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(1)

原 著 論 文

日本の主として産業革命時の銅製錬が自然環境及び社会にもたらした影響 島 崎 光 清

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a早稲田大学大学院人間科学研究科(GraduateSchoolofHumanSciences,WasedaUniversity)

Ter uzumiShi mazaki

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Gr aduat eSchoolofHumanSci ences,WasedaUni ver si t y)

(Recei ved : Mar ch10,2008 ;Accept ed : August22,2008 )

TheImpactofCopperSmel t i ngont heNat uralEnvi ronmentandSoci et yPri mari l y Duri ngt heJapaneseIndust ri alRevol ut i on

Abst ract

DuringthefirststageoftheIndustrialRevolutioninJapan,minepollutionincidentoccurredinthe areasurroundingtheAshioCopperMine.Atthetime,thenewesttechnologywasbeingusedinthe mine;however,pollutantcontroltechnologyhadnotyetbeenimplemented.Thelevelofmine pollutionwasthereforeproportionaltotheincreasedlevelofcopperproduction.Oneby-productof smeltedcopperwassulfurousacidgas,whichaffectedthesurroundingarea'sresidents,forest,and farmland.Moreover,woodharvestingforfuelandbuildingmaterialshadcauseddevastating deforestationinthearea,resultinginsoilcontaminationanddisruptionoftheecosystem.Geographic andtopographicalconditionsalsocontributedtotheenvironmentaldeterioration;theAshiodistrict wasenclosedbymountains,whichconcentratedsulfurousacidgasaroundMatsukivillageandother villagesinthevicinityofthesmelter.Furthermore,theAshiosmelterwaslocatedinlandandcopper wastecompoundscarrieddownstreambytheWataraseRivernegativelyimpactedthelivesofpeople in villagesdownstream.Although both the mining company involved and the government acknowledgedthatcoppersmeltinghadcausedminepollutioninthearea,neithertookany responsibilityforthedamages,andpublicattemptstopressurethegovernmentandthemining enterprisetotakeactiontoreducefuturedamageendedinfailure.

KeyWords:Coppersmelting,IndustrialRevolution,Minepollution,Ashio

(2)

1.はじめに

製錬の歴史は日本史の古代から始まる。しかし産 業革命時の大規模な鉱害はその周辺の人々に大きな 被害を及ぼした。それ以前にも、日本で銅製錬は行 なわれたが、この時期の鉱害は、その後の現代の人々 の生活に影響を与えた。現在の鉱害問題の改善点は 産業革命時の反省点から生まれ、いまだに存在する 問題点はこのときの負の遺産である。日本は、欧州 の先進国に遅れて産業革命を成し遂げた。しかし、

英国と同様に、産業革命は同時に環境へ負荷を与え 環境問題を引き起こした。鉱害もそのひとつである。

本研究では、主として産業革命時の近代日本の金属 産業、とくに銅の製錬と環境の問題について、足尾 銅山の製錬の例を取り上げる。

この時期に日本では、足尾以外の別子、小坂、日 立でも銅の製錬が行われたが、足尾がその中で最初 であった。日本の近代社会が鉱害に対してどのよう に対処したかを足尾の銅製錬の鉱害を通して知るこ とができると考える。菅井(1979a)は,これらの鉱 害事件を比較研究し、足尾における被害民の運動が、

結果的には体制側に鉱毒・煙害事件の一般的処理方 式の確立を促したとしている。つまり、別子、小坂、日 立の鉱害問題の展開は足尾の事件をふまえて展開し た。本論では日本の産業革命期の初期に人々が鉱害

に対処した足尾の事例を取り上げ、そこで鉱害に対 する日本の特性を探ることとする。やがて英国と日 本との産業革命時の鉱害問題の比較をする場合にも、

日本的な特徴が表れていると思われる足尾を選んで この事例を調べることが有効と考える。

日本の産業革命の時期については、さまざまな見 解があるが、本論では、19世紀末から20世紀初頭に かけての時期として、論を進めていく。この時期を 中心とした足尾の鉱害問題を取り上げ、政府、企業、

一般民衆の対応を明らかにし、足尾銅山と環境との 関連について検討する。現代では、環境問題は広域 化し複雑化している。ここで歴史上の足尾銅山の問 題を、環境との関わりで取り上げることは今日の環 境問題を考えるためにも意義あるものと考える。と くに発展途上国の経済成長が多くの鉱害問題を引き 起こしている現状では、今日的な課題でもある。

2.足尾地域の地質

関東平野の北に隣接する足尾山地の地質は次の4 つに大きく区分できる。(1)二畳系~下部白亜系、

(2)白亜系~古第三系、(3)新第三系、下部中新統

~上部中新統、(4)上部中新統以降の4区分である

(山元ほか,2000)(図-1)。

中新世の海底火山活動で特徴づけられるグリーン

図-1 足尾付近の地質

{須藤他(1990)と山元他(2000)の園を筆者が簡略化}

(3)

タフ地域は多くの金属鉱床が生成されている。足尾 鉱床もこのひとつである。足尾鉱床の銅鉱床は足尾 流紋岩と呼ばれる、主として溶結凝灰岩からなる岩 体中に存在する熱水鉱床である(兼平ほか,1980)。

足尾鉱山の場合は、熱水鉱床の中の鉱脈鉱床に分類 される(兼平ほか,1980)。鉱脈鉱床は、普通数10cm から数mのまとまった脈幅を持ち、走行傾斜方向に連 続するものをいう(円城寺,2004)。また流紋岩のま わりの古生層中のチャートや流紋岩自体を交代して できた河鹿と呼ばれる交代鉱床もある (兼平ほか,

1980)。

3.産業革命時の鉱山開発、製錬と環境の関係の歴史

(1)概況

日本の産業革命について、大石(1977)は、国家 権力・軍事機構の強化を第一の要請にして行われた とする。それは一挙に機械制大工業を移入し、地主、

商業資本の他律的な上からの産業資本への転化の道 であった。その結果、賃労働関係等の生産過程にお いても、流通過程においても半封建的関係が否定さ れずに残り、むしろ維持強化された。さらに、特質 として、江戸時代に既に発達していた経済活動を基 礎にして欧米からの技術を移入して効率的な産業革 命を成し遂げた点をあげている。江戸時代末期にお いて国民の基礎的な学力がある一定の水準にあった ことも、産業革命を進めるにあたって有効であった。

