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初期映画から古典的映画への移行期における映画形式の形成と展開

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Academic year: 2022

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(1)早稲 田大学博 士論文( 概 要) 学位記 文科・ 省報告 2 0 12 6 0 15 甲 3651. 1910年代の比較映画史研究 初期映画から古典的映画への移行期における映画形式の形成と展開 小川佐和子 【論文概要書】. 1895年、シネマトグラフが開発され、以後、無声映画がトーキー映画に取って代わら れる1920年代末から30年代初頭までの約30年間、無声映画は草創期のプリミテイヴな映 画形式(1985年から1908年)から古典的ハリウッド形式(1910年代末以降)の確立へと 形式の変遷を遂げていった。この、初期映画と呼ばれる時期が終焉を迎えてから、1920 年代以降の前衛映画の興隆と古典形式の定着の時代に挟まれた10年間は、映画の長尺化 に伴い、複雑なプロット、映画言語や表現技法の可能性が広がった移行期にあたる。 これまでの映画史記述において、映画言語の規範や標準化の定義は、主としてエディ ティングに基づくアプローチが中心に据えられており、その方向から逸脱し、逆行する、 あるいは停滞する動きに関しては、相対的に低く評価される傾向にあった。その最たる 例の一つが、1910年代のヨーロッパ映画や日本映画を、否定的な意味合いで演劇的、つ まり後退した形式とみなすことである。昨今では、よりニュートラルにタブロー形式と いう呼称もつけられているが、各国映画史やスタイリストと呼ばれる独自の映画形式を 確立した監督らの作家論は散発的であり、その展開を複数の事例に則して概観する研究 は僅少である。本論文は、インターナショナルな芸術メディアである映画の特殊性を鑑 みて、特定の作家や作品に拘泥することは避け、1910年代という一つの時代を切り口に 横断的にその映画形式の展開と形成をみることに特色がある。 1910年代に入ると、各国で国内の映画産業が整い、輸入された他国の映画形式から影 響を受けつつ、コンテイニュイティの技法が国際的に広がった。すなわち、カット=イ ンやカット=バック、アイライン・マッチ、ショット=リヴァース・ショットといった. ナラテイヴの明快さを提示するためのさまざまな編集技法の多くは、多少の優劣はあり っっも、1912年頃には多くの映画作家達により共通の認識のもと使用されていく。これ らの技法はとりわけハリウッドの映画作家らが活用し、1917年頃には古典的形式として 確立された。コンテイニュイティ編集の基礎は打ち立てられたものの、第一次大戦の勃 発により他国の映画市場との関係が断ち切られると、国際規格の画一化は中断され、か わりに1910年代を特徴づける多様な映画形式がヨーロッパ各国で発展していくことに なる。さらに、そうした外的な影響だけでなく、各国が映画登場以前に育んできた文化、.

