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日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義

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Academic year: 2021

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(1)

著者 王 彩芹

雑誌名 周縁の文化交渉学シリーズ2 『天草諸島の文化交渉

研究』

ページ 91‑100

発行年 2011‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/4389

(2)

第 2 章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義

王   彩 芹

1 .グーテンべルク印刷機とは

 ドイツで誕生したグーテンベルク印刷機は、1586年に天正遣欧使節団の帰国船にその一台が乗せられ て、 4 年後、印刷機は日本に荷揚げされた。これは日本に伝来した初めての西洋式印刷機である。

 1398年、ヨハネス・ゲンスフライッシュ・グーテンベルクはドイツの古い貴族の家に生まれた。当時、

ドイツでは写本による出版を盛んに行っていたが、彼は活字印刷の発明に努力していて、金属製の鋳型1)

やそれに適する油性インクの製作に取り組んでいた。そしてライン地方で用いられた葡萄搾り機にヒン トを得て、平圧式印刷機2)を発明した。グーテンベルクの印刷技術そのものは1440年前後には、かなり いい線までいっていたようである3)。その後、金属活版印刷術はドイツ国内、そして全ヨーロッパに広ま った。初期の印刷機開発者たちはグーテンベルクをはじめ、すべて写本時代のぺんがき手写体文字にそ っくりのゴシック体を用いていた4)が、グーテンベルクの弟子であるニコラス・ジャンソンはベネチア ン系ローマン体を発明した。その後(1494年頃)、アルダス・マヌチウスにより、斜めに傾いたイタリッ ク体という書体が発明された。

 本章では、日本に持ち込まれたグーテンべルク印刷機を研究対象とし、その購入の背景、日本に到着 するまでの過程、そして売却されたところまでの状況を考察する。

2 .グーテンべルク印刷機と天正遣欧使節団

 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)はイタリア人で、1566年にイエズス会に入会した。

1573年、彼は東洋地域を回る東インド管区の巡察師に選ばれた。1579年 7 月25日に布教状況を視察する ため、ヴァリニャーノは日本に到着し、1582年 2 月20日にその使命を果たして離日した。これはヴァリ

  1) 鉛を主体に、少量の錫・アンチモンを加える、今は「三元合金」といわれるものを活字材料にしたことが、まず第 一の彼(グーテンベルク)の功績でしょう。鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』、1976年 2 月、朝日新聞社、

501p。

  2) 平圧式印刷機により、手刷りの木版印刷のように片面だけでなく、紙の両面に印刷ができるようになった。鈴木敏 夫『プレ・グーテンベルク時代』、502p。

  3) 鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』、502p。

  4) 鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』、505p。

(3)

ニャーノの 1 回目の日本巡察であった5)。この 1 回目の大きな成果として、日本の使節団がローマに派遣 されることになった。この派遣は日本史上において初めてのヨーロッパ訪問である。

 使節団は合わせて10人ぐらいで、使節の中心は 4 人の少年であった。その 4 人は伊東マンショ(14歳・

正使)、千々石ミゲル(13歳・正使)、中浦ジュリアン(14歳・副使)、原マルティノ(12歳・副使)であ る。 4 人とも有馬のセミナリヨで学習し、キリシタン大名の大友宗麟、大村純衷、有馬晴信の親族の出 身として使節に選ばれた6)。使節 4 人のことを簡単に表 1 でまとめている7)

(表 1 )

氏  名 出 身 地 没  年 没  地

伊東マンショ 日向 1612年 長崎

千々石ミゲル 千々石 1606年棄教

中浦ジュリアン 彼杵 1633年 長崎

原マルティノ 波佐見 1629年 マカオ

 そして、随員は次の通りである。

(表 2 )

ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係、日本人。

コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員、日本人少年。

アグスチーノ 印刷技術習得要員、日本人少年。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。

ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。

ディオゴ・メスキータ神父 通訳、イエズス会員。

ロレンソ・メシア神父 オリヴィエーロ修道士

 1582年 2 月20日に天正遣欧使節団はヴァリニャーノ神父と一緒に長崎を出帆したが、1583年11月、一 行はインドのゴアに到着した後、ヴァリニャーノは仕事でゴアに留まることになった。そしてディオゴ・

メスキータ神父がヴァリニャーノに少年使節の案内を命じられた。

 ヴァリニャーノは、日本のコレジヨやセミナリヨには教科書の印刷が必要であると感じ、使節団の派 遣とともに印刷機の購入もすでに計画していた。しかし、ゴアに滞在にすることになったため、印刷機 の件も使節団と一緒にメスキータ神父に任せた。1584年12月25日、ヴァリニャーノはゴアからメスキー タ神父に手紙を送り、印刷機を購入することを命じた。加えて、片仮名と、若干の漢字の字母を造るこ とを依頼した。その手紙の内容は次の通りである。

  5) ヴァリニャーノは日本を 3 回巡察したことがある。

  6) 鶴田文史編『天草学林 論考と資料集』第二輯、天草文化出版社、1995年11月、75ページを参照。

  7) 鶴田文史編『天草学林 論考と資料集』第二輯、32ページと75ページを参照して、まとめたものである。

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第 2 章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義(王)

 日本の片仮名と、仮名と一緒に普通用いられる若干の漢字を注文するという考えをまだ持ってい られると思います。フランドル地方に、これらの文字を送って注文すれば、容易にできると思いま す。日本でそれは非常に価値のあることです。難しい本を片仮名で書くことはできなくても、字母 があれば、たくさんのものを印刷することができます。それは女子供や、一般民衆のため有益です が、教会にとっても大いに役立ちます。神父様がこのことを忘れでないなら私はそれらの字母をポ ルトガルで手に入れて持って来て下さるように希望します。ポルトガルで入手できなければ、フラ ンドル地方で造らせて下さい。その場合、片仮名の写し四、五通と、仮名に混ぜて普通用いられる 若干の漢字を世話係の神父様に言付けていただきたいと思います8)

 なお、1586年12月22日付のヴァリニャーノ宛ての手紙によると、使節に随行した日本人たちがポルト ガルで活字の原型製作の技術を学んでいることが分かる。日本人たちとはおそらく使節の随員のジョル ジェ・ロヨラ修道士、コンスタンチノ・ドラード、アグスチーノの 3 人のことであろう。彼らは出発前 の四ヵ月余りの期間を利用して、ポルトガルのリスボンで活字印刷の技術を学んだ。 3 人の中には、特 にコンスタンチノ・ドラードはキリシタン版と終始行動を共にした優秀な技術者として名高い。

 1586年 4 月12日に、遣欧使節団はリスボンを出航し、帰路についた。その船にはメスキータ神父が購 入したグーテンべルク印刷機が 1 台乗せられていた。

3 .ゴアやマカオにおけるグーテンべルク印刷機

 1586年 9 月 1 日に、遣欧使節団一行はモザンビークに入港、翌年 3 月15日に同港をあとにし、 5 月29 日にゴアに到着した。そこで使節団はヴァリニャーノと再会した。 6 月 4 日に、原マルティノは皆を代 表して、ヴァリニャーノへの感謝も兼ねて、ラテン語でヨーロッパでの旅に関する報告を演説した。そ の演説原稿はリスボンで購入したグーテンべルク印刷機によって、印刷されたものであり、印刷名義人 はコンスタンチノ・ドラードであった。これが日本人の名によって印刷された最初の活版本であると言 われている。

 ゴアにいる間に、コンスタンチノ・ドラードたちはイルマン・ジョアン・バウティスタという人につ いて技術を勉強し、これによって彼らの印刷技術が一層上がった。

 1588年 4 月22日に、ヴァリニャーノと使節たちはゴアを出帆し、マラッカを経て、 8 月11日に、マカ オに到着した。しかし、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したため、使節団はマカオで、約 2 年間(1588 1590)滞在しなければならなかった。その間に、グーテンべルク印刷機によって 2 種の本が印刷された。

