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イングランドにおける労働立法とコモン・ロー(4) : 18世紀後半以降の雇用契約法の形成と展開その1 ; 主従法

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イングランドにおける労働立法と

コモン・ロー

(4)

8世紀後半以降の雇用契約法の形成と展開

その1:主従法

はじめに

前稿1の考察によれば,イングランドでは,一般契約法理が次第に明確 姿をあらわしてくるのは,引受訴訟が発展した16世紀以降であるというこ とができると思われる1。金銭債務返還訴訟,カヴァナント訴訟及び引受 訴訟が債権債務関係の統一された法として一体化するまで,契約法を統一 的考えることはできなかったのである2。他方,使用者と労働者との間の 特殊な契約関係に関する法理としての雇用契約法理というべきものが形成 され始めるのは,17世紀後半ないし18世紀のはじめであったということが できる。それまでは,雇用関係は,国家の制定法により,身分的もしくは 財産的な性格を有し,その実施は刑罰をもって行われた。Orth 教授は,「労 働は,権利と義務が未履行契約の履行としてではなく,権利と義務が付着 した地位と考えられていた」3とする。賃金問題は,公共政策の問題であり, 1 小宮文人「イングランドにおける労働立法とコモン・ロー −産業革命末期ま で−」専修法学論集135号(2019年)193頁以下。

2 J. V. Orth, ‘Contract and the Common Law’ in H. N. Scheiber(ed.), The State and Freedom of Contract (Stanford Univ. Press, California, 1998),p.49.

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のものではなかった。雇主・奉公人間の契約上の権利と責任は,実質的に 近代法の創造であり,独特な内容をもった雇用契約(contract of service) を形成してきたのである。雇主に予告なしで解雇できる権利を定める法原 則は1817年の Spain v Arnott 事件から始まった。雇用の安全性に関する雇 主の義務及びそれに関する法の発展と深化のすべては,1837年の Priestley v Fowler 事件及び1850年の Hutchinson v York, Newcastle and Berwick Rly. 事件に始まる。雇用が有する不可欠な性格としての『指揮(con-trol)』概念は1840年の Quarman v Burnett 事件及び1855年の Sadler v Hen-lock 事件に遡ることは明らかである」7と。なお,この一節は,Diamond が,雇用契約概念が19世紀前半に形成されたこと及び解雇,安全衛生及び 指揮命令権がその雇用契約を特徴づけるものと捉えていたことを示すもの ともいえよう。 この時期までは,弱体化した1563年エリザベス職人規制法と1720年以降 に逐次制定された主従法とが雇用関係をほぼ支配しており,前者は,1814 年に廃止されるが,後者は,最後の主従法である1867年主従法修正法(1867 年)が廃止される1875年まで生き延びたのである。したがって,19世紀前 半から1875年までは,雇用契約は刑罰のサンクションから解放されなかっ た。すなわち,雇用契約法理の形成期と主従法の後退期が重なっていたの みならず,職人規制法の終焉期とも一部重なっていたのである。 本稿では,まず,一連の主従法(立法)の目的,仕組み,適用対象,実 際の機能及び同法廃止への流れを検討し,次に,コモン・ロー上の雇用契 約法の形成・展開について検討する。そして,前者の検討は,前々稿にお いて,その条文及び内容が紹介されていることを前提として行うこととし, 後者については,職人規制法との関係も踏まえて,検討することになる。 なお,その検討に入る前に,この時代に至る歴史的背景を知っておくこと

