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青森港 と函館港 における北洋漁業の歴史的意義

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(1)

〔 研 究報告 2〕

青森港 と函館港 における北洋漁業の歴史的意義

一 青函圏における港湾の産業経営史的研究一

四 宮 俊 之

(1) は じめに

青森港 と函館港 は

,1988

( 昭和

63)

3

13

日の青函鉄道 トンネルの開業 に合わせた青函鉄道連 絡船 の終航 までの

1

世紀余の間,周知の ように津軽海峡 をはさむ本州 と北海道の接点 ・海路 にお け る 「 玄関 口」 としての役割 を ともに担 って きた。青函海上航路 は

,1873

( 明治

6

)年 に北海道開拓 使が小型木造汽船 による

1

カ月

3

往復 の一般貨客航送 を開始 して以来,貨客 だけでな く,情報や文 化 な ども運ぶ北 日本の重要な輸送連絡ルー トのひ とつ として,近代 日本 の歴史 に小 さか らざる役割 を担 って きた

。1891

( 明治

24)

年 における青森 一乗京間での 日本鉄道 ( 今 日の東北本線 の前身) を 最初 として

,1904

年 に函館本線, その翌年 に奥羽本線 とい うように青函海上航路 に接続する鉄道路 線が順次全通す ると,本州 と北海道 をむすぶ名実 ともに最主要ルー トとなったのである。

1908

年 には帝国鉄道庁 ( 国鉄の前身)が青函鉄道連絡船 の時速

18

ノッ ト ( 約

33

キロ)での高速運 航 を開始 し, それ まで

6

時間以上 を要 していた航海時間が約

4

時間 ( 但 し,好 での乗下船 に約

1

時 間 を別 に要 した)に短縮 された。次 いで

,1925

( 大正

14)

年 には多年の懸案であった連絡船 による 貨車 の航送が開始 された。 その結果,青森 ・函館両港 にて従来約

40

時間 も要 していた貨車 と連絡船 間での貨物積 み替 え作業が不要 とな り,貨車航送 の必要時間が約

10

時間にまで縮め られ,第二次世 界大戦後 に至 るまでの青函鉄道連絡航路 の基本的な運航体制がほぼ確立 した。 その後,青函連絡船 は

1945

年の戦災や

1954

年 の洞爺丸台風での被災 を経て

,197

1 ( 昭和

46)

年度 には年間の貨物輸送量 が史上最高の

854

万 トン

,1973

年度 には乗船客数が同 じ く

499

万人 を記録 したま 1 )

この ような青函鉄道連絡航路 の隆盛が青森 と函館 の港湾 と市勢の発展 をもた らした ことは想像 に

難 くない。 とりわ け

1910

( 明治

43)

年 に先ず函館で,次 いで

1924

( 大正

13)

年 に青森で連絡船 の直

接離着岸で きる埠頭が完成す るまで は,沖合 に停泊 した連絡船 と桟橋 の間で は多数 の好 な どによる

貨客 の中継輸送が必要 とされ, それに関連す る運輸業や商業 ・サー ビス業が特 に発達 した。 しか し,

今 日の青函圏における中核都市 としての青森 と函館両市の歴史的な繁栄 は,青函鉄道連絡航路 の隆

盛 だけで語 ることは出来 ない。 なぜな ら

,1925

年か らの貨車航送 の開始 は,青函鉄道連絡航路 にお

ける輸送能力の質量 ともの向上 と改善,時間の節約 な どで大 きな全国的経済効果 を生 んだが, それ

と同時 に両港での好 な どによる中継業務 の多 くを不要 とし, また貨客 の港内や市内での滞留 も大幅

(2)

に減 らして,両市 に小 さか らざる経済的打撃 を与 えたのである

。1988

年の青函鉄道連絡船 の終航 に 際 し,連絡船 の運航基地があった函館 はともか くとして,青森側での反対運動が ともすれば情緒的 に とどまったのは, その経済的利点が既 に遠 く過去 の ものであった ことの端的な現れ と思 える

i2)

しか るに,今 日は ともか くとして,青森 と函館 の両市 は貨車航送 の開始後 において も港湾都市 と しての市勢の繁栄 を第二次世界大戦後 にいたるまで見せた。 その繁栄の要件 として は, この青函鉄 道連絡航路 の存在 に加 えて,北洋漁業 との結 びつ きが指摘で きる

勿論, これ まで も函館 について は北洋漁業 との深いつなが りが広 く知 られて きたが,青森 については未 だ函館 ほ どには北洋漁業 と の関係が十分 に認識 されて こなか ったように思われ る。 また,函館 と青森の間に見 られた北洋漁業 との結びつ きにおける競合 も断片的 に理解 されたに止 まっている

今 日の青函圏 における諸問題 の 理解や検討 に際 しては, この ような北洋漁業 を接点 とした青森 と函館 の港湾都市 としての歴史的な 発展の軌跡 を明 らかにし, それ を前 もって認識 してお くことが不可欠 と考 える

(2 )北洋漁業の歩み

北洋漁業 とは,今 日で は北緯

42

度 あた りか ら北 の北海道やサハ リン ( 旧 ・樺太), ク リル ( 千島) の各沿岸 を除いたオホーツク海,ベー リング海 および北西太平洋 における漁業の総称 となっている が, その呼び名が一般 に使われ るようになったの は

,1907

( 明治

40)

年 における日露漁業条約の締 結 を経 た

1910

年代以降の ことと言われている

但 し,第二次世界大戦以前において は,樺太や千島,

カムチ ャツカでの沿岸漁業 を含 めての呼称 であった i 3 ) かっては 「 北洋 を制す るものは日本漁業 を制 す」 とまで言われ, その 「ドル箱」 とされていたのがサケ ・マス漁業であった ㌘ )しか るに,第二次 世界大戦期 と戦後の中断 を経 て

,1952

( 昭和

27)

年か ら再開 された北洋漁業 は

,1991

( 平成

3

)年 の 日本 ・アメ リカ ・カナダ ・ソ連 の

4

カ国によるサケ ・マス資源管理 に関する会議 にて,公海上 に おけるサケ ・マス漁の翌年か らの全面的禁止が取 り決 められ,ついに北洋漁業 の 「 花形」 としての 歴史 に終止符が打 たれ るようになった ㌘ )

ところで,か っての北洋漁業, とりわけ北洋サケ ・マス漁業の隆盛 は,既 に指摘 したように,育 森 と函館両市 の港湾 と市勢の歴史的発展 に深 く係わっていた。 そ こで,先ず北洋漁業 の歴史 を概観

し,次 ぎに改 めて両市の発展 との歴史的な係わ りについて検討 してい くことにす る

日本人 による北洋漁業 の始 まりは

,18

世紀 中頃以前の樺太でのサ ケ ・マス漁にさかのぼることが

で きると言われている。 その後, 日本人 による漁業 は

1799

年か ら千島,次いで

1870

( 明治

3)

年頃

になる とロシャ領 の沿海州 ( プ リモルスキー)沿岸や黒龍江 ( アムール川)の下流水域へ と拡が っ

ていった

。1875

年 の千島・ 樺太交換条約 によって千島が 日本領 に,樺太が ロシア領 となった後

,1899

年 にロシアが 自国領土での 日本人漁業者 による漁業 を禁止 して も, 日本人側 はロシア人か らの買魚

や漁区の名義借 りな どによってロシア領漁業 を実質的 に続 けた。 また, ロシア人漁業者が未 だほ と

(3)

ん ど手 を付 けていなかったカムチ ャツカ半島 に新 たな漁場 を求 めてい くようになった

。1905

年の 日 露 ポーツマス講和条約 と

1907

年の 日露漁業条約の調印 は, このような日本人 によるロシア領 内での 漁業権益 を改 めてロシア側 に承認 させた ものである。 したが って,当初 の北洋漁業 とは, ロシア領 内での沿岸漁業 にほかな らず, カムチ ャツカ半島での沿岸サケ ・マス漁業がやがて中心 となってい

くのである

(6.)

