高麗大蔵経初雕本所収の『普超三昧経』について
宮 崎 展 昌
1.はじめに
『普超三昧経』(以下,『普超経』と略称)は,初期大乗経典である〈阿闍世王経〉 *Ajātaśatrukaukṛtyavinodana の現存する漢訳の一つであり,西暦 286 年(太康七年) に,長安で竺法護によって訳出されたと伝わる1). 1.1. 本研究の方法と目的および本稿で扱う資料 本稿では,以下に掲げる 4 種の大蔵経関連の資料所収の『普超経』について, 主に異読の共有関係にもとづき,それらの相互関係を調査・検討する. ①高麗蔵初雕本:11 世紀に高麗で雕造.南禅寺に所蔵されていた版本が近年発見 され,2010 年に Web で公表され,のちに影印版が刊行.10 世紀に四川で開板 された開宝蔵の覆刻とされる.[形式]1 行 14 字,1 紙 23 行,「恭」字号. ②高麗蔵再雕本:13 世紀に高麗で雕造.版木は韓国・海印寺に現存.雕造に際し て開宝蔵や初雕本,契丹蔵などを用いて校訂が施されたとされる.底本につい ては,柳[2015]によれば,開宝蔵によるものと初雕本によるものが混在する が,『普超経』は開宝蔵を底本とするとみられる.形式その他は初雕本と同じ. ③聖語蔵経巻:「唐経」に分類され,中国で筆写されたものとみられる.奥書な し.押されている「東大寺印」から 7 世紀後半以前の筆写とみられる.(田中 [1999]参照),[形式]1 行 17 字,1 紙 26 行から 28 行. ④房山石経:北京近郊の房山雲居寺に現存する石経群.『普超経』に刻年は残され ていないが,陳[1995]によれば,遼の道宗代(1056–1093)に作成されたとみ られる.唐代刻経と同じく,縦長の形式で彫られるが,「鞠」字号が振られ,他 の遼・金代刻経同様,契丹蔵を底本としたとみられる. 本稿ではいわゆる江南諸蔵は調査対象としないが,江南諸蔵はいずれも 4 巻本 構成であり,大正蔵の脚注にもあるように江南諸蔵でのみ共有される読みが相当 数確認できる.3 巻本構成となっている上記 4 種の資料と江南諸蔵とは異なるグ 津子氏,寺田文代氏,沼田晃祐氏に様々なご高配を賜った.心より感謝申し上げる次第 である. 1)身延文庫典籍調査会(2005, 676–677)に「身延山大学図書館に近代以降の典籍が所 蔵されている.この中には,過去に身延文庫に所蔵されていたものも含まれており, 今後の確認調査が必要とされる(望月真澄)」とある. 2)書名は該当資料の内題か尾題により,著者名等は内題に続くものを,また不明記の 場合は『韓国仏教全書』によった. 3)金剛大学校仏教文化研究所(2012)参照. 4)http://www.min.jp/library/bosatukai.html 参照. 5)金天鶴(2014, 68(n. 71))参照.この点については金天鶴博士よりご教示戴いた.記 して深く感謝申し上げたい. 6)金炳坤(2009, 30(n. 52))参照. 〈参考文献〉 小野玄妙編 1935『仏書解説大辞典 9』大東出版社. 大屋徳城 1923『寧楽刊経史』内外出版. ――― 編 1926『寧楽古経選 下』便利堂コロタイプ印刷所. 金沢文庫編 1939『金沢文庫古書目録』巌松堂書店. 金天鶴 2014「新羅仏教における慧遠の受容様相――『大乗義章』を中心として」『仏教学 研究』40: 41–81. 金炳坤 2009「日蓮撰『注法華経』の佐後注記説に対する疑問―― 「法華翻経後記」 を手 がかりとして」『大崎学報』165: 1–32. 国際仏教学大学院大学日本古写経研究所文科省戦略プロジェクト実行委員会編 2013『日 本古写経善本叢刊 5 書陵部蔵玄一撰 『無量寿経記』;身延文庫蔵義寂撰 『無量寿経述 記』』国際仏教学大学院大学日本古写経研究所文科省戦略プロジェクト実行委員会. 