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文 体 と し て の 漢 文 訓 読

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(1)

二九文体としての漢文訓読︵樋口︶ 一  はじめに

今日の高等学校における古典教育、とりわけ漢文に向けられる視線

は、教育現場においてはもちろんのこと、これを取り巻く社会全体を

見渡しても暖かく好意的なものとは言い難い現状にある。こうした中

において生徒からの﹁そもそも中国の古典をなぜ日本人が学習しなけ

ればならないのか﹂といった国語教育の本質を突く率直な質問に対し

て、明確な理由を挙げながらこれに十分な説得力を持って応じられる

教師の数も減少していることと思われる。近年では国語教師の間でも

古典教材を原文で扱う意義について疑問視する声もあるように伝え聞

く。その主張は必ずしも古典教育の意義そのものを疑うものばかりで

はないが、結局のところ授業の現場においては訳出作業を通して生徒

に内容理解させる作業であるならば、既に口語訳した教材を取り扱っ

たとしても古典のエッセンスは十分に伝えられるというものである。 古典教育には古典文法や漢文句法を経た内容理解が必須であり、この煩瑣な作業学習に苦痛を訴える生徒も少なくない。特に漢文教材は我が国の古典としての位置づけも曖昧なまま取り扱われることも多

く、高校生にとっては外国の古典として敬遠される傾向にあるため、

我が国の伝統文化としての意識も希薄となる。本稿では︿訓読﹀が果

たしてきた役割を踏まえながら改めて漢文教育の目的と意義を考察す

る。なお、ここでは白文に訓点を付けた漢文体を﹁訓点付原文﹂、訓

読により書き下した文体を﹁書き下し文﹂と呼ぶことにする。

二 

  

漢文教育における︿訓読﹀の現状

 

︱学習指導要領を踏まえて︱

まず、国語教育における︿訓読﹀についての取り扱いについて学習

指導要領を確認する必要がある。現行の高等学校学習指導要領︵平成

二十一年︿二〇〇九﹀︶の必履修科目たる﹁国語総合﹂の﹁3内容の 早稲田大学大学院教育学研究科紀要  別冊 

27号―

 2二〇二〇年三月

文体としての漢文訓読

―漢文教育の目的と意義をめぐって―

樋   口   敦   士

(2)

三〇文体としての漢文訓読︵樋口︶

取扱い﹂には古典の教材について以下のような記述がある。

イ古典の教材については、表記を工夫し、注釈、傍注、解説、現

代語訳などを適切に用い、特に漢文については訓点を付け、必要

に応じて書き下し文を用いるなど理解しやすいようにすること。

︵傍線は引用者による。以下同じ︶

ここでは、生徒の理解に資するため、﹁訓点﹂や﹁書き下し文﹂の

必要性を認めている。翌年示された高等学校学習指導要領解説︵平成

二十二年︿二〇一〇﹀︶によると、﹁訓点﹂や﹁書き下し文﹂の意義に

ついてさらに詳細な説明が施されている。

﹁訓点﹂とは、返り点、送り仮名、句読点など漢文を読みやすく

するために古来工夫されてきた符号である。漢文は国語科の古典

の一分野として取り扱うものであり、訓点を付けて読みやすくす

る必要がある。﹁書き下し文﹂は、生徒の実態や指導の段階など

を考慮して効果的に利用することが大切である。︵下略︶

古典を読み味わうためには、古典を理解するための基礎的・基本

的な知識及び技能を身に付けていなければならないことは言うま

でもない。しかし、従来その指導を重視し過ぎるあまり、多くの

古典嫌いを生んできたことも否めない。そこで、指導においては、

古典の原文のみを取り上げるのではなく教材にも工夫を凝らしな

がら、古人のものの見方、感じ方、考え方に触れ、それを広げた

り深めたりする授業を実践し、まず、古典を学ぶ意義を認識させ、

古典に対する興味・関心を広げ、古典を読む意欲を高めることを 重視する必要がある。そして、そのような指導を通して、古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けさせていくことが大切である。あくまで漢文教材は﹁訓点付原文﹂が主であり、﹁書き下し文﹂が

従である状況を踏まえたうえで、生徒の古典離れに顧慮しつつ、親し

みやすい表記上の工夫や理解を助けるための補助的手段を十分に活用

すべきことが指針として示されている。一般に漢文の授業は読解力の

涵養に重点が置かれる傾向にあり、生徒は教材の文体をさほど意識し

ないままで内容理解に向けた作業に徹することとなる。そもそも漢文

教材のほとんどが中国古典であるため、学習の際に生徒は我が国にお

ける中国文化の影響が如何に多大であるかを理解する一方で、この点

が強調されるほど﹁国語としての漢文﹂の意識が薄れることにもつな

がりかねない。

高校生にとっての古典学習の主たる目的は大学入試にあると指摘さ

れる中で、漢文が出題されるのは国公立大学とごく一部の私立大学に

限られている。こうした入試の出題科目の一つといった側面を強調す

るのみでは生徒の学習意欲を高めることはできない。たとえ生徒が首

尾よく正確な読解力を身につけたとしても、彼らが実社会に出てその

技能を発揮する機会はほぼ全く用意されておらず、何のための技能習

得なのか、学習意義に関わる根幹の部分を具体的に指し示すことは難

しい。古典教育において原文読解を堅持する意義は一体どこにあり、

その目的と理論的根拠は如何なるものか、これまであまり論じられる

(3)

三一文体としての漢文訓読︵樋口︶ ことはなかった。今日の漢文教育には文体上の表記や取り扱いにおいて様々な見解が交錯し、それらが複雑に絡み合っていることが、国語科の一分野としての存在理由を甚だ見えにくいものとしている。その結果、漢文はもっぱら中国古典を読むために設定されたものであり、

