を川 にもとめ、配水の技術や社会慣行を生 みだした。また生活用水として川の水 を利用する地域もある。他にも布さら し、工業用水としても川の水は利用さ れてきた。  河川氾濫  台風シーズンや梅雨期の洪水・氾濫は耕地・農作物を荒らし、民家を押し流し、人命を奪った。各河川ではこれに対して土目的対応と信仰的対応を重層的に行ってきた。  流通性  川は

参照

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