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序  説かつて,著名な『フランス革命の省察』 (Reflections on the Revolution in

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(1)

フランスにおける国家と宗教

−特にコンコルダ(政教条約)制度を中心として−

井田洋子

序説−問題の提起−

第1章フランスにおける国家と宗教 第1節カトリック教会

第2節アンシャン・レジーム期 第3節革命期

第2章コンコルダ(政教条約)制度 第1節その成立

第2節その展開

第3節カトリック教以外の宗教の状況 第4節その崩壊

結語

参考資料−コンコルダ条文

序  説

かつて,著名な『フランス革命の省察』 (Reflections on the Revolution in France, 1790)のなかで,英国の政治家エドマンド・バークは,人間を規定 して「宗教的動物」と呼んだ。そうだとするなら,人間にとって,宗教はま さに密接不可分の関係にある,といっても過言ではないだろう。その意味で は,人間の歴史,ひいては国家の歴史は,それらと宗教とのかかわりの歴史 でもあったといえるのではあるまいか。

ところで,国家は長いあいだ,宗教の圧倒的な影響のもとに置かれてき

(2)

た,とみなすことができるであろう。宗教による政治の支配,いし、かえれ ば,宗教的権威からの政治の独立が, とりわけ近代国家において尖鋭に要請 される事実こそが,そうした消息を如実に示すものであることは,詳言する までもない周知の事柄といってよい。

政教分離は従来,信教の自由との関係でのみ言及されてきた感が深い。し かしながら,この概念は,その面からだけでは説明のつかない部分を内包し ているように思われる。それというのも,政教分離を的確に把握するために は,従来,等閑視されてきた国家論的視点からの考察が不可欠ではないか,

と考えられるからである。もとより,国家論的視点といっても,それは多々 ありうるであろう。しかし,ここではフランスのコンコルダ制度を中心に,

国家と宗教との関連を検討してみたいと思う。なぜなら,フランスのコンコ ルダ制度(1

802

年"

'1905

年)は,いわば国家権力と宗教的権力との妥協の産 物ともいえる,国家と宗教の連合であり,その両者の分裂こそがすなわち政 教分離を意味したからである。つまり,フランスにおいては,政教分離は,

信教の自由の観念から導かれたというよりも,むしろ国家による宗教の克服 として現われた, といえるわけである。しかも,フランスにおいて,コンコ ルダ制度の否定として生まれた政教分離制度が,その適用において,非常に 緩和されてきている実態をみるとき,コンコルタ.制度は未だ完全には克服さ れていないのではないか,との疑問が沸いてくるのである。さらに,この制 度は,フランス革命期に l度政教分離制度を確立したのち,再び国家と宗教 との連合状態として生まれたという特徴をもっ。それならばなにがゆえに,

政教分離体制が覆されてしまったのだろうか。そしてまたその後,コンコル ダ制度が 1世紀以上も続いたという事実は,何を物語っているのだろうか。

こうした数々の疑問に答えるため,政治的権力と宗教的権力の連合とされ

る,コンコルダ制度を考察することにしたい。そして,そうした作業を通じ

て逆に,政教分離制度とは何かを見出すことができるならば望外の喜びとし

なければならない。

(3)

フランスにおける国家と宗教

191 

1

章 フランスにおける国家と宗教の関係

1

節 カトリック教会

フランスにおいて国家と宗教の関係といえば,何よりもまず国家とカトリ ック教会とのそれを指すのが通例である。周知のように,フランスではカト リック教会は長いあいだ国家と結びついて,権力を欲しいままにしてきた。

そして,現在でもなお,カトリック教徒のフランス人口に占める割合は最大 であって,カトリック教は民衆生活のあらゆる分野に浸透している。このよ うに,カトリック教会が,フランス,ひいては全ヨーロッパにおいて絶大な 力を保持してきた背景には,カトリック教会の特殊性とし、う事情があるもの と思われる。すなわち,カトリック教会は,神聖,完全,階統的,中央集権 的,国際的な社会であるといった性質をもっ。この点を,もう少し敷街し てみるならば,以下のとおりである。第 1に,カトリック教会はみずから を,起源と目的との

2

つの面から,他の宗教とは異なる独自の特徴をもっと 主張する。たとえばキリスト教は,神の子イエス・キリストという,地上に 受肉した神そのものによって基礎を置かれたという起源と,キリスト教のみ が,世俗生活の後の来世における永遠の幸福を保障しうるという目的から,

他の一切の宗教に優位する地位を獲得する,と説かれるのである。こうし て,カトリック教会は,人間救済のための唯一の方法として,イエス・キリ ストという受肉化された神によって創られた神聖な社会となる。しかも,こ の教会はそれ自体の目的を追及するための必要なすべてを,自分自身のなか にもっている完全な社会である, とされる。こうした理由から,カトリック 教会は本質的かっ論理的に,国家に対して特権的地位に立つことになる。要 するに,教会も国家もともに完全な社会であって,前者は精神的目的を,後 者は世俗的目的を追及する点で異なるに過ぎない。それゆえ,国家の教会へ の服従という論理は,教会に対する国家の目的の劣等性を根拠としたものに ほかならない。が,同時にそれはまた,教会はその目的達成のために,国家 の領域に関与する必要性があることをも意味する。

2

に指摘されるべき点は,カトリック教会は,教皇を頂点とし,社会の

(4)