また江戸幕府から明治新政府へという政権の交代の 直後に産業革命があり、思い切った政策を実行しや すかったと考えられると説明する。効率的な技術の 導入があっても、鉱害についての認識、対処につい ての思想や技術の導入はなかった。鉱害についての 認識等は、産業革命先進国でも未発達であった。

足尾で銅の富鉱が発見された当時、日本の工業は 本格的な発展期を迎えてはいなかった。銅を使用す る産業は実用的な什器類程度で消費量も小量であっ た。国内の需要だけ期待するのではなく、海外にも 販路を求めなくてはならなかった。1888(明治21)

年、英国商社ジャーディン・マセソン商会を介して シンジケートより古河鉱業会社に向こう三年間の全 産銅の購入について引き合いがきた。1888(明治21)

年7月の契約で、同年8月から1890(明治23)年12 月まで古河鉱業会社の1.9×10トンの銅を引き渡 す契約が成立した。この契約を履行するために、産

銅量をさらに5、6割高めなければならなかった。

その過程で、坑内から銅、硫酸を大量に含んだ地下 水が湧出し、選鉱、製錬の過程で生じる鉱さい、廃 石などとともに渡良瀬川に廃棄され、汚染が一挙に すすんだ(藤本,1993)。このように海外における銅 需要によって銅生産が支えられた。1899(明治32)

年から輸出税の免除もあって、輸出はいっそう促進 された。これに伴い、銅輸出額の全輸出総額に占め る比率もしだいに上昇し、1882(明治15)年の2.2%

から1900(明治33)年には6.3%となった(日本経営 史研究所,1976)。

(2)足尾地域

①地理

この地区を渡良瀬川とその支流が流れる。支流の ひとつ、餠ヶ瀬川沿いに唐風呂地区がある。また支 流の庚申川沿いに小滝坑があった。渡良瀬川本流を 遡り、高原木の地区から、松木川、仁田元川、久蔵 川に分かれ、それぞれの川沿いに、松木、仁田元、

久蔵の地区があった。足尾製錬所は本山の約700mの 標高にあった。松木地区は渡良瀬川の支流の松木川 に沿って北西に遡ったところに位置した。約800mの 標高にあった松木地区は、四方を尾根で囲まれてお り、松木川の上流部の標高は1000m付近である。

②歴史

宇井(1982)は足尾銅山の鉱毒問題を「起」「承」「転」

「結」にまとめている。「起」を1880年代初頭から1895 年ころまで、「承」を1901年ころまで、「転」を1919 年ころまで、「結」をそれ以降とした。これによれば、

「起」に鉱害の発生、訴訟等が含まれる。「承」に第 一次の鉱毒調査会、大衆運動、排煙脱硫塔等工事が 含まれる。「転」には谷中村強制破壊、谷中村の遊水 地化が含まれる。「結」には、反対運動の終息、沈殿 池からの氾濫、遊水地決壊が含まれる。

また菅井(1979a)は、足尾銅山鉱毒事件を被害 に関する分析、被害民側の反対運動に関する分析、

加害企業と体制側の対応に関する分析、世論の動向 に関する分析から社会問題化した時期を3つの時期 に区分した。その第1期は1890~1896年、第2期は 1897~1901年、第3期は1902~1907年である。運動 形態について見ると請願、陳情が主であるが、その 一面では直接行動的な側面を持っていた。第2期、

(4)

第3期において、首都の政治家、宗教家、言論人、

知識人などによる幅広い支援が目立った。足尾での 運動は、加害者に対する要求ではなく、政府に対し て「鉱業停止」を要求するものであった点が特色であ る。政府は、鉱業停止にならない解決を図った。つ まり渡良瀬川下流地域の遊水池化を計画した。菅井

(1979a)は、これらの各時期の中で、(1)被害の 発生、(2)被害民による被害の認識、(3)被害民の 鉱害反対運動とそれに対する加害企業または体制側 の対応、(4)体制側の一定の対策と事件処理、 (5)

事件の再発の五段階をとるという見方をしている。

本論文は、菅井(1979a,b)のように足尾銅山、

別子銅山、小坂鉱山、日立鉱山の鉱害事件の比較研 究ではないので、足尾銅山についての時期を1期、

2期、3期という分類をしないで、一連のものとし た。菅井(1979a)の第1期以前に鉱害は、発生し ており、その元になるのは古河家による経営である ので、明治初期から詳細に検討していくことにする。

足尾銅山は1610(慶長15)年に発見され、翌年か ら幕府直轄銅山として銅製錬を開始したといわれる。

1877(明治10)年、足尾銅山が古河市兵衛の経営に 移り、近代的な鉱山経営がはじまった。1877年の古 河家の足尾銅山の経営開始が汚染源の発生の源流で あった。

その後の足尾付近の鉱害の歴史的段階を(表-1)

にまとめた。それは、1.汚染源発生、2.現象の認知、3.

反対運動、4.現象の科学的解釈、5.対策、6.終息の 6段階である。鉱害のうち煙害は1956年に古河オー トクンプ法という製錬技術が完成するまで発生し続 けていた。また、2.現象の認知、3.反対運動、4.現 象の科学的解釈、5.対策の一部は同時並行で進行す る場合もあった。これらの段階は、ある段階が終了 して次の段階へ行くというものではない。ただ、そ れぞれの段階の初期を並べると、おおよそこのよう な順番になることを示している。1882年に煙害の発 生が認められていた。1884(明治17)年に巨大鉱床 の横間歩大直利が発見される以前であり、ダイナマ イトの使用やシュラム削岩機や水套式熔鉱炉等の新 技術使用前に鉱害が発生していたことは注目に値す る。1956年までの期間、採用された技術は鉱害の発 表-1 足尾付近の鉱害の歴史的段階

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(5)

