中国古代都城の外郭城と里坊の制
積山
洋
一、緒
言
古代の東アジア史において、常にその中心となってきたのは中国である。その卓越した文明が周辺諸国に大きな影響 を及ぼしてきたことは周知の通りである。そして、実際に目に見える形で中国文化を東アジア、さらには世界に伝える 舞台となったのが、長安や洛陽などの都城であったことも、言うまでもないだろう。諸外国の使者が訪れた都には、高 い壁に沿って整然たる道路網が敷かれ、 邸宅や寺院、 城門などの甍が空に舞い、 大勢の人々が行きかう華やかな場であっ た。それゆえ、このような都の姿も東アジア諸国に伝わることとなり、それぞれの国情に即した都の建設が行われるこ ととなった。 隋の開皇二十年(六〇〇) 、一世紀以上の空白を経て倭国が中国へ遣使した。この時記録された倭国の様子が『隋書』 巻八一、東夷伝倭国条に録されている。その中に、 「無城郭。 」という簡潔極まりない三文字がある。日本の都城では、 外郭である京域を備えた藤原京が実現するまで、この遣隋使から約一世紀の年月が必要であった。しかし、その過程は 決して単純ではなく、いくつもの試行錯誤があり、今日ではそれが重要な研究テーマとなっている。 日本古代都城における条坊制の始まりを研究するにあたっても、やはりその起源である中国都城の実態を知っておか ねばならない。日本の京域にあたる中国都城の外郭城(外城)では、早くから方格地割による里坊の制が行われたことはよく知られている。その成立と展開をたどり、方格地割による街区 建設という観点に絞ったうえで、日本の条坊制を考える前提として本 稿を位置づけたい。 なお、私は先に、中国都城の重要な要素である南北の造営軸線につ いて考えたことがあるが (1) 、 今 回もそれに則り、 都城の南北軸線のうち、 左右対称プランの造営軸線に限って中軸線と称することとする。
二、外郭城における里坊の成立と展開
(1)曹魏 城と漢代の県城 後漢末の建安九年 (二〇四) 、 華北の覇権を確立した曹操は 河の ほとりの平原に 城を築いた。 城は西辺を除いて方形の城郭プランをとり、 そ のほぼ東西中央に、 宮城の文昌殿から端門・止車門を経て南端の中陽門にいたる中軸線の プランであり、文昌殿を置いた宮殿の東には聴政殿を置くもうひとつ の宮殿がある (2) (図1) 。 止 車門の前には、 幅一三m前後でやや南に湾 曲する東西大道が走っており、ここから南は幅一七mの中陽門大道を 中心に、ほぼ左右対称で幅約一三mの鳳陽門大道・同規模の広陽門大 道が南北に走る外郭を成している (3) 。南端の城墻は、判明した地点では 幅一六・四mであった。 外郭の東部には 「吉陽里」 「永平里」 「思忠里」 図 1.曹魏城復原図などの里が置かれていた。これらの里名(および殿舎名)とその位置は『文選』巻六の左思「魏都賦」とその李善注か ら判明(戚里、長寿里、吉陽里)または推測(永平里、思忠里)されたもので、みな「貴里」とされ、庶民の居住区で はないようである。しかし、里名が空白の西部を中心にいかなる人々がいたのかとなると、具体的な様相はまだ不明で ある。また、上に述べた大道のうち、鳳陽門大道に沿って側溝が検出されているが、この大道に沿う城墻に関する記述 はない。これらの大道には二時期の路面がみられ、下層の路面は後漢末から曹操の時代であり、外郭の城壁が築かれた のも同じ年代とされている。 報告から図上計測すると、中陽門大道の東の方形郭は東西九四〇m余、南北約七七〇mで周三四〇〇m余、西の方形 郭は東西八八〇m余、 南北約七四〇mで周三二〇〇m余の規模で、 北辺が湾曲しているが、 こ れと併行する 「長明溝」 が一直線なので、本来的には方格地割であろう。その内部に展開していた地割を考えるうえで参考になるのは、漢代の 県城クラスがこの程度の規模に相当することである。愛宕元の集成によると、漢代の県城は周二〇〇〇~四〇〇〇m程 度とされる (4) 。 そして、 城からわずか五〇㎞以内の近距離にある河北省武安県所在の午汲古城 (5) は漢代の武安県城とされ、 周約三三〇〇mと 城左右の方形区画と同じ規模であり、比較の好例である。その報文は以下の通りである。 「古城の城垣は西・北面が現存しており、 高さ約三~六m、 基底幅八~一三mと均等ではない。 … 略…現城の四隅 は全部残っており、さほど規則的ではない方形を呈する。東西八八九m、南北七六八mで全城の面積は六八万八〇〇 〇平米を超える。東西と北の三面の中央には、それぞれ幅一〇~五〇mと不揃いな開口部があり、南面の開口部はや や西に偏った位置で、あまり明瞭ではないが、四門が所在したようである。東西に相対する城門を繋いで、地下二m で幅六m、長さ九八七mの土の道路が城外に直通している。この道路に連なって幅二・五mの「南北支路」が四条、 検出された。西門から二七六mの位置にある道路は南へ向かって長さ一八三m、城の中央に相当する位置の道路は北 へ三五二mの長さであるが、いずれも開口部にまっすぐに向かっていない。 」(積山訳) この報告には現場の実測図が掲載されていないので、詳細は不明だが、何らかの方格地割に 類 するようなものがあっ
たかに見受けられる。ただ、南北の門の位置は相対せず、また東西道が県城の中央に位置したかどうかは不明であり、 それから派生する南北の小路はいずれも城垣に達する長さではない。その南北小路の西門からの位置をみても、城内が 均等に分割されてはいない。したがって、方格地割というほど整った碁盤目状ではないが、東西・南北の直線的な地割 なら、あったものとみておくのが妥当なところであろう。 前代の県城とされる午汲古城の地割の実態から察すると、曹魏の都城である 城ではもう少し整った直線的地割また は碁盤目状の地割が施行されていた可能性がある。少なくとも方格地割の萌芽だという評価は許されるであろう。 (2)北魏平城 中国大陸の東北を故地とする遊牧騎馬民族の鮮卑拓跋族が建てたのが北魏である。彼らは代国を名のり盛楽で建国し たが、穆帝の六年(三一三) 、「城盛楽以為北都、修故平城以為南都。帝登平城西山、観望地勢、乃更南百里、於 水之 陽黄瓜堆築新平城、 晋人謂之小平城。 」( 『魏書』 巻一、 序紀) と、 漢の平城故城を南都とし、 晋人に小平城と謂われる ような新城を築いていた。天興元年(三九八)正月、 「帝至 、巡登臺 、遍覧宮城、將有定都之意。 」( 『魏書』巻二、 太祖紀)とあり、太祖道武帝は に都を定めんと思ったが、六月に国号を魏とし、七月には「遷都平城、始営宮室、建 宗廟、立社稷。 」(同)と、今の山西省大同に遷都した。それは「太祖欲広宮室、規度平城四方数十里、將模 、洛、長 安之制、 運材数百万根。 」( 『魏書』 巻二三、 莫題伝) とあるように、 中原の伝統的な都城を模倣せんとしたものであっ た (6) 。 天 賜三年 ( 四〇六) には 「発八部五百里 男丁築 南宮、 門闕高十余丈。 引溝穿池、 廣苑囿。 規立外城、 方二十里、 分置市里、 経 塗洞達。 三十日罷。 」( 『魏書』 巻二、 太祖紀) という記事があり、 「 南宮」 、 苑 囿とともに外城を建 設 し た。外城は方 形 プラン であり、内部に里 坊 と市を分置し、道路を 通 したという。 次 代の明元帝になって、 泰常 七年(四 二二) に 「 築平城外 郭 、 周回 三十二里。 」( 『魏書』 巻三、 太宗紀) と、 外 郭 城の建 設 が 終 わったようである。 この記事 ( 周回 三二里) とその前の 『魏書』 太祖紀にある外城が方二〇里 ( 周回 八〇里) との記 録 との 落差 は大 き く、 後 代の都