金剛大学校仏教文化研究所編 2012『金剛学術叢書 9 華厳経問答をめぐる諸問題』CIR. 渋谷亮泰編 1978『昭和現存天台書籍綜合目録 上 増補版』法蔵館. 東国大学校仏典刊行委員会内韓国仏教全書編纂委員編 1979–2004『韓国仏教全書』全 14 冊,東国大学校出版部. 朝鮮史編修会編 1937『朝鮮史料集真 続』朝鮮総督府. 南宏信 2010「新出 義寂撰『無量寿経述記』写本の検討」『仏教学レビュー』7: 101–122. 身延文庫典籍調査会編 2005『身延文庫典籍目録 下』身延山久遠寺. 〈キーワード〉 元暁,諦観,坂本日深,海印寺,大安寺,身延文庫,『菩薩戒本持犯要記』, 『天台四教儀』 (身延山大学准教授,博士(文学))3.高麗蔵初雕本において他本と共有される異読
3.1. 高麗蔵初雕本と聖語蔵経巻のみで共有される異読 高麗蔵初雕本と他本との異読の共有関係を見ていく.以下に掲げるように,聖 語蔵経巻と初雕本の間では相当数の異読が共有されており,両者は密接な関係に あると認められる3). 【巻上】 T 412c5: 蜜搏/(宋)蜜摶/(初)(聖)蜜揣 T 413a23: 宣揚/(初)(聖)宣楊 【巻中】 T 415a16–17: 昼夜憂悸/(初)(聖)昼夜之 憂悸 T 416a6: (初)(聖)om. 者 T 418a8–9: (再)(房)無斯蔵諸所説法菩 薩/(初)(聖)無斯蔵者所説法菩薩/ (江南諸蔵)無斯蔵有所説法菩薩 T 418c2–3: 而無断絶/(初)(聖)無而断絶 T 418c21: 入於空/(初)(聖)入於空法 T 418c23: (初)(聖)om. 是 T 419b6: (再)(房)無極広施/(初)(聖) 無極広之施/(江南諸蔵)無極之施 T 420c2: (初)(聖)om. 名常 T 420c7: (再)(房)齎香著諸菩薩/(初) (聖)齎著諸菩薩/(宋)齎諸著菩薩/ (他の江南諸蔵)齎諸香菩薩 【巻下】 T 421a21: (初)(聖)om. 無有行者 T 421b12: 無帰趣/(初)(聖)無趣 T 421b22: 無欺妄/(初)(聖)欺妄 T 422b28: 不従度塵法/(初)(聖)不従塵 度法 T 423a6: (初)(聖)om. 以衣 T 423b24: (初)(聖)om. 無 T 423c6: 目前所見/(初)(聖)前目所見 T 423c11: 溥首察見/(初)(聖)溥首見察 T 423c12: (初)(聖)om. 所 T 424c5: (初)(聖)吾我/吾身 T 426b27: 寧見月首太子乎/(初)(聖)寧 見有月首太子乎 T 426c5: (初)(聖)om. 得 T 427a26–27: (初)(聖)om. 乃 T 428a21: 精修/(初)(聖)精進修道 ただし,上記のように,巻上での用例はわずか 2 例に限られ,いずれもマイナー なものと言える.これらから巻上については聖語蔵経巻もしくは初雕本のいずれ か,あるいはその両方が他の巻とは性質や来歴を異にする可能性が考えられる. 3.2. 高麗蔵初雕本と再雕本で共有される異読 両本とも開宝蔵を底本とし,いわゆる兄弟関係にあると考えられる.版式も共 表 1.『普超経』諸資料における Mañjuśrī に相当する訳語 Mañjuśrī の訳語 再雕本 他の大蔵経資料 他の典籍での引用文中 軟首 巻上 初(巻上),宋本,宮内庁本 濡首 巻中 聖(巻上),房,元本,明本 妙法蓮華経文句,宗鏡録 溥首 巻下 聖(巻中・下) 経律異相 ループを形成しているとみなせる.なお,高麗蔵初雕本同様,開宝蔵の覆刻とさ れる金蔵(趙城蔵)には残念ながら『普超経』の現存は確かめられない. 1.2. 竺沙氏の仮説 竺沙[2000]は版式および千字文番号に基づいて,版本大蔵経について以下の 3 種に分類する. 