生を抑制することを考慮に入れない技術だった。そ の結果、生産量が高まるほど、煙害の程度は大となっ た。

1883(明治16)年の産銅量が647トンであったもの が、翌年に2286トンになった。この時点で、全国産 銅量の26%を占め、別子銅山を抜いて全国一の銅山 になった(加藤,2003)。その翌年は、4000トンを越 えた。全国生産量のうちで足尾の占める割合も増加 し、1891年では、全国生産量のうち約4割が足尾産 となった(表-2)。採掘製錬技術が進歩し、鉱害が 発生して反鉱害運動が起きた。これに連動して政治 活動が生じたという動きを、(表-1)に示す。

③技術的変化

選鉱法について、足尾銅山では、1883(明治16)

年から洋式機械を用いて、近代的な方法が導入され た。その後改良され、1885(明治18)年には、含銅 品位4~5%以下の低品位粗鉱も使われるように なった。この時代、これが限界であった。さらに1907

(明治40)年前後には1%含銅の低品位鉱も有利に 処理し、8~10%含銅の精鉱を得ることができた(日 本経営史研究所,1976)。

足尾の溶鉱炉が製錬用燃料としてコークスを使用 したのは1887(明治20)年である。はじめ大阪市場 でコークスを購入し、これを足尾まで輸送していた。

やがてコークスを自給自足する計画をたて、東京府 南葛飾郡に深川骸炭所を建設し、1888(明治21)年 10月から操業を開始した。製錬法について、足尾銅 山では、はじめ、伝統的な方法で行われていたが、

1883年ごろから焼鉱(鉱石から硫黄分をとばした後

表-2 足尾、古河、全国の産銅量の変化

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(6)

の銅鉄の化合物)と焼鈹(不純な硫化物)を同時に 溶解製錬する方法を採用した。さらに1887年に水套 式熔鉱炉を築造した(日本経営史研究所,1976)。

それまでのレンガで造られた高炉に熱に弱い欠点 があった。ヨーロッパで開発された水套式熔鉱炉は、

鉄板で二重に囲み、その中に水を入れて冷却すると いう技術であった。鉄板の表面に鉱滓や鉱石が付く ことにより、鉄の腐食を防ぐことができ、外からの 水の冷却で鉄をもたせることができる。新しい技術 で生産が上がり、二酸化硫黄の放出が増えた。足尾 では硫砒銅鉱(CuAsS)も混ざっているので、動 植物へ有毒な砒素を煙と一緒に放出した(宇井,

1971)。

べセマ製錬法は、1856年にべセマが行った鉄製錬 法である。1880年フランス人マネースはこれを銅製 錬に応用し成功を収めた。1883~1884年、アメリカ、

モンタナ州のパロット社の銅製錬所で、このマネー スのやり方によるべセマ製錬法が紹介された(池田,

1940)。足尾では、1893(明治26)年より、この方法 による製錬を始めた。鉱石を焼鉱したものを熔解し て50%の銅鈹として、これを熔鈹炉で再熔する。次 にこれを転炉に入れ、空気圧気機を使用して送風し、

そこで銅鈹に急激な酸化作用を促し、これから発生 する熱量によって金属状態となるまでこれを自熔さ せる。不純物は酸化され除去され、同時に燃料を必 要とすることなく良好な銅を得ることができる。従 来は鉱石から製銅を得るには32日間を要したが、こ の製錬法で2日に短縮できた(日本経営史研究所,

1976)。二村(注1)によれば、32日は土竃を用いて 焼鉱していた時代の数字であろうという。反射炉に よる焙焼で焼鉱日数が2週間以上短縮され、さらに 転炉の導入によって約15日が節約されたという。

④鉱害

東海林(1982)は製錬所から発生する二酸化硫黄 の量を、統計的手段により濃硫酸に換算して産銅量 の4倍であると推定した。その結果、1907年までの

放出亜硫酸を濃硫酸に換算して、累計539,820トンで あるとした。

黄銅鉱(CuFeS)から銅を製錬する過程を次に 示す(志賀,2003)。

2CuFeS+SiO+4O→ CuS+2FeO・SiO+ 3SO

CuS+O→ 2Cu+SO

上の2式から、2Cuが生じ、同時に4SOが生じ る。この4SOから4HSOが生じる。本論では、

分子量の比(4HSO/2Cu)=3.1から、発生する 二酸化硫黄は濃硫酸に換算して、産銅量の3.1倍とし た。足尾銅山の場合、(表-2)に示すように1884年 の銅生産量が2286トン、1885年に4090トンになり、

それ以降、20世紀初期の生産量は年間6000トン以上 になっている。1877年の創業以来1907年までの累計 産銅量は、133,043トンである。この期間、1885年以 降、年間1×10~2×10トン程度の硫酸が周辺に 放出されたことになる。1877年から1907年までの間 に、発生した二酸化硫黄の濃硫酸換算量は、4.1×

10トンに達する(表-3)。

(a)山林への影響

1884(明治17)年の横間歩大直利の採掘を機とし て、急激な出鉱増加を処理するために、製錬用木炭 の供給が重大問題となった。1880(明治13)年の木 炭の年間消費量は2.55×102トンであったが、1885

(明治18)年には、47倍の1.19×10トンになった。

また木炭以外に、坑木用丸太や建築材のための山林 資源の需要があった。このため銅山近くの山林資源 伐採が急速に進んで枯渇する状態に達していた(日 本経営史研究所,1976)。山林資源の不足は、やがて コークスの使用という道を歩むことになった。この ことは英国と同じであるが、英国と異なり、日本は 既に出来上がっているコークスの技術を取り入れて 実践するだけであった。

二酸化硫黄は降雨によって硫酸となり、土壌を汚 染し、植物の種をまいても芽が出ず、苗、若木も枯

表-3 足尾銅山の累計産銅量と発生した亜硫酸の濃硫酸換算量

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(7)

らした。銅の生産増大により、鉱毒と煙害が激化し た。銅製錬の燃料等の確保のため山林は乱伐され、

水源涵養林は荒廃した。これらの諸要因の加速度的 な進行によって、生態系は破壊され、剥がれた山の 表面は露出し風化、崩壊が進んだ。

(表-4)に足尾官林の伐採面積を示す。伐採面積 は1884年の横間歩大直利の発見以来大幅に増加し、

1888年には1,571haにも達した。農地被害の顕在化 した1890年までの伐採面積の累計は4,501haに達し ている。水源涵養林である山林の伐採は、洪水の発 生の原因となった。山林の伐採は、1888年、1890年、

