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文学編」「 文学編 」「言語編

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(1)第2部. 経験主義国語教育受容期の 経験主義国語教育受容期 の 「 国語科」 国語科 」 像 ― 「 文学編」「 文学編 」「言語編 」「 言語編」 言語編 」 分冊教科書の 分冊教科書 の 研究― 研究 ―. - 54 -.

(2) 第5章 第1節. 1950 年代の 年代 の 国語教育関連論争をめぐる 国語教育関連論争 をめぐる問題史的考察 をめぐる 問題史的考察. 1950年代 1950年代の 年代 の 国語教育関連論争の 国語教育関連論争 の 概括― 概括 ― 問題の 問題 の 所在― 所在 ―. 1950 年代は、占領下から講和=安保体制へと移行した激動の時代であり、真の独立と 自由を求めて民衆の運動が戦後最も激化した「政治の季節」でもあった。そうした時代の うねりを背景に、国語教育界内でもまた激しい論争や主張がさまざまに繰り広げられてい った。 その起点には、占領軍=アメリカによってもたらされた「新教育」と、それに対する批 判があり、コア・カリキュラムに象徴される経験主義教育は混迷を深めていった。国語教 育をめぐる論争は、いずれもそうした時代状況や教育界全体のムーブメントと何らかの接 点を持っている。むしろ、そのような対立図式があるからこそ、論争という言語による闘 争が沸き起こったともいえる。 そうした時代の幕開けを告げる論争の一つが西尾実と時枝誠記による「言語教育・文学 教育」論争(以下 、〈西尾-時枝論争〉と略記)であった。この論争は 、「新教育」の示 す民主主義教育の必然的進路として 、「国語科」の言語教育としての性格付けが強調され たからこそ、伝統的な国語教育の柱であった文学教育との関係性が問題となり、多くの人 びとの関心を惹いたのである。 また、この論争を契機として、文学教育そのものの刷新と充実が、経験主義国語教育の 混迷に対するアンチテーゼとして機能し、内容教科としての側面の保障という点から、諸 氏諸団体による文学科独立論が唱えられていった。 さらに 、「新教育」への批判、他から輸入した実用主義・経験主義への抗議、また経験 主義国語教育の実践的成果への飽きたりなさ等から、戦前の生活綴り方教育が復興し、言 語教育の観点から表現技術を重くみる作文教育との対立・論争へと発展していったことも 上に述べたような時代的文脈を共有している。 しかし、これらの論争が重要なのは、単に政治的な対立軸や社会状況を背景にしている からだけではない。それ以上に、いずれの論争も「国語科」の教科構造を問い直す働きを 基盤に持っているからである。すなわち、 1950 年代のさまざまな論争は未解決であり現 在もなお問題とせざるをえない重要な性格を有している。したがって、これら個別の論争 に関する先行研究は比較的充実しているが、問題基盤としての教科構造の観点から、これ らの論争のもつ共通性や全体性を捉え直す整理は必ずしも十分とはいえない。 そこで、以下 、〈西尾-時枝論争 〉、文学科独立論の提唱、作文・綴り方論争を取り上 げ、教科構造に視点を置いた問題史的考察を試みたい。 第2節. 〈 西尾- 西尾 - 時枝論争〉 時枝論争 〉. 1.論争の経過と特徴 まず、西尾実と時枝誠記によってなされた国語科教育における言語教育と文学教育の位 置付けをめぐる論争を簡単にふり返っておきたい。. - 55 -.

(3) この論争は、 1949 年 9 月 23 日に行われた第 2 回全国国語教育協議会の質疑において、 徳島師範付 属中学校違谷 隆雄の質問 に対する時枝・西尾両者の回答の違いからはじまっ た。違谷は国語教育は読むこと・聞くこと・書くこと・話すことの言語教育ができればよ いのか 、文学教育も含めて考えるべきかという主旨の質問を行った 1。この時 、時枝は「 私 は文学教育と言語教育と区別しないで考えるのでありまして、言語を正しく理解していく ところに自ずから文学教育が成就されて行くと考えます 」と述べた 。これに対し西尾は「 言 語教育と文学教育とは、国語教育の現段階においては、独立的に考える方が妥当だという のが私の結論であ」るとして時枝との立場の違いを明確にし、文学は言語の純粋に発達し た「特殊領域」として言語一般とは区別する旨の発言を行った。言語教育・文学教育一元 論を主張する時枝と、二元論の立場に立つ西尾は、その後もいくつかの論文や対談などで 各々自説を展開していくことになる。 言語は思想の表現および理解の過程そのものであるとする言語過程説の立場から 、「国 語科」は表現・理解の方法を訓練する学科であると考える時枝にとっては、文学教育も書 物を読む方法と能力を養う言語教育の中に含まれると考えた。これは、戦前・戦中の感化 主義に利用された国語教育の反省から「惚れさせない」国語教育を提唱していた立場から してみれば当然の理論的帰結であった。 一方、明治期の語学主義から大正期の教養的文芸主義を経て、ようやく新しい言語生活 主義の国語教育に至ったとの認識を示す西尾にしてみれば、日常生活に根を張った言語教 育を生かすためにも、また文学の特殊性を生かすためにも、文学教育を言語教育一般とは 区別して考えざるを得なかった。 2.野地潤家の総合観 はたして両者の問題はどこにあるのか。これを端的に指摘し言語教育と文学教育とを統 一的に把握し直したのは野地潤家であった。野地は、言語教育と文学教育の関係について の考え方を次の三類型に区分する 2 。 ⅰ. 一元観《言語教育(文学教育 )》. ⅱ. 二元観《言語教育:文学教育》. ⅲ. 総合観《言語教育・文学教育》. このうち、もっとも国語科教育の本質と現実に即応しうるのはⅲであるとし 、「ⅰは理 論的可能性に富むが、実現性に難点があり、ⅱは、その由来するところを理解することが できるが、惰性・偏向性を含んでいる」とそれぞれの短所を述べている。その上で、もっ とも望ましいとしたⅲの総合観については次のようにその特長をまとめている。 《 言語教育と文学教育 》観のうち 、総合観は 、一元観・二元観の批判的立場に立ち 、 わが国の国語科教育の史的展開の必然性の上から、国語科教育の本質を、言語教育、 特に言語生活教育に求めながら、文学教育の立場と機能と方法を、有機的に統合的に 包摂していこうとする。その形態は、一元観に類似しているが、文学教育の言語教育 への解体融化ではなく、あくまで文学教育の立場と機能と方法の独自の価値を認め、. - 56 -.