城と比較すると、外郭の規模は周回三二里のほうが現実的であろう。 里坊の具体的な姿は、 『南斉書』巻五七、魏虜伝に、 「其郭城繞宮城南、悉築為坊、坊開巷。坊大者容四五百家、小者 六七十家。 毎閉坊捜検、 以備奸巧。 」 とあり、 宮城の南に外郭城を置き、 坊には路地 (巷) が開き、 四~五〇〇戸から 六~七〇戸と坊には人口規模(戸数)にかなり大きな格差があり、坊門を閉じて捜索を行い、悪人に備えたという。た だ、各坊の形状に関わる史料はなく、方形プランであったかどうかは不明である (7) 。 史料は少ないが、北魏平城は北に宮城、南に外城という 城、つまり中原漢族の都城を模範としたことに、もっとも 注目される。よって外城に、道路による一定の直線的地割ぐらいは施行された可能性があるだろう。 城までの里坊はみな「某里」と称されていたのに対し、平城の記録には「坊」も現れている。坊の記載は魏晋洛陽 城のころから認められるが、南北朝まではあくまでも公称は里であり、坊は民間等での呼称であった (8) 。坊が防に通じる ことは、 『南斉書』にみたように、 「坊を閉じる」ことでその治安維持的機能が発動されることによって知られる。 しかし、北魏の平城はまだほとんど発掘調査されていない。近年、わずかに宮城の重要殿舎と目される大型建物の基 壇 ( 操場城一号建築遺址) や 、 そ の南方で明堂跡が発見された (9) 程度にすぎず、 不明なことが多いのが現状である。 た だ、 操場城一号建築と明堂との南北距離は五㎞余であるが、漢以後の明堂は城外南郊に置かれるのが通例であるから、外郭 城の南限は明堂の北方にあったという推測は可能であろう。 また、 操 場城一号遺址の一帯は漢の平城故城 (平城県城) でもあることがほぼ判明している ( ) 。 (3)北魏洛陽城 中国都城において、 壮大な外郭城を築いて方格地割を施工したのは北魏洛陽城に始まる。 太和一七年 ( 四九三) 、北 魏の孝文帝が洛陽に遷都したのち、 景明二年 (五〇一) 、「発畿内夫五万人築京師三百二十三坊。 」( 『魏書』 巻八、 世宗 紀)とあるが、これは「嘉表請於京四面、築坊三百二十、各周一千二百歩」 (『魏書』巻一八、広陽 王 嘉伝)により三二
〇坊の誤りとされている ( ) 。また『洛陽伽藍記』には「京師東 西二十里、南北十五里、戸十万九千余。廟社宮室府曹以外、 方三百歩為一里、里開四門、門置里正二人、吏四人、門士八 人。 」(巻五、城北巻末)とあり、里(坊)の規模は方三〇〇 歩つまり一八〇〇尺(一歩は六尺)四方の正方形が基本であ り、それは先の『魏書』広陽王嘉伝に、坊は各周一千二百歩 であったことからも知られる。そこには四面に門を開く小路 が設けられ、 里正二人以下の役人がいた。 『洛陽伽藍記』 で は坊数は計三〇〇だが、残りの二〇坊は外城南辺中央で南に 突出して外城は甲字形だったとされる(図2) 。 一方、 「京邑諸坊、或七八百家。 」( 『魏書』巻一八、太武五 王伝) 、「京邑諸坊、大者或千戸、五百戸。其中皆王公卿尹、 貴勢姻戚、 豪猾僕隸、 蔭養姦徒、 高門邃宇、 不 可干問。 」 (『魏書』 巻六八、 甄 伝) という史料もあり、 洛陽でも坊の 人口規模には差があった。そこには貴賤なくあらゆる人々が 住んでいたようである。 このほか、 『洛陽伽藍記』 に は数多くの里名が記されてお り、 里坊は固有名詞で呼ばれていた。 里坊の公称は 「里」 で あったことは先にも触れたが、洛陽で没した官人の墓誌銘の 集成 ( ) によると、確かにみな里名表記となっている。 図 2.北魏洛陽城復原図
市は洛陽三市ともいわれるが、西郭に「洛陽大 市」 、 東 郭に 「馬市」 「小市」 、南 郭 に は「 南 市 」 「四通市」 などが知られ、 大市や小市の周囲には 屠販・歌舞音曲・醸造・葬儀などに関わる「諸工 商貨殖之民」 (『洛陽伽藍記』巻四 法雲寺)が居 て賑わっていた ( ) 。 洛陽では、まだこのような大規模な外郭城の実 態を裏付ける調査は進んでいないが、それでも実 地踏査と発掘調査によって外郭城の東限、西限、 北限と大道、城門、水系などに関する調査が大き な成果をあげている ( ) 。これについては以前、詳論 した ( ) 。略述すると以下のとおりである。 洛陽外郭城の東限と西限は宮城南面の東西大道 の両端(図3のA・B地点)で確認された。外郭 城の東西幅は約一〇〇五〇mを測り、宮城南門た る 闔門はこの両地点の二等分点に位置する。こ の東西大道の重要性は、 第 一に宮城正門 ( 闔門) 前の大道であり、第二に後漢以来の西明門をわざ わざ北へ移して西陽門とし( 『水経注』穀水) 、新 たにこの大道を西へ通したこと、第三に内城と外 図 3.北魏洛陽城関連調査図
城を結ぶ西陽門とこれに相対する東陽門だけが、洛陽城で一対の門号であり、第四に路幅が五〇~五五mと外郭の東西 大道中、最大規模であることなどから、よくうかがえる。すなわち、この宮城南面大道は南北の造営軸線に次ぐ東西の 基準線であり、それゆえ外郭城の本来の規模(東西幅)を示すのである。試みに、一尺二七・九㎝という北魏前尺 ( ) を基 準とし、六尺一歩・三百歩一里の制でみると、外城の規模は『洛陽伽藍記』にいう東西幅二〇里にほぼ一致している。 このような 闔門の位置は、外郭城がこの門を基点に左右対称に設計されていたことを端的に示す。北魏洛陽城の造 営軸線は、内城にあたる魏晋洛陽故城では魏晋の軸線と地割を踏襲したので西に偏っているものの、その制約を受けな い外郭城ではこの軸線を中軸線とし、外郭城の東西幅をそろえたのである。まさに都城中軸線というにふさわしい ( ) 。 とはいえ、外郭の垣墻は方位の振れがやや大きく、また西限では東西に曲折を重ねるなど、完成度が低いことも見逃 せない。ましてその内部の地割の実態はまだ不明であり、またそれらを囲む墻壁(以下、坊墻と呼ぶ)が本当にあった のかどうかも未確認である。 