1891年に渡良瀬川に大洪水を招いただけでなく足尾 山林を急速に荒廃させていった。(表-4)にある 1881年から1893年までの足尾の官林伐採面積の合計 は、6,704haであった。これを足尾・細尾官林輪伐 区域の足尾分だけの10,981haと対比すると、61%と なる。また足尾官林総面積の13,394haと対比しても 50%である(栃木県史編さん委員会,1984)。

木炭を還元剤として使う場合、1トンの銅を生産 するために約4トンの木炭が必要になる。木炭は、

生木28m3から約4トンとれる。また1haの森林か ら、およそ28mの用材が確保できる。つまり1ha の森林から4トンの木炭ができることになる(小野 崎,2006)。1877年から、コークス使用の前年である 1886年までの累計産銅量は、11,197トンであり、こ れをすべて木炭で製造すると1.1×10haの森林が 必要ということになる。この数字は、足尾官林総面 積の13,394haと比較しても大きな数字である。木炭 を地元だけでなく群馬県沢入村方面からも移入して いた(栃木県史編さん委員会,1984)が、木材の需要 は他に支柱木、土木建築用材等で多かった。また、

野火による山林の消失や製錬過程で発生する有毒ガ スの煙害によっても山林に負荷がかかった。

(b)鉱山周辺への影響

製錬所が分散設置されていた1882(明治15)年に、

被害が発生していた。製錬所周辺の赤倉、本山、間 藤で草木が枯れていた。製錬所からの高濃度の二酸 化硫黄がこの地区に吹き付けていたことが推察され る。1883(明治16)年には、製錬所から渡良瀬川、

その上流の松木川沿いに排出ガスがまっすぐ北上し ていった。その先にある松木村でも被害が出た。こ こでは農作物の不作が目立った。1883(明治16)年 は、後に小滝につくられた製錬所を除くその他の製 錬装置が本山に集められた年である。1885(明治18)

年に赤倉、高原木、仁田元、久蔵、間藤、松木の6村 が農作物被害について県知事に請願しようとした。

しかし、赤倉の龍蔵寺の住職が足尾銅山との交渉を 買って出て、松木村を除外した残りの5村のために 示談金を得た(飯島,1982)。

1887年以降、煙害は一層激しさを加えた。第一次 鉱毒調査委員会の委員の農商務省技師和田国次郎は、

1893(明治26)年当時の状況を「明治林業逸史」の 中で二酸化硫黄によって樹木、草本がなくなり、山 骨が露出されている状況を報告した。被害民による 請願や示談要求などの本格的要求に対し、銅山側は、

野火が原因とみられる大火を山林荒廃の最大原因と 主張した。特に1887(明治20)年の火災は、足尾東 部8地区におよぶ大火災であった。和田国次郎は野 火による森林荒廃を認めつつも、煙害によって山林 が岩石崩壊にまで追い込まれている状況を述べてい た(栃木県史編さん委員会,1984)。

鉱山側は、1885(明治18)年以降に煙害が発生し たと主張した。これは、松木を除く5村の住民と銅 山との間の示談契約が1885年に結ばれたことを念頭 においてのことと思われる。このとき除外された松 木村は1895年に示談に応じた。銅山側は唐風呂住民 との訴訟に勝った直後であり、松木住民にとっては 不利な示談であった。この示談で、既往及び将来の 一切の損害について何らの請求もしないという永久 示談の条項が含まれていた(栃木県史編さん委員会,

1984)。

1893(明治26)年4月、煙害の被害を受けていた 唐風呂の住民は、その被害に対する和解願を宇都宮 表-4 足尾官林の伐採面積

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(8)

地区裁判所に提出した。一ヵ月後、古河鉱業会社は 事実を認めず、要求を拒否した。山元住民は多かれ 少なかれ銅山の恩恵を受けていた。古河鉱業会社は、

これを利用して住民の分断を図った。和解を拒否さ れた唐風呂住民は、1895(明治28)年4月、東京地 方裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こした。33名の 原告は、1883(明治16)年以降、畑作物、養蚕、山 林、果樹などに被害が現れ、1888(明治21)年の小 滝銅鉱での発掘以来、野菜をはじめ桑その他の樹木 にいたるまでことごとく枯れていると主張した。同 時に農学者、稲垣乙丙の提出した証明書は、主たる 原因として二酸化硫黄をあげ、それに次いで銅、砒 素をあげた(栃木県史編さん委員会,1984)。一方、

銅山側は、農産物減収、山林荒廃と煙毒の因果関係 を否定することに努めた。農作物、養蚕の減収の事 実はなく、たとえあったとしても、農作業を怠った ためであるとした。山林荒廃は野火のためであり、

さらには薪炭需要の増大とその高騰によって乱伐が 進んだためであると主張した。裁判所は、両者の対 立点に対して明確な判断を示さなかった。

1895(明治28)年7月、東京地方裁判所は「原告 ノ請求相立タズ」と判決を出して、結果的に古河市 兵衛の勝利に終わった。孤立した唐風呂住民は敗訴 後4か月で示談に応じた(栃木県史編さん委員会,

1984)。

1896(明治29)年に初の鉱害予防工事命令が出さ れ、1897(明治30)年に第2回鉱害予防工事命令が 出された。二酸化硫黄対策として脱硫塔の建設があ げられたが、効果なく、被害はさらに拡大、深刻化 した。1900(明治33)年に、松木村村民は政府へ

「人命救助嘆願書」を提出した。そこには二酸化硫 黄のために山林、耕作地、宅地、家畜、人々の健康 に被害が及んでいることが書かれていた。1902(明 治35)年に、松木村村民は離村のために田畑、宅地、山 林のすべてを足尾銅山に廉価で売り渡した(飯島,