それは『キリスト子弟の教育』(1588)と『遣欧使節対話録』(1590)である。この 2 冊はいずれもロー マン体のラテン文である。

  8) 鶴田文史編『天草学林 論考と資料集』第二輯、89ページ。

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(表 3 )

『キリスト子弟の教育』 ジョアン・ボニファチオが著したものである。ヴァリニャーノに日本のセミナリ オの教材として選定された。

『遣欧使節対話録』 作者はヴァリニャーノである。ラテン語訳はドゥアルテ・デ・サンデによって完 成した。ロヨラ修道士はその邦訳を手がけていたらしい。一千部刊行された9)

 遣欧使節団が持ち込んだ、マカオに滞留したこのグーテンべルク印刷機に関する記述は中国印刷史の 研究の中にもある。

 その 2 年間でヨーロッパから運んできたグーテンべルク印刷機がマカオで 3 、 4 冊の本を印刷し た。印刷作業の担当者は日本人である。しかし、これらの本の中には、漢字がまだ使用されていな い。このグーテンべルク印刷機は中国に西洋の印刷術と接する機会を与えたが、中国人はこのチャ ンスを逃して、西洋の印刷術とこの出会いはその影響があまり広がっていないようである10)。(筆者 訳)

 このように、マカオに置かれた時、グーテンべルク印刷機に使える漢字の金属活字はまだ製造されて いないことが分かる。西洋の印刷技術は中国の印刷術に全く影響を与えなかったのである。なお、残念 なことは、1589年 9 月16日、印刷技術を学んできた随員のジョルジェ・ロヨラ修道士は病気のためマカ オで客死した。彼はその後の日本でのキリシタン版の印刷に貢献できなかったことになる。

4 .グーテンべルク印刷機と天草コレジヨ

 1590年 6 月23日に、ヴァリニャーノと使節たちはマカオを出帆、同年 7 月21日ごろ、使節の帰国船は 長崎に入港した。グーテンべルク印刷機も長崎に陸揚げされたけれども、梱包されたまま肥前有馬領の 加津佐に送られて、そこにあったコレジヨに据えられた。

 1590年 8 月13日に、加津佐においてイエズス会総協議会が開催された。協議会では、使節団が持って きたグーテンべルク印刷機を使い、ローマ字本や国字本を出版することが決議された。加津佐に置かれ ていた間に、グーテンべルク印刷機により、 1 冊11)の本が出版された。それは『サントスの御作業(諸

  9) 松田毅一『天正遣欧使節』(1991年、朝文社)の283ページによってまとめたものである。

10) 『宣教師出版与近代出版転型』(送審稿)、胡国詳。

11) 片岡彌吉は「印刷文化の発祥」(1963)に「とにかく、その木活字としてまず現れたのは『ドチリナ・キリシタン』。

ローマのバルベリニ文庫にただ一冊存するに過ぎないこと、本には表紙が欠けて刊年と刊行地が分からないけれど も、1591年加津佐であろうと推定されている。」と述べている(『天草学林 論考と資料集』第二輯91ページ)。今村 義孝は「キリシタン版天草本」(1991)に「『どちりいな・きりしたん』はどちらで印刷された物であろうか、と疑 問とする向きもある。天草のコレジヨで印刷された事の明確な『ばうちすもの授けよう』とともに、この二本は片 仮名の日本文字日本文である。」と述べ、そして今村義孝は『どちりいな・きりしたん』の刊行年を1591年としてい る。しかし今村義孝は同じ論文でまた『どちりいな・きりしたん』を1592年に刊行した国文欧字金属活字としてい る(『天草学林 論考と資料集』第二輯111ページ、113ページ)。そしてこのような食い違いに説明はない。なお、

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第 2 章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義(王)