(4) その独自性を生かしていくところに、相違点がある。この関連を 、《言語教育・文学 教育》の形で示しておきたい。 総合観に立つ国語科教育課程は、国語科教育の具体的内実を形成する言語教育・文 学教育を最も正当にそれぞれを位置づけ組織して、充実した教育内容の構造体たらし めようとする。 ここで野地が、文学教育の独自性を強調する二元観を「惰性・偏向性」を含むとして退 け、言語生活教育を何よりも国語科の本質と見てそれを基盤に総合していこうとしたこと は、まさに当時の時代状況を的確に反映してのことであった。それは、つまり戦後の経験 主義国語教育に対して、戦前の文学主義的国語教育への郷愁から文学教育の「復権」を唱 えるという復古的な主張と、一方で占領下の日本の現実への認識を深め「行為へのいざな い」という文学の機能を重視する人々による文学教育の提唱とがまさに混在していた時代 の空気を野地は敏感に感じ取っていたということである 3 。やや具体的にいえば、占領か ら「講話問題」へと続く「政治の季節」の中で 、「反米愛国」を掲げる当時の左派勢力に よる「民族」解放路線等の政治的文脈が、学問・研究や教育の場にも浸透しはじめたこと のあらわれとして、当時の文学教育言説を読み解くことができる。 3. 1950 年代文学教育言説の背景 1951(昭和 26)年の日本文学協会の第 7 回大会テーマは「日本における民族と文学」 であり、雑誌『文学』も同年9月号で「日本文学における民族の問題」を特集し、さらに 歴史学研究会大会も「歴史における民族の問題」を掲げた。 1950 (昭和 25)年 6 月の朝 鮮戦争勃発以降、占領軍の政策方針転換を受けてレッド・パージの嵐が吹きすさぶ中、政 治的実践と自身の研究・教育とを結びつけて考える研究者・教師が大いに存在感を示した 時期である。 たとえば当時日本文学協会の若き国語教育実践家であった益田勝実も 、第7回大会で「 話 す、聴く、読む、書く」という言語教育を 、「考え、感じとり、新しい精神文化を創り出 す」方向へと延長する人間形成の国語教育を提起し、言語教育と文学教育とを統一してい く方向性について、きわめてラディカルな実践を報告をした 4 。その翌年の大会には荒木 繁が「民族教育としての古典教育」を報告し、西尾実による問題意識喚起の文学教育の提 唱とも相俟って、アメリカ式の新教育 、「コスモポリタニズム」に対抗すべく文学教育論 が一気に前景化する。 この時期多くの進歩系教育学者や学校教師は国民歴史学運動や国民文学論と関わりなが ら、大きく「国民」や「民族」をクローズ・アップして 、「真の愛国心」を説くようにな る 5。近年多くの指摘がなされているように 、そうしたナショナルなものへの志向が実際 、 境界の自明性を前提にした単一の「国民 」「民族」創出という事態を強化し、さらに「国 民文学」正典化に寄与したことは揺るぎない事実であろう。しかし、当時の歴史的文脈か らすれば、その「民族」意識や「愛国心」の育成という目標は、敗戦と占領の現実におけ る変革の「主体」を育てることとまさに同義であった。そこには戦前の共同性への回帰な どではなく 、新しい〈 私たち 〉の模索の痕を見ることができる 。だが 、そのわかり難さは 、 戦中との連続性や断絶を組み込みながら、ある名付けえぬ心的状態 ― 「それをもなおナ. - 57 -.

(5) ショナリズムと呼ぶかどうかは各人の自由としよう 」(丸山真男) ― を、しかし伝統的 な言葉遣いでしか表現できなかったことに起因する 6。 図式的に言えば 、戦後間もなくの国語科教育は 、戦前の反省からまず言語教育として「 復 興」し、なによりも学習者の「読むこと 」「聞くこと 」「書くこと(綴ること )」「話すこ と」という言語活動・経験を重要視した。しかしそうした言語活動主義を「プラグマティ ズム」あるいは「コスモポリタニズム」として批判し、現実を認識し変革する言語主体育 成のために文学教育が時代の大きな波に乗って存在感を示し始めた時代だったからこそ、 あえて言語教育と文学教育の関わりが問われ 、「国語科」の内実をどのように構成するの かという点に多くの人々の関心が寄せられたのである。 4 .〈西尾-時枝論争〉の意義 この論争は、西尾と時枝のそれぞれの言語観を基盤としながら展開された論争であり、 文学教育の位置付けを中心命題としながらも総体としては国語科教育とはどのような教育 かという問題が追求された点に、最も重要な意義があると思われる。 一元観でも二元観でもなく、総合観を示した野地の見解は 、「国語科」の構造という視 点からこの論争を捉え直す上で示唆に富むものであった。この論争が、戦後の新しい国語 科教育を模索する過程で生まれたものであり、みてきたような歴史的背景と必然性の中で 注目されたことを踏まえるならば、戦後の国語教育が全体として言語生活教育へシフトし ていくのにあわせて、文学教育も独自性を生かしながら「充実した教育内容の構造体」と して「国語科」を考えようとするこの見解はきわめて重要であろう。 第3節. 文学科独立論の 文学科独立論 の 提唱. 〈西尾-時枝論争〉はこのあと加藤周一を巻き込んで第二次論争へと発展していくが、 言語教育と文学教育との関わりについては大きな火種としてその後も残った。それがある 意味で飛び火するかたちで 1950 年以降諸氏諸団体による文学科の独立あるいは特設が提 唱されるようになる。ここでは特徴的な主張を行っている国分一太郎と代表的な民間教育 研究団体を取り上げる。 1.国分一太郎の文学科独立論をめぐって まず、最も早い時期に文学科独立を唱え、また石田宇三郎との間で論争を行った国分一 太郎の文学科独立論から見ていくことにする。国分は戦前の生活綴方教育運動のシンボル 的存在であり、戦後も民主主義科学者協会や民主主義教育研究会、日本作文の会といった 民間教育研究運動の中心として活躍した。また新教育の経験主義に対して、いち早く「学 力低下」批判を行ったことでも知られる 7。 その国分がまとまって国語科の性格と文学教育のあり方について論じたのは 1952(昭 和 27)年「 国語科-日本の国語教育- 」 (『 岩波講座. 教育. 第五巻 』岩波書店 )、および 1953 8. (昭和 28)年「文学教育 」(『 芸術教育』牧書店)である 。この二論文はほぼ同時期に執 筆され、二つあわせて国分の国語教育全体構想が明らかとなる。前者は、言語用具観から 帰結する基礎教科としての国語科の本質と任務を全般に述べている。言語は用具(道具). - 58 -.

(6) であるとする立場から「国語科」は読み書きの基本的能力を身につけさせる基礎教科であ ること、しかし「コスモポリタニズム」に堕した学習指導要領には民族的視点が欠落して おり、真に国語愛を養うための体系的な指導が求められること等を強調する。そして、そ の「国語科」と文学教育との関わり、および文学教育自体のあり方について論じたのが後 者である。そこでは、そうした「国語科」の性格および任務からして、ことばの芸術であ る文学の教育は別に独立してこれを行うべきこと、しかし文学科独立が無理であれば、他 教科の時間やホームルームなどあらゆる機会の中でおこなうべきであることを指摘し、文 学教育は「文学による教育」から始め「文学についての教育」まで体系的に行うべきであ ることを述べている。 この国分の発想の基点には、スターリンの言語観があった。特に『前衛 』( 1950.8 ) に 掲載された論文「言語学におけるマルクス主義について」をはじめとして、スターリンの 「 言語と認識の分離 」をそのまま日本の国語教育にも当てはめ 、民族独立の道筋を「 単一 」 の民族語獲得の中に見いだそうとし、そのための手段として国語科の用具教科としての性 格づけを国分は疑おうとしなかった。 こうした国分の主張に対して石田が反論した 9 。石田は国分のスターリン解釈の誤りを 指摘し、それに基づいて国分が言語用具説を自明化し学習指導要領の民族的観点の欠落を そうした言語観による必然とみなすことができなかった、と述べる。また 、「国語科」独 自の任務は他教科の用具ではなく 、「言語による精神の陶冶」にあるので、語彙や語法の 学習だけでは無理であるとする。このようにして石田は言語教育と文学教育とを分離する ことに反対する。 その後、この石田論に対して国分はあらためて基礎学力重視の立場から反論 後両者の論を整理する片岡並男は、どちらの論も偏っていると指摘 者の論を発展させる観点から論じた. 12. 11. 10. し、その. 、さらに水野清が両. 。しかし、こうした論争を経ても国分の独立論の基. 本は揺らぐことはなかった。ただし、 1955 (昭和 30 )年「国語教育と文学教育」におい ては「国語・文学科」としており、文学教育を包含ないし並列として扱おうという意識が 窺える. 13. 。いずれにせよ国分の「国語科」観は、読み書きの方法と能力を養う基礎教科に. 徹すること、そのために文学教育は別途扱うことが望ましいとする点で一貫していた。し かし、文学科独立が現実のものとならない限り、国分の所論はいきおい文学教育矮小化に つながりかねないものでもあった。そして以下に続出する諸氏・諸団体の文学科独立論も このジレンマを抱え込まざるを得なかったのである。 2.民間教育研究諸団体の主張 国分の文学科独立の主張と同じころ 、倉沢栄吉もまた言語教育と文学教育とを「 国語科 」 という一つの教科の中で一緒にしているのは教育課程上の便宜にすぎないとして「中学校 以上で文学が一つの系統ある内容教科として独立すべきだ」と述べた. 14. 。ただし、現段階. では図書館の不整備や良質の教材の不足を理由に時期尚早であるとして、理論的な道筋と してのみ文学科の独立を示し、現実には倉沢の言う「読解指導」の枠組みの中で文学教育 をおこなうというものであった。 「読み方教育」を提唱する教科研国語部会も、本来国語教育と文学教育とは別物であり 「読み方教育」は初歩的な文学教育は引き受けるが 、「専門的な文学教育が国語科の外に. - 59 -.