1982)。

地理的に松木村は製錬所北部で久蔵、松木、仁田 元の3川が合流する地点から松木沢沿いに北西にや や入りこんだ区域にあった。製錬所から松木へは、

渡良瀬川から松木川へと川沿いにほぼ直線的な道が 通っている。この川の左岸に切り立った高い峰の連 なり、右岸にはやや平地があるものの、松木村跡は、

南、北、西を山で囲まれている。飯島(1982)は風

との関係について「製錬所は松木の南東に建設され ており、夏季に南風がそこから排出される亜硫酸ガ スを運んだ。松木渓谷は自然の煙道の役割をした。

冬季の北西の季節風は、左岸の高い山並みに妨げら れて、無風状態になりここに亜硫酸ガスが到達すれ ば停滞しやすくなった」と記している。村上(2006)

によれば、足尾地区の最多風向は、6月、7月の南 西以外は、ほとんど東北東である。風速も全体的に 弱く、10m/s以上の日数は年間で4.5日となっている。

冬の晴天の夜、無風状態であれば、逆転層が生じ、

これによって二酸化硫黄の下層部への停滞はさらに 増加する。二酸化硫黄の相対蒸気密度は空気を1と した場合、2.25である。また、もし山谷風の影響が あるとすれば、日中は谷風が卓越し、松木村は、夜 間より二酸化硫黄の被害を多く受けたであろう。夜 間では、山風が卓越し、二酸化硫黄の発散が困難に なり、製錬所付近に滞留することになる。

製錬所を中心に煙害激甚地、煙害中害地、煙害微 害地が取り囲む。煙害激甚地は渡良瀬川の流域沿い のほぼ三角形の地域に分布し、森林が破壊されて荒 廃地となったところである。その周りに、煙害中害 地が分布し、枯損耐煙樹が点状に残存する。さらに その周りに、煙害微害地があり、葉が縮れた程度で 1~2年で自然復旧する。足尾地区の荒廃地は山腹 荒廃地と渓流荒廃地がある。山腹荒廃地は、裸地化 した状態及び裸地化がさらに進んで山腹の表土も失 われて基岩が露出した状態であり、渓流荒廃地は山 腹荒廃地の岩壁が砂粒化して崩落することで渓流が 埋まり、渓流の機能の奪われた状態の地区である。

1977年現在、山腹荒廃地の面積は1313haであり、渓 流荒廃地の不安定土砂は6.25×10である。山腹 荒廃地としては、中でも松木下流の部分が多くを占 め、548haになる。渓流荒廃地では、松木上流の不安 定土砂が多くを占め、2.20×10である(飯島,

1982)。

(c)渡良瀬川への影響

1879(明治12)年夏、渡良瀬川で魚の大量死が発 生した。1887(明治20)年、渡良瀬川で鮎がほとん ど見られなくなり、漁業を営む人の生活が脅かされ た。1888(明治21)年、大洪水で渡良瀬川沿いの広 大な田畑が鉱毒水をかぶった。翌年、足利、安蘇、

梁田、下都賀4郡の農作物は、深刻な不作に見舞わ

(9)

れた。渡良瀬川流域の本格的な化学調査は、1891

(明治24)年に群馬県の新田、山田、邑楽の三郡に 関する待矢場両堰水利土功会の働きである。同会は、

帝国大学医科大学の丹波敬三教授に土壌の分析を依 頼した。丹波は同年12月8日、水利土功会に調査結 果を報告した。この中で、稲作被害の原因は土壌中 の銅であり、この銅は足尾銅山から出たものである と結論づけた。一方、栃木、群馬両知事は東京大学 農学部の前身である農科大学の古在由直、長岡宗好 両助教授に被害農地の土壌分析を依頼した。その結 果は1892(明治25)年2月2日付の官報に結果が掲 載された。調査報告書は、被害の原因は銅と硫酸で、

植物の根が銅を吸収して枯死することと、渡良瀬川 沿いは砂地のため銅を吸収しやすく、被害を大きく しやすいことなどを明らかにした(川名,1989)。

古河市兵衛は被害者の人々と示談を考えて、契約 書を作成した。1892(明治25)年から1897(明治30)

年の各地の示談書について、荒畑(1999)は「これ らの契約書はどれも、銅山から出る粉鉱が鉱害の原 因としていない」「粉鉱採聚器の据付が唯一の鉱毒除 去の方法と断定している」と主張した。また下流部 の被害も人為的な要素があることを、足尾銅山の元 事務員の証言として紹介している。それによると、

1882(明治15)年に、横間歩の良鉱にあたり、出鉱 の量が多くなり、品位が6%という比較的高いもの でも放棄して捨石とした。埋め立てられた捨石は凝 結し、堆積岩のようになった。捨石場が遠距離にな り、運搬に要する費用を削減するため、大雨の襲来 したときに渡良瀬川に放出した。捨石は凝集性を帯 びて、強固な地盤となっていたのでダイナマイトを 使って崩壊させた。渡良瀬川への放流時期は、1890

(明治23)年8月の洪水時、1891(明治24)年9月 の大水のとき、1896(明治29)年7月、8月、9月 の大水のときに行った。

製錬で生じる鉱滓、廃石、鉱屑などは野積みのま ま放置され、降雨のたびにこれらの廃棄物や溶けた 硫化第二銅(CuS)および製錬の工程で排出される 廃液などが渡良瀬川に流入した。下流では河床が堆 積物で浅くなり、そこへ保水能力を失った足尾の 山々からの雨水が流入したため、渡良瀬川はしばし ば氾濫して広大な農地を鉱毒で汚染した(川名,

1997)。1892(明治25)年ころには、中流部は約1.5 mも埋まった(川名,1989)。

以下は足尾銅山鉱毒事件研究会の報告による(足 尾銅山鉱毒事件研究会,1969)。「明治29年9月の大洪 水のとき、堤防近くで土俵を積んでいると、左右の 手がかゆくなった。そのときは、鉱毒のせいだとは 知らなかった。明治28、29年に植えたクワは枯れた。

麦、大豆もとれなかった。土筆しか生えなかった。

製錬所からの煙が山林の木を枯らし、雨が降ると大 量の雨水が、貯めてあった鉱毒を流した」「原石を処 理した後の鉱毒泥は、鉱山法を無視して捨てられて いた。これが雨のときに渡良瀬川に流れ出し、水田 の表面に堆積する。稲は空気と水を遮断され呼吸困 難を起こして根腐れを起こす。もうひとつは銅イオ ン過剰症により呼吸作用ができなくなる。これによ り葉緑素が形成されなくなる。植物生育の銅含の限 界は50ppmということであるが、毛里田村(現在群馬 県太田市)あたりの水田では2.0×103~6.0×103ppm である。足尾を通過する前の渡良瀬川の銅の含有量 は、0.01ppmで、足尾の工場地帯を通過後は、58~