外城の復原には諸説あるが ( ) 、宿白の説を基本(図2)とし、その後の調査結果をどう生かすかが課題である。 (4)東魏北斉 城 六世紀前半、 北魏は東魏・西魏に分裂する。 まず孝静帝を擁立した東魏が天平元年 (五三四) 、 に遷都し、 翌年、 西魏が長安に都を遷す。東魏はかつての魏の 城の南に広大な南城を建設した。その規模は東西六里、南北八里六〇歩 であり、坊数は四〇〇余であったという ( ) 。鐘暁青は、洛陽では宮城・官署・廟社を除く外郭城は二二〇坊とし、 南城 は洛陽城とほぼ同一規模なので、四〇〇もの坊数は収まりえないという ( ) 。鐘暁青と村元健一は、 南城は北魏洛陽城の 忠実な模倣・再現であったとする。 東魏の後を襲った北斉も引き続いて 南城を都城とした。そのさまは「至於城邑、一坊僑旧或有千戸以上、唯有里正 二人、 里吏二人。 里吏不常置。 」( 『通典』 巻三、 食貨 北斉) といい、 千戸以上という記事が信用できるなら坊の規模
はかなり大きいことになり、そのためか里正は二人置かれた。であれば、四〇〇余坊は収まりきらないと思われる。 北斉の官人李庶の妻の言に、 「我薄福、 託劉氏為女、 明旦当出、 彼家甚貧、 恐不能見養。 …劉家在七帝坊十字街南、 東入窮巷是也。 」( 『北史』 巻四三、 李庶伝) とあり、 城の、 お そらくは外郭に 「七帝坊」 という坊名がみえ、 そこに は「十字街」が開き、さらに小路である巷も通じていたようである。村元健一による と晋陽の「二都」に関わる埋葬 者の墓誌九三点の集成によると、 で死去した東魏北斉の官人らの死去地は例外なく里名表記であり、七帝坊は「七帝 里」が正式名だったのであろう。 市については、 東市は東郭、 西市は西郭にあったという (『嘉靖 徳府志』 巻八、 都宮室志、 本文) 。『 中記』 に よれば、東市は王城の東五里の石橋の北にあった(おそらく外郭城の中)という。 東魏・北斉の 城でも、いま調査が進んでいるのは内城の宮城、城壁などであり、外郭城では一部の仏教寺院が調査 された ( ) にすぎないのが現状である。 (5)隋唐長安城 北周の軍閥であり、皇帝の外戚であった楊堅が静帝の禅譲を承け、開皇元年(五八一)に建国した隋は、翌年、前漢 長安故城の南東、龍首原に大興城を築く。周知の通り、大興城は唐代に長安城と名を変えて継承される(図4) 。 しかし外郭(羅郭)の城壁工事は隋煬帝の大業九年(六一三)三月に「発丁男十万城大興。 」( 『隋書』巻四、煬帝紀) とあり、この時に工事が行われたかもしれないが、結局、永徽五年(六五四)三月に「以工部尚書閻立德領丁夫四万築 長安羅郭。 」、また同年一一月、 「築京師羅郭、和雇京兆百姓四万一千人、板築三十日而罷、九門各施観。 」とあり、この 年にようやく完成している( 『旧唐書』巻四、高宗本紀) 。城壁の高さは「一丈八 尺 」( 『唐六 典 』巻七、工部尚書)とあ り、五・四 m足 ら ず であった。その内部には 幅 一〇〇 m を 超 える東西大 道 が二 条 (宮城南 面 の「 横 街」と皇城の南 面 大 道 )、南 北 大 道 も 朱雀 路の 左右 に二 条 が 全 城を 貫 き、 また 朱雀 路を中 心 に 様々 な 規模 の 碁盤目 状 道 路によって 区画 され
た坊が広がり、その数は 唐初には一〇八坊(東西 市・曲江池等を除く)で あった。 調査された実測値 ( ) によ れば、長安城は東西九七 二一m (春明門~金光門) 、 南北八六五二m(明徳門 ~玄武門東方) の規模で ある。里坊の規模は、東 西・南北の坊列の幅が判 明している。朱雀路の東 第一縦列(南北坊列)が 五六二m、第二縦列が七 〇〇m、第三縦列が一〇 二二m、第四縦列が一〇 三二m、第五縦列が一一 二五m、朱雀路の西第一 縦列が五五八m、第二縦 列が六八三m、第三縦列 図 4.隋唐長安城復原図
が一一二〇m、第四縦列 が一〇三三m、第五縦列 が一一一五mである。坊 の南北長は、皇城南方の 東西坊列において北から 五〇〇m、五四四m、五 四〇m、五一五m、五二 五m、五三〇m、五二〇 m、五三〇m、五九〇m の規模であった。南北長 が隋唐洛陽の洛河南岸諸 坊と近似することは注意 される(後述) 。 外郭城の発掘調査例 ( ) を みると、まず皇城の正門 である朱雀門の南に位置 する長興坊や興化坊では 東西の横街しかみつから ず、後者では側溝を伴う 幅一一mの東西道が検出 図 5.長安城安定坊調査位置図 図 6.安定坊小十字街実測図
されている。そのため、皇城南方の三六坊(図4の①)では横街のみ復 原されている。 一方、 西端中央の群賢坊、 懐 徳坊をはじめ里坊での調査所見によると、 坊内は幅一五m前後の東西・南北道が交差する十字街をなし、この道路 側溝に沿って残存基底幅二・五~三mの坊墻が築かれていた。また、外 郭北端西部の安定坊では、十字街によって四分割された坊の北西街区で 発掘調査が行われ、これをさらに四分割する小十字街が検出されている (図5・6) ( ) 。小十字街では、幅約六mの東西道と幅約五mの南北道が交 差しており、南北道は両側で何も検出されなかったが、東西道ではその 南北に基底幅約一・五mの坊墻跡が発見されている(側溝の有無は記載 なし。 )。この坊墻は盛唐のころ南北道を切断して設けられたとされ、土 地区画が富豪などの大邸宅に拡張され、南北道が撤廃されたとされる。 盛唐の八世紀以後は、小十字街の東西道にも坊墻が設けられていたので ある。安定坊の調査では路幅約二〇mの大十字街の東西道(他の坊の同 例より五mほど広いという)も発見され、その位置から、一六分割され た坊内街区の規模が東西約二四〇m、南北約一八〇mであったことも判 明している。 長安城には東西に市が置かれ、隋では「太府寺既分為少府監、而但管 京都市五署及平準、左右藏等、凡八署。京師東市曰都会、西市曰利人。 」 (『隋書』巻二八、隋煬帝官制)と、都会市、利人市とも呼ばれて少府監 図 7.長安城西市復原図