(7) 必要」との認識を示しながらも、倉沢と同様に文学科が独立するまでは「読み方教育」の 中に文学教育を包含して行っていくというものであった. 15. 。倉沢の場合も、教科研国語部. 会の場合も、ともに内容教科としての文学教育の独立を理論的には是としながらも、現実 に文学科が独立することがない以上 、「読解指導 」「読み方教育」といった作品理解の中 に文学教育を埋没させ矮小化してしまう危険性を払拭できなかった。 さらに 1960 年代になると、この教科研国語部会をはじめとする民間教育研究団体を中 心とした文学教育運動は一層の盛り上がりを見せていく。換言すれば、 1950 年代後半か らの左派陣営内部の混迷と保守派の反動攻勢、それに続く 60 年安保の挫折以後も、さら に大衆社会状況の到来という新しい事態をも見据えながら、文学教育が一定の力を持って それらの大きな課題に立ち向かっていこうとした最後の時期でもあった。 3.文学科独立論の意義 文学科独立論提唱の必然性の第一は、それを必要とする時代の要請があったということ である。誤解を恐れずに言えば、それは述べたように国語教育における「政治の季節」を 背景にしていた。なぜならば、国分一太郎の言説にみたとおり、占領軍による経験主義国 語教育の方向付けは、ブルジョア的であり民族語への愛を欠落させる「コスモポリタニズ ム」であるとして批判し「国語愛」を唱える左派研究者や教育者等を中心に対抗軸として の文学教育が説かれ、続くラディカルな実践の展開が基盤となっているからである。つま り国語教育界が全般的に言語生活主義を志向していた時代に 、学習者の「 現実認識 」や「 認 識変革」を志す文学教育を重視するがゆえに、それを特化して行う方向性が目指されたの である。 その第二は、言語用具説と対になった「国語科」の性格規定による。初期の国分が言語 用具説に立ち基礎学力の体系的な定着を主張していたように「国語科」を基礎教科として 位置づけ、ことばの芸術である文学は内容教科の一つとして独立させていくという方向性 は、一つの技能を目指す言語教育と、歴史や音楽等と同様に内容教科である文学とを一つ の教科に同居させておくことは「教育課程上の便宜」にすぎないという倉沢の主張にもあ ったように、理論的には整合性のあるものであった。 このことは、第1部で検討してきたこととも大きく重なる。たとえば 、『東京都教育課 程(第一次案)国語科の部』で、位相の異なる教科内容の混在状況を指摘したとおり、様 々な要素を含む「国語科」の教科内容を明確化する点において文学科独立論は説かれるべ き主張であったといえよう 。すなわち、歴史的な必然であった。 16. しかし、現実には難しい問題もある。文学科を独立させた場合、残る「国語科」の教科 内容をどのように整理するのか。文学科と並立するように、たとえば言語科とするのか、 それともさらに細分化して、作文科や話し方科等を置くのか、これは必ずしも明確ではな い。つまり、文学科を独立させるためには、それ以外をどうするかが明確にされなければ ならないのである。この点 、「国語科」内での分科とするか、教科再編の中で独立させる か、いずれをとるのかによっても大きな課題が残る。 さらには、教師教育の問題がある。教員養成も含めて、困難な課題となるだろう。おそ らく文学科を担当できる教員には事欠かないだろうが、たとえば言語科や言語表現科のよ うな教科目を担当できるプロパーの人員確保は現状では難しいだろう。. - 60 -.

(8) しかし、そうした困難さを自覚した上でなお、文学科の独立は「国語科」の諸機能を明 確にする上で一つの試金石となるにちがいない。文学以外の教科内容・教育内容を充実さ せていくためにも、その今日的な意義は失われてはいないのではないだろうか。 第4節. 作文・ 作文 ・ 綴 り 方論争. 1.論争の経過 戦後の生活綴り方教育は、端的にいえば新教育批判として復興した。内容的には経験主 義教育の実用主義、技術主義に対する異議申し立てを含むものであった。しかし、当初、 かつての綴り方教師たちは、戦後の教育改革を歓迎し、民主社会建設を目指す新教育の思 想に同調しながら、積極的にとりくむ者も多かった。今井誉次郎や石橋勝治の初期社会科 カリキュラムの作成と実践はよく知られているとおりである 。だが、 1950 年前後のコア 17. カリキュラム運動の衰退と経験主義批判が加熱する中で、それらの運動は退潮を余儀なく され、逆に 1951 (昭和 26)年の寒川道夫編『大関松三郎詩集. 山芋』や無着成恭編『山. びこ学校』等のベストセラーをきっかけとした綴り方ブームの到来は 、「昭和 22 年版(試 案 )」及び「昭和 26 年版(試案 )」の「作文」に矮小化された「書くこと」への飽きたり なさを衝いて、その教育方法への国民的な支持を背景に、文学教育と共に経験主義教育に 対する見直しを迫る運動として機能した。 その過程で、この作文か綴方かをめぐる論争が展開した。先行研究によれば、論争の発 端は、 1952(昭和 27)年 3 月 1 日付け朝日新聞の記事「『 つゞり方』か作文か―学校作文 への反省」からであったとされている. 18. 。その記事は、新教育の「作文」教育の実態に触. れながら、それに対する生活綴方の側からの批判を紹介し、さらにそうした生活綴方の側 にも問題があるとするものであった。図式的にいえば、技能や表現のしかたを重視する作 文と、人格形成や生活のしかたを重視する綴方との対立、ということになる。記事には、 生活綴方の中心人物として国分一太郎の意見が紹介され、一方、壺井栄、平林たい子、石 黒修、倉沢栄吉、百田宗治等の批判的な意見が取り上げられている。 以後、作文か綴方かをめぐって盛んな論議が巻き起こるようになる。両者の無用な対立 を回避する意図で出版された『生活綴方と作文教育 』( 1952 年 6 月、金子書房)では、次 のようにその検討結果が記されている。 一. 作文教育は言語の機能を重んずる国語科教育の一分節としてのコミュニケイショ. ンの指導であるに対して、生活綴方は広い意味の生活教育のための手段としての綴方 教育である。ここに生活綴方の本来の面目があると共に、両者の著しい性格の差異が みとめられる。また生活綴方が新に見直された時代の要請も考えねばならぬ。 二. 綴方によって生活を指導しようとする生活綴方が発展して作文教育は生れた。手. 紙、報告、日記などの記述は単なる言語教育としての技術指導に終ってはならぬ。子 供の生活の必要から生れ、表現を通してよりよい生活が営まれるように指導されなく てはならない。生活綴方は作文教育の条金であって、対立するものでもなければ、ど ちらを新しい、どちらを古いと詮議するほどのものではない。. - 61 -. 19.