目的に向かつて人聞を導くための特権をもっ司祭集団(教える教会)と,こ れらの司祭に服従し導かれる信者集団(教えられる教会)との

2

つの層から なっている,非常に階統的かつ中央集権的な組織であるということである。

ここでは,地上での神の代理人たる教皇が,信仰と良心の領域での絶対的権 力をもっと同時に,規律と裁判権の領域での優越性をもっ。教皇は長年の努 力によって,教会からまず非聖職者(世俗人)を,次に司祭を,そしてつい には司教の排他的権力までも取り上げてしまった。彼は地方の教会を価値の 低いものとみなし,それらを自己の最高権力のもとに集中させられ統合され た,強固な専主制(特殊な教会の連合)に服従させた。このことは,

1870

年 のバチカン公会議での 教皇の無謬性"の定義となって実を結んだ。この定 義によれば,論理上「教皇は説教壇の上では誤りを犯さなし、」とされ,そこ では教皇の説教壇での言動が,彼の他の一切の言動と区別されたのだった。

したがって,司祭らは教皇の説教壇での言動(=説教)にのみ従えばよかっ たのである。しかし事実上は,説教壇以外での教皇の決断さえもそれ自 体,逆らうことのできない決定的な力をもつものになってしまった。そして この会議によって,教皇権至上主義(ユルトラモンタニスム)を否定するガ リア主義は異端の熔印を押されることになる。ここで,ガリア教会について 言及すれば,元来はガリア教会(国家教会)に対する教皇庁の承認がコンコ ルダ制度の条件であったにもかかわらず,コンコルダ制度はまさにガリア教 会によって非難されたのである。このことは,遅かれ早かれ,フランスを政 教分離へと導く

1

つの根本的原因となる。第

3

の特徴として,カトリック教 会が国際的である点を挙げることができょう。すなわち,教会の行為と権力 はあらゆる国に及ぶ。いわば教皇は,あらゆる人種や国籍の異なる人間集団 の絶対的支配者である。重要なことは,教皇が支配するこの人間社会が,国 家であるかどうかは別として,現実的には,他国との関係において,国際法 を適用されているということである。つまり,カトリック教会は権利と義務 とをもった国家と観念されており,教会との条約は国際条約とみなされるわ けである。端的にいえば,まさしく教会は国際的主権社会なのである。

以上がカトリック教会の特殊な諸性格であり,国家との関係を論じる場合

(5)

フランスにおける国家と宗教

193 

に無視することのできない諸点といってよい。これらの諸点に着目して,現 にレオン・デュギーは以下のように主張する。すなわち,国家がカトリック 教会を保障し,同時に宗教的平和を維持する唯一の方法は,コンコルダであ れ,政教分離であれ,教会との合意によって宗教制度を規制することであ る,と。そして,彼はさらに,フランスのこれら カトリック教会の事実"

を無視した行為が,

1905

年法(=政教分離法)がカトリック教会には適用さ れていない原因になっている,とみるわけなのである。

さて,今や我々はフランスにおける国家と宗教との関係を,とりわけコン コルダ制度(1

802

"'1905

年)を中心に検討する段階に到達することができ た。フランスは,歴史的にカトリック教と様々な関係を育んできた。それら の関係を述べるならば,次のようになる。まず,アンシャン・レジーム期

(1789

年以前)は,国家と宗教の連合時代であり,カトリック教を国教とす る形態が採用される。革命期(1

789

"'1802

年)は,当初が国家と宗教との 連合による国教の形態,次に,同じく連合関係における公認宗教の形態,最 後に,国家と宗教との分離の形態といった 3つの段階を踏む。その後,コン コルダ体制(1

802

"'1905

年)のもとで,再び国家と宗教との連合一公認 宗教ーの形態に戻り,特に,

1905

年以降,国家と宗教との分離の形態が出 現する, ということになる。以下では,コンコルダ制度が確立される前の段 階での,フランスにおける国家と宗教の関係について,その概要を考察する

ことにしたいと思う。

(1) 

この点については,たとえば

LeonDuguit

, 

Traite de droit constitutionnel

, 

t. V.

, 

2

d

1924.

, 

pp. 461‑468.

を参照されたい。

(2) 

教会は,はっきりと区別される

2

種類の構成員一「教えられる教会」たる使徒大衆 と「教える教会」たる聖職者たちーーによって成り立っている。そのなかで,カトリッ ク教の

2

つの基本的教義ともいうべき原罪と購罪とによって,社会的団結という概念が もたらされ,構成員は相互に強固に結びつくことになる。

(3)  Duguit

, 

Op. cit~ , p. 466.  (4)  Ibid.

, 

p.  468. 