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も有意義と考えるで,以下若干の言及を加えて置きたい。

歴史的背景

(1)時代的背景 1)政治 エリザベス1世死去の四半世紀後に国王となったチャールズ1世による 清教徒の弾圧が行われる中で,議会における議会派と王党派の対立が決定 的となり,1642年から内戦状態となった。議会派は,その多くが商工業の 発達した富裕なイングランド東部・南部のジェントリ,進歩的貴族,ヨー マン,商人,手工業者,産業資本家層で宗教的には清教徒(カルバン派の プロテスタント)であったのに対し,王党派は西部・北部の封建的な貴族 やジェントリ及びこれと結びついた農民層で,宗教的には国教徒であった8 しかし,議会派のなかにも,急進的な独立派(ジェントリや新興商人層), 右翼の長老派(地主貴族,大商業資本家等)及び左翼の平等派(小農民層, 小商人,手工業者や職人等)が存した9。19年,議会の多数派であった 長老派は国王との妥協を決議したが,結局,鉄騎隊を編成してクロムウェ ルの主導する独立派が平等派と共同歩調をとって勝利し,チャールズ1世 を処刑して,共和制が宣言された(清教徒革命)。これにより,商業・貿 易に対する王の専断的干渉を排除し,封建遺制と囲込み制限を廃止して土 地,資本の自由な活動を可能にし,宗教の主教制度と主教領を廃止した。 1641年に星室庁裁判所(Court of Star Chamber)及び高等宗務官裁判所, 1646年に後見庁がそれぞれ廃止された。後者は,国王の封建的機関である 後見庁を廃止して,土地受封者(臣下)の国王に対する義務を廃止し,受 封又は再受封された土地を自由土地保有にして私有財産化したものであ

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経営において,工場所有者が直面した大きな問題の一つが,工場労働者の 規律を樹立することであった。工場労働に移行するまでの労働者の生活は, 貧しいが余暇が多く,労働する時間は短く,労働のペースは緩慢で,怠惰 な時間も多かった。したがって,「いやな仕事の募集は困難で,多くの労 働者によく知られた救貧院や監獄の仕事を意識的又は偶然的にイメージす ることで益々悪化した。新入者が就労を開始したとしても,定着する保証 はなかった。『農業や家内工業からやってきた労務者は,はじめは,工場 の単調さを好きになれなかった。先駆的な使用者は,有能でやるきのある 労働力の安定した供給を構築する深刻な障害にしばしば直面した。』多く の労働者は,『不安定で,能力なく,移ろい易く』又は『常軌を逸した 者』と記されていた。」17。このため,使用者は,厳格な職場規律を必要と し,特に時間不厳守,原料窃盗,ごまかし,職場離脱等に対する厳格な職 場規律を定めた。その違反に対しては,鞭打ち,殴打,罰金,解雇の脅し, 解雇等の制裁が加えられた。特に,最後の2つは,工場の規律確保の主要 な手段であった18 一方,職人たちに目を移すと,農村では,生産体制の家内工業から工場 制への転換が進んで行く過程で,ヨーマンはもとより中・小ジェントリに も没落する状況が生じ,その土地を借りる農業経営者,大規模化する地主, 没落地主を含む賃労働者に分化していった19。また,農業労働者の都市へ の移動,職人や奉公人の賃労働者への転換が進んだ。職人の賃労働者への 転換はギルド制度の崩壊に関係していた。元来,職人ギルドは,親方 (mas-ter)と7年の任期を終えて一人前の職人となった雇職人(journeyman) が協働し,後者が自分の用具や材料を得ることによって上手く機能してき

17 S. Pollard, Factory Discipline in the Industrial Revolution, Economic History Re-view, vol.16, no.2(1963),p.254.

18 Ibid., p.261.

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たのであるが,18世紀における伝達システムの発達,仕事の専門化,機械 化等が進み,両者の利害が一致しなくなってきた。雇職人が親方になるに は多くの資金が必要であるが,仕事の機械化により収入が減って,その資 金も得られない20「一定の事業を設立するためには,一人の雇職人が数 年のうちに,容易に蓄積しうる資本よりは,はるかに多くの資本が必要と なってから,ギルドの親方の地位は・・・有名無実となったしまった」21 こうして,自身で仕事の工程を管理し,生産用具や材料を所持して生産に 従事できない賃金労働者が増大すると,彼らの雇主となった者との間に利 害対立が生じ,賃金労働者たちは結束して労働組合を結成するようになっ た。組合の結成の動きは,職種によってかなり異なっていたものの,18世 紀の中葉には,ほとんどの熟練職業に雇職人の組合が存在していた22。こ れは,一般労働者のものではなく,熟練労働者の職業労働組合だったので ある。この時期は,また,イギリスにおいて,契約の拘束力を純粋に合意 による絶対的なものと認める古典的契約法理が生み出されることになった 時期でもある。すなわち,産業革命が,イギリスに市場経済を拡大し,企 業家が新中産階級を形成するに至り,アダム・スミスが『諸国民の富』の 初版を著した1776年頃には,利潤の追求を旨とする契約の自由が要求され, 当事者の意思に基づく契約という考え方が次第に広がりつつあったのであ る23

20 H. Pelling, A History of British Trade Unionism(Pelican, 1976), p.18. 21 B. & S. Webb, the History of Trade Unionism(1st ed.)(London, 1894), p.25. 22 Ibid., pp.20―41.