原文を正確に読み取ることに学習目標が置かれていると見なされてき

た。しかし、先掲の学習指導要領解説には﹁漢文は国語科の古典の一

分野として取り扱うものであり、訓点を付けて読みやすくする必要が

ある﹂とも明記される。つまり、︿訓読﹀は国語としての漢文には不

可欠な観点であり、単純に一つの読解手法として看過することはでき

ない。我が国における漢文教材を読解する際には、内容理解にのみ意識が

向けられるが、本来は︿訓読﹀を基調とした文体として位置付けて

受容する﹁文体論﹂に根ざしていたものと捉えるべきであろう。近

年、︿訓読﹀に着目した研究が陸続と現れ、これが我が国の文体とし

て受容されたことを再評価する動きがある。斎藤希史は﹃漢文脈と近

代日本﹄︵NHKブックス  二〇〇七年二月︶で、幕末から近代初頭

にかけて素読の普及により、︿訓読﹀のリズムが大衆に身体化した結

果、訓読法が漢文から独立して書記文体として機能を持った事実に触

れ、中村春作は﹃思想史のなかの日本語﹄︵勉誠出版  二〇一七年五

月︶において訓読法は単なる技法ではなく、異文化理解における思想

史の問題と見ており、具体的には﹁和語﹂と﹁漢語﹂との交渉の中に

自己意識の形成がなされた﹁文化の翻訳﹂であったと指摘する。 漢 文が︿訓読﹀を媒介にして近代国語教育の中でどのように位置づけられて受容されたのか、次節以降では現代まで引き継がれる︿訓読﹀をめぐる否定論・肯定論の問題にも踏み込んで考察を進めたい。

三  ﹁訓読否定論﹂の系譜

国語科における漢文意識が希薄化する背景の一つに、内容理解に重

点を置く﹁翻訳論﹂の考えがある。言うまでもなく、現行の漢文教材

は中国古典が主であるため、我が国の伝統的な読み方である︿訓読﹀

によらずとも中国口語︵普通話︶を用いた理解も可能とする考えも生

じた。これは現代に始まったものではなく、既に十九世紀末の中等教

育における漢文教育廃止論に伴う漢文指導の提言の中に見られる。漢

文はあくまで中国語であるとの認識に立ち、日本式に読み下す漢文訓

読法を用いるのではなく、当時の中国口語文や字音読みによる﹁音読

︵棒読み︶﹂が改めて注目された。

大正十一年︵一九二〇︶、中国文学者青木正兒は﹁漢文直読論﹂︵﹃支

那文学論叢﹄所収︶を発表し、︿訓読﹀について以下の問題点を提起

する。㈠読書に手間取って、支那人同様に早く読むことが出来ない

点、㈡支那固有の文法を了解するに害がある点、㈢意義の了解を

不正確にする点である。漢文は中国語の観点から捉えるべきであり、

︿訓読﹀が和文脈に組み込まれる現状に疑問を呈している。昭和七年

︵一九三二︶、岡田正三は﹃漢文音読論﹄︵大盛社︶において﹁訳して

始めて意味がとれるのではなく、音読せられたその中に意味が味はれ

(4)