(9) このように、両者の性格の違いが押さえられ、対立関係にあるものでないことが強調さ れている。しかし、結果的にはねらいと逆に本書の出版が契機となり、対立は激化し論争 の「火付けの役」となったとされている. 20. 。では、対立点はどこにあったのか、両者の立. 場を比較的明確にしている国分一太郎と倉沢栄吉の論をみてみたい。 国分一太郎は、生活綴方は、単なる「国語科」の作文の時間だけでなく 、「全学校教育 の全活動」において「活用されなければならない」としている。教育課程全般に及ぶ包括 的なものであると考えていた。また、そのねらいを子ども個々人が新しい人間になるため に「物の見方・感じとり方・考え方」を深め合っていくことに置いた。 一方、倉沢栄吉は、国分とは逆に、作文教育を「国語科」の中の中心課題として捉え、 この中に生活綴方の問題も含めて、広く深く検討していくというものであった。その上で 作文教育はけっして「単なる技術の教育」でもなく、作文が人間形成に果たす役割を大い に認めていくべきだとしている。 その後も論争の火勢は衰えることなく拡大し、今井誉次郎や国分一太郎等の生活綴り方 派の「日本作文の会」と、石森延男、八木橋雄次郎ら作文派の「作文の会」の対立という 対組織の論争へと発展していく。しかしその後、表面的な運動としては「中正なる作文教 育の樹立」をスローガンにかかげる「作文の会」の動向から 、「日本作文の会」も活動方 針の転換を余儀なくされ、国語科文章表現指導を中心とする方向へと修正されていくので あった。 2.論争の特徴と意義 この論争を一口にいえば、体制側の「作文」に対する反体制側の「綴り方」というイデ オロギー対立を基盤に持ち、経験主義教育の唱える「生活」に即した教育と「生活」の現 実を綴り「 生活 」をかえる志向を持つ綴り方という二つの「 生活 」観の違いを含みながら 、 論争の形としては、形式か内容かという二項対立として展開した、と整理できよう。 この論争が根深いのは、単に教育観の相違というだけでなく、イデオロギーの対立をベ ースにしている点である。新教育へのプロテストとして生活綴り方も台頭してくる。文学 教育台頭の背景でも確認してきたとおり、植民地思想としてのコスモポリタニズムに対す る民衆による下からのナショナリズムという図式を背景にして、教育論が闘わされた。生 活綴り方の作文批判にも同様の指摘が可能である。たとえば、国分の主著であり、戦後綴 り方ブームの象徴でもあった『新しい綴り方教室』の中に次のような一節がある。 国分は「いわゆる新教育のホンヤク型公式主義をうちやぶるためにも、人間を喪失した 唯物主義・機械主義のまだ深くない泥沼から、日本の教育を救うためにも、わたくしたち は、いまこそ、リアリズムと、ヒューマニズムと、そして、すこやかなロマンティズムに たつ綴方教育の効能を、発揮しなければならない」と述べ、その標的に「作文」を設えた のである 。 21. こうした言辞は、同書が世に出た 1951(昭和 26)年勃発の朝鮮戦争やサンフランシス コ講和条約・日米安全保障条約の締結に対する保守政治批判やアメリカ批判の国民的運動 の高まりと同調することで大きな影響力を持ったことが推察される。 そうした対立図式をベースに 、教育論としては両者ともに「 生活 」の重視を謳いながら 、 その内実が大きく異なっていた点に難しさがあった。子どもに「生活」のありのままを綴. - 62 -.

(10) らせることによって、その「生活」を変えうる「ものの見方や考え方」を養い、人間教育 を施していくという生活綴り方にとっては、文部省学習指導要領の立場は同じ「生活」と いう用語を強調し 、「生活」に即した教育の重視を謳いながらも、その「生活」に順応す るための技術の教育が「作文」教育であるように映った。無論、言語生活の改善に役立つ 「書くこと」の習慣・態度・技能・能力を目指す作文教育は人間形成を否定するものでは なかった。また、技術一辺倒の実用主義でもなかった。だが、現場ではなかなか理解され ず 、「国語科」の中の「作文」という一領域に、綴り方のもっていたダイナミズムが矮小 化されたように感じさせられた面もあったのだろう。 そのようなイデオロギーや教育論の対立を持ちながら、論争の形としては、形式か内容 か、あるいは表現方法か人間形成かという二項対立に陥りやすい特性があった。しかし、 倉沢や滑川等作文派として色分けされた人達の多くは、そうした二項対立でなく両者を止 揚した新しい作文教育を目指し、そのような観点から綴り方派を批判していた点は注意深 くみておかなければならない。むしろ、綴り方派の方がイデオロギーへの拘りからか、や や頑なな印象を持たざるをえない。しかし後年、国分も倉澤等と同様の発言をするように なっていく。また「日本作文の会」と「作文の会」には両組織に属する人達が多くいたと いう事実も、まったくの対立ではなく止揚・統一の方向性を持っていたことを象徴してい よう。 以上のような論争の特徴は、今日においても「書くこと」のねらいや指導方法をめぐる 対立の要因となりうるものであろう。 そしてさらにもう一点、この論争を捉え直す上で見落としてはならない視点がある。そ れは「書くこと」の指導を教科の内部のものと考えるか、教科を超えた全体的なものとし て考えるかという点である 。国分の主張にもあったように 、綴り方は一教科にとどまらず 、 学校教育全体で行われ 、また教科の枠にとらわれずに生活を指導するというものであった 。 一方、作文派の主張は 、「国語科」作文の枠の中で綴り方の成果を取り入れながらことば の知識・表現技術・文章構成等を段階を追って指導し、国語科文章表現指導を確立しよう とするものであった。すなわち、この論争によって「国語科」という教科の内包と外延が 問題化され、教科主義に立つ以上、教科の枠をはみ出すようなダイナミックな教育方法を どのように摂取しながら教科内容を豊かにしていったらよいかが考えられていった点にお いて大きな意義があったといえよう。そのようにこの論争を見直すことで 、「国語科」は 一層立体的なものとなるだろう。 第5節. 論争に 論争 に 潜 む 「 国語科」 国語科 」 像 のゆらぎ. 本章の冒頭で述べたとおり、 1950 年代の国語教育をめぐる各論争は「政治の季節」を 背景としながら 、「国語科」の構造を問い直さざるをえない問題を孕んでいた。各論争の 特徴と意義は述べてきたとおりであるが、論争に潜んでいた「国語科」像問い直しの観点 をあらためて整理すれば以下のようになる。 〈西尾-時枝論争〉は両者の言語観を基盤とし文学教育の位置付けを中心命題としなが ら国語科教育の本質を問うものであった。戦前からの伝統的な国語教育の主軸である文学 教育の位置付けが問われたのも、新教育移入による言語生活主義の国語教育へのシフトに. - 63 -.

(11) より「 国語科 」の自明性が崩れ 、その内容と構成があらためて検討し直されたためである 。 ここには国語科教育課程を考えていくための基盤となる教科構造論を準備する視点が隠さ れていよう。 文学科独立論も同様に 、「国語科」の自明性を疑うまなざしの延長上にある議論であっ た。文学教育への期待だけでなく、むしろ言語教育としての「国語科」が前面にでてきた ときであったからこそ熱を帯びた主張となりえた。様々な要素を含む「国語科」の教科内 容を明確化する点において文学科独立論は説かれるべき主張であったといえよう。 「書くこと」の指導を教科の内部のものと考えるか、教科を超えた全体的なものとして 考えるかという点で作文・綴り方論争は「国語科」の自明性を揺さぶり、教科の枠組みを 相対化すると同時に 、「国語科」という一教科に何ができるかを鮮明に問う働きをもたら したといえる。 以上 、 各論争は 、 1950 年代という国語教育における 「 政治の季節 」 を背景としながら 、 国語科教育とは何かを考えさせ、自明とも思われていた「国語科」像を再構築させうる問 題提起性に富んでいる点に共通性がある。個々の争点が「国語科」を有機的な構造体とし て捉え直させる豊かな視点を内在させており、今なおこれらの議論から学ぶことは多い。 こうしてみると 1950 年代は国語教育の歴史において希有な問題史的豊かさを持った時 代であったことがわかる。同時代の国語教育人はそれぞれの関心に応じてこれらの論争や 議論を踏まえて、実践や理論を鍛えていったであろう。そして、そのような時代が生み出 したものの一つに新しい教科書の試みがあった。これまで述べてきたような争点が、さら に国語教科書という形となって現れたとき、そこにどのような問題が発生するのであろう か。次章以降、この時代を代表する「文学編 」「言語編」分冊教科書を研究対象として取 り上げ、詳しく検討していくこととする。 注 1. 当日の 質疑応答記録 については 『西尾実国語教育全集(別巻2 )』(教育出版、 1973 年)を参照されたい。. 2. 野地潤家「 言語教育と文学教育 」 (『 第九回教育指導者講習研究集録・国語科教育 』1952 年 )。ただし、以下の引用はすべて、西郷竹彦他編『文学教育基本論文集(1 )』(明 治図書、 1988 年)に拠った。. 3. 浜本純逸『戦後文学教育方法論史 』(明治図書、 1978 年)参照。. 4. 益田勝実「文学教育の問題点 」(『 日本文学の伝統と創造5』岩波書店、 1953 年 )。な お、益 田の国語教育 論の変遷と 特質については別稿がある。幸田国広「益田勝実国 語教育論の軌跡―文学教育における〈戦後 〉」(『 日本文學誌要』第 67 号、法政大学 国文学会、 2003 年 3 月). 5. たと えば船山謙次は歴史学者高橋碵一や和島誠一等の愛国教育論、教育学者梅根悟 の「愛 国心ならぬ愛 国心」教育 等を整理しながら当時の「新しい愛国心教育」につ いて述べている。 「古い 愛国心は、ポ ツダム宣言 の受諾→日本国憲法の制定によって破棄されねばな らぬはずであったが 、 一部支配者層や素朴な民衆の心に潜流となって残存している 。 吉田首相の 『 万国に冠たる歴史 、 美わしき国土の地理 』 の教育による愛国心教育論 、. - 64 -.