(6)

2

節 アンシャン・レジーム期

この長い時代は,いわゆる国家とカトリック教会との連合の時代である。

精神的権力と世俗的権力との分離を主張するキリスト教の著名な命題一一い わゆる両剣論,すなわちそれは,新約聖書『ルカ伝』第

22

章第

38

節にもとづ き,教皇と皇帝との権力関係を二振りの剣に警え,前者には精神界を主宰す る剣が,後者には物質界を支配する剣が,それぞれ付与されていると説く

ーを根拠に,カトリック教会はもっぱら精神的領域を,専制君主は世俗的 領域を支配した。しかし,未確定な中間的領域においては,両者はしばしば 衝突を余儀なくされた。要するに,ローマ教皇と専制君主相互の関係の歴史 は,それぞれの利益のために,二元的権力の結合を実現しようとする闘争の 歴史であったといえよう。ところが,そうした歴史のなかでも, とりわけフ ランスは「カトリック教会の長女」として,長期間に亘ってローマ教皇庁と 密接な関係を保ってきた。

13

世紀末に,フィリップ

4

世と教皇ボニファチウ ス

8

世との間に権力をめぐる闘争が起こり,ここに初めて,いわゆるガリカ ニスム(教皇権制約主義)がフランス国内で声高く叫ばれてくる。しかしな がら,

1789

年までフランスとカトリック教会との関係は,

1516

年のボローニ ュのコンコルダ(政教条約)にもとづいて規律されていたといえる。これは,

国王フランソワ

1

世とローマ教皇レオン

3

世との間で結ぼれたもので,それ までのフランスとカトリック教会の事実上の結合を,法的結合へと高めたも のであった。その内容は大別すれば次の

2

つである。

第 1に,カトリック教はフランスの国教となる。その結果,カトリック教 は支配的宗教というだけでなく,むしろ排他的宗教といってよい存在にな る。したがって,カトリック教の聖職者たちは,財産に対する税金を免除さ れるという特権をあたえられる一方で,公務員としての使命を帯び,教育,

福祉面での役割を担う義務を課せられる。第

2

は政治的権力をフランスに留

保するというものである。ここでいう政治的権力とは主にカトリック教の司

教や司祭の任命権に関するものであり,これをフランス王にあたえ,ローマ

教皇は,王のおこなう任命に同意をあたえることしか許されないものとされ

た。このような体制のもとで,たとえカトリック教以外の宗教が黙認されて

(7)

フランスにおける国家と宗教

195 

いたとしても,それらは一方的に行使される君主権力によって,種々の制約を 受けたばかりか, しばしば迫害の対象とさえなったのである。たとえば,ユダ ヤ教徒は祭柁の自由を一切認められていなかったのに反し,仏教徒やイスラ ム教徒は自由に祭杷をおこなうことができた。)また,プロテスタント(ユグ ノー)には,ナントの勅令で一時信教の自由や祭柁の自由が承認されたけれ ども,それらも後にはルイ

14

世によって無残にも廃止されてしまった。それ はともあれ,巨視的にみるならば,

17

世紀は神学上の偉大な世紀であり,カト リック教育が,修道会として結束した修道士や司祭によってなされる。なかで も,ジェスイット派がその大多数を占め,王室の圧倒的な支持を受けた。彼ら は貴族の子弟をも教育し社会に大きな影響をあたえた。また,宗教的情熱が 女子修道院の創設を促した。以上のようにみてくるなら,革命前のフランス 社会はカトリック教会に支配されていた, といっても過言ではないだろう。

ところで,

17

世紀半ばから

18

世紀半ばにかけて,スコラ哲学はその衰退期 を迎える。この時期に,次第に宗教と教会に対する懐疑的で批判的な態度が 生まれてくるのである。たとえば

18

世紀末には知識人の思想改革がおこなわ れ,不道徳と不信仰という反動が起こってくるし,当該世紀の中頃のフラン ス政府も,同様に新しい思想に刺激され,みずからの使命として百科全書の 作成に取り組む。その結果,教会と専主制主義者らの妨害にもかかわらず,

百科全書派の思想と彼らの著作とは新しい世代を育てていく。そして,この 新しい世代は理神論を超え,無神論へと導かれるような新しい精神をもつに 至るのである。ダンセットはこれを, I 誇張する人

faiseursd'amPlifica tion"

を作るのに適した,時代遅れの教育方法にうんざりさせられていた若 者は,時代の作家がもたらした草新的精神に陶然と酔う」と評している。こ

うして,新しい精神をもった若者の文学的,学術的グループが次第に増加し て L 、く。そのなかで,最も名高く最も普及したものは,フリーメイソン会 (団)であり,この団体は,この時代の思想流通のための中心的連絡網とさえ なった。このような趨勢に対して,これを押しとどめようとするコンセイユ

・デタ(裁判所)の介入がなされた。が, しかし,もはや何者も,時代の流れに

は抗いえなかった。事実,コンセイユ・デタが介入に失敗した,地方の都市

(8)

や大都市のカフェや劇場では,各種の集会がおこなわれたが,そこではパリ に到着した様々な教義が集められるとともに広められてもいったのである。

こうして,

17

世紀の終わりには,まずパリにおいて,カトリック教会と結 びついた多様な禁止原則(宗教的生活を律するためのもの)の遵守が弛緩し 始める。この現象は,

18

世紀の間に地方にも広まり,さらに革命前夜には,

官吏によってそれが黙認されるまでになるのである。

なお,

18

世紀の教会では高位聖職者が,ほとんど貴族によって占められて いた。この事実もまた,アンシャン・レジーム期に国家と宗教とが

L

、かに密 接に結びついていたかを,如実にあらわすものであるといえよう。

(1) 

この点については,エメ=ジョルジュ・マルティモール著,朝倉・羽賀訳. ~ガリカニ スム~.白水社 .11 ページ以下を参照。

(2)  C1aude A1bert Co

l 1

iard. Liberles Publiques.  Paris.  1982 • p. 42

1 .  