三二文体としての漢文訓読︵樋口︶

なくてはならない。そこで必要なことは反読をすつかり忘れると云ふ

ことである﹂と述べ、漢文に苦手意識を持つ当時の中学生の現状を憂

えており、従来の﹁反読﹂ではなく、日本に伝わる漢音による﹁音読﹂

を提唱する。例えば、﹁吾読書 000﹂の一文を頭から語順通りに一語一語

音読し、主語、述語、客語のそれぞれを意識して理解する方法である。

その後、昭和十六年︵一九四一︶には、支那事変以降衰微の一途を辿

る漢文教育を根本から問い直した倉石武四郎は、﹃支那語教育の理論

と実際﹄︵岩波書店︶で﹁漢文塩鮭論﹂を展開し、信州人が﹁生きの

よい魚︵原文︶﹂より﹁保存された塩鮭︿訓読﹀﹂を美味に感じる寓喩

を用いて︿訓読﹀をありがたがる風潮に疑義を呈し、実用的な支那語

︵中国口語文︶学習を主張した。同年、斯波六郎も﹁音読是か訓読非か﹂

と述べ、中学校における漢文教育の︿訓読﹀の問題点を指摘する 1。

こうした︿訓読﹀を否定する動きは近年改めて中国文学研究者から

提示され、その疑義が問われている。高島俊男は︿訓読﹀を単なる符

牒に過ぎない﹁チンブンカンブン 0000﹂と呼びながら、これを上等、高級

だと思ってありがたがる日本人がいることこそ困ったことだと述べて

いる 2。松尾善弘はグローバル社会を見据えて外国語としての本源に立

ち返るべきであり、漢詩には顕著に見られた恣意的な読み﹁乱読﹂を

取りあげて﹁訓読法﹂の問題点を指摘している 3。門脇廣文は中高教育

において漢文の授業が機能していないという現状に触れながら、﹁漢

文訓読法﹂と﹁中国語直読法﹂との不毛な対立はもはや不用であり、

﹁中国直読法﹂の方が中国文学を外国文学として捉える分、自覚的な 研究が可能になると論じている 4。このように﹁訓読否定論﹂は漢文を

原形のままで捉え、我が国通用の漢音による﹁音読﹂もしくは中国口

語音で読むことを説いており、外国語教育の一環として位置付けられ

るが、こちらも一定の影響力を有している。

四  文体としての漢文訓読

今日の漢文教育における原文読解主義がいかなる時代の要請によっ

て生じたのであろうか、本節では漢文が︿訓読﹀を用いて教材を取り

扱う理由について文体の観点から考察を試みる。

漢学隆盛を極めた江戸時代には文之玄昌の文之点、林羅山の道春

点、後藤芝山の後藤点、佐藤一斎の一斎点などの様々な訓点が生み出

された。近代における学校教育の枠組みの中で、漢文が学科の中に組

み込まれ、﹁訓点付原文﹂教材が確立したのは明治時代のことである。

この当時は一般社会において数多くの文体が混在しており、書記文体

をいずれにするか検討が繰り返された。矢野龍渓は﹃経国美談﹄下篇

︵明治十七年︿一八八四﹀刊︶自序に付した﹁文体論﹂の中で世間で

用いられた四つの文体の特性をそれぞれ次のように述べている。

今ヤ我ガ国ノ文体ニ四種アリ。曰ク漢文体ナリ曰ク和文体ナリ曰

ク欧文直訳体ナリ曰ク俗語俚諺体ナリ。而シテ是ノ四種ノ者各長

短ナキ能ハズ。概シテ之ヲ論ズレバ悲壮典雅ノ場合ニ宜シキ者ハ

漢文体ナリ。優柔温和ノ場合ニ宜シキハ和文体ナリ。緻密精確ノ

場合ニ宜シキハ欧文直訳体ナリ。滑稽曲折ノ場合ニ宜シキハ俗語

(5)

三三文体としての漢文訓読︵樋口︶ 俚諺体ナリ。以上四種ノ文体ハ皆各適合スベキノ地有ルモノニテ一体独リ其美ヲ専ニスルコト能ハズ。ここでは﹁漢文体﹂、﹁和文体﹂、﹁欧文直訳体﹂、﹁俗語俚諺体﹂の四

つに区分しているが、いたずらに雅俗を分かたず状況に応じた使い分

けが必要であると述べられている。それまで翻訳小説や政治小説の

文体に用いられていた戯作文調や書き下し文調から、明治二十年代

初頭には二葉亭四迷﹃浮雲﹄や山田美妙﹃武蔵野﹄に代表される言

文一致体小説の発表を見た。用語としての﹁言文一致﹂は神田孝平

に始まると言われるが、こうした一連の動きに対して、明治二十二

年︵一八八九︶には中国文学者児島献吉郎は﹃文章論﹄を発表し、言

文一致反対運動の狼煙をあげ、﹁故ニ文ヲ変ジテ言ニ近ヅカシムレバ、

文ハ品格ヲ卑ウシテ、卑俗ニ失ス。言ハ改メ文ニ等カラシムレバ、言

ハ窘究ヲ感ジテ奇癖ニ流ル﹂、﹁言文一致ハ未開ノ風習ナリ、言文分離

ハ文明ノ常態ナリ﹂と言い切るなど、その鬩ぎ合いには熾烈なものが

あった。近代的な法整備が進むにつれて、二つの文体は棲み分けがなされる

ようになる。言文一致的口語文体が小説を通して広く浸透するのに対

して、︿訓読﹀を基調とした文語体は官報や法令などに適用された。

明治二十二年︵一八八九︶二月に﹁大日本帝国憲法﹂、翌二十三年

︵一八九〇︶十月に﹁教育勅語﹂が相次いで発布される中で、特に﹁教

育勅語﹂は﹁朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツル

コト深厚ナリ﹂といった︿訓読﹀による書き下し文体であったことが 学校教育における一つの文体の範を示す形となった。明治三十三年

︵一九〇〇︶八月には﹁小学校令﹂改正により初等教育に﹁国語﹂科

が登場する。尋常小学校については﹁日常須知ノ文字及近易ナル普通

文ニ及ボシ又言語ヲ練習セシムベシ﹂とある。この﹁普通文﹂とは﹁漢

文調子︵漢文くずし︶の文章体﹂とも呼ばれ、漢文訓読調の書き下し

文の体裁を借りながら近代的語彙と論理的な文脈を加えた実用文のこ

とを指す。明治後半期には漢文を直に読み下した漢文訓読調の正格な

﹁書き下し文体﹂も、古語や雅語を多用して古典的語法を守った﹁擬

古文体﹂も一定の場を除いて主流から外れていったのに対し、この

﹁普通文体﹂は公用文の中には脈々と生き続けることになった 5。

明治三十五年︵一九〇二︶には上田万年を中心とする国語調査委員

会が発足し、近代教育を推進すべく、﹁仮名遣い﹂や﹁現行普通文﹂

の整理を目標とし、仮名遣いや文体の普及を目指した。日露戦争後に

は加速度的に口語文体︵言文一致体︶が浸透する中にも、﹁普通文体﹂

は依然として存在感を持ち続けた。明治三十八年︵一九〇五︶、文部

省は﹁文法上許容ニ関スル事項﹂を告示し、﹁普通文体﹂における文

法事項の許容範囲の明記によりこの文体は一層の強化がはかられた。

明治末期、雑誌﹃文章世界﹄に﹁言文一致体以外の文章を学ぶ必要あ

りや﹂という特集記事が組まれ、上田万年、巖谷小波、芳賀矢一、山

路愛山などが各自の持論を語る中に、言文一致に理解を示した井上哲

次郎もまた文語体の必要性を現実に即した観点から述べている。

△言文一致以外の文章―即ち在来の文章が現存して居る限り、又

(6)

