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旧 劇 革 新 の 歴 史 的 意 義

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(1)

旧劇革新の歴史的意義

①問題の所在

帰山教正の純映画劇という主張は'結局のところ新派を現代劇にする試みで

あった。確かに彼は後で考察するように「白菊物語」で時代劇を試みたし、「神代

の冒険」では部分的に古代劇というジャンルにも着手したし、著作の中で時代劇

へのアプローチをも試みている。しかしそもそもヨーロッパ及びアメリカ映画へ のアシミレーションを主張した彼の言説の中には'ヨーロッパ及びアメリカ映画

には不在の旧劇という日本映画独自の類型は存在していなかった。もちろん同時

代に旧劇の純映画劇化ということが語られなかったわけではないが'それが極め

て遅れていることは明らかであった。帰山教正にとって旧劇という類型が事実上

問題外のものであったとすれば、まず旧劇の純映画劇化ということで映画史的に

問題にせねばならないのは、松竹による新時代劇の試みであろう。通常'新時代

劇の試みは旧劇の純映画劇化と見なされるからである。しかし、そこに行‑前に

われわれはまず、旧劇の渦中からこれを改革しようとした牧野省三の場合を見て

いくことにしたい。

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害が顕著になる。日活京都派の旧劇映画の中でも当時最大の人気を誇っていたの

が、トリック撮影が見せ場の1つを作る忍術映画であり、その観客は子供たちに

よって構成されていた。忍術映画によって松之助の人気は頂点に達し、その観客

たる子供たちは忍術ごっこに明け暮れた。だが危険な遊びによって事故が起きた

り、最悪の場合死亡事故すらおきたこともあ‑'忍術映画は社会的に批判される

ことになる。要するに問題となったのは、子供が真似をして危険な事態を引き起

こすということであ‑'映画がもつエシカルな側面であった。同様にエシカルな

問題を投げかけたかつての「ジゴマ」とは違い'忍術映画は禁止にこそならなかっ

たが、牧野省三は自分の監督したこうした映画が子供たちに悪影響を与えたこと

によって自責の念を禁じえなかったと伝えられている。牧野が教育映画に関心を

もったきっかけの一つがここにあるだろう。つまりそれは、なかんずくエシック

スの問題として捉えられる。映画は影響力が大きいから、その本質を生かして社

会的な認知を得るために教育映画を作るという発想がそこにはある。

HO)HO年代末の日本映画は世界にもまれにみる固有の類型を有していた。旧

劇と新派である。この類型をジャンルと呼びうるか否かは'理論的に解明せねば

ならない問題として残されるが、いずれにしろその他の類型は排除された。その

他の類型の代表的なものは、西欧映画のジャンルとして極めて重要な喜劇であ

る。確かに明治の末期に例えば曾我廼家l座の出演になる喜劇が撮影されたこと

はあった。だがそれらは必ずしもジャンルを形成せず、西欧映画のジャンルとし

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成されて後'喜劇はほとんど製作されることな‑'喜劇的要素は幾つかの旧劇映

画の中にインテグレーーされるのみであった。そもそも日本において劇映画製作

が盛んにな‑始めた (cnoiN年頃の日本の演劇界は歌舞伎と新派が主要な演劇の

類型を構成していて'その類型は概して措かれる中身の歴史的背景に基づいてお

‑'歌舞伎は過去を、新派は大体において現代を取‑扱った。すなわち、この日

本固有の劇的類型は、措かれる時代と相関的関係にあ‑、主題形式と相関的関係

をもつ西欧的なジャンルの概念とは異なっている。そしてこの類型は、その後長

い間日本映画の製作システムに根本的な特異性を与えることになる。その特異性

(2)

は'恐ら‑HOILO0年代の日本映画の最盛期にまで尾を引き、その後映画が斜陽

産業になるに従って、この特殊性も衰えを見せてくる。日本で劇映画がシステマ

ティックに製作し始められた HOOt‑年頃には、演劇界では文士芝居、アマチュ

ア演劇、西洋古典の翻訳劇などが確かに存在していたが、それらはまだ一部の観

客を対象とした演劇でしかなかった。このために'日本の劇映画製作は、演劇の

類型の伝統に従って'描かれる時代による区分をもち、そして僅かに西欧映画の

模倣作品をレパートリーに加えていたに過ぎなかった。後に日活京都派を構成す

ることになる横田商会も'明治期には新派や西欧映画の模倣を作った。明治44年

に発行された横田商会最後のカタログは、それまでにこの会社で作られた代表的

な映画フイルムを記載しているが'それは(旧派之部)(新派之部)(喜劇之部)

(実写之部)に分かれている。このうち本数としてご‑僅かなのが喜劇であったこ

とは言うまでもない。

尾上桧之助が映画に初めて出演したのがi‑10005年、その後京都の横田商会は

桧之助映画を作‑続けるが、彼の映画が日本中の子供たちに支持され始めるのは

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第にスター映画として位置づけるようになる。これが‑oI‑0年代の旧劇映画の

基本的な型を作‑上げる。もちろん日本映画史においてすでにこの時期にオル

ターナティヴな旧劇の形式がないわけではなかった。たとえば'日活トラストに

参加しなかった小松商会の旧劇映画の場合である。日活トラストが形成された直

後'これに対抗すべ‑小松商会は映画製作部門を再活性化させ'それまで常設館

を持たなかったこの会社は'東京では浅草館(のちのキネマ倶楽部)と提携し、

新作映画をここで封切ることになる。こうして旧劇ではこの年に「酒井の太鼓」

や「黒手組助六」などがここで封切られた。だが小松商会の進歩的な映画技法と

して同時代に高‑評価されることになる諸作品が生み出されるのは'それからま

もなくして、日活に一時在籍したがすぐにここを飛び出した田村宇1郎が小松商

会に監督として入社してからである。「その監督の下に撮った一幕物の 「金閣寺」

は前とは別のように、撮影法が進歩して、旧福宝堂派が踏襲していた芝居舞台面

の引き写しでなく'写真の劇としての場面に接近しやうとつとめた痕跡があ‑あ ‑と伺い得られる。これが小松商会の旧派写真が進歩の一転期で、それからは'田村氏の監督の下に続々として紹介された旧劇は、回を追って'撮影上に進歩を示し、「曾我物語」などは、(中略)場面を正面からでな‑斜に撮って、奥深に見せたり'人物をレンズ近‑に立たせて大き‑写して、見物の注意を1点に集中し

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ち切ったために'この会社の映画は再び以前のような巡業中心の興行によって上