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(1823年法)は,雇主の保護を目的として制定されたのであるから,我々 は,その立法目的に効果を与えるように解釈すべきである。」と述べてい る24。また,Simon 教授は,Ellenborough 裁判官の言葉を引用して,次の ように言う。すなわち,「『Ellenborough が説明したように,主従法は, 本来の契約法のように,取引の対等当事者の紛争処理』を確保する意図な どもっていなかった。主従法は,賃金稼得者の規律と服従を確保する意図 だった。」25と。実際,各主従法の治安判事紛争解決条項をみると,雇主の 労働者の賃金不払いについては,治安判事が雇主の動産の差押えと売却に よる徴収令状を出すことができるにすぎず(但し,1720年法は,差押動産 が不足する場合は,支払いまでの雇主の収監が規定されている),加えて, その徴収額につき,1747年法は,農業奉公人につき10ポンド,その他の労 働者につき5ポンド,1823年法では10ポンドの上限を定めていた。これに 対し,労務放棄禁止条項は,労働者の契約不履行に対しては,治安幹事が 矯正院への収監(投獄)を科することができると定めていた。労働強制と いう観点からは職人規制法と酷似しているが,労働者の契約違反に対する 主従法には,職人規制法とは異なる次のような特徴がある。!すべての主 従法は,労働者規制法や職人規制法のような総合的労働政策の一貫として の刑罰としてではなく,特定の産業における職人達の契約違反に特化した 刑罰であった。"1720年法のような例外を除き,職人規制法のような明確 な強制労働規定を制定するものではなかった。初期の主従法は,例えば, 職人規制法10条(Statutes of the Realm における条文番号,Statute at large では13条)と同様に,労務放棄について,最長1か月の投獄(矯正院への 収監)を定めるものもあったが,一般により厳しく,投獄期間は2か月又 は3か月とするものが多かった。また,投獄には「重労働」の文言が付さ

24 Unwin v. Clarke,(1866)1 L.R. Q. B. 416.

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れていた。!さらに,初期の主従法は,労働者規制法や職人規制法のよう に主に農業労働を対象とするものではなく,特定の職業(クラフト)を対 象としいたが,次第に拡大してきた製造業の幅広い肉体労働者へとその適 用対象を広げていった26 (3)各主従法相互の関係 主従法は,その時々の各産業に生じていた労働関係の具体的に生じてい た問題に対処するためその都度対象を拡大して制定されていった。した がって,後の修正法によって前の法が廃止されたわけではない。ちなみに, 職人規制法も1814年に廃止されるまで,主従法によって何らの修正を受け たわけでなない。むしろ,新たな主従法が制定されることによって,訴え る者の法的根拠が増加していったといえる。もっとも,そうとも言えない 場合がないわけではない。例えば,R. v. Hoseason 事件判決((1811) 14 East 605)がその例である。すでに1747年法を修正する1766年法が制定さ れていた1811年に下された王座裁判所の判決である。この事件は,治安判 事の命令が自然的正義に反すると告訴された珍しい事件であった。同治安 判事(被告)は,自分所有する農場の管理人(bailiff)が自分の農業労務 者を非違行為及び就労拒否を理由に訴えた事件で,その農業労務者を1747 年法に基づいて重労働させる矯正院へ送致する命令を行ったのである。王 座裁判所は,被告は,自分の農業労働者を裁いたことになるから,自然的 正義に反するが故意はないとして,被告に訴訟費用の全額を負わせた。た だ,興味深いのは,その矯正院への送致命令の在り方である。1747年法で は,重労働付きの収監が1年を超えないが,矯正(鞭打ち等で)を行える ことになっていたが,1766年法では,収監期間は3を超えず,1か月を下 回らない期間収監できるとするだけで矯正ができるとされていなかった。