この ようなロシア領 のカムチ ャツカ半島での 日本人 による漁業への取組 みの中で次第 に台頭 して くるのが,周知の ように堤清六 な どの創業 した堤商会であった。 日魯漁業 ( 現 ・ニチロ)の主たる 前身 となる堤商会の活動 について は,既 に岡本信男編 『日魯漁業経営史』第 1巻や三島康雄著 『 北 洋漁業 の経営史的研究』 に詳 し く記述 されているので, それに主 として依拠 しなが ら先ず概略 を述 べてお く

堤清六 は

1906

( 明治

39)

年 に堤商会 を設立 し,当初 にはロシア領 内で主 に塩蔵サケの買漁 ( 買い 付 け と積 み取 り) に従事 したが

,1910

年か らはカムチ ャツカ半島 に缶詰工場 を設 けて, ヨーロ ッパ 市場 向けサケ ・マス缶詰 の製造 に取 り組 んで頭角 を現わ した。 とりわ け

,1913

( 大正

2

)年 にアメ リカか ら機械 を導入 して成功 した衛生缶 ( サニタ リー ・キャン)の製造 は,同商会がやがて北洋漁 業の代表的な企業 となる最初 の技術的優位 をもた らした。堤 は, その後

1919

年 に堤商会 を極東漁業

㈱へ改組 し,翌年 にライバル企業であった輸 出食品㈱ との合 同を実現 させ, また勘察加漁業㈱ の設 立 に も参画 し, これ ら2社 と既 に経営権 を掌握 していた( 旧)日魯漁業㈱ を加 えての 3社合同によ り,

1921

年 には改 めて ( 節)日魯漁業㈱ を発足 させた。 ( 節)日魯漁業 ( 以下で は,単 に日魯漁業 と称す る) は

,1917

年のロシア革命以降, ロシアエソビェ ト領 内での 日本 の漁業権益が次第 に不安定化 して き た中で, 日本政府の支援 を受 けた半 ば国策会社的な独 占企業 としての性格 を次第 に強めなが ら,や がて 「 露領漁業」 に君臨 してい くのである

i7)

ところで, このような 日魯漁業のロシアエソビェ ト領漁業 における台頭 とは別 に

,1920

年代後半 になる と日魯漁業以外 の 日本人漁業者 によるソビェ ト領沖合での 「 公海」 における母船式サケ ・マ ス沖取工船漁業が次第 に本格化 した。北洋での母船式工船漁業 は,先ず最初 にカニ漁で始 ま り, そ れがサケ ・マス漁 に応用 された もので

,1930

年代 には捕鯨 や各種 の底曳 き網漁へ も広 まっていった。

日魯漁業で は, 自社 によるソビェ ト領 内でのサケ ・マス沿岸漁業 との競合化 を予想 して, この沖取 漁業への取組 みに当初消極的であった。 しか し,「 露漁漁業」か ら締 め出 した他 の 日本人漁業者 に対 す る公海漁業での将来的な競争戦略 として

,1931

( 昭和

6

)年 に太平洋漁業㈱ を設立 し,新たに母 船式沖取漁業へ も本格的な進出 を図った。 この沖取漁業 は

,1929

年 に日本政府 の許可漁業 となって お り

,1933

年か ら北緯

51

度以北が専用海域 とされた。 日魯漁業 は,政府への政治工作 によって

1935

年 に太平洋漁業㈱への沖取業者 の合同を強行 し, ソビェ ト領漁業 に続 く自社 による支配 を実現 した。

また

,1934

年 には幌延水産㈱ を設立 し,北千島でのサケ ・マス漁業 に も進出 した。か くして, 日魯

(4)

漁業 は日本 における 「 北洋の王者」 として 自他 ともに認 める存在 となったが, その頃 には政府 も同 社 を中心 とす る北洋漁業 の国家的統制 を目論 む ようになっていた。但 し, その後 の第二次世界大戦 で 日本 の北洋漁業 は壊滅 を余儀 な くされて, それ までの 日魯漁業 を中心 とした北洋での漁業権益 は 全 て失われたのである i 8 )

戦後 の1

952

( 昭和27)年 に再開 された北洋でのサケ ・マス漁業 は,新 たに北太平洋のア リュー シ ャン海域 を中心 とす る公海での周辺各国 との漁業協定 に基づ く母船式漁業 に限定 された。 また,政 府か らの漁業許可 は,戦前の ような母船 に対 してで はな く,独航船 との共同出願 に限 って与 えられ るようになった。後 には, さらに両者が分 けられて別々に許可 された。 この ような許可制度の改革 に加 えて,漁船 の大型化や レーダーの利用な ど漁業技術 の向上が進 み,再開後 の数年で早 くも漁獲 高が戦前の水準 を上回 る活況 を見せた。 それ とともに, 日魯漁業 による北洋漁業での優位 の回復が 関係者 の間で は予想 された。 だが,1

956

年 になる とソビェ トがサケ ・マスの沖取 りを規制す る政策 を打 ち出 し, その後 の 日ソ漁業交渉 な どで 日本側が漁獲量の削減 を順次余儀 な くされた。 そのため に, 日魯漁業な どで は,敗戦直後 と同様 に 「 北洋か らの転進」 を再 び戦略的課題 とせざるを得 な く なった

i9)1977

年か らは新 たに沿岸2

00

カイ リ経済水域時代 が到来 し, 日本 の北洋 での母船式工船 サ ケ ・マス漁業 は,前述 のように1

991

年 を以てひ とまず 「 歴史」 に幕 を下 ろしたのである

(3

)函館港 と北洋漁業

明治時代 の初期 まで 「 箱館」と記 された函館 は,既 に徳川時代 か ら船舶 の停泊が簡単 ・ 安全 な 「 綱 知 らず」の港 として知 られてお り,幕末 に寄港 したアメ リカの東 イン ド艦隊司令長官のペ リー も「 世 界最良の港 の一つ」 と評 していた。1

854

( 安政元)年 に徳川幕府がアメ リカ,イギ リス, ロシア と 締結 した和親条約 によって,函館 は下 田や長崎 とともに外国船への石炭や水 ・食料 を補給す る 「 開 港場」 に指定 され,1

859

年 にはフランスやオランダ も加 えての交易が許可 された . u O )

開港 とともに,函館 にはイギ リスやアメ リカ, ロシアな ど各国の領事館が設置 された。領事 の駐 在 は1

87

1 ( 明治

4

)年 までに1

4

か国 を数 えた。但 し,第三国の領事 に業務 を委託 した国 もあったの で,領事 の実数 はやや少 なかった。1

869

年 には政府 の開拓使 出張所が設置 され,1

87

1 年 に本庁が札 幌 に開設 され るまで,実質的な北海道開拓 の政治的拠点 として機能 した。 また,税関や郵便役所, 裁判所,電信局 な どの諸施設が早 くか ら整備 されて,東北地方以北 にお ける最大 の港湾商業都市 と

もなったのである . u 山

開港後 の函館 は,横浜 な ど他 の開港場 に比べ ると外国 との交易が はるかに少 なかった ものの,中

国向 け輸 出品 として北海道産 の海産物 を積 み込 むイギ リス船 な どの出入港が見 られた。1

87

1年 にア

メ リカ系のパ シフィック ・メイル ・スチームシップ ( 太平洋郵船)会社が函館一横浜間に定期航路

を開設 したのに続 き

,1874

年末 に郵便蒸気三菱会社 も同航路 に参入 し,翌年 に支店 を設置

(1885

(5)

に日本郵船支店へ業務 を引 き継 ぐ) した。 また,1

873

年 には開拓使が青函定期航路 を開設 した。 そ の結果,函館港 は北 日本 の汽船海運 における最 も重要な拠点港 となった。第

1

表 の ように1

880

年代 か らは大型汽船 な どの出入港 も増 えたが, その一方で大型船 の接岸で きる埠頭 な どがな く,水深の 不足か ら沖合 に停泊 した船舶 か らの好 による荷役が次第 に編棒化するな ど,近代的な商業貿易港 と しての機能や施設 の不備が間 もな く表面化 した。 そのため,1

891

年か ら対岸 の青森側で 日本鉄道 の 路線 に接続 した青函連絡航路 の盛況化 を別 にす る と,札幌 の外港 としての小樽 の新 たな台頭 もあ り, 函館 の単 なる寄港地への転落が早 くよ り危供 され るようになったのである ㌘ )