映されるようになる。こうして、全国の常設館を牛耳っていた日活の勢力の下で

は'こうした映画の形式上の改革も大きな力とはな‑得なかった。いずれにせ

よ、^Olr‑i^年に天活が組織され'まもな‑日活に対抗しうる勢力を持つように

なるまでには、日活京都派の旧劇映画は旧劇映画の形式のドミナンシーを形成し

てしまっていた。

松之助の人気が忍術映画の開始に伴って急激に大きなものになった理由の一つ

には

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創刊された立川文庫を牧野省三がいち早‑映画に取‑上げたことだ。それまでは

歌舞伎や講談や義太夫など主として大人が受容する文化に取材した旧劇映画が製

作されてきたのに対し、日活トラストの成立とほぼ同時期に創刊された立川文庫

は'それが映画に取‑入れられることによって、旧劇映画のサブカルチャー化を

促進

する

こうした自らが作‑上げた旧劇映画の型に'牧野省三はまもな‑自ら批判的に

なったことはよ‑知られている。つまり作家としての発想において牧野は少な‑

ともこのドミナンシーに対する否定的な立場を表明しようとした。しかしすでに

サブカルチャー化した旧劇映画は、松之助の人気と資本主義の原理に完全に従属

していた。映画製作における桧之助の発言力が高ま‑、また儲かる松之助映画を

擁護する横田永之助の締め付けもあ‑'牧野は日活京都派の映画のサブカル

チャー化に抵抗した。「社内の面白からぬ雰囲気と、忍術映画によって社会を混

乱させた自責の念とで、彼は断然日活を退いて独立し、教育映画の製作に専心従

事すべ‑決意したが、日活は省三を手放した‑ないので、その辞意を許さなかっ

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(3)

顧問とし金森寓象を表面の支配人としてミカド商会を組織し、製作を日活が請け

負うといふ形式の下に、教育映画の製作に乗‑出した。それは大正8年7月10日

(2 )

であった。」このミカド商会で興味深いのは内務省や文部省の役人を嘱託として採

用していることだ。役所や役人は当時社会的な価値を決定するシンボル的な存在

であって'それゆえ文化の名の下に定義付けられるあらゆる事象が'彼らによっ

てそして役所という機関によって決定された。そこから完壁にすり抜ける忍術映

画および旧劇映画一般は、サブカルチャーとして、役所によって価値付けられな

いままに'多くの子供たちや旧劇映画フアンの絶大なる人気を得ていた。191

7年の活動写真取締規則をはじめとして'社会的影響力の大きい映画というサブ

カルチャーは'ますますエシカルな問いを社会に投げかけた。取締というネガ

ティヴな面は同時に価値付けというポジティヴな面をもともなった。児童映画製

作の奨励というのもその一つであろう。牧野省三が教育映画に進出した背景に

は'日活における彼自身がまいた種に対する自己反省はもちろんあったであろう

が'こうした日本における映画に対する‑OI‑Q年代後半の社会一般的な認識の

変化もあったであろう。

②旧劇映画における他者

横田商会時代牧野省三が尾上松之助主演で撮影した映画は数多‑、「碁盤忠信」

「木

村長

門守

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石山

軍記

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酒井

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「細

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血達

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徳川

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といったぐあいにう そのすべては歌舞伎狂言、浄瑠璃、講談に基づいたもので

あった。千本座の狂言方であった牧野にとって、芝居とはこうした'ある意味で

古典的な説話に依拠するものであって、それ以外のものではありえなかった。も

ちろん先に述べたように横田商会では新派映画も製作されていたし、数は少な

かったが西洋映画の模倣であるところの喜劇映画の製作も見られた。新派は同時

代の新聞連載小説などに基づいてお‑、古典的な説話である旧劇が扱う芝居の物

語とは性格を異にした。しかも新派は往々にして舞台化されて大当た‑をとった

アクチュアルな話題性を持ってお‑'ほぼ神話化された旧劇の古典的な説話はそ

れに比べても特別なスペクタクルであった。

ところで明治期には講談が語られるだけでな‑講談本としてよ‑読まれるよう

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かれた講談本で、このなかから様々なヒーローが生み出されていった。江戸時代

に講談が歌舞伎や浄瑠璃に取り入れられていったように'立川文庫の新しい説話

が旧劇映画の重要な取材源となっていった。しかも講談の文庫本を映画は具体的

にビジュアル化した。南部僑一郎も言うように、「立川文庫で忍術使いが八九字を

切る)と書いてあったが、これを松之助が演じるとき、右手でパッパッと空中を

払ったあと'左手で右手の人差ゆぴと中ゆびを撞‑しめて、などとやってくれる

G>ので、「ははツ'あんな風にやると消えるんだナ」とちゃんとわかるのである。」

歌舞伎狂言'浄瑠璃'講談そして講談本というように'舞台と書物の中で措か

れた明治維新以前を時代背景として持った仇討物、豪傑物'政談'武勇伝などが

旧劇の主題を構成したのであり、そして日活京都派の成立以降はこれに忍者物が

加わるのである。明治推新以前を時代背景にするといっても、措かれる時代はあ

る程度決まってお‑'多‑の場合江戸時代か戦国時代が中心となる。それは映画

の取材源となった芝居や講談の措‑時代背景がほぼそうした時代に固定されてい

たことと相関的である。つま‑、映画にとっては他者であるこうした物語世界が

引いた境界線を映画も自ずから守ることになるのだ。牧野省三が旧劇映画の革新

を教育映画というこれもまた映画の類型といえる側からおこなおうとしたとき、

かれはまず楠公父子の物語を扱うことによって、室町時代を時代背景とした。

ミカド商会の第一作は内務省指定の記録映画で'広島県沼隈郡の処女会表彰式

を撮影した。第二作は現代劇「都に憧れて」 である。牧野省三が新派ではな‑、

教育映画という側から当時珍しい現代劇を第二作として作ったのは興味深い。そ

して第三作が'旧劇「小柄公」なのであるが、これももはや従来の旧劇の型をとっ

ていないので、時代劇と考えてもよい。もっともこの時点ではまだ時代劇の名称

が一般的ではなかったため、これは旧劇による教育映画と考えられる。だがまも

な‑日活に戻った牧野は'もはや松之助の映画を作る気はなかったので、横田永

之介に条件を出し'これによって日活京都派は二部制になり、第一部が松之助映

画、第二部が市川姉蔵主演の映画ということにな‑、第一部は小林弥六が、そし

(4)