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「その他の者(others)」等の文言が付されていた。したがって,こうした 文言から,対象者の範囲の疑義が生じ,裁判所の解釈が必要になるケース も多かった。例えば,Lowther v. Earl of Radnor 事件((1806) 8 East 813)では,ウィルツ州の労務者が1747年法1条の「その他の労務者」に 該当するか否かが問題となった。因みに,同法は労務放棄条項の他,治安 判事紛争解決条項も定めていたが,この事件は,同条項に基づいて,労務 者が賃金請求を行い,治安判事が賃金支払い命令を発し,原告(使用者 A 氏)が四季裁判所に異議申し立てを主なったが,同命令を維持する命令が なされたので,原告が治安判事及び四季裁判所(被告)にそのような命令 を出す権限が与えられているのかを争った。王座裁判所の Ellenborough 裁判官は,原告の訴えを退けて,次のように論じた。「ある法律の制定 時に,立法府は,同一の事項に関する諸規定を有する他の法律を考慮した とは限らない。今検討されている法律は,一定の奉公人と労働者,労務者 一般に対し,彼らが少額の賃金を回復する迅速,簡易かつ安価な手段を与 え,また,使用者に対し,労働者と労務者の軽度の非行を矯正する簡便な 手段を与えることを目的としている。同法の文言によれば,これらの利益 は,農業奉公人,異なる職業の労働者,及び一定期間又はその他の仕方で 雇用されたその他の労務者に拡張された。最後の文言は,いずれにしても, 一般的なものである。そして,それが二人の治安判事の命令で述べたよう に,原告のケースを含まないということは法的または政策的に何ら理由の ないところである。」

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たらさない。」この説示は,まさに,1823年法がある雇主の「労働を提供 する契約(contract to serve)」,すなわち雇用契約(contract of service) であることを判例上明確にしたものといえよう。結局,この判決は,前述 した Kitchen v. Shaw 事件と同様,主従法に列挙された職業に属し,雇用 契約を有する者にのみ適用されることを結論付けたのである。

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に(exclusively),労務を提供する雇用契約関係が必要とされるというこ とが,これらの判決を通じて明らかになったのである。

4)請負人的労働者

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の一般原則は,人が好きなように契約することに頻繁に介入すべきでない というものであるが,その例外が認められるべきである。1831年トラック 法は,その例外として,「自身を守れない種類の者達に保護を与えること である」を目的とするものであり,労働市場で利益を得る者を対象として いない,と。また,仲間と一緒にレンガ製造の行うバティに関する Ingram v. Barnes 事件((1857)El. & Bl. 115)の誤審裁判(Ibid, 132)において, 財務府会議室裁所の Bramwell 裁判官は,「その者が補助労働者を雇う程 度まで労働市場の利益を得ようとする場合,彼は1831年法の職人ではな い」と言述べた。その後の Sleeman v. Barrett 事件において,財務裁判所 の Pollock 裁判官は,「その契約の本質が労働自体ではなく労働の結果 ある場合,例えば,ある者がある仕事を行う契約をして,その遂行のため に他の多くの者を雇う場合,その者自身が一定割合の仕事を行うとしても, それは1831法に該当しない」と述べた。 (4)治安判事の収監命令の実質的機能 労働者が労務放棄等の契約違反をした場合に使用者は,治安判事にその 労働者を訴え,治安判事は,その裁量に基づいて,収監命令を行うことが できた。この制度が,違反行為を懲らしめる目的だけではない。Holdsworth は,次のように書いている。「雇主に対する民事救済は,雇主が支払い能 力を有するので有効であるが,労働者に対する民事救済は,労働者が支払 い能力を欠くので有効ではない。」27とする。しかし,最後の主従法である 1867年主従法の注釈書を著した Davis 法廷弁護士が,指摘したように,そ の目的は,履行強制自体にあったというべきであろう。同氏は,1823年と 1867年の主従法に言及した後,次のように明言している。 「第1に,契約違反であるが,労働者がその仕事を故意に未完成のまま