1

表 函館港 における船舶の出入 り状況

年次 日 本 型 帆 船 汽 船 西 洋 型 帆 船

1877

不詳

石数 197 ン数 18.6 ン数

1878 5,288 452,971 383 133,293 309 1879 1,902 176 159

1880 5,192 465 169,832 508 37,435

1881 3,992 423 1237,70,958573 558 43,080 1882 2,407 729 642

1883 2,277 394,466 900 606 39,373 1884 3,965 371,945 1,229 353,944 498 32,332 1885 3,521 347,699 1,447 488,871 528 37,084

別掲 F函館海運史』261‑262頁 より作成。

しか し,函館 の商業貿易港 としての整備 は今 日に至 るまで遅々 として進 まなか ったのが実情であ った。1

883

年 の内務省技師モル トルによる港湾調査 を最初 の契機 として港 内の汝漠工事 な どが着手 された ものの,間 もな く北海道庁

(1886

年設置)が港湾整備 の重点 を小樽港へ移 したので,地元の 商人 な どの民間主体 による改良工事が中心 となった。 そのために, ともすれば資金面 な どでの制約 を免れず, また湾内における海底 の地質的難点 も工事 を技術的 に難 し くした。函館 における港湾整 備 の主眼 は

,1900

年代 になる と専 ら青函連絡船 の接岸施設 の建設 におかれてい くようになった

.03)

この ように天然 の良港 とはいえ,函館 の近代的な商業貿易港 としての整備が遅れてい く中で,北 海道 と道外 との国内移出入物品の総額 における同港 の取 り扱 いシェアは

,1886

年 の5

9

パーセ ン トか ら

1905

年の3

2

パーセ ン トまで順次低下 し,逆 に小樽港が同 じ期間に1

2

パーセ ン トか ら

45

パーセ ン ト へ とシェアを高 めた。但 し,品 目別 に見 る と,函館 の場合,移 出海産物 の北海道全体 でのシェアは,

1888

年の2

2

パーセ ン トか ら1

903

年の4

0

パーセ ン トへ とむ しろ高 まっている . 0 4この海産物移 出の増加

は,旧来か らの道南沿岸での漁獲動向を反映 した もので はな く

,1890

年代 にロシア領であった樺太

な どか らの塩蔵サケ ・マスやニ シン肥料 な どの輸入が増加 し, それが全国へ再移 出 されたためであ

(6)

る。 その結果,函館 は 「 北洋」海産物 の集散地 として知 られ るようにな り,多数 の有力 な海産物商 が本州か ら進出 した者 を含 めて輩出 し,彼 らの中には自ら漁場経営 にまで乗 り出す者 もいたのであ る

.

0 5 )

この ように函館が北 日本 における海産物集散地 として独 自の地位 を築 いていったのは,徳川時代 以来 の北前船 の寄港地 として, またロシアのアムール川の河 口にあるニ コラエ フスクな どか らの買 魚輸入が1

878

年 よ り行われていただけでな く,当時既 に買魚 を含 めてロシア領漁業 に出漁 していた 少 なか らぬ日本人漁業者 に とって,漁夫の雇入れや仕込み物資 の調達,漁獲物 の集荷や移 出, また ロシアへの渡航手続 きや漁場情報 の入手 な どに利便 の地であったか らに他 な らない。 ロシア領沿岸 にまで出漁 した日本人漁業者 には本州 日本海側 の出身者, なかで も旧 ・北前船関係者が多か った と 言われているが,函館在住者 も少 な くなかったようである。雇入れ られた漁夫の多 くも,青函連絡 航路 を経 て函館 に集結 した東北地方か らの出稼 ぎ者であった。 また,函館で は出漁 に必要な資材や 食料 の本州か らの大量 ・迅速 な調達が比較的容易であ り,後年 には市 内に漁網工業や修造船工業 も 勃興 して くるようになった。 さらに,港 内での荷役請負業や腔業 だけでな く, ロシア領 内の漁場 と の間 を結ぶ小型汽船 を中心 とした 「 社外船」 による不定期海運業 も発達 して,出漁資材や漁獲物 の 搬 出入 ( 輸 出入) , それ に集荷 した漁獲物 の本州市場への移 出な ども容易であった。勿論,函館 のロ

シア領事館が ロシア領への出漁や出航 に際 しての航海証明書や査証 を発給 した o u 6 )

既述 の ように,1

899

年か らロシア政府が 自国領 内での 日本人漁業 に対 す る規制 に乗 り出す と, 日 本 の北洋漁業 は, ロシア領 内で も未 だ漁場 として開拓 されていなか ったカムチ ャツカ半島での沿岸 サケ ・マス漁へ新 たに重点 を移 してい くようになった。 その際 に も函館が従来以上 に 「 策源地」 と しての役割 を果 た したのである。 日本人漁業者 によるカムチャツカ半島でのロシア人漁業者か らの

「 買魚」 もし くは 「 製魚」契約の形式 を取 った実質的な借 区漁業 は1

899

年 に始 ま り,翌年 にはロシ ア人側が直接雇用 した者 も含 めて早 くも

2300

余名 の 日本人が出漁 した。現地 で漁獲 ・塩蔵処理 され たサケ ・マスの大部分 も函館 に輸入 された . u 乃その後, 日露戦争 を経 て樺太南部が 日本 の領土 になる と,樺太か らの漁獲物 について は,小樽港への集荷が徐々 に増 えた。 そ こで,小樽 の函館 に比 して の将来的な有利性 が指摘 された りもしたが,北洋漁業の中心がオホーツク海東側 のカムチ ャツカ半 島沿岸 に移動 してか らも,函館 の北洋漁業 における拠点港 としての優位 には大 きな変化がなかった。

ちなみに,1

91

1 年のカムチ ャツカ半島 にお ける日本人漁区22

3

カ所 の内で1

78

カ所,同 じ く出漁船4

90

隻 の内で3

09

隻,出漁者

1

2600

人 の内で7

600

人が函館 を拠点 として出漁 していた i l の

ところで, カムチ ャツカ方面 を新 たな中心 とした 日露戦争後 のロシア領漁業 において, 日本人漁

業者 としてやがて頭角 を現 して くるのが堤商会,‑井組,輸 出食品な どの各企業 であった。堤清六

が平塚常次郎 と共同で ロシア領漁業へ本格的 に進出す る目的で1

906

年 に設立 した堤商会 は, 当初 に

は堤 の出身地 であった新潟 を拠点 として函館経 由で買漁 に取 り組 んだ。 しか し,買い付 けた紅サケ

(7)

の塩蔵品 は,国内市場 において不評 であった。 そ こで,平塚 の意見 によ り缶詰での ヨーロッパ輸出 が 目論 まれ

,1910

年 に建設 したカムチャツカ半島の工場 で未 だ手作業 なが らサケ ・マス缶詰 を製造

し, その際 に融資 を受 けたイギ リス系の在 日外商 ・セール ・フレーザー商会 を通 じて輸 出を始 めた。

この缶詰輸 出 こそが堤商会 の台頭 を もた らす原点 になったのである。 それ とともに事業拠点 は平塚 の出身地である函館 に移 された。 また,

1913

( 大正

2

)年 にはアメ リカン ・キャン社 よ りの製缶 と 缶詰巻締 め自動機械 の導入 に成功 し,国内で最初 のサニタ リー ・カン ( 衛生缶)製造 を開始 した。

1915

年 には函館 に製缶工場 を新設 し,空缶 の製造 ・供給拠点 とした。か くて,堤商会 はカムチャツ カ半島でのサケ ・マス漁業 をヨーロッパ向け缶詰工業 と統合す る独 自の企業戦略 を とって成功 し, 第一次世界大戦期 までにロシア領漁業 の最有力企業 となったのである . u g )

‑井組 は,山口県の トロール漁業者であった田村一郎 な どによ り

191

1 年 に設立 された.本店 は神 戸 にあったが,函館 を事業拠点 として樺太でのニ シン漁業,次 いでカムチャツカ半島でのサケ ・マ ス漁業 に進出 し,堤商会 に追随 して ヨー ロッパ向け缶詰 の製造 に取 り組 んだ