第 1 類蔵経:開宝蔵系 高麗大蔵経(初,再),金蔵〔版式〕1 行 14 字,1 紙 23 行 第 2 類蔵経:契丹蔵 房山石経 〔版式〕1 行 17 字,1 紙 27–28 行 第 3 類蔵経:江南諸蔵 福州版,磧砂蔵,思渓蔵,etc.〔版式〕一行 17 字,1 紙 30 行 竺沙氏は,第 1 類は開宝蔵が四川という地方で作られ,版式も独特であること から「田舎版」とする.それに対し,第 2 類の契丹蔵については氏自身の研究成 果なども踏まえ,長安写経の流れをくむ良本と推測する. ところが,近年漢語大蔵経に関する研究は急速に進展しており,上記の竺沙氏 の仮説・見解は批判的に検証される時期になったと筆者は考える.すなわち,近 年新たに入手可能になった資料を用いながら,個別の典籍について異読などの調 査をとおして諸本の系統を詳細に調査・検討することが必要かつ可能になってい る.特に,今回注目する高麗蔵初雕本は,まとまった分量が現存する最古の木版 大蔵経であり,他の資料との関係を探ることは重要であり,さらに,幸い『普超 経』には聖語蔵経巻本も伝わるので,興味深い事例を提供できると考えられる.2.Mañjuśrī
に相当する訳語
諸本間における異読の共有関係を見ていく前に,次ページの表 1 に掲げたよう に,『普超経』では Mañjuśrī に相当する訳語が諸本で相違し,特に,再雕本と聖 語蔵経巻では巻ごとに訳語が異なる.特定の固有名詞の訳語が巻ごとに異なるの は訳者や翻訳過程に由来するものとは考えにくく,後世の流伝の過程で起きたも ので,なんらかの系統関係などを反映している可能性が考えられる. 再雕本で巻ごとに Mañjuśrī の訳語が異なるのは,その開板の際に行われたとさ れる校訂作業の結果と考えられる2).一方,初雕本の巻上では「軟首」のみが出 現するが,他の巻では上記 3 種に加え,「䎡首」といった 4 種が不規則に現れる. 聖語蔵経巻では,表 1 のとおり,巻上と巻中下で Mañjuśrī に相当する訳語が異 なる.経題についても,巻上では「文殊師利普超三昧経」とするのに対し,巻中 下では単に「普超三昧経」とする.これらから,聖語蔵経巻所収の三巻は,巻上 と巻中下でその来歴・系統が異なっていた可能性が想定できる.3.高麗蔵初雕本において他本と共有される異読
3.1. 高麗蔵初雕本と聖語蔵経巻のみで共有される異読 高麗蔵初雕本と他本との異読の共有関係を見ていく.以下に掲げるように,聖 語蔵経巻と初雕本の間では相当数の異読が共有されており,両者は密接な関係に あると認められる3). 【巻上】 T 412c5: 蜜搏/(宋)蜜摶/(初)(聖)蜜揣 T 413a23: 宣揚/(初)(聖)宣楊 【巻中】 T 415a16–17: 昼夜憂悸/(初)(聖)昼夜之 憂悸 T 416a6: (初)(聖)om. 者 T 418a8–9: (再)(房)無斯蔵諸所説法菩 薩/(初)(聖)無斯蔵者所説法菩薩/ (江南諸蔵)無斯蔵有所説法菩薩 T 418c2–3: 而無断絶/(初)(聖)無而断絶 T 418c21: 入於空/(初)(聖)入於空法 T 418c23: (初)(聖)om. 是 T 419b6: (再)(房)無極広施/(初)(聖) 無極広之施/(江南諸蔵)無極之施 T 420c2: (初)(聖)om. 名常 T 420c7: (再)(房)齎香著諸菩薩/(初) (聖)齎著諸菩薩/(宋)齎諸著菩薩/ (他の江南諸蔵)齎諸香菩薩 【巻下】 T 421a21: (初)(聖)om. 無有行者 T 421b12: 無帰趣/(初)(聖)無趣 T 421b22: 無欺妄/(初)(聖)欺妄 T 422b28: 不従度塵法/(初)(聖)不従塵 度法 T 423a6: (初)(聖)om. 以衣 T 423b24: (初)(聖)om. 