(2) 伝統芸術といった内的要因も、ナショナルな映画形式の由来となる。とくにヨーロッパ および日本では、隣接する諸芸術/諸芸能と対略していくなかで、映画メディアの特性 が探求されていった。その後、第一次大戦末期、ヨーロッパ各国の映画産業が打撃を受 けると、アメリカ映画の大量流入に伴い、各国の映画形式は徐々に国際的なスタンダー ドへ統合されていった。古典的ハリウッド映画という圧倒的な国際的規格の登場を前に、 ヨーロッパ各国および日本で模索された映画形式の可能性は、実に多様なものであり、 古典に収赦されえない形式が育まれていたのである。 そこで、本論では、当時の主要な映画産業国であったフランス、ドイツ、ロシア、イ タリア、そして日本の各々の映画形式生成のプロセスを分析することを目的に据えた。 方法論に関しては、テクスト分析や形式比較といった映画作品に依拠した研究方法に加 え、当時の映画雑誌や新聞など一次資料による実証的な映画史分析を行い、映像からの み語られることに特化せず、観客の反応や批評家の記事、広告による宣伝効果や、同時 期にどのような外国映画が輸入されていたのか、といったことなどを視野に入れた総合 的な映画史研究を行った。 本論文では、1910年代を、以下のように捉える。演劇性に基づく、対象から距離のあ るフレーミング、固定されたカメラ、描かれた背景/書測、ロング・テイクといったこ れまでプリミテイヴと見なされてきた手法が、より表現豊かに強化された新しい技法と して脱皮していく。従来の図式のようにエディティング技法のみに変換されていくので はなく、ステージング/画面の深度の利用、タブロー形式/コンポジションの美学、意 図的な装置/画面内移動/鏡の使用、身振り演技の提示/移動撮影といった技法と機能 であり、これらもまた、シネマティックな手法と考えられ、とりもなおきずアメリカ的 な編集技法のオルタナテイヴとなりうる。この変化は、従来の図式とは異なり、ナラテ ィヴの明快さに奉仕せず、アメリカ映画的なものが規範になっているのに比べて、とき には「見えにくい」変化である。強力なロング・テイクの伝統に支配されており、エデ ィティングやカメラの可動性は、あくまで新たな表現のレパートリーとして機能し、ス テージングに従属する。この「見えにくい変化」は1910年代のヨーロッパ映画に見られ る現象であり、見えにくいものを見えるようにするのが本論の目的である。 本論は、ヨーロッパにおける主要な映画産業国と日本をケーススタディとして、個々 の事例や特定のテーマを軸に1910年代のヨーロッパおよび日本の各映画形式の記述を 展開していくものである。ここまでは、映画史のコンテクストの問題を述べた。 ところで、初期映画形式からエディティング重視の形式へという進化論のオルタナテ ィヴとして1910年代映画形式を提示することだけが本論文の目的ではない。エディティ ング技法がある時点からヨーロッパ映画に発症したのではなく、ステージングと徐々に.

(3) 融合を見せてきた、という変遷もさることながら、さらに重要なのは、「古きぶどう酒」 である他芸術と映画との関わりである。これは、なぜ、こうしたオルタナテイヴ形式が 主としてヨーロッパ映画で起きたのか、という本研究のもう一つの問題提起にも関わっ ている。. 1910年代のヨーロッパおよび日本の映画、すなわち「新しい革袋」は、演劇、絵画、 文学といった既存の芸術を取り込もうとした。ときには取り込まざるを得ない状況にあ った。「芸術」という概念自体がすでに時代遅れになり、19世紀以前の芸術と相反する 近代の複製芸術として最も強烈に時代を闊歩したのが写真と並び映画というメディア であった。そうしたモダニズムの産物が、モダニズム以前のすでに過去の遺跡と化した 芸術を再び表象しようとする、逆説的な現象が1910年代のヨーロッパで起きたのである。 ドイツ表現主義やフランス印象主義、ソヴイエト・モンタージュ派といった次の10年間 の動きも、たしかに芸術を映画に取り込もうとするものではあるが、決定的に違うのは、 1920年代の映画が同時代芸術との連動であったのに対し、1910年代の映画はモダンとプ レモダンとのはざまを揺れ動くものであったことだ。 言い換えれば、1920年代においては、映画が、自身のメディアの独自性を確信し、意 識的に他領域の要素との融合をはかったとすれば、1910年代では、他領域とのせめぎ合 いの中で、映画の固有性を模索していた時代と言えよう。初期映画の時代は、明快なナ ラテイヴを構築するための技法の発見や創作に取り組んだ時代であり、1920年代は、前 衛的な映画形式の登場によりモダニズムに彩られた「芸術映画」到来の時代とされる。 そして、1910年代は初期時代に模索された技法が持つより洗練された表現豊かな機能の 追求がなされた時代であった。この時期は、長編映画がスタンダードとして定着し、知 識階級やブルジョワジーの映画観客が加わって多様な観客層を生み出し、豪華な映画館 の設立、映画改革運動や検閲の開始、配給システムの整備など、多くの外的な変化が起 きた時代でもあった。他方、それに伴って、内容の変化も起きる。ドイツの作家映画、 フランスのフイルム・ダールに特徴的な伝統的な諸芸術の作家らの映画への関心、デイ ーヴァ映画に顕著な現象である映画作品の担い手としてのスター・システム、エヴゲー ニイ・パウエル、マックス・マック、フランツ・ホーファー、アペル・ガンスといった スタイリストと呼ばれる独自の美学を持つ監督の登場、フランス映画における自然主義、 イタリア映画におけるオペラの伝統や象徴主義など、特定の芸術潮流に関連付けられた 映画の増加といった変革が1910年代ヨーロッパ映画に見られる内実の変化である0画一 的であった初期映画形式を脱皮し、各国が独自のナショナル形式を伴う製品としての映 画、特定の芸術潮流に関連付けられた映画を確立していく。 以上の従来見過ごされてきた1910年代の映画史を、ある程度の網羅性と詳細な検討を.