。1914

年 には( 旧)日魯 漁業へ と改組 され,本社 を函館 に移 した後,田村 による持株 の売却 と島徳蔵 な ど関西の株式業者 に よる支配 を経 て,

1920

年 に堤清六の傘下へ入 った。 また,輸 出食品 は山梨県出身の実業家であった 小野金六 な どが

1912

年 に設立 し,や は りカムチャツカ半島で ヨーロッパ向けサケ ・マス缶詰 の製造 を行 った。東京 に本社 を設 けたが,前述 した堤商会 の函館製缶工場 か ら空缶の供給 を受 けてお り, 函館 の出張所が国内の事業拠点 として実質的に機能 したように思われ る . A )

この他 に, ロシア領漁業 の有力企業 として, ロシア系のデンビー商会があった。在 日ロシア人 の アル フレッ ド ・デンビー ( 父 はイギ リス人,母が 日本人)の経営 した同商会 は

,1900

年 にロシア領 漁業へ進 出 し, 日露戦争後 には最有力 のロシア系企業 としてカムチャツカ半島で沿岸漁業 を行 った。

漁 区獲得 におけるロシア系企業 としての有利 に加 えて

,1910

年 よ り開始 した缶詰製造 において も優 秀 な技術 で堤商会 な どの 日本企業 を当初 には圧倒 した。 その缶詰製造高 は,第

2

表 のように

1917

年 まで徐々 に差 をつめ られなが らも日本企業 を終始上回った。 ロシアのウラジオス トックを事業拠点 に, またカムチ ャツカ半島東岸 のウスチカムチ ャックを漁業拠点 としたが,函館 に も支店 を設置 し て, 日本市場への漁獲物 の売 り込 みや 日本人漁夫の募集 にあた らせていた

i2

だが, デ ンビー商会 は

1917

年のロシア革命 によ りロシア領 内に所有す る資産 を順次没収 された。

そ こで,未 だ没収 の及 ばなかったカムチ ャツカ半島での借 区漁業権 を日本商社 との合弁事業 に再編 し,国際法 に準拠す る事業 として確保 ・継続すべ く,当時の有力 な 日本商社であった鈴木商店 の函 館出張所 や三菱合資会社営業部 ( 三菱商事 の前身)の小樽支店 と相次 いで交渉 に入 った。 その結果, 先 に話 を煮詰 めた三菱合資が同年 に北洋漁業㈱ を創立 して,現物出資 の形でデンビー商会 の残存資 産や事業 を全て継承 したのである ㌘ )

ところで, この ようなデ ンビー商会 の没落 と日本企業への再編 を横 目に,堤清六 は

1920

年 に堤商

(8)

第 2 表 北洋漁業 における缶詰製造高上位企業

年度 第

1

位 第

2

1910 9,200

由 ( デンビー)

704

由 ( 堤 商 会)

1911 18,764

( デ ンビー)

3,532

( 堤 商 会)

1912 24,170

( デンビー)

8,211

( 輸 出食品)

1913 54,322

( デンビー)

28,561

( 堤 商 会)

1914 55,000

( デ ンビー)

20,444

( 輸 出食品)

1915 105,000

( デ ンビー)

47,249

( 堤 商 会)

1916 137,109

( デンビー)

123,986

( 堤 商 会)

別掲 F北洋漁業 の経営史的研究』62頁 よ り作成。原資料 は日魯漁業編 F弄領漁業沿 革史』第2, 3編。

会 と輸 出食品 を先ず合同 した後, さらに翌1

921

年 に勘察加漁業 と( 旧)目魯漁業 とも合同 して,新 た にソビェ ト領漁業 におけるサケ ・マス缶詰製造高の7

0

パーセ ン ト近 くを占める( 新)目魯漁業 を発足 させた。彼 は, その際 に函館 よ りもカムチャツカ半島 に一層近 い小樽へ事業拠点 を移転 させ る構想 を持 っていた ようであるが, この合同に参加 した企業 の一部 に反対があって結局断念 した と言われ ている。但 し,小樽 には前年 に焼失 した函館 の製缶工場 に代わ るもの として,道内での農産物缶詰 用の需要 も見込 んで北海製缶倉庫㈱ を新 たに設立 した。 また, ソビェ ト政権発足後 の 日魯漁業 によ るロシアエソビェ ト領漁業 の継続 には, 日本政府 の対 ソビェ ト外交 との連携が一層必要 と判断 した ため と思われ るが,本社 を函館 か ら東京 に移 した。事実, ロシア革命以降における日本の ソビェ ト 領漁業 に とって, 日本政府 の政治的,軍事的な後 ろ盾が不可欠 になっていた。 ( 節)日魯漁業 の発足

ち, ソビエ ト領漁業 における日本企業間の競合 を懸念 した日本政府 の意向が少なか らず反映 されて いた。政府 は,同社 の発足 した1

921

年の 日本漁船 によるソビエ ト領漁業への出漁 に際 して は, 日本 海軍 の軍艦 を派遣 ・同行 させて, ソビエ ト側 を威圧 した。 ちなみに,堤清六 も

1917

年 よ り自ら政友 会系の政界活動 に関与 し,函館 の市会議員 を経験 した後,1

924

年か ら衆議院議員 として国政 に直接 関わ るようになった ㌘ )

日魯漁業 は,その後1

924

年 に前述 した三菱系の北洋漁業㈱ を前身 とす る大北漁業 も買収 し, ソビ

エ ト領漁業 における実質的な独 占化 を達成す るとともに,国内市場で従来人気のなか った夏物 のサ

ケを薄塩で冷蔵 ・保管 し,人気のある秋物 と同様 の 「 改良新巻 きサケ」 と称 して売 り出 し,東京な

どの大都市市場 で好評 を得 た。新製品 としての新巻 きの加工 ・輸送 ・保管 には,一部の業者が既 に

試行 していた冷温管理が必要不可欠なために,1

927

年か ら冷凍 ・冷蔵運搬船 の所有や増備 をすすめ

た。 また,国鉄 に冷蔵貨車 の増借 を要請 したほか,函館や東京,青森 な ど各地 に相次 いで自社 の冷

蔵倉庫 な どを設 けるとともに,国内の有力販売業者 にも冷蔵庫 の設置 を働 きかけた。 その結果,や

(9)

がて函館 を流通拠点 にした自社専属の卸売 りルー トが九州や四国な どを除 く全国各地 に拡がったの である。 ちなみに,九州な どで は未 だ塩蔵サケ ・マスの食用に馴染みがなかったので,流通ルー ト 形成の対象地 とならなかった . C 4

ところで, 日魯漁業で は, このようにソビェ ト領漁業 において圧倒的優位 を確保 していった もの の

,1920

年代後半か ら他の日本人漁業者が ソビエ ト領沖合 の 「 公海」 における母船式サケ ・マス沖 取工船漁業 に取組み始めると,少なかぬ脅威 を感 じるようになった。そ こで

,1930

年 に母船式沖取 り漁業へ も進出 し, その本格化 のために前述のごとく太平洋漁業㈱ を翌

1931

年に設立 した。だが, この沖取 り漁業の発展 は, それ まで 日魯漁業が主力 をおいて きた ソビエ ト領 内での沿岸漁業が漁獲 の対象 とす るサケ ・マスの公海 における先取 り化 につなが り,沿岸での漁獲高 を大 きく減少 させた。

そこで,同社では, 自社 によるソビェ ト領漁業 との共存 をめざして,太平洋漁業への他の沖取漁業 者の合同 と統制化 をやがて構想するようにな り, 日本政府の支援 を得て

1935

年に合同を実現 した。

また

,1934

年設立の幌延水産㈱ によって, 日本領 の北千島におけるサケ ・マス漁業 にも進出 したの である . 6 )

太平洋漁業 と幌延水産 の

2

社 は, ともに本社 を函館 に設置 した。そこで,函館 は新たに母船式工 船漁業や北千島漁業の拠点 ともなった。ちなみに,太平洋漁業で は,各年度 に大体

6‑10

船団を編 成 して出漁 した。各船団 は塩蔵 と缶詰製造設備 を持つ総 トン数

3000‑5000

トン級の母船 を中心 とし て

,1500

トン級の塩蔵 または冷凍船,売魚契約の もとで出漁す るほ とん どが個人所有で

12

名位 の乗

り込む

25‑30

トン級の流網独航漁船

40‑55

隻,それ と運搬船や調査船な どで構成 されていた。 また, 日魯漁業 も既述 のように本社 を東京 に移 したが,函館 には同社系列の造船工場や機械製作工場,製 網工場,冷蔵施設,研究所, さらに同社専属の塩蔵魚元卸売商が結成 した日魯組 ( 函館水産販売の 前身)な どがあ り,同社以外の漁業 ・海運関係各社の本社 ・本店や支店 ・出張所,工場 な ども多数 蛸集 していた. C 6 ) そのため,「 函館の景気 は浜か ら来 る」 とか,「日魯漁業・ ・ ・ ・ ・ ・( 中略)・ ・ ‑・ の存在 こ そは函館市の誇 りであるJ mとまで言われ るようになったのである.