聖者の御作業)』である。

 『サントスの御作業(諸聖者の御作業)』(1591年、ローマン体)は日本語に翻訳されたローマ字綴りの 聖人物語である。これは日本の国土で最初の西洋印刷機による金属活字本であり、また洋書翻訳本の嚆 矢ともなっている。

 加津佐に置かれてから 1 年後、イエズス会の潜伏や教育機関の隠匿が秀吉に発覚する恐れがあるので、

1591年 7 月、天草の領主であるジョアン天草久種の同意を得たうえで、コレジヨは天草の河内浦に移転 された。グーテンべルク印刷機はコレジヨの開設と同時にコレジヨの傍らの印刷所に持ち込まれた。少 年使節の 4 人も天草コレジヨに来て、勉強を続けた。

 天草のコレジヨは1591年から1597年にかけて七年間活動し、当時日本においてはただ一つの最高学府 であったといわれる。なお、この 7 年間、コレジヨの印刷所でグーテンべルク印刷機を使用して出版さ れた本は教科書、辞書や信仰のための本など47種12)がある。その発行部数は平均1500部、多いときは3000 部を数えたと言われている。これらの出版物はその後「キリシタン版天草本」と名づけられ、現在所蔵 のある完本として12種13)が残されている。

(表 4 )

ヒデスの導師 1592年刊。国文欧字金属活字本。

ばうちずもの授けよう 1592年刊。国文国字金属活字本。

どちりな・きりしたん 1592年刊。国文欧字金属活字本。

平家物語 1592年刊。国文欧字金属活字本。

金句集 1593年刊。国文欧字金属活字本。

伊曾保物語(イソポのファブラス) 1593年刊。国文欧字金属活字本。

ラテン文典 1594年刊。国文欧字金属活字本。

ラ=ポ=日対訳辞書(羅葡日対訳辞典) 1595年刊。羅葡日文欧字金属活字本。

コンチンツス・ムンチ(コンテンプッス・ムンジ) 1596年刊。国文欧字金属活字本。

精神鍛錬(心霊修業) 1596年刊。ラテン語欧字金属活字本。

精神修養の提要(精神修養綱要)(コンベンジウム  スピリッツチュアル ドチリナ)

1596年。ラテン文欧字金属活字本。

マヌアリヌ・ナバラのコンペンジィム

(マヌアリヌ・ナバラのコンペンヂィム)

1597年。ラテン文欧字金属活字本。

『長崎印刷百年史』(28ページ)によると、「加津佐での金属活字本はこの記録的な『サントスの御作業』が最初で最 後のものとなった。」とある。このように、『どちりいな・きりしたん』の刊行地、刊行年、類型などはまだ明確で はない。今村義孝は1990年出版した『天草学林とその時代』には『どちりいな・きりしたん』の表紙の写真が載せ られているのに基づいて、本稿では『どちりいな・きりしたん』を1592年に刊行した国文欧字金属活字とする。

12) 鶴田八洲成は「天草学林印刷出版文化」に「天草コレジヨ刊の刊本が12、天草コレジヨ刊の欠本が12、天草コレジ ヨ刊と推定される欠本23で、合計47書」と書いている。注意すべきなのは、天草コレジヨ刊の刊本の12冊の内容は 表 4 と若干違うところがある。詳しくは『天草学林 論考と資料集』第二輯の134 137ページを参照。

13) 今村義孝『天草学林とその時代』(1990)の135 156ページを参照。

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 そして、以上の印刷物と深く関係して言わねばならぬことは、当時天草コレジヨ印刷所で活躍してい た印刷技術者たちの存在であろう。現段階で確認できるのは、主に使節団の随員のコンスタンチノ・ド ラード、イタリヤ人のバァティスタ・ぺシェ、日本人のペドロ・竹庵の 3 人である14)。 3 人はそれぞれ印 刷技能師、欧文印刷技師、日本印刷技術者として天草での印刷出版を支えてきた。この 3 人について紹 介しておこう。