(3)(4)  Jacques Robert. 

l a  

liberle religieuse et  le  regz'me des cultes.  Paris.  197

1 .  

pp. 40

4

1 .  

(5)  1598

年にアンリ

4

世がこれを発布し,プロテスタントに信教の自由をあたえるととも に,既におこなわれていた場所での祭杷の行使を承認した。

(6)  1685

年,ルイ

14

世がこれを廃止した。その結果,プロテスタントは,ジャンセニスト とともに異端とされ,激しく抑圧されることになる。

(7) 

オルレアン公フィリップは裁判所の風紀の類廃を司どる。法律は「ジャンのポケット にあるポールのお金」を容認させることになる。サロンは哲学者及びプルジョワのエリー トのたまり場であった。

AdrienDansette. Histoire Religieuse de 

l a  

France G

tem

μr

aine. Paris.  F1ammarion.  1965.. pp. 3435. 

(8)  Adrien Dansette.  ibid.. p. 35. 

(9) 

フリーメイソン会は.

1700

年項イギリスに生まれた団体である。この団体の思想がフ ランスにも

1730

年ごろに普及し,そこでは膜想的儀式がおこなわれていた。フランス政 府は当初これを妨害していたが次第に黙認するようになる。というのも,フリーメイソ ン会は.

1773

年ごろからは,シャルトル公爵やブルボン公爵婦人など,貴族も加入し始 め,漸次彼らの熱狂的支持を受けるようになるからである。この団体は.

18

世紀におい ては,当のカトリック教会とも対立せず共通の信者をもったが.

19

世紀に入ってから,

教会との衝突が起こり不可避的に消滅する運命にあった。フリーメイソン会については,

(9)

フランスにおける国家と宗教

197 

たとえば次を参照。

Ibid.

pp

, 

3637;G.

デンツラー編著,相沢好則監訳『教会と国家』

新教出版社,

1985

年 ,

138

ページ。

(10) 

ルイ

16

世治下では,

18

の大司教座のすべてを,

121

の司教座のうち

118

を ,

10000

人の聖 堂参事会員のうち

8000

人を,それぞれ貴族が占めていた。半田元夫・今野国雄『キリス

ト教史~,

1977

年,山川出版社,

288

ページ参照。

3

節 フランス革命期

(1789

1802

年)

フランス革命は,信教の自由はもとより国家と宗教との関係に対する新し い観念をもたらした。長いあいだキリスト教を国教とし, I カトリック教会 の長女」としての立場を維持してきたフランスは,革命期にカトリック教会 との新しい関係を築こうとして試行錯誤を試みる。そして,次第に非キリス ト教化へと進み,いったんは完全にキリスト教と訣別するが,再び

1802

年の コンコルダによって古い状態へと逆戻りしてしまうのである。この節では,

そのような革命期のフランスの歩みをみていくことにする。

この時期のフランスにおける国家と宗教との関係は,次の

4

つの段階に分 類できるように思われる。すなわち

(1

)人民主権下での政教一致の段階,

(2) 

つの教会の闘争の段階,

(3)

キリスト教以外の国教の設立の段階,

(4)

政教分離 の段階,がこれである。以下,これら

4

つの段階について簡単ながらも論及

しておこう。

(1)

革命によって,アンシャン・レジームの特権を基礎とした社会的・政治

的体系は,平等を基礎とした新しい体系にとって変わられた。国家の財政窮

乏に端を発した革命は,その渦中で聖職者の財政上の特権および富を順次奪

ってし、くのであるが,革命の初期においては,聖職者に対する民衆の敵意と

いうものはほとんどみられなかった。それどころか,聖職者の大多数を占め

ていた下級聖職者は第 3身分に加わって,文字どおり民衆と手を携えて革命

を押し進めていったのである。さらには,高位聖職者も国家の財政的危機を

救うのにやぶさかでなかった。というのも,教会は自身の宗教的純粋性を回

復し,国民の信望をえることを望んでいたからである。このような思惑か

ら,教会の財産を国家に処理に委ねることを提案したのは,オタンの司教シ

(10)

ャルル=マリー・ド・タレイランその人であった。一方,国家の側も,国家 宗教を国民生活の道徳的支柱,その福利増進の不可欠な手段と考えていた。

このように,第 1段階では,立憲主義思想のもとに生まれた新しい政府と 一段と強化した教会とが特異な仕方で, しかし一見極めて緊密な相互提携の 関係に立っている。そして,民衆にとっても,人権宣言の精神は,彼らの考 える「カトリック教」と両立可能だったのである。)いいかえるならば,カト リック教がフランス人民の公認宗教であるという事実は,信教の自由を保障 する上でし、かなる不都合も生ぜしめなかったのである。

このようなフランス人の感情は,同時代の様々な規定からも明らかであ る 。

1789

年の人権宣言第

10

条は,

I

何人もその意見について,それがたとえ 宗教上のものであったとしても,その表明が法律の確定した公序を乱さない 限り,これについて不安をもたないようにされなければならなし、」と信教の 自由を謡歌している。続く

1789

11

2

日のデクレは,すべての聖職者財産 の固有化,国家による宗教祭司の扶養,教皇からの独立を規定する。さらに は,人権宣言の信教の自由の原則にもとづき,プロテスタント教およびユダ ヤ教に適用されるデクレを採択する。その一方で,