(12) 天野文相の『国の責任』論など、いずれも 、『ありしよかりし時代』への郷愁をこめ た愛国心論・愛国心教育論だといえよう 。 だが 、 戦後は 、 これとは別の 、 いわば 『 新 しい愛 国心』教育論 が登場して きた。そしてそれが、多くの教師に真に自覚される ように なったのは、 日本の社会 が、ますます貧乏と失業とを一般化させさらに民族 の真の 独立の達成が 、はるか遠 い未来においてしか可能ではなくなりそうにおもわ れだし たとき、すな わち民族の 危機に当面して、平和教育・自立教育・民族教育が さけば れだしたとき からである 。いいかえれば平和教育・自立教育・民族教育とと もに、愛国心教育もその芽を吹きだしてきたのであった 。」(『 戦後日本教育論争史』 東洋館出版社、 1958 年 )、 245 頁 6. 小熊英二 『〈 民主 〉 と 〈 愛国 〉. 戦後日本のナショナリズムと公共性 』( 新曜社 、 2002. 年)参 照。小熊は膨 大な資料の 検討をふまえ結論として「自己が自己であるという 感触を 得ながら、他 者と共同し ている『名前のない』状態を、戦後知識人たちはあ るいは『民族』と呼び、あるいは『国民』と呼んだ 」「それを『ナショナリズム』だ ったと 批判すること は、たやす いが無意味なこと」と述べ、次のように主張を端的 にまとめている。 「新し い時代にむけ た言葉を生 みだすことは、戦後思想が『民主』や『愛国』とい った『 ナショナリズ ム』の言葉 で表現しようと試みてきた『名前のないもの』を、 言葉の 表面的な相違 をかきわけ て受けとめ、それに現代にふさわしいかたちを与え る読みかえを行なってゆくことにほかならない。それが達成されたとき 、『戦後』の 拘束を真に乗りこえることが可能になる 。( 829 頁) 7. 特に国分の「 新教育 」批判は 、生活綴方教育復興の中で強力に展開された 。 「 新教育 」 の現実適応主義に対して 、 児童に現実をありのままに見つめさせて問題を把握させ 、 批判的 な目を養う生 活綴方教育 の自己主張も同様の時代的・政治的背景を共有して いる。. 8. もっとも、国分がはじめて文学科の独立に言及したのはより早く、 1947 年 10 月「詩 について 」『日本児童文学』においてであるが、ただしそこでは国語科の性格や任務 について全面的には論じていない。. 9. 「国語教育の基本的方向 」(『 教師の友』 1953 年 7 月). 10 「国語教育の実践的課題 」(『 教師の友』 1954 年 3 月) 11 「国語教育と階級的観点 」(『 教師の友』 1954 年 8 月) 12 「国分石田論争の発展のために 」(『 教師の友』 1955 年 6 月) 13. 西郷信綱他編『岩波講座. 文学の創造と鑑賞. 5 』(岩波書店、 1955 年). 14 「文学教育の問題 」(『 国語教育の問題』世界社、 1951 年) 15. 奥田靖雄「すぐれた日本語のにない手に 」(『 読み方教育の理論』国土社、 1963 年). 16. 最近も文学科独立を提唱する声はある。例えば石原千秋(『 国語教科書の思想』ちく ま新書、 2005 年 10 月)は国語科を「文学」と「リテラシー」の二つの科目に再編す ることを提案している。. 17. 今井誉次郎は西多摩小学校における「農村社会科カリキュラム」を、石橋勝治は四谷 第六小学校における都市型社会科プランを作成・実践した。. - 65 -.

(13) 18. 高森邦明『近代国語教育史 』(鳩の森書房、 1979 年 10 月 )、大内善一『戦後作文教 育史研究 』(教育出版センター、 1984 年 6 月)等、参照。. 19 『生活綴方と作文教育 』(金子書房、 1952 年 6 月) 303 頁 20. 「火付けの役」は高森邦明前掲書 378 頁、また大内善一は「金子書房『生活綴方と作 文教育』を舞台にしての論議は、当初の意図が両者の対立を発展的に止揚していくも のであったにもかかわらず、各個ばらばらの立論は統一性に欠け、理論的な掘り下げ も不十分なものであった。これに加えて、教育現場一般の意識の立ち遅れもあって、 以後、論議はもっぱら『作文か生活綴り方か』の二者択一的な方向にのみ向けられ、 両者の溝はますます深まっていくことになる 。」(前掲書、 208 頁)と述べている。. 21. 国分一太郎『新しい綴方教室 』(日本評論社、 1951 年 2 月) 19 頁. - 66 -.

(14) 第6章 第1節. 「 文学編」「 文学編 」「言語編 」「 言語編」 言語編 」 分冊教科書のねらいと 分冊教科書 のねらいと発行状況 のねらいと 発行状況. 「 文学編」「 文学編 」「言語編 」「 言語編」 言語編 」 分冊教科書の 分冊教科書 の 登場と 登場 と 消滅. 「文学編 」「言語編」分冊教科書は、 10 年間の うちに中学校では 10 社より計 114 点、高等学校. 使用開始年. では 6 社より計 66 点が発行された。各年度ごと. 1952 ( 27 ). 15 78.9%. 24 66.7%. の採択状況は表1のとおりである 。しかしながら 、. 1953 ( 28 ). 14 60.8%. 21 43.8%. 1950 年代半ばから採択状況は衰退し、発行点数も. 1954 ( 29 ). 15 53.5%. 6 66.7%. 全体の5割を下回るようになり、次第に「総合」. 1955 ( 30 ). 14 43.7%. 6 24.0%. 教科書のみとなっていく。国語教科書は古くから. 1956 ( 31 ). 14 41.1%. 3. 1957 ( 32 ). 14 37.8%. 6 12.5%. 1958 ( 33 ). 10 27.7%. 0. 1959 ( 34 ). 10 25.0%. 0. 1960 ( 35 ). 4 12.5%. 0. 1961 ( 36 ). 4 12.1%. 0. 二分冊をとることはあり、それ自体はめずらしく はないが、概してそれは上巻・下巻などの使用順 序を示すものであって、内容や性格の違いによる ものではなかった 。「文学編 」「言語編」という性 格の異なる分冊化が目新しく斬新であったのと裏 腹に、現場ではなかなか受け入れられず定着しな. 中. 学. 高. 校. 9.4%. 表1.分冊教科書採択状況. かったことが窺える。この消滅要因については、第2部末の第9章で考察を試みたい。そ のために本章では、分冊教科書の編集意図を明らかにするとともに、十年間の発行状況お よび各社版の傾向を分析し、考察のための基礎要件を整理したい。 第2節. 分冊教科書発行のねらい 分冊教科書発行 のねらい. 1 .「文学教育」への期待との関連 まずは分冊教科書登場の背景を確認しておきたい。 たとえば井上敏夫は、分冊教科書が登場してくる 1950 年代前半の事情を次のように整 理している。 太平洋戦争以後も、アメリカ指導による言語技能重視の国語教育が推進される一方 で、それへの反として文学教育が強調され 、「言語教育と文学教育」のタイトルの下 に、にぎやかな論議が行われた。その結果、中学から高校へかけて、文学教育は、言 語教育と分離して、別系統で指導されるべきであるという論も多く聞かれた。 国語教科書もまた、昭和 26 年、中学校・高等学校は 、「言語 」「文学」を別冊とし て編纂する方針が認められ、実際に分冊教科書も刊行された。しかし、いざ採択とな ると、世論は圧倒的に「総合」篇の側に味方し、分冊教科書はほとんど一期限りでそ の姿を消してしまった。. 1. また、浜本純逸も、分冊教科書登場の背景を次のように見ている。. - 67 -.