 コンスタンチノ・ドラードは1567年諫早生まれ、長崎出発のときは数え年で16歳であった。ポルトガ ルで印刷術を勉強し、日本に帰国してから、1595年10月 4 日、イエズス会に入会して修道士になった。

1614年家康の禁教令で宣教師は追放され、印刷所も閉鎖されたとき、印刷機と一緒にマカオへ追放され た。そして1616年から18年までの間に神父になったことが知られている。この人は日本最初の印刷術伝 習者としてヨーロッパに行き、記念すべき最初の印刷機と一緒に日本に帰り、そしてまたその印刷機と 共に追放されるという運命の人であった。1618年、マカオのセミナリヨの院長になっているが、その後 まもなく死んだらしい15)

 バァティスタ・ぺシェはイタリア人で1556年頃カンタサロに生まれたという。1580年イエズス会修道 士となった。少年使節たちが帰国の途についたときに同行し、ゴアでロドリゲス神父について印刷術を 勉強した。そして加津佐、天草、長崎と印刷歴は続く。更に「日本耶蘇会目録」に「イルマン・ペトロ は日本文字の印刷係と見え、1593年のカタログには日本文書及び活字印刷に就き、イルマン・ジョアン・

パブチスタの補助とあって、国字印刷に関係が深かったことを示している16)。要するに、バァティスタ・

ぺシェは欧文も日本文も担当したことが考えられる。

 ペドロ・竹庵は1566年頃口ノ津に生まれ、1583年イエズス会に入った。1614年マカオに去り、1623年 11月28日同地で死んだ。彼は1591年から1599年まで国字体の印刷係であった17)

 なお、印刷技術の面においては、天草でイタリック体が製作され、盛んに使われていたことも言及し なければならないことである。1594年、印刷技術師たちの努力の下で、イタリック体の欧文型の鋳造が 成功した。同年刊行された『ラテン文典』はすでにイタリック体で印刷されたと言われている。このこ とに関して、同年10月20日付の長崎発会長宛ての書翰には次のような記述が見られる。

 本年は印刷機械の設備やらイタリック文字の製造に追われ、印刷はほとんど進捗しておりません。

かかる状態にあっても我々にとってはその必要性は大変なものであります。日本人は今まで父型や 母型の製造には全然経験を持ち合わせて居らぬとはいえ、この方面に器用な日本人は短期間に、し かも六ドウカドを超えざる僅少の出費で、印刷に必要なる全てのイタリック文字を製作してくれま した。かくして、目下ポルトガル語と日本語で説明を付したマヌエル・アルバレスのラテン文典を

14) そのほか、アウグスチノとミゲル・いちくの二人の名もキリシタン版の印刷工として知られているが、資料不足の ため、先行資料では詳しく論じられていない。二人の天草コレジオ印刷所での活動についても不詳である。詳しく は鶴田八洲成「天草学林印刷出版文化」を参照。

15) 『天草学林 論考と資料集』第二輯、142ページ。

16) 『天草学林 論考と資料集』第二輯、145ページ、111ページを参照。

17) 『天草学林 論考と資料集』第二輯、105ページ。

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第 2 章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義(王)

印刷中であります。印刷完了次第、如何に美しい文字を作り出したか、御高覧に供したくて、会長 様宛てに御送り申し上げます18)

 周知の如き、西洋の印刷技術が東アジアに伝来した初期、西洋の印刷機に使える漢字の活字などの製 造は容易ではない。それゆえに、前述の12冊の中には、『ばうちずもの授けよう』は西洋の印刷技術によ る刊行された最初の国文国字金属活字本であることに注意すべきである。しかも、『ばうちずもの授けよ う』は草書体の平仮名と漢字で綴ったものである。しかし、果たして正しいものだったか。