三四文体としての漢文訓読︵樋口︶

それを学ぶ必要、学ばねばならぬ理由が厳存して居るに相違無

い。とまア私は考へる。第一、此間発布された詔勅文の如き、最

も宜く証明して居るではないか。詔勅に限らず、法律軍隊の間に

行はるる文体は、到底言文一致を以て許さるべきものではない。

其他之を教育界に徴して見ても決して言文一致にする方針ではな

い。教科書の如きも、初等は成程言文一致を採用してはあるが、

それは唯教育上の便宜に過ぎないので、決して低趣味なる言文一

致を以て教科書を作つて居らぬことは明瞭である 6。

明治末期から大正時代にかけて、新聞や雑誌でも口語文体が世間一

般に浸透していく中で、こうした文語体の存在から漢文が照射される

こととなる。かくして漢文教育における︿訓読﹀は、公文書に用いら

れる文語文体と結びつけられて改めて認知された。

当時﹁漢文の羈絆を脱せよ﹂と唱えて︿訓読﹀基調文体から言文一

致体への転換を説いた芳賀矢一は、大正七年︵一九一八︶に﹁漢文廃

止論﹂を提唱するが、ここでは中学校の漢文教育には無用な文字、不

必要な内容があり、いたずらに生徒に負担を強いる現状があること

から、漢文を口語なり文語なりに国訳して取り込むようにと訴えてい

る。その中で普通文と漢文との関係性についても触れている。

我が国の普通文章が漢文から多くの語彙を得、漢文脈から組織結

構の上に影響せられたことは既知の事実であるが、それをいつま

で続けて行くべきかが問題である 7。

当時の国語教育関係者の中では、漢文の学科は中等教育機関︵中学 校・師範学校︶ではなく、高等学校や専門学校の一部で課すべきと考えられ、さらに書き下し文に改めて取り扱うことができれば国語としての受容に当たるものと国訳化を推奨する声もあった。

昭和二年︵一九二七︶に﹃標準漢文法﹄︵紀元社︶を著した松下大

三郎は、その総論において漢文には中国語と日本語双方の要素がある

ことを認めたうえで、﹁訓点付原文体﹂を︿訓読﹀することに意義が

あると述べ、これを書き下したり棒読みしたりすることには否定的で

あった。これに対し、金田一京助は昭和三年︵一九二八︶﹃國學院雑誌﹄

に﹁漢文廃止論﹂を寄せるが、あくまで漢文そのものの撤廃ではな

く、東洋伝統の精神的精華の民衆化のために古典全部を書き下して仮

名交じりの国文として受容すべきとの主張である。橋本進吉は昭和七

年︵一九三二︶から翌年にかけて﹃国語学概論﹄︵岩波書店︶を発表し、

﹁訓読に用ゐる言語は、今日の口語とは違ひ、文章語に属するもので

あつて、その読み方は、あらゆる場合を通じて略 ほぼ一定してゐる。︵中

略︶我々は漢文を支那の文即ち外国語の文とは見ずして、日本の文語

の一種として取扱ふのが至当であると考へる﹂と唱えて︿訓読﹀を我

が国の文語体の一つとして捉えた。山田孝雄は昭和十年︵一九三五︶

に﹃漢文訓読により伝へられたる語法﹄︵宝文館出版︶の中で、﹁なる

べく漢文の姿に即し、しかも国語を離れずして読まむとするなり。こ

れこの漢文訓読の根柢をなす一大原理なり﹂と述べ、古来より伝わる

漢文訓読法が当時の文章語︵普通文︶に影響を与えた経緯に触れてい

る。こうした国語学者の見地からは、我が国で通用する文語体と︿訓

(7)