か くして,函館 は,青函鉄道連絡船 による貨車航送 の開始 とともに本州 と北海道 を結ぶ貨客の単 なる通過地 になった後 も, 日魯漁業 を中心 とした北洋漁業の隆盛 に支 えられて,北 日本有数の一大 港湾都市 として発展 した。だが, その日魯漁業 を中心 とした北洋漁業への依存 による市勢の発展 は 同時に新 たな問題 を生み出 した。 日魯漁業の台頭 は,函館 における同社の取引業者 と非取引業者 と の間にやがて大 きな営業上の格差 と対立 をもたらし,市民の間にも日魯漁業への批判的な感情 を生 むようになった。そのひ とつの現れが

1936

年 における北千島漁業行政権 の農林省への移管化 に反対 した市民運動であった。函館市民の中にも, それが 日魯漁業 を中心 とす る一層の漁業統制 につなが るもの との反対意見が強 く,農林省 も移管 を結局断念 した . C & )

ところで,函館港で は北洋漁業の拠点 として出漁船の増加が見 られた ものの,北海道沿岸の漁業

(10)

3

表 函館港貿易額の推移

単位 :1000

1872 8

1

,112 339 548 1877 15 483

1882 7 505 1887 50 735 1892 115 826 1897 1,176 1,659

1902 2,795 2,343 2,006 781 1907 673 2,172 2,269 1,177 1912 354 4,095 2,702 2,800 1917 1,037 5,036 6,437 5,235 1922 3,276 13,887 5,735 9,132 1927 7,813 12,796 6,621 8,045 1932 4,431 5,945 2,672 12,012 1937 2,650 15,163 33,510 6,062

別掲 F函館市誌』541‑544貢。函館税関編 F函館税関沿革略史』同

,1952

,141‑146,192

貢より作成。但し横の点線は不明,実線は 無しである。また

,1892

年以前の漁業関係は一般貿易額に含まれる。

拠点 として新 たに釧路港や根室港 も台頭 して くるようになった。 ま た,函館で は缶詰工業 を含めて陸 上 における海産物加工業の取組 み が未 だ立 ち遅れていたので,北洋 か らの漁獲物 を輸送船 にて本州の 大消費地や加工地へ直接搬送 した り,青函連絡船 による貨車航送 の 手間や時間 を節約 し,直 ちに鉄道 貨車 による本州市場 向けの出荷が 可能 な青森港へ陸揚 げす る例が次 第 に増 えていった。 さらに,第

3

表 に示 され るような函館 の貿易港

としての隆盛 も, その中心 となる 漁業貿易で は輸 出が出漁 を,輸入 が漁獲物 の搬入 を意味 したので, 一般の貿易 のような国際的貸借 を 伴わず,外国為替業の発達 な どに 結びつかなか った。 しか も,多数 の独航漁船が集結す る港の繁忙化 は,かえって商業貿易港 としての整備 をないが しろにさせたようで,結局,第二次世界大戦後 の今 日まで最大

1

万5

000

トン級 までの船舶が着岸限度 の埠頭 をもつに止 まり, それ以上の規模 の埠頭 を 未だ欠 くな ど施設 の不備が残 る結果 となったのである . C 9 )

函館 は,第二次世界大戦期の戟局悪化で北洋漁業が困難 になると,「 策源地」としての役割 を喪失

し,戦後 の

1952

( 昭和

27)

年 に北洋漁業が再開 され るまで経済的な衰退 を余儀 な くされた。 日魯漁

業 も

,1943

年 に太平洋漁業や北千島水産 ( 幌延水産 の後身) を合併 して戦時 に対応 したが,敗戦 で

北洋 の漁場 や資産 をソビェ トに没収 され,戦後 になると北海道 の沿岸漁業 な どに生 き残 りの策 を一

旦求 めていかざるを得 な くなった。それで も戦後再 び北洋漁業が再開 され ると,函館 は, 日魯漁業

な どが再 び編成 した船団の出漁拠点あるいは集結地 として活況 を取 り戻 した

。1958

年 に全国で調達

された北洋関係 の漁業資材や漁網,食料品,噂好品な どの物資総額 である

58

億 円余 の内

,52

パ ー セ

ン トが函館 にての ものであった禦)しか し, その一方で,北洋か らの漁獲物 のほ とん どはもはや函館

で はな く,主 として東京 に, また一部が青森 な ど本州の消費地 に近 い港へ直接陸揚 げされ るように

(11)

なった。 この ように函館港への搬送 ・陸揚 げが戦後 に大幅 な減少 を見せ たのは,本州への再移 出に 要す る運賃や労力 の負担 による不利 な どに加 えて,戦後 の函館海産物市場が北海道南部 のイカ漁 と の結 び付 きを強 めて,高額化 していたサケ ・マス取引に消極的であったため とも言われている i 3 カそ

の結果,函館港 は北洋漁業への出漁 に際 しての集結港 としてのみ活況 を見せ るに止 ま り,やがて邦 漁 を含む 「 万歳基地」の異名 をとるまでになったのである。

だが,1

992

年 に日本 の北洋での母船式工船サケ ・マス漁業がひ とまず終寓 を迎 えるために, この 異名 もやがて人々の口か ら消 え去 ることが明 らかである。 また, それ に先立 って青函鉄道連絡船 も 廃航 され,今 日の函館港 は未 だ本格的な商業貿易港湾 としての整備がなされない ままに,専 ら青函 連絡 自動車 フェ リー港 として, また新 たな市内観光エ リア としての役割 を担 っているが, フェリー 港 としては本州 を結ぶ北海道各地の長距離 フェ リー港 との競合 に晒 されているのが現状 である。

(4

)青森港 と北洋漁業

17

世紀 に津軽藩の 「 外港」 として開かれた青森の港 は

,1860

年代 に至 るまで 日本海航路 の北前船 が年 に数回なが ら出入港 したほか,津軽半島の三厩や下北半島の佐井 ・大間 とともに蝦夷地 ( 北海 道)への渡海 の 「 津」で もあった。明治新政府の北海道開拓使が1

873

( 明治

6

)年 に青森一函館間 で

1

カ月

3

往復 の青函海上連絡航路 を開設 して以来,同港 は,横浜 との直行航路 な どを もつ対岸の 函館港 に比べ る と格段 に遜色があった ものの,本州 と北海道 を結ぶ要港 となった。特 に日本鉄道会 社が1

891

( 明治24

)年 に青森一束京間の路線 (

後の東北本線) を全通 させ ると, それ まで徒歩で20

日位,馬車で1

2

日,最 も早 い函館経 由の汽船乗 り継 ぎで も4‑ 5 日以上 を要 していた青森一束京間 が早 い列車 になる と僅か27 時間弱 ( その後1

906

年 までに1

9

時間台へ短縮)で結 ばれ るようになった ㌘ )

また,鉄道 は貨客 の輸送 における迅速化だけでな く,大量化や正確化な どをもた らした。そ こで, 青森 には鉄道 と青函連絡航路 との中継や乗 り継 ぎを求めて,多数の貨客が新 たに集中す るようにな ったのである。