の管下にあった。 その西市でも調査が行われている (図7) ( ) 。 西 市は東西九二七m、 南北一〇三一mと広大な面積を占 め、基底幅四mばかりの版築土墻と幅約一四mの道路で囲まれている。内部では側溝を伴う幅約一六mの東西・南北の 道路が井字形を成して敷地を九街区に分割している。中央の街区は東西三二七m、南北三〇九mの規模であるが、市の 四面に沿う街区は外辺までの距離がわずかに短く、その結果、中央の街区、四隅の街区、東辺中央と西辺中央の街区、 南辺中央と北辺中央の街区と四種の規模・形状に区分されており、案外複雑である。道路側溝は二時期が認められ、第 一次側溝は素掘りで壁の上に木板を伴い (板組溝か) 、 幅 は〇・九mであった。 第二次側溝は幅一・一五mの磚積であっ た。側溝に沿って道路に臨む建物跡が連なってみつかった。その幅(間口)は様々だが一〇m以下と小規模であり、店 舗と考えられている。 さて、隋唐長安城の外郭城の特徴は以下の通りである。 第一に、太極殿(隋大興殿)から承天門、朱雀門を経て、南端の明徳門にいたる都城中軸線を中心に、外郭の東西市 や諸坊などが、ほぼ左右対称に配されていたことである。これほど整然たる街並はかつてないことであった。しかしな がら内城(宮城と皇城)に注目すると、この軸線の位置が西側に偏っていることに気づく。それでも、このラインが朱 雀路上に位置することによって、都城中軸線の構造を認めることはできる。内城の軸線が西に偏るのは北魏洛陽城と同 じ形制ということになりかねないが、隋大興城は北魏洛陽城と違って新天地に築かれた都城であり、旧来の地割の制約 はなかったはずである。これは単なる造営上の測量誤差なのかどうか、不審な点である。 第二に注目されるのは、外城の里坊には地域によって異なる複数の規格があったことである。それは、①内城の南方 地域、②内城の東方・西方の二地域、③内城の南東・南西の二地域という五地域に三種の規格がみられる。より詳しく みれば、①の東西第一縦列と第二列、②の北部と南部にも規模の差があったらしい。この点は早く、関野貞が指摘 ( ) し、 平岡武夫は①と②をそれぞれ細分して五種に分類した ( ) 。このような格差は明らかに意図的な設計の結果であり、長安城 の街並は決して単純な碁盤目状ではなかったのである。
第三に、諸坊は規格が異なるとはいえ、いずれも東西に長い長方形を呈することである。この点も関野の指摘が嚆矢 であり、のちに岸俊男が日本古代都城の源流を隋唐長安ではなく北魏洛陽に求めた ( ) 際の論拠の一となった。日本の都城 は正方形街区を単位とするが、長安では③において、正方形に近い街区が東西に並んで一坊をなしている程度にすぎな い。 第四に看過できないのは、 それぞれの地域においても、 程度の差はあれ、 坊の規模にばらつきがみられることである。 典型的なのは①と③の諸坊で、その南北幅は五〇〇~五九〇mとまったく一定しない。東西幅も、朱雀路の東第三・第 五縦列と西第三・第五縦列は、それぞれ一〇〇m内外もの誤差がある。詳細は略したが、道路幅も様々である ( ) 。都城中 軸線プランの整然たる街並とはいえ、造営時の誤差は案外大きかったことがわかる。 第五に、①を除く諸坊はその規模に応じて十字街、さらに四つの小十字街など東西・南北の道路で一六街区に分割さ れていたことである。安定坊では、東西道のみとはいえ、小十字街の南北にも坊墻がもうけられていた。大十字街で四 分割された街区の四面に坊墻が築かれていたのは当然であろう。ただ、皇城の南方地域は十字街でなく、東西の横街の みであったという。これらの道路には側溝が伴うが、小十字街に沿っては、安定坊の南北道路のように側溝がみつから ないケースもあった。また西市においては、街区が九分割され、道路に沿って店舗らしき遺構が並んでおり、版築墻壁 は市の四面だけに築かれていた。 (6)隋唐洛陽城 大業元年(六〇五)に隋煬帝が造営した東京(洛陽城)は、北魏洛陽城の西方にて新規に建設された。四年後に東都 と改称されるが、 隋が滅び、 武徳四年 (六二一) 、 煬帝の宮殿は破壊される。 顕慶二年 (六五七) 以後、 洛陽は再び東 都となって繁栄した。 隋唐洛陽は極めて変則的な都城であった。その中央を洛河が東西に貫くというかつてないプランであり、宮城と皇城
を都城全体の北西部に置くという、 これも変則的なデザインであった (図8) 。そのため、造営軸線は内城 (宮城・皇城) においては中軸線で あるが、皇城の端門から定鼎門にい たる外郭城においては都城全体の西 端に近い位置にある。東限の城壁は 南北七三一二m、南限の城壁は七二 九〇mであるが、全体は正確な方形 ではなく、北東の角が鋭角をなし、 北西の角は鈍角をなしている ( ) 。 洛陽外郭城は「都内縱橫各十街、 街分一百三坊、二市。毎坊縦橫三百 歩、 開東西二門。 」( 『旧唐書』 巻三 八 地理志一) 、「凡一百三坊、三市 居其中焉。開元十二年廃西市、取厚 載門之西一坊地及西市入苑。 」( 『唐 六典』巻七 尚書工部)などと記さ れている。坊数はこれ以外にも幾通 りかの説があり、いまは、本来一〇 図 8.隋唐洛陽城復原図
九坊三市と復原されている ( ) 。 洛陽も長安と同様に、外郭城の里坊が地域により複数の規模・形状があった。洛河の南岸と北岸に大別されるが、南 岸でも、その北端の東西一列とそれ以南で異なるし、後者では、正方形に近い坊が並んでいるが、かなりばらばらであ る。具体的に見ると、坊の東西幅は、長夏門以東の坊列は東から五二〇m、五三〇m、五六五m、五六〇m、五一五m であり、長夏門から定鼎門までの坊列の東西幅は、東から五八〇m、五四〇m、五〇〇m、五〇〇m、さらに西の二列 は五〇〇m、四六〇mを測る。洛南の坊の南北長も、南端の坊列から北へ五三〇m、五六〇m、五五〇m、五四〇m、 五三〇mという具合である。東都洛陽でも、施工時の測量誤差はかなり大きいようである。 とはいえ、 唐代の記録である韋述 『両京新記』 には 「毎坊東西南北各三百歩、 開十字街、 四出趨門。 」 とあり、 また 社宝『大業雑記』にも「 (洛水)大堤南有民坊、各周四里、開四門臨大街。 」とある ( ) 。洛河南岸の諸坊が東西・南北各三 百歩 (一里) の規模とされるのは、 先引の 『旧唐書』 地理志と同じであるが、 『旧唐書』 では坊内の道路が東西道 (東 西二門)のみという。ここは十字街であったとすべきであろう。それはともかく、洛南諸坊は数値上のばらつきが大き いものの、一応は方三〇〇歩(一八〇〇尺)の正方形で設計されたようである。これは日本の古代都城と同じであった ことになり、たいへん重要である。 道路は残りが悪いが、宮城中軸線である定鼎門街は幅一四七mとされるほか、洛北と洛南に各一条ずつの東西大道、 南北大道がある。 里坊では定鼎門北東の明教坊で調査が行われている (図9) 。 先にみた坊の規模によれば明教坊は東西五〇〇m・南 北五三〇mであるが、その北辺道路から一五m南と西辺道路から二五~二八m東に、それぞれ坊墻が確認され、その基 底幅は西墻で最大四mであった。また坊を四分割する十字街(東西道、南北道とも幅一四m)が検出されているがこれ に沿う坊墻の有無は明らかでない。 市は、 隋 代には 「東都東市曰豊都、 南市曰大同、 北市曰通遠。 」( 『隋書』 巻二八、 隋煬帝官制) と 、 それぞれ別称を