無 T 423c6: 目前所見/(初)(聖)前目所見 T 423c11: 溥首察見/(初)(聖)溥首見察 T 423c12: (初)(聖)om. 所 T 424c5: (初)(聖)吾我/吾身 T 426b27: 寧見月首太子乎/(初)(聖)寧 見有月首太子乎 T 426c5: (初)(聖)om. 得 T 427a26–27: (初)(聖)om. 乃 T 428a21: 精修/(初)(聖)精進修道 ただし,上記のように,巻上での用例はわずか 2 例に限られ,いずれもマイナー なものと言える.これらから巻上については聖語蔵経巻もしくは初雕本のいずれ か,あるいはその両方が他の巻とは性質や来歴を異にする可能性が考えられる. 3.2. 高麗蔵初雕本と再雕本で共有される異読 両本とも開宝蔵を底本とし,いわゆる兄弟関係にあると考えられる.版式も共 表 1.『普超経』諸資料における Mañjuśrī に相当する訳語 Mañjuśrī の訳語 再雕本 他の大蔵経資料 他の典籍での引用文中 軟首 巻上 初(巻上),宋本,宮内庁本 濡首 巻中 聖(巻上),房,元本,明本 妙法蓮華経文句,宗鏡録 溥首 巻下 聖(巻中・下) 経律異相 ループを形成しているとみなせる.なお,高麗蔵初雕本同様,開宝蔵の覆刻とさ れる金蔵(趙城蔵)には残念ながら『普超経』の現存は確かめられない. 1.2. 竺沙氏の仮説 竺沙[2000]は版式および千字文番号に基づいて,版本大蔵経について以下の 3 種に分類する. 第 1 類蔵経:開宝蔵系 高麗大蔵経(初,再),金蔵〔版式〕1 行 14 字,1 紙 23 行 第 2 類蔵経:契丹蔵 房山石経 〔版式〕1 行 17 字,1 紙 27–28 行 第 3 類蔵経:江南諸蔵 福州版,磧砂蔵,思渓蔵,etc.〔版式〕一行 17 字,1 紙 30 行 竺沙氏は,第 1 類は開宝蔵が四川という地方で作られ,版式も独特であること から「田舎版」とする.それに対し,第 2 類の契丹蔵については氏自身の研究成 果なども踏まえ,長安写経の流れをくむ良本と推測する. ところが,近年漢語大蔵経に関する研究は急速に進展しており,上記の竺沙氏 の仮説・見解は批判的に検証される時期になったと筆者は考える.すなわち,近 年新たに入手可能になった資料を用いながら,個別の典籍について異読などの調 査をとおして諸本の系統を詳細に調査・検討することが必要かつ可能になってい る.特に,今回注目する高麗蔵初雕本は,まとまった分量が現存する最古の木版 大蔵経であり,他の資料との関係を探ることは重要であり,さらに,幸い『普超 経』には聖語蔵経巻本も伝わるので,興味深い事例を提供できると考えられる.2.Mañjuśrī
に相当する訳語
諸本間における異読の共有関係を見ていく前に,次ページの表 1 に掲げたよう に,『普超経』では Mañjuśrī に相当する訳語が諸本で相違し,特に,再雕本と聖 語蔵経巻では巻ごとに訳語が異なる.特定の固有名詞の訳語が巻ごとに異なるの は訳者や翻訳過程に由来するものとは考えにくく,後世の流伝の過程で起きたも ので,なんらかの系統関係などを反映している可能性が考えられる. 再雕本で巻ごとに Mañjuśrī の訳語が異なるのは,その開板の際に行われたとさ れる校訂作業の結果と考えられる2).一方,初雕本の巻上では「軟首」のみが出 現するが,他の巻では上記 3 種に加え,「䎡首」といった 4 種が不規則に現れる. 聖語蔵経巻では,表 1 のとおり,巻上と巻中下で Mañjuśrī に相当する訳語が異 なる.経題についても,巻上では「文殊師利普超三昧経」とするのに対し,巻中 下では単に「普超三昧経」とする.これらから,聖語蔵経巻所収の三巻は,巻上 と巻中下でその来歴・系統が異なっていた可能性が想定できる.性格を有していた可能性を示唆する.