 前述のように、ヴァリニャーノは少年使節と随行したメスキータ神父に日本語の片仮名、仮名や若干 の漢字を注文し、日本に持ち帰ることを頼んだ。これに関して、片岡彌吉は「印刷文化の発祥」(1963)

において「メスキータは金属活字の字母を造る代わりに木活字を作らせたのであろう。(中略)ところ が、楷書体片仮名印刷は、当時の日本人の好みや習慣に合わなかったようである。ヴァリニャーノがそ れを注文したのは、無数といってよいほどの漢字の字母を作ることの困難から、そうした便宜上的手段 に過ぎなかったと思われる」と述べている19)。また片岡はローマ字の本が金属活字で印刷されるととも に、当時の日本人好みと習慣にあう草書漢字と平仮名を用いた本が、木活字で印刷され始めたと考えて いる。しかし、新井トシが形態についての研究を通じて、キリシタン版の大活字(漢字や仮名−筆者)

も、やがて1599年頃長崎本に現れてくる小活字と同様に金属活字に違いないことを論証したのである20)。 このように、 2 人の結論が分かれているが、詳しくは次節で述べる。

18) 今村義孝「キリシタン天草本」、『天草学林 論考と資料集』第二輯、110 111ページ。

19) 片岡彌吉「印刷文化の発祥」、『天草学林 論考と資料集』第二輯、91ページ。

20) 『天草学林 論考と資料集』第二輯、111ページ。

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5 .グーテンべルク印刷機と長崎

 1597年、グーテンベルク印刷機は長崎に移転され、そこで約14年間の長期にわたって、キリシタン版 の出版に使用された。そして地名にちなんで、これらのキリシタン版は長崎本とも言う。現在所蔵され ているのは次の15種である。

    (表 521)

サルヴァトール・ムンジ 1598年刊。国文国字金属活字本。

落葉集 1598年刊。国文国字金属活字本。

ぎゃどぺかとる 1599年刊。国文国字金属活字本。

倭漢朗詠集巻の上 1600年刊。国文国字金属活字本。

ドチリナ・キリシタン 1600年刊。国語ローマ字金属活字本。

どちりな・きりしたん 1600年刊。国文国字金属活字本。

おらしよの翻訳 1600年刊。国文国字金属活字本。

コンフェソールム 1603年刊。ラテン語欧字金属活字本。

日葡辞典 1603 04年刊。日葡欧字金属活字本。

日本文典 1604 08年刊。日葡欧字金属活字本。

サカラメンタ提要 1605年刊。羅・葡・日 欧字金属活字本。

スピリツアル修行(珠冠のまるある) 1607年刊。国語欧字金属活字本。

フロスクリ 1610年刊。フランス語欧字金属活字本。

ひですの経 1611年刊。国文国字金属活字本。

太平記抜書 刊行年、刊行地未詳。国文国字金属活字本。

 前節の続きであるが、天草版と比べて、長崎版の中には国字本が多くある。これらの国字本には金属 活字を使用しているのかどうかが問題点である。これに関して、『長崎印刷百年史』には次のように述べ ている。天草で欧字本の黄金期を迎えたと言えよう。だが、国字本はまだ 2 種22)にすぎない。それも木 活字で、平仮名を主にしたものであった。画期的な意義をもつ国字本の出現は、長崎移転まで待たねば ならなかったのである。つまり、国文活字の鋳造は初めて長崎で実現したのである。なお、『長崎印刷百 年史』の記述によると、長崎で出版した漢字仮名交じりの宗門書『サルヴァトール・ムンジ』がキリシ タン版最初の国文金属活字であるのが分かる。

 以上のように、グーテンベルク印刷機に使える国字の活字がいつごろ鋳造されたのか、また最初の国 字金属活字本は天草で現れたのか、それとも長崎で出現したのかはこれまでの先行研究ではまだ明らか にしていない問題である。しかし、グーテンベルク印刷機に使える漢字や仮名の金属活字が確実に鋳造 されたことは事実であろう。