もつ三市があり、唐代には洛北に北市、洛南の北部に南市、南西隅に 西市があった。 「二市」 の みという記事が先の 『 旧唐書』 地理志にあ るのは、 『唐六典』 か らわかるように、 開元一二年 (七二四) に西市 が廃されたからであろう。 外郭の城壁に関しては、 「長寿中、 神都改作文昌台及定鼎、 上 東諸 門、又城外郭、皆昭徳創其制度、時人以為能。 」( 『旧唐書』巻八七 李 昭徳列伝。なお、洛陽は光宅元年(六八四)に東都から神都に改称。 ) とあり、また「初、隋煬帝作東都、無外城、僅有短垣而已、至是、風 閣侍郎李昭徳始筑之。 」( 『資治通鑑』 巻二〇五 武則天長寿元年) と ある。則天武后が洛陽に常居した長寿年間(六九二~六九四)によう やく完成したのである。 隋唐洛陽城の外郭は設計の根本が長安城と異なるが、複数の里坊の 規格があったのは長安とよく似たあり方といえる。その中で、洛南里 坊の大半が方一八〇〇尺の正方形に近い規格であり、日本の条坊制と の関係から、大いに注目されるべきである。
三、里坊制の起源と特徴
前項では中国古代都城の外郭城を、街区建設の視点から通観してみ た。その結果、興味深いことがいくつか見出せる。以下、それらにつ 図 9.洛陽城明教坊復原図いて述べることとする。 (1)里坊制の起源について 外郭城の方格地割は、北魏洛陽城に始まるとするのが通説的理解であったが、実は曹魏 城の南の外郭で、小規模な がら方格地割が胚胎しつつあることは重要である。先にみたように北魏の太祖道武帝が平城遷都の際、 城を模範の第 一としたことは、その可能性を高めるものである。 城では中軸線たる中陽門大道の左右に東西九〇〇m前後、南北約七五〇mの方形区画が認められた。この規模を、 後代の外郭城と比較してみよう。北魏洛陽城では、各里坊の規模が方一里であったと仮定し、先述と同じ前提で試算す ると、一坊の東西・南北規模は、〇・二七九×六×三〇〇=五〇二・二(m)という規模であったことになる。もちろ んこれは机上の計算に過ぎず、実態はまだ不明である。一方、隋唐長安城では、先にみたように、坊の規模は不揃いだ が、東西は五五八~七〇〇m、南北は五〇〇~五九〇mで、その多くは十字街、さらに小十字街によって一六分割され ていた。 これらに比べると、 城の方形区画の方がやや大きいことがわかる。 ただ、 その内部の地割は予測がつかない。 ところで、先に紹介した午汲古城の報告では実測図が掲載されていないため、日本では推測を交えた概念図が描かれ ることとなった ( ) 。それはなぜか、報文とは異なり、城内は均等に一〇分割された方格地割とされ、しかもそのそれぞれ が報文に記載のない墻垣で囲まれた「里」の姿であるとされている ( ) 。不可解なことである。 とはいえ、こうした復原を否定するあまり、実態を無視するわけにもいかない。隋唐の長安、洛陽ですら坊の東西規 模は不均等であったことを思えば、後漢の県城に、のちの方格地割につながる直線的な地割が施行されたことぐらいは 認めてよいだろう。まして都城中軸線という画期的なプランを実現した 城では、前代の県城とされる午汲古城より少 しは整った地割が施行されていたとしても不自然ではない。もっとも、北魏の平城や洛陽の里坊の実態がまだ不明な現 状では、 城に期待しすぎるわけにはいかない。またそのような方形区画内の直線的地割がまだ墻壁を伴っていないら
しいことは、午汲古城、 城とも、報文にその記述が一切ないことによって示唆されるし、 城の外郭城は後代都城の 外郭城に比べて非常に狭いことも看過できないことである。 ここで注意すべきは、 漢代の直線的地割がもっとも顕著なのは、 いうまでもなく前漢長安城・後漢洛陽城であること、 またこの地割は前者の未央宮・長楽宮や後者の北宮・南宮などがみな方形であったことに由来することである。 つまり、 城外郭の方格地割は王宮の方形プランを外(南方)へ拡大、発展させたものといえよう。さらに重要なのは、この観 点から方形の王宮・王城の淵源を遡ると、 はるか夏商の時代にまでたどり着くことである。 河南省に集中する 北商城・ 鄭州商城や偃師商城 (小城) 、 そ して夏の二里頭遺跡の王宮などは、 いずれも方形を基本とするものであった。 近年、 二里頭遺跡で発見された宮城城墻は東西三〇〇m弱・南北三七〇m前後の規模であり、これに沿う直線道路網が宮城外 に展開していた ( ) 。このように、曹魏 城の外郭方格地割は中原漢族の極めて古い伝統に連なるものであった。 城の外郭方形区画は方格地割の芽生えにすぎないが、中国都城の伝統に沿ったものであり、里坊制の起源とみるこ とができるのである。 (2)考古学からみた中国里坊制の特徴 まずあげられるのは、里坊の規模が一貫して不揃いであることだろう。長安城では、地域ごとに五大別して規模・形 状を変えており、これは当初の設計によるとして充分に理解できる。だが、その各地域内でもかなりばらついている。 当時の測量の結果ではあろうが、さほど厳密に画一的な施工を貫徹したようには見受けられない。とりあえず方格地割 が施工されれば、それでよしとされたかのようである。隋唐洛陽城でも同様であるから、それ以前の 南城や北魏洛陽 城の里坊も推して知るべきであろう。 第二に、その中で見逃せないのは隋唐洛陽城である。ここでは、洛南里坊の大半を占める南市以南で、各里坊が方一 里(三〇〇歩=一八〇〇尺)の正方形に近い規格であることが注意される。これも実際はかなりばらつくことは先にみ
たが、ほぼ東西・南北とも五〇〇~五八〇mの規模であり、中でも五〇〇~五四〇mの数値が多い。唐尺(大尺)の長 さが大体二九㎝の後半台を中心とすることは、 伝世品及び諸家の検討でも知られる ( ) とおりであるが、 二九・五㎝ならば、 〇・二九五×一八〇〇=五三一(m)であり、三〇㎝なら、五四〇mとなり、また初唐の大尺かと思われる前期難波宮 の造営尺二九・二㎝なら五二六mである。先にみた洛南諸坊はこれに近い規模であった。いうまでもなく一八〇〇尺と は日本の平城京や平安京の条坊規格であり、洛陽との関係がすでに指摘されている ( ) にも関わらず、あまり注目されてい ないのが現状である。ここでは、斉明五年(六五九)から翌年にかけての第四次遣唐使が長安との往復の際、洛陽に計 七〇日余滞在した (『日本書紀』 斉明五年七月戊寅 (三日) 条・同六年七月乙卯 (一六日) 条所引の 「伊吉連博徳書」 ) ことが注意される ただし、方一八〇〇尺(三〇〇歩)という規格は隋唐の洛陽が初現ではなく、すでにみた北魏洛陽の外郭城まで遡る 可能性が大きい。隋唐王朝は北魏鮮卑族の系譜をひき、東京洛陽の將作大匠・宇文愷もまた鮮卑宇文氏の出であったか ら、北魏洛陽のすぐ西方の隋唐洛陽でそれに倣うのはありうることである。また、長安城の前身、隋大興城の里坊も、 先述の①・③の地域では坊の南北長が洛陽城のそれと同様に、大半が五二〇~五五〇mに収まること、しかも民居が多 いと見られる点で洛陽洛南諸坊と通じる③においては、方三〇〇歩の正方形街区が東西に並んで一坊をなしていること も見逃せない。 時 間の流れに沿って整理すると、 北魏洛陽の方三〇〇歩のプランが隋大興城の一部に継承され、 その後、 隋の東京洛陽城でこの規格が多く採用された、ということになる。さらに降って、倭国の第四次遣唐使が洛陽に到って いる。 第三は、 外郭城が宮城の南北軸線を基準として左右対称に造営されたことである ( 平城を除く) 。 北 魏洛陽、 隋唐長 安のいずれにおいても、南北軸線は内城では中軸線の位置から西にずれていたが、外郭城の東西城壁(垣墻)からはほ ぼ等距離にあり、つまり都城中軸線となっているのである。里坊制の初現である可能性を秘めた曹魏 城でも、文昌殿 の宮殿区と聴政殿の宮殿区を合わせて宮城とみれば、文昌殿を基点とする宮城軸線は西側の位置にある。この三者のう