5.まとめにかえて
これまで見てきたように,『普超経』に関しては,聖語蔵経巻もしくは高麗蔵両 本の親である開宝蔵,あるいはその両方で,巻上は他の巻とは系統,来歴が異な る可能性が考えられる.紙数の関係で巻上の系統関係の詳しい検討は別の機会に 譲るが,巻中・下については,聖語蔵経巻と初雕本がかなり近しい関係にあるこ とが確かめられた.また,高麗蔵の両本が兄弟関係にあることや契丹蔵が再雕本 開板の際の校訂作業に用いられたことが異読の共有関係からも確かめられた. 1)『普超三昧経』の経題および経録の記述については拙著[2012: 6–7]参照. 2)高 麗蔵再雕本冒頭では「軟首或作濡首,或作溥首」という注記がなされる. 3)以 下,本節においては,紙数の関係から巻中下については主だった異読のみを掲げる. 〈略号〉 T 大正新脩大蔵経第 15 巻 627番. (初) 高麗蔵初雕本,域外漢籍珍本文庫編纂出版委員会編『高麗大蔵経初刻本輯刊』第 12 冊. (再) 高麗蔵再雕本,東国大学校『高麗大蔵経』第 10 冊 175 番. (聖) 聖語蔵経巻,宮内庁正倉院事務所編『聖語蔵経巻』隋・唐経篇,22. (房) 房山石経,中国仏教協力会編『遼金刻経』第 10 冊 431 番. (宋) 宋本(思渓蔵). 〈参考文献〉 田中史生 1999「「東大寺印」 と 「造東寺印」 ――正倉院文書の分析から」『国立歴史民俗 博物館研究報告』79: 235–248. 竺沙雅章 2000『宋元仏教文化史研究』汲古書院. 陳燕珠 1995『房山石経中遼末与金代刻経之研究』覚苑文教基金会. 宮崎展昌 2012『阿闍世王経の研究――その編纂過程の解明を中心として』山喜房佛書林. 柳富鉉(中野耕太訳)2015「高麗大蔵経についての新たな見解」『日韓の書誌学と古典 籍』アジア遊学 184 号,勉誠出版,47–65. (本研究は JSPS 科研費 JP16K16694 の助成を受けたものである.) 〈キーワード〉 『普超三昧経』,高麗大蔵経,初雕本,再雕本,房山石経,聖語蔵経巻 (大谷大学任期制助教,博士(文学)) 通し,改行箇所も基本的に一致する.両本にのみ共有される異読については,紙 数の関係で具体的に用例を掲げることはできないが,管見の限り,典籍全体で 28 例以上見出せ,両者の密接な関係が確かめられる.ただし,初雕本には独特の改 行箇所が 1 箇所(巻上,第 14 紙 9 行目)見られ,これは再雕本には受け継がれてい ない.このことは,柳[2015]が推測するように,本経に関して再雕本が開宝蔵 を底本としたという見方を支持する. 一方,管見の限り,初雕本と房山石経でのみ共有される異読は見出せなかった.4.高麗蔵再雕本において他本と共有される異読および改版の痕跡
4.1. 高麗蔵再雕本と房山石経が共有する異読 再雕本と契丹蔵にもとづく房山石経の間で下記のように一定数の異読が共有さ れる.このことから再雕本開板の際の校訂作業に契丹蔵が用いられたことが確か められる. 【巻上】 T 407b8: (再)無難鎧無罣礙鎧/(房)無 難鎧無礙鎧/(初)無罣礙鎧/(聖)無 礙鎧/(江南諸蔵)無饐礙鎧 T 410a11: 辞/(再)(房)詞 【巻中】 T 414a6: 制江波/(再)(房)湍江波 T 414a14: 吾身願/(再)(房)吾誓願 T 415a15: (再)(房)嬉遊/(初)凞遊/(聖) (江南諸蔵)煕遊 T 416c16: 亦無怯弱/(再)(房)亦不怯弱 T 418a8–9: (江南諸蔵)無斯蔵有所説法/ (再)(房)無斯蔵諸所説法/(初)(聖) 無斯蔵者所説法 【巻下】 T 419b6: (再)(房)無極広施/(初)(聖) 無極広之施/(江南諸蔵)無極之施 T 420c7: (再)(房)各齎香著諸菩薩/(初) (聖)各齎著諸菩薩/(他の江南諸蔵) 各齎諸香菩薩/(宋)各齎諸著菩薩 T 422c10: 有所受/(再)(房)而有所受 一方,管見の限り,再雕本と聖語蔵経巻でのみ共有される異読に特筆すべきも のは見出せなかった. 4.2. 改版の痕跡 再雕本は通常 1 行 14 字であるが,再雕本で 1 行の字数に増減が見られる箇所の うち,初雕本の対応箇所では他本と比べて文字の増減を含む異読が相当数確認で きた.これらは再雕本が契丹蔵を用いて開宝蔵を改版した痕跡である可能性が高 い.紙数の関係から具体的に用例を掲げることはできないが,巻中下ではそれぞ れ 7 例,14 例と一定数確認できたのに対し,巻上ではわずか 1 例に過ぎない.こ れは初雕本と再雕本の親である開宝蔵について,巻上が巻中下とは異なる来歴・性格を有していた可能性を示唆する.