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放棄するときには,それ以上のものであると主張された。すなわち,多く の者達,しばしば,同じ種類の生活を送っている仲間の労働者達が,その 突然の労務懈怠によって極めて多くの苦しみを味わうことを考えると,そ れは一種の公的な権利の侵害である。第2に,投獄は,契約の履行を強制 する手段としてもみることができる。いろいろな場合,イギリスの法律は, 債務のための投獄とは全く別に,投獄を契約の履行と義務を強制する手段 として認めてきた。多くの場合,法律は,損害賠償額の支払を履行に等し いものと考えることは疑いないが,その他の場合には,損害賠償額に等し いものではなく,絶対的な履行が強制されるのである。」28 労働者の履行強制としての機能を明確にしている判例として,Ex parte Baker 事件((1857)7 El. & Bl. 696)がある。Baker 氏は,1856年11月11 日から期間1年の雇用契約を結んで,磁気製造工場を営む Y 会社の陶工 として雇用されたが,その後,両者の間に賃金に関する争いが生じ,翌1857 年3月10日に離職した。しかし,同月18日に,違法離職の告発に基づき, 治安判事が有罪とし,重労働を付した投獄1か月の懲役刑に処された。そ の翌月17日に刑期を終えて出獄したところ,同年5月29日に Y 社が職場 復帰を求めた。Baker 氏がこれを拒否したところ,再び,違法離職の罪で 1か月の重労働付き矯正院収監(懲役刑)に処された。そこで,Baker 氏 は,人身保護条令に基づき,身柄の解放を求めて,女王座裁判所に出訴し たが,同裁判所は,差止命令を却下した。同判決で,首席裁判官 Campbell は,「囚人が収監から解放された後に元の雇用に復帰しない場合,その 契約は継続しており,欠勤したことになるから,新たな罪を犯したことに なると,私は考える。それは,彼が前に有罪とされた罪とは別の罪であ る。」と述べた。また,Coleridge 裁判官も,「奉公人が欠勤し,一日二日 欠勤の後,治安判事のところで有罪とされる。彼は,投獄される。その後,

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きものとする。

第6条 但し,また,さらに国王によって次のように定められる。すなわ ち,取消その他の手続の令状は,本法の実施上なされたいかなる手続をも 国王裁判所に持ち込むために発行又は発行され得ない。」

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ところで,1823年法の以降,同法の治安判事の主従間の苦情処理権限を 絹のマニュファクチャに雇われる労働者に拡大する1829年法(10 Geo.4 c.52),さらに,主従法は,1777年法を修正する1843年法(7 Vict. c.40) が制定されていた。こうした中において,例えば,1858年以降,ミッドラ ンド地域の鉄鋼製造業や炭鉱業の使用者は,職場規律の強化と労働組合の スト抑止策として,主従法における労務放棄条項を頻繁に活用するように なった30。そして,当時の労務放棄に対する訴追は,夥しい数となってい た。この点について,Daphne Simon は,次のように記している。すなわ ち,「1858年から10年の間において,他州では訴追は5,000件を超えなかっ たが,Staffordshire では,10,000件を超えていた。Wolverhampton はすべ ての自治都市で最多となった(1,670件)。同様に,1868年から75年までの 8年 間 に お い て,Birmingham が 最 多(2,351件,Wolverhampton が3位 となった)。他方で,Staffordshire は以前,先週の間でも顕著であった(West Riding の7,000件,Lancashire の5,700件と比べ約10,000件)。もちろん, これらのすべてが鉄鋼製造業ではなかった。ここを中心としていた炭鉱業, 陶器製造業,ガラス製造業も,この総数に多く貢献していた。」31

1863年にグラスゴー労働組合評議会(Glasgow Trades Council)の指導 者 Alexander Campbell が主従法に関し,わずか1年の間に,10,339件の 夥しい労務契約違反事件が法廷に持ち込まれたことを示す議会(Parlia-ment)の報告書を入手したことから,各都市の労働組合評議会が主従法 改革の共同運動を開始し,議会に働きかけ,Cobbett 議員が国会に法案を 提出した。この法案は成立しなかったが,組合の強力な運動が1866年の特 29 団結禁止法の具体的内容については,小宮文人「イングランドにおける労働立法 とコモン・ロー(その2)」専修法学論集138号375頁以下参照。

30(D. C. Woods, ‘the operation of the Master and Servants Act in the Black County, 1858―1875’, vol.7, Issue 1(1982),p.93, p.110.)