1790

4

13

日のデクレ は,国民議会が良心および宗教的見解に対していかなる権力も行使できない こと,宗教を尊敬すること,宗教を審議の対象としないこと,使徒創立ロー マ・カトリック教会に忠実であることを定めている。この最後の規定からも 明らかなように,カトリック教会は依然、として国の公的支出の第 1位の地位 を占めており,憲法議会のメンバー(大半をガリア主義者と王党派が占める) は,最初,カトリック教を公認宗教にとどめる考えだったのである。

こうした情勢のなかで,地域によっては上述したような草命政府の政策に 聖職者が抵抗して,市民に教会財産を買わないように脅迫したところもあっ たが,そうした彼らの抵抗にもかかわらず,教会財産は次々と競売されてい った。その結果,所有権の大移転がなし遂げられ,これより生まれた新しい 所有権獲得者が,革命の推進者となるのである。けれども,彼らは,自己の 所有を奪おうとするものに対して激しい敵意を抱くようになる。こうして,

聖職者たちは反革命の道を選び,革命勢力と敵対していくといった帰結を導

(11)

フランスにおける国家ど宗教

199 

く。これが,第

2

の段階である。

(2)

この段階は,

1790

7

12

日に制定された聖職者民事基本法

LaCon stitution civile du Clerge"

によって引き起こされたといえるであろう。この 法律は,司教区の行政的再編成,宗教的秩序

(ordre)

の廃止,戸籍抄本の民 問委譲,聖職者の給与などについて規定したものであったが,特に注目すべ きは聖職者の叙任規定だった。これには教皇の承認によらずに,

1789

12

22

日法にもとづいて,任命によって司教を,選挙によって司祭を選ぶこと,

司教および司祭は,国家と憲法に忠実であるべく宣誓を義務づけられるこ と,などが定められていた。これらはまさに,ガリカニスムの立場の表明に ほかならず, したがって教皇にとっては,カトリック教の階統性原理に真っ 向から反するところの,到底受け入れることのできない諸規定だった。かく して,教皇は

1791

年に公式に,基本法に対する非難をおこない,フランス政 府によるすべての聖職者の選任を無効と宣言し,宣誓をおこなった聖職者に は,それを撤回するよう要求するのである。その結果,全聖職者のやや半数 を上回る者が宣誓を拒否した。とはし、え,これより聖職者は,立憲派(宣誓 派)c

onstitutionnelsとローマ教皇派(忌避派)refractaires

2

つに分裂し,

ローマ教皇派の高位聖職者は亡命して国外へと脱出してし、く。そしてこれら 亡命者は国王の亡命後,国外で「王権」と「宗教」の同盟を結ぶのである。

いずれにせよ,この段階は,公然たる反革命派聖職者の発生,その漸次的 増加に伴う治安の動揺,国家権力の教会権威に対する優越性の表面化,進歩 的聖職者による政教分離への志向,といった特徴があげられる。

(3 

)続く第

3

段階では,立憲議会は

12

つの教会」と L 、ぅ事態を緩和するた

めに

1791

5

7

日法令を出すが,これは立憲派と忌避派のどちらの側から

も歓迎されなかった。それどころか,かえってジャコパン派の政府批判を招

き,立憲議会の後を襲った国民公会をして,非キリスト教化政策へと立ち向

かわせることになった。すなわち,国民公会および総裁政府は,忌避派の聖

職者を法に対する反逆者とみなして厳しい弾圧を加える。

1792

8

26

日デ

クレは,忌避派聖職者を終身流刑に処すことを,さらに

1793

5

18

日デク

レは,忌避派聖職者を死刑に処すことを規定するまでに至る。こうして国内

(12)

に忌避派がみられなくなると同時に,ルイ

16

世の処刑に続いて,ローマ教皇 が対仏大同盟の指導者の地位をかつてでたこと,ローマでのフランス大使パ スウィル殺害,ウやアンデの反乱などを契機として,今度は民衆の敵意が次第 に立憲派へと向けられてし、く。したがって,第

3

段階は,忌避派聖職者にの み印されていた反革命性が,ガリア主義に忠実な宣誓派聖職者をも包活する カトリック聖職者全般にまで広がり,かくてプロテスタントを含むキリスト 教一般に対する,そしてついには,あらゆる宗教に対する民衆の敵意を生む に至った段階といえよう。ここに,立憲議会の,教皇庁と独立した国教とし てのキリスト教を設立しようとする意図は完全に挫折する。そうして,国民 公会は,新しい国家の公認宗教の設立を目指すことになるのである。つまり

ガリア教会は,

1792

年以降(第

2

段階の終わり)

r

有用な宗教」としてすら 不適当であることを暴露し,

r

国民の宗教」たる地位から退かざるをえなく なったのであった。

国民公会が試みたのは,最初が 理性の宗教" ( た

cultede la Raison)

,次 いで 最高存在の宗教"( l

culte de l

'

Etre s

reme)

であった。理性の宗教は,

6月2 0日の革命でジロンド派(フェデラリスト)が失脚したのち,公会の「教 育委員会」によって「祖国はキリスト教に優先する」との原則の宣伝ととも に提唱される。第 2帝政霜月 2 0日デクレは「フランス国民の要求により,今 後はパリのメトロポリタン教会を理性の宗教とする」と規定している(13)この 宗教に対する批判はロベスピエールによって開始され,彼はみずから 最高 存在の宗教"を唱える。彼は第