て第二部は牧野省三が監督することになる。日活京都派における、これは旧劇映

画の革新の始ま‑でもあった。すなわち旧劇映画の製作ユニッーが松之助単独の

ものではな‑なり'姉蔵のものとの二部制にな‑、さらにこの第二部は松之助映

画の型を作りながら自らそれを否定してゆ‑牧野省三によって監督されたのであ

る。桑野桃華は述べる。「姉蔵という役者は松之助よ‑芸は優れていたが'松之

助に比べるとその顔に特徴がなかった。いづれかと言へば璃徳に近いと言えるの

であった。省三は桧之助との対抗上姉蔵主演の脚本選定には少なからぬ苦労をし

た。そうして第一回作品として選んだのが「一条大蔵卿」 であった。気品のある

公卿役'これは姉蔵の柄には打ってつけの役であった。それに久々で省三がメガ

ホンを振ったという好奇心とが宣伝効果を斎して大好評であった。第二作は仝‑

行き方を変へて「天狗の夜話」というのであった。続いて 「野崎村」 の久作とい

う老役をやらせるなど、一作毎に目先が変わって人気が出た。小林弥六と組んだ

松之助は、製作能率に於いても省三の撮る姉蔵映画には及ばなかったので'兎も

(4 )

すれば押され勝ちに見えた。」

横田永之介は第一部が第二部にかすんでしまうことを恐れ、また牧野省三と松

之助のコンビを再び作ろうとして'第一部第二部合同の 「忠臣蔵」を牧野に作ら

せる。この作品では松之助演ずる大石内蔵助が姉蔵演ずる立花左近と対面する場

面で勧進帳の合方を使うというような目先の変わったことを行なったが、興行成

績で

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がもっとも古典的な他者の素材を伝統的な手法で作っていたことについては次の

ようなシニカルな言葉も投げかけられた。「日活京都派第1部第二部合同劇「実録

忠臣蔵」十五巻撮影費驚‑なかれ十余席円、撮影日数こヶ年、ウワ‑もう結構で

す。驚‑なかれと御親切に言って下すっても驚かずにはゐられません。何だか知

らないが恐ろしくなってきた。それに連日満員に付目延!まあ何でもいい。松

(5 )

ちゃんと姉蔵さんとでしっか‑目玉のむき比べでもやって‑れ。」

この第一部第二部合同の 「忠臣蔵」 が封切られた翌月、市川姉蔵は急死してし

まい、日活京都の製作システムはまたもとの松之助中心のものとなってしまっ

た。日活の重役に就任した牧野省三はこの年の9月に「牧野教育映画製作所」を 設立、等持院の境内にスタジオを建築する。ここで彼は「楠公父子」「養老の滝」「児島高徳」といった教育映画を製作した。常設館に出されることのないこうした映画は、学校その他の場所で教育を目的とした巡回上映によって人々の目に触れられるのみであったため、決して多‑の収益は上がらなかった。このうち「楠公父子」が現存しているが、これをみるとケレンによって観客の興味をひきつける従来の旧劇映画とは異な‑、映像の造形的な美しさによってドラマを重厚なものに仕立て上げようとする牧野の狙いが見えて‑る。たとえば、夜の室内場面で俳優の正面から照明を当て、背後に大きな影を作るような画面作りは舞台の平面性を強調する従来の旧劇映画にはなかった手法であろう。たしかに大活は前年に栗原喜三郎の監督で作られた「蛇性の蛭」で、同じように室内の夜間場面でローキー撮影を実現している。これが牧野省三の映画作‑に何らかの影響を与えたであろうことは十分考えられるし、事実大活が映画製作を中止すると、内田吐夢'井上金太郎、二川文太郎、高橋栄一(のちの岡田時彦) といった面々が牧野省三の招きで横浜から京都の牧野スタジオにやって‑るのである。こうした大活との関係から、配給網を持たなかった牧野教育映画は映画興行への打開策として新たな「忠臣蔵」を製作し、これの配給を大活に依頼した。これは従来の旧劇の型を払拭し、純映画劇を旧劇に適用するという意図のもとに製作されたリアリスティックな忠臣蔵であった。牧野は特にこれを従来からの忠臣蔵と分け隔てるために(新映画劇)と呼んだ。当時の批評は次のように記している。「‑・牧野教育映画製作品の新映画劇と銘打った 「実録忠臣蔵」 はさすがに新しい試みでセットの大仕掛けなのヤ'野外撮影の選択など苦心の跡は歴々と認められる。ただ俳優の多‑が舞台劇臭みが抜けきらぬので、殿中の場面や大写しの箇所などはそうした欠点が見えぬでもない。監督は概して敬服に値するが、編集振‑が少し‑冗長に失する嫌いがないでもない。殊にあれほど人口に謄灸され、且つ舞台劇として民衆の頭にしみこみ過ぎているために'努力と費用をかけている割には不利益な点が多い。撮影技巧並びに設備にも多少の難はあるが'仕上げその他になお一層の努力をすれば却って輸出映画として成功するかもしれない。降雪を応用しての討ち入

りの場面は気が利いているが、少し雪が深すぎる。借りな‑言へば立派な映画だ

(5)

とは言へないが'あの意気込みで新史劇の類に指を染めて今後ますます努力した

なら日本の映画史上に革命的成功を斎すに相違ない。愛活家は兎に角見てお‑価

:o

値が

ある

。」

③いかなる純粋性か

帰山教正は著書「活動写真劇の創作と撮影法」 のなかで、当時としては旧劇の

(7 )