(15) しかしながら、その提唱は、戦後の国語教育が価値(生き方)に迫りえなかった弱 点を衝いてもいたので 、多くの人々の関心を集めた 。それは 、具体的には 1952( 昭 27) 年から 1955 (昭 30)年にかけて国語教科書を「言語篇」と「文学篇」とに分冊する という形で現れた 。国語科内に領域として文学科を独立させようとする 実験であった 。 2. このように、分冊教科書の登場は当時の「言語教育」に対する「文学教育」への期待と 隆盛との関連でとらえられてきた 。たしかに 、前章でもみたように歴史的事実として 1950 年代前半の「コスモポリタニズム」批判とともに熱を帯びた「文学教育」の提唱、文学に 対する各方面からの期待や〈文学科独立論〉の主張等と分冊教科書の出現は符合し、そこ に相応の関連を見ることはできよう。 しかし、この後確認するように、こうした占領下・対米従属下の「文学教育」への期待 と関心が直接分冊教科書の編集・発行を促したとは言い難い。むしろ逆に、それは国語教 育の「言語教育」としての性格の強化、中等教育段階における経験主義国語教育の試みと しての性格が強かったと思われる。なぜなら、以下に見るとおり 、「言語編」こそが 、「新 教育」が指し示す新しい国語教育の理念に沿ったものとして具体化されつつあったからで あり、また、当時の「文学教育」が意図するところと分冊版「文学編」とは相応の距離が あったからである 3。 そこで以下、まずはやや詳しく分冊教科書の編集意図と背景について見ていくこととす る。 2.分冊教科書の編集意図 1948( 昭和 23 )年に始まる教科書検定制度に際して 、その前年の 12 月に刊行された『 昭 和 22 年版学習指導要領(試案 )』でCIEの示唆による「単元を中心とする言語活動の組 織」が一章設けられたが、ここで戦後の国語教育界に新たな思潮として「単元学習」が提 起されたことが、検定国語教科書のあり方を方向付けたと言ってよい。 さらにその方向を受けて作成された文部省『 昭和 26 年版学習指導要領国語科編( 試案 )』 では「第十一章. 三. 国語科において教科書の占める地位」の中に、従来の国語教科書の. 考え方は 、「完全」で「正しくよい」文章を、読み、解釈し、読書力を身につけるのに役 立つものであればよいとするものであったと規定した上で、次のような記述がある。 これからは、単なる文法教科書でなく、文法・作文・話し方をいっしょにした教科 書が必要であり、文学にしてもより広い文学的経験を与える教科書が必要である。生 徒が楽しんで文学を読みながら 、そこから話したり 、書いたりするような活動が起り 、 必要な言語技術や文法の力が学ばれるような教科書も要求されている。 また「付録二. 中学校・高等学校の国語科の教科書はどうあるべきか」では、. 国語科の教科書は、学習資料を組織的に集成したものであるから、国語科として一 本のものでもよいし、文学編・言語編などに分けたものでもよい。分けた場合でも、. - 68 -.

(16) 相互に密接な連関をもって、国語科の目標が果されるようになっていなければならな い。 とある。従来の国語教科書は、いわば名文の集められた読本であり、それを読んで内容を 教えるのが国語の授業であった。一方、戦後の新教科書はあくまでも学習のための資料集 であり、豊かな「経験」や多様な「活動」を組織する「単元学習」のための資料であるこ とが目指された 。「昭和 26 年版(試案 )」のこれら二箇所の記述が分冊教科書編集・発行 の直接的な根拠となっている。また、こうした考え方の背後にはアメリカの言語教育 ― 「文学」と「言語」 ― の影響も窺える 。 4. ただし、これらを受けて 1952 (昭 27 )年以降各社から発行された分冊教科書に先行する 形で、検定初年度、すでに文壽堂(のち秀英出版)から中学校用『私たちの国語』及び、 三省堂から高校用『新国語(ことばの生活・われらの読書 )』が発行されていた。吉田裕 久の詳細な研究によると 、『私たちの国語』は「すなわち理解鑑賞(思想受容)と表現創 作(思想発表)とで上下巻を分かち、その上巻が生徒の興味・関心を考慮した読み物に、 そして下巻の方は言語生活の発達段階に着目した学習作業のまとまりということで編集さ れた 」ものであり 、当時の「 単元学習 」模索の状況下で編纂され 、その意味で「 単元学習 」 を具体的に想定できる数少ない教科書のモデルであった 。また 、『新国語』は「言語と 5. 文学とを両輪として独立させ、その統合を図ろうとしていた」ものであり、やはりここで も「学習者の『生活』を単元構成の機軸とし 」、具体的には「言語生活と、文学を中心と した読書生活とを基盤として、筋のとおった単元が構想され」ていた。両者に共通するの は 、「単元学習」への明確な志向性とその具体化にあった。そして、分冊という形で性格 の異なる二冊を有機的に結びつけようとした意図を持ったものとして後の分冊化に多大な 影響を与えたと言える。ちなみに、三省堂『新国語』教師用指導書では、 もとより 、「ことばの生活」の教育と「われらの読書」の教育とを、截然と二分す べきものとは考えていない。ふたつは、車の両輪のようなものである。一方があって はじめて他方が成り立つ。二にして一である。一であるが、また二であることに違い はない 。(中略ー引用者)二元をつらぬくもの、二元観の根源にあるものを注視され たい。二元的にとり分けてはいるけれども、帰するところ 、「言語表現」の研究と習 得という一元をねらっているのである。 と、このように「文学編 」「言語編」分冊の本質に関わる提起がなされている。分冊化は それぞれの学習の目標を明瞭に具体化するとともに、最終的にはそれらが「単元学習」の 中で統一されることをねらって作られたものであることがわかる。 さらに、東陽書籍『ことばの生活. 言語の本』教授参考書は「『 言語の本』の側から言. えば 、『文学の本』は文例を提供したり、また学習の補いを与えてくれるものになります し 、『文学の本』の側から言えば、学習目標のいろいろな場面を『言語の本』が提供して くれることになります」と関係を明示し 、「単元学習」成立のために相互参照すべきもの とされている。 そしてこうしてみてくると、分冊教科書が明確に「単元学習」を志向するものとして、. - 69 -.