38ppmになる」

古在由直は1902年に鉱毒調査委員会の委員として 渡良瀬川上流水質の検査結果を報告した(表-5)

(図-2)。

1968年(昭和43年)、渡良瀬川の水質基準として、

「灌漑地の銅の平均濃度は0.06ppm(CuO換算で 0.075ppm)を越えてはならない。これを越えない

表-5 渡良瀬川水質検査一覧 CuO濃度(ppm)(1902年)

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(10)

ために、鉱山側はいくつかの工事を行い、下流の農 民に対しては、土地改良その他で若干の農業投資を する」という示談契約が成立した (宇井,1971)。製 錬所は、出川と渡良瀬川の合流部のやや上流部に あった。(表-5)によると、一部の支流の下流部を 除いて、製錬所より下流部では銅の濃度が高く、1968 年の水質基準をほとんどのところで超えていた。各 測定地点間の値に違いがあるが、同一測定点でも測 定値に幅がある。これは試料の採取日に対応する。

(半谷,1991)は渡良瀬川の水質の時間的変化を示 し、降雨時に銅の含有量が平常時の10倍以上になる 例をあげている。一般に環境破壊の特徴は、降雨時 のような特別の気象条件のときに顕著に現れる。こ のため水質基準値を平均値で示すことには問題があ る。

⑤法律、政治関係

明治政府は、政府による鉱物所有と鉱業経営を明 確にするために、1872年、太政官布告第100号で「鉱 山心得」を制定した。これをさらに明文化し、法制

化した「日本抗法」という立法を翌年発布した。こ の「日本抗法」は「鉱山心得」の「鉱山国家独占主 義」を継承し、鉱物は、すべて政府の所有に帰し、

政府のみが採掘する権利を有するとされた。このよ うな「鉱業国家独占主義」は、民間活力の導入を阻 止し、鉱業の発達を阻害することになる。「日本抗法」

は1890年に廃止され、「鉱業条例」がこれに代わった。

この「鉱業条例」は、鉱業権者の地位を保護し鉱業 権を私権として安定させ鉱業の自由営業による発展 を主目的とするものである。「鉱業条例」の59条には、

必要に応じて「予防命令」または「停止命令」が出 せる措置を規定した。1905年、「鉱業条例」を全文改 正して(旧)「鉱業法」を制定した。先進諸国に追い つくための鉱業の保護育成という明治政府の政策に 則ったものが「鉱業条例」であったため、土地所有 者や鉱害を受ける地表権者には十分な配慮がなされ なかった。(旧)「鉱業法」の中に「無過失責任主義」

が導入された。しかし、(旧)「鉱業法」は大綱にお いて「鉱業条例」と大差なく、鉱山労働問題(鉱山 事故)においても、(旧)「鉱業法」は十分な対応を しなかった(斉藤,1991)。

政府は古河に鉱害対策のために、次のように五回 の予防工事命令を発令した(日本経営史研究所,

1976)。1896(明治29)年12月、政府は古河市兵衛に 対し第1回の予防工事命令を発令した。その中で、

粉鉱、汚泥の除去、可溶性銅鉄塩類等の除去のため の適切な方法を設けて、からみ、捨石等を安全な地 に堆積させるようにという内容であった。

第1回の予防工事命令は古河に温情的であるとい う非難が、田中正造らによって強く主張された(日 本経営史研究所,1976)。世論の関心の高まりに対し て、政府は1897(明治30)年3月に、内閣に足尾銅 山鉱毒調査会を設けた。当初、農商務省は鉱業停止 の方針を決めていたという。やがて、改善の余地が あるという調査会の中の意見が支持を多く得て、鉱 山を生かすことに決まった。政府は調査会の決定を 受けて、1897(明治30)年5月13日古河市兵衛に第 2回の予防工事命令を出した。この中の条項には、

「本口坑、有木坑、小滝、通洞の外、鷹の巣、渋川、

上流の諸抗等より一切捨石を出すを禁ず」、「現今使 用の石灰自動給装器は不完全なるを以って更に改善 を加ふべし」というように第1回命令をやや具体化し たにすぎず、工事期間の指示もなく、きわめて手ぬ 図-2 渡良瀬川水質検査測定点

(11)

るい内容であった。

1897(明治30)年5月27日、東京鉱山監督署長よ り第3回予防工事命令が出された。これは、第一項 の「本山有木抗及小滝抗抗水は一切之を流出せしめ ず総て選鉱用に供し生石灰乳の攪拌法を行ひ砂聚器 を通過せしめたる後順次之を沈殿池及濾過池に導く べし若し抗水の分量不時に増加したるときは生石灰 乳攪拌法を行ひ別に掛樋を設けて直に沈殿池に導く べし」から第三十七項の「此命令書の事項に異背す るときは直ちに鉱業を停止すべし」まである。この 命令は第1回、第2回の命令を包括し、足尾全山に 対する抗水、廃水、廃石、からみ、硫黄の処理およ び護岸砂防工事を厳密に指令したものであった。各 工事毎に竣工期限が命令され、もし遅延するときは 鉱業を停止するという点が注目される。

1901(明治34)年3月、第4回予防工事命令が出 された。脱硫塔ガスの分析器具方法の改良整備等、

脱硫塔操業に関する指令が含まれていたであった。

1902(明治35)年の鉱毒調査委員会は既設の防除 工事の完否を精査し、当局に追加命令の交付を促し た。これを受けて政府は、翌年7月、京子内堆積場 の排水法の改良等を含む第5回予防工事命令を発し た。

政治家として足尾銅山問題に取り組んだ人物が田 中正造であった。田中正造の国政への登場は1890(明 治23)年の第一回衆議院議員総選挙に初当選してか らであった。この年、渡良瀬川の大洪水があり、稲 の立ち枯れ等で社会問題が起きていた。田中正造の 帝国議会での足尾銅山鉱毒問題についての活動は、