類型に入るであろう映画「愛と花」の脚本を掲載している。それは「ロマンティッ

クな活動写真劇の脚色した一例」 であ‑'「日本古代風俗」を措いたものである。

「愛と花」は(古今集の歌を基として)と書かれているように、平安時代をその

舞台背景としている。帰山は、そもそも従来の旧劇映画ではほとんど扱われるこ

とのなかった時代に舞台を設定することで、日本映画における二つの固定された

類型に挑戦する。帰山は時代・場所・人物の設定を次のように記している。

時代‑藤原時代、場所‑陸奥の寒村

出場人名及び性格'衣装等

山塵の娘寓里‑・年齢十九歳、陸奥の寒村の生まれで幼時から父親の手一つで山

膿の娘としてそだてられたが'天性の美人で怜側な優しい心を持った女。父親は

山磯と云ひ乍ら昔は相当に学問を行ったことがある人であるから'娘は時々ひま

に父親から和歌をならひ覚え'彼女の文学的天才は、容貌の美しさと共に輝き出

した。常に髪を長‑たれ'極‑さっぱ‑した服装

山購(寓里の養父)‑・年齢七十歳位、白い考で顔は掩はれてゐるが極めて人の

い,老人である。自然の景色や草木を友として娘と二人、山の中の一軒屋に平和

な月日を送って居る。

藤原秀康(陸奥国司附の武士)‑・年齢二十六歳'京都の名門の生まれで若い気

立ての良い'勇ましい武士であるが'和歌に秀でた人で'猛き心にも優しい情調

が流れ、時代のみやびた所は美し‑表はれてゐる。

内容はかな‑単純である。藤原秀康が家来のものたちと共に狩‑に行った帰‑

に森の中で山膿の娘寓里と出会う。五年後、彼女の家を訪れた藤原秀康は、家が

荒れ放題となって、もはやそこには誰も住んでいないことを知る。 明らかなのは、これは時代背景のみが旧劇のそれであ‑、内容は西欧的なファンタジーであると言うことだ。これは確かに後の概念では時代劇であるけれども'日本映画における類型としての旧劇や時代劇が要求する内容を持ってはいない。すなわち'初めに述べたように'そもそも帰山にはこうした日本映画の類型という考えがな‑'映画を西欧的なジャンルの下に考えているのである。西欧的なファンタジーの概念は帰山にとって極めて重要であった。荒れ果てて誰もいな‑なった家の中に'和歌が書かれた短冊を発見した藤原秀康は深い悲しみにふけりながら、寓里の姿を思い浮かべる。帰山は幻想を措‑ために'二度も二重焼きのトリック撮影を用いる。すなわち、

この時寓里の昔の姿が神々し‑幻想に浮んで来る。とらへんとすれば只影の如

‑消え失せてしまふ。

そして最終ショットでは、

空に淡い白い寓里の姿が秀康の方をながめて花をまいてゐる、秀康は、なはそ

れをよ‑見ようとすると'直に影は失せてしまふ。空は次第に暮れて、岩上の秀

康の姿は雲を背景として黒‑立ってゐる。‑次第に絞る。‑

帰山は「生の輝き」 や「深山の乙女」 の中で、別荘地や山の中といった'いわ

ば現実から隔離された場所を舞台として用いている。この空間的な隔離を時間的

な隔離に置きかえれば'こうした過去の時代背景の中で展開する帰山の信ずる純

映画劇なるものが出来上がる。彼にとって純映画劇の純粋性とは、日本映画の類

型を作る古典的な説話としての他者ではな‑て'そうした他者を否定する契機と

な‑うる西欧的な類型であるところの映画ジャンルだったのではないか。そして

このジャンルはかな‑狭い範囲のもので、概してヨーロッパのブルジョワ映画か

ら導き出された登場人物の型を使用している。

「愛と花」は帰山にとって、日本映画の西欧的モードへのアシミレーションを単

に実現する企画であったばか‑ではなく'同時に西欧的なものにアシミレートし

た日本映画の日本映画としての同一性を確認する企てでもあった。そしてその試

みは'実際上はロンチによってイタリアへ輸出することを前提として製作された

「白

菊物

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よっ

て実

現さ

れた

(6)

「白菊物語」は関西で初めに封切られた後に東京で封切られたが、製作前にあら

ゆる映画雑誌を使って大々的な報道がなされたことに反して'実際の映画として

の反響はほとんどなかった。それは現代劇ではあるが、ファンタジーとして日本

の古代を取‑入れた「神代の冒険」 の場合も同様である。こうして、帰山の純映

画劇はう その日本映画としての同一性を模索したい‑つかの作品において、観客

からもう批評家からもほとんど無視された形で終わってしまった。これは、日本

映画の同一性がそもそも観念的にそして意図的には作‑難かったことを示すもの

である。仝‑同じことは、アメリカで映画修行をした栗原喜三郎による大活の

「蛇性の姪」についても言える。谷崎潤一郎は、自らが参加した映画の中で常に日

本映画の同一性の問題に意識的であ‑'例えば「アマチュア倶楽部」 の場合'そ

の完壁にアメリカ映画的な環境のなかにアマチュア歌舞伎の上演という要素を取

‑込んだのであったが、この 「蛇性の姪」 では上田秋成の小説という文芸映画と

いうジャンルをもちこんだ。明治維新以降の西欧化された小説を選ばなかったこ

とが

、こ

こで

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ある

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派映

画は

「金

色夜

叉」

「己

が罪

」「

不如

帰」

「生

さぬ

仲」といった所謂家庭小説を素材とし観客も女性を想定していた。だが、旧劇映

画は前にも述べたように歌舞伎狂言や講談といった古典的説話に取材してお‑、

例えば江戸時代の文芸に基づ‑ことはほとんどな‑、と‑わけある時期から青少

年を観客として想定したからである。だがその野心的な試みに比して、「蛇性の

姪」はかな‑冗長な映画として批判の対象にもなった。

④松竹と新時代劇

帰山

教正

らが

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画劇

の主

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0年代初めにかけては、様々な要因から日本映画が変化し始めた時期であった。

日本映画史におけるこの(移行期)には映画ジャーナリズムの成熟、活動写真取

締規則発令以降の映画と社会のよ‑緊密な関係の一般的認識強化、文部省による

映画

利用

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画輸入の再活性化などがあ‑、これらの事実を受けて、先に見たような日活京都 スタジオにおける牧野省三の動向、東京の向島スタジオにおける革新の気遣う 天活の終蔦を契機とした新たな映画会社の勃興、アメリカから帰朝した幾人かの日本人監督の日本における映画製作の開始、こうしたことが第一次大戦直後の好景気と相侯って見られたーr‑nai<Mゥ年には弁士津田秀水による映画協会の設立があ‑、「熱球」のようなアメリカ映画の模倣が見られ,旧劇ではその前年、弁士中島常誠が石塚忠利の本名で'元売映画「国難」を作っている。大活や松竹キネマのような、映画のアメリカ化を促進すべ‑設立された会社は'帰山教正と同じ方向に進み、日本映画の従来の二つの類型をあえて軽視し、アメリカ的な映画製作のあ巧方を追究した。よって、旧劇も新派もこれらの会社の中からは基本的には生ずることがなかった。もちろんと‑わけ松竹は営業的な側面を考えて、当初は従来の映画の類型を製作ユニッIという形で残し、映画劇を製作する1万で市川蓮十郎や沢村源之助らの旧劇や勝美庸太郎の新派映画をも製作した。大活も'映画劇の興行成績が振るわず、まもな‑旧劇や新派映画を製作するようになる。国活は天活の伝統を受け継ぎ、新派と旧劇を製作した他、松竹キネマや大活とは違いアメリカ的ジャンルを追究することな‑、例えば「寒椿」 のような新派から展開してい‑ような純映画劇を作って新しい映画の形を模索した。