三五文体としての漢文訓読︵樋口︶ 読﹀とは密接に結びついたものと見なされた様子が窺える。

戦後、標準文体は口語に一新され、文語体の無効化に伴って漢文教

育も意義を問われることとなる。昭和二十二年︵一九四七︶四月、文

部省は﹁必修国語には漢文を含まぬ﹂と言明する。これに対し、旧制

中学教員を中心に発足した漢文教育懇話会は、必修国語に漢文を含む

制度上の明記を国会に要請した。当時、文部省教科書編集委員を担当

した長澤規矩也は次のような見解を示し、漢文教育を方向づけた。

ここに注意すべきは、元来が支那文ではあるが、訓読されたとい

うことと文語文であるということ、二つの点から漢文というもの

が限定されるということである。日本の文語の一種として取り扱

うべきものであるから、普通教育の科目の中に入るのであって、

従って漢文は音読することは認められない 8。

この中では日本の古典としての位置づけを明確にしたうえで、︿訓

読﹀不能な白話文︵中国口語文︶や旧制中学校の漢文教材に入れた﹁支

那時文﹂も含まれず、重ねて漢文には︿訓読﹀が必須であり、音読か

ら始める支那学の研究法にも賛意を示していないことがわかる。

昭和二十七年︵一九五二︶二月、﹁東洋精神文化振興に関する決議

案﹂が衆議院本会議で可決された。これは戦後東洋の古典に対して学

生や生徒の関心と理解力が著しく低下した現状を憂慮することを理由

としたものだが、この決議により﹁国語︵甲︶﹂、﹁国語︵乙︶﹂、﹁漢文﹂

の三科目のうち、必履修科目たる﹁国語︵甲︶﹂の週三時間の授業に

二時間を加えて、これに漢文を充てることが定められた。漢文復活に より戦前復古主義への回帰︵いわゆる﹁逆コース﹂︶といった批判が

湧き起こって物議を醸す中で、漢文の必修化がなされたことになる。

昭和三十一年︵一九五六︶告示の﹁高等学校学習指導要領国語科

編改訂版﹂では、必修科目﹁国語︵甲︶﹂の中に﹁現代文﹂、﹁古文﹂、

﹁漢文﹂の区分を設け、それまであまり扱われなかった漢文を独立領

域に位置付けた。同年阿部吉雄は戦後の学力低下の著しいものとして

漢文を挙げ、文章読解力及び作文能力の低下を漢文学習の有無に関係

づけたうえで、漢文訓読法の必要性を説いた 9。古文、漢文、外国語の

読解の際に適した訳語や語法を選出するが、これにより既成概念に包

まれたことばから独立して、その奥にある真実を把握する習慣が身に

つくという見解である。翌年には宇野精一も﹁漢文の教育は訓読に限

る。これを支那語でやつたり、現代語訳、乃至書き下しでは意味をな

さない﹂としながらも、古典教育が全面的に排除されるまでは、軽々

しく改めない方がよいと留保している 0。現に、昭和三十年代以降、教

科書会社は試行錯誤して理想的な漢文教科書を模索し始める。内容理

解に重点を置いた﹁書き下し文﹂体の教材も現れるが、編集委員の抵

抗や躊躇により四十年代初頭にはほとんど姿を消し、再び﹁訓点付原

文﹂体が多く見られるようになる。当時の教科用指導書︵昭和三十四

年︿一九五九﹀刊︶からは、教材の文体を如何に扱うべきか、そのジ

レンマの様子が窺える。

漢文教材として一般に取り上げられている作品について分析して

みると、ほとんど中国の古典作品である。次にその取り扱い方は

(8)

三六文体としての漢文訓読︵樋口︶

訓読により日本の文語文に翻訳して読まれている。ゆえに漢文学

習は、その表現に重点においてみれば﹁古文﹂単元に吸収される

のが妥当であり、一方、作品内容に重点をおくならば﹁外国の文

学﹂﹁論説﹂﹁随筆﹂などの各単元に配置されるのが妥当である。

ところが訓読漢文は、この異質の単元目的を同時に満足させうる

長所を持っている。すなわち、与えられた符号︵訓点︶に基づい

て原文をたどれば、自然に日本文になり、やがてその内容も把握

できるという長所である。しかし﹁異質の単元目的を同時に満足

させる。﹂ということは、また﹁異質の単元目的を未分化のまま

かかえている。﹂ことであり、種々の矛盾を内在している。

︵東京書籍﹃新編国語総合編学習指導の研究高等学校一学年用﹄︶

ここでは漢文を﹁古文﹂と﹁外国の文学﹂の二つの側面から捉えて

いる。﹁古文﹂の立場からは、﹁訓読漢文︵訓点付原文︶﹂よりも﹁書

き下し文﹂の方が関係づけやすく、﹁外国の文学﹂の立場からは、表

現は︿訓読﹀による文語体よりも平易な口語訳を使用した方がより効

果的であるとする。このような﹁古文﹂・﹁外国の文学﹂の二つの側面

に照らし合わせながらも、内容理解に照準を据えるならば、必ずしも

︿訓読﹀を用いる必要はないとの結論に達している。

その後、江連隆は漢文教材を我が国の古典ではなくあえて﹁第二外

国語﹂として位置づけ、︿訓読﹀による学習効果について検証した。︿訓

読﹀はとかく原文との語順変更が弊害点として挙げられるが、ここで

は外山滋比古の﹁残像と遡像﹂の事例を引いて、語順の変化によるイ メージの差にこそ漢文法の利点があると見ている !。

前節で確認した﹁訓読否定論﹂が多くの中国文学関係者によって主

張されたのに対して、﹁訓読肯定論﹂は戦前より主に国語教育の観点

から我が国の文体の一つとして漢文受容が説かれ、﹁文体論﹂の立場

が貫かれていたことを確認した。もっとも、松浦友久のように︿訓読﹀

を中心とするならば、﹁音読﹂を補助的に援用すべきとする見解もあ

る︵﹁訓読古典学﹂と﹁音読古典学﹂﹃松浦友久著作選Ⅰ中国詩文の言

語学  対句・声調・教学﹄研文出版  二〇〇三年九月/初出一九九七

年︶。ただし、﹁訓読肯定論﹂においても原文︵﹁訓点付原文﹂︶尊重派

と﹁書き下し文﹂容認派に分かれている現状も見られた。戦前より漢

文は︿訓読﹀を伴うことで国語として受容された経緯を有していた。

現在に至るまで漢文教育の現場において一貫して︿訓読﹀による取り

扱いがなされているのも、﹁訓読肯定論﹂による国語としての文体意

識が脈々と受け継がれたためであったと考えられる。

五  近代国語教育における漢文受容と作文指導

近代国語教育にとって漢文の教育的意義は時代により読み換えられ

てきた。もともとは道徳修養的な要素を期待された漢文は、公文書に

多く用いられた文語体と結び付けられながら作文指導の補助的な役割

としてその存在意義を見出されるようになる。

明治五年︵一八七二︶八月に公布された学制においては学問の主た

る目的に忠孝の観念が謳われず、各個人の立身出世の基としての学問

(9)