2

帝政

8

18

日デクレでこれを規定し,自分 自身がし、かなる統治機関をも超出する大司教たらんとの意欲を表明した。し かしながら,こうしたロベスピエールもテルミドール 9 日の反乱で失脚し,

理性の宗教"および 最高存在の宗教"という,これら

2

つの宗教は,い ずれも束の間のうちに崩壊してしまった。結局,両者とも革命崇拝の人為的 形態化であり,抽象的普遍者の不当な具体化にすぎなかったのである。

フランス共和国の公認宗教の設立にも失敗した国民公会は,ついに,真の

解決は国家と宗教の分離以外にはないことを倍る。ロベスピエールの失脚

後,宗教的迫害は 1年以上終息するが,国家の財政危機は依然として解消さ

(13)

フランスにおける国家と宗教

201 

れなかった。そこで,国民公会(ジャコパン派)は財政的危機への対応と立 憲派聖職者を解体させる意図をもって,司祭への俸給を廃止しようと企て る。だからこそ,共和暦

2

(1794

年)

9

18

日デクレ第

1

条で,

I

フラン ス共和国はIv、かなる宗教にも俸給も援助もあたえなし、」と宣言したのであ った。)そして,続く共和暦

3

年(1

795

年)

2

21

日デクレとよって,山獄党 権利宣言第

7

L

ょび

1793

年憲法第

22

条が,国家はいかなる宗教にも関与で きない, との原則を規定したものであることを確認する。さらに,共和暦

3

年(1

795

年)フリュクティドール

5

日憲法は,第

354

条で「何人も,自分の 選んだ宗教を法に従って行使することを妨げられない。何人も,宗教への出 費を強制されない。共和国はいかなる宗教にも給与をあたえなし、」と規定す る。これは,前者の

2

つのデクレの原則を憲法条規へと昇華させたものにほ かならない。また,共和暦

4

(1796

年)ヴアンドゥミエール

7

日法も,宗 教活動の秩序維持,たとえば祭杷についての綿密な規制を定めた。こうし て,ここに,国家と宗教の分離が見事に確立されたのである。

しかしながら, 政教分離"という原理は,

18

世紀の思想家も革命期の政 治家(彼らはすべて,宗教的領域における国家の完全な支配といった観念を 抱いていた)も,これについての明確な概念をもっていたわけではなく,む しろ逆に,なんら慎重に吟味されることなく採用された嫌いがある, といえ るのではあるまいか。その理由はこうである。国家は,止どまるところを知 らない財政難によって,今までどおり聖職者たちを養っていぐのが不可能に なった。それに加えて,共和制たる国家は,もはや聖職者達を優遇する利点 もその意志も失ってしまった。そして,まさにそれらの理由にもとづいて,

宗教への出費を禁じるデクレが採択された,と思われるからである。

ともあれ,分離は不可避的に,広範な国民に宗教的自由をもたらした。

1795

2

21

日のデクレは立憲派聖職者,忌避派聖職者の双方に,教会以外

の場所で祭柁を自由におこなうことを認めた。爾後は,宗教に対する信仰な

いし信仰告白は,公共的機能を形式の上でも全面的に否定され,わずかに個

人の私生活のなかにのみ,その場所をあたえられることになった。この信教

自由の制度(政教分離)は,

1802

年まで続くのであるが,その間,宗教的平

(14)

安期と宗教的迫害の時期が交互に訪れる。そして,前者は,ジヤコパン派に 対する脅威によってもたらされ,後者は,王党派に対する脅威によって招か れるといえるであろう。そうして事実,

1795

5

30

日の法律によって礼拝 のための教会使用が認められ,自由の制度が確実に根づきつつあった。にも かかわらず,その直後のキベロンへの亡命者(王党派)の上陸および彼らに よるパリ暴動が,新しい迫害の時代を招いたのである。

かくて,同じ年の

9

29

日法は,

1792

年と

1793

年に生まれた迫害法に再び 効力をあたえる結果となった。

12

月には総領政府が誕生するが,これは新憲 法によって権力を相対的に弱体化させられたため,いってみれば効果的な専 制であった国民公会とは対照的に,まさしく効果のない専制であったのであ る。ここに権力闘争は終わりを告げ,今後の宗教政策は,権力者が右派であ るか左派であるかによって,まったく異なる未来へと導かれることになるの である。総領政府においては,最初,総領たちも議会も共に反宗教的であっ た。しかし,この政府は,

1796

5

月にパプーフ主義を抑制するために右派 議員の台頭を許し,その結果,一時は宗教的鎮静期を迎えるが

9

月に法律 が改正され,総領政府に無制限の強力な権限があたえられるようになると,

またもや新しい恐怖時代に突入する。そしてこれが

1799

6

18

日のクーデ ターまで続くことになるのである。

上述したように,政教分離の体制が確立された段階は,皮肉にもカトリッ

ク教会にとっては受難の時期であったと評価してよいだろう。しかしなが

ら,彼らは自身に対する宗教的迫害の制度に慣れていき,次第にこれを改変

してし、く。これをフランス国家の立場からみるならば,次のように論結しう

るであろう。すなわち,フランスは,迫害による司祭の分散によって,教会

のヒエラルキーの関係を完全に破壊したのち,新たにカトリック教再建のた

めの布教の国となるのである。これをもう少し敷街してみよう。総領政府時

代に入ると,フランスに戻った亡命・追放司祭ら(反革命派)は,カトリッ

ク教再建のために人力を尽くし始める。たとえば彼らは,宗教の復活を政治

的反動に巻き込んで,王党派もしくは反革命派のためにしか祈らないという

戦略を用いる。一方,宗教活動が再開されたとき,教会は閉鎖されてクラ

(15)