日本映画の(移行期)に旧劇映画も確かに変化した。しかしその変化のあ‑よ

うは、必ずしも新派の場合と同質ではなかった。純映画劇が基本的には新派の改

革であり、新派という類型の西欧的なジャンル化であったとすれば'西欧には不

在である旧劇は帰山教正の場合のように完壁に考察の枠外に置き、単に素材が展

開する時代背景としてのみ考えられるしかなかった。旧劇が純映画劇として取‑

扱われ難かった理由はここにある。しかし、確かに演劇の側でも改革は行われて

いた。翻訳劇としての新劇が新派にたいして存在したのとは違うが、例えば沢田

正二郎の新国劇は時代物でありながら歌舞伎的な様式はとらず、よ‑現実的な立

ちま

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平太」や「国定忠次」をヒットさせると、舞台における剣劇のジャンルが確立さ

れる。こうした演劇における試みは、旧劇映画にも大きな影響を与えた。「活動

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(7)

で旧劇映画の最近の改革について書いている。彼は述べる。旧劇映画は 「若し撮

影様式を改めて映画劇として傑出したものを製出するに於ては、題材としては決

して価値のないものではないと思う。否寧ろこの多‑の民衆に知られた古い題材

が、映画劇といふ新しい様式に依って新しい生命を復活することは極めて歓迎す

べきことである。先に大活がトーマス栗原氏の手で古典劇「蛇性の姪」を発表し、

京都の牧野製作所でも「忠臣蔵」外多数の旧劇物を映画劇として取扱ふことに努

力して居る。最近国活の校正義郎氏が沢村蓮十郎氏一派を使って「幽魂の焚‑炎」

を完成公開し、又松竹キネマ蒲田撮影所に於ても今後大いに旧劇映画の製作に力

を用ふべLと言はれて居る。」「日本に於けるキネマ界のバロメーターとなる浅草

公園の活動興行界に就いて見ても、従来富士館の尾上松之助映画と大勝館の揮村

四郎五郎映画とだけが、旧派映画の封切場として存在して居たのに、旧腹来国活

系の封切館として最も因縁あり愛活家の間にも高級館として知られたキネマ倶楽

部が'京都の牧野映画を主とする旧劇封切館と代‑、更に新春に入って大東京が

帝国キネマの嵐璃徳映画の関東封切館となった。浅草に於て外国映画の封切館が

減って旧劇映画のそれが殖へるといふことは'真にキネマ界の趨勢を聞知するこ

とが出来る訳である。」「而して旧派劇の映画化といふことに就いて第二に問題と

なるはセットである。現代劇ならば多‑の場合に於てロケーションで間に合ふ

し、セットを使用する場合にも実物と同様に作ることは左程困難ではない。然る

に旧劇では何れにしても極めて困難があるし、又セットに於ても従来の舞台の大

道具が多数の人々に先入主となって居る為に純写実で行‑上にも可な‑面倒で且

つ不利不便がある。次に扮装の上にも舞台劇に慣れた民衆相手には余程研究を要

しやう。例へば石川五右衛門や自乗也を映画化すにしても彼の芝居で見るやうな

起人間的の扮装をさせな‑ては外面的に其の人物の感じを出すことは困難である

が'映画劇としてはモット自然に'人間らしい扱ひをする必要があるからである。

さらに聾や女形の問題も十分研究して解決しな‑てはならぬ。勿論可な‑困難の

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ことには遠ひないが、然し当然近‑解決されねばならぬ問題である。」

旧劇という類型が西欧的なジャンルのもとで純映画劇化されるためには'日活

京都や牧野教育映画における牧野省三の試みのほかに、当時一大勢力を築きつつ あった松竹キネマの試みが必要であった。松竹キネマは本来アメリカ的な映画製作を日本に導入しようとしていたが、その第一作は意外にも「島の女」という江戸時代を舞台背景とした作品であった。だがこれはむしろ試作であって'蒲田スタジオにおけるそれ以降の主要な映画は現代物に限られ、それ以外は営業上四郎五

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と、旧劇の純映画劇化という試みが蒲田でなされることになる。

「野村芳囲氏は最も新しき試みとして伊藤大輔氏の創作になる「清水の次郎長」を

純映画劇の型式を以って完成された。従来の時代劇の型を全然脱した、理想的の

新時代劇を完成せんが為野村氏は演出撮影其他絶て非常な苦心を以て監督された

(9 )

ものであ‑ます。」

ここでは野村芳団と書かれているが'これは野村芳享のことである。脚本を書

(Sいた伊藤大輔は'最初この映画のことを(新派大活劇)と呼んでいる。天竜川の

河原での仇討場面を見せ場としたこの作品は'まさし‑舞台で新国劇が立ちまわ

‑のテンポで観客を引きつけたように'従来の旧劇の素材をアメリカ映画の中に

ある戦いや乱闘場面のごときスペクタクルを見せ場とするものに変えた。松竹キ

ネマ社長大谷竹次郎は、日本の映画芸術は外国映画に従うだけではいけないと論

じ次のように述べている。「無論'フヰルムの製作の際に'いつも'種な‑、撮影

な‑に'外国の後を追って居って居る限‑は'及びつくのは容易ではないo叢に

於て、勢ひ我が国独特の物を造り上げねばならぬ事になる。要するに外国物に囚

ほれなければ好いのだ。1体7口に外国物と云っても、筋等には随分何でもない

物が多い。只俳優や監督の力で観せて行く物が可成多いのである。これは'野抗

し易い事なので、我が国独特の筋、又は取扱ひ方を以ってすると、撮影方法等は

3)必ずしも彼を真似る必要はな‑なって来る。」

我が国独自の筋、取‑扱いということを映画製作に反映させると'自ずと日本

固有の伝統的な映画類型であるところの旧劇と対面せざるを得ない。もちろん当

時蒲田では四郎五郎の旧劇映画が製作されていた。しかしそれは本来松竹キネマ

が目指す種類の映画劇ではな‑、あ‑まで営業用の産物であった。大谷竹次郎の

こうした考えに対する一つの回答として製作されたのが'伊藤大輔と野村芳事の

(8)