三七文体としての漢文訓読︵樋口︶ の意義づけがなされた。この事態を憂慮した侍補元田永孚は﹁教学聖旨﹂などに儒教的な忠孝観を盛り込むように働きかけ、﹃幼学綱要﹄

などの修身教科書編纂にも積極的に携わった。こうした儒教思想は明

治二十三年︵一八九〇︶公布の﹁教育勅語﹂に一定の成果を見ること

になる。それでは漢文科における中学校の教育課程を概観したい。学

制と同年に頒布された﹁中学校教則略﹂には﹁国語﹂とされた学科が、

明治十四年︵一八八一︶七月の﹁中学校教則大綱﹂では﹁和漢文﹂に

改められる。明治十九年︵一八八六︶四月の﹁小学校令﹂からは漢文

の学科が除外され、﹁中学校令﹂において﹁国語及漢文﹂と改称され

るが、そこには﹁漢字交リ文及漢文ノ講読書取作文﹂が明記されるよ

うになった。

明治二十六年︵一八九三︶に、﹁教育勅語﹂の起草にも携わった井

上毅が文部大臣に就任すると従来の欧化政策から国語漢文奨励策へと

その方針を転換する。翌二十七年︵一八九四︶、﹁尋常中学校ノ学科及

其程度﹂が改正され、国語及漢文、歴史地理の時間数の増加がはから

れた。井上は省令説明において次のように語っている。

一国語漢文ノ時間ヲ増シタルハ改正ノ一要点トス国語教育ハ愛国

心ヲ成育スルノ資料タリ又個人トシテ其ノ思想ノ交通ヲ自在ニシ

日常生活ノ便ヲ給足スル為ノ要件タリ︵中略︶国語ト漢文トハ相

待テ其ノ用ヲ見ル蓋国語ハ主ニシテ漢文ハ客ナリト雖中古以来国

語ノ材料ハ多ク之ヲ漢文ニ取レリ故ニ両者ノ間尤教授ノ上ニ適当

ノ調和ヲ得ルヲ要ス ここでは近代国家としての日本は国民国家体制を推し進めるうえでも国体教育の必要性を唱えており、儒教を日本の国体に適合させて受容すべきであると考えている。井上は明治二十六年︵一八九三︶に開催された国語教員の国語講習会の際に、国語教員に向けて国漢が長い間の良友関係にあり、生徒の作文に資するものとして漢文教育の意義を語っている。同年に文部省より委嘱を受けた国学者小中村清矩も同じく国語講習会において、作文には中古以来の﹁擬古文﹂と平常に叙事や議論に使用する漢字交りの﹁通行文︵普通文︶﹂を分類し、通行

文八分、擬古文二分の割合で書生に書かせたうえで添削する指導を提

案する。当時の法律や命令などの公文書が漢文直訳体のごとき体で

あったため、一般の通行文も著述や新聞雑誌の類までこれに倣った状

況が語られている。ただし、︿訓読﹀由来の﹁通行文︵普通文︶﹂が広

く用いられていたのに対し、漢文はあくまで国文に従属するものであ

り、国語の範疇から取り扱うべきであることも強調された。当時の教

科書からもそうした見解が窺える。秋山四郎編﹃中学漢文読本﹄︵明

治二十七年︿一八九四﹀刊︶には次のような記述がある。

一語曰。物有本末。事有終始。知所先後則近道矣。於文学亦不可

欠此鑑識矣。国文。本也始也。漢文。末也終也。吾人之学者。即

欲咀嚼其精華以益発揚国文之光輝也。読此書者。知其所先後者如

此。而後可謂得編者之心矣。

一国文与漢文之関係既如此。故読漢文者。依拠国語格法。一致調

和。不可乖戻。此書之読法。於従来之読法。多所釐正者為之也。

(10)

三八文体としての漢文訓読︵樋口︶

ここでは国文が主、漢文が従である立場を明記したうえで、漢文

はその精華を咀嚼して国文の光輝を発揚しようとするもので、﹁故ニ

漢文ヲ読ム者ハ、国語格法ニ依拠ス﹂と述べられており、漢文は国文

法に従うものとして見なされていたことが明らかである。︿訓読﹀か

ら派生した文語文体はその実用性から作文教育の対象となっていた点

が強調されている。当時は日清戦争︵明治二十七年︿一八九四﹀~

二十八年︿一八九五﹀︶後の﹁脱亜化﹂の影響により漢字排斥や漢文

廃止論運動が起こった一方で、漢学復興の機運も高まっていった。中

国文化への見方が変わり、研究対象として漢学を捉えるようになる @。

明治三十二年︵一八九九︶二月、樺山資紀文相のもとで﹁中学校

令﹂が改正され、﹁尋常中学校﹂を﹁中学校﹂と改称。明治三十四年

︵一九〇一︶三月には新しい中学校令に伴う施行規則が出された。そ

の第三条は﹁国語及漢文﹂についてである。

国語及漢文ハ普通ノ言語文章ヲ了解シ正確且自由ニ思想ヲ表彰ス

ルノ能ヲ得シメ文学上ノ趣味ヲ養ヒ兼テ智徳ノ啓発ニ資スルヲ以

テ要旨トス国語及漢文ハ現時ノ国文ヲ主トシテ講読セシメ進ミテ

ハ近古ノ国文ニ及ホシ又実用簡易ナル文ヲ作ラシメ文法ノ大要、

国文学史ノ一班ヲ授ケ又平易ナル漢文ヲ講読セシメ且習字ヲ授ク

ヘシここでは理解力及び表現力を身につけ、文学趣味を養うことに資す

るものであることが明記されており、その後の国語教育の目的を方向

付けるものであったと言えるだろう。 明治三十三年︵一九〇〇︶十二月、第五回高等教育会議において中学校・師範学校の漢文は国語の中で教授すること、高等女学校・女子師範学校においては漢文を削除することなどを盛り込んだ文部省諮問案が一部を除いて可決されるも、実際には廃止には至らず縮小へと向かった。明治三十五年︵一九〇二︶二月の﹁中学校教授要目﹂では大幅な時数削減がなされ、毎学年の単元別指導項目がなされた。同年