(4) 兼ね備えた本研究はこの10年を位置づける初の本格的な試みと言ってよい。以下に本論 の構成を説明していきたい。本論文は、国際化現象、監督篇、演技篇と三部構成となっ ている。国別に並列に記述することは避け、テーマ別に比較の軸を設定した。 第一部では、映画の国際化現象を見る。映画において、美術や演劇、文学と異なる最 大の特徴は、映画は芸術の方向を目指そうとも、あくまでインターナショナルなメディ アである点だ。一方で、とくに初期映画時代以降、インターナショナルな映画形式に代 わりナショナルな映画形式が台頭してくる、というのもまた史実である。依然として映 画市場の一角を担う実写映画に関しては、この議論から除外しているが、少なくとも劇 映画に関しては、1910年代以降、形式はナショナルなものに分類可能となっていく。 だが、注意すべきは映画のインターナショナリティが減じていくわけではなく、むし ろ増長していくなかで、各国のナショナル映画形式が形成されていったという過程であ る。映画の国際化現象の一端はイタリアで1909年に開始された映画コンクールのケース を見ることで、確認していきたいと思う。 続いて、第二章では大正期初頭以降、日本という第三者的立場の映画受容と外国映画 からの影響を見ることで世界映画情勢の反映を確認する。欧米の映画とは異なり、歌舞 伎や講談など伝統芸能を強く受け継いだ日本映画は、これまで1910年代末の純映画劇運 動で改革されるまで演劇的で後退した形式と位置づけられてきた。大正期の日本映画形 式は、ヨーロッパ映画形式からアメリカ映画形式を模範とするようになったことから、 1910年代映画形式の波及を考えるにあたって重要である。1910年代を通じて、ヨーロッ パ映画からアメリカ映画への受容の変化は、隣接する他芸術を映画形式に換骨奪胎する 意味での「映画の芸術性」から、既存の芸術形式に由来しないまったく新たなスタート 地点に立脚した映画言語を獲得する「映画の自律性」への変化をも徐々にもたらした。 第二部は、監督篇と称して、1910年代映画の比較の軸として特徴的な形式を持つ映画 作家に注目した。ここでは、作家としての監督の登場=作家主義が成立したのは1910 年代という仮説を立てている。具体的には、1910年代のヨーロッパ映画形式を異なる視 点から見るため、三人の監督を中心に採り上げた。フランスのアルベール・カペラこ、 ドイツのマックス・マック、ロシアのエヴゲーニイ・パウエルである。 1900年代末から1910年代前半にかけて映画が物語叙述の形式を獲得していく移行期、 ァルベール・カペラニは、フランスにおいて初期映画からの移行を先導した一人と言え る。カペラニは、1910年代のヨーロッパ映画形式の特徴とされるタブロー形式を維持し っっ、演技、映画形式の面で早くからより映画的な表現を追求していった。初期のカペ ラニは、フイルム・ダールやスカグル、フイルム・ダルテ・イタリアーナといった既存 の古典的芸術を取り込むことで映画の地位を向上させようとするパテの芸術映画の傾.