コンビによる「清水の次郎長」だったのである。松竹はこの映画の宣伝文句に次

のような言葉を与えた。「見よ!此の新しき試みを藁に理想的の新時代劇は遂に

吾が松竹キネマ蒲田作品に依‑紹介せらるる」

この映画がそれまでの旧劇と異なって新時代劇の名称で呼ばれるのは、新国劇

がそうであったように芝居の基本にある種のリアリズムを置いているところにあ

る。例えば静岡でのロケーションが行われたこの映画では、出来事の現場のリア

リティーが問題にされた。それまでの大部分の旧劇映画はスタジオ内の書き割‑

で場所を表現するか、せいぜいスタジオ付近の野外でロケーション撮影がなされ

‑ 卜

た。この映画では実際の富士を背景として次郎長の道中筋が措かれる。

「活動量報」はこの映画の歴史的重要性について次のように指摘した。「松竹が手

を付けた旧派映画劇の処女作である。新派の純映画劇の表現様式を算侭督物に

ぴった‑と、新調和させた所に此映画の新機軸がある。此映画劇は新旧何れの時

代に於ても変化のあるものでないとの定義を以て、云へば、此映画が映画劇を製

作された事は、さしたる問題ではないが、従来我国では督物と云へば、舞台劇の

模倣か'下らない妥協映画のみ製作されて、斯うした作品が生まれたのは之を

以って噂矢とする所に'興趣が湧いたものであらう。若し以後旧派映画劇が生ま

aれるとしたら'此映画を基礎として立って差しっかへない程優れた物である。」

数カ月後、伊藤大輔と野村芳亭のコンビは新時代劇と銘打った第二作「女と海

賊」に着手した。これは当時の松竹キネマにおける最大規模の映画となった。ま

さにこの映画のロケーション撮影が行なわれている最中に、野村芳孝は次のよう

な報告をしている。「百二十噸と百八十噸の和船を、元禄時代の物と仮装せしめ

て'ベルホ‑エル二台'パテ‑二台'高速度撮影機7台'技師三名で傭轍'横断

等いろいろカメラワークをして'海上の活劇を (私の監督としては一寸荷が重す

ぎる形であ‑ますが)本邦映画界に嘗て見た事のない、雄大な映画と致すべ‑、

努力いたして居ります。新時代劇の試作としては「清水の次郎長」を昨年完成し

ましたが、愈々提供する「女と海賊」を第一回作品として'以って旧劇映画の革

新を計‑度いと思ってを‑ます。毎朝五時二百人前の弁当を三食分宛用意して、

乗船し、伊勢湾熱田港よ‑七里半の海上を走って目的地点へ到着し、第1日日は 大暴風雨中の活劇など全部をスナップショットとしました。之は早速予告篇として発表する心組です。暴風雨中の場面の撮影は、陸地よ‑七里半の海上を三隻の和船、二隻の汽船、モーターボー‑二隻で'山なす波涛と闘ひつつ馴れぬ不自由を忍ぶ。冒険の伴ふ海上の働き'俳優諸君の勇敢さ'キャメラマン諸君の奮闘振りは、実に心嬉し‑思ってを‑ます。此の映画の此の大撮影が、単に蒲田撮影所の企て、又唯私、野村の仕事としてではな‑、平穏無事に堕眠を食ってゐる、本邦映画界に'幾何かの刺激を与へる、頗る有意義な仕事として見られたなら、そ

(1 4)

れで私は本望だと思って居ります。」

確かに「女と海賊」はこの時期まれに見る日本映画の大作であったが、同時に

忠君愛国のイデオロギーの上に立った出来事の説話的展開が主要な内容を構成し

ていた従来の旧劇映画とは違って'純映画劇にみられるような観念性と理念性が

この説話的展開の下敷きになっていた。その観念性と理念性は帰山教正及びその

思想を受け継ぐ松竹キネマ研究所の諸作品の空想的西欧イデオロギーとは違い、

伊藤大輔のある種の情念性に彩られていた。雑誌「蒲田」はこの映画について異

例の合評を行なったが、その中で評者たちは次のような発言をしている。「伊藤

大輔氏一流の女に対する解釈は非常に興味を覚える。」「お糸の心持と伊三郎の心

理との何れにもそれ相当の解釈が与へられるLt その場合の鉄五郎の思想にも、

異常の興味を覚える。」「全体を通じて女の 「黒髪」 で女に対する鉄五郎の哀恨を

・描象化せしめ、最後に「一人の男の恨み'何百人の女の恨み」と言はせた脚色の

妙に感服させられる。この描象的な黒髪の暗示は始終一貫した緊張味を示してゐ

(1 5)

た 。 」

こうした意見はそれまではむしろ新派映画に対して向けられたものだったので

はないか。別の言い方をするなら、これは女性観客に向けられた発話ではない

か。確かに女性が説話構成の要になる旧劇がないわけではない。例えば、最後に

女たちが仇討ちをする 「毛谷村六助」などはそうだ。しかしそうした旧劇映画に

おいても、説話的展開の主要な推進力は英雄的な男である。伊藤大輔は 「女と海

賊」 のなかで忠君愛国のイデオロギーにおいてはほとんど不在であった旧劇にお

ける男女の恋愛の描写をした。これまでは新派が特権的に扱ってきたこうした情

(9)