(17) その新機軸を打ち出そうとすることの場は明らかに「言語編」にあったことがわかる。換 言すれば、当時、分冊化の際の要は「言語編」をどう作るかに圧倒的な比重があったと考 えられる 。「文学編」の内容・特性については章を改めて検討するが、大まかに見て文章 集、読書資料として従来からの読本的な性格を引き継いだものであったのに対して、学習 方法を明示する「 言語編 」の内容は既存の国語教科書に頼ることはできないものであった 。 その意味で、当時の国語教科書の「革新」的性質を担ったものといえる。 その点、さらに詳しく見てみよう。文部省「教科用図書検定基準 」( 1952)では「言語 編」の内容に関してより具体的に条件が明記されている。 (1)生徒の日常生活を豊かにする言語的資料、たとえば新聞・ラジオ・映画・雑誌 等を理解し活用しうる能力を与えるもの。 (2)生徒が言語による思想の交換を、たとえば、会話・討議・手紙等の手段や機会 において、十分になしうる能力を与えるもの。 (3)経験の上に立って、ことばのきまりを認識し、自覚し、ことばの正しい効果的 な表現や理解の技術を身につけ、進んでは、国語の構造、特質などを学び、さ らに言語に関する諸問題を研究するのに役だつもの。 ただし、中学校では口語のきまりを主とし、文語のきまりを加味して学習する のに役立つもの。高等学校では、口語のきまりの学習を深めるとともに、文語 のきまりを学習するのに役立つもの。 (4)過去および現在の文学を正しく理解し、鑑賞する方法や技能を会得するのに役 だつもの。 (5)みずからの言語生活を反省したり、評価したりする能力を養い、種々の言語生 活における正しい習慣、態度を学習するのに役だつもの。 このように、言語に関する基礎的な知識や言語技術のみならず、新聞・ラジオ・映画を はじめとしたメディア学習など相当幅広い学習内容が想定されていることがわかる。そし てここで何よりも注目したいのは 、「文学を正しく理解し、鑑賞する方法や技能を会得す るのに役だつもの」とあるように、文学の理解や鑑賞さえも射程に収めている点である。 この点を捉えて井上敏夫は「もはや別に文学編を建てる必要はなくなってしまう。言語編 一冊あれば新しい国語学習の目標は十分達成することができるということになる 。」と指 摘している 。 6. やや先走っていえば 、この井上の指摘にあるように 、 「 言語編 」が革新性を発揮して「 新 しい国語学習 」を一身に担おうとすればするほど 、逆に「 文学編 」の保守性は一層際立ち 、 それ故に「新教育」を受け入れがたく感じていたり、疑念を払拭しきれない現場の広汎な 声なき声と響き合って、結局分冊化の理念である二元の「一元化」という隘路を切りひら くことはできなかったのである。 以下にまず、分冊教科書の発行状況と編集タイプについて整理を試み、この点について 教科書の実態と分析を通して確認していく。. - 70 -.

(18) 第3節. 分冊教科書の 分冊教科書 の 発行状況. 表2、表3の通り、中学用は 10 社 26 種、高校用は6社 21 種が発行された。 表2.中学校用分冊教科書発行状況 出版社. 順 種別. 教科書名. 冊. 使用年度 27 28. 29. 30. 31. 32. 33 34. 35. 36. 37. 日 書 B 文学. 国語生活 文学編. 6全. 中 教 B 文学. 国語 文学編. 3 全――――――――――――(※1). C 言語. 国語 言語編. 3 Ⅰ ⅡⅢ………………………(※2). 教 図 B 文学. 国語 文学編. 3 全―――――. 開隆堂 A 文学. 新しい中学国語 文学. 3. B 文学. 新しい中学国語 文学. 3. 全―――――――――――――――――(※3). C 言語. 新しい中学国語 言語. 3. 全……………………………………………. 学 図 B 言語. 中等言語. 3全. C 文学. 中等文学. 6 全―――――. D 言語. 中等言語. 3. F 言語. 中等言語 改訂. 3. 全……………………………………………. G 文学. 中等文学 改訂. 3. 全―――――――――――――――――. 二 葉 B 文学. 新国語 文学. 6全. C 言語. 新国語 言語. 3全. 秀 英 C 文学. 私たちの文学. 6 全――――――――――――――――――. D 言語. 私たちの言語. 3 全………………………………………………. 北 陸 A 言語. 新制中等国語 言語編. 3全. B 文学. 新制中等国語 文学編. 3 Ⅲ ⅠⅡ―――――――――(※4). C 言語. 新制中等国語 言語編. 3. 光 村 A 文学. 中等新国語(文学). 6 全―――――. B 言語. 中等新国語(言語). 3 全……………. C 文学. 中等新国語 文学編. 6. 全――――――――――(※5). D 言語. 中等新国語 言語編. 3. 全…………………………(※6). ことばの生活. 3全. 東 陽 A 言語. 全. 全. 全…………………………. B 言語. ことばの生活 言語の本 3. 全………………………………………. C 文学. ことばの生活 文学の本 3. 全―――――――――――――――. 〈凡例〉 順=その出版社での発行順 。『教科書検定総覧』の記号によった。 全=その年度で全学年が発行。 Ⅰ=その年度でⅠ学年のみが発行。 ※1・2=ⅠⅡ年は 31 年度発行停止。. ※3= 30 年度にⅡ年の改訂版を発行。. - 71 -.

(19) ※4= 28 年度にⅢ年の改訂版を発行。. ※5・6=Ⅰ年は 33 年度発行停止。. 表3.高校用分冊教科書発行状況 出版社. 順 種別. 教科書名. 冊. 使用年度 27. 教 図. 28. 29 30. 31 32. 33. 34. 35 36. 37. C. 文学 国語 文学編. 3 全―――――. D. 文学 高等標準国語 文学編. 3. 全―――――――――――――――(※1). E. 言語 高等標準国語 言語編. 3. ⅠⅡ Ⅲ…………………………………(※2). A. 文学 現代国語 文学. 6. 全――. B. 言語 現代国語 言語. 3. 全……………………………………………………………. C. 文学 現代国語 文学. 3. 全――――――――――――――――――. 二 葉. B. 文学 新国語 文学. 三省堂. A. 言語 新国語 ことばの生活. 3 25 ~全……. B. 文学 新国語 われらの読書. 3 25 ~全――. D. 文学 新国語 文学 改訂版. 3 全――――――――――――. E. 言語 新国語 言語 改訂版. 3 全………………………………. G. 文学 新国語 文学 三訂版. 3. 全――――――――――――――――――. H. 言語 新国語 言語 三訂版. 3. 全………………………………………………. A. 文学 高等文学. 6 全――. B. 言語 高等言語. 3 全…………………. C. 文学 高等文学 改訂. 3. 全―――――――――――――――――――――. E. 言語 高等言語 改訂. 3. 全…………………………………………. A. 文学 新編国語 文学. 3. 全―――――――――――――. B. 言語 新編国語 言語. 3. 全……………………………. C. 文学 新編国語 文学 改訂版. 3. 全―――――――――――――. D. 言語 新編国語 言語 改訂版. 3. 全…………………………………. 実 教. 好学社. 大 教. 全. ※1・2=Ⅰ年は 34 年度発行停止。 27 年度使用本から分冊教科書を発行しているのは、全体のうち約半数の会社にすぎな い 。残りの半数は 、途中からの参入である 。中学用日書や中学用教図 、高校用二葉等は「 文 学編」のみの発行であり、中学用中教「言語編 」、中学用北陸「文学編 」、高校用教図「言 語編」のように三学年用のものが一度に発行されず、複数年度にわたっている例もある。 これらの事実は、分冊教科書編集の困難さを物語っていよう。 第4節. 分冊教科書の 分冊教科書 の 類型. 次に、各社がどのような編集原理で作成したかを 、「文学編 」「言語編」それぞれ類型 化したのが表4~表7である 7。. - 72 -.