この ようにして,青森 は東北本線,次 いで1

905

年の奥羽本線 な どの全通化 とともに,本州 と北海 道 を結ぶ新 しい主要な輸送連絡ルー トにおける陸 ・海 の重要な中継 ・乗 り継 ぎ地 となった。但 し, 青森港で は

,1924

( 大正1

3)年 の岸壁竣工 まで連絡船が接岸で きず,沖合 に停泊 して桟橋 との間で

腔 な どが貨客 を中継輸送 しなければな らなかった。 また,港 の桟橋 と鉄道駅 の間 も当初 2 キロほ ど 離れてお り,中継 ・乗 り継 ぎの貨客 は馬車や徒歩 による連絡 ・移動が必要であった。 そのために, 好や馬車 な どの運輸業, さらに貨客の錯綜 を目当て として各種 の商業 ・サー ビス業が発達 した。東 北各地か ら米穀 や藁工品な どを集荷 し,北海道向けに発送す る中継商業 も併せて発達 を見せた。

しか し,青森港で は, その後1

898

年 に桟橋 と鉄道駅が隣接化 され,次 いで連絡船 の接岸埠頭が竣

工 して1

924

年か ら連絡船 による貨車 の航送が開始 される と,貨客 の中継 ・乗 り継 ぎが大幅 に簡便化

(12)

し,従来 の中継業務 の多 くが不要 となった。 その結果,青森 を単 に通過 して本州 の各地 と北海道 を 結ぶ貨客の直行化が進 み, それ まで貨客の中継 と乗 り継 ぎの不便 に依存 しなが ら繁栄 して きた市内 の運輸業や商業 ・サー ビス業が少なか らぬ打撃 を受 けた。 また,北海道向 けに物資 を集荷 していた 商人 も,各地の産地か らの直送化 によって衰退 を余儀 な くされた。 したが って,青森の場合 も,前 述 した函館 と同様 に港湾都市 としての歴史的な市勢の発展 を単 に青函航路 の隆盛 によってのみ理解 す ることは妥当でない。端的 に言 えば,青函鉄道連絡航路 を介 しての本州 と北海道 との輸送連絡ル ー トの上で,青森 と函館 は, ともにやがて主要 な通過地 のひ とつになったのである i n )

このように,青函鉄道連絡航路 の存在が青森 の港湾都市 としての歴史的な発展 にはた した経済的 な役割 は,時代 とともに変容 を見せた。 この青函航路 よりもやがて大 きな意義 をもって くるのが, 青森 を本州 における北 の起点 とした東北本線や羽越本線

(1924

年 に大阪 まで全通)な どの鉄道幹線 網 の完成 と, それに本州市場への大量かつ迅速 な輸送 の利便 を新 たに求 めた北洋漁業 の発展であっ た。青森か らの鉄道 による海産物 の輸送 は,鉄道の開通後 に先ず東北地方の各地向けで始 まった。

当初 は塩干魚が主であったが,やがて鉄道 の もつ迅速性 を利用 しての鮮魚輸送が増加 した

。1893

年 の夏期 に雪詰 めの普通貨車 による東京 までの初 めての鮮魚輸送が一応 の成果 を上 げた後,氷詰 めの 貨車 による鮮 魚の長距離輸送が次第 に増 えた

。1908

年か らは専用の冷蔵貨車 も登場 したi 3 4

輸送 された鮮魚 は,当初 には青森 の近海物が多か ったようであるが,やがて次第 に北海道 な どか ら青森港へ陸揚 げされ る鮮魚が増 えた。北海道や北洋か らの塩干魚 は,大部分が函館 に陸揚 げされ て,そこか ら本州市場 な どへ再度移 出され るに際 し,「 鮮魚の如 く輸送の速度 を揮むの要な く,在来 の習慣 によりて海運 に依 る もの」が多かった。 だが,鮮魚になる と 「内地 に送付す るに普 りては, 縫送 の関係上概 して之 を青森 に送 り,同地 より鉄道 にて輸送せ らる 、」 ようになった

.05)

また

,1900

年 に青森一室蘭間の海上定期航路が函館経 由を中止 して直行化 され ると,新 たに青森へ室蘭沿岸 の 雑鮮魚が魚肥 も含 めて多量 に搬送 され始 めた。 その他,青森 の海産物商が函館で 自ら買い付 け, 自 己所有 の運搬船で青森 に搬入 して くる例 も少な くなかった。 これ らの鮮魚 は青森 の ( 安方)魚貝市 場 にて相対売買 された後,仲買商 の手 を経 て鉄道貨車 によ り東北地方 を中心 とした本州内の消費市 場 に出荷 された。 その結果,青森 はやがて山口県の下関な どに次 ぐ国内有数 の鮮魚集散地 になった

のである. C n )

ところで,青森で も,一部の商人が既 に

1870

年頃か ら樺太や千島な どで漁場 の開拓や買い付 け漁 業 を行 なっていたが, いずれ も不漁や海難 な どか ら中途での挫折 を余儀 な くされていた。 それで も

日露戦争後 になると,再 び樺太やカムチ ャツカな どで漁 区漁業や買漁 に取 り組 む者が現れた。彼 ら

のほ とん どは,当時の日本人漁業者 と同 じ く函館 を出漁 の拠点 とした ようであるが,漁獲 した塩蔵

サケ ・マスな どの一部 を青森で も売 り捌 いたO また

,1900

年頃か ら青森 を拠点 として近海 での氷蔵

船 によるマグロの買漁が盛 んになると, それ らの氷蔵船がやがて北洋へ も買い付 け ・積 み取 り船 と

(13)

して出向 くようになった。山口県の漁業者であった林兼商店 ( 大洋漁業 の前身) も

1910

年か ら青森 港 を拠点 として,北洋 における買漁 に進 出 した。末 だ輸入品 目の制限付 きなが ら

1906

年 に貿易港 と

しての指定 を受 けていた青森港での北洋 か らの漁獲物 の輸移入 は, 「 季節的 に繁閑」が あった もの の,先ず春 に朝鮮やロシアのウラジオス トク,次 いで北海道や樺太か らニ シンとホ ッケ,夏 にはカ ムチ ャツカか ら漁場 を順次南下 させつつマスが,秋 にはロシア ・アムール川 の河 口にあるニ コラエ フスクか らや は り順次南下 させつつサケが陸揚 げされた。 また,冬が近づ くと陸奥湾 のタラが搬入 された

。1919

( 大正

8

)年の場合,数量で はニ シン, タラ,マス,サケ,価額 で はタラ,サケ,マ ス,ニ シンの順 に多かった。その内,上位

4

品 目の価額合計 だけで約

765

万 円に達 し,同年の青森県 内の水産価額 の合計 よ りも多かった。 また,氷蔵船 の増加 とともに,塩蔵品 よ りも鮮魚の搬入が一 段 と増 えた

。1920

年頃 には, ロシア領漁場 な どか らの輸入運搬船 ( 平均

400

トン)だけで年間

300

隻 が入港 し,盛漁期 には

1

日に

10

隻 を上回った と言われている . O O

青森港 における貿易額 の推移 を示す第 4表 によると,既 に見た第 3表 の函館港 ほ どで はない もの の,青森港で も

1920

年代 の前後 になる と漁業関係 の輸入が大 き く伸 びている

また,青森港 におけ る鮮魚の集散状況 を

1927

年 について見 ると,搬入 された

7.2

万 トンの内

,93

パーセ ン トが北海道や北 洋方面か らの運搬船 によるもので,残 りが鉄道便 による青函航路経 由であった。他方,発送 された

3.8

万 トンの内

,99

パーセ ン トが鉄道便 による東京方面向けな どであった。塩干魚 について も,主 に 運搬船が搬入 し,鉄道で発送す るのが大勢であ り,搬入が4. 4 万 トン,発送が 3万 トンであった . O O

4

表 青森港貿易額 の推移

単位 :

1000

年次 輸 入 輸 出

一 般 漁業関係 一 般 漁業関係

1907 492 16 340

1912 643 35 71 1 1917 168 2 44 5 1922 2,110 2,153 115 143 1927 7,396 2,681 1,090 3 1932 4,301 2,569