念が、旧劇によって扱われたのである。もっとも合評の評者たちの目には、それ

は必ずしも成功していないように見えた。「お糸'伊三郎のラヴシーンは少しも

感じが出てゐなかった。もう少し濃艶であって欲しい。」「あの時代を背影に持っ

(16)たラヴシーンの表現は可成困難であるには違ひない。」

われわれは例えば尾上栓之助映画における松之助とヒロインの恋愛場面なるも

のを想像することはできないだろう。日活京都派の旧劇では'古典的な説話から

逃れることはもはや不可能であったし、新派と旧劇の問に完壁な溝があった従来

の日本映画の類型においては'旧劇映画が男女の愛を中心的主題とすることはt

i‑1Oi‑0年代の半ば以来もはや不可能になっていた。もちろん明治期の映画にお

いては歌舞伎映画が旧劇の範噂においてそうした恋愛の主題を発展させていたこ

とは、いうまでもない。しかし、旧劇映画が子供たちのヒーローを生み出してし

まった後には'そうした歌舞伎映画自体が消えてしまっていたのである。だが、

栓之助映画も仝‑変わらないでいたわけではないーHOIN‑年になると'日活京

都派も、旧劇の枠内で純映画劇に何らかの答えを出そうとしていたのである。例

えば桧之助の「高山彦九郎」がそうだ。この映画について次のようなことが書か

れている。

「嘗て松延一派で作成された事があるが勿論数段の進境を表示した映画である。

当事者が幾分な‑とも現今称へられてゐる純映画主義即ち舞台と根底を異にした

芸術と言ふ点から映画の技巧に依って劇的効果を示さうとする其の主義に基いて

苦心してゐる処が見えるのは大いに心強‑感じた。度々日本映画の低級不進歩の

声を聞くがそれは余‑に涙ない言葉である。私は再出された数年過去の立花妙技

集を見て探‑日本映画の進歩の大なるものを見た。小山内氏の「路上の霊魂」谷

崎氏の「アマチュア倶楽部」日活の「朝日さす前」等は幾分不満の点はあるにし

ても威大な進境を示した立派な代表的の映画ではないか。日本にも独特の芸術が

あるのだ。も少し日本映画の為血あ‑涙あって欲しい。此の彦九郎劇も一歩々々

と理想に近付きつゝあるのを物語って居る。撮影技術に於て特に目立ったのは光

線に苦心の跡の歴々たるのと絞‑に依って劇を極めて円満に運ほうとしてゐる

が、これは極度の乱用は考ふべき事であるが今の程度は筋を運ぶ上に有効ならし めて居る。大写。場面転換。背景も皆各々映画劇の上に充分な効果を窟して居る。只従来京都派が兎角軽視して来た染色は気分を現すべ‑必要要素である事は誰しも熟知の事である。此の映画も全館を通じて無染色であった。これは是非注意して戴き度い。併しこれも多忙なる同派としては敦方ない。再び二部制として完全なる劇の作成を切望して止まない。役としては松之助の彦九郎は勤王の志士として王政復古を叫ぶ威丈夫の面影を充分にしのばしめる。私は彦九郡の役そのものが松之助自身の貴い個性の発露の様に思ほれてならない。扇太郎の中山大納言は優雅の点に気品のある点に洗練された芸に他に求められぬ美しさがある。同時に多摩之丞の奥方が柔い南欧映画にでも接する様な気分で扇太郎の大納言と相侯って京のゆかしい大宮人をしのぶ様な非常なノーブル・シーンを見せてくれた

s事を心から嬉し‑恩ふ。」

松竹蒲田における野村芳事の新時代劇はその第三回作品として(蒲田撮影所第

三回時代劇)「村井長庵」が製作された後'次の「萩寺心中」ではもはや新時代劇

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年の関東大震災直後あたりから、旧劇は時代劇と呼ばれ始めた。松竹蒲田では'

新時代劇のこうした展開を受けて、もっぱら安全な営業のために作り続けられて

いた沢村四郎五郎のユニットも、革新旧劇映画の名称の下に変わ‑つつあった。

関東大震災の直前には、野村芳亭が勝見庸太郎主演の国定忠次映画「実説国定忠

次雁の群」を作るが、同時に沢村四郎五郎のユニッ‑も天活以来の桂田阿滑笠の

脚本によ‑、森要の演出で「国定忠次」を作った。まさに、同じ蒲田スタジオ内

での競作という形である。この四郎五郎版の国定忠次では、忠次の 「人間として

(1 8)

の心理過程の描写が、主とされてあった所に非常な妙味が見出され」た。撮影は

上州ロケーションということで、野村芳亭の映画と同じ‑現場主義を採用してい

る。さらに、字幕も実景の上に二重焼きで出してあった。こうして松竹蒲田スタ

ジオでは、新時代劇という名称で時代物の純映画劇の型を樹立させ'革新という

冠を付けて旧劇を変貌させようとした。まもな‑両者とも時代劇という共通の名

称で1元化されることになるのだが、松竹の内部でこれら二つの種類の時代物が

始ま‑にあったことは、後の松竹の時代劇に微妙な影響を及ぼす。野村芳享と伊

(10)

藤大輔の新時代劇はドラマに重きを置‑。これに対して革新旧劇の方は、四郎五

郎の主演という前提があり、スターの映画であった。そしてこの、四郎五郎とい

うスターがもともと天活において、そして国活において'尾上桧之助と張合った

人物であったとすれば'本質的に松竹キネマの映画製作とは異質のものがそこに

はあった。四郎五郎の人気が凋落し始めると'桧竹にはこれに変わる時代劇のス

ターがもはや存在しなかった。

時代劇という名称は必ずしもすぐに使われたわけではなかった。従来の旧劇と

は違う時代物'新時代劇や革新旧劇を一つの類型で指し示すために、例えばへチョ

ンマゲもの)なる名称すら用いられている。勝見獣笑(勝見庸太郎の筆名)によ

ると、このチョンマゲものは現代劇よ‑はるかに広‑自由な世界を持っている。

彼は言う。「現代劇のもつ内容は現代が産んだ人間生活の表現よ‑外にあ‑ませ

ん。ところが新しいチョンマゲもの,世界は神代から近世に至るまでのながいな

がい伝統と歴史を持ってゐます。現代劇の内容は現代人の表現以外一歩も持外へ

飛び出すことを許されてゐません。」「‑新しいチョンマゲものになると現代とは

仝‑没交渉で'何の約束もないからどんな真似をしても、多‑の場合は許される。

成程あの時代にはあんな人間もゐ他のかも知れないと大目に見て‑れる。それが

演劇構成の上に非常に都合がいい。それに新しいチョンマゲもの,世界は頗る範

囲が広汎で例令ば伝統的なもの'夢幻的なもの、空想的なもの、神秘的なもの、

( a )

象徴的なもの、などを自由に表現することを許されてゐる。」確かにそのような意

味で時代物には現代劇以上の様々な素材を扱う可能性が秘められていた。それま

ではほとんど新派のみに許されていた情念のドラマが'千年以上にわたる時間的

な多様性の中で展開されるかもしれないという期待がそこにはあった。しかしこ

うした視点もまた松竹の時代劇を弱めた一つの要因となった。このような視点で

は'まず第1に松之助や四郎五郎といった旧劇の存在証明であったスターを否定

せざるを得ない。実際、松竹はこの会社が率先して映画製作のアメリカニズムを

敬‑いれたようには、時代劇の部門でしばら‑の間スターを養成しようとはしな

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しい 時代 物の 映画 は時 代劇 とい う松 竹に 始ま った 名称 の下 に活 発に 製作 され 出し たO その 中で も時 代劇 映画 のそ の後 1