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別調査委員会(Select Committee)の任命に結び付きその修正法案が1867 年の修正主従法(「主従関係に関する制定法を修正する法律(30 & 31 Vic. c.141)」)として成立した。これは,組合が法律改正を成功させた初めて の試みであって,この成功は議会運動の意義を確信させたといわれる画期 的な出来事であった32 2)1867年法の内容 この1867年法の内容は,大方,労働組合の求めたものとなった。!労働 者に対する手続は召喚令状によって開始され,逮捕令状は労働者がこれに 従わない場合にのみ発行される(第7条)。"事件の審理は,召喚令状発 行の2日を経たのちに公開の法廷で2名の治安判事によって行われる(第 8条及び9条)。#労働者が契約に違反した(「雇用契約の履行の懈怠又は 拒否」,「契約に従って労務に着手又は 開 始 す る こ と の 拒 否」又 は「欠 勤」)と判断した場合,治安判事は,その賃金額の減額,20ポンドを超え ない罰金,または補償金又は損害賠償金を命じる。$収監は,労働者が金 銭的な決定に従うことを拒否した場合にのみ命じられる(以上,第9条)。 %収監期間満了時以降,それまでに科された金銭的罰は解消される(第12 条)。&単一の契約の違反に対するトータルな収監期間は3か月を超える ことはできない。'治安判事は,労働者の契約違反があったと判断したと きには,1823年法のように有罪判決を下すのではなく命令を行う(第9 条)(イギリス法では,命令手続では,被告(この場合は労働者)も証人 適格が認められているが,収監手続では認められていない)。 もっとも,1867年法は,労働者側の完全な勝利ではなかった。何故なら, 一つは,労働者の契約違反が認められ,その非違行為が「悪質な性格のも の」であると判断された場合には,なお,最初から収監され得ると定めら

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れ て い た(第14条)か ら で あ る33。こ の こ と も あ り,17―17年 と 1868―71年の各1年平均の収監件数を比べると,後者の方が前者の3分の 1程度に減ってはいるものの,なお,505件を記録していた34。そうして, もう一つの問題は,一つの雇用契約の違反に対し複数の訴訟が提起される 可能性が排除されなかったことであった。このため,例えば,Cutler v. Turner 事件((1873)9 L. R. Q. B. 502)においては,期間5年の雇用契約 を結んだ暖炉用鉄具鍛職工が中途離職して契約違反で11ポンド8シリング の賠償額を支払ったが,復職しなかったため,治安判事に召喚され,契約 の履行とその李鵬の保証金の支払い及びその違反には3年を超えない収監 を命ぜられ,結局,3年間収監されてしまった。しかし,刑期を終了後も 復職しなかったので,さらに,11ポンド14シリングの賠償額の支払いを命 ぜられた。そこで,労働者は,この支払い命令の効力を争った。女王座裁 判所は,この訴えを退けた。Archibald 裁判官は,「収監によって契約を強 制する権限が行使されても,なお補償金の支払いを裁定する権限があり, その補償金の裁定がなされると,その支払いを強制する手段(動産差押え 及び収監)が第11条によって与えられていると思う。したがって,私は, 雇用契約は(収監によって)終了させられず,本件の命令は適法であると 考える。」と述べた。要するに,既に刑期に服した3か月を超えて収監さ れることはないが,収監命令が契約を終了させることにはならない。何故 なら,その命令を発した後で,治安判事は,前に行った決定とは関係なく, 当該契約違反の保証金の支払いを適法に命じることができるからというも のであった。

33 David W. Galenson, ‘The Rise of Free Labor : Economic Change and the Enforce-ment of Service Contracts in England, 1351―1875’, in J. A. James & Mark Thomas (ed.), Capitalism in Context(Chicago, 1994),pp.126―127.

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を理由として,刑法により組合を抑制するため王立調査委員会を利用しよ うと画策した。1867年法を獲得した労働組合の立法運動の対象は,組合を 営業規制に従事する違法な組織とした高等法院の判決を覆す立法を求める 方向に広がっていった。組合は,同委員会を新しい立法を回避するための 委員会とみて,妨害を図り,労働組合の役員で構成する小集団の活躍で, 同調査報告は組合の地位を改悪する勧告を含まないものとなった。そし て,1871年には,団結による取引の自由を認める労働組合法が制定された。 その後,労働の一斉停止を準備したロンドンのガス労働者達がコモン・ロ ー上の共謀として12か月の懲役刑(imprisonment with hard labour)が言 い渡された R. v. Bunn 事件(12 Cox CC 316〈Cent. Crim. Ct. 1872〉)を 契機として,1875年には,その前年に政権を得た保守党政府が労働関係法 を検討する王立委員会を設立するに至った。そして,遂に,同年,政府は, 組合に争議権を与え,組合に承認する共謀・財産保護法(Conspiracy and Protection of Property Act)及びすべての労働者の契約違反を刑罰から解 放 す る 民 事 の 問 題 と す る 使 用 者・労 働 者 法(Employers and Workmen Act)を制定するに至ったのである。

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参照

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