(20) 表.4. 中学「文学編」(日書、教図、二葉、欠) 出版社. ①「主題単元」. 教科書名. 代表編者・監修者. 開隆堂. 『新しい中学国語. 学図. 『中等文学』. 久松潜一他. 秀英. 『私たちの文学』. 麻生磯次他. 光村. 『中等新国語. 垣内松三他. ②「作品のジャンル」. 北陸. 『新制中等国語』. ③「教材」. 東陽. 『ことばの生活. 中教. 『国語. 表.5. ①「主題単元」. ②「作品のジャンル」 ③「教材」. 高木市之助他 文学の本』. 文学編』. 斉藤清衛他 時枝誠記他. 教科書名. 代表編者・監修者. 教図. 『高等標準国語. 好学. 『高等文学』27. 辰野隆他. 三省. 『われらの読書』 25. 土井忠生他. 三省. 『新国語. 土井忠生他. 大教. 『新編国語. 教図. 『国語. 三省. 『新国語. 実教. 『現代国語. 文学編』28. 文学』 27 文学』28.32. 文学編』 27. 今泉忠義他. 岡本明他 金森徳次郎他. 文学』 30. 土井忠生他. 文学』28.30. 新村出他. 中学「言語編」(二葉、欠) 出版社. ①「し方型」. ②「ジャンル型」. ③「活動型」 表.7. 文学編』. 平井昌夫他. 高校「文学編」(二葉、欠) 出版社. 表.6. 文学』. 教科書名. 代表編者・監修者. 中教. 『国語. 言語編』. 時枝誠記. 北陸. 『新制中等国語. 言語編』. 関宦市他. 中央. 『新制中等国語. 言語編』. 高木市之助他. 光村. 『中等新国語. 秀英. 『私たちの言語』. 麻生磯次他. 二葉. 『新国語. 岩井良雄他. 学図. 『中等言語』. 東陽. 『ことばの生活. 開隆堂. 『新しい中学国語. 言語編』. 言語』. 垣内松三他. 久松潜一他 言語の本』 斉藤清衛他 言語』. 平井昌夫他. 高校「言語編」(欠なし) 出版社. ①「し方型」 ②「ジャンル型」. 教科書名. 代表編者・監修者. 教図. 『高等標準国語. 実教. 『現代国語. 好学. 『高等言語』27.31 ※. 辰野隆他. 三省. 『新国語. ことばの生活』25. 土井忠生他. 三省. 『新国語. 言語』 27.30. 土井忠生他. - 73 -. 言語』 28. 言語』28. 今泉忠義他 新村出他.

(21) 大教 ③「活動型」. 『新編国語. 言語』29.32. 岡本明他. なし ※ただし 、内容的には大きな変更 。. 「文学編」といっても、単なる教材の羅列ではなく、「単元」を意識した目次構成には各社相 応の工夫が見られる。①「主題単元」で構成したもの、②「作品のジャンル」で構成したもの、 ③「教材」で構成したもの、の大きく三つのパターンがある。このうち中学高校ともに多いの が①「主題単元」によるものである。国語科の単元としては、主題に沿って複数の教材を並べ る型が、「単元学習」を想定した場合に、そのねらいが最もわかりやすいためであろう。 「言語編」の単元構成も各社さまざまであるが、表3のとおりこれも大きく三つのタイ プに区別できる。①「し方型」=○○の書き方、○○の読み方、といった教材で配列して あるもの。②「ジャンル型」=生活と言語・日記・読書・通信文、といった単元(教材) 名で配列してあるもの。③「活動型」=経験を発表しよう・新しい生活を知らせる・考え を深めよう、といった単元名で配列してあるもの。中学用では①「し方型」と②「ジャン ル型」がほぼ半々を占めており、高校用ではやや②「ジャンル型」が多い。唯一の③「活 動型」である中学用開隆堂は異色の存在であることがわかる。 以上のような発行状況と類型化できる分冊教科書は、しかしまた各社毎に微妙な違いも みられるし、ねらいもやや異なるところがある。次章においてより詳しくその内容をみて いくことでより踏み込んだ考察を試みたい。 注 1. 「 国語科教育における文学教育 」 『 国語科教育学研究. 第9集 』 ( 明治図書 、1985 年 10. 月 )、 67 頁 2 3. 『文学教育の歩みと理論 』(東洋館出版社、 2001 年 )、 14 頁 すでに当時から西尾実(「 対談. 言語教育と. 文学教育 」『言語教育と文学教育』金. 子書房、 1952 年、 15 頁)によれば、両者の性格は「『 文学編』は読方資料編 、『言語 編』は国語学習の方法編」ということになり 、「言語編」と「文学編」とがそのまま 言語教育と文学教育とに対応すると考えることはいささか慎重さを欠くことになる。 4. 川崎啓子「 高校『 言語 』編教科書調査報告 」『 横浜国大国語教育研究 』( 第 18 号 、2003 年 6 月)は 、「言語編」教科書作成の際の参. 考として、①アメリカの教科書② 1948. 年 2 月告示「教科用図書の検定についての件設定」と 4 月制定の「教科用図書検定規 則」③. 1949 年 2 月に定められた「教科用図書検定基準」④昭和 26 年版学習指導要. 領の二カ所の記述をあげている。 5. 『戦後初期国語科教科書史研究 』(風間書房、 2001 年 )、第4章参照. 6 「新国語教育と新教科書 」『国語教室 』(第 11 号、 1952 年 4 月 )、但し引用は『国語教 育史資料第一巻 7. 理論・思潮・実践史 』(東京法令出版、 1981 年 )、 377 頁. 安藤修平「言語技術から見た教科書分析『文学編 』『言語編』教科書 」(『 教育科学 国語教育』№ 535 、 1996 年 12 月~№ 540 、 1997 年 4 月)、「文学と言語とを総合した 教科書」(『 教育科学. 国語教育』№ 541 、 1997 年 5 月)の調査・分類を参照した。. - 74 -.

(22) 第7章 第1節. 「 文学編」「 文学編 」「言語編 」「 言語編」 言語編 」 分冊教科書の 分冊教科書 の 内容と 内容 と 特徴. 「 文学編」 文学編 」 と 「 言語編」 言語編 」 の 関連. 前章でみたように「文学編 」「言語編」分冊教科書といっても多様であり、各社様々な 工夫を凝らして編集している。ここでは分冊教科書の内容に焦点をあてて考察していく。 発行の究極のねらいであった「二元の一元化」をどのように実現しようとしているのか、 また、各社の両者の内的連関の度合いの違い等を確認しながら、分冊教科書の特性を浮か び上がらせたい。主な分析の対象としては光村図書版『中等新国語』を取り上げることと する。光村版は「文学編」が主題型 、「言語編」がし方型をとっており、なおかつ「総合 編」を発行している。中学用高校用あわせて『昭和 26 年版学習指導要領(試案 )』の理念 に最も忠実な編集を行っている典型として取り上げる。この光村版を中心線に置きながら いくつかのバリエーションを重ねて考察し、分冊教科書の特長と問題点を明らかにしてい きたい。 なお、光村版の編集委員は、垣内松三、安藤新太郎、石森延男、栗原一登、輿水実、八 木橋雄次郎の6名である(「 文学編 」「言語編 」「総合編」すべて同じ )。 1 .「文学編」の内容と特徴 ①ジャンルの多様性 各社「文学編」の編集でもっとも多いのは、た と え ば 「 詩 と 人 生 」「 近 世 文 学 の 特 質 」「 自 然 ・ 人間」等のいわゆる主題単元によるもので、次い で「短編小説 」「日記」等のジャンル単元である 「文学編」という名称ではあるが、目次を見ると 随筆、詩歌、伝記、記録、編集委員の解説文等、 多様なジャンルの文章から構成されており、外国 の翻訳作品や日本の古典も幅広く採録されている。 さらに、写真や新聞を「読む」ことも「文学編」 に含まれている。 ②「文学編」メッセージ性 分析の観点を学習指導の機能ではなく 、「文学 編」を一冊の読本として教材文の内容・思想に移 してみると、はっきりとしたメッセージ性が伝わ ってくる 1 。採用されている教材文には明るく前 向きに力強く生きる人間への期待感に満ちたもの が多い。戦後の国語教科書の特性としてその前向 きさや明るさ、そして未来志向は、国定期の『み んないいこ読本』から『高等国語』まで一貫し. - 75 -. 表1.光村版「文学編一上」目次 一 春の丘 (一)丘に立つ (二)この5日間 (三)希望の春 二 少年の日 (一)麦の穂 (二)あとみよそわか (三)私の万年筆 三 心のすがた (一)画家の目 (二)音に生きる (三)結晶の力 四 平和の都 (一)新しい東京 (二)東京から 五 電波は描く (一)放送局見学 (二)海底を行く (三)頂をめざして 六 スポーツ (一)苦心 (二)実力は語る (三)投球 学習のために 学習の方向 注意することば 単元対照表.

参照

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