1937 5,052 5,242 1942 1

1947 8 2

1952 112 1955 25

別掲 F青森市誌』第3巻 ・港湾編 (下)189‑190貢 より作成o

か くて,青森港 は,函館港 の よ うな北洋漁業 の一大出漁拠点 には なれなかった ものの,本州各地の 消費市場 に連絡す る鉄道 の北東北 にお ける起点であったために, ロ シアエソビェ ト領漁場か らの輸入 を含 めて北洋や北海道か らの鮮魚 が大量かつ迅速 な輸送の利便 を求 めて陸揚 げされ るようになった。

その結果,青森 の臨港地 区には倉

庫業や製氷業 ・冷蔵業 な どが発達

した。 また,北洋 な どか ら陸揚 げ

され るサケ ・マスの鮮魚 を原材料

として

,1910

年代後半か ら陸上で

の缶詰工業が発達 した。青森で は,

(14)

末 だ小規模 な工場 での手作業 によるハ ンダ付 け法 なが ら,既 に

1890

年代か らマルメロな どの農産果 実,次 いで

1900

年代か ら近海 のマグロな どを原材料 にして缶詰製造が始 まっていた

。1914

年か らは 陸奥湾で漁獲 されたイワシの油漬 け缶詰 も製造 されたが,やがて北洋か らサケ ・マスな どの鮮魚が 大量 に陸揚 げされ ると,輸送 の手配 な どに手間取 って鮮度 の落 ちた劣等品や夏期 の廉価品な どを原 材料 にしてサケ ・マス缶詰 の製造が行われ るようになった。但 し,当初 には原材料 の不良な どか ら 粗悪な 「 三等品」 として鮮魚の不足がちな本州の山間地へ主 に売 り捌かれた。 だが

,1920

年 に根市 兼次郎商店 の工場 な どが缶詰巻締 め機械 を導入 し, また鮮度の良い原材料 を用 いるようになる と, カムチャッカ半島の工場 で製造 された 日魯漁業の 「 一等品」 にほぼ並ぶ高品質 の ものが製造 され る までになったo C B )

5

表 の ように, 日魯漁業の青森業者 に比 してのサケ ・マス缶詰製造 にお ける量的な優位 は明 ら かな ものの,青森 の缶詰工業 も

1920

年代の後半か ら製造高が伸 びている

。1926

年 には三菱系の大東 食品㈱工場 も設立 された。 また

,1924

年 に函館 の外商 を通 した初 めての ヨーロッパ輸 出を行 い,北 洋でのマス豊漁 によ り缶詰 の国内市況が悪化 したために

,1926

年か らは三井物産や三菱商事 の青森 駐在所や出張所 を介 して輸 出の拡大 をめざし,製造高の約半分 を輸 出す るまで になった。 そ こで, 外国船が青森港で輸出缶詰 を直接積 み取 る例 も増 えて

,1927

年 には

321

隻 を数 えた。それ らの外国船 は,当初 には平均

700

トン級であったが

,1937

年頃 になる と

4000

トン級が増 えて,

2

万2

000

トン船 も 数回入港 した。 この頃 には北洋か らの鮮魚運搬船 も次第 に大型化 した i n )

5

表 日魯漁業 と青森市内業者の缶詰製造高の推移

単位 :1 万箱

日 魯 漁 業 青森缶詰 ( 青森市)

1923 65.9 1.0 1.0

1926 60.8 28.3 10.2 100,6 113.5.82 113.5.28 1927 56.1 15.3 14.5 1.7 84.4 46.2

1928 80.3 38,0 12.3 130.6

1929 61.2 12,6 8.5 82.3 0.1 46.4 1930 53.7 48.9 6.2 110.5 0.3 17.3 18.2 1931 45.2 13.5 5.4 2.2 66.2 25.6 25.6 1932 44.8 71.3 4.7 1.4 122.2 1.8 10.1 ll.9 1933 31.3 35.9 2.5 0.4 70.0 2.3 16.5 18.8 1934 55.3 83.7 2.9 0.3 142.2 3.4 12.3 15.7 1935 23.0 68.0 3.7 1.1 95.8 0.1 29.3 29.4

別掲 F青森県の百年』164頁。 日魯漁業 の1914年 と1918年 は堤商会 ・輸 出食 品 ・(旧)日魯漁業 の合計 を示す。

(15)

ところで,青森 の缶詰業者 によるサケ ・マス缶詰 の輸 出 は,やがて 日魯漁業 を中心 とす る業界 の 全国的な自主統制 の もとで,一定の枠 をはめ られてい くようになった。1

929

年 に ソビエ ト領漁 区で の 日魯漁業 によるマス漁が振わなかった一方,南千島で は大漁 とな り, そ こか ら青森へ大量 のマス が搬入 されて缶詰工業の活況 を もた らした。 その結果,中小業者 を主 とした青森 でのマス缶詰製造 高が 日魯漁業 を上回って,新 たな販路 を輸出の拡大 に求 めてい くようになった。 日魯漁業で は, こ のような青森業者 による輸出拡大の動 きに危機感 を持 ったため と言われているが,業界 による自主 統制 の形式 を とりなが ら政府 な どに も働 きか けて 自社 の優位 を反映 した缶詰輸出の割 当制 を実施 さ せ,青森業者 の新 たな動 きに一定 の枠 をはめたのである。 その輸 出枠 の設定 による規制 に対 して, 青森 の業者が どのような意向や対応 を とったのかについて は十分 に定かで はないが, どち らか と言 えば中小業者 として受 け身の対応 を余儀 な くされた ようである。 その後,北洋漁業が不漁 に転 じ, また世界的な経済不況が一段 と深刻化す ると,青森 の缶詰工業 も深刻 な苦境 に見舞われて,企業合 同問題が表面化 してい くのである i J D

また,青森で は,缶詰工業のほかに,各方面 の海域か ら港 に陸揚 げされた鮫 な どを原材料 にす る 焼 ち くわ ・蒲鉾製造業 も新 たに発達 した。 それ らの製品 は,初期 には臭味 を伴 ったので一般 に不評 であったが,後 に脱臭や調味,冷凍化 な どの技術 向上 による品質 の改良が進 み,冷蔵貨車 な どにて 中京 ・関西地方な どへ大量 に売 り捌かれ るようになった。 それ とともに,缶詰業者 も缶詰 の製造が 漁期 に限 られがちであったので,新 たに焼 ち くわや蒲鉾の製造 に参入 し,冷凍保管 された原材料 を 用いて工場操業 の通年化 をめざしたのである ㌘ )

このように,青森 は青函鉄道連絡航路 の要港 として, また本州の鉄道網 における北 の起点 として, 当初 には貨客 の中継 ・乗 り継 ぎによる繁栄 を見せたが,1

924

年 に青函連絡船 の港での接岸 と貨車 の 航送が開始 され ると,対岸 の函館 とともに貨客 の単 なる通過地 に変容 を余儀 な くされた。 その際 に 函館が北洋漁業 の出漁拠点 としての繁栄 を別 に見せてい くように,青森 も北洋漁業 の鮮魚陸揚 げ地 として, また鮮魚の加工地 としての独 自な発展 を示 してい くのである。 しか し,青森港 も,函館港 と同様 に近代 的港湾 としての整備 になる と遅々 として進 まなかったのが実情 であった。青森港 は, 北 に向けて広い港 口を持つために,北や西な ど海側か らの強風 に弱 く,冬季 な どにはしば しば船舶 の出入や荷役が滞 りがちであった。 そ こで,1

890

年代か ら港湾修築 の必要が議論 されて,1

903

年か

らの青森県 による調査や計画の作成,1

907

年 の政府 による第

2

種重要港湾 としての指定 な どを経て,

1915(

大正

4

) 年 に国費補助 の もとで県 を工事主体 とした防波堤建設 な どの港湾修築 に着手 し

,1924

年 に竣工 させた。 しか し,同港で は沖合の水深がふか く, そのために陸岸 と防波堤 との間 に十分 な 距離が取れず, また工事 の中途 に鉄道省か らの委託 による青函連絡船岸壁 の新設工事が追加 された。