(5) 向を特徴づける古代劇映画や夢幻劇映画を多く製作していた。これらの作品におけるカ ペラニは、初期のパテ美学の体現者の一人としてみなせよう。さらに、『居酒屋』 上り∫ぶ。椚椚。fr(1908年)など、カペラこの代名詞となった文学作品の映画化は、映画の 長編化を促し、新たな表現の可能性を切り開いた作品として映画史に名を残している。 しかし、ここで注目したいのは、カペラこの現代劇における演出である。この点で、 物語映画への移行期におけるパイオニア的存在としてカペラこが浮上してくる。カペラ ニは、移動撮影とカッティングによるサスペンスを生み出し、複数の登場人物への感情 移入、ときには被害者/加害者といった対峠するキャラクターの立場へ同時に観客を引 込ませる手法を産み出した。カペラニによるサスペンスの手法と道徳的な感情移入の提 示、そして救いのもたらされないラストミニツツ・レスキューの失敗は、アメリカの 先駆者らとは一線を画している。 ヨーロッパ映画形式に編集技法が徐々に統合されていく推移を示したカペラニ・スタ イルは、彼の渡米後、急速に失われていく。フランスにおける初期作品からアメリカ期 のカペラニ作品までをクロノロジカルに見直すことで、1910年代のヨーロッパ映画形式 とアメリカ映画形式の差異、アメリカ以外の国におけるナラテイヴの統合化、ヨーロッ パの監督による古典形式の吸収の過程を概観することができよう。 一方、演劇と映画の歩み寄りが浸透していたフランスと違い、ヴイルヘルム期のドイ ッにおいては、演劇界と映画界の対立と協調が激しく行われた。1912年以降、国内の映 画産業が活性化し、製作本数も増加していったヴイルヘルム期ドイツ映画を、ドイツ固 有のナショナルな形式を模索していた時期として捉えるのは可能である。ドイツ映画産 業の興隆と共に1908年に開始された映画改革運動を引き継ぎ、1913年から14年にかけて 盛んになった作家映画(Autorenmm)という概念は、ドイツ映画が発展するための重要 な促進力となった。この時期、ドイツの文学界、演劇界の要人が映画製作に協力し、強 力な文化的コノテーションを持つ映画が多数製作された。マックス・ラインハルトら演 出家が監督を、アルベルトバッサーマンのような舞台俳優が出演をこなし、映画の質 と地位を向上させる一助となっていった。 本章では、草創期のプリミテイヴな映画がより豊かな表現形式を獲得するに至ったド イツ映画の移行期を確認し、この時期、映画というメディアの特殊性がどのように活用 されていったのか検討する。演劇界からの根強い抵抗と辛辣な批判を受け、映画を演劇 と同等の表現芸術だと認められず軽蔑されていた初期のドイツ映画では、映画が演劇の 批判をかわし評価される位置づけを確保するためには、映画固有の表現を獲得する必要 があった。初期のドイツ映画は、その移行期において、新たな芸術領域として価値を認 められるために、演劇と対略し、演劇の克服に専念するほかはなかった。そのために監.