1891年から1892年までの前半と1897年から1901年ま での後半に分かれる。前半の活動は次の通りである

(森長,1982)。田中正造は衆議院で1891(明治24)

年12月、足尾銅山鉱毒問題について政府を追及した。

農商務大臣陸奥宗光の答弁は次の3点からなってい る。

1.被害の原因は土壌化学的成分と土壌機械的組成 による。2.土壌や流水から水を採集して分析試験中 である。水利土功会の出願により帝国大学医科大学 の丹波敬三教授を出張させ、栃木、群馬の請求によ り農科大学にも調査させているが終了していない。

3.古河が成しうる予防法を実施させる。ドイツと米 国に注文していた粉鉱採聚器を購入新設し、鉱物が 流出するのを防止する準備中である。この答弁で陸

奥は、ドイツとアメリカに注文しておいた粉鉱採聚 器を鉱害防止用にすりかえた。

1892(明治25)年2月10日付「東京新聞」に鉱山 局長和田維四郎の意見が載っている。日本抗法第10 款3項の「試掘若しくは採掘の事業公益に害あると きは農商務大臣は既に与えたる許可を取り消すこと を得」とある。この「公益の害」は、賠償すること のできない害のことで、足尾銅山より生ずる公利は 被害地の損害より遥かに大きく、この害は損害賠償 によって取り消すことができるという考えであった。

損害賠償の問題は、裁判官の問題であり、行政は関 与しないという考えを示した。自然に放任させるこ とにより結果的に強者に味方した。日本抗法にも鉱 業条例にも現在の鉱業法(昭和25年)の第六章「鉱 害の賠償」の規定や公害紛争処理法(昭和45年)な どがなかった時代である。

1892(明治25)年5月、第三議会で田中は質問書 を提出し、同日質問演説をした。被害は沿岸7郡28 か村にまたがること、ほとんど不毛になった田畑は 1600余町歩(1587ha余)に及ぶこと、堤防の芝草は 枯死し、洪水で崩壊の危険にさらされていること、

鉱毒は飲料水に波及し、人民の衛生を害しているこ とを演説した。丹波、古在らの鑑定結果を引用し、

日本抗法第10款3項を元に政府を追及した。

1892(明治25)年6月10日付答弁書で、陸奥から 代わった河野敏鎌農商務大臣が回答した。河野は足 尾鉱毒が沿岸耕作地被害の一原因であることは認め た。さらに続けて「此被害タル公共ノ安寧ヲ危殆ナ ラシムルガ如キ性質ヲ有スルモノニアラザルノミナ ラズ、且其損害タル足尾銅山ノ鉱業ヲ停止セシムベ キノ程度ニアラザルヲ以テ鉱業条例十九条ニ拠リ特 許ヲ取消スベキ限ニアラズ」とした。さらに、古河 の粉鉱採聚器設置、沈殿場の建設を評価した。河野 は、既往の損害に対して行政官はなんらの処分する 権限も持たないとも回答した。田中正造はこれに反 発し、同年6月14日に質問書を提出し、「被害の一原 因」とは、ほかに原因があるというのか、「公共の安 寧危殆ならしむる」とはどの程度か、川底に沈殿し た鉱毒は洪水のたびに掘り起こされて流れるので粉 鉱採聚器の効果はないと主張した。

田中正造は、この質問の後、1897(明治30)年2 月までの約5年間、帝国議会で鉱毒問題の質問を中 断した。1894(明治27)年から1895(明治28)年の

(12)

日清戦争の間、人々の関心はこの戦争に向かってい た。1897(明治30)年2月の第十帝国議会で、田中 は帝国憲法と鉱業条例19条に基づいて足尾銅山の鉱 業停止を強く要求した。

1897(明治30)年2月の田中の質問演説の2日後、

東京で鉱毒演説会が開かれた。これが新聞に報道さ れ、有力な識者が鉱毒問題の理解者になった。これ らの動きが、後に「押出し」と呼ばれる「大挙上京 請願」という大衆運動に結びついた。第1回押出しの 出発日は1897(明治30)年3月2日であった。

田中の質問に対する答弁書の中で、鉱毒による農 地汚染の原因を足尾銅山にあると認めた点だけは新 しかった。その他、洪水を自然現象とし、農民の損 害は示談か訴訟によるしかないなどとして、古河を かばうものとなった。その後、田中正造は1901(明 治34)年10月、衆議院議員を辞任し、同年12月に天 皇直訴という行動に出た(川名,1989)。

4.考察

足尾鉱山の鉱害の歴史的段階を(表-1)に示す。

それは、1.汚染源発生、2.現象の認知、3.反対運動、4.

現象の科学的解釈、5.対策、6.終息の6段階である。

これらは、ある段階が終了して次の段階へ行くとい うものではなく、それぞれの段階の初期を並べると、

おおよそこのような順番になることを示している。

各段階が同時並行で進行する時期もある。

1877年の古河家の足尾銅山の経営開始が汚染源の 発生の源流であった。1882年に煙害の発生が認めら れていた。その後1956年に古河オートクンプ法によ る製錬が行なわれるまで、鉱害の発生は続いた。1882 年の銅の年間の生産量は後年の年間生産量の最大値 に比べると、50分の1以下であった。それでも煙害 は生じたことは注目に値する。足尾銅山は当時の最 新の技術を導入した。たとえば、コークスの輸入、

さらにその製造、ベセマ製錬法の導入、発電所およ び電気の利用等をあげることができる。当時の先進 国の技術を効率的に導入した。これらはすべて成功 した。このように最新技術を導入できたのは、当時 の日本に先進国の技術を理解できる人材がいて、ま た技術導入できるだけの経済力があったと見るべき であろう。欧州からの技術導入により産業の発展と いう目的を果たしたが、鉱害については考慮されて いなかった。この場合の技術は生産拡大の技術で

あって、鉱害防止の技術ではなかった。そのため、

その後生産が増えるほど、鉱害の程度は大きくなっ ていった。

足尾銅山は1973年に閉山を迎えた。これは国外の 銅山開発の経済的有効性という外的要因によるもの であった。これで、足尾銅山の問題は全て解決され たのではなく、その後も森林の荒廃、廃棄物等の環 境問題は残った。