ち、 隋唐長安城は前代の都城の制約を受けない新天地で建設されたので、 中軸線のプランとなったのは不思議ではない。 北魏洛陽城は魏晋洛陽城を内城として継承したがゆえに、内城軸線は旧来のまま中央より西側にあったが、外郭城では その制約がなく、宮城の軸線を中軸線とする左右対称プランが採れたのであろう。曹魏 城も、もとは後漢の魏郡治で あり、大将軍袁紹の拠点となった ( ) ことが宮城軸線の位置に影響しているかもしれない。ただ、詳細は不明である。 とはいえ、この原則からはずれる例がある。それは隋唐洛陽城である。内城の軸線は中軸線の位置にありながら、そ れは外城の西端近くに偏っている。そもそも内城が全城の北西に偏って位置するからにほかならないが、なぜそうなっ たのであろうか。これには地形の制約とする説が多いが、もっとも示唆的なのは、煬帝が成周の故地たる漢魏洛陽城を 避けつつ、自ら 山に登り、南の伊水(伊闕)を望む地に東京の占地を決めたとされる ( ) ことである。位置が決められた 以上、狭い洛陽盆地にあって、その地で洛河を避けることはできず、内城の東にも外城を置かねばならなかったのであ ろう。 第四に、 外郭城を囲んだ城壁は遅れて建設されたことがあげられる。 北魏平城ではその完成は泰常七年 (四二二) と、 外城の建設から一六年、遷都から二四年も遅れており、また長安城でも大興城建設以来七〇年以上経った永徽五年(六 五四)に完成している。隋唐洛陽城にいたっては、大業元年(六〇五)に隋煬帝が東京の造営を開始したものの、城壁 は長寿年間(六九二~六九四)と、さらに時間を要している。 北魏平城、隋大興城とも、完成に先立って何らかの工事が行われたとみられなくもない史料はある(省略)が、これ ほどまでに城壁の完成が遅れるのは、中国の歴代皇帝にとって、それはさほど重視されていなかったことを示すのであ ろう。なお、東魏北斉の 城にいたっては、外郭城壁の存在すら定かでない。 第五には、 里坊そのものの特徴についてみておきたい。 まず、 里坊はそれぞれが十字街などによって分割されており、 長安城ではさらに小十字街によって計一六の街区に分割されていた (皇城の南方三六坊を除く) 。 方 格地割は徹底して いたのである。そして里坊は坊墻を有していた。坊墻は里坊の周囲のみならず、長安城では十字街で四分割された街区
はもとより、安定坊では一六分割された街区でも東西道沿いに築かれ、夜間には十字街を閉じる坊門と一体となって、 住民の安全を守ったのである。外郭の城壁が遅れて建設されたのは、このような墻壁と門によって、一定の安全性が確 保できたせいかもしれない。 (3)行政機構からみた里坊制の特徴 最初にあげたいのは、里坊には当初から役人がいたことである。それは、北朝では里正であり、唐代には坊正と改め られた。隋煬帝の時、 「京都諸坊改為里、皆省除里司、官以主其事。 」( 『隋書』巻二八、煬帝官制)と、大興城の諸坊が 里名に改められたというのは不可解だが、唐代にいたって、 「両京及州県之郭内分為坊、郊外為村。里及村、坊皆有正、 以司督察。 」( 『唐六典』 巻 三、 尚書戸部) と 、 長安・洛陽と州県城では坊が公称となった。 坊正は 『 洛陽伽藍記』 (巻五) の里正にみたように、 坊門の管理と治安を職掌としていた。 門仕などは里正の下で門の開閉その他を掌ったのであろう。 よって、 『南斉書』 の記事にみたように平城にも、 里正またはそれと同様の役人がいた可能性がある。 もっとも、 曹魏 城でどうであったかという点までは不明である。 次いで、外郭城には市が設置されていたことも見逃せない。平城でみたように、これも当初からであり、しかも居住 区の一角にありながらも独立した空間を占めていた。市自体はもっと古くからあり、遅くとも春秋戦国時代には商工業 の発展に伴い、 諸国の都城に設けられていた ( ) 。 戦国の斉ではその市を「明旦、 側肩争門而入。 」( 『史記』 巻七五、 孟嘗 君列伝)と、市では朝になって門が開き、人々が肩を接し争って入って行くというような活況を呈していた。このよう に、もともと市は墻壁で囲まれていたから、遅くとも平城以後、方格地割の施工とともに、それが独立した一角をなし たのは当然のことであった。 都城でもっとも賑わう場となった市の周囲には商工業者や技芸の徒ら富裕な 「貨殖之民」 が住み、都市的な姿を際立たせていたのである。
四
、
終わりに
里坊制は別に坊墻制とも呼ばれる。それは外郭の城壁だけではなく、里坊のそれぞれに四周を囲繞する墻壁が築かれ たからである。 そ の防御的性格は四面の坊門と、 主に治安を職掌とする里正 ( 隋以前) 、 坊 正 ( 唐) の存在によって強 調される。 近年、朴漢済は、鮮卑拓跋族が中原で征服国家の建設を行うに際し、都城に強制移住させた被征服民を職能などに応 じて計画的に配置し、分断支配・掌握の手段として設けたのが坊制であり、その方格地割は北魏に始まる均田制による 計口受田の形態が元になったという注目すべき見解を提示した ( ) 。 妹尾達彦は、 壁に囲まれた方形の坊は少数の征服者 (鮮卑族) が多数の被支配民を効率的に管理する手段として建築されたとし、 広 くユーラシアにおけるグリッド・プラ ンの都市を概観したうえで、 隋唐長安城にみる特色を、 「天は円く地は方形」 という中国的宇宙論などと関連づけて説 明している ( ) 。また斉東方は、坊墻制は遊牧騎馬民族である鮮卑人が創出したものであり、軍事的に編成され、土地私有 の観念がない部族の民が都城に大量に移住するには画一的な里坊を分配するのがもっともよい選択であり、居住民の管 理と統治に便利であったとしている ( ) 。これらの説は後漢末から南北朝の戦乱の社会における都城の軍事的、防御的側面 に注目し、坊墻制が遊牧民族である鮮卑拓跋族の支配手段として編み出されたことを強調している。 