(6) 督のマックス・マックが考えたのは、映画における演技の様式化と演劇では不可能なク ロース・アップという手法だった。クロース・アップによってバッサーマンの表情、と りわけ正常から狂気へと変わる目の力を全面に提示したショットは、当時の観客や批評 家に最も強力な印象を与えた箇所だった。当時の批評ではクロース・アップが演劇より も強力な表現技法だと指摘された。マックは、舞台俳優として屈指のバッサーマンの映 画における身振り演技が固有の映画的瞬間を形成するよう尽力した。『他者』において は映画的演技の追求に重点が置かれ、バッサーマンをめぐって、舞台における演技と映 画における演技をいかに差異化させるかマックは試行し、身振り言語の様式化を成功さ せた。 さて、1910年代においてもっとも特異な映画形式を展開させたのはロシアのエヴゲー こイ・パウエルであった。コンテイニュイティ・エディティングを構築したグリフィス と対極的なスタイルを持つエヴゲ一二イ・パウエルは、主として固定されたロング・テ イクにおけるフレーム内編集というステージングにより、きわめて個性的な映画形式を 編み出した。 第五章では、パウエルの過剰な視覚的特性がどのように獲得されていったのか、監督 以前の舞台装置家としての半生を踏まえた上で、後の映画製作にどのような影響をもた らしているのかセノグラフイーの観点から分析していく。古典的映画が映画固有の表現 のみを押し進めていたのに対し、パウエルは既存の芸術形式、とりわけ絵画的なセノグ ラフイーを映画に導入することで、スペクタキュラーなパースぺクテイヴを実現させた。 パウエルは映画界に入る以前、美術や建築の知識を貯え、その後、20年以上に渡る舞 台装置家としてのキャリアを積んだ。その間に培った舞台装置の構成力、とりわけパー スぺクテイヴへの高い意識は映画監督として身を立てていった後も引き継がれていっ た。パウエルによるスペクタキュラーなパースぺクテイヴの実現は、映画という二次元 性と三次元性が同居する特有の造形芸術メディアにおいて、絵画や舞台には見られない より複雑なセノグラフイーを呈することとなった。映画界に入る前に確立されたパウエ ルの美学は、19世紀の古典的な美学規範に基づいており、それを映画に応用するという 新奇でアヴァンギャルドな試みを実現した類い稀な監督であった。1910年代ヨーロッパ 映画形式における最たるスタイリストであるパウエルの功績を本章でまとめていく0 続いて、第三部の演技篇では、映画形式の担い手として監督と並び重要な要素である 演技者、とくにスター女優を比較の軸に設定した。映画の表現可能性が増した1910年代 は、映画固有の演技形式が生まれた時代でもあった。 そのなかで日本映画は、中国映画と並び、女形俳優、すなわち男性が女性を演じると いう、映画史においてはきわめて特殊な慣習を持っていた0第六章では、日本映画に.

(7) おける女形俳優を体系的に整理した上で、女形俳優から女優への演技形式の移行につ いて、身体演技から表情演技という点から述べていきたい。続く第七章では、映画史上 初のスターと呼ばれるアスタ・ニールセンを採り上げ、1910年代に確立されていった演 技の類型を見ていく。ニールセン特有の悲劇演技の類型と、男装によるコメディー演技 の類型を考察し、両者の融合を見る。女形俳優が女性を演じる際の演技形式は、伝統的 な演劇の型に基づいているのに対し、アスタ・ニールセンが男性を演じる際は、映画演 技の類型に基づいていることが対比されよう。 女形俳優は「女性性」をコード化した演技形式という点では、とりわけデイーヴァ女 優と共通する面もある。第八章では、フランスにおけるコメディー男優とイタリアにお けるデイーヴァ女優を中心に、1910年代の演技コードをめぐる比較の議論を展開する。 コメディーにおける演技の類型は、その不条理なプロットとトリックなど映画固有の技 術に対応して、形成されていく。一方、映画を構成する他の要素に左右されずに演技単 体で特異な形式を生み出したのはデイーヴァ女優であった。作品の作家性は主として映 画監督に帰属されるが、1910年代にイタリアで全盛をきわめたデイーヴァ映画は、監督 よりも主演女優が作品の作家性を担っている点で注目すべき事例である。デイーヴァ映 画における移動撮影やロング・テイクは、ナラテイヴを紡ぎ出すオルタナテイヴな手法 ではなく、デイーヴァ女優の演技を提示するために奉仕している。1910年代の映画では 不自然な演技の誇張、演劇的な身振りは頻出するが、デイーヴァ女優の特徴は他の演技 者との演技の不調和を引き起こすことで、画面を占める事物と人物の上に君臨する。デ ィーヴァ女優の身振りによる独白の演技は、プロットを宙づりにし、撮影しているカメ ラとの断絶をもたらし、そこにおいては「もの」としてのデイーヴァの身体が膨張して いくのである。映画研究では疎かにされがちな演技論を採り上げることで、1910年代の 形式を、より複眼的に見つつ、スター女優が映画作品の創造的イこシアテイヴを担う点 も議論していく。. 7.

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