足尾銅山、製錬所が内陸部に存在したことは、鉱 害を時間的にも空間的にも広域化させた。その結果、

鉱害という現象を認知するにあたり、上流、中下流 で時期的な違い、また鉱害の性格に違いを生じさせ た。上流では煙害、中下流で魚類の被害や、洪水等 の被害をうけた。また松木村のように住民がそこで 生活しなくなり、煙害の程度を認める人も存在しな くなった例もある。

被害の広域化は、反対運動にも影響を与えた。反 対運動は場所によって、その性格が異なった。渡良 瀬川上流部では、煙害を受けたが、反対運動は下流 に比べて小規模なものになった。下流では、渡良瀬 川の鉱毒問題による鉱害反対運動が起きた。また上 流部でも松木村のように他の地区から分断されて交 渉させられた例もあった。このように鉱害反対運動 がひとつのまとまりにならなかった。被害者の連携 について何らかの問題点を見つけるとしたら、組織 作り困難さがあったのではないかと考える。結果的 に企業にとっては、被害住民を分離して扱うことに なり有利な立場に立つことができたといえよう。反 対運動は被害住民による上京請願、裁判、和解があっ た。さらに田中正造による国会を中心とする活動が あった。

現象の科学的解釈の第一歩は、水質検査のデータ であった。その解釈について、企業は自身になるべ く不利にならないように説明しようとした。企業側 は鉱害の原因が自らの側にあることがわかっていて も、その程度や時期をどのように説明するかについ て苦心した。科学的解釈の問題というよりもその運 用の問題、つまり政治的な問題に変質した。真理探 究が目的であるはずの学問も、当時は政府を窓口に して西欧から取り入れられた。学問を専門とする人 はそれなりの地位が与えられた。一部の科学者に とって、自然科学の領域を越えて、反体制的な行動 を取ることは難しいことであった。

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技術的に鉱毒を除去できなければ、鉱業停止しか ないという考えもあったが、大勢としては、鉱業活 動を継続しながら何らかの対策をしていくという考 えで進んだ。当時、日本は国家体制の変革直後であ り、国家の主導で事業が進められていた。製錬され た銅は日本の工業の素材に使われるのではなく輸出 されて外貨を稼ぎ、それが産業発展の基礎となった。

鉱害に対して対応策がなくても、操業を中断しない で、国家的事業は継続された。鉱害が発生するのを 承知の上で国家的利益を優先して操業が続けられた。

現実に鉱害による被害が出ていても、有効な対策が とられなかった。環境対策を第一に考えるのであれ ば、人材も資金も十分に投入されたであろうが、現 実は逆であった。当時の産業革命先進国も環境に対 する対策で手本となる技術を持っていなかった。

谷中村の遊水地化計画で一応の処置をし、さらに 操業中止で終局を迎える。谷中村の遊水地化計画を 含む渡良瀬川改修計画に対して、渡良瀬遊水地成立 史編纂委員会(2006)は3つの説を紹介している。

一つは、渡良瀬川改修は鉱毒問題を治水にすり替え、

遊水地の建設は鉱毒問題を谷中村に押しつけ、問題 の隠蔽を図ろうとするものである。二つは、鉱毒問 題と治水問題を同時に解決するもので、遊水地の必 要性はその中から現れたとするものである。三つは、

鉱毒問題は洪水氾濫を媒介として被害が拡大すると いう意味で治水問題であるとする考えである。同委 員会は鉱毒問題と治水は不可分であるとの立場で第 二の説をとっている。一方、荒畑寒村をはじめ、第 一の説の支持者も多い(東海林と菅井,1984)。足尾 鉱山を営業する限り鉱毒は発生し続ける。また営業 終了後も廃棄物は存在し続ける。改修計画は解決と いう言葉とは遠く、単なる処置、便法に過ぎないと、

ここでは考える。谷中村の遊水地化という現実的な 選択せざるを得なかったのは、足尾鉱山、製錬所が 内陸部に存在したことも一因である。

政府と企業とそれに科学技術者をも巻き込んで日 本の産業革命は進んでいった。このような中でも「押 出し」という大衆運動や田中正造の政治活動があっ た。足尾銅山の事件は日本の鉱害の先駆的事件で あった。足尾鉱害問題で大衆の要求は受け入れられ なかった。しかし、その後の各種の公害問題につい て影響を与えた。

5.まとめ

本研究から、以下のことが示唆された。

a.足尾鉱山の鉱害の歴史的段階として、1.汚染源 発生、2.現象の認知、3.反対運動、4.現象の科学 的解釈、5.対策、6.終息の6段階を設定した。そ れぞれの段階の始まりの事件を並べると、おおよ そ、この段階の順に出来事が進行したが、同時並 行で進行する段階もある。

b.日本の産業革命は、西欧に比べると後発であっ た。そのため蒸気機関だけでなく、電気の技術も 取り入れ、能率的に生産活動を行なった。しかし、

それらに鉱害防止の技術は含まれていなかったた め、生産増加とともに鉱害は進行した。

c.足尾が内陸部にあるために、鉱害の発生もその 影響を受けた。被害の範囲も広域化し、発生時期、

それに関わる事件等も多様なものとなった。被害 についても、山林被害、農作物被害、河川汚染、

洪水等さまざまな分野に及んだ。内陸にある足尾 銅山の鉱毒に対する現実的な処置として渡良瀬川 の遊水地化の建設が行なわれた。

d.当時の日本は政治体制の変革期後であり、新た な政策を導入しやすかった。足尾銅山操業もその 一環であり、鉱害が生じても、生産第一の姿勢は 変わらなかった。公害という考えを移入すること も,煙霧削減のための行動を自ら生み出すことも なかった。大衆運動は失敗に終わったが、近代日 本の鉱害問題の先駆けとなり、その後に影響を与 えた。

謝辞

本論文を作成するにあたり、ご指導いただきまし た早稲田大学人間科学学術院の森川靖教授に深く感 謝の意を表します。また鉱山研究会の会員の皆様か ら貴重な情報をいただき、足尾の現地でもご教示い ただきましたことを感謝申し上げます。

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参照

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