しかしながら、漢族の都城である曹魏 城に方格地割の起源がみられたことは、こうした見方に一石を投じるのでは ないだろうか。 城中軸線の外郭左右には方形区画が存在したのである。ただ、外郭全体としては洛陽や長安と比べる と非常に小規模であること、 また内部の区画に沿う墻壁はまだ出現していないらしく、 坊墻制とはいえないことなどは、 看過できないことであろう。その場合でも方格地割の萌芽とみることに変わりはないと思う。 すでにみたように、そもそも北魏道武帝は、一度は に定都したいと 願 ったし、国 号 まで魏に 倣 った。 平 城 遷 都に際しても、 ・洛陽・長安と、中原漢族の都城を模範とし、その第一に の名が挙げられていた。北魏平城の外城は実態 不明ながら、その里坊制は 城の外郭地割に由来したのではないかという想定が浮かぶのである。のちに 城は後趙や 前燕・後燕の都にもなったが、その原形が後漢末~曹操の時代に築かれたことはすでにみたとおりである。 とはいえ、それら先行都城の事例を踏まえ、里坊の内部にも墻壁を築いて坊墻制とし、外郭城を体系的な都市計画に まで練り上げた北魏の足跡は、やはり大きいことを認めねばならない。妹尾達彦が指摘したように、方格地割そのもの は紀元前のローマから世界の各地にあり、 漢族や遊牧民族だけの専売特許ではない。 それがある特定の地域で採用され、 現実のものとなっていくには、該地における一定の再定義が必要だったものと思われる。征服王朝としての北魏は、大 量の被征服民に対する分断支配の容易さに着眼し、土地に執着しない鮮卑拓跋族自らの習慣によって、画一的な居住地 の分配を可能にするために、坊制を採用したのであろう。それが完成した姿を現すのは、いまは隋唐まで降るが、北魏 の洛陽や平城まで遡って検出されるかどうか、その点は発掘調査の進展が自ずと答えをだすであろう。 そして、日本において、里坊制の採用はどのような再定義を経てなされたのであろうか。これが冒頭であげた課題で ある。北魏洛陽、隋唐の長安や洛陽において方三〇〇歩(一八〇〇尺)という地割が基本ないし重要な規格となってい ること、また長安の諸坊が十字街と小十字街によって一六分割されていることなどが、そのまま日本の都城に採用され たことは疑いない。しかも日本では、隋唐の都城よりはるかに正確な測量に基いて施工されたことは、これまでの発掘 調査の結果が示すとおりである。 しかし、隋唐の里坊が複数の規格の坊からなる複雑な構成であったのに比べ、日本の条坊制が正方形規格のみという 単純な構成であることは看過できないであろう。これには、洛陽での第四次遣唐使らの見聞が影響した可能性はある。 だが、それ以前に南淵請安や高向玄理らが隋唐に三〇 余年 滞在 しており、長安での見聞も 残 されていたはずである。 私 は、 藤 原 京 で 初 めて大規模な都城 造営 を行うに 際 し、そのような見聞 録 の中から、隋唐洛陽に 多 く見られたもっと も単純な里坊の規格だけを日本が採用したものと 考 える。大規模な都城 建設 の経 験 や 技術 的 蓄積 などまったくなかった
ため、それ以外の選択はできなかったのではないかと思われるのである ( ) 。いずれ、この点はさらに深く考えてみたい。 なお、 本 稿では西魏北周の都であった前漢長安故城、 さらには南朝の都城、 建康城を取り上げることができなかった。 ほとんどまだ何も判っていないことによるが、 西 魏北周では長安故城の東北部に宮城を造営したこと ( ) が判明しつつある。 建康では都城の造営軸線が北で大きく東に振れていること、都城の外形が不整形であったらしいこと、外郭の城壁は南 斉の建元二年 (四八〇) になって建設され、 それまでは 「 竹籬」 (竹垣の類) にすぎなかったこと、 道 路は一直線では なく湾曲していたことなどが、明らかになってきた ( ) 。いずれも今後の発掘調査に待つところ大である。 (註) (1)積山洋二〇〇七「中国古代都城の軸線プランと正殿」 『条里制・古代都市研究』第二二号、条里制・古代都市研究会。 (2) 中 国社会科学院考古研究所・河北省文物研究所一九九〇 「 河北臨 北城遺址勘探発掘簡報」 『考古』 一九九〇年第七期、 科 学出版社。徐光冀一九九三「曹魏 城的平面復原研究」 『中国考古学論叢』中国社会科学院編。 (3)中陽門以下、 城の門号は『水経注』巻一〇、濁 水による。 (4)愛宕元一九九一『中国の城郭都市』中公新書。 (5) 孟 浩、 陳慧、 劉 来城一九五七 「河北武安午汲古城発掘記」 『考古通訊』 一九五七年第四期。 な お、 続報によれば現存城壁の年 代は後漢とされる。 内部の地割も後漢の所産であろう。 河北省文物管理委員会一九五九 「河北武安県午汲古城中的窯址」 、同 「河北武安県午汲古城的周、漢墓葬発掘簡報」いずれも『考古』一九五九年第七期、科学出版社。 (6)朴漢済は、道武帝が模倣しようとした 、洛陽、長安はすでに中国の伝統的都城ではなく、後漢・魏晋以後、これらを利用し た五胡諸族によって遊牧民族の都城と化していたとした。 し かし、 彼らがこれら漢族の都城を大規模に改造したという証左は、 いまはないので、 その説は採らない。 朴漢済一九九〇 「北魏洛陽社会と胡漢体制」 『お茶の水史学』 三四、 お茶の水 女子 大学 読 史会。 ( 7 ) 平城の外城に整った 方 格 地割はないという 見解 がある。 佐川英治 二〇〇五 「北魏の平城」 『 アジア 遊学』 七八号 ( 特集 中国
都市の時空世界) 、勉誠出版。しかし、私としては発掘調査の進展を待ちたい。 (8)宮崎市定一九九二「漢代の里制と唐代の坊制」 『宮崎市定全集』七、岩波書店(初出一九六二) 。 (9) 山西考古研究所・大同市考古研究所・大同市博物 ・山西大学考古系二〇〇五 「大同操場城北魏建築遺址発掘報告」 『考古学 報』二〇〇五年第五期、中国社会科学院考古研究所。王銀田・曹臣明・韓生存二〇〇一「山西大同市北魏平城明堂遺址一九九 五年的発掘」 『考古』二〇〇一年第三期。なお、明堂の創建は『魏書』巻七下孝文帝紀によると太和一五年(四九一)である。 ( 10) 曹 承明・韓生存二〇〇〇 「漢代平城県遺址初歩調査」 『山西省考古学会論文集』 (三) 、 山 西古籍出版社。 王銀田二〇〇八 「試 論大同操場城北魏建築遺址的性質」 『考古』二〇〇八年第二期、中国社会科学院考古研究所・考古雑誌社。 ( 11)『魏書』巻一八広陽王嘉伝、 『北史』卷十六広陽王嘉伝によれば、三二〇坊が正しい。 『洛陽伽藍記』巻五、城北には、里(坊) は総数二二〇との記載もあるが、これも三二〇の誤記とされている。