十二月、第七回高等教育会議において山川健次郎の﹁中学校漢文全廃

論﹂が審議される。これは中学生の加重な負担を考慮して漢文を書き

下して国語のうちに入れるべきであると述べたものである。この建議

案は通過することなく、漢文教授に関する協議会が開かれ、研究会を

設立することになった。翌明治三十六年︵一九〇三︶には帝国教育会

漢文教授法研究部が発足し、漢文教授法の改良を目的とした提言およ

び国語と対等な漢文の位置づけがなされ、試案﹁漢文教授細目﹂の成

立を見る。

久木幸夫は一連の漢文廃止運動の根柢には前述の井上毅の省令説明

があったと見ており、愛国心教育が近代的な意味での﹁パトリオティ

ズム﹂を指すのならば、漢文文献に直接依拠したものではなく、むし

ろこれを部分利用したものと述べている #。日清・日露戦争を契機に従

来の漢学から儒教色は薄められる一方で、アカデミズムの立場からも

儒学の解体が要請され、東京帝国大学文科大学ではそれまで﹁漢文科﹂

であったものが明治三十七年︵一九〇四︶には﹁支那哲学科﹂と﹁支

那文学科﹂に分かれた。このように漢文が伝統的な漢学や儒学の世界

(11)

三九文体としての漢文訓読︵樋口︶ から離れるに従って新たな意義が求められるようになる。

明治四十四年︵一九一一︶七月、﹁中学校令施行規則﹂及び﹁中学

校教授要目﹂が改正され、﹁国語及漢文﹂には﹁国語講読漢文講読作

文文法及習字ノ五分科トス﹂と指導項目がさらに明確なものになっ

た。この教授要目には、﹁国語講読ノ材料ハ普通文ヲ主トシ口語文・

書牘文・韻文ヲ交フ﹂、﹁作文ハ現代文︵ここでは普通文のこと︶ヲ主

トシ口語文及書牘文ヲ併セ課スヘシ﹂とあり、普通文は講読教材とし

て提示され、また作文としても模範となったこともわかる。普通文の

読み書きは国語の範疇で捉えられ、漢文はこれを補うものとして捉え

られているのである。

実際にこのような考え方は教育の現場からも窺える。東京高等師範

学校付属中学校の教授細目︵明治四十年︿一九〇七﹀︶には、﹁文体ニ

就キテハ文語文ヲ主トシ口語文ヲ併セ課スヘシ﹂︵第一学年︶、﹁文体

ニ就キテハ専ラ文語文ヲ用フヘシ﹂︵第四学年︶と学年が上がるごと

に文語文体の比重が増している。さらに下って、大正七年︵一九一八︶

のことであるが、東京高等師範学校教諭玉井幸助は漢文廃止論の立場

から漢文教材の国訳化により国語への接収を説く中で﹁漢文句調の文

体は我が国に於いて絶対に必要なり﹂、﹁漢文は文の構造整斉せるが故

に、作文の補助として大切なり﹂といった漢文保存論者の意見を傾聴

し、漢文が文語体に資する作文教育にも通じていると理解を示した論

も見られる $。

大正時代は口語文体が一般化する中で、漢文教育は新たな局面を迎 える。国民生活の状況変化に伴う風紀の問題は当時の臨時教育会議でも取りあげられ、国語及漢文には道徳教育の面が期待されたが、それはもはや漢文擁護の積極的な理由とはなり得なかった。むしろ、漢文が伝統的に担ってきた国語の補佐としての側面や文語文作文に資する役割に結びつけられていた状況が窺い知れる。大正九年︵一九二〇︶

には時の文部大臣中橋徳五郎が食糧関連の訓令をそれまでの文語文を

改め、口語文で発したことも話題となった。こうした時代風潮下にも

﹁普通文体﹂が通用されている現状は依然変わらず、教育現場でも口

語文のみならず文語文にも重点を置いた作文指導がなされた。漢文の

教育意義はしばしば道徳性の涵養や忠孝精神の鼓舞といった観念的な

面が強調されるが、明治末期に出現した漢文廃止論などにより教育目

的の実質的な変容が迫られる。︿訓読﹀基調の書記文体﹁普通文﹂に

より実用性が担保され、作文指導を通して積極的に受容された経緯を

有していたことは明らかである。

六  まとめとして

これまで戦前から戦後にかけて︿訓読﹀を中心に漢文教育や文語文

体について概観した。現代まで授業の現場においては疑念なく﹁訓点

付原文﹂教材を︿訓読﹀する方法が用いられてきた。教材の内容理解

にのみ重点が置かれるのであれば、現実的に汎用性のない文語体を用

いた教科指導に効果は期待できない。そのため、指導者が︿訓読﹀の

扱いによる教育効果をしっかりと踏まえて置くことが重要になる。前

(12)