フ ラ ン ス に お け る 国 家 と 宗 教

203 

ブに委譲されているといった,悲惨な状態のもとにあった。しかしながら,

信者たちが逆にクラブに侵入し,次第にクラブ員たちを追い出していくよう になる。さらに,南東部では白色テロが盛んにおこなわれる。迫害によって 亡命の苦汁を祇めさせられた,過去の苦い体験による教訓も,司祭らの宗教 活動の熱情を押さえることができなかったようである。こうして,フランス 人は国家と宗教をめぐる様々な段階を体験していくなかで,漸次に政教分離

とは逆の方向へと進んでいくことになる。

(1) 

桑原武夫編『フランス革命の研究』岩波書庖.

1759

年.

367

ページ参照。

(2)  e.  g.  cf. J.  Lefebvre. La Revolution francaise. Vendome.  195

  , 1

pp.  107et  suivantes. 

(3)  e.  g.  cf.  A. Dansette.  Op.  cit..  pp.  55et suivantes. 

(4)  1789

12

4

日デクレは,プロテスタント教徒の民事的,軍事的登用を認めた。

1790

7

10

日と 1 1 月

9

日のデクレは,宗教を理由とする亡命者の子孫について,また

1790

7

20

日デクレは,ユダヤ人の特別税廃止について定めた。

(5)  Duguit.  Op.  cit..  p.  469.  (6)  J.  Robert.  Op.  cit..  p.  42. 

e.  g.  cf. J. Lefebvre.  op.  cit..  pp.  155et suivantes. 

(7) 

半田元夫・今野国雄,前掲.

314

ページに倣った。なお,聖職者俗事基本法

(G.

デンツ ラー編著,前掲.

149

ページ).あるいは,聖職者公民憲章(エメ=ジョルジュ・マルテ イモール,前掲.

137

ページ)とも訳されている。

(8) 

デュギーによれば,聖職者民事基本法は,議会が教皇庁の承認なしにフランスのカト リック教会に新しい機構をあたえたものであって,信教の自由およびカトリック教の信 教の自由を侵害したものである。その理由は,議会はカトリック教に教会法と矛盾した 機構をあたえたからである。

Duguit. op.  cit..  p.  473. 

(9)  1791

4

13

日に長い沈黙を破って,教皇書簡で基本法に対する教皇庁の態度を示し た。そのなかで教皇は宣誓した聖職者に,彼らの過ちを正すため

40

日の猶予をあたえた。

(

1

ゆ宣誓派とも言う。

(ll) 

分裂の闘争は信者の知的エリートが集まる大都市で起こったが,地方の人々は闘争の 重要性を理解しえなかった。

(

1

の桑原武夫編,前掲.

376

ページ。

(16)

Duguit.op. 

c i t . .  

p.  474. 

(14) 

この宗教体系の教義と道徳にはルソーの考え(市民宗教)が取り入れてあるといわれ ている。

Duguit.ibid.. p. 475.

最高存在の宗教については次を参照されたい。

A. Aulard. Le culte de 

l a  

Raison et de ['Etre supreme. Paris.  1892; J

M.

トムソン著,樋 口謹一訳『ロベスピエールとフランス革命』岩波書庖,昭和

30

年 。

例 桑 原 武 夫 編 , 前 掲 .

377

ページ。

(

1

の但し,年金は認めた。

Duguit.op. 

c i t . .  

p.  475. 

伸一般に, 信教自由令"と呼ばれる。共和国は L 、かなる俸給も,祭記および司祭の住居 のための援助も,いかなる地方にもあたえない,いかなる宗教の祭杷のための市民の集 まりも官憲の監視のもとにおかれる,ことなどを規定している。

(18)  1793

年山獄党権利宣言

7

条一一出版,またはその他のすべての方法で思想および意見 を表明する権利平和的に集会する権利,祭記の自由な実行は,これを禁止することがで きない。

(19) 

建物の外での祭杷の禁止,祭柁をおこなう司祭の活動の抑制などを定めた。デュギー によれば,第

4

条および第

6

条はいきすぎで政府の自由裁量の道を聞くものである,と L  、 う 。

L.Duguit.  op. 

c i t . .  

p.  476. 

A.Dansette.  op. 

c i t . .  

p.  110. 

似) この法律は,カトリック教徒に旧教会の再使用を許したものであったが, しかしこれ は. I 共和国の法への服従宣誓」のもとに,他の諸宗教,諸祭杷との共同使用を許したに すぎないものだった。桑原武夫編,前掲.

380

ページ。

A.Dansette.  ibid..  pp.  111113. 

1792

11

29

日法は,非宣誓聖職者への俸給と年金の支払い停止,全聖職者に対する 再度の宣誓要求,非宣誓者に対する地方自治体の監察を規定した。また.

1793

5

27

日法では.