楊寛一九八七「後漢・北魏の洛陽の「城」と「郭」の配 置」 『中国都城の起源と発展』 (西嶋定生監訳)学生社。 ( 12)朴漢済一九九〇「北魏洛陽社会と胡漢体制」 (前掲注6) 。 ( 13)楊寛一九八七「後漢・北魏の洛陽の「城」と「郭」の配置」 (前掲注 11)。 ( 14) 中 国社会科学院考古研究所洛陽漢魏城工作隊一九九三 「北魏洛陽外廓城和水道的勘査」 『考古』 一九九三年第七期、 科学出版 社。 ( 15)積山洋二〇〇七「中国古代都城の軸線プランと正殿」 (前掲注1) 。 ( 16)曾武秀一九九〇「中国歴代尺度概述」河南省計量局主編『中国古代度量衡論文集』 、中州古籍出版社(初出一九六四) 。曾によ れば、北魏には一尺二八・〇㎝の中尺、二九・六㎝の後尺もあった。このうち後尺が使われたのは主に西魏北周とされ、時代 が降る。 ( 17)これと同様の指摘がある。佐川英治二〇〇五「北魏洛陽の形成と空間配置」 『大阪市立大学東洋史論叢』別冊特集号。 ( 18) 宿 白一九七八 「北魏洛陽城和北 陵墓」 『文物』 一 九七八年第七期、 文 物出版社。 楊寛一九八七 「後漢・北魏の洛陽の 「城」 と「郭」の配置」 (前掲注 11 )。鐘暁青二〇〇一「洛陽」 『中国古代建築史』第二巻(傅熹年編) 、中国建築工業出版社。 ( 19)『嘉靖 徳府志』巻八、 都宮室志所引『 中記』 。本 稿 では『 中記』の引 用 に 際 しては『歴代 宅京 記』は 用 い ず 、 村元健 一 に 従 い、 上 述書に 拠 ることと す る。なお、坊数四〇〇 余 に つ いては同書巻八の本文による。 村元健 一二〇〇七「東魏北 斉 城 の 復元 研究」 『大阪歴史博物 館 研究紀 要 』第六号。
( 20)鐘暁青二〇〇一「東魏北斉的都城 城南城」 『中国古代建築史』第二巻(前掲注 18)。ここで洛陽城と 南城が同じ面積とする 根拠は明らかでない。 ( 21) 中 国社会科学院考古研究所・河北省文物研究所 城考古隊二〇〇三 「河北省臨 県 城遺址東魏北斉仏寺的発現与発掘」 『考 古』 二〇〇三年第一〇期。 朱岩石二〇〇四 「中国河北省 城遺跡 北朝仏教寺院の巨大な塔基壇」 (佐川正敏訳) 『考古学研究』 第五一巻第一号、考古学研究会。 ( 22) 中 国科学院考古研究所西安唐城発掘隊一九六三 「唐長安城考古紀略」 『考古』 一九六三年第一一期、 考古雑誌社。 以下、 唐長 安城の調査結果は特に断らない限りこれによる。 ( 23)何歳利二〇〇五「唐長安城の実態」 『 東 アジアにおける 古 代都市と宮殿』奈良女子大学二一世紀COEプログラム報告書Vol . 5。 ( 24)中国社会科学院考古研究所西安唐城工作隊一九八九「唐長安安定坊発掘記」 『考古』一九八九年第四期。 ( 25)中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊一九六一「唐長安城西市遺址発掘」 『考古』一九六一年第五期、考古雑誌社。 ( 26)関野貞一九〇七『平城京及大内裏考』東京帝国大学紀要 工科第三冊。 ( 27)平岡武夫一九五六『唐代長安と洛陽』地図篇、京都大学人文科学研究所(一九八五復刻、同朋舎) 。 ( 28)岸俊男一九八八「日本の宮都と中国の都城」 『日本古代宮都の研究』 、岩波書店(初出一九七六) 。 ( 29) 中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊一九六三 「唐長安城考古紀略」 (前掲注 23)。 また何歳利二〇〇五 「唐長安城の実態」 (前掲注 24)。 ( 30)中国科学院考古研究所洛陽発掘隊一九六一「隋唐東都城址的勘査和発掘」 『考古』一九六一年第三期。 ( 31)中国社会科学院考古研究所洛陽工作隊一九七八「 隋唐東都城址的勘査和発掘 続記」 『考古』一九七八年第六期。以下の引用 はこの報文による。 ( 32)テキストは辛徳勇輯校二〇〇六『両京新記輯校 大業雑記輯校』 、三秦出版社。 ( 33)五井直弘二〇〇一「豪族社会の発展」 『漢代の豪族社会と国家』名著刊行会(初出一九六〇) 。 ( 34)宮崎市定一九九二「漢代の里制と唐代の坊制」 (前掲注8) 。 ( 35) 中国社会科学院考古研究所二里頭工作隊二〇〇四 「河南偃師市二里頭遺址宮城及宮殿区外囲道路的勘察与発掘」 『考古』 二〇 〇四年第一一期、科学出版社。
( 36) 国 家計量総局主編 『 中国古代度量衡図集』 (文物出版社、 一 九八一年) 。丘 光明 編 著『 中 国 歴 代 度 量 衡 考 』(科学出版社、 一 九 九二年) 。 ( 37)王仲殊二〇〇五「関于日本古代都城制度的研究」 『中日両国考古学・古代史論文集』科学出版社(初出一九八三) 。邦訳は菅谷 文則・中村潤子訳一九八三「日本の古代都城制度の源流について」 『考古学雑誌』第六九巻第一号、日本考古学会。 ( 38)村田治郎一九八一「 都考略」 『中国の帝都』綜芸社(初出一九三八) 。 ( 39)村元健一二〇一〇「中国複都制における洛陽」 『都城制研究』 (四) 、奈良女子大学古代学学術研究センター。 ( 40)楊寛一九八七「春秋戦国、中原諸国における「西城東郭」構造」 (前掲注 11所収) 。 ( 41)朴漢済一九九〇「北魏洛陽社会と胡漢体制」 (前掲注6) 。 ( 42)妹尾達彦二〇〇一『長安の都市計画』講談社メチエ、一二七~一四〇頁。 ( 43) 斉東方二〇〇五 「「中国古代都城の形態と機能」 『東アジアにおける古代都市と宮殿』 奈良女子大学COEプログラム報告集 Vol . 5。 ( 44)これと同様の指摘は、村田治郎一九六二「中国文化と平城京」 『大和文化研究』第七巻第九号、大和文化研究会。 ( 45)劉振東二〇一〇「中国古代の長安と洛陽」 『都城制研究』 (四) (前掲注 39所収) ( 46) 建康に関する近年の研究は、 中村圭爾二〇〇六 「建康における伝統と革新」 『六朝江南地域史研究』 汲古書院 (初出二〇〇五) 。 (図出典) 図1 徐光冀一九九三「曹魏 城的平面復原研究」 (前掲注2) 。 図2 楊寛一九八七「後漢・北魏の洛陽の「城」と「郭」の配置」 (前掲注 11)に加筆。 図3 積山洋二〇〇七「中国古代都城の軸線プランと正殿」 (前掲注1) 。 図4 宿白一九七八「隋唐長安城和洛陽城」 『考古』一九七八年第六期に加筆。 図5・6 中国社会科学院考古研究所西安唐城工作隊一九八九「唐長安安定坊発掘記」 (前掲注 24)。 図7 中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊一九六三「唐長安城考古紀略」 (前掲注 22)。 図8・9 中国社会科学院考古研究所洛陽工作隊一九七八「 隋唐東都城址的勘査和発掘 続記」 (前掲注 31)。