四〇文体としての漢文訓読︵樋口︶

節までに確認した通り、漢文の教育的意義は次の二点に集約される。

㈠日本の訓読文体に習熟し公用文作成する能力の涵養↓﹁文体論﹂

㈡中国の文言文体を正確に読解する能力の涵養↓﹁翻訳論﹂

戦前においては﹁文語文体︵主に漢文脈の書き下し文体︶﹂と﹁口

語文︵言文一致︶体﹂とが並存し、時代が下るにつれて前者から後者

へ比重が移行する。いくつかの﹁文語文体﹂のうち、﹁漢文調子︵く

ずし︶文章﹂とも呼ばれた﹁普通文﹂は公用文において正格の文体と

見なされ、敗戦時まで使用された経緯がある。戦前期における行政な

どの実務や教育に携わる者にとっては、文語文の作成能力が必須であ

り、文章表現に関わる教育目標として重要であった。ただし、これは

口語文が主流であった明治末期から昭和初期においては、もはや時代

の要請にあったものとは言えなかった。むしろ、漢文を外国語とみな

す観点からは、︿訓読﹀過程を経ずに原文のまま解釈すべきとする考

えも起こる。中には、倉石武四郎のように︿訓読﹀を旧時代の遺風と

捉え、中国口語の支那語として内容把握につとめる動きも見られた。

敗戦に伴って国語教育の枠組みも大きく変化し、口語化は一層推進

及び徹底された。戦前の文語文体は歴史的使命を終え、口語文体が書

記言語の対象となり、歴史的仮名遣いは表音的仮名遣いに改められ

た。現在もなお︿訓読﹀や文語体を疑問視する声も根強くあるが、か

つてこれが書記文体として機能した時代には作文教育と関連づけられ

て指導されていた点に留意したい。国語教育者増淵恒吉も﹁戦前とち

がって、書くことのためには文語文法は全然無用のものとなった﹂と 述べている %。しかしながら、︿訓読﹀を廃したならば、漢文は国語教

育の存在意義を見失うことにもなりかねない。これが近代教育の中で

漢文と国語を結びつける重要な役割を担っており、文体指導の一環

だったからである。

平成三十年︵二〇一八︶告示の次期高等学校学習指導要領国語﹁古

典探究﹂の﹁2内容﹂には﹁ウ古典を読み、その語彙や表現の技法な

どを参考にして、和歌や俳諧、漢詩を創作したり、体験したことや感

じたことを文語で書いたりする活動﹂の指導項目も加わった。安居總

子は﹁言語文化である古典を学ぶのは日本語を創ってきたたおやめぶ

り︵=古文体︶とますらおぶり︵=漢文体︶に触れること﹂と述べ、

音読と暗唱の必要性を強調する ^。漢文教育の意義が改めて問い直され

る今日において近代以降の国語教育の中で︿訓読﹀が我が国の文体と

して果たしてきた役割を直視する時期にさしかかっている。

注1  斯波六郎は個人的には音読を主唱する一方で、教育現場では︿訓読﹀による指導が規定された現状に鑑み、伝統的な︿訓読﹀の取り扱いに十分注意すべきことを説いた﹁中等教育に於ける漢文の訓読に就いて﹂︵﹃六朝文学への思索﹄ 創文社  二〇〇四年十月/初出一九四一年︶

 2  高島俊男﹁漢文について﹂︵﹃漱石の夏休み  房総記録﹁木屑録﹂﹄  朔北社  二〇〇〇年二月︶

 3  松尾善弘﹁﹁漢文﹂と﹁訓読法﹂を論ず﹂︵﹃アジアの歴史と文化﹄五号  二〇〇一年五月︶

 4  門脇廣文﹁学界展望︵文学︶﹂︵﹃日本中国学会報﹄五十七集 二〇〇五年五月︶

(13)

四一文体としての漢文訓読︵樋口︶  5  三浦勝也﹁標準文体の模索﹂一四三頁。︵﹃近代日本語と文語文  今なお息づく美しいことば﹄  勉誠出版  二〇一四年六月︶

 6  井上哲次郎﹁言文一致は低趣味だ﹂︵﹃文章世界﹄第三巻第十五号  博文館  一九〇八年十一月︶

 7  芳賀矢一﹁中学校における漢文を廃止せよ﹂︵﹃国語教育﹄第三巻第九号  一九一八年九月︶

 8  長澤規矩也﹁漢文学習指導﹂三四五頁。︵﹃長澤規矩也著作集﹄第八巻 汲古書院  一九八四年十一月/初出  一九五〇年九月︶

 9  阿部吉雄﹁国語古典としての漢文の意義とあつかいかた﹂五一頁。︵﹃国語と国文学﹄三三号  一九五六年四月︶

 0  宇野精一﹁漢文教育の目標と意義―古典教育の面より―﹂二六~二七頁。︵﹃斯文﹄一八号  一九五七年四月︶

 !  江連隆﹁外国語教育としての漢文﹂︵﹃漢文教育の理論と実践﹄ 大修館書店  一九八四年十一月︶

 @  三浦叶﹁明治後半の漢学復活論﹂︵﹃明治の漢学  明治年間における漢学研究史・漢学論﹄  友野印刷所  一九八一年九月︶

 #  久木幸夫﹁明治儒教と教育︵続︶―世紀転換期を中心に―﹂︵﹃横浜国立大学紀要﹄第二九集  一九八九年十月︶

 $  玉井幸助﹁中等教科漢文廃止の実行﹂︵﹃国語教育﹄第三巻第十号 一九一八年十月︶

 %  増淵恒吉﹁文法指導の目標と方法﹂二頁。︵﹃増淵恒吉国語教育論集下巻  文法指導論・表現指導論﹄  有精堂出版  一九八一年三月︶

 ^  安居總子﹁漢文学習の第一の目標は日本語の文体・リズムの獲得にあり﹂︵大修館書店﹃漢文教室﹄一八八号  二〇〇二年二月︶

参考文献鎌田正編﹃漢文教育の理論と指導﹄︵大修館書店  一九七二年二月︶山本正秀﹃近代文体形成史料集成︿発生篇﹀﹄︵桜楓社  一九七八年三月︶長谷川滋成﹃漢文教育序説﹄︵第一学習社  一九七九年十月︶増淵恒吉編﹃国語教育史資料第五巻  教育課程史﹄︵東京法令出版  一九八一 年四月︶石毛慎一﹃日本近代漢文教育の系譜﹄︵湘南社  二〇〇九年二月︶

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