0年 間の 概念 を作

‑上 げる こと にも っと も貢 献し たの は' やは り牧 野省 二膏 あっ た。 牧野 省三 は松 竹に よる 新時 代劇 に恐 らく もっ とも 大き

‑刺 激を 受け た映 画製 作者 であ った だろ う。 牧野 はそ れに つい て伊 藤大 輔に 感謝 の言 葉を かけ てい るほ どで ある

。牧 野の 轟々 喜多 呂九 平が 脚本

「浮 世絵 師紫 頭巾

」を もっ てや って きた のは 松竹 にお いて 新時 代劇 の構 想が まさ しく 練ら れて いる 頃で あ‑ '金 森万 象の 監督 によ る「 浮世 絵師 紫頭 巾」 が封 切ら れた のは

、「 女と 海賊

」が 封切 られ た一 週間 後の こと であ る。 そし てま もな く' 牧野 は

「加 賀の 若殿

」に おい て環 歌子 を出 演さ せ、 その 後女 形の 使用 をや めて しま う。 こ の映 画が 封切 られ るの はH Oi CN IC 0年 の8 月2 3日 であ るか ら関 東大 震災 の直 前で あ る。 そし て牧 野省 三に よっ て見 出さ れた 阪東 妻三 郎の 最初 の主 演作 品「 鮮血 の手 型」 は震 災の 直後 1 0月 に封 切ら れる から '図 らず も震 災は 古い 時代 劇と 来る べき 時代 劇の 間に 境界 線を 引い たと 言っ ても よい であ ろう

。 桧竹 が時 代劇 にお いて スタ ーを 育て なか った のは '下 加茂 スタ ジオ が当 初か ら 蒲田 スタ ジオ の予 備的 な存 在と して しか 見な され てい なか った こと 'そ して

、1 92 4年 以降 蒲田 スタ ジオ が現 代劇 を中 心に 製作 をし 始め たこ とか らも はっ きり して いる

。林 長二 郎が 下加 茂で 映画 に出 演し 始め るま で、 時代 劇は 決し てこ の会 社の 主要 なジ ャン ルで はあ

‑え なか った

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年以 降時 代劇 はス ター の映 画と して 発展 して い‑

。こ れは 旧劇 映画 が

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‑I Od 年以 降ス ター の映 画で あっ たこ とと なん らか の関 係を もつ もの であ ろ う。 確か にH O) CM

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*年 以降 日本 映画 の嘗 ての 二つ の類 型で ある とこ ろの 新派 と旧 劇は 完全 に消 えう せ' 西欧 的な 類型 概念 とし ての ジャ ンル が登 場し た。 例え ばア メリ カ映 画で 西部 劇が そう であ った よう に' これ 以降 の時 代劇 はス ター 映画 の ジャ ンル と考 えら れて よい

。し かし

、こ れま で見 てき たよ うに

、例 えば 松竹 にお ける 時代 劇の 発生 は、 帰山 教正 が構 想し たよ うな

、あ らゆ る時 代に 展開 しう る情 念の ドラ マだ った ので はな いか

。時 代劇 がス ター 映画 とな った こと で、 そう した 映画 の概 念は 現実 には 発生 し得 なか った

。ス ター の時 代劇 はま もな

‑剣 戟映 画と 呼ば れる よう にな り、 もっ ぱら 剣に よる 格闘 のス ペク タク ルが 呼び 物と なっ た。

(11)

これは、再び映画の西欧的な概念からの離反だったのではないだろうか。すなわ

ちスター映画のジャンルとして確立した時代劇も'剣戟映画に移行する中で'乱

闘のスペクタクルを規則化するに到る。たしかにそれは'松之助の時代の殺陣様

式とは異なってはいたが、それが映画の目的と化したことだけは共通している。

衣笠貞之助による乱闘のスペクタクルのない時代劇「十字路」や後の時代の小市

民時代劇などが'時代劇ジャンルの偏差として生じるのはtと‑もなおさず時代

劇が乱闘のスペクタクルを規則化したからに他ならない。

最後に今一度松竹蒲田撮影所の所長でもあった野村芳亭の言葉を聞こう。「自

分は映画に現はれる在来の旧劇に、よ‑不満を抱いてゐた。その舞台劇の延長と

も見らるべき映画の旧劇は必ず革新の余地あるものと考へてゐた。自分は、苦心

の結果、革新した旧劇'即ち映画劇として'之れに所謂「時代劇」の名を附し'

第1回の試作「清水の次郎長」を公開した。世人の論評は直々であったが'兎に

角この映画の投げた波紋の、相当大きかった事は、確かに認め得た。その後は他

社は続々と我に模してか公開した。成功不成功は第二義とする。唯、反響の有っ8)た事のみを以ても'自分は満足しなければならないと思ふ。」

引用文献

(1)小松商会の旧劇映画撮影復活に就て「活動雑誌」(大正10年8月H^Oi‑H‑vl<i‑H

(2)桑野桃華「日本映画の父(マキノ省三俸)」(昭和24年、マキノ省三倖発行事務

所)72

(3)別冊「近代映画」‑CD^D‑年1月上旬号「回想・マキノ映画」(マキノ省三先

生顕彰会、昭和46年)からの引用

(4)桑野桃華前掲書79

(5)「キネマ旬報」(61号、大正14年4月1日)10

(6)「活動量報」(大正11年7月)61

(7)帰山敦正「活動写真劇の創作と撮影法」(飛行社、大正6年^O。/ooo

(8)石井迷花「接頭せんとする旧劇映画の改善」「活動量報」(大正12年4月GOcM

92(9)「蒲田」(大正11年9月)2

(3)伊藤大輔「二階のブックサ屋」「蒲田」(大正11年8月)14

(3)大谷竹次郎「活動写真に就いての抱負と希望」「蒲田」(大正11年9月)13 勝見庸太郎がロケーションの模様を描写している。勝見庸太郎「撮影余談富士

2019181716151413

と首つぴき」「蒲田」(大正11年8月‑8

「純映画劇として取扱はれたる旧派映画一覧」「活動量報」(大正12年4月1Oi‑I

野村芳亭「「女と海賊」出張撮影熱田沖よ‑特別通信」「蒲田」(大正12年7月)35

合評「女と海賊」「蒲田」(大正12年8月/CM‑CS]

上掲書27

三宅香風「高山彦九郎を見て」「活動雑誌」(大正10年11月)蝣‑1^t><」>1147

革新旧劇映画を見て「蒲田」(大正12年9月)26

勝見款笑「新しいチョンマゲものに就いて」「蒲田」(大正12年10月)24

野村芳亭「発亥回顧」「蒲田」(大正13年1月)15

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