21) 田東奎作『長崎印刷百年史』、1970年、241 245ページを参照。

22) 今後検討すべきと考えられる。本章注17を参照。

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第 2 章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義(王)

6 .グーテンべルク印刷機の終焉

 1611年になると、徳川幕府はキリシタンの布教を一層厳しく禁じ、グーテンベルク印刷機による天草 での出版はおよそ1612年までに停止となった。1614年に、徳川家康が大追放令を発令したため、イエズ ス会本部やグーテンベルク印刷機、そして印刷技術者までもがマカオに追放された。これで天正末期の 1591年から20余年にわたったキリシタン版の印刷事業は完全に途絶えた。このように、グーテンベルク 印刷機は1586年に天正使節団の帰国船に載せられてリスボンを出航してから、ゴア、カカオ、加津佐、

天草、長崎を転々と移動しながら、結局マカオに送られたことになった。

 このグーテンベルク印刷機を使用して刊行されたキリシタン本は、『長崎印刷百年史』によれば一説に は50種とも言われる。現在、数葉の断片まで含めて、その伝本が見られるのは30種となっている。宗門 書、辞典、文典、文学など多方面にわたるがこれを活字別に見ると、欧字本18種、国字本12種であると 述べている23)。しかしそれぞれの数字は確定的なものとは言えない。そして、グーテンベルク印刷機によ る欧字本は言うまでもない24)が、12種の国字本の中には漢字や仮名の金属活字を使用して、刊行された ものは必ずあると述べた。しかし、印刷機がマカオに送られたことにつれ、漢字や仮名の金属活字を鋳 造する西欧式技術もその跡を完全に断ってしまった。その後、日本は西洋印刷機との再会は1848年のこ とであり、即ち234年の歳月を待たなければならなかった25)。この長い間に日本では金属活字への動きを 見せることもなく、ただただ盛んな木版文化期だったのである26)

 グーテンベルク印刷機はマカオに送られてから、更に 6 年間を経った。その 6 年間、グーテンベルク 印刷機による印刷や出版はあるかどうかはあまり研究されていないようであるが、しかし、印刷機に使 える金属の漢字活字は現れなかったであろう。中国では最初の漢字体の洋式鉛活字の使用例は1814年に 出版し始めたモリソンの『英華字典』だと言われている。1620年頃になると、グーテンベルク印刷機は フィリピンの Augustinian  Canons に転売され、一応一つの使命を終えた。

 以上のように、結局グーテンベルク印刷機は日本の印刷技術にも中国の印刷技術にもあまり影響を与 えずに風のように消えた。ただしこの印刷機によって、数十冊の貴重な本が残された。これらの本は東 西印刷術の交流の証となり、当時の異文化交流の一風景を未だに物語っている。

参考文献

田東奎作『長崎印刷百年史』、1970年、長崎県印刷工業組合。

アレシャンドウロ・ヴァリニャーノ著、松田毅一他訳『日本巡察記』、1973年、平凡社。

鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』、1976年、朝日新聞社。

川田久長『活版印刷史』、1981年、大進堂。

23) 『長崎印刷百年史』29ページを参照。

24) 本稿の注釈18を参照。

25) 1848年 7 月に、オランダ船が欧文活字と一台の印刷機を積んで、日本にやってきた。

26) 『長崎印刷百年史』35ページ。

(11)

鶴田文史編『天草学林―論考と資料集』、1982年、天草文化出版社。

張秀民『中国印刷史』、1989年、上海人民出版社。

今村義孝『天草学林とその時代』、1990年、天草文化出版社。

松田毅一『天正遣欧使節』、1991年、朝文社。

結城了悟『天正遣欧使節―史料と研究』、1993年、聖母の騎士社。

鶴田文史編『天草学林 論考と資料集』第二輯、1995年、天草文化出版社。

中根勝『日本印刷技術史』、1999年、八木書店。

胡国詳『宣教師出版与近代出版転型』(送審稿)。

参照

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