その結果,防波堤 内の狭隆な海面積 の 3 分 の 2 近 くが連絡船 の専用水域 となって,残 りの部分 をか

ろうじて5

00

トン程度 の鮮魚運搬船が使用出来 たに止 まった。それ以上 の大型船 になると,従来通 り

(16)

防波堤 の外 に停泊 して荷役 な どを依然行わざるをえなかった。 そ こで

,1932

年 に第

2

期 の修築工事 が着手 されて

,8000

トン級の繋船突堤岸壁 の建設 な どをめざした。 また

,1937

年 には隣接す る専用 漁港の建設 に も着工 し,別 に工業港 の建設 も計画 され るようになった。 だが, その後 の第二次世界 大戦 によって,第

2

期工事 は中途で放棄 され,漁港工事 も同 じ く打 ち切 られた。工業港 は起工 まで

にいた らなかった i 4 3 )

それだけでな く,青森港 は,大戦期 の

1943

年か ら北洋 よ りの鮮魚輸入が途絶 し,鮮魚集散拠点 と しての機能 を失い,缶詰工業 な ども衰退 を余儀 な くされた

。1945

( 昭和

20)

7

月にはアメ リカ空 軍機 の爆撃で青函連絡船や青森市内の諸施設が壊滅的打撃 を受 けた。 それで も戦後 になる と,同港 は,青函連絡航路 の中継 ・乗 り継 ぎ港 として再 び賑 わいを取 り戻 した。被災 した連絡船 の輸送能力 を上回る貨客が殺到 して,港 の周辺で は貨客 の滞留 と喧騒 を生 じた。小型機帆船 な どが貨物 の搬送 に駆 り出 されて,連絡船運航 の拡充が急務 の課題 となったのである

次 いで

,1952

年 に北洋漁業が 再開 され ると,鮮魚の陸揚 げ地 としての活況化が再 び期待 された。北洋 に出漁 した同年の

3

船 団 ・

50

隻の独航船 に も青森港か ら

1

隻 ( 他 に八戸船が

3

隻)が参加 し

,1956

年 まで に

20

隻 ( 青森県全体 で は

39

隻)へ と増 えた。 また,青森県関係者 による出資で設立 された太洋冷凍母船㈱

(1957

年 に日 魯漁業へ合同)の船 団 も出漁 した。か くて,北洋か らの積 み取 り船 によるサケ ・マス鮮魚の陸揚 げ が再 び始 ま り,缶詰工業 も息 をふ きか えした。 その間

,1954

年 の

3000

トン級岸壁 に続 いて

,1960

年 には 1万 トン級岸壁 も完成 したi W

但 し,青森港での北洋漁業か らの陸揚 げを主 とす る漁獲価額 は

,1957

年 において

30

億 円であ り, 八戸港 の

33

億 円に及 ばなかった。戦後 の北洋漁業で は,漁獲物 のほ とん どを積 み取 り船で冷凍 ・冷 蔵 した まま大消費地 の東京へ直送す るようになって,一部が青森港へ陸揚 げされ るに止 まったので ある

その上,既 に述べたようにソビェ トが

1956

年か らサケ ・マスの沖取 りを規制す る政策 を打 ち 出 し, その後 の 日ソ漁業交渉 な どで 日本側が漁獲量 の削減化 を順次余儀 な くされたので,青森港 の 北洋か らの鮮魚陸揚 げ地 としての復活 は期待 したようにはな らなかった。戦後 には, む しろ八戸港 が近海 のイカ ・サバ漁業 に加 えて,北緯

45

度以南の沖合サケ ・マス延縄漁業や沖合 ・遠洋底引網漁 業 な どの新 たな全国的拠点港 として顕著 な発展 を見せてい くようになったのである i 4 5 )

か くて,青森港 は,第二次世界大戦後 の北洋漁業 の再 開 とともに鮮魚の陸揚 げ と加工拠点 として

の復活が期待 された ものの,北洋漁業 の規制 ・縮小化 な どか ら結局断念 を余儀 な くされた。 また,

3000

トン級 と

1

万 トン級 に続 いて ,

1.5

万 トン級岸壁 も完成 させたが,衰退 した缶詰工業 な どのほか

に見 るべ き工業 も特 にな く,青函鉄道連絡航路 における函館 を運航拠点 とした連絡船 の折 り返 し地

としての役割 を専 らはた してい くようになった。 だが

,1976

年か らは貨客の減少 による青函連絡船

の減便化が始 まり

i:46)1988

年 に連絡船 の運航が廃止 され る と, 自動車用 フェ リー を除いて 「 船がいな

い ミナ 再 刀が現出 した。 こうした現状 の もとで

,1991

年 に青森県内最大 の

5

万 トン級岸壁 を完成 さ

(17)

せて,港湾 としての新 たな発展 を模索 しているのである。

(5

)むすび

青森港 と函館港 は

,1988

年 の青函鉄道 トンネル開業 まで,青函鉄道連絡航路 の拠点 としての役割 を担 って きた.青函鉄道連絡航路 は

,1970

年代後半か ら徐々に空路 や 自動車 フェ リー航路 の台頭 に よる貨客 の減少 に見舞われた ものの, それ までの 1世紀近 くにわたって本州 と北海道 を結ぶ最重要 ルー トとなって きた。津軽海峡 を挟 む青森 と函館 における市勢の発展が同航路 の存在 と深 く係わっ ていた ことは,改 めて指摘す るまで もないであろう。但 し,青森 と函館 の歴史的な繁栄 を同航路 の 隆盛か らのみ語 ることは出来 ない。既述 の ごとく

1925

年 に連絡船 の接岸化 と貨車航送が開始 されて 以来,青森 と函館 は貨客 の中継 ・乗 り継 ぎ地か ら主要な通過地へ と変容 してい くようになった。

そ こで,函館 において市勢 の一層 の発展 を もた らしたのが北洋漁業 の拠点港 としての役割であっ た。 日魯漁業 を中心 とした 日本企業 は函館で北洋への出漁 を準備 し, また漁獲物 を海路 で搬入 し, 再 び消費市場 な どへ海路 な どで移出 した。 また,青森 は,函館 のような北洋漁業への出漁の拠点 に はな らなかった ものの,本州の鉄道網 にお ける北の起点であったために,北洋か らの鮮魚の陸揚 げ 地 として新 たな市勢の発展 を見せ るようになった。 それ に付随 して両市 には各種 の漁業関連産業が 勃興 し,発達 した i 4 8 )

だが, 日本 の北洋漁業 は当初か らロシアや ソビェ トな ど近隣諸国 との複雑 な国際関係 の もとで行 われたので, そ こには政治的 リスクが少なか らず介在せ ざるを得 なかった。第二次世界大戦期 の中 断 はともか くとして,北洋漁業 は,戦前 において もロシア革命 の趨勢 な どと深 く係わ り,戦後 も日 本 とソビェ トな どとの外交関係 に大 きく左右 された。 したがって,青森や函館 と北洋漁業 との係わ りも,漁業が本来 もつ 自然界 か らの採取産業 としての生物学的制約 も加 えて,必ず しも長期安定的 な事業 とはな らなか ったが, それ を埋 めて余 りあるのが豊漁期の高収益であった

iJg)

ところで,函館港や青森港 の北洋漁業 の拠点 としての隆盛 は, それが両市 の港湾都市 としての発 展 に大 きな経済的効果 を もた らしたに も関わ らず,近代的な港湾施設 の整備 には必ず しも結 びつか なかった。両港 の修築工事 は,多 くが主 として青函鉄道連絡航路 向 けになされた といって過言で は なかった。 その結果,青函鉄道連絡航路が廃止 され, また北洋漁業が衰退 を余儀 な くされた今 日で は,両港 とも港湾 としての存在意義 までが改 めて問われているように思われ る。

(1)拙文 「 青函連絡船航路 の隆盛」

,

「 青森築港 と貨車航送の開始」 ( 小岩信竹,他共著 『 青森県の百年』山 川 出版社,1

987

,96‑100,117‑120

頁) 0

(2

)同上書

,119

頁.「 消 える青函連絡船 ‑検証 ・存廃論議(

」 (

F 朝 日新聞 ( 青森版)

』1987

10

22

日号) .

参照

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