20

名の市民によって非宣誓派と告発された聖職者は,国外追放に処せられる べきこと,またその者がフランス内で逮捕された場合には

10

年間投獄されるべきことが 定められた。

5

人の総領がそれぞれ等しい権力をもつこと,彼ら

5

人は議会が彼らに服従するよう に議会に服従しなければならないこと,が定められた。

例 パブーフの陰謀によってもたらされた社会主義思想をしづ。

制民主的あるいは政治的集会を意味する。

制 ユルトラ

(ultra)

と呼ばれた王党派による,ボナバルト派の軍人や共和主義者に対する

テロを指す。

(17)

フランスにおける国家と宗教 2 0 5  

2

章 コンコルダ(政教条約)制度

1

節 そ の 成 立

テルミドールの反乱後 最高存在の宗教"は終わりを告げるが,いまだ革 命の理念は存続していた。現に政治家は,依然として人民には宗教が必要だ と考えていたし,

10

日祭の祭式をおこなおうとする試みもなされていた。し たがって,そこには新しい宗教さえも誕生する余地が十分にあったのであ る。そのようななかで,公認宗教として 敬神博愛教 "

CLa theophilan thropie)

と呼ばれるエリートたちに支持された宗教や

5

年祭を祝う宗教の 確立などが試みられる。しかし結局のところ,いずれも失敗に終わってしま う。これらの失敗に言及してダンセットは,

r

人民の感情は,

1792

年や

1793

年の儀式へと燃え盛る群衆を導いた革命の炎に,もはや駆り立てられなかっ たのである。空白のままであることを運命づけられた枠組みを,再建しよう

としても無駄である」と指摘している。

それはともあれ,革命の終局的段階では,もはやカトリック教に対する人 々の敵意は覆うべくもなかったように思われる。再びダンセットの言葉を借 りるなら,次のとおりである。「確かに人々は,たとえそれが多少は緩和さ れているとしても,何百年も続いてきた拘束(カトリック教の拘束)から急 には解放されはしない。けれども一方で,新しい拘束(政教分離)が,人々 の信念に影響をあたえたのでなければ,彼らはそれを

10

年間も甘受すること はできなかったであろう。要するに,フランス革命は,まぎれもなく広がっ ていく,隠れた反キリスト教化をあばき出し,これを強調したのである」と。

また,

1801

年にコンコルダの交渉をしたコンサルピ司教は「人々は大多数が

宗教に無関心である。そのほとんどの人々は都市に住み,残りが田舎に住

む」と語っているが,この言葉は,

19

世紀初頭のフランス人の宗教的感情の

状態を要約したものといえよう。現に都市部は,百科全書派の思想に支配さ

れており,そこでは政治家や官吏同様,都会人は礼拝を強要されるのを欲し

はしなかった。これとは対照的に,農村部ではむしろ,キリスト教は自然な

形で人々に受け入れられていた。つまりそこでは,宗教とは生活に密着した

(18)

ものであった,といっても過言ではなかったのである。そうだとすれば,フ ランス革命はパリの自由主義的・反宗教的思想を,地方の農村部にまで浸透 させることができなかったというべきであろう。要するに,革命末期には大 多数の宗教無関心者が,少数の不屈のキリスト教信者と少数の反宗教のジャ コバン派との闘争にうんざりしていたといってよい。しかしながら,その一 方で,彼ら大多数の無関心者も,古くからフランス人の生活を支配してきた キリスト教道徳と,揺監から墓場までつきまとうカトリックの儀式とに結び ついたままだったのである。その結果,彼らは宗教的枠組みを見出すこと,

あるいは宗教の合法的存在‑宗教的動機は,ほとんど無に等しかったので あるがーーを望んでいた。ナポレオン=ボナバルト(以下ではナポレオンと 略称する)が選任した参事院のメンバーによって発せられた,次のような言 葉は,比喰的に,そうしたフランス人の感情を見事にいい表している。いわ

, I 人々は鐘のない司祭よりも司祭のいない鐘のほうを好む」と。

ところで,革命と対外戦争の動乱に巻き込まれたフランス人は,当然のこ とながら秩序の回復を求めていた。その意味では,彼らの要望に応えてナポ レオンが登場し,フランスを混迷から救ったといえよう。彼は環境一一革命 によってもたらされた急進的規則に混乱した社会状況,彼の才能や運に対す る人々の信仰,組織とイマジネーションに対する彼の能力一ーに助けられた ということができる。そのナポレオンはとりわけ,世俗権力の教会に対する 優位性を保障しようと努力した。これはジャコパン党の反教権主義原理の反 映にほかならず,この点では彼もまた,フランス革命の後継者と目するに足 る。だが,同時に彼は,革命の生んだ自由を否定した。)つまり,ナポレオン はフランスに,政治的自由および市民的自由はもたらさなかったのである。

したがって,ナポレオンの時代は,革命とアンシャン・レジームの妥協の時 代であり,過渡的段階(変化の時代)であったと評価してよいだろう。

周知のように,ナポレオンの登場によっても革命は終わらなかった。もと

より貴族が復活しはしたが,彼らと政府との間には絶えざる闘争があり,そ

うした抗争が

1830

年の革命へとフランスを導いてし、く。つまり,ナポレオン

の治下においても,革命の原理は消え去らなかったわけである。とはいえ,

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